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正確に測れないから、だめなのではない

(『自閉症連続の時代』補章より)――「身体の現代」計画補足・75 立岩 真也 2015/10/18
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last update:2015

 『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
の補章「争いと償いについて」のはじめのところから引用を始め、11回めになる。
これまでの10回については
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
をご覧ください。今回の(いくつかリンク付の)HP版は
http://www.arsvi.com/ts/20152075.htm
本文を順番に載せるのは諦め、その補章の註を掲載することにした。

『良い死』表紙    生存権    『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか――世界的貧困と人権』表紙    『自閉症連続体の時代』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

「☆10 「死や苦痛や不便をもたらした者たちは、それだけで十分に糾弾されるに値する。その者たちを追及するのはよい。ただ、第一に、そのことを言うために、その不幸をつりあげる必要が出てくることがあるとしたら、それはなにかその人たちに対して失礼なことであるように思えるということだ。だから、それはしない方がよいと思うようになったということだ。その状態をよいものとして肯定しているわけではない。しかしそれは死を肯定することではない。その存在を肯定するから、それに死をもたらすものを責めることになる。」(『良い死』[2008b:177])
 ここにユージン・スミスが胎児性水俣病の女性を撮った写真が「封印」されることになった経緯に関わる幾つかの引用を連ねた注を置いた。
 また『自由の平等』では以下のように記した。
 「平等の定義にさほどの意味はないし、何が平等であるかを正確に測ることのできる尺度はない。他方でここまでは譲れないという(健康で文化的な)最低限を保障するというときの最低限も、設定することはできるかもしれないが、設定しなければならないと決まってはいない――こうした議論は、たしかにときに必要なのだが、必要な理由を忘れてのめり込んでしまと、人々がある状態のときにいかに不幸であるかを言わねばならないかのようになってしまい、そしてその真剣な主張が誇張であると受け取られてしまい、さらにそれに反論しなければならないといった嘆かわしい事態が生じてしまうのである。そしてこうした基準が存在しないことは、平等の主張が成立しないことを意味しないし、ましてや分配の主張が無効であることを意味しない。」([2004a:106])
 このことはPogge[2008=2010]の訳者あとがき[2010a]でも、「生存権」についてのインタビュー3本からなる本に収録された「「目指すは最低限度」じゃないでしょう?」[2009a]他でも述べている。」


UP:20151015 REV:
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