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他者危害の批難・追及と生活・生存の保障をまずは別にする

(『自閉症連続の時代』補章より)――「身体の現代」計画補足・72 立岩 真也 2015/10/11
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last update:2015

 『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
の補章「争いと償いについて」のはじめのところから引用を始め、8回めになる。
これまでの7回については
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
をご覧ください。今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20152072.htm


『良い死』表紙    『流儀』 (Ways)表紙    『自閉症連続体の時代』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 「□4 この方法がよいこと
 公害や薬害、医療過誤等の被害を訴える人たちにおいて、生活を維持せねばならないこととと加害者への責任の追及とがときに両立せず、内部に対立をもたらしてしまうといったことがしばしばあったことにふれた。そして一つ、理由のいかんにかかわらず、身体の状態にも関わって必要な費用は社会的に賄われればよいと述べた。もう一つ、謝罪は謝罪として求められ、なされるべきであるとした。そして、加害に関わった可能性があることにおいて、その者は、被らなくてよかったかもしれない害を被ってしまったという苦痛を相手に与えているのだから、批難されてしかるべきであると述べた。
 どうして二つに分け、その二つについて以上のように考えるのか。基本的には、その二つともが正当な行ないであるからである。
 一つに、暮らすことが可能であるという状態は、人の身体の状態の如何、その状態をもたらしたものの如何を問わず、確保されるべきである。本来は、どのような理由によって病気になったにせよ、障害を有するようになったにせよ、医療や介助等を受けられ、そして基本的な所得が得られ、生活が可能であれば、それはそれでよい。それがどうして正当であるのかについては、幾度も述べてきたから、ここでは説明しない。
 この状態を実現しないことについても、それは不作為という加害の行ないであると言えるのだが、それといったんは別に、もう一つ、すべきでないことを行ない、またすべきことを行なわず、人に害を与えることがある。そのことに関わる悪意や不注意はそれとして責められてよい。そして身体に関わって起こることの多くは、なにか単一の要因が引き起こすことの方が少ない。そこに起こったことについて、その人(たち)が行なったことあるいは行なわなかったことが影響している可能性があることをもって、謝罪を求めることができるし、謝罪をするべきである☆07。
 それに加えて、以下を挙げることができる。

 「☆07 ここで私は、社会的な補償がなされるべきであると主張された時に、このような発想がなかったといったことを言いたいのではない。被害者たち、その人たちを支持し支援した人たちの多くは、社会的な保障を望んできたし望んでいるだろう。ただその人たちはやはり被害者であるのだから、その償いとして補償・保障を求めるという傾きがあったかもしれない。また、法・制度・常識の現状を前提として争っていくしかなかった。そこでは、直接の害の有無から生活の保障は本来は切り離した方がよいのだといったことを言ってどうなるものでもなく、その主張はあまり明示的にはなされにくかったのかもしれない。ただ、そうした事情をまったく当然のことと思いながら、それでも確認しておいてよいと私は考える。
 山本・熱田編[2007]は九州看護福祉大学のプロジェクトから生まれた本で様々な文章が収録されているが、編者が意図したのは、なすべきことをしなかったこと、「不作為」の罪・責任を問うという態度から、ハンセン病や薬害を検証しようということだ。そこで山本務は、作為/不作為と他者危害/他者支援とを分けた上で、他者危害という作為をもっぱら問題にすること、他者支援の不作為をそれより軽いものとすることが一般的だが、それではよくないと主張する(山本[2007])。
 ここでの私の主張もこうした議論に関わるところ、共通するところがある。作為としての加害・不作為としての加害についてその責任を追及すること、それとともに、また別に、それを「他者支援」と言うかどうかはさて措き、生活が支えられるべきであるとする(それをなすことは作為でありよいことであり、なさないことは不作為でありよくないことである)。そして後者は、前者と同じだけ考量されるべきだとは言わないとしても(それ以前にどのように比較するのかという問題がある)軽んじられてよい理由はないとされる。
 その上で、私は、一つに、「他者支援」がなにか特別の「困窮」に対してなされるべきことであるとは、基本的には考えない。人々の十分な暮らしがこの世で生産されるものを分けることによって可能なのであれば――可能であると考える(『良い死』[2008a]第3章、より簡略な記述を含むものでは[2008b]――実現されるべきであると考える。また一つ、本文に記すように、(作為であれ不作為であれ)他者危害の批難・追及と、生活・生存の保障とを、まずは別にした方がよいだろうと、またうまく行くだろうと考える。そして一つ、後者を行なうべきは(行なわないことをするべきでないのは)特定の人ではないと考える。


UP:20151011 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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