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贔屓してよい理由

「身体の現代」計画補足・71
立岩 真也 2015/10/09
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last update:2015

 『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
の補章「争いと償いについて」のはじめのところから引用を始め、7回めになる。
 やはり、なんのことやら、だろう。関連する文章(というかこの部分のもとになった文章)が
http://www.arsvi.com/ts/20080049.htm
これまでの6回については
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
をご覧ください。今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20152071.htm


『流儀』 (Ways)表紙    『自閉症連続体の時代』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 「□3 理由を問われない生活
 […]
 しかし、このことと別に、もう一つ、直接の加害に対する責任がある。そしてここで、加害者となるのは人間であり、人間の集まりである。このことと一つ目に述べたこととはどのように関係しているのか。ここでは、仮に今述べた生活のために必要なことがつつがなく行われそこに「実害」がないとしても、ある行ない(あるいは行ないの不在)自体が問題にされる。そこに存在する悪意、あるいは不注意自体が責められる。そして次に、なすべきことがなされたとしても、多くの場合、その本人が受ける害が消えてなくなるわけではない。例えば医療が受けられ、それに関わる費用を負担しなくてよいとしても、多くの場合苦痛がなくなるわけではない。なされてしまい、失われてしまったものの多くは戻っては来ない。相手を責めても、相手が謝っても、やはり戻ってはこない。そんな時、それを引き起こした相手を責めることがどれだけ十全に正当化されるのか、私にはよくわからないところは残る。ただ、やはりそれはおかしなことではないだろう。相手を責めること、謝罪を求めることは、もう長く、多くの社会に――どれほどが適当であるかの判断については様々に分かれるとして――存在し認められている行ないだ。
 そして次に、しかじかの要因によってある人の今の身体の(苦しい、不安な)状態が引き起こされた「可能性」があるというだけで、その要因を生じさせた、そして/あるいは除去しなかった人・組織には非があり、苦しませた人に詫びなければならないとしてよい。その人は例えば肝炎になった。そして肝炎を誘発するしかじかの要因が人為的にもたらされた、あるいは人為的に除去可能であるにもかかわらず除去されなかった。その人が今肝炎であることについて、その要因が関わったかどうか、確証はできないとしよう。しかしその可能性はある。身体を巡って起こることの多くはそのようなことだ。わからない部分は残る。ただその人は、そんなことで自分が今こうなっているのかもしれないと思わなければならないだけで、すでに十分に被害を蒙っている。誰もが病にかかる可能性はあるだろうが、それは仕方がない。しかし生じさせないことができたことを人・組織が生じさせた、あるいは除去することができたものを除去しなかった。このことがその人の苦痛や死に関わっているかもしれない。そのことによってその人・組織は咎められる。


UP:20151009 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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