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理由を問われない生活・1

「身体の現代」計画補足・70

立岩 真也 2015/10/07
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1653732774893703

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last update:2015

 『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
の補章「争いと償いについて」のはじめのところから引用を始め、7回めになる。
  前回は「薬害スモン」のこと
http://www.arsvi.com/d/d07smon.htm
が少し出てきて、それに関連して『流儀』という本にもふれた。
 このFBを書いた翌日あたりに私個人のツィッター
https://twitter.com/ShinyaTateiwa にお知らせするようにしているのだが、いつもより反応少なくて、そんなものだろうなと思いつつ、残念にも思うところもある。だからしつこいのでもある。
 さて本文に戻る。なんのことやらだろう。これまでについては
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
をご覧ください。今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20152070.htm

 なお今回引用する部分は「社会モデル」をどう考えるのかということにも関係する。というか、その話の中心部と私は思う部分。

『流儀』 (Ways)表紙    『自閉症連続体の時代』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 「□3 理由を問われない生活
 一つは、その人が置かれている状態やそれに直接に関係している事情と関係なく、その人の生活は維持されるべきであるということだ。ひどく当たり前のことのように思う人もいるだろうし、そんなことを言ってどうなると思う人もいるだろうが、これが「社会」という言葉を持ち出さねばならない基本的な場面であると考える。このことを認めるなら、それを行なう義務がある。それが実現していないことによって引き起こされることについて社会には責任がある。その意味において、社会はその困難についての「原因」であると言える。ここは整理しておいた方がよいところだ。
 まったく偶然のできごとによって人はけがをしたりする。その直接の原因のあるものを社会は除去することができることもあるだろうが、できない部分もある。(あるいはできてもしない方がよいこともありうる。ときに人に快をもたらすことのあるあらゆる危険要因を除去することはよいことであるのか。)この意味では、人は、あるいは社会は、その災難の原因ではないことがある。
 しかしこのことは、その災難に関わる(この社会における)生活の困難について、社会が引き受ける責任がないということではない。責任はある。それを怠ったことについて、その結果について社会は責任を負うことになる。そしてそれは、繰り返せば、「原因」の如何を問わない。これが「社会」を語ることの基本であると考える。(とすると、ここで原因と言うべきであるかどうかもじつは問題だ。生活上の困難がない仕組みのもとでは、怪我なら怪我があったとしても、それは困難の「原因」にはならない。困難が生ずるような仕組みのもとでその困難が生じている。だからその仕組み(の不在・不具合)が原因であるとも言えるのである。)
 しかし、このことと別に、もう一つ、直接の加害に対する責任がある。[…]」


UP:20151007 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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