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争いの訴えにおける内部における争い(『自閉症連続の時代』補章より)

「身体の現代」計画補足・68

立岩 真也 2015/10/03
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1652790208321293

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last update:2015

まずおわび。前回のHP掲載版は以下でした。
http://www.arsvi.com/ts/20152067.htm

 『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
の補章「争いと償いについて」のはじめのところから引用を始め、5回めになる。
 前回のFB掲載版は
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1652434755023505
 今回のHP掲載版は
http://www.arsvi.com/ts/20152068.htm

 あとは
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
を見てください。では以下。前回掲載したのと重なるところから。

 「□2 内部における争い
 第三の、争いの場面から見ていくことにしよう。争いが裁判にもっていかれる場合には、もちろん被告と原告の間の争いが中心になる。その間に、情報の秘匿や虚偽、等々、様々なことが起こってきた。それをどのようにするのか。裁判という形態がよくないという議論もあり、それにももっともなところがある。また、医療側を訴える側が情報について不利な立場に置かれることが問題だから、その状態を変えなければならないという主張はさらにまったく当然であり、争いになるようなことを減らすためにも必要である。それについても様々なことが言われ、なされている。
 だから、一つには、本人以外の場合にはどうするか――例えば子どもについての情報を親や親でない人がどれだけ知ることができるのかできないのか――といった問題、命に関わる悪い知らせの場合にどうするかといった問題はあるけれども、基本的には、当人に当人のことが知らされない理由はない。知らせないことの理由として、とくに後者があげられることがあり、それはそれとして考えるべきことではある。しかしそれはしばしば、別の理由、知らせることで都合のわるいことが起こることを避けたいという理由を表に出さずに、知らせないことをせずにすませるために言われるにすぎない。
 知らせずにすむのであれば、隠すことができるのであれば、自らに都合のよいように振舞ってしまうことはいくらでもある。よくないことであるとわかっても、そのように振舞ってしまう。それは医療にとってもよくない。本来は自らとしてもしたくない、すくなくともするべきでないことであれば、隠匿・虚言ができないようにしてしまうことは、医療を供給する側にとってもよいことである。だがそうはなっていない。それが過去から今までなのだが、それを変えようとする。変えることによって争いの一部はなくなる。なくならなくとも少なくはなる。
 ただ、例えば公害・薬害といったもののある場合には、その人の今の状態が何に由来するのか、なんとも確定できない場合は残ることがあるだろう。これはたんに事実判断の問題であるだけではない。とするとどう考えるか。このことについては後で述べる。
 次に、しばしば起こることが、被害を訴える側の内部における齟齬・対立だ。集団で訴訟を行なった場合、その内部に対立が起こることがある。原告が一人の場合でも、弁護士との間に争いが起こることがある。そして一人の人において、同時に対立してしまう契機が併存することがある。そんなことが多くあってきた。
 それが起こるのは、その事件・裁判が起こっている間のことである。しかしその時点において、とくに裁判を起こさざるをえなかった側の味方をしようと思えば、訴えている側内部の対立を明らかにすることは、敵を利することにもなりうる。すくなくとも今はそのことを書くことを控えようということになる。そしてそれは終わってしまったとしよう。終わってしまったことの中にあった、その人たちにとって苦い事実、忘れてしまいたい事実を書くことをためらい、また読もうと思わないとしても、それはもっともなことである。
 また、争いが起こっている時であれ、それが終わった後であれ、外からやってきて、起こった対立について聞きたいと言ったら、あなたはどちらの味方なのかと問われるかもしれない。「わからない。だから調べているのだ。」と答えると、「そんな人に語ることはない。」と相手にしてもらえないかもしれない。それもまた当然のことだ。
 ただ、当事者の側にも記録して残したいという思いのあることはあり、実際に記録があることがある。過去のものの多くは入手困難になっているのだが、それでも手にとれるものもある。そうした記録においても、とくに強い対立があった場合には、一方は他方の側にまったく言及しないといったことがある。あるいはごく短く、否定的に言及するといった場合がある。他方の側はどうか。そちらは、意地を通した、あるいは意固地になった人であったりもし、多くの場合に、数は少ない。たった一人であったりすることもある。となればその記録はなかなか残りにくい★06。
 こうして、知ることはそう簡単ではないのだが、それでも、ある程度のことがわかることもある。それなりに注目された事件・裁判の中には異なる立場からの記録が出る場合もある。こうして既に私たちはいくらかのことを知っているのだし、知ることができるのだし、新たに調べることもできる。
 そのいくらかを読んでいる私たちは、そこに、相手の非を認めさせよう、謝らせようとすることと、補償を求めることと、一つでもあるが、二つのことがあることを知っている。一つであるとは、非を認め罰を引き受けることとして支払うことがあり、そのことを求めることがあるということであり、また、民事訴訟という訴訟の形態においては、賠償を求めるというかたちをとるしかないということもある。ただ、多くの場合、この二つが相伴わないことがあることも私たちは知っている。そしてそれがさきに見た内部における対立、一人の人における葛藤として現れる。
 和解に応じるか、あるいは判決までもっていくかで分かれることがあった。被告の側は、自らが加害者であることを認めないが金は払う、金は払うが認めないといった対応を選ぶことがある。弁護側からみた時、判決までもっていっても勝てるかどうかわからない。ならば、一定の金を払わせてということにもなる。それは自分の仕事の期間やとり分やそんなものにも関係しなくはない。あるいは、時には逆に、弁護士たちも含め、支援する側の人たちの方があくまで「原理原則」を貫くべきだと考えるかもしれない。そしてそれはただ原告と原告の弁護人や支持者の間の齟齬なのではない。原告自身の中に路線の対立が起こることがある。自分に残された時間を考えるなら、また差し迫った生活のことを考えるなら、早期の解決を望み、また金銭的な補償を求めることになることもある。ただそれと同時に、多くはその人とまったく同一の人が、何が起こったのかをはっきりさせたい、謝罪を求めたいと思うことがある。どちらをとるか、どちらを強調するかを巡って内紛が起こることがある。また、その一人の同じ人が、一つに謝ってほしいと思う思いがあり、一つに生活のことがあり、どうしようかと迷う。あくまで謝罪を求め、灰色の決着をよしとせず、争いを継続させる人は、見る人によっては、粘り強くまた潔く映るから、評価され称賛されるかもしれない。そしてそのことは、合理的な選択として、またやむをえない選択として、別の道を選んだ人たちにとっては腹立たしいことであるかもしれない。
 そのことをどう考えるのか、気にはなってきた。それで言えると思うのは二つのことである。」

 長くなった。註(★06)は次回に。なおここで書いていることに関連することを『現代思想』の「連載」で書くつもり。これもまたそのうち。


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立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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