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争いと悲惨(『自閉症連続の時代』補章より)

「身体の現代」計画補足・67

立岩 真也 2015/09/30
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1652434755023505

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last update:2015

 『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
の補章「争いと償いについて」のはじめのところから引用を始め、4回めになる。  三つ述べると書い、その第一のものについて前々回と前回に記したのだが、もうなんのことかわならなくなっているだろう。再掲しておく。

 「第一に、「害」のことをどのように言うのかという問題がある。社会を指弾するのであっても、技術による救済を求めるのであっても、害を与えられるのはよくない。よくないから批判し、謝罪を求め、問題の解決を求める。そして「私の体を返せ」と言う。その人たちの中に障害者との連帯を求め呼びかけた人がいたのだが、それは障害者を否定することだと言われてしまった。[…]」

 前回のFB掲載版は
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1651680915098889
 今のところどんな話をしたいかわからないだろう。それは次回以降。あるいは本を読んでもらえばと思う。  では以下。〔 〕は補足した部分。なおこの今回のHP掲載版は
http://www.arsvi.com/ts/20152067.htm

 「第二に、「社会」はいったい何を責められ、また何をするのかという主題がある。社会が問題を作りだしたのだから、害を与えたのだから、社会がそのことを謝罪し、引き受けるべきである、解決すべきであると言われる。私は、それは基本的には正しいのだが、言うべきことなすべきことを短くした言い方であって、もうすこし考えたり、言葉を足したりした方がよいと考える。
 第三に、この二つともに関係するのだが、争いがどのようであってきたのか。ここでは第一点については略し、第三の争いの場から第二の問題を考えるのだが、争いが第一のことに関わることについても簡単に確認しておく。
 社会に訴え、加害者から謝罪と補償を求める時になされるのは、自らのあるいは自らが代理するその人たちの悲惨を語ることである。これはまったく当然の行ないではある。しかし、ときにいくらかのためらいがそこに生ずることもあった。被害者の悲惨を大きく言うことになり、そのことがその人自身を傷つけることになってしまわないかというのである。そして、時には、そのように戦わざるをえない人たちを攻撃したい人たちがこのこと〔=わざと悲惨を強調しているのではないかといったこと〕を言うこともある。このように悲しいことがまるでなくなってしまうことはないだろう。しかし、第二点についてこれから示すことが、それをいくらかは軽減する可能性がある。つまり私は、従来金銭的補償として求められてきたもの(求めるしかなかったもの)は理由を問わない生活の保障(むろん医療を受けたりすることも含む)に代えた方がよいと主張するのだが、そしてそれと別に、非を認め謝罪することを求めるのがよいと主張するのだが、それが実現すれば、自らの被害を加害者に対してまた社会に対して示すものは、ちょうど自らの悲しみや怒りとちょうど等しいものになり、それを大きく表現する必要は少なくなり、大袈裟に表出していると受け止められてしまうことが少なくなる。

□2 内部における争い
 第三の、争いの場面から見ていくことにしよう。争いが裁判にもっていかれる場合には、もちろん被告と原告の間の争いが中心になる。その間に、情報の秘匿や虚偽、等々、様々なことが起こってきた。それをどのようにするのか。裁判という形態がよくないという議論もあり、それにももっともなところがある。また、医療側を訴える側が情報について不利な立場に置かれることが問題だから、その状態を変えなければならないという主張はさらにまったく当然であり、争いになるようなことを減らすためにも必要である。それについても様々なことが言われ、なされている。」


UP:20150930 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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