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山田真/高橋修/つるたまさひで…(『自閉症連続の時代』補章)

「身体の現代」計画補足・65

立岩 真也 2015/09/24
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1650741741859473

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last update:2015

 『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
 のその終わりに置いた補章「争いと償いについて」を前回から紹介している。その本は自閉症、発達障害…についての本なのだが、それだけでもない。
 なお今回のHP掲載版は
http://www.arsvi.com/ts/20152065.htm
 前回のFB掲載版は
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1650230601910587
 では以下。なお『現代思想』で今年書いたことにもほぼ同じことを言っている箇所がある。


 「むろん、それ〔公害や薬害等に〕にどのように「社会」が関わったのかはみなが知っていることである。害は、もちろん物理的、化学的な過程を経て身体に及ぼされるものなのだが、人・社会は、その害を起こさないことができたのにそれを起こした、止めることができたのに止めなかった。そのことを被害者は訴え、糾弾した。そしてその多くはまだ解決されていない状態にある。また争いはいったん決着したとして、その身体は残り続ける。それだけのこと、しかしそれだけで十分に重たいことだ。
 その上で、三つある。そのうちの二つは考えること、もう一つは、その二つともに関わって、知って確認しておきたいと思うことである。
 第一に、「害」のことをどのように言うのかという問題がある。社会を指弾するのであっても、技術による救済を求めるのであっても、害を与えられるのはよくない。よくないから批判し、謝罪を求め、問題の解決を求める。そして「私の体を返せ」と言う。その人たちの中に障害者との連帯を求め呼びかけた人がいたのだが、それは障害者を否定することだと言われてしまった。こんなことが幾度か起こってきた。新潟水俣病では胎児性の患者が出なかった。それを喜べるのかという反問があった。とくにチェルノブイリでの事故の後しばらく盛況だった原発反対運動で、障害児が生まれるから反対という反対の仕方がよいのかと思った人たちがいた★03。」

 「★03 「ないにこしたことはない、か・1」[2002b]でごく簡単にこれらに触れ、いくつかの文献をあげた。それに以下を加える。まず小児科医の山田真の著書から。
 「たまたま、全障連という団体の全国大会が東京でおこなわれることを知りました。これに参加することで、共同戦線が作れるだろうと考え、森永ミルク中毒の被害者のひとりと、その大会にのりこんだのです。しかし、そこで待ち受けていたのは予想外な反応でした。[…]/森永ミルク中毒の被害者は、この全障連大会の席で「自分たちは森永に対して、『からだを元に戻せ』というスローガンをつきつけながら闘っている」と発言したのです。ところが、大会に参加していた障害者の人たちから、このスローガンがさんざんに批判されることになりました。
 全障連大会に参加していた人の多くは脳性麻痺の障害をもつ成人でした。[…]彼らの運動の中心的な課題は、障害者に対する差別と闘うことでした。[…]/そんな彼らの前に森永ミルク中毒の被害者が現れ、「からだを元に戻せと森永乳業につきつけている」と発言したのです。そこで、障害者の人たちから「あなたは自分のからだをよくないからだと思っているのか。自分たちはこんなからだにされた≠ニいうとき、こんなからだ≠ニいういい方にこめられたものはなんなのだ。元のからだに戻せということは、いまのからだを否定することで、それは障害のあるからだを差別する考え方ではないのか」といわれたのです。ぼくたちはこの厳しい問いに答えることができず、立ち往生してしまいました。
 さらに彼らは「自分たちは医者というものをまったく信用していない。医者たちが障害者に対してこれまでどんなひどいことをしてきたか、知っているのか」とぼくに問うたのです。そして、その日一日は、障害者の人たちのきびしい問いかけと糾弾を受ける一日になりました。/ぼくは大きなショックを受け、その後しばらく障害者の運動から離れることになったのですが、結局、またその運動と出会うことになりました。/[…]それは一九八三年に生まれた娘が、障害をもつことになったからです。」(山田[2005:246-249])
 文中の全障連は全国障害者解放運動連絡会議。1976年結成。廣野俊輔が作成している資料(廣野[2008-])がある。この時の大会は、1977年8月、明治大学校舎を会場に開催された第二回大会。このことについて山田は私のインタビューでも語っている。そのインタビューは、まず山田・立岩[2008a]として『現代思想』にその一部が掲載された。次に、その全体を収録しまたその分量とほぼ同量の長さの註を付したもの(山田・立岩[2008b])に、稲場雅紀へのインタビューを合わせ、稲場・山田・立岩[2008]として出版された。(稲場へのインタビューはやはり『現代思想』にその一部が掲載され、さらに立命館大学生存学研究センター[2008a]に全体が掲載された後、稲場が書いてきた文章を加えて右記の本に収録された。)この補章はその長い注を書くにあたり、いくつか過去の文献に当たったことが一つにきっかけになった。山田は、毛利子来との共著『育育児典』(山田・毛利[2007])等、多数の著書で知られるが、学生の時に東京大学の医学部闘争に関わり、その後も、様々にその時々の事件・運動に関わってきた人でもある。
 次に、1986年7月に高橋修に私が行なったインタビューより。
 「だから自分の中で、優生思想のさ、はっきりしてないわけ。[…]障害っていうのが問題じゃないんだ、それを差別する社会なり、環境が悪いんだと。だから、健全者が変わりね、まちが変わり、変わるんだというのとさ、水俣みたいな[…]このからだを返せというさ、そういう思想、考え方の、そのなんていうかな、つきあげというかさ、その絡みがいまいちはっきりしないのね。それの中で今ちょっと今、いろいろ調べようと思っているんだけどね。それを頭の中で整理しない限りは、自分でもね、どこまで医療がいいのかっていうのはあるわけよ。」
 この部分は『良い死』[2008b:171]でも引いている。高橋は1948年7月新潟県長岡市生れ。学校には行けなかった。国立伊東重度障害者センター(静岡県伊東市)を経て、東京都に移り住む。自立生活センター・立川他の組織で活動し、1999年2月に急逝。彼もまたわずかの文章しか残さなかったし、その人とその活動の全体は、文字になっているものよりずっと広くて大きなものだった。「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、1981年から」[2001a]は彼のことをいくらかでも記そうとして書いた文章でもあり、また追悼文でもある。私たちのサイトに「高橋修」というページ(ファイル)がある。
 次につるたまさひで[2000]より。文中の『証言 水俣病』は栗原編[2000]。
 「「障害者にされてしまった」障害者という問題
 水俣病運動には「こんな障害者にされてしまった」という感覚や思いが、いつもつきまとっているように感じる。露骨にこういう表現が出てくるわけではないが、「こんな身体にされてしまった」とか「この子は水俣病のせいで何にもわからんようになって」という表現はある。このことは、水俣病を原因としない障害者の友人・知り合いを多く持つぼくに複雑な感情を抱かせる。
 水俣病運動の世界では、障害のある身体の写真が告発のために多用される。ベトナムにおける枯葉材の運動もそうだ。そこからは、その障害を引き受けて、ポジティブに生きていくというイメージは絶対に生まれない。それは明確なマイナスイメージのシンボルとして多用される。確かに「されてしまった」というのは書いてきた通りだ。マイナスイメージを刻印された人たちが、障害のある存在として、その生を積極的に生きていくための言説が存在しなければならない。しかし、ぼくが知る限りでは存在しない。その言説の端緒を障害学に探すことができるのではないかと考えている。そして、この『証言 水俣病』の視点はそれにつながることが出来る広さと深さを持っていると思う。」(つるた[2000])


UP:20150924 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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