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優生思想を巡る米本昌平vs.奥山幸博←『そよ風』

「身体の現代」計画補足・61

立岩 真也 2015/09/14
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last update:2015

 『そよ風のように街に出よう』という雑誌
http://www.arsvi.com/m/s01.htm
で、2007年から「もらったものについて」という題の連載をさせてもらっていることを述べた。8月刊行の号に掲載されているその第14回
http://www.arsvi.com/ts/20150014.htm
の一部を前回に続いて掲載する。
 以下で、「この報告書」とは、
http://www.arsvi.com/b1990/9209be.htm
 なおこの文章のリンク付のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20152061.htm
いろいろとリンクされているのでこちらもご覧ください。

「□「優生」のこと
 この報告書に米本は「出生前診断は優生政策か――戦後精神の漠たる不安」という文章を書いている。またその報告書の前、シンポジウム「出生前診断を考える」をその研究会主催で行なっている。その時、米本と奥山幸博の間のやりとりがあった。そのことを拙著『私的所有論』でとりあげている。

 「「戦後精神」によるナチズムの否定とは何だったのか。その否定はどのような質のものとして存在したのか。「何人も人種・皮膚の色・性・言語・宗教・政治的意見・出身国・社会的門地その他で差別されない」という世界人権宣言(一九四八年、第三回国連総会で採択)、「人間は人間としてホモ・サピエンスの一種である」「精神的な特性で人種を区別はできない」「現在の科学では遺伝的差異が文化的差異の根拠だとする主張を正当化するものは何一つない」という「人種に関するユネスコ声明」(一九五〇年、ユネスコ本部で採択、米本[1989a:183-184])の中に、「能力」という項目はない。つまりナチズムの否定としての戦後精神があったとして、それは等しいこと、あるいは等しくなることが前提になっているのであり、それに対する誤認、偏見、それに基づく権利侵害を否定するということであって、ここで優生学の「本体」は対象化されていないし、否定されてもいない、とさえ言うこ△044 とは可能なのだ。
 私は優生学の本体が問題とされるのは、少なくとも日本では一九七〇年前後からだと考えている。ファシズム、ファッショという言葉が何かを断罪する時の常套句として使われた時期はもっと長かっただろう。しかしその時に、優生学は本当にどこまで問題にされていたか。注44にいくつか例示したような作業がなされければならない。同時に優生学の何が問題なのかが問われなければならない。
 優生学をどう考えるかという問題の回避は米本自身について言える。
 「確かにナチ時代には、障害幼児の殺害計画が実行された。この意味で、障害者が絶対に許してはならない悪の極北としてナチズムを位置づけるのは正しい。しかしそれは秘密裏に行われた。であれば、このような事態を二度と許さない道は、どう考えてみても、あらゆる局面での徹底した情報開示(ディスクロージャー)と、手抜きのない討議であり、それ以外の道は考えにくい。わずかでも出生前診断容認すること、もしくはこの技術自体に、優生政策と等価なものを認め力説する立場は、むしろ一種の社会運営に対する自信のなさの表明なのであると思う。もし、出生前診断を実際に用いる過程を検討してみて、具体的に人権侵害の恐れが想定されうるならば、その危険を封じるための仕組を工夫すればよいのである。」(米本[1992:115])
 「残念ながら障害者差別はいずれの社会にも厳に存在する。差別は、差別された側が差別と感じれば、それが差別である。こういう日常の悪との連続性を、胎児の選択的中絶の中に読み込むことを自然と感じる人間が多数である日本のような社会と、アメリカのような社会とは、当然、出生前診断に対する政策は違ってきてよい。」(米本[1992:116])
 このような認識を受けて、米本らの研究は、各国の政策立案、制定の手続き、過程を調査し報告し、そのあり方を勧告する仕事に移っていく。もちろんその仕事は疑いなく重要である。だが、右と同趣旨の文章が配布され、発言がなされた生命倫理研究会のシンポジウムで、フロアから次のような発言がなされた。
 「非常に誤った判断だとおもいます。なぜならこの言い方は、差別する側される側が共に、差別問題と向き合うことから逃げているときの発言なんです。自分は差別しているつもりじゃないけれども、あなたが差別しているというのならそうだろうということなんです。それは結局考えることをやめているんです。差別という問題について対話することを最初からあきらめている、拒否している判断なんです。…米本さん、どう判断されているか個人の見解をはっきり示していただきたい。「出生前診断は優生思想か」という問いかけで、「そうじゃない」と言われるのは、どこまでがそうではなくてどこからがそうなのかをはっきり言われないと、何をおっしゃっているのか全くわからないのです。」(奥山幸博氏【(二〇一三年時点でDPI(障害者インターナショナル)日本会議事務局次長】の発言、生命倫理研究会生殖技術チーム[1992:131])
 この指摘は全面的に当っている。自らの資質としてここで提起されているような問いに答えようとする仕事を好まないあるいはできないということはあるだろう。だとしても、こうした問いに答えようとする仕事を省いて、その先の問題だけを考えればよいということには決してならない。こうした曖昧さが「戦後精神」についての相当部分は当っている指摘、そして彼の記述全体を覆っている。」(『私的所有論 第2版』四五〇−四五一頁、【】内の部分は第2版に際して加筆した部分)

 二年ほど前だったか、「共同連」(旧「差別△045 とたたかう共同体全国連合(略称:共同連)」の全国大会で一緒だった奥山にその時のことを話した時、彼はそんな場でそんなことを話したことはすっかり忘れていると言っていた。私のようにとりわけ記憶力が少ない人間でなくてもそんなものだと思う。けれども、たぶん私は今引用した部分を九七年に出た本に書いたからだと思うが、なんとなくその場を覚えているような気がする。
 米本は、優生学の歴史をまともに研究しようという先駆的な、もともとは在野の――大学を出てから、証券会社に勤めなから夜はドイツ語の優生学の研究文献を読んでいた時期あると聞いたことがある――研究者で、手頃な値段で読める、しかし中味は濃い『優生学と人間社会――生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(米本昌平・松原洋子・ぬで島次郎・市野川容孝、二〇〇〇、講談社現代新書)の著者であり、残りの著者三人やそして私にしても、先輩格の研究者だ。もっとずっと年上の、多くはもともとは医師の、「なんだかなあ」と思える「生命倫理学者」たちに比べてよほどまともな人だ。ただ、優生学(優生思想・優生主義)すなわちファシズム、ナチズムと捉えるのは短絡であると認めるとして、そのうえでどう考えるるのかが問題だと私は思った。そして、日本の戦後(精神)が優生学=ナチズム=絶対悪と捉えてきた(しかしそれは、短絡だから考えなおさないといけない)という捉え方は違う、と思った。引用した部分ではそのことを書いている。その時、基本、同じように考えていると思ったのが奥山の発言だった。
 実際、ほんとに騒ぎ出したのは今度再刊されたその『障害者殺しの思想』になった文章が書かれ、『母よ!殺すな』になった文章が書かれた時期、またその『母よ!殺すな』に収録された短いしかし重要ないくつかの文章が『CPとして生きる』というパンフレットになって「学習会」などに使われたという時期だと私は考えてきたし、今もそう考えている。ちなみに今手元にある『CPとして生きる』は、以前紹介した椎木章さんから寄贈していただいたもので、それはこのリボン社から出た複製版だ。そこには「この複製版は、神奈川・青い芝の会の横塚さんとリボン社の話し合いの元、実現しました。従って、他のいかなる団体・個人も、複製・転用はできません。発行責任はリボン社です。」といったことが書かれている。
 ではその前はどうだったかということになる。」


UP:20150908 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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