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PA (Personal Assistance): Acquiring Public Expense and
Seeking Self Management

立岩 真也 2015/11/30 [English]
East Asia Disability Studies Forum 2015 at Beijing

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last update:201511


『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』 ■要約
 この国の障害者運動が得てきたもの、作ってきたものをこく簡単に紹介する。要点は2つである。その運動は最大1日24時間の介助制度を獲得した。そしてそのサービスの相当部分について、自らが運営する組織によって供給している。
 そして、私はこの経緯を知らせることが各国での障害者運動の基盤の獲得と前進に寄与しうるものと考えてる。そこでこの報告を行う。


 介助=Personal assistance (PA = personal assistance / personal assistant(s)) は多く家族によってなされてきたし、今でもそうである。これは日本、そして東アジアに限ったことではない。家族が看る(care)べきだという規範がアジアでより強いとは言えるとしても、世界的な状況はそうは変わらない。
 そして、家族による介助が困難な場合に、施設を作ってそれを収容することが行われた。日本では1960年代の初めに重度の心身障害児に対する施設を求める運動が起こりいくらかが実現された。また1960年代後半から1970年代前半にかけて大人の身体障害者のための収容施設ができていく。(精神病院はそれ以前に増えており、他に比べずっと多くの人を入院させるのだが、そのことは今回は略す。必要であれば補足する。)
 家族の重い負担を軽減し社会が負担することとして、施設収容はおおむね肯定的に評価された。けれどもそれに対して一部の障害者たちが反対した。それがちょうど1970年のことである。
 この時期のことについて、2010年に国外向けに書いた9つの短文の第1回に書いた(立岩[2010a])。中国語・英語・コリア語になっている。ご覧いただきたい([English] / [Korean] / [Chinese])。
 このことから、家族と本人の利害がけっして同じでないこと、本人は家族の支配から脱して暮らすべきことが主張される。この年に、一つ、脳性まひの子を殺した親の減刑嘆願運動に対する抗議行動が起こる。も一つ、入所施設での処遇を巡る抗議行動が始まる。それは最初は処遇の改善を求める運動だったがやがて施設収容そのものを批判し、地域での暮らしを求める運動につながっていく。こうして新しい障害者運動が始まったと言うことができるだろう。


 日本の障害者運動を中心になって担ってきたのは脳性まひ等重度の障害者であり、その生活のためには介助を必要とする。それを家族からでなく、また施設における介助でもなく、地域で生きるためにどのようにして介助を得ていくか。当初その介助を担ったのは、大学生等、運動に共感する人たちだった。そしてそれは無償の行ないとしてなされた。またなされざるをえなかった。けれども、それでは安定的な介助を得ることができない。また、限られた支援者・ボランティアだけに介助を委ねるなら、他の人たちは、また障害者たちの生活を困難にしている社会全体は免責されることにもなる。
 ゆえに介助を含む生活の保障が公的なものとしてあるべきだと主張する。だが一方で、生活の主体は自らであり、他者に管理されるべきものではない。このこともまた、彼らが施設の管理体制に対する批判として運動を始めた以上、当然のことだった。そこで、生活を公的に保障されつつ、自律的に統御できる方向が模索される。
 1970年代からの制度の変容は複雑なので、ここでは略す。2010年に書いた短文の第3回(立岩[2010b][English] / [Korean])で少し説明している。(そして本稿はその文章とかなり重複している。)
 押さえておくべきことは、当初は政府が保障する量はたいへん少ないものだったということだ。1970年代半ばでは、週に2回、1回2時間程度だった。それでは到底暮らしていけないから、実際にはボランティアに頼りながら、制度の拡大を求めていった。
 制度も一つだけでなく、地域によって異なる制度もあった。同じ制度でも実際の支給量は地方自治体によってかなり異なっていたし、現在でも異なっている。これは本来は望ましいことではないが、日本の現実はそうである。
 直接に役所と交渉して時間を増やすことを要求し実現させることもしてきた。こうして、国および自治体との継続的な交渉の結果、1993年から、東京都の一部で複数の制度を併用した場合、最大1日24時間の介助保障が実現した。そしてこうした長い時間の介助制度が存在する地域が徐々に全国に広がっていった。
 ただ、東京が最初であったのは事実だが、この制度の拡大は大都市だけで行われたわけではないことは知っておいてほしい。長い時間の介助の必要な重度障害者はそう多くないから、その人自身やその支援をする人たちや組織が、直接に地方自治体と交渉して時間を拡大していった。そして一度、ある人について実現した水準は、同じだけ必要とする次の人に適用されることになる。役所はそれを拒絶する正当な理由をもたないからである。また、ある自治体で実現していることが隣の自治体では実現不可能であるという理由もたいていの場合にない。そうして徐々に制度を拡大させていったのである。
 例えば私の住む京都は、2000年を超えてもそれほど長い時間は保障されていなかった。だが2008年、これは私自身も参加したのだが、24時間介助の必要なALS(Amyotrophic Lateral Sclerosisv)[Japanese][Korean])の人のことで本人と支援者と京都市の担当部所と直接交渉をして、24時間について費用を出すことを認めた。そしてそれが前例になって、他の人たちにも拡大していったということがあった。
 そして近年では、この交渉に弁護士が関与することが始まっている。弁護士が本人の権利を直接に役所に訴えることもあり、それがうまくいかない場合には裁判で闘うこともある。このようにして、京都府都の隣の和歌山県という県では、裁判によって1日23時間の支給が実現した例がある。
 1日に24時間のPAが必要な人には24時間分を政府が支出するというのはけっして日本全体で実現していることではない。このことについては誤解してほしくない。ただそうした地域は存在する。このことによって他の国では死んでいただろう人が生きることができるようになっている。これは誇張ではない。私は2004年に『ALS――不動の身体と息する機械』という本を書いて、その前後からALS(Amyotrophic Lateral Sclerosisv)[Japanese][Korean])の人たちことを知るようになったのだが、症状が進行していくとこの障害は24時間のPAを必要とする。人工呼吸器をつければ生き続けられるが、北米や西欧ではそうして生き続ける人はほんの1%くらいだとも言われる。他方、日本では3割ほど、韓国でもそのぐらいの人たちは生き続ける。このことには家族の献身が大きく関わっているだろうし、価値観の違いもあるだろう。ただ日本の場合には、この40年ほどかかって整えられてきた制度によって、家族に負担をかけないで生き続けることができるようになっている。


 ここまでは「量」の話だった。もうひとつ、その仕事を誰が担うか。またどんな組織が関わるかということがある。
 働き手を公務員とし役所が運営するべきだという考え方もあった。ただ一つ、人件費のことを気にかける行政側は公務員のヘルパーを増やさなかった、むしろ減らしていこうとしたということがある。そしてもう一つ、利用者の側が必ずしもこの system を望まなかったという面もあった。役所から派遣されてくるヘルパーはしばしば利用者を見下すような態度を取ることがあり、それに不満があっても抗議したり交代させることが困難だったからである。
 それよりも本人が望む人にその仕事をしてもらった方がよい。また複数の民間組織があった方が、本人の選択が容易になる。そこで、政府による資金提供と民間による運営を両立させるのがよいということになった。
 これには二つのやり方がある。一つは利用者に直接政府が金を渡し、それを利用者がPAに渡すというやり方で「ダイレクトペイメント(direct payment)」と呼ばれる。日本でも公的扶助(public assistance)の受給者が得られる介護加算はそうした形態をとっている。(このシステムについては9つの短文の第4回で検討している(立岩[2010c][English] / [Korean][Chinese])
 ただ大きな部分を占めているのは、そのサービスを提供する事業所に政府から金が渡り、その金からPAへの賃金を支払うという形である。(個人が自分のためだけに事業所を経営することもありるのでこの場合にはダイレクトペイメントに近づくことになる。)
 こうした形態の日本での始まりは、一つには、1980年代、高齢者福祉の(高齢の障害者福祉の)分野で、利用者やその家族が通常は少ない(時間給の仕事の半分程度の)料金を払い、生活にはあまり困らない中年の主婦が安い賃金で働き(「有償ボランティア」といった言葉も当時あった)、その両者を地域のNPO (Non-Profit Organizations)が少しの手数料をとって仲介するというものだった★01
 これには主婦が活動できる時間しか利用できない、女性のPAしか調達できないといった問題点があったが、1986年に日本で活動を始めた自立生活センター(CIL = Center for Independen Living, ILC = Independent Living Center)はこの運営の仕方を参考して事業を開始した★02。ただ大きく違うのは、その費用については、公的に保障されることを求め、そして実際に自らの運動によって獲得した制度から支出される金を使いながら、障害者の側が組織を運営したことである。そのことによって、長い時間の利用、利用者やその家族に経済的負担のかからない利用が可能になった。また、女性には女性の、男性には男性のPAを確保し、利用者とPAが対等な関係を保ち、それをCILが媒介・調整するという形を実現した。
 そのCILの事業はとても小さな規模から始まった。現在ではこの事業で1億円〜の収入を得ている組織もある(事業の規模の大小の差は大きい)。そしてその収益を組織全体の活動のために使っている。
 このような政府と民間組織の関係は、政府の政策に民間の活動が左右されるということでもある。しかし政府の方でもこのようなサービスが必要であると考えるのであれば、その実際の事業を担っていく限り、運営の基盤を維持しつつ、政府に対して意見することも可能になる。制度を充実させていくことに政府は積極的でなく、困難は大きいが★04、それでもそれに対して利用者でも供給者でもある立場から発言し一定の影響力を行使できる。そして、このような形で民間の組織・運動を形成し発展させていく道がある。本報告の意図はそこにある。

 

■註
★01 高齢者福祉についてももちろん税金を使ったサービスは1970年代から存在していたが、その供給はわずかなものだった。本報告で述べた1980年代以降の有償ボランティア団体の出現はそれでは需要を満たせないことから出てきた。ただこのような形態で必要を充足することはやはりできない。これは基本的に65歳以上の高齢者を対象とするものだが、高齢者でない障害者についてもこの制度のもとに置こうとする動きもあった。障害者はこれに反対した。この制度が、在宅で暮らす人の介助に使われる場合には家族介護のいくらか補完をする程度のもの――幾つかの種類のサービスがあるが、訪問介護だけを利用しようとすれば、最も重度と認定されたとしても1日2〜3時間しか利用できない――だったからである。ゆえに障害者はこの制度への組み入れに反対した。そしてこの時には、反対があったからという理由からではないが、「統合」は実現されなかった。

★02 「自立生活センター」という言葉は、1980年代の初めに米国の自立生活運動のリーダーたちを招いたセミナーなどが開催され、知られるようになり、そうした名称を使う組織もいくつか現れてきたが、権利擁護、自立生活プログラムといった活動とともに、介助者と利用者との調整を活動の大きな部分とする組織が現れたのは1986年、東京都八王子市に設立された「ヒューマンケア協会」である。米国の自立生活センターは介助者と利用者の登録の情報提供は行うが、それ以外のことはしないところが多いと言われる。それに対して、日本の自立生活センターにはこの活動を積極的に担うところが多い。自立生活センターの数は次第に増え、1991年には全国組織として「全国自立生活センター協議会」(JIL)が発足する。

★03 自立生活センターの増大、その活動の拡大は、自治体によってはそうした活動に資金を提供したところがあったことにもよる。ただそれはあまり拡大・進展を見せることはなかった。むしろ、その時点で存在していた制度を個々人が使うに際して自立生活センターを利用し、その際、手数料をセンターが得るという形態が取られた。また、これから述べる2000年以降の制度のもとで、介助者派遣の事業を行ないそこから一定の収益をあげることができるようになったことが大きい。そこで、コミュニケーション等について障害が重い人たちの介助等、他の組織や民間企業が参入をためらうような部分について事業体を作って、介護サービスの供給を行なう組織も現れた。その収益を得ながら、多くの場合、資金を(地域によってはまったく)得ることができない権利擁護等の活動を並行して行なっている。

★04 (高齢者以外の)障害者の制度は2003年4月から「支援費制度」に移行した。この制度は、直接支払いのあり方を一部とりいれる余地を含ませながら、基本的には費用は事業者に支払われる方式をとった。サービスを拡大させ、そして障害者自らが組織を作り、その供給に関与してきた地域では、利用者と供給者の契約関係、同時に利用にかかわる費用の社会的供給というかたちが既にできていたから、この制度への移行は、新しいものへの移行ではなかった。それは、サービスの量的な改善を目指すものではなく、実施は自治体に委ねられた。しかしそれまで限られた地域にしかなかったサービスが、実施可能なものとして人々に示された。多くの人に、制度があってそれを使えることを知らせることになった。そのために貧弱な制度しかなかった地域での供給水準がいくらか上がった。サービスを提供する組織を作り運営することがより容易になった。制度が実施される地域、利用する人の数は増え、予算も増えることが予想された――そして実際に増えた。制度開始の前、そのことを懸念して厚生労働省は、2003年1月にサービス供給に上限を設けようとした。それに対して障害者の側からの強い抗議行動が起こり、それは実現しなかった。
 そうしてサービスの利用・供給は増え、その実績は予算を上回ることになった。これまで足りなかったサービスが増えたということだから、これはよいことであって、予算通りにいかなかったのは、見込みを間違えたということでしかない。しかし増えるのが困る人たちがいる。担当の役所は厚生労働省だが、この人たち自身がサービスを減らしたいわけではない。ただ、借金をかかえている政府・財務省が受けつける範囲で政策をやっていかなければならない。
 そのままではやっていけないと厚労省は言い、次に出てきたのが「公的介護保険」との(再度の)統合案だった。介護保険の制度に入れば独立した財源だから心配しなくてよいというのだ――吸収でなく、統合でなく、他の制度も残されるのだから介護保険を利用するのだという言われ方もされた。これが浮上したのが2003年の秋。以来、障害者たちがこんどはこの「統合案」への対応に追われた。そして、この案もとりあえず見送りになった。障害者側の反対のためにという部分もあるはあるが、それだけでない。むしろまったく別の理由から、つまり保険料の負担を気にする経済界等の思惑などもあってのことである。
 そしてその後も、政府側と障害者の側の間の折衝は続いたが、結局は政府側が押し切るかたちで2006年4月に「障害者自立支援費法」が成立する。それはサービスについて原則1割の自己負担を求めることで、サービス・予算(の伸び)を圧縮しようとするものであり、生活を困難にするとして反対運動が起こった。憲法違反であるとして訴訟も各地で起こった。2009年に政権が交代し、新たに与党になった民主党はその法律を廃止する方針を出した。そこで訴訟も中止された。また多くの障害者団体の役員が参加した国との会議も始まった。しかし今後どのように事態が推移していくのか、予断を許さない状況にある。」(Tateiwa [2010b])  ここまでを Tateiwa [2010b]で述べた。その後、政権が再び変わり、2009年になされた約束は結局履行されなかった。引用の後は次のように続いている。  「こうして日本で(あるいは日本でも)現実はなかなか厳しい状況にある。ただそれも、この40年ほどの運動がありそれが事態を前進させてきたからこそその「反動」が現れているのだとも言える。各国の介助に関わる制度が現実にどの程度のものなのか、それを示す資料・文献があると私は聞いたことがないが、社会サービスが進んでいるとされ、実際その通りである北欧諸国――日本の社会保障・社会福祉を進めようとしてきた人たちの多くは北欧諸国の制度・実践に学びそれを日本にも広めようとしてきた――でも、とくに恒例の障害者に対しては処置の打ち切りがなされている。また、本人の「自発性」を論拠にした延命処置の停止が次第に拡大しつつある。そうした中で、最も重度の人であっても生き続けられてよいという主張に発して日本で獲得されてきたもののもつ意義は大きいと考える。
 ではこの主題について必ず持ち出される資源の制約についてどう考えるか。それはまた別に論ずることにする。ただ、基本的には資源は現にあるしこれからもあると答えるしかない。にもかかわらずそこに制約があるかに見えるのは、とくに1980年代以降、社会保障・社会福祉を進める側にいる人たちもまた、社会保障・社会福祉を、つまり人々が等しく負担する制度、あるいはせいぜい所得・消費に応じて負担する制度として、つまり「保険」として発想し、その方向に現実を進めてきたしまったためであると私は考えている。」(立岩[2010b])
 以上、運動と政策の流れについてより詳しくは、1995年までについてはコリア語訳が出てい『生の技法 第2版』(安積他[1995])に加えた第8章「自立生活センターの挑戦」に記した。1990年までについては、初版〜第3版に収録されている第7章「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」(立岩[1990])に記されている。1995年から2012年までの推移については『生の技法 第3版』(安積他[2012])に加えた第9章「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」(立岩[2012b]、これは日本語版しかない)。第2版〜第3版収録の第8章「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(立岩[1995b])、そして第3版収録の第9章「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」(立岩[2012a])で論じている。

■文献
◇安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,312p.
◇―――― 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』,藤原書店
◇―――― 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院,366p.
◇立岩真也 1995a 「自立生活センターの挑戦」,安積他
『生の技法 増補改訂版』第9章,pp.267-321
◇―――― 1995b 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」,安積他『生の技法 増補改訂版』第8章,pp.227-265
◇―――― 2010 「障害者運動/学於日本・3――――税を使い自分ら運営する」 http://www.arsvi.com/ts/20100094.htm
◇―――― 2012a 「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」,安積他[2012:499-548]
◇―――― 2012b 「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」,安積他[2012:549-603]


UP:20151112 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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