HOME > Tateiwa >

唯の生

立岩 真也 2015/05/18
ひと・まち交流館 京都(河原町通五条下ル東側)2F 大会議室

Tweet

■「急ぐ人のために――最も短い版」
 2006/08/20「私はこう考える」,『通販生活』25-3(242・2006秋号):119
 (通販生活の国民投票第34回 尊厳死の法制化に賛成ですか?反対ですか?)
 →立岩『良い死』(筑摩書房、2008)に収録

 「延命措置」という言葉は、このごろ最初から悪い意味の言葉になっています。チューブを通して栄養補給をしたり人工呼吸器をつけたりすることは「不自然で人間らしくない」と思われています。でも、まずそれは、栄養の補給であり、呼吸の補助です。いくらかでも感覚があれば、おなかはすきますし、喉は渇きますし、呼吸が困難なのは苦しいです。「延命措置」は――ていねいにきちんと行なえば、ですが――このような苦しさを和らげているんです。
 周囲の人にはその状態はよくわからない。本人ならどうでしょう。その時点では本人は意志をはっきり伝えられない状態になっているだろうから、健康なときに決めておこうというのがリビング・ウィルの考え方です。しかしその状態が自分にとって辛いのか、そうでないのか、健康なときには本人も実感としてはわかりません。そしてその時にはどうしたいか伝えられない。しかし事前に言ったとおりになってしまいます。
 尊厳死を望む理由には、まず、病による身体的な苦痛があるでしょう。たしかにこれは大きな問題です。でも、ていねいな対応が大前提です。日本の医療はそれが下手ですが、それをなんとかすれば、かなり少なくできます。患者の苦痛を緩和する努力を十分にせずに尊厳死を語るのは、順序が逆だと思います。苦痛は多くの場合にかなり少なくすることができます。
 他方、意識がなくなっていれば、その状態は、本人にとって、よいこともないと言えるとしても、その状態が続いてわるいこともありません。
 すると、その当人自身にとって、早く死にたい理由はなくなってきます。
 それでもなお、治療を控えたり止めたりするのがよいと人が思うのは、苦痛を与え、効果のない処置がなされているからかもしれません。効果が見込めないのに心臓に強い電気ショックを与え続けるとかです。それはやめてよいと思います。本人に益がないのですから。しかしそれは、今ある法律の範囲内で可能なことです。
 一つ補足します。回復に効果がないというのと、生きるのに効果がないというのは別です。回復しないからといってなんでもやめていったら、病や障害をもちながら生きている人はどうなりますか。回復をもたらさなくても、生命・生活の維持に役立つ処置を否定する理由は何もありません。
 それでも、実際、遷延性意識障害、いわゆる植物状態から回復する人もいます。脳死についてはずいぶん議論があったじゃないですか。尊厳死で問題になっているのはもっとずっと死から遠い状態なのに、簡単に認めることにしようというのは変だと思います。
 それ以外に「延命」を拒否する理由があるとしたら、大きいのは、周囲に迷惑をかけたくないという理由です。それは立派な心情のようにも思います。しかしそれを周囲がそのまま受け入れたら、それは「私たちのためにありがとう、どうぞ死んでいってください」と言うのと同じじゃないでしょうか。
 私自身には、その人が決めたとおりでよいだろうという思いもあります。けれども、最低、社会の側の問題があって、それで人が「自分が決めた」と言って亡くなっていこうとされるのを、「自己決定」だからとか言って、そのまま「どうぞ」と言うのはおかしい。尊厳死に賛成する人の多くも、負担のこと、医療や福祉にかかるお金のことで決定が左右されることはよくないことを認めます。ならば、どう考えたって、昨今の流れは順序が逆です。生きたいなら生きられるという条件がきちんと整えられてから、死ぬのもよしということにするべきです。


■「初歩的なことを幾つか」
 初出:2006/04/21「生き延びるのは悪くない」『朝日新聞』2006/04/21朝刊
 →立岩『希望について』(青土社、2006)に収録

 終末期という言葉は余命いくばくもない状態を指す。ならば急ぐことはない。その短い期間をできるだけ苦しみなく過ごせるよう、世話し見守っていればよい。日本の医療は苦痛緩和が下手だが、うまくなってもらえばよい。
 そういう状態が長く続くならそれは本当の終末期ではない。別の状態だ。植物状態などと呼ばれる遷延性意識障害の状態が問題にされるが、どんな状態か、外からは分かりがたい。状態は多様で変化もする。回復を見せることもある。脳死の議論はそれなりに慎重だったのに、もっと微妙な状態を、尊厳や本人の意思の問題であっさり片付けてしまうのはおかしい。
 意識がないなら本人は苦しみも感じないだろう。ゼロか、何かかすかにでも感じているか、状態が良くなるかのいずれかだ。いずれでも本人にとって悪いことはない。
 他方、意識があればどうか。人工呼吸器を着けた状態が苦しい、悲惨だと言われるが、それは思い込みだ。息が苦しければ身体もつらく、気もめいる。実際に目の前が暗くなる。自発呼吸が次第に難しくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちの手記には、人工呼吸器でどんなに楽になったかが書かれている。
 それでも、本人が死んでもよいと言うのだからよいと言うのだろうか。その決定は、本人も事前には分からない状態を想像しての決定だ。自分のことは自分が一番よく知っているから、本人に決めさせようと私たちは考える。しかし私たちは終末の状態を実際には知りえない。そして実際に知った時には、気持ちが変わったことを伝えられない状態や、眠っているような状態の場合もある。
 なぜ知りえないことで、しかもその時の本人の状態が悪くはないのに前もって決めるのか。見苦しいと思い、生きる価値がないと思い、負担をかけると思うからだ。「機械につながれた単なる延命」と否定的に語られてばかりだが、機械で生き延びるのは悪くはない。動けなければ動けない、働けなければ働けないで仕方がないではないか。
 負担をかけると思うから早めに死ぬと言う。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲の者たちが受けいれてよいか。自殺しようとする人を、少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで、中立を保つと言うのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き受け止めた上で、「心配しなくていい」と言えばよい。
 家族には簡単にそう言えない事情がある。実際に本当に大変だからだ。しかし言えないなら言えるような状態にすればよい。世話のこと、お金のことを家族に押し付けないなら、それは可能だ。
 尊厳死は経済の問題とは関係なく、あくまで本人の希望の問題だと言う人もいる。しかし、意思の尊重と社会の中立を言いたいのなら、どんな時も生きられるようにするのが先だ。でなければ金の問題に生き死にが左右されてよいと認めていることになる。
 物があり、支える人がいれば、人は生きていける。物はある。少子高齢化で支える人がいなくなると言う人もいるが、そんなこともない。この社会は亡くなるまでの数日、数月、数年を過ごしてもらえない社会ではない。


■ただいきるだけではいけないはよくない 2003
 2003/06/01「ただいきるだけではいけないはよくない(上)」
 『中日新聞』2003-06-01:06/『東京新聞』2003-07-15
 2003/06/08「ただいきるだけではいけないはよくない(下)」
 『中日新聞』2003-06-08:06/『東京新聞』2003-07-22
 →立岩『希望について』(青土社、2006)に収録

 人生のことなど少しもわからない。ただ一つだけ確かだと思って、それだけ言おうと思って書いてきたのは、美しく死ぬとかいうのはやめた方がよい、ということだ。
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病がある。全身の筋肉が次第に動かなくなっていく。解明は進みつつあるが、まだなおる病気ではない。全国に五千人ほどいるとされる。進行していくと自分で呼吸をするのが難しくなるのだが、人工呼吸器を付ければ息ができて生きていける。しかし半数以上の人がそれを付けずに亡くなると言われる。
 厳しい病気だからという医療側のためらいもあり、多くの人は自分の病気のことをよく知らされず孤立してしまう。それをなんとかしようと患者や関係者のつながりを作ることを呼びかけ、日本ALS協会という組織が発足するのに力のあった人で、一九九四年に五三歳で亡くなった川口武久という人がいた。私は『現代思想』(青土社)という雑誌にこの病気の人についての続きものを載せてもらっていて、彼のことを四月号に書いた。
 川口はこの病気の人としては進行がゆっくりで、発病してから呼吸器をつけず二十一年、家族と別れ病院で暮して、そして最後は急性呼吸不全で亡くなった。四冊の著書がある〔川口[1983][1985][1989][1993]◇02〕。
 彼は入院した病院を「ホスピス」と考え、「人工的な延命」を拒否し、「自然な死」を望むと言った。そして実際最後まで呼吸器をつけなかったのだから、その意志を貫いて亡くなったとも言える。それから約十年がたち、こういう死に方は望ましいこととして広くこの社会で語られている。またどういう死に方であれ、本人が決めたことであるからそれは受け入れるべきだということになっている。
 ただ、彼の書いたものを読んでいくとまったく単純ではない。まず彼は医療を受け、食べるにしても普通の方法では食べられなかった。それは人工的な延命ではないのかと自問し、たしかに自分は人工的な手段を使って暮していると認め、そしてそうして生きることを肯定している。また身体がまったく動かなくなっても、意志を伝えられる限り、いや伝えられなくなっても、生き続けたいともはっきり記している。そうして自分の言うことが矛盾していることにも気がついている。また、著書四冊のうちの一冊は小説のかたちをとっているのだが、その中の主人公は、呼吸困難で意識を失った緊急事態への家族の対応として呼吸器を付け、そして意識を回復した後、自らがそれを肯定することになる。すこし何かが違えば、彼はもっと生きただろうとどうしても思える。しかし当初の決定は覆されなかった。
 一つに、呼吸困難やそれに伴う苦しさにつきまとわれ、そして疲れていった。そして様々なことが次第に自分の思い通りにならなくなっていった。むろんだから援助を人に頼む。しかし彼は病院を自らが死ぬまでの一時期の場所として選んだという思いもあり、生きるために必要なことをなんでも要求するのはためらわれた。結果的に遺書になった文章が残されているのだが、そこには呼吸器の装着を断わることを繰り返した後、「私の考えは間違っているかもしれません。……しかしこれ以上呼吸器を装着して、ご迷惑をかける訳にはいきません。」とある。彼は前向きな人で努力家であり、またそういう時代と社会に生きた。それは他の患者のための活動に向かわせたものでもある。しかし自分のことになると、人に「迷惑」をかけまいとし、自らの否定に向かってしまった。
 それでも彼は自らのためらいを文字に残したからそれを私たちは知ることができる。しかしそうでなければ、せいぜいすっきりした潔い「決定」と、その決定通りに事態が運び終わったことだけが残される。それで周囲はそれでよしとする。そんなことがおびただしく私たちのまわりに起こっている。

 迷惑をかけないことは立派なことではあるだろう。だがこの教えは反対の事態を必然的に招く。それを他の人に要求するなら、周囲に負担をかけるようなことをお前はするなということになる。その分周囲は、他者に配慮するはずだったのに、負担を逃れられ楽になってしまう。自らの価値だったはずのものを自らが裏切ってしまう。
 犠牲という行ないにも同じことが言える。誰かのために犠牲になることは立派なことだ。だが、その人に犠牲になることを教えるのは、その人の存在を否定することになり、その価値自体を裏切る。そして犠牲になることを教える側はそのまま居残るのだから、ずいぶん都合のよいことだ。
 だから、正しさ、美しさの語られ方には注意深くならざるをえない。実際に何が何より大切にされているのか。
 とくに「尊厳な死」と呼ばれるものにおいて遣り取りされるのは明らかに不等価なものだ。尊厳を保つためにと言われ、ただ生きているよりもという言い方で説明されるその行ないは、なにか精神的に高い営みのように思うかもしれないが、それは違う。
 一つに耐えがたい苦痛が言われる。もちろん身体が痛いのは辛い。しかし苦痛は、医療者が下手でなければ、かなり軽減できるようになっている。すると、言葉の飾りをとって残るのは、身体的にあるいは知的に、自らが何かができなくなるから、できる度合いが減るから、生きるのをやめさせよう、あるいは自らやめようという、それだけだ。
 できるとは、生きていく上で役に立つことができることだ。つまりできることは生きていくための道具だ。できることが少なくなったから生きることを否定するというのは、存在の道具によって存在が規定され否定されているということだ。これは逆立ちしたおかしなことである。ところがそんなことが、その人の周りの人たちによって仕立てられ現実のものにされているし、またその人自らの決定としてもなされてしまうのである。
 一つには、実際に支えがないために生き難いから生きられない、あるいは生きないことにするということである。一つに、生存のために役に立つもの、つまり手段を自力で生み出せないとき、生み出せない自分が生きる価値を否定する。この二つとも、存在のための道具によって存在が支配されている。
 世界にどうしてもその道具が足りないのなら、そのために生きていけなくても仕方がないかもしれない。しかし私たちの世界はそんな世界ではない。少子化・高齢化で人が足りなくなるというお話があるが、よく考えれば、そう深刻になる必要がないことははっきりしている。一人ひとりの存在を認め、そのための道具を各人について用意する。そのために世界にあるものをうまく分ける。このような順序で考えればよい。
 尊厳の問題とはまず単純にそんな問題ではないか。そしてできることであるにもかかわらず、それがなされないことが、尊厳が冒されているという事態の核にあると思う。
 例えば、私たちが新型肺炎で騒いでいる間に、世界中で一日に約八〇〇〇人の人がエイズで亡くなっている。とくに南部アフリカに多い。それは不可避の悲劇ではない。安く供給しようと思えば供給できる薬を使えば死なずにすむのに、供給されないから亡くなっている。それが悲劇なのだ。
 それに比べればこの国で生じていることはもう少し見えにくいかもしれない。つまり本人の選択として、すこし屈折した形で現われる。ただ、交通事故死よりはるかに多い数の自死の背景には、失業や倒産、仕事絡みの疲労がある。あえて言えば、そんな背景しかないのに、そうなってしまっている。実際に人が生きていくことのできる物も、何もかもこの社会に既にある。その意味で、どこにも危機がなく悲惨があるはずがないにもかかわらず、こうなってしまっていることが悲惨なのだ。
 どんな生き方がよいか知らない。ただの生がたんに肯定されればよい。それを消耗させようとしないことだ。そのために、当たり前のことを当たり前のこととして確認していくこと、本来は可能なことを可能だと言うことができる。そして、その方に現実をもっていくことも、本来は可能なのだから、できる。
 ※川口武久他について書いた文章は『ALS』(↓)になった。


■2009/11/15〜2009/12/15 「尊厳死・安楽死――いのちとはなにか 立岩真也さんに聞く・1〜3」
 『Fonte』278:2, 279:2, 280:2

――尊厳死・安楽死はいつから問題になったのでしょうか?

  病気を苦にした自殺・自死がいつ始まったか、といえば、それは古いには古いでしょう。病も昔からあるし、自殺も昔からできますし。ただ、日本で立法化が前面に出てきたのは1970年代の後半からです。1976年、日本安楽死協会(現・日本尊厳死協会)が設立され、いわゆる「尊厳死法案」が提出されました。法案は国会で廃案となりましたが、その25年後の2003年にも「尊厳死に関するよう法律案要綱」が、日本尊厳死協会から発表されました。この問題にまつわる詳細については『良い死』 『唯の生』(筑摩書房)でくわしく書いています。私は基本的に尊厳死法に反対する立場にいます。

――尊厳死について考えると、死ぬ間際に「苦痛」が長引くのはよくないだろうと思うのですが。

 もちろん苦痛を長引かせるのは、よくありません。痛いより痛くないほうがいいです。そしてたしかに医療によって苦痛を完全になくせることは多くありません。けれども苦痛を少なくすることはできます。すくなくとも昔に比べて痛みに対する対応はできるようになりました。このことについて尊厳死の推進派も同様の主張で、実際に苦痛を理由に尊厳死を求める声は少なくなりました。

――次に「経済的な問題」ですが、医療費を保障する医療保険への財政圧迫が指摘されています。

 まず、お金はかかります。これからもっと高齢者は増えるので、もっとかかってくるでしょう。しかし、人間はなんのためにお金を使うかと言えば、生きているために使うわけです。腹をくくるほうが健康的だと思います。
 国家予算レベルで言うと、どれくらい財政を圧迫することになるのか。いろんな試算がありますが、終末期医療(亡くなる一カ月前)にかかる費用は、年間8000億円や1兆円だという計算もあります。人口で割ると一人一万円。その百倍かかっても、みんなが震えるほど、社会を破綻させるほどの負担ではないと私は思います。
 すこし冷静に考えると、体が衰弱して動けなくなって手術をするような治療も必要じゃなくなってくると、医療費はそうかけようがなくなるという面もあります。福祉の関係についてもある程度そう言えます。大ざっぱに言って負担額はそれほど深刻なものではない、と言えます。
 それから私がよく言うのは、お金で換算するから足りない気がするんだ、と。お金ではなく「現物」で考えたほうがいいんです。現物は2種類しかありません。人と人以外の物です。物といったら例えば人工呼吸器ですが、冷蔵庫より鉄は使いません。次に人手の問題です。世の中を見渡すと、仕事をしたくてもできない人がいっぱいいます。高齢化というのは寿命が延びることと、動ける時間が延びるという両面の可能性があります。働きたい人がいて、人の動ける時間が長くなっているんですから、動けなくなった人へのケアする人手が、国内にかぎってもあるに決まっているんです。それともう一つ、費用がかかるからやめてよいのかということです。社会保障費の効率化だとか言って治療・救命を止めたらだめだという答えだってあります。その答えでよいと思います。
 しかし、実際のケア現場は、お金が足りず、人手も足りず、家族の負担も大きいものです。それは、高齢者や障害者を支えるための社会の仕組みがどこかおかしい、ということなんです。仕組みがおかしいのですから、仕組みを変えればすむことです。

――最後に「自己決定」の問題です。なぜ他人が死に際を決める権利を奪えるのか、最期は潔く死にたいと私は思うのですが。

 この問題は非常に大きくて、『良い死』では、多くの紙数を「自己決定」にまつわることに割いています。
 石井さんは、有名なミュージシャンや作家が、早くに亡くなったことを「かっこいいな」と思う。それはありだと思います。ただ、薬(やく)やって、喉にゲロ詰まらせて死んでしまったのを私たちは祭り上げてしまうようなところがありますよね。人間は観念で生きています。そういう観念として思うことと、いざというときに思うことは、ちがうことも多いと思いますよ。
 たしかにいまは、年を取って、体が動かなくなって、排泄も自分じゃできず、チューブにたくさんつながれる、そういう「自分は許せない」と思うかもしれません。「許せないのは自分なんだからいいじゃないか」と言うかもしれません。
 でも、その否定している対象は、想像のなかの「自分」なんです。いまの自分と、何十年後かの自分は連続していますが別人です。未来の自分をいまの自分が決めつけられるほど、いまの自分はえらいんでしょうか。
 動けなくなったら価値がない、死ぬに値する自分だ、と思うこと。それは「自分」のことではなく、そういう人間は、死ぬに値するほどいやだと思っているということなんです。私も自分が弱っていくことはいやです。いやだけれど、それと動けない自分は死んでもいいと思うことは別です。動けない自分は死んでもいいと思うことは、そういう状態で生きている人に対する侮蔑だとも思うのです。
 障害を持っている人は、この問題に敏感です。なぜなら、たとえば脳性マヒの人は、勝手に口が開いてしまったり、体がよく動かない。若い人が高齢者を見て「ああはなりたくない」と言うけれど、脳性マヒの人は「ああはなりたくないって言うけど、それはオレのことか」と。自分のことだから「自分の価値観でいいじゃないか」と言うかもしれませんが、その理屈がすべて通るわけではありません。そういう状態を「気持ち悪いと思うな」と言ってるわけではありません。けれども、その人の生存を否定することはダメなんだ、と。そう思うんです。
 自分が変わったらいやかもしれないけど仕方がない。そして変わったとしても、その生存が、なんら否定されるわけじゃない。そう思えるほうが、本人にとっても楽だと思いますし、社会システムもその価値観に沿っていったほうが、いいと思っています。

――前号でお聞きした話で、尊厳死・安楽死に反対されている理由が掴めてきました。

 安楽死・尊厳死に反対するのは、もっと現実的な話でもありす。去年、介護をしている大学院生から、こんな話を聞きました。
 60歳ぐらいの男性が、ALS(筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経疾患)にかかり、医者から告知された。男性は独り身のために家族のケアも期待できない。男性は「じゃあ治療はもういいです!」と病院に言ったそうです。ALSは進行性の病気で、介護、そして呼吸が苦しくなれば人工呼吸器なしでは生きられません。でも、男性が介護者にこぼしたのは「もういいですって言っちゃたけどさあ……」と。
 この男性は「もういいです」と、死を自己決定したとも言えます。私は絶対自殺しちゃいけない、とは言いません。そして最終的に自死は他人には止められません。しかし、なぜ自死を選ぶのか、そこには理由があります。誰だって他人から「もう死にたい」と言われたら理由を聞ききます。その理由が、なんとかなりそうなものなら、その人のために努力します。人は理由もなく、他人の「自分の決めたこと」を認めてないのです。
 ならば他の自殺の場合だけでなく、高齢による病気や障害の場合も同じはずです。「もう充分に生きた」「残される家族に迷惑をかけたくない」と思い、命を絶とうと思うことはあります。その思い自体は否定しませんが、「そんなことはしなくていい」と応じていく道筋があるんだ、と思うわけです。
 尊厳死・安楽死の場合は、「自己決定ならば」と理由も聞かずに死を認める。じゃあ、誰がまっさきに自己決定を迫られるか、それはやっぱり動けない人、高齢者であり、障害者なわけです。そこに問題を感じているわけです。

――重篤で本人の意志が確認できない場合、家族に判断が委ねられる問題については、どう考えられていますか?

 いろんな場合があります。言葉ではなくとも本人の意志が伝わってくる場合もあります。意識はあるけれとも、その意志を外から確認できない場合もあります。ないのだろうけれとも、そのことの確認ができない、あるいは難しい場合もあります。そしてその意志や気持ちを推量するしかない場合はあります。
 僕たちは本人を見て、いろんなことを思います。もう見ているのがつらいとか、苦しそうだかとか。でも、それはあくまでも、他人の私が思っていることだとわきまえないといけません。誰もがその意志がわからず、わからないなりに推量するとき、家族に優先権があるとすれば、それは、本人を以前から知っていてその推量が他よりあてになるかもしれないということだけによります。家族だから、という理由ではありません。
 ただし家族というのは本人と最大の利害関係を持っています。この20年間ほど、ずーっと言われてきたのは、本人は治療を望んでいないのに、家族が生きさせたがっている、というシチュエーションです。たしかにそういうこともあります。けれども逆の場合も多いんです。家族が本人の生存を望まず、その方向に仕向けようとするといったことは、私が実際に知っている範囲でもあります。
 家族にとって、本人を生きさせるのはお金がかかったり、時間をとられたり、身体が疲れたり、たいへんなことがあります。死んでほしいと思って不思議ではない。ですから、家族に任せておけば本人にとってもOKだ、という発想は神話です。
 本人の気持ちを推量するしかないことはあるでしょう。それでもわからない場合は、「人間は生きているあいだ、たいがいは生きたいもんだ」という、そもそもに立ち戻ればいいわけです。それはおおむねまちがえません。

――胎児の異常を判定して中絶する「出生前診断・選択的中絶」についても、著書で指摘されていますが

 出生前診断・選択的中絶が議論になったのは1970年代以降のことです。具体的には、障害者運動の側から、出生前診断は優生思想に基づくものであり、障害者の抹殺につながるという批判が起きました。女性運動からも出生前診断が優生思想に基づくものだとして批判が起きる一方、出産に関する権利、親の「産む・産まないの自由の保障」が主張されました。双方の間で議論もありました。この主題については『私的所有論』(勁草書房)で考えてみました。こちらのHP(「生存学」のHP、http://www.arsvi.com)にもいろいろと資料など掲載されています。
 非常にシリアスな問題や選択を含む問題なのですが、私の考えを一言で言えば、出生前診断はよいことではない、と。何がいけないかと言えば、どういう人間が生まれてくるかを他人が決めているからです。どういう人間が世の中にいてよいかを決めることは、究極的には自分たちの都合や好みによるところだからです。実際には自分たちの都合や好みで、他人のことをいろいろと制約していますし、コントロールしたいという欲望も否定できません。だけど、人のありようを人が決めること、それは基本的にダメで、なるべくしないほうがいいことなんだ、と。
 他人とはどんな存在であるのかと言えば、それは、自分が決められない人、決められても決めない人、決めたくても決めてならない人のことである、と思います。自分がその人のなにもかもをコントロールできたら、それは他人ではなく自分です。私たちは、他人をコントロールしたいという欲望を持ちつつ、他人が自分じゃないから、うれしくも思えるんじゃないでしょうか。もし、自分だけ、私だけがこの世界に存在していたら、それはすごく退屈なことです。
 こういう考えからもう一歩踏み込んでみると、自分のことを自分で考える、自分で決めるというのも、大切なことですが、ときには退屈なことでもあるんだと言えます。

――最後に「いのちとはなにか」という質問をさせてください。

 去年、慶応大学で最首悟さんと講義をしました(『連続講義「いのち」から現代世界を考える』岩波書店)。そこで最初に話したのが「いのちのことはわかりません、おわり」と。今回もそういうことです。
 「○○とはなにか?」という問いは、よくわからないことがあるんです。その問いに意味がある場合、ない場合、何を問うているのかわからない場合、答えてもしかたがない場合、答えないほうがいい場合、いろいろな場合があります。
 すくなくても、私には生きているということがどういうことなのか、よくわかりませんし、わからなくてよいようにも思います。そして、いのちとはなにか、その問いに答えようとする欲望が私には足りません。また、いのちとはなにかという問いに、答えがなくてもよく、一つじゃなくていいとも思っています。べつにいのちの大切さやすばらしさなどをいっしょうけんめい言わねばならないとも思いません。死ぬより生きているほうがいいだろう、というぐらいのことです。だけど、もっともらしいことを言って、他人に「死んだほうがいい」などと言っている人たちには、「それはちがう」と言ってきました。それを説明するのは私の仕事です。

――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)


■この主題を主に論じた、あるいは関連する文章を含む書籍

◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. \2800+

◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. \3200+

◆立岩 真也・有馬斉 2012/10/31 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院,241p. \2000+

『良い死』表紙   『唯の生』表紙   『生死の語り行い・1』表紙

◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. \6300

◆立岩 真也 2000/10/23 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p. \2800+

◆立岩 真也 2004/11/15 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. \2800+

◆立岩 真也 2006/07/10 『希望について』,青土社,320p. \2200+

◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. \1800+

『弱くある自由へ』表紙   『ALS――不動の身体と息する機械』表紙   『希望について』表紙   『私的所有論  第2版』表紙

 ※HPを「生存学」→「安楽死尊厳死」で検索してください。関連情報があります。最近受けた取材(↓)についてもいくらかの情報がある場合があります。

・2014/11/07 安楽死尊厳死についてのコメント
 『東京新聞』2014/11/07朝刊
・2014/11/04 安楽死尊厳死についてのコメント
 関西テレビ,ニュースアンカー
・2014/10/30 「安楽死尊厳死に対して来た人たちと」
 「骨格提言」の完全実現を求める10.30大フォーラム 於:日比谷野外音楽堂
・2014/10/26 安楽死尊厳死についてのコメント
 『Mr.サンデー』,フジテレビ
・2014/10/15 安楽死尊厳死についてのコメント
 『情報ライブ ミヤネ屋』,読売テレビ・日本テレビ…


UP:201515 REV: 
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)