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『愛知の障害者運動』出版によせて

立岩 真也 2015/03/29
愛知大学文学会 障害学研究会ワークショップ
『愛知の障害者運動――実践者たちが語る』
於:愛知大学車道キャンパス13F(名古屋市東区)

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◆障害学研究会中部部会 編 20150325 『愛知の障害者運動――実践者たちが語る』,現代書館,304p. ISBN-10:4768435386 ISBN-13:978-4768435380 \2500+tax [amazon][kinokuniya] ※ ds, sm02

障害学研究会中部部会編『愛知の障害者運動――実践者たちが語る』表紙

 *今(2015-3-27, 14:30)読み始めました。すみません。
  ↓とりあえず関係なくはないかとないという文章。見といてくださればと。
  てもとにある本何冊かは(販売用に)もっていきます。

 「そんな難しいことはいらんと思うんだよ」(山田昭義、p.213)と私も思う。そのうえで、だが

 まず。これを書物として評価するか、その書物に書かれている様々について何かを言うか。催しの趣旨からすると「前者」となるのだろう。だとすると、もっと、と思った。
 ここから知れるのは基本的には「公式見解」「公式発表」である。むろんそれも知らない人もいるのだから、価値はあると評価することはできる。けれども、そのうえで、もっと聞き出したりできた、それを試みてよかったと思う。
 それをいろいろに言える。
 ・示されているのは「史実」でなく「論点」であるという説明を受け入れるとしても、それらの「論点」自体はすでに示されてきたものだと思うから、それより先に行ってくれないと、と思う。
 ・ここで主に出てくるのはたんに運動体というのでなく、それとともに(あるいはそれ以上に)事業体である。ならば、それがどのような具合に成り立っているのかがまず知りたいと思う。そして(例えば「共同連」についてそのような研究もないではないわけで、やってやれないこともないのであれば、と思った。)
 ・以下に記すことは上記の二つでは「後者」に関係するのだか、それらを考えようとするとき、その(例えば「論点」の)「取り出し方」。もっとできるのではないか。
 ・そこには長いことやってきてしかも相当(以上)の実績を積んできた、この企画にかかわった人たちにとっては先人たちに対する畏敬の念からも来るものがあるのかもしれない。しかし尊敬しつつ、だから、(相手に)問うたり(自ら)考えたりすることはできるはずだとも思う★01。
 とりあえず以上。

 ※対立・祖語…について★02
 『そよ風…』に掲載された文章(→文献表)で私が書いてきたのは、党・党派に関わる争いである。それはそれとして大切だと私は思っているし、だからそのことを書いてきたのだが――そしてそのことがどれだけふまえられているだろうと本書を読んでも思ったのだが――それ以上に実際に深刻なのは、内部における問題が現われること、さらに、問題に軽く触れておわること、であったりする★03
 そしてそれはどこでも起こる――「かつて」の「政治的立場」を巡る私自身の立場からそのことを言おうというのではない〜実際起こった問題は党とそれに敵対的な党派との争いといったものではなかったようだ。私がかなり長く関わっていた東京都の自立生活センターでも問題は起こった。
 cf.綱領問題
 pp.40-41,76-77,116,143,146-147
 http://www.k4.dion.ne.jp/~minsyu/newpage10asiato02.html
 「ゆたか福祉会三十周年記念事業の中心課題として一九九九年に策定された「ゆたか福祉会綱領」と、その後の「綱領教育」をめぐる混乱。本文中で鈴木氏が「十年ほど前に不正常な時代を経験し」たと語っ▽147 たのもこれにあたる。理事会は二〇〇六年、執行上の誤りと責任の所在を明らかにした上で「綱領」を破棄したが、さらに二〇〇七年、「『ゆたか福祉会綱領』及び『綱領教育』についての総括」を確定した。総括全文は『ゆたか福祉会広報』二九三号(二〇〇七年六月十日)に掲載されている。」(pp.146-147)

 どこであれ、「うまくいく」ことのほうが不思議だと言ってもよい。私はAJUやわっぱの会がうまくいっているか知らない。(共同連の大会で話をさせてもらったおりに「みた感じ」のわっぱの会は「いい感じ」だったけれども。)
 たぶん、深刻になる/ならない条件がある。例えば、「労使」の対立は――話し合いをしても、ときには話をしてこそ――起こりうるのだが、「ここはこういうところだから」と「合わない」人が抜けていってそれで「うまくいく」ことはあったりする※。すると、ならばそのことをどう考えるかを考えようということになったりするのだと思う。
 そういうことを考えるためにも、運動・組織…を研究する記録するというのであれば、生じてしまった問題をもっとみていくべきではなかったのだろうか。

 ※立岩[2005/08/00]にすこし記したことにもかかわる。「効率的」でない人もふくめ同じ賃金でやっていくとする。すると「平均」は低くなる。それでもよいというところで続く場合もある。(実際には単純に同じではない工夫がなされていたりはするのだが。+)それにはなにかしらの「魅力」というものがあってそれはそれでよいと思う人がいて成り立っているということかもしれない〜ならばそれで(それが)よいではないかと、ほぼ私も思う。ただそうしてやっていけるところもあるだろうが、……。というのが立岩[2005/08/00]に書いたこと。

 ※ついでに「共同」「共に」について。もちろん定義による、のだが。
 ・生活をいっしょにするという「共同」について。いっしょにしたい人たちはしたらよいだろうということになる。(そのような関係を(あまり)好まない人についてはそのよちうにしたらよいだろうということになる。)とりあえずこれはこれで終わる。(では「共学」についてはどうなるか。私はそれを基本的に支持する。『私的所有論』の第8章の誰も読んだことのない箇所に書いてある。他に韓国で話した話として立岩[2010/01/19]
 ・「人(たち)が人(たちを)支える(べきだ)」という場合。これも否定されないだろう。問題はそれをどの水準において、手立てによって実現するかである。〜たぶん私はこういうことをずっと考えてきてしまった。その「はて」の一部は『差異と平等』(立岩・堀田[2012])に書いた。自発的な行為(ものの売り買いも定義によってはその一部になる)のつながりが望ましいという立場はもちろんある。しかしそのうえで、という話だ。
 ・私自身は、「共同」が言われた後の時期に(あるいはまだたくさん言われていたが、だんだんとどうなんだろうと思う時期に)いて、書いてきたところがあるから、不当に「共同」に対して辛いところがあるはずである。ただ、基本的には、様々な意味でそれを否定してはいない。

 ※労働というやっかいな課題〜「共に」続き 〜障害者と労働
・「ともに働く」ことについて。いくらか複雑になるが、同様の問題――つまり局所的・自発的に達成される(達成されようとする)よいことが全体としてはそうでない状態をもらたすこと――はありうる。これはかなり複雑な話になるので、当日はたぶんしない(できない)。(商売が上手になるという解はある。しかしそうそううまくはいかないだろう〜とここでは私はあまり楽観的ではない)
 ・より実践的な問題として「社会的事業所」等と呼ばれるもののの可能性について。「志」としてそうしたものが目指すこと、そしてそれがうまくいくことに(誰も)反対しない。問題はそれに対する政府の「優遇」を求めるかである。そこには「選別」が起こる。それでもよしとする。そして「業種」というより、そこに「どういう人」が働くか、どのように働くかによって優遇(の実施・度合い)が決められるものとする。そしてそれは今までも行われきた雇用に対する助成制度とどう違うか――私がこれを「差別禁止」より「古い」ものだとして否定する立場に立たないことは述べてきた。それにも答えようはあるだろう。どのようにして優遇する企業を選ぶか、あるいは差をつけるか。経営に対する意思決定のあり方、賃金等の格差が少ないこと、……とか? そして次に、それはその金を所得保障のほうに(もっぱら)まわすことと比べてどのように有効・正しいか〜有効で正しいと言いうるとは思う。
 ・(例えば職員との)関係の非対等性がないこと。仕事をするという場合に、指図する/されることのすべてが(それ自体望ましくないとしても)否定されることはまずない。そうしたことがあることを前提としたうえでその妥当性が問題にされることが通常。ということと、サービスを利用する〜援助されるにあたっての関係の問題はまた分けて考えた方がよい。
 加えると、「対立」を言うことは(私は言ってきたが)、それが望ましいと考えていることことではない。普通にそれは望ましくない。しかし「あるもの」「ある可能性があるもの」を「ないことにする」のはなおよくない。そこのところが整理されていない発言が何か所かにあるように思った。以下はそれともまた少し違うことだが↓
 「契約制度で対等平等を強調するということは、ある意味では対立関係じゃないですか。対等関係というのは独立したものが対峙するわけですから、共同性の破壊なり後退なりということが非常に表に出てきた、全国的に見るとね。」(鈴木清覚、p.134)
 なおこれは「措置から契約へ」という流れに対する評価である。個々人への個々のサービスを算定するのでなく「ざくっと」金を出すというふうにした方がよいということはありうる。ではどうするかといったところが考えどころになる。

■註?

★01 私が今まででいちばん熱心に書いたのは(「共同連」大会の開催にも関わったことのある)高橋修――山田さん※とのことでいうと、山田、中西正司、高橋らが英国に行ったときについていったことがある(1997年、滞在中にダイアナ妃が亡くなった)cf.立岩[1998/06/25]、高橋さんはその翌々年、1999年に急逝した――についての文章「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」(立岩[2001/05/01])であったかもしれない。私は高橋を尊敬してきたし、今もしている。だからこそそこから何を言えるかと思って書いた。横塚晃一の本の「解説」(立岩[2007/09/10])もそうだった――ただそれは、かなり難しく、苦労した。そして、この二人(に吉田おさみを加えて、前世紀の三人、にしてしまうこともある。尊敬するから自分で書くということがある。いやそんな(=自分で考えるなんて)ことは後の後にして、まだ話が聞けるなら、聞くこと、聞くときに言葉を挟むことはできる。たしかに「考察する」のは本書の目的ではないのだろう。ならば、相手は生きているのだから、聞くことはできる。私が横塚や吉田を知るようになった時、その人たちはもう生きていなかった。(高橋には三度のインタビューの記録があった。)
 ※本書から得た新規の知識はまず山田さんの「受傷」のことだった。昨年宮崎でやはり、海で…という人に会ったりもしたもので…。
★02 思想と運動、運動と事業、…の間の葛藤があったりする。それ以前にどういう理念で行くのかについて悩みがある。例えば高橋はそのことを、あまりこちらが聞かなくとも、たくさん語ってくれた。
 ちなみに、 本文?にも書いたことだが、「対立」をどの水準で捉えるかという問題があり、本書ではそうしたあたりに「つっこみ」が入っていない(入りきっていない)という印象を受ける。例えば障害者と健常者、職員と通所者・利用者…の間の「対立」について。そのよしは別として――よしあしでいえばそれは望ましくはないのだろう――その現実がある場合、現実の可能性がある場合に、それを考慮しないのはよくないだろう。そのことをくみこんだ仕組み・制度にしていく必要が(残念なから)ある。また議論にしてもそういう対立・差異の契機があることの自覚から始めていこう。そういうことだ。その意味でまっとうを運動をやってきたところに「徒に対立的に」とらえてきたことがあったとは思わない。そうした水準で、希望と事実の差異が曖昧になっているところがあると感じた。こういうところを問うていくこと。
★03 それが「内部」の記録として残されることも、まれにだが、ある。
 「とんでもないと思ったのは、前記『生の技法』を書いている時に読んだ、かつての「青い芝の会」の機関誌、とくに神奈川県連合会の『あゆみ』だった。うちわで大喧嘩をやっている総会の議事録がえんえんと再録されているのだ。[…]
 もちろんきちんとした活動報告はそれとして必要である。総会の議決事項があり、予算と決算がある。これはこれとして伝える義務はある。きちんとした組織であればあるだけそういう部分が多くなる。それは仕方がない。ただ、政党にしても宗教団体にしても、よほどそれに「ぞっこん」という人でなければ、組織からの発信、組織としての発表に、うちわで盛り上がっている雰囲気を感じてしまい、ときに虚しく思え、冷めてしまうことがある。大本営発表という言葉もある。すべてが円満に行っているならなにも言うことはないのだが、実際にはそんなことはそうない。メディアは議論の場、対立の場でもありうる。収集のつきそうのない対立が表に出ることは組織にとって痛手であることもあるだろう。互いに顔の見えないメイリング・リスト等では泥沼の争いになることもある。だが、喧嘩や対立の中にときにとても重要な論点のあることがあり、それが運動を前に進めることもある。少なくとも私はそういうところから受け取るものが多かった。」(立岩[2001/12/01])
★** 「左」の間の争い(A・B)、とそれに加わらなかった部分(C)とときにそれほどの違いはない(、のだが)争いにも争わなかったことにも、ときにCとそうでない部分とたいした違いがないことにも、理由はある。ここはここでは略すが、以下すこし。
 「政治的立場」が必要である/でない(有効である/有効でない)場合はそれぞれいくつかある。「革新」の側が正しい〜自分たちの立場に近いとしても、その勢力に政治力がなければそちらについても無駄だということがある。そして障害者のことについてはいろいろの人たちが少なくともいくらかは支持してくれるということがある。そちらの方についた方が実現性が高いということはある。例えば「全国重症心身障害児(者)を守る会(親の会)」といった組織は(今は知らないが)(実質)そうやって(「誰とも争いません」と言いつつ、政権をとっている側に訴えて)(とるものをいくらかとって)やってきた。「政治」を言わない方がとれる場合がある。ではそれは何に訴えてとってきたのか。等々。
 関連して以下2つ。
★** 大学の関わりについて。日本福祉大学というこの業界では古く大手の大学が大きくかかわっていたことは確かであり、それはいくらか本書でも書かれている。ただ他にも、例えば名古屋大学出身で共同連にも関わってきた花田昌宣さん(たち)などがいる。精神障害の関係では名古屋市立大学との関係もある…。これらは日本福祉大学系列△の動きとはまた別のものである。
★** 結核・ハンセン病療養所における運動が嚆矢であったというのはまずはその通り。ただそれを朝日訴訟――が重要な意義をもったのもの通り――……というラインで見ていくと、見えてこないものがある。それで私たちはものを書いてきたのでもある。それにしても『患者運動』(長宏)以降このような題の本がないというのは、よろしくない、私たちは怠惰であってきたと思う。


■文献

大野 萌子 2014/05/01 「私の筋が通らない、それはやらないと」(インタビュー 聞き手:立岩・桐原尚之・安原壮一),『現代思想』42-8(2014-5):-
 大野への言及:p.249
◇立岩 真也 1998/06/25 「どうやって、英国の轍も踏まず、なんとかやっていけるだろうか」,『季刊福祉労働』79:12-22
◇―――― 2001/05/01 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]
◇―――― 2001/12/01 「つたわってくる・つたわっていくことのおもしろさ――一人の読者から」,『ノーマライゼーション 障害者の福祉』21-12(2001-12):9-12
◇―――― 2001/12/25 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』37-3:208-217(国立社会保障・人口問題研究所)→『希望について』
◇―――― 2005/08/00 「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」,共同連』100→『希望について』
◇―――― 2005/12/26 「限界まで楽しむ」
 『クォータリー あっと』02:050-059『希望について』:108-125
◇―――― 2007/09/10 「解説」横塚[2007:391-428]
◇―――― 2010/01/19 
「ただ進めるべきこと/ためらいながら進むべきこと」 [English][Korean],Special Education and Multi-Knowledge Convergence 於:韓国・大邱大学,
◇―――― 2014/04/25 「もらったものについて・12」『そよ風のように街に出よう』86:44-49
 ※「名古屋パネル」の話がいっしゅん出てきます〜当日の「本題」とは関係ないです。
◇―――― 2014/12/25 「もらったものについて・13」『そよ風のように街に出よう』:87
◇立岩 真也・堀田 義太郎 20120610 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社,342+17p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02, f04
◇横塚晃一 2007 『母よ!殺すな 新版』,生活書院
◇全国自立生活センター協議会編 2001 『自立生活運動と障害文化』,現代書館

・cf.これまでの名古屋での
◇2006/10/15「死の決定について」,第3回東海地区医系学生フォーラム「医療における自己決定を考えよう――あなたは「尊厳死」を望みますか」 於:名古屋市
 *このときに赤堀政夫氏・大野萌子氏に初めてお会いする
◇2008/08/23「なおす/なおらないことについて」(講演),日本リハビリテーション医学会中部・東海地方会 於:名古屋,
◇2011/10/01 司会,災厄に向かう――阪神淡路の時、そして福島から白石清春氏を招いて,障害学会第8回大会・ 特別企画トークセッション 於:愛知大学
◇2011/10/01 大野萌子氏に対するインタビュー,於:愛知大学,於:愛知大学


UP:20150327 REV:20150328, 29 
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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