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精神医療現代史へ・追記13

連載 110

立岩 真也 2015/04/01 『現代思想』43-8(2015-4):8-19
『現代思想』連載(2005〜)

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『現代思想』2015年4月号表紙

■三月号「認知症新時代」
 本誌先月号が認知症の特集だった。今で言う認知症者は精神病院の隆盛に、ずいぶん以前から、五〇年ほど前からは関わっていたことを長く書いてきて、そして今新たに同じことが起こっている。それで前回、一つは、精神病院の延命策として認知症者への医療・入院が求められていることを書いた。もう一つ、認知症の人の安楽死尊厳死が推奨され、実現もしている。これもそう最近に始まったことではない。その二つを記した。
 前者について。今も精神医療・医療ができることは少ない。先月号掲載の文章を後でも示すが、薬はたいして効かない。そしてこれも当然のことだが、医療が必要・有効なことがあるとして、それはその医療を入院施設で受けることを意味しない。入院すれば生活環境が変わる。それはとくに認知症の人たちによくない影響を与える(ただそのことが医療施設でなくても生活施設・通所施設全般に言えることは当然押さえておくべきだ)。精神医療〜精神病院の必要を言うときに持ち出されるBPSD(認知症高齢者の行動・心理症状:Behavioral and Psychological Symtoms of Dementia)が、入院によって惹起・強化されることが報告される(藤田[2014])★01。つまりかえって――ずっと同じ現実があってその指摘が繰り返されているのだが――有害なことがある。それは、おおむね痛みを和らげ長生きできるようにするという意味での医療を行なってはいない。にもかかわらず精神医療、さらには精神病院が「中核」でありたいと主張するなど笑止と言うしかない。まずはそれで終わりだ。
 ただこれも皆が知っているように、精神病院は別の機能を期待されてきた。そこは閉鎖と隔離によって、抑制を行なえるそして実際行なう場所として機能してきた。そのように求められてきたとは言わないとしても、福祉施設が引き取ってくれない、そしてすぐに退院・対所とはならない施設として求められた★02。
 こうしたことごとが問題にされてこなかったわけではない。しかし取られた策にはさして効果かなかった。そのことを述べてきた。医師を理事長にといった法の改定はむしろ逆向きに作用することにもなりえた。ではどんな方向を目指すのかよいのか、それを言おうと「追記」をしてきた。そして前回、認知症についてたくさんの人が書いた文章が載った。私も冒頭記したことを書いた。その続きが残ったし、認知症についてすこし整理することから、そしてすこし戻ったところから考えて、追記を終わらせる。

■ならないこと・なおすこと
 漠然としかし多く深刻に語られる不安と、かなりの人のごく近くにある現実的な疲労感と、ときにふと伝わる心に染み入るものとがある。それぞれについてものを書くに際しての分担が決まっている具合のようで、三番目のものを語る人たちの語りは「障害の文化」といったものを語る語り方ともすこし似ている。ここでは、(もとから)なおるというものでないことは前提されている。周囲も含めて受容しようという構えの中で語られる。
 しかしそれはなおらず受容するしかないという条件のもとで起こることだとも言える。そうでなかったらどうか。やはり知られているように、他方ではなおす方法を見出す営みが様々になされているし、人々は様々な予防策を、そう深々と信じ切ってということでないとしても、いろいろと試してみたりしている。認知症がどのようなものであるのかざっと見ておいた方がよい。
 […]

■乗り換えること/口出しできないこと
 次に、価値とその変更について。両方を生きる人間において、それぞれに対する価値の変更に問題はない、混在にも問題はないことを述べる。そして、同じ私であっても、認知症者をなくすることはできないことを述べる。
 […]

■仕組みについて
 多くの人たちによって先進的な試みがなされているようだ。「先進的」なところは、そうであるがゆえに、うまくいっている、そうでないところはそうでないがゆえにうまくいかない――多くそこには、最初に始めて、目立って注目されているところはうまくいくが、そうでないところは…、という単純な理由もあるはずだ――ということがときにあることは押さえておいた方がよいとは思う。だが新規なというのでもない、それ以前の構えが大切であることはたしたなことだ。そして、先月号のいくつもの文章に記されているような関わりがきっと大切なのだろうと思う。そして私はほとんどなにも知らないから、加えることはない。ただ、島状になった記憶と自他がうまくおりあっていけたりするとうまくいくこともあるというのはそうなのだと思う。そしてそれは、そうやって生きている人を、別の状態にいた人(かつての私)が決めることはできないのという前節での話にもつながっている。
 ともかく私はケアの実践については何も書けることはないから、以下、ようやく話をもとに戻し、仕組みについて述べてきたことをまとめていく。
 […]

■文献→文献表・総合
阿保順子 2015 「認知症を巡る問題群」、『現代思想』43-6(2015-3):96-106
天田城介 2015 「認知症新時代における排除と包摂――小澤勲の認知症論の位置」、『現代思想』43-6(2015-3):212-230
出口泰靖 2015 「“軽さ”の〈重み〉を身にうけて、“重さ”の〈深み〉にはまる」、『現代思想』43-6(2015-3):170-180
藤田冬子 2014 「病院で治療を受ける認知症高齢者の現状」、『精神医療』75:54-59
東田勉 2015 「「認知症をつくる国」から抜け出すために」、『現代思想』43-6(2015-3):107-113
井口高志 2015 「「できること」の場を広げる――若年認知症と折り合いをつける実践の展開が示唆するもの」、『現代思想』43-6(2015-3):153-169
春日キスヨ 2015 「「男性介護者問題」と介護家族支援」、『現代思想』43-6(2015-3):182-191
Lock, Margaret 2013 Detecting Amyloid Biomakers: Embodied Risk and Alzheimer Prevention. Biosocieties 8:107-123=2015 安斎恵子訳「アミロイド・バイオマーカーの検知――身体化されたリスクとアルツハイマー病予防」、『現代思想』43-6(2015-3):114-130
美馬達哉 2015 「さらばアルツハイマー?――認知症の一世紀」、『現代思想』43-6(2015-3):114-130
三宅貴夫 2015 「認知症の人と介護家族の支援――「認知症の人と家族の会」の設立への私的経験」、『現代思想』43-6(2015-3):204-211
向井承子 2015 「国益としての健康」、『現代思想』43-6(2015-3):46-51
大谷いづみ 2005/03/25 「太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸」,『死生学研究』5:99-122 ※ http://devita-etmorte.com/archives/oi05a.html
大谷いづみ 2005 「太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸」、『死生学研究』5:99-122
佐藤雅彦 2015 「認知症の人といっしょに世の中を変えませんか」、『現代思想』43-6(2015-3):150-152
見国生・天田城介 2015 「認知症の時代の家族の会」、『現代思想』43-6(2015-3):74-95
立岩真也 2008 『良い死』、筑摩書房
―――― 2011 "On "the Social Model"", Ars Vivendi Journal1:32-51
―――― 2013 『造反有理――精神医療現代史へ』、青土社
―――― 2014a 『自閉症連続帯の時代』、みすず書房
―――― 2014/10/24 「そもそも難病って?だが、それでも難病者は(ほぼ)障害者だ」,難病の障害を考える研究集会
立岩真也編 2015 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』(仮題)
横田弘 1974 『炎群――障害者殺しの思想』、しののめ発行所、しののめ叢書13
―――― 1979 『障害者殺しの思想』、JCA出版
―――― 2015 『障害者殺しの思想』(近刊)、現代書館


UP:20150328 REV: 

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