そしてそれは専門職の側にとってはどうか。「現場」の仕事とは異なる知識――を得るための教育課程――を要する仕事として、専門職やその養成者の業界においては自分たちが関与し引き受ける職域と目されたかもしれない。実際にはとくに介護保険におけるケアマネージャーにはそうたいした役割(も金も)を与えられなかったのだが、(当初は)もっと大きな仕事ができるはずだ、そうした職種になってほしいという思惑もあったのかもしれない。
その展開、流れについてはやはり誰かの本格的な研究に譲ることになるが、以下まず記すのはこの動きに対する一部の反応の方だ。市町村障害者生活支援事業なとで経営資金を調達しようともしてきたCIL系の人たちがこれを警戒した。このこともたぶんほぼ知られてはいないから書いておく。私自身が、ほぼ忘れかけていたのだが、それにいくらかの期間関係していたということもある。精神障害者のこととなんの関係があるかと思われるかもしれないが、実は関係はあるから記しておく。
これに反応しなければならないといった話を私が聞かされたのは九七年あたりだったと思う。読むように渡されたのは、まずその前年に出た白澤編[1996]、他に「イギリス保健省原著 訳・著 白澤政和・広井良典・西村淳」と記されている本(Department of Health Social Services…[1991=1997])といった本だったようだ。さきに引用したのはそこに収録されている白澤の文章からであり、そこでは英国ではケアマネジメントが予算抑制の意図のもとで実施され、ケアマネージャーが必要を査定(アセスメント)する者として機能していると書かれ、また日本でも、要介護判定の仕組みのように違いはあるとされつつも、同じ機能を果たしうるものとされていた。第一にこのことに関わる危機感があった。第二に、それとともに「管理(マネージ)」されることについての単純な抵抗感があった。むろんそれは人を管理するのでなく、「ケア」あるいは「ケース」――この言葉をその職に関わる人は「中立的」に使っていると言うだろうし、そのことは認めてよいとしよう――を管理するのだとは再三言われる。しかし、とくに第一点を考えるなら、そう言いふくめられてすむものなのか。
そんなことがあってこの年、高橋修・中西正司・中西由起子・山田昭義が八月末から九月の初めに英国に行った――その間にダイアナ妃が亡くなった。それに私も付いていった。次回はその後のことから記していく。そして、曖昧に等値されたりされなかったりしてきた「相談支援」と「ケアマネジメント」を巡って起こってきたことが、たいへん細かなことでありながら、実は相当に大きく現実を規定していること、そして「精神」の領域は他に比してもそのことから大きく影響を受けていることを示せるはずである。