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早川一光『わらじ医者の来た道』補記1

「身体の現代」計画補足・57

立岩 真也 2015/08/29
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1642545222679125

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last update:20150829

『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』表紙

 →今回のHP版(リンク付)
http://www.arsvi.com/ts/20150097.htm

 発行日は9月10日になっているが、以下の本、数日前から買えます。
◆早川 一光・立岩 真也・西沢 いづみ 2015/09/10 『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』,青土社,250p.
http://www.arsvi.com/b2010/1508hk.htm
 そこでしばらくこの本の紹介を、と思いました。
 今回は、たぶん昨日あたりから書店に出ているはずの『現代思想』9月号(特集:絶滅――人間不在の世界)に掲載されている私の「連載 」第115回「生の現代のために・6」の冒頭部分。つ,まり連載(の今回掲載分の始まり)が広告になっているわけだが、話の中身はつながっているのでもあるから許していただけると思う。以下。
 なお下に記している『京都新聞』の記事は
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20150426000088

「■早川一光『わらじ医者の来た道』補記1
 数日前、『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』(早川・立岩・西沢[2015])が出た。昨年九月号の特集「医師の世界」で早川一光(一九二四〜)にインタビューさせてもらったものを再録し、その月と次の月の連載に書いた「早川一光インタビューの後で」の1と2をかなり書き直したたもの、そして早川の娘でもある西沢いづみの文章他で構成されている。
 次回にもその紹介を挟もうと思っているのだが、今回はまず一つ。この「生の現代のために」のシリーズでも、本人や供給側等複数の関係者が位置づけられるその仕組みによって互いに異なる利害・得失を有することを見ていくのだと述べている。それは現在の保険医療体制のもとで、一方過剰・加害的な供給を許容し他方で必要な供給を抑えてしまう仕組みについて考えてみるということでもある。その時、早川がこの七〇年間様々に行なってきたことから得るもの、引き継げるものがある。そう思って、「後で」という文章を書いた。その趣旨がより明確になるように書き換え書き足してみた。
 そしてそれは、「生の現代のために」に連載が戻る前、「精神医療現代史へ・追記」を十二回に渡って書いたその動機でもあった。そこでは京都十全会病院のことを書いた――それを整理して作る本にさきの「後で」も含めることもいっとき考えていた。その十全会病院は(当時)質のよくないむしろ加害的な行ないをたいへん大規模に行なって、十分(以上)に儲けた。他方で早川らが行なってきたことは種々の困難のもとで行なわれた。後者をただ立派であったと言うだけでは足りない。どうしてそうなってきたのか、どうするのかを考えたいと思ったし、書いたと思う。読んでもらえればと思うし、このことについては次回にも述べる。ここでは少し別のこと、「後で」の前半に書いたことについて。
 この「生の現代のために」にでも「精神医療現代史へ・追記」にでも、おおむね一九六〇年代以降のことを書いている。奇妙なことにも思えるのだが、「先行研究」は明治期であるとかそれ以前とか、そんな時代についての方があったりするから、それはそちらにまかせて、私としてはむしろわりあい新しい部分を対象にしようというところもある。戦前・戦争直後は、関心はあるけれども、私が調べられる時期ではないと思っている。だから今回の早川へのインタビューは、まったくの素人としてうかがったのでもある。
 ただ、その時期にいた早川の先輩格の医師たちの位置はいくらか気になっていた。それは戦前から戦後にかけての社会改革者、左翼をどう見るかということもある。松田道雄太田典礼といった人たちが京都にいた。太田(一九〇〇〜一九八五)が最初に安楽死について書いたのは『思想の科学』にだった(一九六三)。そして松田(一九〇八〜一九九八)は、有名人としてかつがられたということもあったかと思うのだが、「安楽死法制化を阻止する会」(一九七八発足)の発起人であるとともに、若いころと晩年には、別の見解を表明した(立岩[2012b])。加えると、つい先日なくなった鶴見俊輔(一九二二〜二〇一五)は、これも事務局を担った清水昭美の依頼があってのことだと思うが、そして一度もお会いすることはなかったが、二〇〇五年に新たに発足した「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の呼びかけ人になってくれた。
 こうした世代、さらに安保ブントの世代の人たちも含め、反体制運動に参与し地域医療の方に行った人たちはたいへん立派であるとともに、その全てを肯定できないところがある。このこととについて、またそこからの変位について考えてみるというのも『造反有理』(立岩[2013])を書いた一つのきっかけだった。
 基本的には自らが行なうこと、そして自らがそれを行なうことに肯定的であるということ。それにも、既に肯定されており安定している場合と、なかなか認めてもらえずそれで肯定的であろうとする場合と、様々に異なることがある。精神医療そのものがどこまで有効かといったこととは別に、既に医師という職は確立されており、その人たちは安定した地位にいる。その人たちは自らの信じる医療を進める。ただ、確立されているその立場の人は、同時に反省できる人たち、反省できるだけの余裕のある人たちでもある。そうして反省してみせたのが七〇年前後の、拙著の言い方では「造反派」の人たちだ。とくに医療が怨嗟の対象である人たちにとっては、そうした中途半端さ、二枚舌がなおのこと気にいらないのだろうが、それでもいったんは記しておこうと思い、本を書いた。
 それに比べたとき、専門性やら社会的地位をこれから獲得をしたい、すくなくともそれを世間に認めさせたい人たちはそんなことをしている暇はない。確立し、認知させること、看護・看護学はずっとそんなことをしてきた。さらにその上で、精神医療・精神病院の場合、看護者たちは、当初無資格の人たちが多く、その人たちは看護師という資格を得ること自体にずいぶん難儀したのでもあった。そうした人々の動きはまた違っている。自己批判などは贅沢なことだ。阿部あかねがその辺を記している(阿部[2015])。
 そんな中で、早川は、医師の地位だとかそんなことを気にしないでやってきたと思う。そしてそれがよかったのだと思う。そして、偏見かもしれないが、そう素直ではない京都の街中の人々とつきあってきたので、そう偉そうにもなれず、話芸ほか芸を磨く方に行ったのかもしれない。ただその早川であっても、これまでやはり診る側の人ではあってきた。その早川が、これは新聞などでも語っていることだが、いま癌の療養中で、九〇歳を超えてようやく本格的な患者になった。それで初めて死ぬ怖さを知ったと述べている(「わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて」、『京都新聞』二〇一五年四月二六日)。そういうものかもしれないと思う。」



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立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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