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人だけ殺さないことについて(『唯の生』続):死生本の準備15

「身体の現代1」計画補足・54

立岩 真也 2015/08/17
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1638412126425768

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last update:2015


 ※しばらく中断していた「死生本の準備」を再開した。それは整理されまとめられて、『良い死』『唯の生』『生死の語り行い・1』『与えられる生死:1960年代』に続く書籍(電子書籍)になる。
 これまでの「連載」→「「身体の現代」計画補足」
http://www.arsvi.com/ts/20140040.htm
 ※今回は、医療と社会ブックガイド・95(2009)に増補。この第95回の題は「『良い死』」なのだが以下に引用するのは『唯の生』の紹介の続きの部分。増補部分は〔〕内と註。
 ※リンク付きの頁は
http://www.arsvi.com/ts/20150094.htm

 「昨年〔2008年〕出た拙著『良い死』(筑摩書房)に続いて今年〔2009年〕出た 『唯の生』の紹介を前回に始めた。
 一つ、「唯の生」という題に関わり、生と言うに値する/しないという「線引き」に関わることを第1章に書いたことを記した★01
 一つ、他の論者の論を相手にしたこと、論点としては、「自己決定」に「関係」「共同性」を対置する議論を取り上げ、それはまっとうな考え方ではあるのだが、また限界もあるだろうことを書いたことを紹介した。
 他にその本で取り上げた論者には、本連載で著書を紹介した――その部分も本に再録した――〔小松美彦や〕清水哲郎小泉義之がいる。〔第5章「死の決定について」は小松の『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』(1998、勁草書房)を検討している。〕第6章の「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」は、清水の『医療現場に臨む哲学II』(2000、勁草書房)の一部を検討している★02。第7章「『病いの哲学』について」では小泉の『病いの哲学』(2006、ちくま新書)を取り上げた。何を書いたかは略。読んでください。ということで、いったんここまで。」

■註
★01 『私的・所有論 第2版』に新しく付した部分(pp.747ff.)より
 「〔『私的所有論』という本を〕書いていた時から難しいと感じていたことの一つは第5章に書かれたこと、人間の扱いについてだった。
 実際、人間は人間だけを特別に扱っている。すくなくともそういうことになっている。そのことをどう考えるか。別の主張をする人たちがいる☆07。その主張をする人たちは、批判の対象を(ヒトの)「生命神聖性説」であるとし、それは「種差別主義(speciesism)」であるとして、ある人間を遺棄して、ある動物を救うことになる。その「正しい原則」を主張しつつ、多数派はそんな理屈を知っても知らずとも肉を食い続けるから、自らは菜食主義者などになって少数派にとどまる。ただ、前者、つまりある人たちを生きてよい範囲から外す行い(だけ)は実現されることになるといったことも起こりうるし、起こっている――だから外される側の人間にとっては迷惑なことなのだが、「論理」としてはこちらの方が一貫しているのではないか。
 ここで既に躓いているようにも思う。このような主題を相手にするべきなのかと思う。この種の議論に入り込むこと自体がなにか罠にはまっているような感じがする。それでも、素通りはしないことにし、どこが妙に思えるのか考えてみる。『唯の生』([2009a])の第1章「人命の特別を言わず/言う」、その半分ほどのもとになった[2008a]他、幾度か本書第5章に述べたことに加えて考えようとしたことがある☆08。さらにいくらか足してみる☆09。
 まず、間違えやすいことだが、人間の特別扱い(基本、殺してならないこと)を言うために、人間の特別性を持ち出す必要は必ずしもない。たしかに人間が「意識」「知性」を有する存在であるという差異の認識、自己了解は、いくらかの社会・人々にはある。仮にそれが本当だとするなら、それは人間の「特異性」を示すものではあるが、それ自体は、その「優位性」、そしてその人間、正確にはそうした属性を有する人間、さらに正確にはそうした属性を有する存在を尊重すべきこと、殺してならないことを示すものではない。これは、人が属する思想圏がどういうものであるのかと独立に、まったく論理的に言えることである。(これは本節の最初に述べたことが積極的に肯定されるかどうかは別として、その反対を積極的に言う根拠が見出されないということ、そこまでは確実に論理的に言えるということでもある。)
 つまり、その人たちはある特異なものを予め優位であるとしているのだが、その根拠は示されていないのである。また現実にも人間たちがそのことを言おうとする欲望を有していると限らない。実際、多くの人にはそんなものはないと思う。しかしある思想の流れはそのことを言おうとした。つまり、人間の(他の生物に比しての優位性としての、また人間内の優劣も示すものとしての)「特別性」を言おうとし、そのことを言うに際して、意識・理性・知性を言った。そしてそれは、私たちが世界を了解し取得し、そしてそれを(知性・理性によって)改変することをよしとすることにおいて、本書が検討・批判の対象としてきたものに近いもの、あるいはそのものである。
 だから「非人間中心主義」もまたそうした発想のもとにある、その正統な流れを汲む主張であると考えることができる。(あるいは、そこに自省の契機があまりに少ないことをもって、あるものを懐疑しながら進む哲学・倫理学の「本流」から既に逸脱していると言うこともできる。)指定された性質を有しない人間は排除され、代わりにある種の人間外の生物は生存を認められる範疇に入れてもらえることにもなる。それは一貫はしている。そしてそれは、(人間が)生物のある部分を殺す対象としないことにおいて「非人間中心主義」と言えるとしよう。しかしそれは、人間が格別に(たくさん)有していると思われるものを自らから取り出し、それを基準にして人間が選別し、その特権性・その性格を有する存在の保全を自ら主張する。そして、その規則の遵守を求める主体は、そして実際に遵守することを求める対象は人間に限られる。その規則に従うことを他の生物には免除する。これらの点でまったく人間中心的なものである。大量の生物を食する鯨はそのことを責められることはない。殺すことの禁止から免除されている。鯨が食べる極端に大量のオキアミは下等な生物であるからそれを食べるのはよいのだとでも言うのもしれないが、仮にそれを認めても、もっと大きな動物を食べる鯨もいる。チンパンジーも、より平和的な種であるとされるゴリラも、殺し合うことがあるという(山極寿一[2007])。非人間中心主義者たちは、その動物たちに、殺さないという道徳の履行を求めることをしない――もちろん実際にそれは不可能なのだが。人間の特権主義を否定するという立場そのものがとても人間的なものである。
 そんなことを言われても困ると言われるか、困惑以前の反応しか得られないとして、それ以前に反応が得られないとして、それも当然ではある。それはその倫理学がそのようなものとして、つまり人間のものとしてあるからである。(たしかにそれ以外は不可能ではある。しかしこのことにどの程度自覚的であるかによって、それが言うことに違いは出てくる。)
★02 「書評:清水哲郎『医療現場に臨つ哲学II――ことばに与る私たち』(勁草書房)」(2000/10/06『週刊読書人』2356:4)を付している。
 「その論の中身はどうか。うまくいっているところと詰めきれていないところと両方が、右に紹介した論点も含め、各章にある。」
 書評紙と呼ばれるものも含めこの国の新聞他の書評欄に「書評」を書くことは、単純に分量の問題から、まずできない。だからきちんと論じようとすれば、ひとまとまりのものを別途書くしかない。そこで『現代思想』2004月11号(特集:生存の争い)「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」を書くことになった。それを『唯の生』に再録している。
 なお私と清水は幾度か対論?をしている。記録が残っているものも残っていないものも。ある。別途紹介する。そして、清水と私の議論については安彦一恵の「「安楽死」をめぐる清水・立岩論争のメタ倫理学的考察」という論文があってウェブ上でPDFファイルで全文を読める→[PDF]。私はこの論文があることは前から知っていたが今に至るもきちんと読んでいない。今度こそ読んで何か書こうと思う。

■言及

◆2015/08/17 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/633225938235355136
 「人だけ殺さないことについて」→https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1638412126425768 『唯の生』第1章「人命の特別を言わず/言う」、『私的所有論 第2版』第5章「線引き問題という問題」→補章・1の第2節「人に纏わる境界」の2「殺生について」3「人間の特別扱いについて」


UP:20150817 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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