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『唯の生』:死生本の準備14

「身体の現代」計画補足・53

立岩 真也 2015/08/03
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last update:2015


 ※しばらく中断していた「死生本の準備」を再開する。それは整理されまとめられて、『良い死』『唯の生』『生死の語り行い・1』『与えられる生死:1960年代』に続く書籍(電子書籍)になる。
 これまでの「連載」→「「身体の現代」計画補足」
http://www.arsvi.com/ts/20140040.htm
 ※今回は、医療と社会ブックガイド・94(2009)に増補。増補部分は〔〕内と註。
 ※リンク付きの頁は
http://www.arsvi.com/ts/20150093.htm

 〔『看護教育』での、2001年から始まり2009年に終わった〕連載の最終年は手前味噌に徹するということで、今回からはさらにその度合いを増し、失礼ながら、私の単著を紹介させていただく。
 2008年の9月に『良い死』が筑摩書房から刊行された。〔2105年にコリア語版が出版された。またお知らせする。〕この3月に刊行された『唯の生』はその続きということになる〔現在は版元品切れ→テキストファイル販売中〕。一冊目の本で死ぬ話を、二冊目の本で生きる話をしているわけではない。死を巡る「決定」について書いた文章が並んでいる。そして背表紙を並べた時の見栄えを考えた語呂合わせのようなところがある。
 当初、本連載の一部(2001年の「死の決定について」1〜4、2004年から2005年の「死/生の本」1〜6、等)を含め、本の紹介を入れようと考えたのだが、到底入りきらないことがわかったので、これは3冊目ということにした。『生死本』という題――2冊にはそう予告してある――にして並べると、上から読んで「生死本」、右下から読んでいくと「死生本」となる。しかしなんだが下品な感じもして、やめようと思う。3冊めは、共著という形の採用も含め、2冊とは少し別の体裁のものにしようかとも考えている★01
 ただ漢字を混ぜた『唯の生』という題を思いついた時には「いいかも」と思った。「ただのせい」と読む。宇野邦一一に『<単なる生>の哲学』(2005、平凡社)という本があり、それが出た時、「先に使われたかな」という感があったのだが、まったく同じにはならずにすんだ。
 「ただの」という語には「たかだか」といった意味がある。その「たかだか」が、あるいはその「たかだか」こそが大切であろうというのである。そしてまた「唯」は「たった一つの」「それだけ」という意味もある。「唯物論」「唯心論」といった語を連想させるのでもある。「唯生論」などというものを打ち出そうというのではまったくない。ただ、かつてあったそれらの言葉を想起されるような漢字を使うのはよいと思った。字の形としてもよいように思った。それで使うことにした★02
 そこで、いつもそうなのだが、対応するよい英語が浮かばない。今その関係の仕事をしてくれている人に付けてもらったのは「Sole Life」というのだが、たぶん、すこし違う感じがする。そもそも適切な訳語がないのかもしれない★03
 冒頭に記したようにこの本は、2冊合わせて、所謂安楽死・尊厳死のことを論じた本だから、「生」「唯の生」について論じたものではない。というか、生はなにか積極的に規定できるようなものではなく、またできなくてよいものだから、たいして書くこともない。むしろ生の中にあるなにかが良いものだから生が肯定されるという考え方が人を苦しめもするし、死なずにすむ人を死なせもすると考える。だから、生を積極的に語るというより、むしろ生の中のなにかを取り出してそれに肯定性を付与する(同時にそのなかにを有さない生に否定的である)ことについて、そうでなければならないのかと考えていくというのが基本的な方向になる。
 では私は、いわゆる物理的生物学的生存自体が肯定されるべきであるという立場、それと同じなのか微妙なところもあるが、「生命絶対尊重論者」だということになるか。そうでもない。長い本のわりには短くではあるが、何箇所かで関わることを書いてはいる。
 一つは『良い死』の第3章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」の第7節「肯定するものについて」。そして『唯の生』では、第1章「人命の特別を言わず/言う」の第4節「別の境界β:世界・内部」。
 「唯の生」というぐらいで、たいしたものがあるとか、また要るとか、思えない。なにを外に向けて発するというのでないとしても、なにかを受領しており、そこに世界があるなら、それでよいではないかといったことが書いてある。
 ただこれもまた一つの「線引き」であるのは確かである。生にいくらかの「内容」を想定している。この意味では、私がこれらの本で相手にし批判している人たちの主張と私の立場の差異は相対的なものでもある。しかしその程度の差が大切だと考えていて、これらの本を書いている。
 そして、ここまでだけなら短い話なのだが、しかし、「それは一つの見方、価値、趣味にしかすぎないのであって、それを押しつけるなどは横暴である。一人ひとりに委ねるべきである」といったことを言う人がいるだろう。するとこの問い、詰問に答えねばならない。それは『良い死』の方の第1章「私の死」で考えてみている。こうして話は終わらず、続き、長くなってしまう。
◇◇◇
 次に、今度の本では、今あげた問いかけにどう答えるのかといったことにも関係し、幾人かの人の論を検討している章がある。
 これまで私は、誰かの議論がどうであるといったことをあまり書いてこなかった。それに意味がないなどと思ってきたわけではない。ただ費用対効果を考えた場合、ただ考えて書いていくのと、読んでから考えて書いていくのと、どちらの方がよいのかということがある。どちらがすっきりした話ができるかということもあった★04
 まず、この世にある論のかなりの部分にはなにかしらの型というものがあって、多くはそこにはまっているので、誰が言ったのかといったことはさほど大切なことでなく、「一般にこんなふうにものごとは論じられているが、さてそれはいかがなものか」という具合に話を進めていくことができる。それで具体的に誰かをあげて論ずることはあまり必要でなく、あげるとすれば、典型として例示すれはよいといった場合がある。
 次に、そう一筋縄でいかず、相手側の話がまずはなかなかに複雑でそして深淵そうであるのだが、よくよく考えてみた結果、考えるだけ無駄だったということもないではない。ならば最初から放置しておけばよかったかもしれない。ただ、時間を使って考えてみないとわからないというところがやっかいだ。どうするか。やっかいそうだから、他の人にやってもらうという手がある。哲学者なら、その人の相手をする仕事は哲学者の仕事だろうということにもなる。
 こうして私はおおむねさぼってきたのだが、そうでありながら同時に、誰かの論を検討し批判するということがあまりなされてもいない、もっとなされてよいとも感じてきた。それなりに苦労して書かれ、まとまった議論がなされている本をそのままにしたり短くふれたりするだけというのはもったいない。しかし長い書評を載せる媒体が少ないこともあり、十分な論評がなされていない本が多い。
 書いた時にそんなことを考えたからではないが、私にも他の人の著作を検討した文章がある。そして振り返ると、それは今回の主題に関係している。それで再録した。再度考えて書き直したら、たいへんそうに思えたということもあり、また基本的にはそう間違ったことも言っていないだろうと思い、そのまま再録した。文献情報など後で加えた部分についてはそれがわかるようにした。
 そういった章としてまず第5章「死の決定について」がある。小松美彦の論を検討した章だ。
 「自己決定」ばかり言われることに疑問を感じるとしてそれをどう考えるか。「自己」「個人」の代わりに「共同性」をもってきたらよいのではないか。それはよくわかるように思えるとともに、それでよいのだろうかとも思える。そんな議論が展開されているものとしての小松の『死は共鳴する』(1996、勁草書房)がある。それを検討してみるのもよいのではないか。それでやってみた。それが『所有のエチカ』(大庭健・鷲田清一編、2000年、ナカニシヤ出版)に収録され、『唯の生』に再録された。またこの連載で小松の著作を紹介した回も再録した★05
 そしてその本の第1章「人命の特別を言わず/言う」の第2節「関係から」。そこでは加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』(2007、日本放送出版協会)を検討している。この部分は、2008年の本連載で3回に渡って書いた部分にいくらか書き足してできた。加藤の本は小松の著作の後に書かれているということもある。そしてそんなことよりなにより、加藤は一貫して個が個であることを重く見てきた人だ。だから加藤はより慎重で周到な議論をしているのだが、そのうえでなお、その本では「関係」からの議論を展開している。だからそれは検討・検証するに値する。それで検討した。
 誰かの存在、そして生死が周囲の人々に大きな意味合いをもつことは事実としておおいに認めよう。そしてそれを大切にすることも必要だ。しかし例えば、人と関係がない人、よくない人もいるだろう。その個々の関係によって「決める」のはよくないだろう。こんなことを書いた。それは『良い死』の第2章5節「思いを超えてあるとよいという思い」に書いたことにもつながっている。(続く)

■註
★01 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』(立岩・有馬[2012])の序文。
 「「安楽死」「尊厳死」について、立岩は『良い死』と『唯の生』(ともに筑摩書房、二〇〇八年・二〇〇九年)の二冊の本に書いた。それから基本的に言うべきことに変わりはなく、とくに足すべきこともない。ただ、それらで、もう一冊、関連する本・言論を紹介する本を出すことを予告していた。もとになる原稿はその時にほぼ一冊分あったのだが、他の仕事・事情が様々あったりもして、まとめる時間がなかった。ただそろそろ出せねばとは(いつも)思っていた。そこで、なんとかその仕事をして、刊行してもらおうと考えた。ただ結果、当初考えていたのと違う本になった。そこで、その事情と本書の概要を。
 それらの本が出る前、二〇〇四年から二〇〇五年頃にかけて「尊厳死法」を作ろうという動きがあった。(その時のことは『唯の生』第2章の「近い過去と現在」、第4章「現在」に記した)。今年(二〇一二年)になってまた法律を作ろうという動きが出てきている。(九月に閉会した国会には法案は出されなかった。)取材依頼などいただくと、本を読んでください、とすませるわけにもいかず、同じことを手短かに話したり、書いたりといったことをすることになっている。第T章ではそうしたものを中心に幾つか再録した。
 これまで法律化の動きはこのたびのものを含めて三回あった。その(二回目までのものについての)経緯については、今記した『唯の生』の第2章――そこで日本尊厳死協会(その前は日本安楽死協会)等についても紹介している――と第4章に記したのだが、本書第U章では各々の時の法案とそれに関わる意見を幾つか収録した。今回の三番目については、それまでより「障害者関係」の団体が動いている。(法律化を推進する人々はこれは障害者とは関係ないと言うのだが、そんなことはないことは本書を含む三冊でも示した。)また『現代思想』の二〇一二年六月号の特集が「尊厳死は誰のものか――終末期医療のリアル」で、(その時点での)現況を伝えている。
 第V章では、有馬斉がバイオエシックス(生命倫理学)における肯定論を紹介してくれる。有馬に書いてもらうことは一昨年か昨年かから決めていた。読者は、同じ主題であるのに、なんだかまったく異なった世界があるように感じるだろう。そう、そのように世界はできている。ただ関係はしている。どこがどうなって、話が違ってくるのか考えてみていただきたいと思う。
 […]
 『看護教育』(医学書院)で、二〇〇一年から二〇〇九年まで毎年十一回、計一〇一回、本の紹介をした。最初は、それを使い、補って、本を作ろうと思った。というかその連載はもともと、本の紹介の本を依頼され、そのためには原稿がいるから、そのために始めたものでもあった。その企画自体は、出版社の栄枯盛衰に関わる事情で宙に浮いたのだが、やはり本があってもよいだろうと思ってもきた。そのから「生死」「死生」に関わる本を紹介した回を使い、註を新たに付して本を作る。それが最初の計画だった。ただ今回は、手にとりやすいよう全体の分量を抑えるため、九回分にとどめた。残りは次にということになる。今回とりあげたもの、とくに日本の著者のものは、肯定的でない方に偏っていることを断っておく。例えば清水昭美は、さきに三度と述べた法制化のうち最初と第二回――その間に約二五年が経っている――の法案の「阻止」の際、その活動の実務をほぼ一手に引き受けた人である。ただ、その次に紹介する松田道雄は初回の一九七八年に「阻止する会」の発起人だったが、後年賛成の立場に転じた人――実際はさらにもう少し複雑だった――人である。
 そして、断片的にではあるが、「海外」における反対の運動――その大きな部分は(日本でのこのたびの、つまり三度目の動きへの動きと同様、障害者たちによって担われている――を紹介している。しかし、今回は急いでの出版になるために、断片的にでしかない。もう少し詳しい知りたい人は、ホームページに情報がある。また今後増補の機会があればと思う。
 先に記した二〇〇四年頃、出来事を追い、字を扱うのが(人文社会系の)学者の仕事で、その分他の仕事ができない(ことになっている)のだから、できることはした方がよいのだろうと思い、まず数日かけてホームページを増補した。(「生存学」http://www.arsvi.com/「安楽死・尊厳死」――表紙では「良い死?」という項目になっている――というファイル(ページ)からつながるファイルたちである。それからもぼつぼつと続けた。それらが収蔵・掲載されているHPは二〇〇七年から(二〇一二年まで)グローバルCOE「「生存学」創生拠点」(今は「生存学研究センター」)のホームページになって、関心のある大学院生他がリサーチ・アシスタント等として増補してもくれた。それで現在、直接に関わる(「et」で始まる)ファイルが一一〇ほど、計6メガバイトほど。これに本の目次のファイルやら、太田典礼、松田道雄といった人物のファイル等を加えるとさらに多くなる。文字の部分を取り出しても何冊か分にはなっている。(〇・五メガバイトほどテキスト・ファルルがあると本ができる――安くして手にとりやすくしようともくろんだ本書の文字量はさらに少ない)。
 ただそうした資料は――とくに私(たち)のように工夫が足りない場合――やはり羅列的かつしばしば断片的であり、よほどその主題に入れあげないと読み込むのは難しい。難しくなくともその気になれない。一つには、私にはこう見える、思えることを書いて読んでもらう。それは一つの物語ではあるが、物語だから、それに反対することもできる筋をもったものとして読んでもらうこと、考えてもらうことができる。さきの二冊の本はそうした本だ。本書もどこからでもばらばらに読んでもらえるものでありつつ、「こんな感じ」と(すくなくとも筆者は捉えていることが)わかるようになっている。
 ただ他方で、本に書ける量は限られている。これで同じ(ような)主題で三冊、というだけですでに顰蹙ものである。どうしたものか。
 このたびに限らず、そのことをときどき考えることがあった。とくに日本語の本はすぐ厚くなってしまい、書くべきことを十分に書けないことが多い。しばしば、事実を伝えるのにも中途半端で、考えを展開するのも中途半端になってしまう。そうした半端な書き物が多い、多すぎると私は思ってきた。(それは、たんに書籍にする際の制約というだけのことではないと私は思っているのだが、そのことに関わる愚痴はここではよしておく。)そこで、詳しくは、個別のことについてはHPでということにしたのでもある。また情報は新しく加わる部分があるが、毎年本を書いて出してもらうのは難しい。そこで基本的な筋が使えるものである限りは、本は本として残してもらい、新しく起こったことやわかったことはホームページに載せるというやり方がよいだろう。そう思った。本書に出てくる書名や人名を検索してもらえばよい。多く貧弱で失望してしまうとしても、何かは出てくるはずだ。
 ある筋をもつ文章はそれとしてあった方がよい。またある分量以上の文章は本になった方がよい。同時に、関係する資料はそれとしてホームページで読めたらよい。そして両者の行き来がたやすい方がよい。そんなことを思っていた。すると、近頃は電子書籍がようやく日本でも普及し始めた、らしい。その中の言葉から直接にHP上のファイルに飛んでいけるようにできるらしい。そこで、本書を電子書籍としても提供する。(まずは試験的に。HPで本書の書名で検索してほしい。)
 私は多くのことを知らないが、それよりもなお知らない人がいる。むろん、なんでも覚えていたらたいへんで、人はたくさんのことを忘れるし、忘れたらよい。しかし、そうとばかりも言ってられない。例えば二〇〇三年に要項が作成され、二〇〇五年に出されると報道された法案は、一九七八年に日本安楽死協会が作った「末期医療の特別措置法案」のほぼ蒸し返し、おおむね同じものである。
 推進する側(の一部)には連続性がある。あの時実現しなかったことが、時代が変わり、今度こそと思っている人もいるだろう。だが、賛成の人も、よくわからない人も、また批判的な人も、多くはそのことは知らない。それはよくないと思う。その時は提出されなかったものが、今度提出されそして通るとしたら、それはかつても正しかったことがようやく実現されるということなのか、そうでないのか。何かが変わったのか、そうでないのか。そんなことも考えられないまま、ものごとが決まっていくのはよくないと思う。「現代史」を辿ることが、いやでも必要になる。本書の最後に「カレン・クインラン事件」を丁寧に追った香川千晶の本の紹介を置いたのもそんな思いがあってのことでもある。
 ただ本の多くはすぐに品切れ・絶版になってしまう。今は出ていないものに紹介すべきものがある。紹介する本が買えない本ばかりでは困る。ただ、図書館にあれば借りることはできる。そして、これは次の本で明らかにされることの一つだが、あきれるほど同じようなことが繰り返し語られてきた。「死について語ることを避けてきた」という話が、繰り返し、もう三十年以上、語り続けられている。だいたいこんなものだ、ということをわかってもらえたらよい。そして、中に読まねばと思うものがあったら――あるはずである――読んでもらったらよい。」
★02 『現代思想』でさせてもらっている連載の第85回(『現代思想』41-1(2013-1):14-26)で「素朴唯物論を支持する」という文章を書いている。
★03 この本の英語による紹介の頁はこのままの題になっている。他の種々の文章を訳してもらう際の難しさを思ってのことだが、それに比べれば、わるくないように今は思っている。
★04 『自由の平等』の「あとがき」より。
 「幾人かの人の名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐわかるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っている人に教えてもらえばよいと思った。この本は勤務先の立命館大学の大学院、先端総合学術研究科の講義他で使うことになるだろう。その大学院で私は「公共」という領域にいて――他に「生命」「共生」「表象」という領域があって、それぞれ変わった人たちがいるのだが、「公共」だけをとっても――西川長夫と後藤玲子という何かしらを共有しつつも▽349対照的な二人の狭間で、というかその幅から学びながら、仕事をしていくことになる。多分これからは一人でできる仕事より、共同の作業としてなされるべき部分が増えていくだろう。「学際的」共同研究、研究プロジェクトなどというものがうまくいったためしはまずないのだが、それは一つに、偉くて忙しすぎる方々が集まっても忙しすぎて何もできないことによっていた。そんな方々(ばかり)ではない人たちと、つまり大学院に入院してくる人たちと仕事をしていきたいと思う。本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たちに呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。とはいえ紙数のこともあってまったく十分なものでない。ホームページ等を利用して情報を追加していく。」(立岩[2014:348-349])
★05 3冊の本で紹介・言及してきた書籍の後の著書として『生権力の歴史――脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』(小松美彦[2012])がある。

加藤 秀一  20070930 『〈個〉からはじめる生命論』,日本放送出版協会,NHKブックス1094,245p. ISBN-10: 4140910941 ISBN-13: 978-4140910948 1019 [amazon] ※ b〈T:210,U:33,68,69〉
◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et.
◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01. et.

■言及

◆2015/08/03 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/628179610061017088
 「https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1633299920270322「『唯の生』という題を思いついた時には「いいかも」と思った。「ただのせい」と読む。宇野邦一一に『<単なる生>の哲学』[…]という本があり、それが出た時、「先に使われたかな」という感があったのだが、まったく同じにはならずにすんだ。」


UP:20150803 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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