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摩耗と不惑についての本:死生本の準備13

「身体の現代」計画補足・29

立岩 真也 2015/05/16
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1598267680440213

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医療と社会ブックガイド・40(2004)に書いた原稿のもとになった(字数を間違えて長くなった)原稿を改稿

 社会学者が書いた本をとりあげる。一冊は1967年とかなり以前に出た本で、『病院でつくられる死』(Sudnow[1967=1992]◎)。(訳書には原著の出版年等が記されていない。これはよくない。)知っている人には有名な本で、著者は、第15回(2002年4月号)で著書をとりあげたゴッフマンのいた大学院でまず勉強し、そして「エスノメソドロジー」という流派の影響を受ける、あるいはそれを作ってきた人でもある。ゴッフマンの社会学とエスノメソドロジーとどこが違うかといった議論もあるが、私はこの辺のことはよく知らず紹介には不適ゆえ略。
 もう一冊の『ケアの向こう側――看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』(Chambliss[1996=2002]◎)はわりあい新しい本で翻訳も2002年。『ナーシング・トゥデイ』に連載された翻訳がもとになったという。
 いずれも医療機関で(非参与)観察したり、医療従事者にインタビューして書かれた。とくに後者は看護職者を対象に調査して書かれた。
 いずれも内容は読んでのとおりで、わかりにくいところは何もない。同時に特に新しいものを得られたという感じも私はなかった。今読むからということもあるかもしれない。サドナウの本が出て40年近くたち、そこに書かれたことが様々に言われ常識になったこともあるだろう。そして現実は現実的に作られているのだという、そこにいる人はうんざりするほど知っている世界が描かれる。
 似た題で例えば『病院で死ぬということ』という本があった。『病院でつくられる死』の1000倍までは行かないにせよ売れた。あれは感動する。サドナウのは感動しない。読んでしみじみとする本をこの連載で紹介しないことに特に意図はないが、たしかにこの本も感動する本ではない。心が洗われたり元気になったりもしない。そんな本はどのように読むか。
 自分で気になることがあり、その関心から読んで考えるという使い方がある。私は今ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人のことを書いた本の原稿の仕上げにかかっている〔後に『ALS――不動の身体と息する機械』(2004,医学書院)として刊行された〕。死ぬこと(を決めること)について書かざるをえない。それで死と病院や医療者の関係が気になり、その人たちの死への「慣れ」が気になる。「感情労働」「感情管理」にも感情の表出に関わるものと抑制に関わるものがあり、特に看護という仕事は両方を同時に要請されたりすることに悩ましいところがあるのだが、これは感情が低下する方の問題だ★01
◇◇◇
 サドナウの本全体がいかに人が死んでいくことが病院で普通のことになっていくのかの仕掛けを記述することにあてられている。ただすべての病院で同じく死が扱われるとは言えないだろう。著者は最後の方で、彼が調査した病院が「慈善病院」であることへの注意を促している(301)。このことは第31回で紹介した向井承子の本〔その紹介に加筆して『生死の語り行い・1』(2012,生活書院)に収録した〕に書かれていたことにも関わり大切なことだ。
 読んでいくと「安楽死」に関わる記述もある。「死につつある期間の苦痛を短くするために、ある種の積極的な介入によって生命活動を意図的に停止される活動」である「「純粋な形態」の安楽死の例は、都立病院でもコーエン病院でも全くみいだせなかった」(154)とされる。ただ、痛みへの対応は行うが治癒を目的とした医療的処置は止める「終末期医療<ターミナルケア>」は普通のこととして行われていると言う。
 次のような記述もある。「医者の立場からすれば、患者が昏睡状態か死ぬ直前の段階に入ると、その症例はもはや医学的関心を引くものではなくなる。そして、ひとたび「終末期医療<ターミナルケア>が開始されると、治療しようという熱意が冷めてしまう。そのような患者に対するケアは、本質的に看護職員の扱う事柄と見なされ、医者は患者への興味を失う。病状を改善する可能性がもはや望めないところまでくると、診断とそれに続く治療活動は、修業中の研修医やレジデント医によって努力目標ではなくなってしまう。つまり医者としての技能を証明し、半ば実験的な学習機会に参加する場ではなくなってしまう」(154)
 次に、チャンブリスの本の第1章は「不幸のルーチン化」という章で、さらにこの本全体がそのことについて書かれているとも言える。
 「病院には依然として他の組織と大きく異なる決定的な要素がある。そこでは日常の一部として人々は苦しみ死ぬ。」(24)次は他の人の本から引用した箇所。「病院の定義は、死という出来事が起こり、さらに誰もそれを気に留めない場所であると言える。もっと厳しい言い方をすれば、その目的に沿っている限り、死が社会的事実として容認される場所とも言える。」(24)
 死は普通は普通でないこととされているのだが、どのようにその普通でないことが普通のことになっていくのか。そしてこの死のルーチン化についての文献としてまずあげられるのはサドナウの本でもある(55)。
 またこの本の方では「延命措置」の停止がごく当たり前のこととしてなされていることが記され、さらに積極的安楽死に関わったという看護職者の発言も載っている。
◇◇◇
 書かれていることは現代人がいかに死を回避しているかというような話ともつながってはいる。このことについてはアリエスやゴーラーの本が有名で、そのうち紹介するかもしれない〔この(新たな)連載に収録した〕。ただあまり現代人とか一般的に言わない方がよいと私は思う。これらの本で書かれているのは、やはり、組織であり仕掛けであり、その中で働く人たちのことなのだ。
 普通のことになること、慣れること自体は私は当然のことであり、また必要なことでもあろうと思う。日々新しい気持ちで患者様に接しましょう、みたいなことを言うつもりはない。外科手術の度に医療者が動揺していたらそれは困る。葬儀屋が毎回の葬式でいちいち取り乱してしまって、葬式がうまくいかなるというのも困ったことではあるだろう。むろんその人たちなりに尽くすべき礼儀は尽くしてもらいながら、冷静に日々の仕事をしてもらえばよい。
 しかし、それでは時にやはり危ないこともあると思い、そのあたりから考えなければならないことが出てくると思う。生き死にに関わることを誰にまかせたらよいのかである。★02
 いちいち感じたり考えていたら身がもたない。それは仕方ない。看護職者はともかく医師はなおすのが仕事で、なおらないとなったら仕事は終わる。それもよいとしよう。しかしそういう人たちに死に関わる決定を委ねていたら簡単に人は死んでいくだろう。それはまずいのではないか。その現実とその理由とをこれらの本から読み取ることもできる。
 さて、では家族に任せればよいのか。それはまた別の理由で危ない。では本人に決めさせればよいのか。それも、はいそれで終わりと言えない。では、と考えていく時に、これらの本から得るものがある。
◇◇◇
 それにしてもなぜ翻訳物ばかりなのか。日本の社会学者が仕事をしていないということだと言われればその通り。ただ他の学界の論文でも学会報告でも、「質的研究」でも、新しいことを教えられたとかおもしろかったということはあまりない、当たり前で浅くて厚みがない、と感じる人も多いのではないか。
 調べにくいからだという言い訳もある。ただこれらの本の著者たちもいろいろ苦労はしている。チャンブリスの本の終わりには「サイドイン」方式がよいとある。「最初から公式の管理責任者の許可をもらおうとするのではなく、まずはもっと下の方の組織メンバーと非公式の折衝を繰り返す」(257)というこのやり方が日本でそのまま使えるは別として、工夫のしようはあるはずだ。
 他におもしろくなならない理由の一つは、同業者が同業者について書くと自らに同情的で自己弁護的になるからだろうか。けれども、とくにチャンブリスは基本的に看護職者に共感をもって書いている。だから基本に共感や自身の仕事の肯定があってもかまわないのだが、自らの行いをいったん突き放してみようとする意志がないと、自己弁護か自虐か、両方が混じったものになってしまう。チェンブリスの本には、機関や個人名が特定されれば法的な責任を問われうる行為も出てくる。世の人に非難されるだろう行いや発言も出てくる。著者は匿名性を徹底することで調査し発表する。私は匿名にするならそこまでやって欲しいと思う。他方、その必要がなければどこまで匿名である必要があるのかと思う。そんなことも考えてよい。
 サドナウの本のもとは博士論文である。こんな文章で博士論文になることを大学院などにいる人がもっとわかったらよいのにと思う。そしてサドナウは「死に関する仕事」の社会組織を描写する「死のエスノグラフィー(民族誌)」を行うと冒頭で宣言し、それは「一度として記述されたことのない」(3)もので、「詳細な記述は皆無である」(10)と言ってのける。その通りだったのだろう。その後この領域には多くの研究が現われ、今はそうは言えないかもしれない。だが領域によっては、同じ領域でもやりようによっては、こう言ってのけられるのにと思う。

 *文中「そこでは日常の一部として人々は苦しみ死ぬ」原文に傍点

■註

★01 「感情労働」の諸相については様々が書かれてきたが、いろいろと整理することがあるように思う。それは一方では(したくないのに、する必要がないのに)させられる労働として語られることがある。他方でそれはそれがその仕事の「本体」であり大切なことであるとされることもある。もちろん、両方がもっともなことを言っている。問題は、どのような場が前者と後者に区別されているのか、あるいは区別されるべきであるのかといったことである。ホックシールドの本は前者の方に傾いているように読める。他方、看護(学)系の人たちが「感情労働」を言うときは後者の方向であることが多いように思う。
 そしてその境界は変化もする。拙著『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)では次のようなことを述べている。
 「産業構造の変化が、グローバリゼーションと呼ばれる現象とともに起こってきた。まず、とくに第一次産業・第二次産業における生産性の向上、生産拠点の海外移動に伴い、全体として労働人口の過剰の度合いがはなはだしくなる。「途上国」の多くではさらに失業率が高いが、それはまた別の要因――とくに技術を含む生産財に関わる格差による競争力の弱さ――が働いていると考えられる。ただ関連はしている。労働力がある限り、そして産業が入り込める条件があれば、生産はそちらの方に流れていく。そして農業であれ工業であれ、人間がしなくてもよくなったり世界の他の地域で行なわれるようになって、黙々と行なうような仕事が減っていく。それでも残されている仕事として、いくらかの技術開発などに関わる技術職については、人づきあいのあり方と関係なくできる、といったこともあるにはあるだろう。そうした部分で才能を発揮する人たちのことが語られたリすることがある。ただ、そうした仕事の多くも既に集団的な仕事となっている。そんな部分も含めて、この社会に残っているのは、種々の対人的なサービス業ということになっている。「先進国」に残されるのは――ものを作るのは別の国でできるのだから――人を気遣う仕事になり、「感情労働」になる。もちろんすべての仕事がということではない。ただ煩わしい人間関係があまり作用しない仕事として残される仕事の多くは、国際競争を背景としてその労働条件が規定されるといった事情もある。多くが厳しい条件のもとに置かれる。」」(p.)
 (続く)
★02 自分の仕事(なおす仕事)をとにかくやるだけやってしまう存在として医療者は描かれてきた。素直に現実を見れば、そんなことはないだろうと思い、幾度かそのことを書いてきた。


◆Chambliss, Daniel F. 1996 Beyond Caring: Hospitals, Nurses, and the Social Organization of Ethics, The University of Chicago Press=20020301 浅野 祐子 訳,『ケアの向こう側――看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』,日本看護協会出版会,274p. 3000
◆Sudnow, David 1967 The Social Organzation of Dying, Prentice-Hall=19920706 岩田啓靖・志村哲郎・山田富秋訳,『病院でつくられる死――「死」と「死につつあること」の社会学』,せりか書房,312p. 2884

■ここまでの「死生本の準備」→文献表(総合)

◆2015/05/07 「家で死ぬ本:死生本の準備12――「身体の現代」計画補足・28
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1595770967356551
◆2015/04/06 「『所有のエチカ』:死生本の準備11――「身体の現代」計画補足・27」
◆2015/03/26 「死生の新書:死生本の準備10――「身体の現代」計画補足・26」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1580176992249282
◆2015/03/21 「フーコー『性の歴史』:死生本の準備9――「身体の現代」計画補足・25」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1577594385840876
◆2015/02/28 「自分らしい私の死の本:死生本の準備8――「身体の現代」計画補足・24」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1565714123695569
◆2015/02/24 「死/生の本・4増補:死生本の準備7――「身体の現代」計画補足・23」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1564184703848511
◆2015/02/21 「死はタブーの本・死生本の準備6――「身体の現代」計画補足・22」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1562898630643785
◆2015/02/18 「死/生の本・3増補:死生本の準備5――「身体の現代」計画補足・21」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1561271757473139
◆2015/02/15 「死を見つめる本・良い死の本:死生本の準備4――「身体の現代」計画補足・20」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1560017074265274
◆2015/02/09 「死/生の本・2増補(小泉義之の本)――「身体の現代」計画補足・19」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1557205197879795
◆2015/02/03 「死生学の本――「身体の現代」計画補足・18」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1554364208163894
◆2015/01/31 「死/生の本・1増補――「身体の現代」計画補足・17」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1553411651592483

そこまでの「「身体の現代」計画補足」


UP:20150516 REV:
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