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『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』註

立岩 真也 2016/03/25

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横田 弘立岩 真也臼井 正樹 2016/03/25 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』,生活書院,250p.,2200+ ISBN-10: 4865000534 ISBN-13: 978-4865000535 [amazon][kinokuniya] ※ o/a01
横田弘・立岩真也・>臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』表紙

 リンク:170→181→211→221(0917)

  註1(横田・立岩対談1についての註)
  註2(横田・立岩対談2についての註)
 ■ 文献表


 
 
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■■註1(横田・立岩対談1についての註)

★01 この辺りのことは、二〇〇七年から『そよ風のように街に出よう』(りぼん社)で連載している「もらったものについて」(立岩[2007-])に記している。二〇一五年の第八八号に第十四回。今のところ当方のサイトに掲載されている。以下の人やできごとについてもたいがいページがある。この註と文献表をHPに置いてそこからリンクさせるので、ご覧いただきたい。
 横田の著書一覧は巻末文献表にあるが、これらについても情報を掲載していくつもり。現在普通に購入できるのは本書と本書刊行の年に再刊された横田[2015]だけ。二〇〇四年の対談集――私(立岩)との第二回めの対談がそれに、そして第一回と第三回のテイクが本書に収録された――も含め、他は入手できない。再刊の要望が(何十か)あれば(視覚障害などあっても読める)電子書籍化できればと思うので、立岩(tae01303@nifty.ne.jp)までお知らせください。横田について最も詳細な記述のあるのは註▼(▼頁)でも紹介する荒井[2011]。この本に限らず、定藤[2011]等、後に書籍になったもとの論文は文献表から省いた。短いものも含めると青い芝の会員や横田、横塚晃一他に言及した文章は近年それなりの数あり、文献表は網羅的なものではない。入手できない本の紹介・書評(横田[2010]を紹介する荒井[2010]等)はあげるようにしようと思ったが、今度はその紹介が入手困難なものもある。もとの文献そのものをなんらかの形で思うのにはそんな事情もある。そして関連してもう一つ、当時から現在に至る種々の施設、そこで起こったこと等についての調査・研究はまだまだだと感じた(→▼頁・註▼)。そして、そんな愚痴を言っているあいだに調べがつかなくなる可能性があり、既にそのいくらかは現実になっている。以下いささか分量の多い註は、そんな仕事を誰かしてほしいという願いがあって付されている。そして最初の註の最後にもう一つ、掲載の意味のあることをみな記していったら、いくら紙数があっても足りない。HPの方で対処する。本書の電子書籍版が出れば、そこから直接に関連のページにリンクされる。文献表は既に掲載されている。検索すればすぐに出てくるからご覧いただきたい。※を付したかなりの数の文献を直接そこから読むことができる。
★02 九〇年に本になった(安積他[1990])。九五年に増補改訂版=第2版(安積他[1995]、第8章を入れ替え、第9章「自立生活センターの挑戦」を加える)、二〇一二年に第3版が文庫版で出ている(安積他[2012]、第10章「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」、第11章「共助・対・障害者――前世紀からの約一五年」を追加した他、各章に著者が追記、そして文庫版になった)。この註を書くにあたって新たにいくらか文献情報を加えはしたが、重複する文献等をあげているときりがない。以下ここではこの本にあげた文献は基本的にあげない。依然としてその本の文献表は使えるものであると思った。ただ表示されている「もと」の文献のほとんどが入手困難になっているはずである。そんなことをあってごく一部ではあるが、文献の全文を収録した「電子書籍」の作成を始めている(→註▼・▼頁)。
 文庫版になったこともあり、私たちはこの『生の技法』を(所謂「重度訪問」の)介助者の養成研修のとき等に使っている。多数必要な場合は割引価格で提供できる。またそうした機会に話をせよということであれば、可能なら、参上する。
★03 白石清春。一九五〇年生。私たちが調査をしていた八〇年代後半には神奈川県相模原市で作業所「くえびこ」、ケア付住宅「シャローム」の運営などの活動をしていた。私たちは安積(→▼頁)の紹介で一九八六年八月白石に会ったのだが、その安積――郡山養護学校の同窓生でもあった――は七〇年代半ばの白石について次のように語っている。
 「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
 白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。
 全国青い芝の仕事で東京に行くことが多かった。地域と東京とどちらが大事なんだって皆によく言われてたよ。あと街頭カンパをやったり。映画の上映もしたしね。『何色の世界』とか。『さようならCP』がやっぱり一番多かったけど。あのころは本当におもしろかった。自分達で社会を変えようっていう情熱があった。」(安積[1990→2012:30-31]
 白石が『さようならCP』を見て衝撃を受けたのは七二年、七三年福島県青い芝の会結成。七六年秋田での活動のために秋田市に転居。七八年の横塚晃一の死後(この時の会長代行が横田)、七九年の全国青い芝の会の総会は成立せず再建委員会の委員長になる。この時、政策側との協調路線が取られるが、その方向は八一年の大会で否定され、横田が会長になる。電動車椅子、年金、作業所を否定することが決議される(立岩[1990→2012:313-314])、電動車椅子(の否定)のことについては立岩[2014-]でも少し触れた)。ただ白石らと厚生省の板山賢治らの関係は続き、障害基礎年金の成立にも関わることになる。障害基礎年金の成立過程については高坂[2015][2016])。私たちはやはり安積の紹介で板山にも聞き取りをしている。高坂[2015]はこの記録も使って書かれている。板山の著書に板山[1997]
 八九年に福島に戻り、九一年に自立生活センター「オフィスIL」を設立しそこを拠点に活動する。二〇一一年、東日本大震災があって「JDF被災地障害者支援センターふくしま」の代表を務める。二〇一一年一〇月一日の障害学会の大会(於:中部大学)で白石を招いて話をしてもらった。その記録が『障害学研究』に掲載されている(白石他[2012])。
 橋本広芳もCP。福島郡山養護学校、在宅生活の後、七二年に郡山市で活動を始め、七三年福島県青い芝の会長。白石とともに相模原で活動。七六年の全障連(→▼頁)結成時の副代表幹事(もう一人は荒木義昭、代表幹事が横塚)。板山らの研究会があった時も含め白石と行動をともにする。やはり福島に戻り、活動を続ける。ちなみに『生の技法』初版・第2版第7章の扉に橋本、第2版第9章の扉に白石が映っている写真がある。これを第3版で使えなかった事情については立岩[2012-(11)]
 福島県青い芝の会について土屋葉の論文(土屋[2007a][2007b])、また土屋の作成した年表(土屋[2007-])がある。
★04 東京青い芝の会で活動。横塚没後の横田たちの路線に反対し、「全国所得保障確立連絡会(所保連)」で活動(立岩[1990b→2012:318-319,350])。横塚『母よ!殺すな』第3版・第4版に追悼文(磯部[1978])が掲載されている。介護ノート編集委員会編[1979]に横田(たち)に批判的な文章を寄せている◆。
★05 安積遊歩(戸籍名が純子)。一九五六年生。著書は『生の技法』に掲載。ミスタードーナッツの障害者派遣事業(安積[1990→2012:56ff.])で同期だった石川准に紹介されて私(たち)は国立に住む安積のことを知った。国立に移ってきたのは八五年六月一五日だと記してある(安積[1990→2012:71])。私たちが知り会うすぐ前のことだったが、そのことに気づかなかったように思う。安積は国分寺・国立・立川その他にいる人々たちをたくさん知っていて、私たちは安積に紹介してもらってその人たちを訪ねた。
★06 小山正義。一九三九年川崎市生。→▼頁。著書に小山[1981][2005]
★07 その神奈川県社会福祉協議会の資料室に資料をコピーしに通っていた時、その建物の辺りで車椅子に乗った姿を見かけた記憶があるが、その時には声をかけなかった(かけられなかった)。会話をしたという記憶はないのだがともかくも小山・横田の現物に会ったのは一九九〇年の「生命倫理研究会」の企画でだった(立岩[2012-(11)])。この研究会の報告書に書いた文章が立岩[1992]。
★08 その神奈川県社会福祉協議会福祉情報資料室には他にない資料が多く集められ、よく整理されていて、たいへん有り難かった。そこにおられた司書、尾崎由美さん(お名前は臼井発の情報)の尽力によるところが大きかったのだろう。そこから出されたものとして神奈川県社協情報センター[1986]がある。そしてのこの資料室は二〇一一年九月末で閉鎖された。横田がこの資料室に寄贈した資料はその資料室の閉鎖のおり、臼井にもとに移され保存されていることを臼井から聞いた。
★09 『はやくゆっくり』(介護ノート編集委員会編[1980])。ほとんどの部分は毎日のたんたんとした介護ノートの再録だが他に幾つかの文章が掲載されている。横塚りゑが七七年八月から七八月十一月に書いた文章は横塚[2007→2010:248-208]に再録されている。横塚の逝去は七八年七月二〇日。その横塚りゑの文章に「「はやく ゆっくり」というのは、夫が死の前日、青い芝の会の友人たちに向かって、最後のの力をふりしぼるようにして語った言葉」(横塚[2007→2010:248])とある。く
★10 この時私は『障害者殺しの思想』(初版、横田[1979])以外手元に横田の本をもっていなかったと思う。『転び草』(横田[1975])はコピーをとってあったが、それ以外資料室で見たり借りたものは返してあった。つまり私はこの場に予習して臨めておらず、聞かなくてもわかることも聞いている。荒井裕樹の本(荒井[2011])が出て、かなりのことがわかるようになった。それでもこのインタビューを残す意義がなくはないと思った。
 別記もしたように、青い芝の会についての論文等が出始めるのはだいぶ時が経ってからになる。鈴木雅子が共著で出した論文が九六年(荒川・鈴木[1996])、その後のものはこのインタビュー(対談)があった後のものになる。ただ、七〇年代前半にはいくつか取り上げられていることも述べた。註▼に挙げた『社会福祉研究』掲載のルポルタージュでは、横田が家族について次のように語っている――保条成宏[2012]に引用されている。
 「親はきっと俺のことをいないほうがいいと思っているよ。親が本当に障害者の存在を認めていれば、世間にかくす必要がないはずなのに、ぼくは兄貴の結婚式に出してもらえなかった。もっとひどかったのは、親父が死んだときだって、息子のぼくは告別式の席にも坐らせてもらえなかったんだ。親、兄弟にすれば、障害者が身内にいることは、やっかいなことなんだよ、きっと」(菅井[1973:96])
★11 『増補新装版 障害者殺しの思想』掲載の年譜の最初の頁に横田の就学免除通知の写真が掲載されている(横田[2015:250])。
 他方後出の『しののめ』、青い芝の会に日本で最初の養護学校ということになる東京市立光明学校(後の光明養護学校)の出身者が多かったことは廣野[2007]他に記されている。花田春兆(→▼頁)の光明学校体験について花田[1974:43-94][2000]。花田は自著で光明学校は金持ちの子弟が行く学校だったと言われるが(自分のところは)それほどでもなかったといったことを何箇所で書いている。ただ花田の父は、いつからからいつかまで専売公社といった名称であった組織の上にいた人であった(荒井による)ということで、十分にそれほどでもあったようだ。そして横田にとって、すくなくとも彼がいた時期のの光明学校は自由な雰囲気があり、彼はそれをよいものとして記憶している。ついでに加えると、花田[1974]は全障研の機関誌『みんなの願い』に掲載された文章をほぼそのまま収録したもの。そして青い芝の会が反養護学校義務化闘争を始めるのも七四年。
 また横塚は整肢療護園――東京にあったそれも以後各地に設置されるようになる整肢療護園の最初のものであったはずだ――に入所していたその時に、小学校六年に編入され、児童福祉法の適用切れによって療護園退園と同時に中学校二年で退学している。この期間、横塚が自治会の長など務めたことを矢田龍二(→註▼)が記していることは立岩[2015c]でも紹介した。横塚の父は千葉県の教育行政の「上」の方にいた人だという。全国にいくつかしか施設がなかった頃の状況にはそんなところがあったのかもしれない。
 ちなみに横塚はその後、五五年四月国立身体障害センター(現在は国立障害者リハビリテーションセンター)――ここも国立の身体障害者更生指導所として四九年、日本で最初に開設されたセンターだった――に入所(五六年三月退所)している。時期的にはこの後になるが、このセンターでは和田博夫・田中豊らがポリオや脳性麻痺の人たち他に行なっていた手術がセンターの方針で打ち切られそうになると入所者らが抗議行動を起こし、センターと長期に渡って対立することになった。この闘争・事件についてはそこに入所しこの闘争にいっとき関わった二日市安の記述がある。その著書に二日市[1979][1982][1995]。彼も「しののめ」の同人であり、またのちには「障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)」「障害児を普通学校へ全国連絡会」の中心的な存在の一人だった。そしてこの闘争についての一次資料を用いた歴史研究として鈴木雅子[2012]がある。
 「なおすこと」をとっても、そう単純に割り切れ(られ)てはいない。このことも立岩[2015c]ですこし記した。このことについては立岩[2014-]で検討を続ける。また、そのうち、「要するに」を記した長くない本を出してもらうつもりだ。
 同時に、これら諸施設で何があったのか、なされなかったのかを調べておく必要もある。六〇年代に親たちに懇願され設立されていった「重症心身障害児施設(重心)」は知的にも障害のある人(子ども)たちのものであり、右にあげた光明養護学校、整肢療護園、国立身体障害センター等とはまた別の系列のものと思われる。たしかにそうなのではある。しかし「府中療育センター」には、そこでの闘争に青い芝の会もいくらか関わった脳性まひの新田勲(▼頁・註▼)、三井絹子(▼頁・註▼)がいた。そして「重心」の草分けといえば、島田療護園、琵琶湖学園だが、すくなくとも後者には所謂サリドマイド児、そして脳性まひの人たちがいて、現在もかつて「児」であった人が今もいるという。この施設の始まりとそれに関わった親の会の運動――横田らが七〇年の殺害事件・裁判の時に話し合いをもったのはその地域組織であるはずだ――について窪田[2014][2015]、府中療育センターでの出来事についての記述も含む東京での重症心身障害児施策について森山[2004][2005]。
★12 「一九二三年に『少女倶楽部』として創刊され、一九四六年に雑誌名を『少女クラブ』に改め、1962年に廃刊となった(『週刊少女フレンド』へと発展)。少女小説や詩を中心に掲載していた」(『ウィキペディア』より)。講談社刊。
 荒川裕樹によればその詩は『少女クラブ』第三二巻十一号(一九五四年九月)に掲載された「病気」というものだった。
 「はと時計が三つうった。/私は手をのばして/枕もとの体温計をとる/体温計をわきにはさんで/じっと目をつぶると/なんだかさびしくなる/教室のことや先生のお顔が/うかんでは消える/校庭のすみに植えたダリヤは/もう花がさいたかしら」
 荒川は横田七〇歳の祝いの参加者名簿とこの時期の『少女クラブ』で採用された市の作者の名前をつきあわせてこの詩を探して出し、横田の確認をとったと言う。横田はそれが自らが書いたことを認めるとともに、恥ずかしいものを探し出して、と荒川を叱ったのだそうだ。(この詩は荒川[2011:191]に再録され、発見を巡る挿話は、荒川と臼井と私が鼎談したその日に荒川にうかがった。)
★13 「『講談倶楽部』(こうだんくらぶ)は、講談社が発行した大衆文学雑誌。一九一一年(明治44年)創刊、第二次世界大戦による中断を挟んで一九六二年(昭和三七年)廃刊。速記講談に始まり、時代小説などの大衆文学雑誌として人気を博した。」(『ウィキペディア』の「講談倶楽部」より。
★14 荒川[2011:168]によればその主催者は篠原あや。横田の詩の初掲載は一九五五年の第二号においてであったという。
★15 青い芝の会の発起人の一人。発起人は金沢英児・山北厚・高山久子。高山の著書として高山[2009]。青い芝の会の初期の活動について廣野[2007]。廣野が記すように、長く青い芝の会の会長を務めた(▼頁・註▼)山北は一九六〇年代以降の「政治化」については批判的・抑制的であり、そこに事務局長が関わった会の会計問題も加わり、七〇年の殺害事件とそれを問題にした「マハラバ村」からの下山者たちを中心とした人たちが中心を担うことになる(cf.立岩[1990→2012:267-270])。
★16 花田春兆。一九二五年生。著書多数。立岩編[2015]花田[1968]に収録された『しののめ』初出の幾篇かを収録した。
★17 大仏空(おさらぎ・あきら)(一九三〇〜一九八四)。横塚晃一についての文章(立岩[2015c])でその経歴をすこし紹介し、この人のことにすこしふれた。また横田の本の解説(立岩[2015a])で紹介したが、大仏の娘である増田大仏レアが過去の大仏の文章や大仏へのインタビューをHPに再録している(増田大仏[2006-])。そこには『ころび草』(横田[1975]) に収録されている「序文」、「異端の思想」(大仏[1975a][1975b])も掲載されている。『解放理論研究会テキスト』の1と2(大仏[1979a][1979b])も再掲されている。HPでは1の発行は茨城蒼い芝の会、2は解放理論研究会となっている。なにか事情があるのかないのかわからない。立岩編[2005]に再録したのは折本昭子との往復書簡――賛成の仕方が標準的ではないのだが――「安楽死賛成論」(折本・大仏[1962])。
 折本昭子は一九三四年新潟生、その後京都に転居、四四年から茨城県に居住、障害者運動を続ける。しののめ叢書として出ている句集に『蛾の舞 折本昭子歌集』(折本[1986])。折本の後茨城県青い芝の会の会長を務めたのは滋賀県出身の里内龍史(里内[1999])。
★18 「六年、二〇歳になった時に障害者運動に出会った。四月十七日に「青い芝」の花見大会に誘われて行ったの。養護学校の先輩が誘ってくれたんだけど、その人はものすごい頑張り屋で手先の器用な人だから人が三年かかるの、年半で編物の師範の免状とってものすごく頑張ってたの。ところがその人の養護学校の同級生が青い芝のCPの人で、生活保護とか年金とかで自分達も地域で生きていくんだってやっているのが聞こえてきて。その人は、「許せない!」、そう思ったんだって。生活保護とか年金でただ食いしてって、文句言おうと思って事務所に行って二晩激論したんだって。最後に、青い芝の方が「正しい!」って、結論を出すと早い人だから、自分の知ってる養護学校の後輩達にそのことを教えるから、もっともっと運動を大きくしようってことになって、その人が私の家に在宅訪問に来たの。行ったらすごいことになる、おもしろいことがある、人生が変わるって。花見だからってつられたわけじゃないよ。その頃、障害者関係の雑誌なんかも購読してたんだけど、読むたびに暗くなって落ち込んでたの。障害者はこういうふうに生きなさい、しこしこやりなさいって、なんでこんなふうにしなきゃいけないだ、なんでこんなこと言われなきゃなんないだって。
 行ったらあれほど私が近寄らないようにしていCPの人がたくさんいてびっくりした。大変だと思った。でも健常者と本気でけんかしているわけ。これが衝撃だった。すごいと思った。私は普通校にも行ったけど、療育園の経験が大きくて、対等にやっていくということができなくなっていた。宴会やっているときになぐりあいの喧嘩が始まったんだ。健常者とCPの人が本気でなぐりあっているんだ。どっちも遠慮していないの。
 そこで、なんと、車椅子を使っていいんだということを教えられたわけ。なんと驚くべきことに、車椅子を使っちゃいけないんだってそれまで言われてた。」(安積[1990→2012:28-29])
 ここに出てくる先輩は鈴木絹江(cf.鈴木[2001])。
★19 私が一九六〇年代(以前)について調べが足りないことはわかっていた。しかしとうてい調べが及ばないから、おまかせするしかないとも思ってきた。そしてここしばらくいくつかの研究も現れてはいる。文献表にあげた。ただそうした「研究」とともにその時代に書かれたものをそのまま読めるようにすることにも一定の意味があると思った。そこでまずは、というものではあるが、『与えられる生死:一九六〇年代』(立岩編[2015])その前に立岩編[2014]を作ってみた。註▼に続く。
★20 八木下浩一の本に『障害者殺しの現在』(八木下[1981])がある。八木下は一九四一年埼玉県川口市生。六七年(当時二六歳)に地域の小学校への就学運動を始め、七〇年に埼玉県川口市立芝小学校に学籍を獲得し就学。全障連の第三回・第四回大会で代表幹事に選出、後に顧問。他の著書に『街に生きる――ある脳性マヒ者の半生』(八木下[1980])。他にさきにあげた『そして闇へ!――新聞にみる障害者殺し』(神奈川県社協情報センター[1986])。関連記事をスクラップしたものであったように記憶している。
★21 私は(後に記すNHKの生番組で放映されたごく一部しか→▼頁)見ていないが「NHKアーカイブ」というものには収められていてNHKの放送局まで行けば見られるようだ。他にも七〇年代前半にテレビ番組にとりあげられていることは立岩[2015c]でもすこし紹介した。またそれを高橋淳さんと、まったく偶然だったがが横塚がなくなってちょうど三〇年になる日に観ることになったいきさつについては立岩[2007-(3)]。以下そこから
 「昨年、それまで面識のなかった中央大学他非常勤講師の種村剛さん(以下三名について敬称あり)から連絡をいただき、民放(TBSと東京12チャンネル)で放映されていた『東京レポート』という東京都の広報番組で二度、青い芝の会関係の人が出てくる番組が作られたことを教えてもらった。一九七二年五月のは、「はばたきたい」という題。江東区四肢不自由児訓練施設「青い鳥ホーム」で親や職員が熱心に脳性マヒ児を訓練する様子が映し出される。それだけならそれだけなのだが、続いて寺田良一へのインタビューがあって、そこで「世の中に積極的に迷惑をかけてでも生きるんだという人間になっていくことが必要だという気がする」といったことが語られる。一九七三年五月の番組は「子にとって親とは…」という題のもので、横塚晃一の家の夫・妻・子の日常が映され、晃一が「親はエゴイストだ。やっぱり抑圧者ですね。」といったことを語る。そんな番組があったのだ。
 種村さんがたまたま入って行きつけになった東京都府中駅近くの「玲玲」という薬膳料理屋・飲み屋の主人が赤羽敬夫さんで、その店で飲み食いしている時にこの番組の演出・構成を赤羽さんが行なったことを種村さんが聞いて、そのお店で小さな上映会をするということになって、私も呼んでいただいたのだった。とてもおいしい料理と酒を出すその店で、私たちは赤羽さんのお話もいくらかうかがうことができた。青い芝の会の人たちのことをそう詳しく知っていたわけではないが、またとくに「政治的主張」をしたいとか、またある主張を支持したいとかいうのではなかったが、報道でその人たちのことを知り関心を抱いて、それで取材・撮影に入ったのだという。十五分の短い番組ではあるが、かなり長い時間、聞きやすいと言えない寺田・横塚の言葉が流れ、顔が映し出される。東京都の広報番組であるが、かなり現場の裁量でできた部分もあって、赤羽さんは、「子どもの日」に合わせて、横塚親子の番組をと思って作ったのだという。」
 その上映会は二〇〇八年七月二〇日に行われた。その日はまったく偶然、一九七八年七月二〇日に亡くなった横塚の三〇周忌の日だった。その前年の二〇〇七年に『母よ!殺すな』の再刊を果たした生活書院の高橋淳さんがそのことに気がついて、私と高橋さんと皆はそんなことにも感じいってしまったのだった。といった話をし出すと、これはたしかに特異なマニアの話になっていくのではある[…]」
★22 『さようならCP』のシナリオ――と呼ぶべきものかわらかないが、かつて出ていたものにはたしかに『さようならCP――シナリオ』(疾走プロダクション[1972])とあった――(の「本体」部分)は『母よ!殺すな』の生活書院版に再録されている。再録にあたっての経緯については本書▼頁。監督原一男がHPにこの映画とその前後のことについて数回に渡って書いている(原[2014])。(生存学研究センター→)「原一男」頁からリンクされている。
 なお生活書院版には一部の発言が掲載されていない。この映画に対しては神奈川青い芝の会内部にも「女性差別以外の何ものでもないと思っています」(内田みどり[2001:287])といった評価がある。内田、そしてここに名前の出てきた人たちの関係者では小山清子、 矢田佐和子、横塚りゑらが「婦人部」を作った。それに対して七六年、小山正義が廃止を宣言し、それに反論がなされ、取り下げられるといったこともあった(『あゆみ』三一号)。婦人部は青い芝の会の活動は続けながら「CP女の会」を結成、その二十周年に『おんなとして、CPとして』(CP女の会[1994])を刊行する。こうした活動について瀬山[2002]二階堂[2011]。内田は二〇一三年に逝去された。他にIwata(岩田)[2005]。
 なお『さようならCP』の上映会後の討論会の記録は『母よ!殺すな』に収録されているが、それらは山口県須佐市・防府市とあと六つは九州でのものである。この事情はわからないが、上映会は全国でなされた。関西での上映運動については定藤[2011]に記録がある。最初の上映会は宇井純らが東京大学の場を使って運営していた「自主講座」、「医学原論」においてだった。このこと、そして宇井と同じくずっと助手のままでこの講座にも関わった最首悟が、この映画を見て『シナリオ』に収録された「みられることをとおしてみるものへ」(最首[1972]、後に最首[2010]に再録)を書いたことについては脇田[1995]に記されている。この時の報告草稿として書かれたのが「障害者と労働」(横塚[1975→2007,2010:51-57]で一九七二年三月とある。次に掲載されているのが『シナリオ』に収録された「カメラを持って」で、やはり一九七二年三月とある。『シナリオ』の発行は奥付に四月八日とある。自主講座での初上映会に向けて出されたものと思う。
★23 一九七三年頃までそれなりに「大手」のメディアで取り上げられていることは立岩[2015c]でも述べた。NHKの『現代の映像』だけでなく、『朝日新聞』の記事になったことが対談に出てくる他、「朝日市民教室・日本の医療」という全七巻のシリーズの第六巻『立ちあがった群像』(朝日新聞社編[1973])に横塚の文章(横塚[1973])が、七四年十月の『ジュリスト』にやはり横塚の文章(横塚[1974])が掲載されていることを記した。他に『社会福祉研究』(鉄道弘済会)にルポルタージュが掲載されている(菅井正彦[1973])。
 それがその後、あまり取り上げられなくなったように思われる。私が調べた時、最初から青い芝の会や全障連の肩をもつあるいはその中にいる人たちの書きもの以外、そして『母よ!殺すな』の初出から探して存在を確認した『ジュリスト』の文章以外、学術的・教育的な書き物にはほとんどまったくなにもなかった。それには「川崎バスジャック」(→▼頁)のような「過激」な運動のためにという理由も言われる。世界中でそうやって闘われてきたのだし、そのぐらいのことはしてよかったのだとは思うが、実際にはそれも理由ではあったかもしれない。ただそれよりも、とくに養護学校義務化反対を巡ってそれに賛成した側との対立が大きかっただろうと私は考える。福祉の業界や学界では今以上に共産党を支持する勢力は強かった。
★24 ここで述べていることは、『母よ!殺すな』の解説(立岩[2007])の「差別は遍くあり、特異にもある」と対応している。
★25 『私的所有論』第2章、そして『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(立岩[2004a])、『人間の条件――そんなものない』(立岩[2010])、等。
★26 「ない袖はふれないことはない」ことについて一番長く書いたのは『良い死』(立岩[2008])の第3章「犠牲と不足について」。
★27 『私的所有論』(立岩[1997][2013])第9章「正しい優生学とつきあう」。横田・横塚の著書からの引用がある。
★28 『思想』の二〇〇一年一月月号から書き始めて二〇〇三年三月号まで、六回に渡って書いた原稿が『自由の平等』(立岩[2004a])になった。
★29 『人間の条件――そんなものない』(立岩[2010])という本を出してもらった。残念ながらわかりやすいという話はあまり聞かないが、しかし、ことの本性からしてこれ以上は簡明に書けないと私は思っている。
★30 『自由の平等』を読んでということで雑誌『談』でインタビューを受けたことがあった。楽観主義について話していて、「あまりそれを強調しすぎると、単なる楽観主義と思われてしまう。そのへんのさじ加減はちょっと難しいですよね。」と言われて、「欲望の複数性と楽観主義」という見出しのところ、そのインタビュー「公共性による公共の剥奪」(立岩[2014b])の末尾で次のように話している。
 「基本的には楽観主義でいいとは思っているんですけどね。それと、人間は単一の欲望で動いているわけではないということをもう一つ確認しておく必要があると思う。そもそも、あれかこれか、一かゼロか、ときっちり分けて考えられるものじゃないですよね。六:四とか七:三とかでどっちももっている。あるいはもっといろいろ、複数あるかもしれない。欲望が複数あること、それが当り前だと思うんです。
 ただ正義とか肯定的に語る人、またとくに懐疑的に語る人、いずれも、人間って結局こう、みたいな語り方をしてしまうところがあるように思うんです。そして社会のあり様を変えたいと思うんだったら、人間もまたとことん変わらなければならないみたいな話になって、しかしそんなことは無理だという話になって、無理だからこのままで行こう、行くしかないみたいな話になってそれで終わってしまう。それはつまらないです。
 欲望には複数あって、その中のどれが表に出されるか、強いものだというふうにされるかは、いろいろな事情によって変わってくる。あるのにないことにされる場合もあれば、それほど強くないものなのに強いものだとされてしまうこともある。とすれば、その配合みたいなものをすこし変えればよい。例えば当然でないとされていることを、いろいろ考えてものを言って、じつはかなりもっともなことだと主張する。そのことによって、それを支持する力がすこし強くなる。そんなことです。私と他者との存在を支持する力とそれに拮抗する力とが、四:六であれば死んでしまうんだけれども、六:四ならば生きていられるといったことがある。
 こんな意味で、私は悲観的ではない。むろん未来について悲観的であるべきもっとも理由は多々あります。けれども、最低、安直で怠惰な思考のために悲観的であることは避けた方がよいし、避けることかできると思います。」
★27 「欠格条項をなくす会」。共同代表は福島智大熊由紀子、事務局長が臼井久実子。公刊された書籍に臼井編[2002]
★32 「つまり私の出自は単純で、そして古色蒼然としている。一九六〇年代後半、一九七〇年前後が私の出発点になっている。その時私は小学生だったから、すこし遅れて知ることにはなったのだが。その時期の人たちは私に大きなものを与えてくれたのだが、しかし途中で止まってしまったり、いなくなってしまったり、なんだかよくわからない。酒ばかり飲んでないで(いや酒を飲むのはよいのだが、酒飲むときにくだ巻くだけじゃなくて)もうちょっときちんとあの話を続けてくださいよ、考えてくださいよ、と思うのだが、なかなか。では自分で考えてみよう、みるしかない。そんなところでものを考えているのだと思う。私は一九六〇年の生まれなのだが、それは、例えば団塊の人たちに無責任に文句を言おうという距離があるともに、しかしそこで考えられたことをまるで知らないわけではない、そういう場所にいるということでもある。それはひどく中途半端なことでもある。だが、それもわるくないと思っているところが私にはある。」(立岩[2000b→2006:24])ここは『創文』に書いた原稿を二〇〇一年に『La Vue』に転載したときに付した文章。
★33 「川崎バスジャック闘争(事件)」等とも呼ばれる。年表では一九七七年四月十二日、川崎市で乗車拒否に抗議し車いす障害者一〇〇名がバスに乗込み占拠とある。これは神奈川で起こった出来事だが、それに参加したのは様々なところの人たちだった。例えば白石清春(→註▼・▼頁)、福永年久(cf.澤田・福永[2001])。青い芝の全国組織の会議があってその際に偶発的に起こったできごとだと聞いたこともある。『ふたつの地平線』(七七年、りぼん社)はこの事件と養護学校義務化反対闘争を映している。またNHKのニュース映像も残されていて、後述する番組(→▼頁)で見せてもらった。ただこの事件について詳しく書いたものを見たことがない。論文の一つぐらい書かれてよいだろうと思う。以下のような回顧はある。
 「川崎駅前で路線バス三十二台を止めた時の若い障害者たちの行動に対しては、一般市民の批判と養護学校の先生、親の会からは過激だと恐れられてしまいました。なぜ? 私たちは地域の中で生きたいと、人として当たり前の主張をしてきただけなのです。」(漆原・矢田[1994:132])
 障害者と政策・運動に関わる年表として杉本[2001a][2001b]、また杉本[2008]。当方にも杉本[2001a]を使わせてもらいながら作ったHP上の年表があるが増補は進んでいない。
★34 外国からの話にしてしまえば例えば青い芝の会のよう人たちが鬱陶しい人たちにしてしまえば都合がよいこと、しかしそういう話にしてもらっては困ると思って『生の技法』も書いた。このことは立岩[2015c]でも繰り返している。それは外国から入ってきたものがないなどと言うことではない。八〇年前後、米国の自立生活運動のリーダーたちが日本で講演など行なって、それはそれで影響があったことは立岩[1990a]に記した。
★35 アフリカ日本協議会稲場雅樹との対談で、稲場は(とくにヨーロッパでの)直接行動について紹介した後次のように話している。
 「同じ「五〇」という目標を取るためにどうするかといったときに、アドボカシー団体が政府に「五〇」を要求するだけでは、絶対に「五〇」は取れないんですね。五〇要求すると一〇くらいしかとれない。そこで直接行動をする団体が二〇〇くらいを要求すると。で、二〇〇くらい要求している連中がいると、ロビー団体が五〇要求することはさして過激ではない、そういう構造になるわけですね。その中でたとえばロビーやアドボカシーをしていく人間が五〇をしっかり取るという、チームプレイが可能になってきます。両方なければ、チームプレイになりません。
 つまり五〇くれと言う人しかいなければ、結局その要求は五、一〇くらいしか通らない。そのときに、直接行動を主張し、権力に対して、そもそもお前らの正当性はないんだというような勢力が、いかに高い要求を示し、なおかつ正当性はわれわれの側にあるんだということを見せつけることができるか。そして権力から正当性を剥奪した上で、正当性がないのに偉そうにしているのであれば、少なくともこのくらいはやってくれなきゃ困ると、いうような形での落としどころを迫る、その中でロビーをする勢力、アドボカシーをする勢力がしっかりと出せるだけの部分をさらってくる。
 そういうかたちにしなければ権力はそもそもやる気はありませんので、そういう意味でその直接行動、プレッシャーをかけるグループ、震撼させる、揺るがすということをやるグループと、実際にものごとを取ってくるグループっていうのが連動してしっかりその国家権力を操るということが非常に重要なのではないかと思います。」(稲場・立岩[2008:82-84]、稲場の発言)
★36 全国障害者解放運動連絡協議会。一九八六年結成。横塚は七六年・七七年の大会で代表幹事に選出される(七七年の大会は入院で欠席)が七八年に死去。青い芝の会は翌七九年に脱退する。綱領が受け要られなかったことが理由とされる(立岩[1990b→2012:283])。横塚を継いだ楠敏雄が亡くなって(一九四四〜二〇一四)追悼の文集が出され、それに収録された文章等を使って資料集を作った(立岩編[2014]。楠については岸田典子が研究を続けている(岸田[▼][2016])。
★37 森岡正博は現在は早稲田大学教員。言及している本は『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』(森岡[2001])。ちなみに森岡は『障害者殺し』の新装版の「帯」に「横塚晃一、横田弘、田中美津は私の3大ヒーロー」と記している(その後に「抹殺される「いのち」の側にありながら、ほかならぬ自分自身の心の底にある優生思想と対峙し、そこを起点としてすべての人の解放を目指した軌跡の。」とある)。田中[2005]については『私的所有論 第2版』で言及している(立岩[2013a:738])。立岩[2015c]ではこのことを記した上で、私は横塚晃一・吉田おさみ・高橋修をあげている。吉田については立岩[2013b]で紹介・言及している。高橋については▼頁・註▼。
★38 「私は、『私的所有論』という本([1997c])に私の考えたことを書いた。第8章で能力主義が、第4章3節で自己決定が論じられている。そこで述べられていることは、あの七〇年の主張の過激さを減殺するものであるかもしれない。ただ私は、言い放しの過激さはただそれだけのものでしかないと考えるから、それでよいと思っている。
 しかし、その出発点を共有しているとは思う。というか、私は、彼らに出発点を与えられた。考えるように脅迫されたのだ。」(立岩[1998→2000:114])
★39 野崎泰伸。大阪府立大学で博士号を取得。著書に『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』(野崎[2011])、『「共倒れ」社会を超えて――生の無条件の肯定へ!』(野崎[2015]
★40 長瀬修(一九五九〜)。障害学会の最初の事務局長を務めた(初代の会長は石川准)。次の註にあげる編書のほか、『障害者の権利条約――国連作業部会草案』,明石書店
長瀬・川島編[2004])、『増補改訂 障害者の権利条約と日本――概要と展望』(長瀬・東・川島編[2012])他。
★41 障学学メーリングリストは今も、あまり活発ではないが、続いている。障害学会は二〇〇三年に設立され、学会誌『障害学研究』がある。「障害学」の名のある書籍は多いがその初期のものとして、『障害学への招待――社会、文化、ディスアビリティ』(石川・長瀬編[1999])。『障害学を語る』(倉本・長瀬編[2000])、『障害学の主張』(石川・倉本編[2002])。
★42 取るものは取るという論理になっていることは横塚の本についての立岩[2007]、横田の本についての立岩[2015a]で述べている。私はなかでも実際取るものを取ってきた人たちに就いてきたので、そちら側から見ているところはある。ただ、それにしても青い芝の会がずっと同じ言い方で同じことを言ってきてくれた(くれている)のはやはり心強いものだと思う。尊厳死法についての抗議文(二〇一二年)は立岩・有馬[2012]に収録されている(このかんの運動の推移についてはこの本と立岩[2009]を参照のこと)。
★43 自立生活センターについては立岩[2005]。中西正司たちが八王子市でヒューマンケア協会を設立したのが一九八六年四月(最初の会長は渡辺啓二、後に中西、最初の事務局長は中西)、高橋修・野口俊彦らが「自立生活センター・立川」を立ち上げるのが九一年。私たちが調査したり本を書いたりしたのはその頃で、私は前者については報告書を作ったりする仕事をしたり、後者については運営委員(NPO法人になってからは理事)を務めたりしてそれらの活動にすこし関わった。中西の著作に。『当事者主権』(中西・上野[2003])。『自立生活運動史――社会変革の戦略と戦術』(中西[2014])。
 立岩[2015b](の前の連載)で「相談支援事業」について述べていて、そのつながりで自立生活センターとその事業に関わる記述が一章あってそのなかの註の一つが以下。 一九八六年に「「ヒューマンケア協会」(八王子市)が設立された。ただ組織の名称に「自立生活」がある組織としては八四年設立の「静岡障害者自立生活センター」(その設立に関わった渡辺正直――筋ジストロフィー、二〇一二年逝去――の文章に渡辺[1988]、八五年設立の「日本自立生活センター」(JCIL、京都市、設立後二五年ほど経ってそこで働くようになった人の著作に渡邉[2011])。
 さらに加えると高橋・野口らが「三多摩自立生活センター」を設立するのは一九八三年九月。だからいくつか先例はある。ただ今全国にある介助者派遣などの「事業」を前面に出して活動する組織の始まりとしては八六年が画期ということになるだろう。
★44 DPI日本会議。二〇〇二年に札幌で第六回DPI世界会議が開催された。その記録としてDPI日本会議+2002年札幌大会組織委員会 編[2003]。他に『障害者権利条約でこう変わる Q&A』(DPI日本会議編[2007])。DPIは一九八一年結成。この組織の成立についてDriedger(ダイアン・ドリージャー)[1988=2000]
★45 その冒頭部分。「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。/長い間虐められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。/兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。」
 『Human Rights』二〇〇二月三月号の特集が「水平社宣言を読む」で、そこに「障害者の人間宣言――青い芝の会「行動綱領」」(野嶋[2002])が収録されている。
★46 大仏空とその父親がいた寺(閑居山願成寺、現在は廃寺になっているという)は天台宗の寺であったようだ。大仏は次のようなことも述べている。
 「ぼくの考え方の一つの基調には、「念仏」の理論がある。「念仏」の理論で、ぼくは良く『歎異抄』を引き合いにだすけど、それだけじゃないんだ。必ずしも、親鸞主義者じゃないけれども、『歎異抄』がよくまとまって いるので、よく使わせてもらっているだけのことです。『歎異抄』に代表される「浄土教」とい うのは、「悪人正気機」で、それは比叡山で発達した考え方です。一般には親鸞から始まって、その先生の法然から深まったものだと言われたり、法然は「念仏」をもって比叡山から独立した んだと言われて、それも嘘じゃないんだけれども、法然や親鸞のような考え方が出てくるもとは、ちゃんと比叡山のなかにある。比叡山の考え方は、「法華一乗」という考え方で、「善人も悪人も全部成仏する」ということです。つまり「草木国土悉皆成仏」ということです。その思想を底の方で支えているのに「悪人正機思想」がちゃんとあったんです。それは、法然の先生である皇覚という人が書き残している。
 「恵信流」というのがあり、円仁(慈覚大師)から始まって、恵信僧都、そして皇覚法師、さらに法然上人と連なる流れのなかに、「悪人正機」の考え方があって、「天台本覚論」の中枢だと言わ れている。このなかに、草木は成仏するが草木つまり自然は非情≠ナあると説かれている、非情≠ヘ成仏しない。
 「法華一乗」の思想がまちがって伝えられると、全体主義的な思想になるんです。日蓮系なんかで、非情にそれに近い動きをしているのがある。日本山妙法寺なんかは典型的なんだけれども、創価学会などもそうで、「国立戒壇」をつくると言っている。「国立戒壇」というのは、一口で言えば思想統一≠ニいうことで、思想を全部統一して、全人民が一丸となるということです。「草木国土悉皆成仏」とは、皆、一つになって仏になるという考え方だからね。当然、そういう考え方にいく。だけど、その考えを支えているのは、本当は一人ひとりが別々であるという考えが基礎にあって、その上に成立するわけだ。その裏側が欠落しているというのははなはだ危険なわけです。
 その基礎として、たとえば、「三十四箇事書」(伝恵信著)のなかに、 草木只草木無生界仏界徳 一向只非情不有情 故破之 一家意 雖草木 非情乍非情施有情徳也 改非情非云有情也 故成仏云人々転非情成有情思 全不爾 只乍非情而有情也 能々可思之 という文章があります。 
 つまり、「非情は非情のままでけっこうなんだ。草木が人間のように成仏することができない。悪いものは悪いままでけっこうなんだ。悪いということで、すでにいいことなんだ。とくに、いいことになるなんて思う必要がない」。それが、ここに述べられている。「草木国土悉皆成仏」を下手に理解すると、皆一つになってしまう。だから、脳性マヒなら脳性マヒで、それですでにいいのだという考え方なんです。脳性マヒ者が「健全者」に近づいてよくなるなんて考える必要がない というわけです。脳性マヒは脳性マヒで、健全者は健全者で、それでいいわけです。別々でいて、それで一律なんだという考え方がないと、「草木国土悉皆成仏」がまちがって理解されるが、この考え方は、比叡山にちゃんとあったんです。そして法然はそれだけをもって独立しちゃったんです。
 この考え方をたどっていくと、「唯識論」からゾロアスター教にまでさかのぼれる。」(大仏[1975c])
 仏教との関係については▼頁・註▼にいくらかを記した。
★47 矢田龍司。七三年、青い芝神奈川県連合会事務局長、七八年会長。「ふれあいの会」を立ち上げ代表(矢田[1988])。横塚『母よ!殺すな』第3版・第4版に追悼文(矢田[1978])が掲載されている。矢田[1988]。
★48 「もっと公式に統一のとれていない機関誌というものもまれにある。ハードに、まじめにアナーキーとでも言うのでしょうか。とんでもないと思ったのは、前記『生の技法』を書いている時に読んだ、かつての「青い芝の会」の機関誌、とくに神奈川県連合会の『あゆみ』だった。うちわで大喧嘩をやっている総会の議事録がえんえんと再録されているのだ。ワープロもなかった時代である。活動を支援していた人がいかにこき使われていたか、あるいは熱心だったかということでもある。こんなことはなかなかできない。それでも、少なくとも書いてあることは公式見解だけである必要はない。」(立岩[2001b]
 全国組織の機関誌『青い芝』については「会報・機関紙(誌)・広報紙(誌)」を特集した『リハビリテーション』に掲載された鈴木[2014]がある。
★49 連続と非連続が気になって、横田や横塚が批判している言説をそのまま集めてみようと思って、立岩編[2015]を作った。『障害者殺しの思想』で横田が批判している石川達三・水上勉他の座談会(石川他[1963])、「拝啓池田総理大臣殿」(水上[1963a]、水上[1963b:7-29]に再録)、それへの返信ということになる黒金[1963]、「島田療育園」の訪問記(水上[1963c])等を収録した(二分脊椎の水上の子のその後のことについては水上[1980])。
 そしてそれはまったく初めての試みというのことではない。立岩編[2014]があり、それ以前にはこれは主には関連する論文を再録したものだが立岩・定藤編[2005]がある。
★50 高橋修(一九四八〜一九九九)。高橋について書いた文章が立岩[2001]。三回のインタビューができたから、そしてさらに別の人が聞き取った記録があって、書けた。その拙文から引用する。
 「「きっとよそでは見捨てるだろうなあという…Sさんの自立の時は、けっこう、勝負どころだったと思う。…刑事事件になったら、組織として致命的になる可能性があるわけよ。…だから、気持ちの中では引きたいっていうのがあったよ。でも、引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から障害者運動にかかわってきたんだというはなしになるわけよ。で、そう、やっぱり引けない、と思ったよ。だから、Sさんが出てきたのは、それはもう喜びであって。そりゃあ、もう、自分のあらゆるものを使って支援したから。弁護士に相談したり、県から福祉事務所に何とか指導してくれって言ったり、厚生省に電話入れたり。あらゆる交渉の内容は全部テープとったよ。」(九五年・『追悼文集』一二七−一二八頁)
 一九九三年のことだ。私はここを読むたびに感動してしまう。
 […]高橋さんは、苦労を知っている世代、怒りの大きな世代の人だった、だからもうあんな人は出ない、だろうか。私はそんなことはないと思う。「のんべんだらり」の人生はよい人生だが、実はこれもなかなか難しい。彼のように、考え迷いながら、怒りを奮い立たせて現実を変えようとやっていく人生は、大変でもあるがおもしろい。このことを高橋さんのまわりにいた人はみな知っている。だから高橋さんの後の人たちは必ず続くと思う。」(立岩[2001a:261-262])


 
 
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■■註2(横田・立岩対談2についての註)

★01 金井康治(〜一九九九)。『2000日・そしてこれから――養護学校から普通学校へ』(金井闘争記録編集委員会編[1987])。没後、『すいへい・東京』13小特集「金井康治さんの死が投げかけるもの」、『金井康治君追悼文集「金井康治によせて」』▼が出された。
★02 池田 智恵子。富士学園 『保母と重度障害者施設――富士学園の3000日』(池田[1994])。『季刊福祉労働』に掲載されたものとして池田[1978][1979][1981]。「もらったもの・1」
★03 見田宗介と真木悠介の二つの名前がある。私が受け取ってそして別様に考えようと思ったことについては立岩[1997→2013a:535]に記した。
★04 吉本隆明。『季刊福祉労働』に掲載された「障害者問題と心的現象論」(吉本[1979])
★05 室津滋樹▼。一九八七年に聞き取り。当時は「ふれあい生活の家」職員(当事者は「グループホーム」より、「ケア付き住宅」とという言葉が使われることが多かったようにも思う)。後に日本グループホーム学会代表を務める。『さようならCP』の上映会で司会をし、その時のことを書きとめている(立岩[2015c]でその部分を少し紹介した)。
★06 掛貝淳子(かけがい・じゅんこ)。一九五四年生。八六年九月に聞き取り。東京都国立市。CP一級。施設十二年、在宅十年の後、八三年、三井絹子(→▼頁)らが運営する「かたつむりの家」を経て――最初の利用者だったという――アパートに引っ越す。掛貝の文章として掛貝[1991a][1991b]
★07 三井絹子。一九四五生。八七年二月年に聞き取り。著書に『抵抗の証 私は人形じゃない』(三井[2006])。三井の兄の新田勲にも八七年五月に聞き取りをしている。『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』(新田編[2009])、『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』(新田[2012])。そしてずっと新田のところに出入りしていた深田耕一郎が書いた『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』(深田[2013])。
★08 『私的所有論』『自由の平等』他で基本的なことを考えて言ってきた。所得保障については『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(立岩・齊藤[2010])等。なお私は読まれないうちにときに言われるように、世に言う――それも一様でないのだが――「ベーシックインカム」をそのまま支持しているわけではなく、そこに現れる論点を検討した上でどうするとよいかを述べている。また所謂社会サービスについて、とくにそれを「どれだけ」という主題については『生の技法』『自由の平等』に収録された文章から以来、そして『差異と平等――障害とケア/有償と無償』(立岩・堀田[2012])で検討している。この本では、障害者運動の中にあった介助・介護・ケアは有償でよいのか無償がよいのかという論点についての検討も行っている。堀田が無償派の、私が有償派の立場を論じている。こうした主題と実際の政策や運動の推移、それを私がどう見るかについては立岩[2012b][2012c]。そして新刊『精神病院体制の終わり』(立岩[2015b])ではさらに、介助される側ともする側も生活のための手段として他から切り出すのが困難な場合があることを踏まえてどう考えるか、検討をさらに加えたつもりだ。これらで検討しているのは、「どのようにどれだけ」という、技術的と言えば言える主題についてだ。私はそうしたことがとても大切だと思っている。それは皆が思っていることではないらしい。しかし私はそれが「先代」の人たちが提起しているものの引き継ぎ方だと考えている。
★09 牧口一二。『われら何を掴むか――障害のプラス面を考える』(牧口編[1976])、『雨あがりのギンヤンマたち』(牧口[1988])、『ラブ――語る。障害者と性』(牧口・河野[1983]
★10 横須賀俊司『支援の障害学に向けて』(横須賀・松岡編[2007])。『障害者ソーシャルワークへのアプローチ――その構築と実践におけるジレンマ』(横須賀・松岡編[2007])。
★11 「障害者運動から見えてくるもの」(立岩・市野川[1998]→立岩[2000:147-149])
★12 「○○である」と(誰が)名乗るのかということにのためらいについては『自閉症連続体の時代』(立岩[2014b])。
★13 二〇〇七年一二月一日、NHK教育テレビ「TVワイド ともに生きる」。ニュースの時間はさんで、一九時から二二時の生放送の番組だった。
 私はなにも覚えていなかったので、ツィッターでどなたか録画したものもっていないかと問い合わたら、高橋翼さんがDVDで送ってくださったので、私の発言部分だけ再録する。三回発言している。ただ、なぜ疲れたり怒っていたりのかは以下では伝わらないと思う。別に記録を掲載できればと思う。
 司会に「立場は?」と問われて。
 「立場はないんでけすども、今日は第一部のはみんな怒ってもらうっていう趣向のようなんで、そっちで、怒ってもらうために言いますけど、まずね、今ジェフ〔バークランド〕さんもおっしゃたんだけど、怒っている人っていつもたくさんいるわけじゃなくて、怒ってる人はちょっとなんですよね。怒ってることを知ってる人もちょっとだったりする。そういう意味で言えば、昔の人はみんな怒ってて、今の人は、って話じゃない。ただそれでもちょっとだけ怒ってた人がほんとにその後を変えてきたってことはあって、それを真面目に受け止めたって人もいてってことは確かにあったんだろうなとは思うですね。
 それからもう一個、あそこ座ってる片岡〔博〕さん四六なんだよね、あとあそこに座っているメインストリーム〔協会〕の廉田さん四六で、僕は四七なんですけど、だいたい二十年ぐらい前ね、そこから二〇引くぐらいの年だったわけですけど、だいたい叱られてたわけですよ。近頃の若いやつらはとか言われてね、何にもしねえとか言われてね。まあいつの世もそんなとこがあって、古い人は若い人を叱ると、でまあ世の中回っていくということもあったりしてね。
 あと、まあ怒るっていうのは疲れるし、悲しいことじゃないですか。怒んないほうがいいわけですよ。ほんとはね。でも今怒らないことに怒っているとすれば、ほんとは怒るべきことがあるのに、だけど怒ってねえじゃねえかっていうことに怒ってるんだろうと。そうするとそれはいったいなんなのか、そこは人によって違うかもしんないし、そういうことがこれからねいろいろ話に出てきたらいいんじゃないかなというふうに思いました。」
 二番目の発言は『現代の映像』(→▼頁)、『さようならCP』、そして川崎バスジャック事件(→▼頁)、養護学校義務化反対闘争の時の文部省前の抗議行動の映像がすこしずつ映された後。
 「これらの話はこれからするとして、さっきVTR見せてもらってね、まず一つは、昔から人が怒っていて、怒るのをやめたとか少なくなったとかいうじゃなくて、さっき出た映像っていうのがあれが怒り始めみたいなもんなんですよ。昔からああやって怒っていたわけじゃなくて、あの時に怒り始めたんですよね。それはひとつ押さえておかないといけなくて、そしてそれは、さっきの話の繰り返しになるんですけど、人はそう知らなかったはずなんですよ。これは一九七一年の『現代の映像化』、フィルムが残っているっていうのはさっき聞いてびっくりしたんですけど、あれ全部やって、それから残りディスカッションしたらいいと思ったんだすけど、あれはたぶん珍しい番組だったはずで。NHKって普通こういうのやんないわけですよね。たぶん障害者ものだととくにね。そんななかでずっとやってきたなかであの映像はすごい珍しい。
 逆に言うと、怒っている場面、厚生省の前であるか文部省の前であるとか、そういう画像っていうのはほとんどメディアに乗らなかったと思います。ですからあいつら怒っているということを知っている人たちはほんにわずかだった。ということは事実として確認しなければならないし、それを知って動いたっていう人はやはり数としては少なかった、少ないなりにやってきたと思うんですね。そこの辺の事実関係っていうかな、は確認した方がいいと思います。
 そういうなかでほんとは怒っていいってことをみんなが知ってたらもっと簡単に怒れたかもしれない。怒っていることを知らせる、メディアっていうのは。[…]そういうところからちょっと考えたらいのかなっていうことは思いましまた。」
 「大きく言うと二つ話があってね。一つは、さっき廉田さん言ってたけど、怒るネタがあるのかということと、ものごとを言っていくときの手段として怒るっていうことがある。二つはすこし違うことで、分けて考えた方がいいかなって思ったんですよね。
 いろいろ聞いてくるという怒ることが何もないという人はやっぱり少なくて、ほんとにそれはものによると思う。
 例えばアクセスの問題でいえば大阪は過去にいろいろあったから地下鉄にしてもいいほうだと思うんです。場所によりますよね。だけどいいとこはそこそこいいと。
 介助のことになるとまただいぶ違っていて、これも入部〔香代子〕べさんとか言われていたけど、ここ数年かえって厳しくなっているとかあって、これからどうなるかみたいな状況ですよね。だから場所によってけっこう違う。学校だって、片岡さん言ってたけど自分がどういう学校行けるかということがある。
 もっと考えていくとね、いまどきテクノロジーとか進歩してるから、極端なことを言うとね、頭と口がちゃんと動けば、この世の中でだいたいやっていけるわけです。わりとね。いろいろありますけども。だけどねそうじゃない障害者、頭と口、まあ口に代わるもんでいいんでけど、そういう人ってねやはり就職しようってなったときに雇ってくれるかっていったらやっぱり雇ってもらえませんよ、端的にね。
 それは、当然のあたりまえのあるいは仕方のないことなのかって考えた時に、怒っちゃいけないのかって考えた時に、僕は怒っていいことだと思う。雇われる雇われないって難しいですけど、結果的に貧乏しちゃゃうわけじゃないですかからね。例えば何が文句言っていいのかなってことがまだいろいろあって、いっしょくたにできないなって。
 もう一こは、そうやって腹立つことあるとしてそれをどうやって伝えていくかって話があって、それもこけっこういろいあって。たとえば一対一でAさんとBさんがいてその間でなにか怒っちゃった時だって、怒るってやり方もあるだろうし話し合うっていうやり方もある。だけどみんな話合い方がなんとなく平和でいいって感じあるけど話し合いでなあなあでやっていた方が失礼、片岡さんが怒るってこともコミュニケーションだっていったけどほんとそうかもしれなくて、怒った方がいい場合があるじゃないですか。
 ただ、さっきの〔映像の〕あの人たちって違うもんに怒ってたじゃないですか、たとえば組織であったり、政治であったりするわけじゃないですか。その場合は話違ってくるわけで。その場合も話合いで収まればそれでいいわけ、で、起こる必要ないじゃないですか、でも怒んなきゃいけない場合もあるというように、手段としての怒りっていうことだけ考えてもシチュエーションとか、他の手段があるのかいとかどういう手段がいいのか、というけっこう分かれてくると思うんですね。そこんところがけっこうポイントかなと。」
 そして、ここで入部(→註▼・▼頁)につっこまれ、発言を撤回すべきだと言われ、そういうことではなくてと司会(町永アナウンサー)がとりなしたりする。
 これが三時間の生番組(といっても録画等がかなり入るのだが)の二時間が過ぎた辺りで、それ以後私には順番はまわってこなかった。
 二人の司会も、脇で話をはさんでいったジェフ・バークランドもがんばっていたと思う。ただ、このことには腹が立つ、いや自分はそういうのはないといった「若い人」たちの発言が順番に連ねられるなかで、つまりは誰に、そして何について怒ろうか否かという組み立ての話ではそもそもなかったから、番組の組み立てに無理はあったと思う。そしてそうした中で春山満という人(→註▼・▼頁)が持論を展開した。  この人の話が一番長かった。そこにいた福永年久他のそうそうとした人々がそこに突っ込めばよいのにと思ったが、そういうことにはならなかった。私は意見を言うというよりなにか解説するという役割を割り振られていて、それに従ったのだが、当てられた時にもっと言いたいことを直截に言えばよかった(言いたい)と思ったが、結局、以上の遠回りの?発言の後は機会もなく、番組はなんとなく終わった。
★14 番組の録画を見ると、その人は春山満という人で、「(筋ジストロフィー)医療福祉のビジネスを広く展開」とテロップで紹介されている。ちなみにこの方は、調べたら二〇一四年に亡くなっている。二〇一四年二月二六日の日本経済新聞社の「春山満氏が死去 ハンディネットワークインターナショナル社長」という報道は以下。
 「体験を通した独自の視点で介護・医療の商品開発や販売に携わったハンディネットワークインターナショナル社長、春山満(はるやま・みつる)氏が二三日午後〇時三七分、進行性筋ジストロフィーによる呼吸不全のため自宅で死去した。六〇歳だった。連絡先は同社業務部。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻、由子さん。
 二四歳で進行性筋ジストロフィーを発症、首から下の運動機能を失い、車椅子の生活を送りながら一九九一年に同社を設立。二〇〇三年には米ビジネスウイーク誌で「アジアの星」の一人に選ばれた。」
★15 この番組に出ていた青い芝関係の人はまず片岡博、そして福永年久。言語障害が重いのは福永だから、ここで横田が言っているのは福永かもしれない。
 片岡博はウィキペディアによると第六代の会長。初代(全国化以前)山北厚(→▼頁)一九五七・一一・三〜一九七三・九、全国化初代横塚晃一一九七三・九〜一九七八・七・二〇、二代横田弘一九八一・一二〜一九八三・一一、三代中山善人一九八三・一一〜一九九八・一一、四代小山正義一九九八・一一〜二〇〇〇・一一、五代福田文恵二〇〇〇・一一〜二〇〇三・一一、六代片岡博二〇〇三・一一〜二〇〇六・一一、七代金子和弘二〇〇六・一一〜。ウィキペディアは当然様々な人が書くから、時々間違いもあるけれども、総じて便利なものだと思う。(一九七八・七・二〇は横塚の亡くなった日で、その日に会長でなくなったことに組織としてなっているのか。そんなことはどこにも記載されていないのかもしれない。)
 その片岡博は滋賀県の人で現在は「(NPO)障害者自立支援センター葦の舟」(滋賀県彦根市)の運営に関わっている。私は京都に越して(二〇〇二年四月)数年後のたとだったか、連絡をもらって会ったのが最初だった。障害者が参加するキャンプを手伝ってくれる人がいないかといった話だったと思う。NHKの番組の後では、二〇一二年四月二七日、参議院議員会館であった「尊厳死」法制化問題・学習会――障害者・患者が問いかけるもの」でだったようだ。(この時私がした話はユーチューブでご覧になれる。)
 福永年久は一九五二年生。「兵庫青い芝の会」に関わり、「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の幹事を務め、「阪神障害者解放センター」、「拓人こうべ」の代表など務めてきた。『こんちくしょう』という映画の「制作総指揮」をした人でもあり、その映画作りに関わった人とともに、私たちは「障害者運動・自立生活・メディア――映画『こんちくしょう』のスタッフと共に考える」で立命館大学に来てもらって話してもらったことがある。兵庫のことについては『カニは横に歩く――自立障害者の半世紀』(角岡伸彦[2010])。また澤田・福永[2001]。
★16 横塚・横田の本の解説でいくらかは触れている。『母よ!殺すな』の「解説(立岩[2007])では、横塚が差別は遍く誰にでもあるという捉え方が関わっているだろう、ただ、それだけを言うのは正確ではなく、それと政治経済の仕組みがどのように関わっているかといったことを横塚が捉えていることを述べた。
 横田の『障害者殺しの思想』を紹介した立岩[2015a]では、悪いものを悪いと言うためにそんなによいものをもってくることはないことを述べた。
 横塚を紹介した立岩[2015c]では、「親鸞的なもの」がこの世の価値観を根から否定するに助けになっていること、その否定は一般に宗教においては現世と来世という世界観のもとでは現世での諦観を導くことはままあるのだが、その部分は表に出てこないから行動に結びつくことにもなること等を述べた。
 考えて述べることができなかった部分はいろいろと残っている。『唯の生』でピーター・シンガーらの「脱人間主義」がすこしも人間主義を脱していないことを述べた。比べれは殺して生きている存在として人間を捉える思想の方がよほどましだと考えるのだが、前者がそんな程度のものであることは容易に言えたとして、では後者から例えば人間が人間を優先してしまうことをどう言うかといったことである。『私的所有論』に付した補章の一つの註で、講演会では不評であった(→▼頁)吉本隆明の親鸞についての著作から引用したりしている(立岩[2013:805-806])。真宗大谷派の研究会に呼んでもらったことがあり、その時の話が文字化されている(立岩[2014a])。題は「人命の特別を言わず/言う」となっているが、このことについて――確かなことなど言えないと思っているのだが――確かなことが言えたわけではない。ただ言ってきたのは(『私的所有論』第5章)、人から生まれるものが人だという、単純な、そしてそれ以上の根拠を示せとは言われればそこで行き止まってしまうとも言える、そのことである。このことを記した時、私はとくに誰がそのようなことを述べているかといったことを意識してはいなかった。ただ、臼井・荒井との鼎談(荒井・立岩・臼井[2015])の時に荒井が用意した資料(荒井[2015])で次の文章が引かれている。一つは『母よ!殺すな』より、一つは宮尾修の詩集『あしあと』(宮尾[1966]、しののめ叢書6)に収められた「にんげんになってから」より。
 「我々脳性マヒ者、精薄者の生活形態は一体どうあればよいのだろうか。それはやはり他の人――同じ人間の身体から出た者せんがそうであるように、それぞれの地域に住み、自分自身の生活を営むということが原則となるべきであると思う。」(横塚[2007:▼])  「ぼくはいつも/じぶんの部屋でじっと坐っている/床の間の人形のように/まるでにんげんではないかのように/じっと坐ったきりで/動いたことがない//だが ぼくはにんげんだ/ぼくはにんげんの母から生まれた/だからぼくは/にんげんのかたちをしている/にんげんの食べるものを食べ/眠りを眠り/にんげんの言葉を使って/にんげんの考えることを考えている」(宮尾[1966])
 宮尾修は千葉県の人。「障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)」等にも関わる。私は千葉大学に勤めていた一九九四年に宮尾他「船橋障害者自立生活センター」の人たちに来ていただき話をしてもらったことがある。そこから出ている本に宮尾他[1995]、そのセンターの季刊誌に書いている連載に宮尾[2012-]
 浄土真宗と障害者運動・障害学との関わりについて頼尊[2015]がある(他に頼尊[2012])がある。他に「悪人正機」や宗教のことに関わる論文に松井[2007]山崎[2012]等。素朴に考えて障害者がここで言われるところの「悪人」であると――そのように言われているのだが――どのように言えるのかといったことが気になり、私はまとまったことを書けないでいる。
★17 私はそれを保守勢力や新自由主義の勢力が伸長したからだけだとは考えていない。そのこともまた確認していく必要があると思って書いてきた。『税を直す』(立岩・村上・橋口[2009])の私の担当部分、『生の技法 第3版』に加えた「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」(立岩[2015c])
★18 品切れになっている『否定されるいのちからの問い』(横田[2004a])には横田と原田の対談(横田・原田[2004])が収録されている。
★19 調べてみると二〇〇八年一月七日、だからこの対談の五日ほど前、ALSの人(甲谷匡賛、cf.ALS‐D[2008]))への介助サービスを増やすことについて、本人他計十人以上いただろうか、市役所の担当の課長他と交渉があった。京都は障害者総合福祉法(その前は障害者自立支援法)の「重度訪問介護事業」(立岩[2012c:602])の支給時間数の少ないところだったが、彼は単身でどうしても終日の介助が必要なことは明らかであって、役所もそれを認めざるをえなかった。それが先例となった。ちなみに、千葉、神奈川、京都他は、意外に思う人もいるかもしれないが、こうした制度の整備が進まなかった地域であってきた。各地でそうした状況を変えてきた運動の方を私は支持してきた。
★20 「日本自立生活センター」は先述したように(▼頁)古い組織だが、二〇〇〇年を超えて活動が活発になっている。その組織に勤める人による本として渡邉琢[2011]。介護保障については右の註。
★21 全障研・共産党の路線とそれに対立する側との対立の構図はとくに七〇年代から八〇年代にかけての運動の形に大きく規定した。それが長く青い芝の会他が福祉業界・学界で無視されてきたことに関わるのではないかと註▼・▼頁で述べた。所謂「発達保障論」を巡るやりとりについて紹介しようとすればずいぶんな紙数を要するだろうし、また私はよく知らなくもある。今後の研究を待つが、たいがい、待っていても期待したほどのことが起こらないことが多いということもあって、立岩[2007-]でいくらかのことは述べている。このことを検討する際、政党の新聞・機関誌といった媒体や種々の「現場」における――これは双方どっちもどっちというところがあるのだが――面罵・罵倒…の数々(これはこれとして収集しておく必要はあると、たいへん、思う)と、もうすこし「学問的」なところのでのもの言いとは少し区別ながら見ておく必要はあろうと思う。リハビリテーションや教育の領域の人たちは今で言うところの「社会モデル」を、すくなくとも社会モデル「も」認めることに吝かではないだろうし、実際、そのようなことを言う。言うようになる。そのことをどう考えるかという課題がある。そのようなことを思って私は『現代思想』での「連載」の数回にこのことに関わることを書いたのだが、上田敏等をとりあげたその数回はまだ本にはなっていない。この辺について「障害学」界隈で言及しているのは、知る限り杉野昭博だけである(杉野[2007:48-49])。
 こうした問題は――さておいてならないと私は思うのだが――さておき、そして以前から憲法、そして所得保障といった主題については「障害連」(▼頁)の人たちなどを含めいっしょに、というところはあったのだが、この対立は以前に比べればだいぶ弱いものになった。青い芝の会も参加している「「骨格提言」の完全実施を求める大フォーラム」の記録集(「骨格提言」の完全実施を求める10.30大フォーラム実行委員会編[2015])を『賃金と社会保障』といった雑誌が再録し、そうした関連の記事を毎号を載せる、私の原稿(立岩[2015◆])もその記録集が載った号に掲載させていただく、といった具合になっている。それはそれとしてよいことであると思う。
★22 そういったことを書いても、と思うからあまり書かないが、『造反有理――精神医療現代史へ』(立岩[2013b])の「あとがき」より。
 「(東大医学部での)「赤レンガ(病棟)」の自主管理(別の人たちによれば占拠)がなされ、やがてそれが終わったこと、そこも一つの拠点として、そして大学の自治会といった場でも、反保安処分闘争があったこと、赤堀闘争)があったこと、臺の「人体実験」が告発されていたこと[…]
 この領域の運動には限らないが、いくつかについては実施をいくらか遅らせたりしたとしても、大きく変えることはできなかった、できそうにない、そんな疲労感のようなものはあった。その「レンガ」に印刷機があったことを記したが、いつかの休日、そこで手仕事をしている後にそれを感じたことを、ほとんどのことは忘れているのに、妙に具体的に記憶している。その疲労感・徒労感をどうしたらよいものか、そんなことを思って、私はものを書いてきたのだと思う。」(立岩[2013b:401-402])
★23 入部香代子。一九七四年大阪青い芝の会入会。大阪府豊中市議会議員等を務めた。二〇一三年逝去。『はりきりオヤブンの車いす繁盛記――障害者自立センターえーぜっとの会』(入部編[1988])。


UP:20150823 REV:.. 20150928, 29, 30, 1001, 02, 20180516
横田 弘  ◇臼井 正樹  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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