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『造反有理』書評へのリプライ

立岩 真也 2016/09/10 『障害学研究』11:271-283

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『造反有理――精神医療現代史へ』表紙    『障害学研究』11表紙    『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙
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 ※『障害学研究』11出ました。買ってください。
 ※以下に分載していきます。
 http://www.arsvi.com/ts/0.htm
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi
 『精神』(2016・期間限定版)に収録

■適格でないが書いたこと

■その後・1

■手前のこと・1

■障害学/「反精神医学」
 なんのことやら、と思われるかもしれない。しかしいくらか「論点」を取り出していけば、これらは障害学の、障害や病(にかかわること)について考えることの中心的な問題であることがわかってもらえる、と私は思う。この本に流れていった連載の最初の方も「社会モデル」の検討に当てられている。そうして考えたことを『造反有理』では第5章「何を言った/言えるか」で、その後に出た『自閉症連続体の時代』(二〇一四、みすず書房)では第2部「回答の試み」に記した。また田島明子編「存在を肯定する」作業療法へのまなざし――なぜ「作業は人を元気にする!」のか』(二〇一四、三輪書店)では「存在の肯定、の手前で」に書いてみた。
 さきにすこしふれたこまごまとした争いごとなどは省いたうえで、まとめて、できるだけすっきりさせた短い本を一つ書こうと思う。それは(これまでの)障害学というものがどのあたりに位置するのかを示そうとするもので△278 もある。加えて、過去の細々としたことはそれとして、『そよ風のように街に出よう』に書いているようなことも含めて、読者はとても限られるのだろうが、別途まとめられればと思っていて、出版してもらうことになるかもしさない。
 こうしたことを考えていくといくつか言えることがあるが、ここでは一つ。何をどのように書いても、わかられ方というものは難しいものだと思うのだが、私はこの本で「反精神医学」【116】を主題的に扱ったのでもなく、またそれを肯定したのでもない。
 その語はまず、評者が記してくれている通り、「自己否定」をしている(にもかかわらす医者を続けている)馬鹿ものというような意味での「札(ラベル)」であった。いっとき自らについてその語を使った人もいたし、翻訳書があいついで出て、その翻訳書を読み合わせたりした人たちもいたが、そこらで留まった。その人たちはほぼ普通の医者だった。それはそれで一つの事実で、そのことを述べた。
 では「本義」としてのそれはどういうものなのか。一つ、精神医療を行なわないという方向がある。それにも二つあって、一つはなにもしないというもの。一つはなおすことについては肯定的であるそのうえで、近代精神医療とは別の発想・方法を使うというものである。このように考えた場合に、レインであるとか、クーパーであるとか、その代表者たちがどのあたりに位置づくかは考えてみてもよいことだろう。
 そして言葉の上乗せを一切省いて言っておけば、私は近代精神医療の幾分かを肯定する。理由は簡単で、私自身の立場は第5章に書いてある。「なおす」というときに、なにを(どの部分を)なおすのかと考えればよいという単純なことが書いてある――「間にいる」と述べた私の考えの筋道はそういう単純なものだ。統合失調症になったことはないのでわからないのだが、すくなくとも(現在DSMではその名は消えている)神経症は苦しいし、鬱病も確実に苦しい。根絶すべきであるかどうかは別として、苦しいのを減らすことは――今ある技術でどの程度のことが(どんな副反応を生じさせつつ)できているかというと、その技術をそう高く評価はできないのだが――よいこと△279 だと思う。(他方、自閉症、発達障害の場合はどうかと考えることができる。こちらについては『自閉症連続体の時代』。) そこから「反精神医学」を見ることもできる。また(腕のよい)医療者は肯定される――造反派/反造反派の医師たちの誰が腕がよかったか、よくなかったかといったことについてはいろいろと噂を聞くが、それはここで記すことでもないだろう。そしてそのことと「社会」を問題にすることとは基本的には矛盾しない。矛盾しないが、様々な位置(の変更)がある。このあたりのことについては中井久夫【44】や小澤勲【281】について記した箇所も見ていただければと思う。

■文体について
 「文体」について。というか「悪文」について。二〇一四年八月号の『群像』に「悪文について」という文章を書いた(立岩真也+悪文で全文が出てくる)。そこに書いたことともすこし重なるが、すこし。私はずっとごく普通の文章を書いていると思っており、しかし悪評が絶えないので、不断の努力をしているつもりだ。ただ、ときにわかりやすい文章だと書いたり言ってくれる人もいるのではあるが、やはりなかなかというところだ。さらに努力はしようと思う。
 ただ、一つだけ。このごろはだいぶ自覚してなおすようにしているのだが、指示代名詞が多いのは事実だ。なぜそうなるのか。一つは、当然にわかるだろうと思って、「それ」と書いてしまうところがある。ただ、校正で見てもらったりといったときも含めて思うのは、意外と私が思うようには読まれていない、違うように読まれてしまうことが多い。いちいち「それ」にあたるものを記していくのは文章がくどくなるのだが、いくらかは仕方がないのかと思う。もう一つは、いくらかの数の言葉をできればあまり使いたくないという気持ちが働いているようにも思う。例えば精神障害者と書くのがよいのか精神病者と書くのがよいのか両方併記するのがよいのか。いずれか迷うところもあり、いずれも積極的には使いたくないという場合がある。他にもあまり高い頻度で使いたくない言葉は、私にはある。ただ、そう思ってこの本を見たらそれにはそんな箇所はそう見つからなかった。けれど、以前別の本△280 で日本国のことを「この国」と書いてしまうこと――この場合字数は減らず、文章は簡潔にならない――を咎められたことがあったが、それはそうしたい気持ちがあってのことで、それはこれからもなおさない(なおせない)のではないかと思う。
 そして、ときに、「この程度書けばわかるだろう、わかれ」、というような気持ちが私にいくらかあるのだろうと思う。けれども、そのかなりの部分は伝わっていないことも感じる。それから、本当はひやかしているのだが、そのことがその直接の相手にも伝わらないといったこともあるようだ。もうすこし直接的に書いた方がよいのかもしれない。なにせ、こうしたことは言い訳をしてもきりがない。とにかく工夫は続けます。

■資料・情報のこと
 今度の本のために集められたものはすいぶん限られたものであることは述べた。それで集めていることを知らせて回っている【13・403】。おかげさまで、二〇一二年の一〇月に、二〇一一年に逝去された広田伊蘇夫氏【73】の蔵書をたくさん贈呈していただいた。この本が出たこと、そしてその続きを『現代思想』で書いていることに直接に関わるところでは、つい先日、二〇一五年四月、大阪の光愛病院に長く務めた後、現在は高槻で開業している星野征光氏から「精神科医全国共闘会議(プシ共闘)」【95】の機関紙等、とても希少な資料の提供をいただいた。(「精神」関係以外についてもいろいろといただいている。そのことはいま生存学研究センターのHPhttp://www.arsvi.com/にある私のページからご覧になれる「「身体の現代」計画補足」――センターのフェイスブックにも随時掲載している――といった文章(連載)に記している。)
 それらで公開できる部分は公開していきたいと考え、すこしのことは始めている★03。またこの本にして、これでも、情報をずいぶん圧縮してしまっている。もっと長く引用したいところも多々あったし、紹介したいことともあった。ただ、何を書いても長くなってしまうということもある。電子書籍にして人や事項についてのページにネットからリンクさせるようにするとまえがき△281 にも記し【14】、リンクがある約一〇〇〇個あるファイルをもう作ってあるのだが、それ(電子書籍化)は今のところ実現していない。そのうち実現すると思う。

 ※この文章は2015年4月20日に発送されたもので、「今年」は2015年を指している。その年に出るはずだと記した大野萌子・山本眞理へのインタビューを収録した本は出なかった。この補注を書いているのは2016年6月30日だが、まだ出ていない。『造反有理』の後の、やはり『現代思想』の連載からまとめた精神医療に関わる本は『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社)で、2015年11月に刊行された。早川一光へのインタビュー記録、早川、早川の娘でもある西沢いづみの文章そして私の原稿を加えた本は、『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』(青土社)として2015年9月に出版された。その雑誌の連載は今も続いており、現在は(かつておもに結核療養者を収容した)国立療養所、(その後そこに収容された)筋ジストロフィー者他について書いている。
 『そよ風のように街に出よう』の連載は、2016年4月に出た89号に掲載されたものが第15回。この雑誌は91号で終刊となり、あと2回書くとして連載は第17回までとなる。また註3で紹介した「自費出版?の電子書籍」だが、2015年5月刊行の『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』が「1960年代の障害者・病者の死生を巡る言説を集めたもの」にあたる。さらに2016年3月刊の横田弘・立岩真也・臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』(生活書院)もまた「歴史もの」の一冊でもある。

■註
★01 その連載は、しりとりのように話がつながってはいるが、変わっていくというしろもので、この(二〇一四年の)五月号が一一一回になる。ここから、これまで『税を直す』(二〇〇九)、『ベーシックインカム』(二〇一〇)、『差異と平等』(二〇一二)という三冊の共著の本と『造反有理』(二〇一三)が本になり、本文に記すように『造反有理』の続きの本がもう一つできる。他に使っていないところ、というよりまとめきれていないところ、あるいは出してもらっても読んでもらえそうなところはいろいろとある。その一部については後述する。それでもなんとかしてまとめていきたいと考えている。
★02 現在の歴史から論点を取り出す、そのためにも言説・出来事を記すという方向のものとしては、まず『生の技法』の第7章そして、第2版・第3版で追加した部分がある。そして『ALS』(二〇〇四、医学書院)。これは時代を辿るという構成にはなっていないけれども、各章ごとにおおむね過去から現在の方へという具合になっている。そして『唯の生』(二〇〇八、筑摩書房)の第2章「近い過去と現在」、第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」、第4章「現在」。安楽死尊厳死について書いた本の一冊だが、とくに高齢者に関わる(終末期)医療についての言説を追った部分がある。『税を直す』も私が書いたところはそういうものとして読める。そして『流儀』(稲場雅紀・山田真・立岩真也、二〇〇八、生活書院)。稲場が語ってくれたこと、そして再録された彼の文章も重要だが、『造反有理』に書かれていることには、山田へのインタビューとそこに付した長い註が大きく関わっている。ぜひ読んでいただきたい。
★03 自費出版?の電子書籍というものも始めてみた。二〇一四年には『身体の現代・記録(準)――試作版:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』というものを作って、こちらのサイトからだけ販売している。あまりに売れないのでアマゾンにも出品しようかとも思うが、もうすこし続けてみる。次に、一九六〇年代の障害者・病者の死生を巡る言説を集めたものを出すことを予定している。


UP:20160730 REV:

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