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出来事を辿る/今を見立てる

立岩 真也 2014/02/20 広島修道大学人文学部学術講演会
http://www.shudo-u.ac.jp/event/8a217100000nm5cv.html


■ 出来事について

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 2012/12/25 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 [amazon][kinokuniya] ※
◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』
 生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya] ※

『造反有理――精神医療現代史へ』表紙   『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙   『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』表紙  

■ 見立てについて

◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也・堀田 義太郎 2012/06/10 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社,342+17p. ISBN-10: 4791766458 ISBN-13: 978-4791766451 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也・村上 潔 2011/12/05 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02, f04
◆立岩 真也・齊藤・拓 2010/04/10 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』,青土社,ISBN-10: 4791765257 ISBN-13: 978-4791765256 2310 [amazon][kinokuniya] ※ bi.

『私的所有論  第2版』表紙   『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙   『家族性分業論前哨』表紙   『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』表紙  

*以下は、次の原稿の一部です。
◇立岩 真也 20130101 「素朴唯物論を支持する――連載・85」『現代思想』41-(2013-01)

■いきさつについて
 昨年五月号から十二月号まで(第78〜84回、十月号は欠)「制度と人間のこと」と題して、やがてすこし大きな話になっている★01。ただいつかは整理しようとは思っていたから、今回はその「概要」にあたることを、既に書いた分についてはいくつか振り返りながら、記す。まとめるには今しばらくかかるだろうこともある。また本号の特集がなかなかにたいそうなものであると聞いたことも関わる。
 そこで、たいへん乱暴なことは承知の上で、これまであったものを、(1)自由主義(むしろ、「この社会」的な所有の制度・価値を支持する立場)★02、(2)その批判(代表的なものとしてマルクシズム)、(3)自由主義の改訂版、(4)「その(近代の)後・外」を語る思想とした――もう少し詳しくは連載第80回(二〇一二年七月号・特集「被曝と暮らし――瓦礫・食品・非難生活」)。そして――私自身が主張しようとすること、してきたことは、結局いたって穏便なことでしかないのではあるが――(2)の基本的な認識・主張のいくつか――を支持すると、今さらながら、言ってよいのではないかと述べた。それもその「主義」が守勢に入いる中で、様々に新しく解釈・改釈されてきたものと異なり、ごく基本的なところで、誰でもわかる部分で、しかし普通には間違った解釈とされる部分で、だがそうであるがゆえに力を与えた部分において、それは使えると考える。その「誤解」である部分を、そのように理解(誤解)することによって多くの人が受けいれたのだとすれば、その「誤解」の側から解する方がよいのではないかということだ。

■事態の認識について
 まず、起こっているまた起こる事態の認識について――こちらは右記したようなことわりを入れる必要なく、普通に当たっていると言えることだと考える。一つに、生産性・生産力の上昇が言われ、労働力の過剰が言われる。またそれを論の前提にする。そしてそれを基本的には肯定的に捉えた。その上で労働人口の余剰で雇う側は有利になることを言い、社会はそれをどう取り繕うか、その対処で苦労するのだと捉えた(第81回、二〇一二年八月号・「生きものの〈かたち〉」)。そのことについて妥当だったし、今もっと妥当であると考える。その「生産力主義」はある人たちからは批判された。そして実際「革命」があった国々で――上昇(とそこに起こる問題)はその手前で起こることになっていたのだが(ならばそこに既に存在するものを調整すればよかったはずだが)、そうはならず、むしろ生産力の脆弱なところで起こった――生産力において他に優位であることが目指され、実際そうだと宣伝され、しかし実際はそうでなかったし、無残なことが生じたのは事実である。けれども向上を支持するにせよしないにせよ――その(多く計算されることのない)「費用」「副作用」を計算に入れなければ(もちろん入れるべきである)支持しない理由はとくにない――、事実として起こったこと、起こっている、これからも起こり続けることをこのように捉えることは間違いではないと思う。とくに知識・技術は、一度獲得されればなくなることはない――それは(忘れた方がよいことも忘れられないということだから)やっかいなことも引き起こしもするのだが。
 そしてそれは、二〇世紀においては未来のことではなく、既にそうなっていると考えた方がよい。「完全雇用」が存在した時期、人が不足した時期はむしろ特別な時期であり、さらにそこには国際的な市場(の国家による制御)のあり様が関わっている――優位であり、国外への輸出が可能でそれがなされる間、その国々では雇用が確保される(ただ、やがて生産地の移転が可能になれば、その優位が失われる)。あるいは、かつて完全雇用が存在したという事実認識自体が間違っている。もうかなりの期間、常に過剰であってきたとも言える。政府の失業率の統計のとり方については言うまでもないだろう。(例えば近代家族は過剰の調整装置でもあったし今でもあると立岩[2003]に記した。)そしてそれは「少子高齢化」が進む現在・将来においても変わらない。
 そして他方、しばらくの間――つまり、世の中の「流れ」が変わってそうした言説がやがて消えていったその手前に――想定されたようである(財の購入という普通の意味における)消費は無限に亢進していくといったことにはならなかった。働いて稼ぐことを否定しない限り――否定しない――その分については(天秤にかけられる人は)天秤にかけることになる。そして(今度は広義の)消費における差異化の欲望は依然として――有史以来といってもよいかもしれない――存在するが、それは――高価なものを有することに価値を見出す(それはつまりは所有の顕示である)というのでないかぎり――消費(→生産)の総量を増やすことに結びつかない。
 そうするとどうなるか。たしかに人々が全体として貧窮化していくことにはならなかった。それは今記したことから当然である。しかし、すくなくとも相対的な格差が広がっていくのは当然のことである。そしてそれは絶対的な貧困をももたらす。例えば、一方に、人手をさほど要しない、多くの人に届けられる製品があり、産業があって、その生産財(技術…)の所有は強く――というのは、私もそれを全部なくすことについては賛成しないからだ――護られている。他方に、機械を使うよりより安いから雇われるといった仕事があり、飽和した市場における取り分(「シェア」)を巡る争いの先端で働く仕事が人間に残される。そうした仕事からも外れる人がいる。第83回(二〇一二年十一月号・特集「女性と貧困」)で述べた。

■目指すものについて
 次に、目指すものについて。第80回に記した。私自身は、一つに「搾取」からの解放という論について、(1)の図式、つまり生産者による取得という図式――もう少し緩くすると、貢献に応じた取得――を踏襲したものとみることができるから、それに同調できないと考えてきた★02。それは一つに、その図式そのものを採用しないところから議論しようと考えてきたからである。この点と関係するが、もう一つ、貢献度という基準をとるのであれば、そしてそれが測定できるとして、資金の提供も生産に貢献しているだろうことが言えるだろうこともあった。そして、価格を規定する機構を説明するものとしては、難しい議論を理解できなくとも、「労働価値説」が使えないことも明らかだと思った。
 ただ、右記した現実の未来像とも関わり、人がどれだけ生産したからどれだけ取れるといったことを気にしなくてすむような社会が語られもしたこともまた事実ではある。明日実現しなくとも、それが「あり」だと思えることは、大切なことだったし、大切なことだと思う。そしてそんなことについて書き手やその後継者たちがどれほど本気だったかはともかく、それが最後に置かれるということは、それが基本に置かれていると読んでよいということでもある。
 そして(1)において支持される「この社会における」私有は――それに対置されるものを何とするかはとても大切なことだが(私は「この社会の」でないようなあり方の私有を支持するのだが)、それをいったん措けば――はっきりと否定される。それは(1)にある図式を基本的に(無自覚にときに自覚的に)踏襲しつつ、議論の部品を幾つか変えて・加えて、(再)分配を肯定しようとする(3)の論の構えとはっきり異なる。
 「疎外(論)」という言葉は様々に用いられ、疎外が人間にとってよくない状態全般を指すのであれば――ならば、その内容はともかく、それが好ましくないことは自明なことである――文句の言いようもない。だが、自らに発したものが自らに帰って(返って、還って)来ない状態を指すのであれば、本来は帰って(返って、還って)来ることをよしとしているということになる。それは大きくて長く続いてきているこの社会の基本にある構図であり、その否定、「超克」がなされたとしたなら、そのことには意味があるだろうことは第81回に述べた。ならば、それを基本にしてよいということだ。
 では当の「労働価値説」についてはどう考えるのか。第80回で述べた。それが価格の決定機構の現実を記述・説明しているのだとするとそれは使えない。しかし、そんなことはどこにも書いていない(と思う)のだが、「規範論」的に考えるならば、「基準」と考えるなら、使えるのではないか、と述べた。「原典」の読み方としてはたしかに無理があるだろう、しかし、なにが「受けた」のかと考えてみてもよいと述べた。そこにあったのは「報われていない」、「もっと報われてよい」という感覚であっただろう。そして、言われてみれば、資本(家)も貢献しているとして、そのことを認めるとして、しかし取り分が少ないという主張に共感したとすれば、それは貢献度に応じて、というより、あの人たちは苦労していないのに(多くを)取っている、自分たちの苦労・労苦はもっと報われてよいという感覚があったのではないか。もちろんその労苦の度合いを測る正確な尺度は存在しない。そして労働全般が均質なものになっていくこともなかった。ただ、おおざっぱには、辛い仕事とそうでもない仕事、ぐらいのものだと考えることはできる。そして、労働価値説によく出てくる時間は計測可能ではある。
 商品とそして労働について実際につく価格と労苦の度合いとの乖離はむしろ大きくなっている。だがそのことは、以上のように解した場合、その主張が成立しないことを意味しない。むしろ、現況を評価する基準としてその意義があることを示している。そしてそれは、労働市場の廃棄あるいはそこへの直接的で強い介入を必ず指示するわけでもない。
 この労苦に応じよという要請は平等の要請である。労苦に応じてよいことがあってもよいということだ。ただ、そんなことをとやかく言うまでもない状態がより望ましい状態として想定されるていたのでもある。つまり、平等自体は絶対的な目標でないことに留意しておいてよい。とりわけ人々がその生の全体として平等であるといった状態は特定することもできないし、目指すべきでもないとさえ言えるだろう。まず、なんであれ暮らせることがよいとされたのだった。それをよしとした上で、労苦と得られるものが均衡することが望ましいとされた。
 これまで二つは時間軸に置かれ、段階論として整理されることが多かったし、実際そう言われた。ただ、そのように考える必要はない。それは前節に述べたこと、既に可能であることによる。とすれば、そして結局市場は放棄しないから、そして強制を関わらせてよいとするなら――私はそう考えることについては、次節にも記すように別に述べる――立岩・村上・橋口[2009]、立岩[2010]、立岩・齊藤[2010]等で、幾度か述べたきたこと、人数割と、労苦に応じた上乗せ、に加えてこの社会において人によってかかる財(のための費用)の給付――立岩・堀田[2012]で私が書いたことの重要な部分はそのあり方についてだった。そしてその「一つ」の方法は市場でのやりとりが終わった後になされること、つまり「再」分配ということになる。繰り返せば労苦を測ることはできないし、またすべきでないとさえ言える場合があるだろう。できることはあくまで「おおざっぱ」なことでしかない。だがそれでよい。以上に述べたことが認められれば、今述べたことが認められるはずである。(『自由の平等』という名の本で平等が第一のものでないことは述べた。ただ、たったの「結果の平等」――結果自体をもたらすことはできないのだから、この言葉自体が誤解のもとになっているのではあるが――程度が禁句に近い状態になっていることはさすがによくないだろうと思うから、そちらの側にいることにしている。)
 そして繰り返すが、それは十分に可能である。それを先延ばしにし精励しなければならないとなれば、その苦労はずっと続いてしまうことにもなる。そんなことはなく、既に、かなり前から、可能であると考えてよい。これは今でも、あるいは今だからこそ、意味をもっている。というのもここのところあるとされていたものが、成長か節約かという貧困な選択、あるいは成長+節約という組み合わせであるからある。両方とも――わるいものではないが、他を犠牲にしてまで――どうしても必要なものではない。」


UP:20140219 REV:
『精神医療』  ◇立岩 真也 
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