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もらったものについて・12

立岩 真也 2014/04/25
『そよ風のように街に出よう』*86:44-49
*おもしろい雑誌なので定期講読するとよいと思います。
http://www.hi-ho.ne.jp/soyokaze/


◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

『造反有理――精神医療現代史へ』表紙

 造反は有理、なこともある

 昨年末『造反有理――精神医療現代史へ』という本を出してもらった(青土社、四三四頁、二八〇〇円+税)。一九六〇年代末に始まった精神医療に関わる改革とか反乱とか呼ばれたものの一部を追った。「反精神医学」といった言葉もあった。「一部」というのは、その動きなかで医療者、とくにほぼ医師に限られた部分だけしか追えなかったからだ。また、「保安処分」反対闘争等、重要な部分にまったくふれることがなかったからだ。それでもすぐ普通の本の一冊分の分量は超えてしまった。そこでここまでで、出してもらった。
 いくらでもありそうであまりない本がたくさんある。もちろん私にできることは限られているし、とくにこの領域についてはまったくの素人だ。だが、誰かが書くのを待っていても出なし、その間にその当時を知る人は亡くなっていってしまうし、仕方なく私ごときが書いてしまった。ただまったく素人だが、まったく無関係ということでもなかった。そしてそれは、私自身がこれまで書けなかったことにも関係がある。そしてそれは、全般に「ありそうであまりない」といま書いたことにも関係する。(まったく知らない人は調べること自体思いつかないだろうが、それ以外に)その(自らの)反乱・反抗にすっきりしていないところがいろいろあったり、自分たちはいいことをしたと(だけ)正々堂々と言えないところがあったりするからである。だがそれでも、私は、それはあるべきものだったと思ってきた。あるべきものだと思っている。造反は常に有理ではないが、ときに有理である。それで書いた。本の「あとがき」から引用する。

 「精神医療に関して、知識の蓄積もなにもない中、いくらか過去を辿って書いてきた。
 近くで起こっていたことでもあるために、いくらか(一時期の終わり頃、一九八〇年頃から数年)をすこし傍から見ていた私にとっては、(東大医学部での)「赤レンガ(病棟)」の自主管理(別の人たちによれば占拠)がなされ、やがてそれが終わったこと、そこも一つの拠点として、そして大学の自治会といった場でも、反保安処分闘争があったこと、赤堀闘争(→一七四頁)があったこと、臺の「人体実験」が告発されていたこと、それらについての断片しか記憶にない。そしてそうしたできごとにここで「造反派」と呼んでいる医療者たち(の一部)も関わっていたのだが、本書に出てくるほとんどのすべての人を私は知らず、その時「レンガ」にいたわりあい若い医師が学内の屋外の小さな集会でなにか報告するのを聞いたことがあった、ような記憶しかない。その頃かその後か、その人たちの実際の医療は、そうなにか変わったことがなされたというわけではない、しょせん医者は医者、病院は病院、そんな声も聞いてきた。そして「自主管理」も曖昧に終息する。
 この領域の運動には限らないが、いくつかについては実施をいくらか遅らせたりしたとしても、大きく変えることはできなかった、 <0044< できそうにない、そんな疲労感のようなものはあった。その「レンガ」に印刷機があったことを記したが(→一〇六頁)、いつかの休日、そこで手仕事をしている後にそれを感じたことを、ほとんどのことは忘れているのに、妙に具体的に記憶している。その疲労感・徒労感をどうしたらよいものか、そんなことを思って、私はものを書いてきたのだと思う。」(『造反有理』四〇一−四〇二頁)

 これを読んでだいたい感じがつかめる人、知っている人やできごとがでいくつかは出てくる人と、まったく知らないという人がいる。まったく、という人にはこんな引用をもってきても意味はないかもしれない。(そこでこの文章のHP版には事件や人の頁=ファイルへのリンクを張ってある。また本についても電子書籍版を準備中。)ただ両方の人々に読んでもらいたいと思った。とくにまったく知らないという人には読んでもらいたいと思って書いた。
 (戦後の)ある種の左翼運動が体制転覆の運動としては成り立ちがたくなってから(というか最初からそれは困難なことだったのだが)、そうした運動は、各地での闘争、個別の反差別闘争の方に行くことになる。そしてそうした運動(体)は、共産党系の組織と対立しながら行なわれてきた。これらはこの連載でも幾度か書いてきたことだ。
 私がいた東京大学では、医学部、文学部、農学部といったあたり(の自治会の(一部))はそういう系列で、私は文学部の学生だった。それでビラなんかを印刷することがあるわけだが、この本では「造反派」と呼んでいる人たちが自主管理=占拠していた「赤レンガ病棟」にあった印刷機を使わせてもらったことがあったということである。
 で、その妙に具体的にその時のことを覚えている日は休日で、翌日刷ったビラを教室にいって学生がすわりそうな机の上に置いてまわるのだが、だからどうなるの?、という感じはわれながらするのだった。それはいつも思っていることだったが、その「レンガ」と文学部や法学部がある建物の間の乾いたグラウンドのようなところに接した場所でだったと思うが、そう思ったことをなんだか覚えている。
 そんなことをしていると「自己満足」だとかなんとか言われるが、べつに、というかすこしも、満足していたわけでもない。どうにも無駄なことをしているとは思っていた。そういうものも「込み」で自己満足だと言おうと思えば言えるだろうし、言われてもかまわない。ただ、普通の意味で、私(たち)は満足していなかった。そして、この大学という場ではほとんどなにもどうにもならないのだろうなと思い、どこにどのような道筋があるのだろうと思っていた。その手前で、おおまかにはわかっているとしても、どこを向いて進んだらよいのだろうと思っていた。「その疲労感・徒労感をどうしたらよいものか、そんなことを思って、私はものを書いてきたのだと思う」というのはそういうことである。
 こういう個人的な述懐は他でもすこししているはずだが、と思って探したら、造反派が始めた雑誌である『精神医療』という雑誌に二〇一二年に書いた「これからのためにも、あまり立派でなくても、過去を知る」という文章が出てきた。

 「私が大学に入ったのは一九七九年で、その年に養護学校義務化の実施があり、そして保安処分新設が議論されているといった状況で、一・二年生の教養学部の自治会ではそれらに明確に反対する側は少数派だったのだが、三年生で文学部に進学するとそこでは(あとは農学部と医学部だったか)そういう「方向性」の部分が(学生全体の中ではごく一部なのではあるが)主導権をとっていて、いくらか私も関係した。その時にはまだあった東京を深夜に出る(大垣で乗り換える)各停の列車に乗って名古屋まで行き、八一年十二月の「名古屋パネル粉砕闘争」(「日弁連が主催した刑法「改正」にむけたパネルディスカッション(会場名古屋)に対し全国から五〇〇名の仲間が参加 <0045< して抗議闘争をし、パネルを中止に追い込んだ」とこちらのHP内のページ――「生存学」で検索してその「中」を「反保安処分闘争」で検索すると出てくる――には書いてある)を見物したことがあったりする。それはほんとに瞬間的に「粉砕」されて終わった。というか始まらなかった。」

 そんなことがあった。そしてこの頃のことはこんどの本ではもう一カ所に記されている。

 「私たちは一九八〇年代の前半にここ〔「赤レンガ」〕にいくらか関係することにはなった。この首謀者たちの(たぶん比較的若かった人たちの)演説・挨拶の類も聞いことがあるはずだ。ただ、病棟の中に入ったのはたまにビラを印刷するために使わせてもらうといった時ぐらいのことだった。その頃あった幾つかの「闘争課題」について人々が出入りしている場所でもあったのだ。開放病棟であったから、入院している人は辺りを歩いたりしており、他の人もとくに誰に断わることなく建物には入れたのだと思う。言われているように、その建物はけっして明るい感じのところではなかったが窮屈な感じはしなかった。
 「赤レンガ」は(たいしたことない)普通の精神病院だったと言われる。薬だってずいぶん使っていたではないかと言われる。たぶんそうだったのだろうと思う。もっときれいな建物であったらよかったと思うが、それはその状況下ではありえないことでもあったのだろう。ただ、ここに関係した人たちが、幸福な結末を迎えたりしなかったできごとに関わったことは様々にあった。悪名高い「宇都宮病院事件」――といってもどれだけの人たちがどれだけのことを覚えているのか――について書かれたものが幾つかあるが、そのなかでも知られることが少ないだろう『宇都宮病院事件・広瀬裁判資料集』(宇都宮病院事件・広瀬裁判資料集編集委員会[2008])という冊子が出されている。」(『造反有理』一〇七頁)

 この文章はその「資料集」に何が書いてあったかの紹介につながっている。広瀬さんという人は宇都宮病院を脱走した人で、支援を得て、病院を相手に裁判を起こした人だった。裁判は勝利(的和解)で終わったが、そして広瀬さんは「レンガ」の医師たち――さきに小さな集会などで話を聞いたことがあると記した「わりあい若い医師」たちは彼の主治医でもあった佐々木由紀子医師(本書では一一一頁)他だったはずである――や支援者に支援されて「アパートで自立」というのもやってみたのだった。
 だが、結局、薬物(シンナー)依存のあった広瀬さんは、失火でアパートが家事になって、亡くなった。
 幸福に終わる話はそうない。ただ、すくなくとも、この「赤レンガ病棟」にいた人たちを、患者をないがしろにした暴徒であり、患者をたてにとって籠もった人たちだという非難には、それは違うと言わねばならない。詳しいことはその当時も知らなかったしその後も知らなかったが、それはひどい、とは言おうと思った。

 あんまりな誹謗中傷に対しては言っておこうと思った

 そしてそういう罵詈雑言を終生浴びせ続けたのは、「重職」を歴任し、一〇〇歳を超えて長生きをし、何も知らない人たちの多くにとっては立派な先達だということになっていたであろう人その他である。罵詈雑言の類を今度の本では序のところにいくつか並べてあるが、例えば、この紛争の二年前まで東大精神科の教授であり、その後国立武蔵療養所所長、東京都立松沢病院院長を務めた秋元波留夫(一九〇六〜二〇〇七)は次のようなことを言う。以下もすべて『造反有理』からの引用(以下もとの文献名は一切略)。

 「「一九六九年九月に、予想もしなかった「東大精神科赤煉瓦病棟占拠事件」が起こった。それが全国の大学に波及し日本精神神 <0046< 経学会も紛糾した。この騒動が収束に向かったのは一九八〇年代に入ってからで、東大の事件が最も長引いた。[…]肝心な精神障害者をそっちのけにした精神科医の独善的な論争であり、コップのなかの嵐であった」(同[183-184])
 「精医連結成の理念であるはずの「医局講座制解体」、「教授会不信任」は空文と化し、「病棟自主管理」は完全に崩壊して、病院長管理下の「他主管理」に転落し[…]以後の[…]闘争の矛先は東大当局ではなく、たまたまおきた一私立病院のスキャンダル追及、保安処分反対、日本精神神経学会撹乱などの外部の問題に介入するようになっていく。しかし、一九九〇年代に入ると、精神保健法の成立、保安処分の再検討(「心神喪失者等の医療観察法」の成立)、日本精神神経学会の正常化など、精医連の一部の諸君の介入の余地のない状況が実現する。すでに事実上壊滅していた「病棟自主管理」とともに、このような状況の変化がおそまきながら、精医連の終末を結果した。」(同[230])」(『造反有理』一一頁、二一六−二一七頁に二度引用)

 その秋元(と武村という医師他)についてさきの報告書は次のように記している。

 「石川文之進は内科医から精神科医に「転身」していく際に、東京大学精神医学教室の秋元波留夫教授(当時)に近づき、同教室の武村信義医師から精神科医としての指導を受けた。宇都宮病院と東大との関係はこのときに始まる。
 宇都宮病院と東大との関係はキブ・アンド・テイクと言える。宇都宮病院側からすると、東大の医師の名を借りることによって病院の権威付けをすることができる。東大の医師の側からすると、短期間のディスカッション(通常の病院では複数の医師らが患者の診断や治療について一定の方針を出すもの。宇都宮病院ではこれと異なり、ビールを飲みながら不真面目に患者さんの人格への誹謗を繰り返すだけのもの)に関わるだけで多額の謝礼を受け取れる。入院患者を「研究材料」として提供されたり、宇都宮病院を実験の場として事実上の人体実験を行った者もあった。宇都宮病院では無届けの解剖が多数行われており、それによって得られた脳を送られていた者もいる。
 宇都宮病院に関係した東大の医師は多数にのほるが、反省の弁を述べている者はごくわずかである。その中には大学の教授になっている者も多い。今なお宇都宮病院と <0047< 共同で研究している人もいる。上記の武村は事件発覚時は東大脳研究所の助教授であったが、東大の中で追及の声があがったため、宇都宮病院に逃げ込み、長く常勤医として宇都宮病院に勤めた。」(編集委員会編[2008:7])」(以上、『造反有理』一〇七−一〇八頁に引用)

 そして「近代日本精神医療史研究会[2011]によれば、宇都宮病院の三つ折りの「病院案内」には顧問として秋元波留夫・武村信義の二人の名が記されていたという。」(『造反有理』一〇九頁の引用)。
 今回の本はたんたんとしすぎているかもしれないほどたんたんと書いてある本なのだが、ここはすこしむっときたから、秋元の文章の後は、「私は、基本的には「バランスのとれた」記述を行なってきているのだがこの文章は、いくつもについて、それはないだろうと思う。「一私立病院」とは宇都宮病院だが、事件は「たまたまおきた」のでもなく「当局」と無関係でもない。その他様々言うべきことはある。」(『造反有理』二一七頁)と続いている。

 真面目すぎるぐらいであったこと

 さきの資料集に戻ろう。それはその始終について、人々がその始終をどのように考えたか、例えば「本人の決定」「本人の意志」をどこまで、誰が認めたり認めなかったりできるかについての議論や逡巡についての記録でもある。さらに『造反有理』での記述をそのまま引用する。

 「「Sさんと赤レンガの広瀬さんの主治医佐々木ドクターの個人的な援助で、一九八八年七月に本人訴訟のかたちで提訴、八月にはSさん、広瀬さんの地元練馬での人脈を中心に「宇都宮病院事件・広瀬裁判を支援する会(後に「ひさしの会」と改称、Yさん、Dさんの要請により辻も活動に加わった。担当弁護士の赤松弁護士は、Dさんが探し出してきた。
 私を通して全国障害者解放運動連絡会議などの障害者解放運動、さらに重要なこととして全国「精神病」者集団らの精神障害者解放運動との結びつきが実現し、さん、山本さん、医学生中島直さんらの会への参加へと結実した。また、すでに広瀬さんと付き合いのあった山谷争議団、赤レンガの患者の「病者」、東大学生らの支援の輪も、広瀬さんおよび会のメンバーの尽力によって作られた。ビラが定期的に刊行され、情宣活動も活発になった。
 支援運動の広がりは、広瀬さんの生活支援にも拡大し、多くのメンバーが彼の介護にかかわるようになった。」(編集委員会編[2008:87]、この部分の執筆は辻雄作)

 これは精神障害の本人が起こした裁判としては初めてのものだったという。練馬の人たちの中には、日本の障害者運動では(小さいが)古くからある「練馬区在障会(練馬区在宅障害者の保障を考える会)」の人たちもいたよう(練馬区在障会については田中恵美子[2000])。佐々木由紀子医師は広瀬を二年間担当した(編集委員会編[2008:23]、以下佐々木の陳述の要約部分)。てんかんの発作がときにあり、薬物(シンナー)依存がありそれをやめたいということで最初の入院、入院は計四回。一九九〇年、ひとりぐらし――無償で(当時精神障害者についてホームヘルプの制度はなかった)介助者が入っていた――のアパートで自らの失火により焼死。裁判は支援者たちに受け継がれ、一九九三年十二月勝利的和解。和解金は三五〇万円「被告、医療法人報会は本件和解にあたり、患者の人権を尊重し先進医療の向上に努力すると共に、広瀬章氏の死亡について哀悼の意を表する。」(編集委員会編[2008:33])

 広瀬を支援する会は資料集の編集に着手。その一人だったのが森泰一郎だった。この報告書は森の没後、「病」者集団のメンバーとして批判を受ける立場でもあった山本真理(長野英子)が最終的な編集・刊行作業 <0048< にも関わってできたものでもある。最後まで残ってこの報告集を作った人たちにおいても思うことは一様でない。そこでは薬物の使用また「依存」について、自死について、各人の違う思いが記されている。介助者の一人は次のように記す。

 「私自身素人の健常者の介護者ということで、医療サイド−赤レンガと患者広瀬さんの間にあって、とまどい翻弄されたような思いもある。病者の支援者からは「医者は何でも患者の要求をきくべき、本人が入院したいといったらいつでも入院させるべき」という主張をなんどもされ、主治医Hドクターからは「入院がクセになるくと本人の自立生活の意欲を失わせる」旨の意見も聞かされてきた。たしかに「社会的入院」は問題である。/どちらもある部分では「正論」なのだろうか。それともどちらかが間違っているのだろうか。[…]/結果的には彼は、自立生活、少なくともあのような形でのものは彼には無理があり、その結果が悲劇的な死につながったとしたなら、やはり、どこかに落ち度があったと考えるべきなのだろうか。それは医療サイド、主治医の判断ミスだったのか、介護者の行動が不十分だったのか、双方の連携や行動に問題があったのか。
 また、決して彼の”家族”ではない介護者たちは、医療側と越えられぬ大きな壁があり、本人を交えたとしても十分にコミュニケーションをできる状態が確保されるとは言えなかった。/当たり前のことだが、レンガの職員会議等で、彼に対してどのような治療方針が出されたのか私たちは「守秘義務」その他によって知ることもできない。/こちらからの情報は、広瀬さん本人に依頼される形で、時折、主治医、看護婦などに伝達したが一方通行だったのかもしれない。」(編集委員会編[2008:99]、筆者は辻雄作)

 また森は、その「対策会議」が広瀬本人を外したものであったことについて原則的な批判を展開している。そしてさらに、うつによるものであるにせよ自殺の権利は基本的には認められるべきであると主張する(編集委員会編[2008:106])。そんなことを言い残し、書き残して亡くなった。私の立場は彼の立場と異なるが、議論はそんな辺りを巡っている。私は、こうして右往左往してきた人たちがまっとうなことを巡って右往左往してきたのだと、そのことを言いたいと思っているのだと思う。」(ここまでずっと『造反有理』一〇八−一一二頁から引用) <0049< 


◆2007/11/10 「もらったものについて・1」
 『そよ風のように街に出よう』75:32-36,
◆2008/08/05 「もらったものについて・2」
 『そよ風のように街に出よう』76:34-39,
◆2009/04/25 「もらったものについて・3」
 『そよ風のように街に出よう』77:,
◆2010/02/20 「もらったものについて・4」
 『そよ風のように街に出よう』78:38-44,
◆2010/09/10 「もらったものについて・5」
 『そよ風のように街に出よう』79:38-44
◆2011/01/25 「もらったものについて・6」
 『そよ風のように街に出よう』80:-
◆2011/07/25 「もらったものについて・7」
 『そよ風のように街に出よう』81:38-44
◆2012/01/25 「もらったものについて・8」
 『そよ風のように街に出よう』82:36-40
◆2012/09/10 「もらったものについて・9」
 『そよ風のように街に出よう』83
◆2013/03/25 「もらったものについて・10」
 『そよ風のように街に出よう』84:36-41
◆2013/09/25 「もらったものについて・11」
 『そよ風のように街に出よう』85:
◆2014/04/25 「もらったものについて・12」
 『そよ風のように街に出よう』86:44-49
◆2014/12/25 「もらったものについて・13」
 『そよ風のように街に出よう』:87
◆2015/08/20 「もらったものについて・14」
 『そよ風のように街に出よう』88:42-49
◆2016/04/25 「もらったものについて・15」
 『そよ風のように街に出よう』89:48-55
◆2016/12/05 「もらったものについて・16」:
 『そよ風のように街に出よう』90
◆2017/09/05 「もらったものについて・17」:
 『そよ風のように街に出よう』91:60-67

◆2011/07/25 「そろいでもってます」
 『そよ風のように街に出よう』81:-
◆2016/12/05 「『そよ風』終刊に寄せて」
 『そよ風のように街に出よう』90:49-50


UP:20140115 REV: 
『そよ風のように街に出よう』  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也 
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