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この問いはかなりきっちり考えて複数の答しか出ない

立岩 真也 2014/04/25   『日本労働研究雑誌』646(2014-5):3(提言)
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/

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◆立岩 真也 2006/07/10 『希望について』,青土社,320p. ISBN-10: 4791762797 ISBN-13: 978-4791762798 2310 [amazon][kinokuniya] ※,

『希望について』表紙

  「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」という文章を書いたことがあり、拙著『希望について』(青土社、2006)に収録されている(もとは2001年の『季刊社会保障研究』に掲載)。基本的なことはそこに書いたつもりでいる。また私が関わって立命館大学生存学研究センターのHP(「生存学」で検索→http://www.arsvi.com/)にも――このごろこのテーマを専ら研究している大学院生がいないといったことがあり増補更新が滞っているのだが、少なくともしばらく前までの――そこそこの情報がある。そちらもご覧いただければ(さきのHP「内」を「障害者と労働」等で検索)。
  ここではごく基本的なことを。一番単純には、「障害」に対応する英語は disability であり、労働は ability を要する行ないであり、ability がなければ仕事にはつけない、収入も得られない、終わり、となりそうだ。そして私自身は、そこからものを考えてきたところがある。働けないものは働けない、は事実として、ゆえに得られないのはおかしい。では、というようなことである(『私的所有論』、現在は第2版・文庫版、2013)。
  しかしもちろん、第一に、あることができなくても他のことができることがある。第二に、できる/できないは1か0かといったものではなく、所謂「障害者」と名指されなくても、多くの人はある程度はできある程度はできない。これらをどう考えるかが、前段に述べたことと別の、あるいは述べたことを考えた上での主題になる。そしてそこには、働くことの(本人にとっての)意義、社会的に必要とされている労働の量といったものをどう見積もるかという論点が加わる。すくなくともこれらを考慮しないなら、この主題を十分に論ずることはできない。このことは明らかだと思う。そして私の見立てを乱暴に言えば、まず、労働〜生産はおおむね足りているので、無理して労働(できるように)してもらうには及ばない。しかし次に、本人が働きたいという気持ちは(その方が、まともな制度下においては、所得保障だけを使うよりいくらか収入が増えるからという動機を含めて)尊重されてよい。私の場合、このぐらいを前提にして、考えていくことになる。
  そうして考え、現実を見ていったとき、いくつかのことが言えるようになるのだが、間を飛ばして一つ、幾度か述べてきことを。ここのところ(というかだいぶ長いこと)よしとされるのはADA(米国障害者法)的な方向である。つまりある「職務に伴う本質的な機能」についてできる/できない選別することは許容するが、それ以外についてできる/できないによって選別してはならず、「それ以外のできないこと」については「合理的配慮」が求められるとするという仕組みである。
  これはわるくはない。すくなくともいくらかの場合にはこんな方向しか思いつかない。ただ、知られている人には知られているように、例えば米国でこの法律は(その予め限定された可能性の範囲内においても)うまく機能していない。雇用主の側は「配慮」するのは面倒で、そして雇用しないはその「それ以外」ではなく「本質的な機能」によると言い逃れられた場合にそれに反証するのが難しいからである。ではどうするか。すぐに思いつくように「配慮」に関わる負担を雇用主以外にも求めるなら、雇用主も姑息なことをせずにすむようになるだろうというのが一つ。だとして、どの程度までの負担が当然とされるか。そしてこれと、この方法以外の方法は、比べてどこがよくどこがよくないのか。ここで私たちは必ずしも「割り当て」をより古びたものと決めつける必要もない。思い返せば「機会の平等」の限界という認識から「アファーマティ分・アクション」も出てきたところがある。しかし「割り当て」で採用された人は引け目を感じるかもしれない。それをどう考えるか。こうして考えるべきことは続いていく。


UP:20141017 
障害者と労働  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇全文掲載
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