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ALSになって生きていく――ごく簡単にすこし

立岩 真也 2014/01/24

川口有美子・三神美和・石川れい子・内堀明美 編 『生の技法――難病プロフェショナル・バージョン』
(NPO)ALS/MNDサポートセンターさくら会,159p.
[Korean]

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 ※註(☆)が報告書とは異なっています(ここに付したものは報告書にはありません)。
 ※この文章のコリア語版も用意したいと考えています。そういう目でみた場合、ここがもっと必要とか思うところありましたら、お知らせください。
 ※他にも、ここが足りないとかここが違うとかありましたらお知らせください。改訂に生かしたく思います。

今のところ動かなくなることから始めるしかない

 ここではALS(の人)のことについて書きます。ただ、様々な病気・障害にはそれぞれ異なるところもありますが、共通するところもあって、以下は障害への対応について、ALS以外の人にも役に立つ部分はあると思います。
 ALSは、人生の途中で、多くは生き始めてかなりたってから、かかります。そしてこの病気にかかる人の数が少ないこともあって(国内に約8000人などと言われます)、医師・病院もだいたいはすぐにはわからず、診断されたときにはかなり進行しているといったことも多いです。
 そしてその人たちはもとは健康でよく動いていた人なので、当然、それは途方にくれるできごとです。ゆっくりならいくらか慣れながらということもできますが、とくに初期の進行は多くの場合に速いので、うろたえることになります。しかも、いまだにかなりがっくりくるような暗い(まちがった)書き方で解説している家庭医学書(+専門書)などもあって、がっくりに追い打ちをかけられることになります。(そんな本になんと書いてあったのかも含め、そしてそれより本人によって書かれたものがたくさんあるので、そうした文章をたくさん集めて、そこからの引用を連ねて『ALS――不動の身体と息する機械』という本を書いています(医学書院、2004)。それから10年経って変わった部分もありますが、多くは、残念ながらという部分も含め、そんなに変わっていません。読んでいただければと。それからのこの文章をHPに掲載します。「立岩真也」で検索してその「2014」のところか、この文章の題で検索してもらえば出てきます。そこから関連する項目や文章にリンクしてありますので、参考になるかと思います。)
 けれど、ALSで起こることは、臓器の自動的な動きなどを別として身体がだんだんと動かなくなっていく、それに尽きるといえば尽きるできごとです。そして身体の動きの場合は、自分で動かす代わりに、別の手段で、たとえば別の人によって、あるいは機械や器具を加えるなら、なんとかなることも多いのです。これは、自分で見たり聞いたりすることそのものを他人が代替できないことと違います。ただ、自分で見ること・聞くことをとって代わってもらうことができない場合でも、他の人の目や耳を使うなどしたいことができることはあります。比べて身体が動かない場合は、もっと直接に代わってやってもらってしたいことができる、それですむことが多いということです。
 たしかにALSについては動かなさの度合いがはなはだしいとは言えるでしょう。ただ、私は、同じぐらい身体が動かない(というか、好きなように動かせない)人たちとのつきあいがそこそこに長いのですが、その人たちのたいがいはそんなに深刻に嘆いたりはしていません。その人たちの多くは脳性まひなどで小さい頃からその自分の身体で生きています。とすると、たぶん「慣れ」の問題なのだろうと思います。だから中途障害の人のほうがかえってつらいとことが多い。けれどもALSにしても、多くの場合に初期の進行は速いですが、やがて落ちついてもきます。そうなりながら、自分なりの生活術というか生活感をもってやっていくことができます。実際、そうして二十年三十年と暮らしている人がいます。誰でもやがては亡くなりますが、ALSは直接に死をもたらすものではありませんし(だからうまく養生すれば別の原因で亡くなることになります)、うまく身体を扱えば痛いものでもありません。
 だから、ALSは病気ではないとも言えます。そんな言葉の問題はどうでもよく、医学者が研究し治療法を探しているのだから病気だと言ってもかまいません。そして私はALSはそのうちなおるようになると思います。これはたんなる勘のようなものでもあります。ただALSは、近代医学が不得意な、どこと病巣を特定できない病気ではなく、もとの場所を特定でき原因を特定できそうに思います。とすれば、なおるようになるのでは、と。けれど他方、治療法が見つかる見つかるといってもう何十年も経ってきたのも事実です。そのかんいろいろな治療法・薬剤が現われてはやがて消えていきました。そして韓国や中国に出かけたり、そこで開発されたという薬をとりよせた人たちもいました。ただそれも、今のところはかばかしい効果が得られたわけではありません。お金もかかりました。これは日本に限りませんが、そうして医療に期待しているうちに長い時間が経ってしまったというところがあります。とすれば、治療法の開発は気長に待つことにして、とにかく動かないものは動かないので、それをなんとかせねばなりません。実際に生活をしていかねばならないのです。

家族のために家族でない方がよい

 それでまずは家族に、ということが実際多いし、医療の関係の人も、そして福祉の人も、そして政治の関係の人たちも、仕方なくと言う人もいるしもっと積極的に信じている人もいますが、それが当たり前のことだと思っています。思ってなくても、なにもしないと、そして現に家族がいれば、そうなってしまう。そしてそうなっている限り、同情したり賛美してはくれます。そして家族は大切だと言います。
 どうしてもそれでよいと本人も家族もみなそう思っているなら、そしてやっていけているなら、それはそれで止められるものではないとは思います。そして「献身」は立派なことです。しかし、同時に、多く、そこは修羅場であって、そうやっていくらでも壊れてきた家族があり、また、壊れるに壊れられずに耐えている家族があります。そういうことを私たちはじつはいくらでも知っています。生きるのをやめて(「自己決定」して)「自然な死」を迎えるのも、実際のところは、ほとんどはそういう事情によるもの、あるいはそういう現実を予想してのものであるのは、まったくの事実です。
 ひどく悲劇的なことが起こらないとしても、また家族には家族なりの責任というものがあることを認めるとしても、それに追加される大きな負担の責任を(家族でない「私たち」でなく)家族の方に負わせるのが正しい理由を見つけられるでしょうか。私はそれはどんなに探しても見つからないと思います。誰でも生きる権利はあるだろう、ということはそれを可能にする義務が人々=私たちにはあるということですが、その義務を家族に特別に大きく課す理由はないだはずだということです。
 これは「硬い」言い方ということになるかもしれません。そして、そんなことを言っても、家族はやはり大切だと言い続ける人もいます。しかしここには誤解があって、家族に(実質的に)強制的な義務を負わせることと、家族を大切にすることとは別のことです。むしろ、これは家族を大切にする国であると言われる韓国などでも話していることですが、もし人が、あるいは社会が家族を大切にするというのであれば、その大切な家族を守るためにも、家族に大きな負担を負わせるべきではないと、負担を減らすべきだと、人として、そして社会として、言って、実際にそうするのが当然のことのはずだということです。
 自分、そして/あるいは、家族を大切にしたければ、「他人」をいれることです。もちろんそれは、さらに身のまわりにいてもらうことにためらいをもつ人は、本人にせよ、家族にせよ、当然います。それを「気にするな」と言っても仕方がないのですが、おおざっぱには、一つ、慣れるところはやはりあります。もう一つ、私的な部分と仕事をしてもらう部分(時間・空間)を分ける工夫の仕方もいくらかあって、試してみないうちから「侵害」「浸入」を警戒することはない、とだけ言ってみるとしましょう。家庭の「密閉度」というのは社会・時代によってもずいぶんと幅があります。今の日本は歴史上最も密閉の度合いが高くて、それが公的介護保険の導入あたりからすこしは緩んできたというぐらいではないのではないかと。そして、介護で「他人」がやってくるのは、いつのまにか当たり前になった、というよりはきわめて短期間の間の変化でした。感性というものが一方で変わりにくいものであることも事実でしょうが、そう固定されたものでもない。そんなものだと思います。

2つの「制度」

 と、すでに「制度」の話に入ってます。もちろん、とてもお金がある人であれば、自分のお金で人を雇うということもあってよいでしょうし、収入の格差の大きい国々では、実際ないではありません。しかし、日本ではまず現実問題として難しい。そして、とくに家族がお金を負担という場合には、結局、負担者は家族なわけで、さきにそれはやめようと言ったことと同じことになってしまうわけです。
 そして、社会が責任を負うといっても、実際誰もが介護の仕事に就けるわけでもなく、適不適もありますから、皆が行なうことがよいとも限らない。となると、人が生きられるようにする義務をたくさん果たせる人が、具体的にはたくさんお金を出し、そうでない人はそこそこに負担し、そうして集めたお金で、介護の仕事をする人が生活できるようにしたらよいということになります。
 次に、その制度として何があるかです。ここでは在宅生活への訪問介護・介助に限りますが、大きくは二つあります。ほかに訪問看護とか、ショートスティとかいろいろありますが、ここでは略します。訪問介護に限っても、これから記す2つ以外にも生活保護の他人介護加算というのがありますが、これもここでは略します。知りたい人は前記したHPでどうぞ。(制度用語としては「介護」という語がここ数十年使われています。私は「介助」の方が好きですが、ここでは多数派に従います。)
 二つというのは、公的介護保険と、それと別建ての障害者対象の制度(のもとでの介護派遣サービス・制度)です。ヘルパー、ホームヘルパー、介助者、介護者と呼び名はいろいろありますが、とにかくそういう人を、基本的に、公費で(=税金・保険料から得た財源から)派遣する制度です。そしてお金は公費ですが、日本では、実際にそうして働く人を登録し、派遣するのは様々な民間の「事業所」ということになってきました。営利組織(会社)も非営利組織(NPO法人等)もあります。派遣した時間に応じて、事業所にお金が払われ、事業所は介助の仕事をする人に払い、残りで事務所の家賃を払ったり、組織を運営しているわけです。
 一つめの公的介護保険についてはわりあいよく知られていると思うので説明を略します。ただ、ALSの人たちがこの制度を使えているということ自体が例外的だということは、知らない人は知らないかもしれません。日本ALS協会は介護保険が始まる時(2000年)に、その制度に自分たちも入れてほしいと運動して、高齢者でなくても例外的にその制度を使えることになったのです。これはよしあし両方があって、介護保険対応以外の事業所のない地域では、ともかくこの制度を使えるようになったという点ではよかったのですが、他方、これは全体として規模が大きな制度――高齢者の数が多いから当然です――のわりには使えない制度なのです。一番大きな問題は、事実上、家族介護を前提としてそれを少し補う程度の制度であり、毎日訪問介護だけに使うと1日2時間程度にしかならないということです。それには理由があって、その大きな一つは、さきにそうあるべきだと書いた仕組み、つまりたくさん義務を果たせる人により多く果たしてもらう(税金などを多く払ってもらう)という仕組みになっていない(金のあるなしに関わらず負担は基本同じ)ことによります。そして基本的に自己(家族)負担が発生します。使い勝手のよい制度ではありません。そして、すくなくともしばらく前までは、介護保険のサービスを提供する事業所では痰の吸引など「医療的ケア」を提供するところは多くありませんでした。(これまでの経緯を一切省くと、その「医療的ケア」をいわゆる福祉の仕事をする人が行なうことについては、以前より「公認度」が高くなっています。ただこのこともまだ十分には周知されておらず、必要な研修にそう時間がかるわけでもないこともまだよく知られてはいません。このへんもわかってもらい、実際に行なってもらうことが課題になっています。)
 もう一つ、(たいして中身は変わらないのに短期間の間に法律の名前が変わって面倒なのですが、以前は「障害者自立支援法」という名前の法律、そして今は)「障害者総合支援法」という名前の法律にいくつかのサービスが規定されていますが、その中に(「居宅介護」というのも使えますが)「重度訪問」「じゅうほう(重訪)」などと業界では略される「重度訪問介護」制度があります。
 時間あたりの「単価」が決まってそれが事業所に、というのは介護保険も重度訪問も、2つとも同じです。ただその単価は、介護保険の方がかなり高く設定されています。そんなこともあって「重度訪問」の事業所は「利が薄い」し、そして高齢者はたくさんいますから、介護保険の事業所の方が多いのですが、重度訪問では一人の1回あたりとか1週間あたりの(一度にまとめての)利用時間が長いことがあって、それはそれなりに経営的になんとかなっている場合もあります。そして一部の事業所は両方の制度に対応しています。そして長い時間の介護が必要な人たちにとってはこの二番目の重度訪問の制度が重要になってきます。
 ただこの「重訪」の制度によるサービスの提供は、地域によってたいへん格差が大きいのです。しかし、これもたんに知られていないという部分があります。網羅的な情報はどこにも存在していないと思います。
 そもそも日本の法律の多くでは、たいがい細かなことは規定されていません。一つに、政令とか通達とか、行政府・官庁が作って出すきまりで多くのことが決まります。そして一つに、事実上、市町村、地方自治体に委ねているところがだいぶあります。(「地方分権」といえばよいことのようですが、私は、すくなくとも介護等の社会サービスに限っていえば、それはずいぶんおかしなことだと思っています。住んでいる場所によって大きく暮らし向きが違ってよい理由、へたすれば――というか、実際にそのとおりのことが現実に起こっているのですが――命が左右されてよい理由は、どう探しても見当たらないからです。)そしてさらに一つ、この制度については――官庁側は「客観的」な「基準」を作りたいようで、以前に比べてそういう方向に進んでいますが、今のところ――介護保険のような一律の基準はありません。
 以上は、交渉の余地がある、言い方を変えれば交渉せざるをえないということです。いちいち要求して、交渉するのは、それはそれで(とても)面倒なのですが、その交渉次第では認められることもあるということでもあります。
 それだけ長い介護時間を必要とする人たちはそうたくさんはいません。そして(普通の)市町村の場合、市町村の負担額は4分の1なので(国が2分の1、都道府県が4分の1)、実際にはそう大きな金額にもなりません。財政が豊かな大都市でないとできないということではありませんし、実際、小さな町でも実施できているところもあります。「雇用創出」にもなるのです。必要な時間を要求するのは無理難題を言うことではありません。そして、自分が住んでいるところからそう遠くない自治体で、1日24時間、それに近いサービスの提供を認めているところがあるはずです。隣でできているところを自分のところででできないはずはないはずだという主張はたいがいかなり有効です。例えば東京ではそれなりの水準に達しているところがそこそこにはありました。となると千葉県ができないはずはない、となります。だからというわけではなく、いろいろとがんばってですがが、ようやく状況が変わりつつあります。そして神奈川も、意外に、長いことだめでしたが、今年、事態が変わるだろうと期待しています。
 そして加えて言えるのは、その市町村に住む誰かが1人獲得できるなら、同じ状態の人なら同じだけの量を得るのは、それまでより、はるかに、容易になるはずだということです。役所はすぐに「公平」と言います。この言葉はときどき間違って使われます。つまり、たくさん必要な人にはたくさんサービスを提供することが本当の公平なのですが、それがわかってないか、わかっていないふりをすることがよくあります。その間違いには立ち向かわざるをえません。ただ、同じぐらいの必要のある人に同じだけ認めないことが不公平であることは、その言葉をときどき間違って使う人たちもさすがに否定できないことで、認められます。つまり、その地域で最初に必要な時間を獲得できた人はその後に続く人たちに大きな貢献をする先駆者ともなるわけです。実際、私が今住んでいる京都市でも、最初に1日24時間の派遣を獲得するのはそれなりの交渉が必要でした。しかし2人めからはそれほど大変でもありませんでした。
 そのとき、ひとつ効果的なのは、役所、担当の係に自分(たち)で行くことです。(もちろん、可能であれば来てもらうことです。)ALSだと自分で動くのがたいへんになってますし、周囲の人たちもたいへんです。けれども、たいがいの場合、担当者はまず「実物」を知りません。内部障害の人は目立たないところがあるので、実際にはたいへんなのに「アピール」できないところがあってそれはそれで別のたいへんさがありますが、ALS等の場合は、見てもらえばわかるというところがあります。私もそういう交渉の場に同席させてもらったことがありますが、やはり本人がいるといないでは違うものです。
 そうやって、かたらだを張ってなんとかなってきた歴史があります。ただそれでもうまくいかないこともあります。そこで、これまではもっぱら行政に対してだったのですが、司法に訴えることが始まりました。これもそれなりの歴史はありますが、数はまだ少ないです。ALSでは和歌山で裁判を起こし、1日21時間(2012年・和歌山地裁)という判決が得られました。ただ個人でというのはやはり荷が重い。弁護士たちに関心をもってくれるようになった人たちがいて、「介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット」という組織が活動を始めました。その活躍にも期待できると思います。そこに相談してみるという手があると思います。

「事業所」を探す、ときには作ってしまう

 さて、それなりの時間の介護派遣が認められたとしても、実際の派遣を引き受ける(ヘルパーを派遣する)事業所がなかなかないということがあります。ただ、まず一つ、遠くの事業所であっても、応じてさえくれるなら、近所の、市町村内の事業所である必要はありません。私が知っている例では、24時間を必要とする京都市の単身の人の介護派遣の大きな部分を大阪の事業所が担当してくれたことがありました。とはいえもちろん、遠くからヘルパーが通う(ヘルパーを通わせる) のには時間もかかるし、交通費もかかるわけで、赤字覚悟のところでやってくれるところとかでもないと、無理があります。しかし、近所に事業所がなくても、近所の人でやってくれる人、やってくれている人がいるなら、その人を遠くの事業所に登録してもらうという方法もあります。それから、「全国ホームヘルパー広域自薦登録協会」という組織があります。登録して働いてもらう人を自分のほうで用意できるなら、その登録その他を引き受ける組織です。(HPで検索してみると出てきます。問い合わせの際には、立岩の文章を読んで知ったのだが、と言ってくださってかまいません☆02。)
☆02 後述する「摩擦、衝突はほかの障害の人たちに比べても多いように思います」にも関係して、ここに記した「全国ホームヘルパー広域自薦登録協会」の対応が変わってきているという情報があります。残念ながら、そこに依頼すれば大丈夫ということでもないようです(2014/01/25)。
 それから、実際にどの程度希望に応じているのか、つかめていませんが、「自立生活センター」という名称の、「利用者主体」を謳っている――実際、組織の代表や理事会の過半を障害を有する人が務めている――組織があります。私が知っているセンターはわりあいALS等重度の人たちを積極的に受けています。センターそのものが、地域によってあるところとないところがありますが、あたってみてもよいかもしれません。ただ自立生活センターを名乗る組織は同性による介助を原則にしているはずです。つまり男性に対しては男性、女性に対しては女性となっているはずです。そのことは知っておいた方がよいと思います。(このやり方が唯一正しいやり方だとは私は考えていません。ただ、この考え方にももっともなところはあると思います。すくなくとも介護は女性の仕事だと決めつけることはないはずです。そして、人によったら残念、かもしれませんが、介護は介護、それ以上・以外のサービス業ではないとだとわりきってもらうことが必要です。)
 もう一つは、自分で事業所を始めてしまうことです。これはすぐにというわけにはいきませんから、最初からはふつうは難しい。また人によっては面倒なことで気の重いことかもしれませんから、誰にでも勧められるというものではありません。経営者に向く人、向かない人、人とやりとりすることが苦になる人とそうでもない人がいます。ただ、まずはとにかく使えるものを使っていきながら、だんだんと準備し作っていくことができます。そして自分一人のために、ということでもよいわけです。それはそんなに極端に例外的なことではなく、実際そんな自分用の会社あるいはNPO法人をやっている人はいます。います。例えば私の勤め先の立命館大学の卒業生で筋ジストロフィーの人がいるのですが、その人はNPO法人をたちあげました。その組織は様々な活動をしているのですが、介助の部門では、介助者養成講座を開催し(私も何度か講師をしたことがあります)、自分のための介助の仕組みを管理し運営しています。
 ともかく、先は長いわけで、小さいところから始めていって、それでそのまま、でもよいし、近くに利用者が出てくるなら、すこしずつ規模を大きくしてくとか、様々やりようはあります。

知られるべきが知られていない

 そうやって制度を使って――利用者として、そしてときには同時に事業者として――生きていく時に注意すべきことがあります。
 ここまで述べてきたこと含め、その方面の「専門家」であるはずの人たちが知っていてほしいことを知らないということです。そこに悪意、なにか意図があるというわけではないのです。たんに無知で、知らないといったことが、残念ながら本当によくあります。実は知らないのだとすなおに言ってくれればまだよいのですが、実際と違うことを言うことがあって困ります。
 例えば、さきに大きく二つの制度があることを書きました。しかし多くの人たちは二番目のものをほとんど、ときにはまったく知りません。次に、二つあるのを知っている人でも、介護保険が優先であるとされているから、まずそれを使ってから、使いきってから、障害者用の制度を使ってくださいと言うことがあります。しかし、じつは必ずしもこの順番でなくてよいという厚生労働省からの文書が出ています。☆01
☆01 厚生労働省通知・平成19年3月28日付け障企発第0328002号・障障発第0328002号「障害者自立支援法に基づく自立支援給付と介護保険制度との適用関係等について」
 http://www4.techno-aids.or.jp/gyousei/tsuuchi0328002.pdf
 こうした無知の理由の一つに、公務員が働く場所を数年で移っていく、移ってくるということがあります。ひとつに、ケアマネージャーという人がそんな仕事をする人だと私たちは思っているわけですが、その多くは、介護保険の高齢者の典型的な使い方は知っていても、それ以外のことは知らないのが、残念ながら、普通です。そしてもう一つ、医師も看護師も狭い意味での医療・看護のことしか知りません。そして最後に一つ、そうした部分を補う存在と思われているのが、大きな病院などでは配置されている医療ソーシャルワーカー(MSW)ですが、残念ながらその人たちもたくさんのことを知らないことがよくあります。
 ですから、まずその人たちが言うことをうのみにしてはならないということです。すこし甘めに言えば、「専門家」だからといってなんでも知っていろというのは無理難題です。ただそれでも、知らないことを知っていてほしいと思います。では、その人たち自身も含めて、どこに聞けばよいのでしょうか。
 ALS協会に入ったらどれだけ教えてくれるのか、他よりよいだろうと思いますが、私は聞いたことがないのでわかりません。(支部の単位では、知識などその力量に差があることは事実です。)関係する「maee」というメーリングリストがあります。そのメンバーにうまく暮らしている人が複数入っています。私自身も幾人かを知っています。そんなところが手がかりになるかもしれません。加えておけば、協会やその支部も、どこも、お金がないなかでやっています。そういうところに相談する時には、というかした相談した時には、そのうちやめてもいいから、入会はしましょう。今ある「専門」機関や「専門職」の人があまり頼りにならないのであれば、自分たちでそういうものを盛り立てていくほかないですし、そしてそうして自分たちが作っていくものは必ず後に続く人が生きていくのに役に立つものになります。

うまくやっていく苦労はあるけれども

 最後に、おこがましくはありますが、利用者として、さらにはときには雇用主・経営者として、働く人を働く人として、その前に人として、対するよう、まずは建て前としても思う、思おうとする、ということが大切だと思います。
 ALSの人と介助する人の間の摩擦、衝突はほかの障害の人たちに比べても多いように思います。ときにはかなり険悪な関係になることが実際あります。それで双方がかなり消耗してしまうことがあります。人と人の間に相性というものはどうしてもあって、どうにもだめなら別の人に交替するというのは、そうしたこと――とくに利用者の希望で交替させるといったこと――が認められていなかった、つまり派遣されてくる人を受け入れるほかなかったかつての状況よりずっとよいと思います。ただ、結果、介護する人が誰もいなくなる、あるいはごく少数の人だけが残ることになって、その人は家族だけで介護していた時とおなじように疲れ果ててしまって燃え尽きてしまったり、事業所のほうも打つ手なしといったことが起こってしまうことがあります。
 なぜそんなことが他に比べて多く起こる、らしいのか。さきに述べたように、人生の途上で突然起こる、進行が多くの場合に速い、ということに加え、その帰結として言葉によるコミュニケーションが難しくなっていくし、身体の微妙な位置加減が痛み・辛さに関わるし、多くの人たちは同じ場所・位置で長い時間を過ごすことになるいうことからは当然とも言えるでしょうけれど、それだけなのかどうなのか、それ以上のことは私にはわからないとしか言いようがありません。
 ただその上でですが、それでも、言ってよいこととよくないこと等々は、お金が払われていようといまいと、あるのだろうと思います。私(たち)は、利用する側の指示や希望が聞かれない状況のもとで置かれてきた人たちが、それはひどいと、すくなくとも介護する人・介護を使う人は対等なのだと主張し、その主張を実現するために活動してきた人たちを支持していますし、それはもちろん、今でも変わりません。さきにあげた「自立生活センター」もそういう思いで設立されたものです。ただ、やっていただくということでひたすら恐縮するというのでなければ、「召し使い」のように対するというのはやはり間違っている、両方間違っていると、誰もがわかっているだろうことをあえて言っておきます。(自分の身体に直接に関わることを他人にとなると、ひどくへりくだるか、でなければ「ご主人様」のようになるか、いずれかになりがちだという傾向はALSの人たちに限らず広く見られるように思います。介護されること全般の難しさというものも関わっているのでしょう。)
 もちろんそんなことはわかっている、ということではあるのしょう。自分が事業者になる、すくなくともなったつもりになったみるというもの一つでしょう。ただつもりはあくまでつもりだから、現実に影響しないかもしれません。ただ、関係わるくしていって実際に生活が危機に陥った人がかなりたくさんいるのは事実です。自分の生活を円滑にやっていくために、言うべきは言う、しかし礼節はわきまえることはやはり大切だろうと思います。  また、そうしたトラブルの調停が事業所の大きな仕事のはずなのですが、実際には時間あたりで政府から支給される額から時間あたりの賃金を払った差額で組織をまわしているわけで、それでうまくいっているところもあるけれども、手間がかかるところに手間をかけようと思うと、きつくなる。それで、事業所としても、信条として引き受けるところでないと及び腰になる、板挟みになって苦労する人はほとんどただ働きのようになってしまうということが起こっています。それ以外にも、直接的な介助以外の部分で(さきほど意外と「専門職」の人がわかっていないと言った)様々な手続き、交渉ごとその他、手間も人手もいります。多くは家族がそれを担ってしまっているわけですが、それを担うのには本当は手間も手練手管もいる。そこをうまく――この「うまく」が具体的にはなかなか難しいのですが――仕事にできる人が必要とされています。ですからこれは制度〜事業所側の課題でもあります。ただ、この辺でけっこう苦労・苦悩している一生懸命な人たちがいることは利用者やその家族のみなさんにもわかってほしいと思います。
 ただ、こういうことは、本人(やその家族)にとっては、「他人」を入れての生活を始めてから、それが始まってからのことです。まずは、いろいろと面倒なことはありながら――それでも、毎日つききり、つかせきりの生活がずっと続くことに比べれば、一時的な努力・尽力です――そうした生活が可能であること、そうやって暮らしている人たちが全国にいることを知っていただきたいと思います。日本の福祉の水準は全体として低いと言われますし、それはおおむねその通りだと思います。けれど、(とても)重い人でも見捨てないというのは、日本のどこでも実現しているというわけではないけれども、それでも、この国がいくらか誇ってよいことだと私は思います。(福祉先進国と言われている国々でも、自力で食べられなくなったら、呼吸ができなくなったら、意識があるかわからなくなったら、あっさり人生やめさせようというところがけっこうあります。それは、まったくまちがっていると私は考えます。)繰り返しになりますが、一人がある地域で生きられるようになることが、次の人たちが、気持ち的にも、そして制度的にも、生きられることにつながります。ここで述べたきたものも、そうして先駆者たちが作り上げてきたものなのです――その辺については安積純子他『生の技法 第3版』(生活書院、文庫版、2012)。その成果をありがたくもらって、そして、自分の後の人たちも得られるようにする。自らが暮らすということは、そういう営みのつながりに自らが参加・貢献することでもあると思うのです。


◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940 [amazon][kinokuniya] ※

ALS――不動の身体と息する機械


UP:20131214 REV:20140125, 0205
ALS  ◇立岩 真也
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