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登場人物(の一部)
立岩 真也
2013/12/10
『造反有理――精神医療現代史へ』
□立岩真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+
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[kinokuniya]
※ m.
■生年順 ◆:連載から引用 ◇:上記の本では出てこない人
※未掲載たくさんあります。これからやります。
◆
秋元波留夫
(1906〜2007)
◆江副 勉(1910〜1971)
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
http://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E5%89%AF%E5%8B%89
1910−1971 昭和時代の精神神経科学者。
1910年11月7日生まれ。1937東京府立松沢病院にはいる。1946年同病院従業員組合初代委員長。1962年院長となり、病院の民主化につとめ、精神衛生法改正にかかわる。脳代謝の研究をおこなった。1971年7月9日死去。60歳。大阪出身。東京帝大卒。(明治・昭和→西暦に変更)
◆
臺 弘/台 弘
(1913/11/28〜2014/04/16)
◆
高橋 晄正
(1918〜2004) 1918年秋田県に生まれる。1941年東京大学医学部卒業。1959年東京大学医学部附属病院物療内科講師。北里大学衛生学部講師、医学博士。1979年停年退官、以後『薬を監視する国民運動の会』代表。(著者紹介より)
◆山本俊一(1922〜)。「一九二二年生まれ。一九四六年に東京帝国大学医学部を卒業し、一九六五年当時は東京大学疫学教室教授。医学部の学生委員、スト対策委員を務めていた。教授団として学生たちにつめよられながら、かつて自身も終戦後間もないころに、引揚者のための医療班の一人として厚生省役人に薬品の委譲を求め声を荒げたことを回想する一文がある。(山本[1982])」(阿部[2011:153]*)
*
阿部あかね
20110325 「わが国の精神医療改革運動前夜――一九六九年日本精神神経学会金沢大会にいたる動向」,
『生存学』3
:144-154
◆
竹村 堅次
(1924〜)「大正13年12月秋田県大館町に生まれ。昭和17年、旧制秋田県立大館中学卒業。慶應義塾大学医学部予科入学。昭和23年、同大学医学部本科を繰り上げ卒業。昭和24年、共済組合立・立川病院インターン終了。慶應義塾大学精神神経科学教室に入る。昭和35年、昭和大学医学部精神医学教室に移籍。51年、同大学医学部教授に就任。昭和58年、同大学精神医学主任教授。昭和34年、昭和大学附属鳥山病院勤務。昭和38年、同病院副院長。昭和46年、同病院院長、同病院名誉院長。平成2年、(財)精神医学研究所附属東京武蔵野病院院長、同病院名誉院長。平成10年、北千住幸仁クリニック勤務。平成15年、医療法人薫風会象潟病院院長。平成1年、東京都精神保健福祉審議会会長。昭和63年、東京都精神医療審査会委員。日本精神科病院協会理事。昭和56年、同通信教育部部長。昭和43年、東京都福祉局精神科嘱託医。平成5年、東京都福祉局障害者施策推進協議会委員。平成7年、(財)日本医療機能評価機構評価部会委員。医療・福祉の両方で、東京都知事医療功労賞、厚生大臣賞を受賞」(竹村[2006])より
◆
江熊 要一
(一九二四〜一九七四)佐久総合病院神経科初代医長をへて、一九五九年母校群馬大助教授。一九六七年の地域精神医学会の設立に尽力。統合失調症(精神分裂病)の治療の場を患者の生活にみいだす「生活臨床」を唱えた。
・
http://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E7%86%8A%E8%A6%81%E4%B8%80
「1924−1974昭和時代後期の精神神経科学者。大正13年7月29日生まれ。佐久総合病院神経科初代医長をへて,昭和34年母校群馬大助教授。42年地域精神医学会の設立に尽力。統合失調症(精神分裂病)の治療の場を患者の生活にみいだす「
「生活臨床」
」をとなえた。昭和49年1月27日死去。49歳。東京出身。著作に「精神医療」(共著)。
◆石川清(1924〜)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%B8%85
石川 清(いしかわ きよし、1924年 - )は日本の精神科医。元東京大学講師。
略歴 [編集]1971年(昭和46年)、日本精神神経学会評議員として、東大教授で元同会理事長の台弘を、人体実験の件で告発[1]。
著作 [編集] 単著 [編集]現代教育亡国論 (実業之日本社)
翻訳 [編集]『精神医学小史』エルヴィン・ハインツ・アッカ−クネヒト/ 医学書院(1976/12)
◆
石川 文之進
(一九二五〜)。精神科医。
◆
浜田晋
(一九二六〜二〇一〇)一九四六年、東北大学医学部に入学、五〇年卒業。五六年東北大学医学部大学院(細菌学)修了。五九年から六八年まで都立松沢病院に勤務。六七年から東京大学精神神経科講師。荒川区峡田診療所・都立精神衛生センター・数か所の保健所勤めを経て、七四年、地域精神神経科診療所を上野に開業。著書に『「ふれあい」の精神医療』(浜田[1979])『街かどの精神医療』(浜田[1983])『こころ医者の記』(浜田[1985])『町の精神科医――精神科診療所開業のすすめ』(浜田[1991])『心をたがやす』(浜田[1994])『街角の精神医療 最終章』(浜田[2006])『老いるについて』(浜田[2010a])他多数。〔第63回〕
◆
近藤廉治
野県飯田市生まれ。信州大学医学部を卒業後、国立武蔵療養所(現国立精神神経センター)勤務などを経て、一九七〇年に長野県立駒ヶ根病院院長に。二年後に南信病院を開設。著書に『開放病棟』(近藤[1975])、『開放、『開放病棟で診る』(近藤[1985])『精神科医のまなざし』(近藤[2010])など。*
* 2008 「医療法人蜻蛉(あきつ)会南信(なんしん)病院――地域医療最前線・28」、大日本住友製薬のHP
http://ds-pharma.jp/medical/gakujutsu/consonance/interview/vol28.html
にすこし追加
◆
石川信義
(一九三〇〜)一九五二年、東京大学経済学部卒。会社勤務ののち、一九六二年、東京大学医学部を卒業して精神科医となる。東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、一九六八年五月、群馬県太田市に三枚橋病院を創設。二〇〇九年二月まで医療法人赤城会・三枚橋病院理事長。単書に『開かれている病棟――三枚橋病院でのこころみ』(石川[1978])『心病める人たち――開かれた精神医療へ』(石川[1990a])『開かれている病棟 おりおりの記』(石川[1990b])、共書に『精神病院を語る――千葉病院・三枚橋病院の経験から』(仙波・石川[1983])、等。〔第63回〕
◆
小坂 英世
(一九三〇〜)
◆
島成郎
[しげお](一九三一〜二〇〇〇)。六〇年安保闘争時に共産主義者同盟(ブント)書記長、六四年に東京大学医学部を卒業、六五年東京大学医学部精神医学教室、六七年国立武蔵野診療所勤務、七二年宜野湾市・玉木病院に勤務、沖縄保健所嘱託医。著書として『精神医療のひとつの試み』(島[1982]、その増補新装版が島[1997])、『ブント私史――青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』(島[1999]、新装増補改訂版が島・島[2010])。他に『島成郎と60年安保の時代I――ブント書記長島成郎を読む』、島成郎記念文集刊行会 編 20020615 『島成郎と60年安保の時代II――60年安保とブントを読む』(島成郎記念文集刊行会編[2002a][2002b])、『精神医療』別冊の島追悼特集号号を単行本化したものとして『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』(藤沢・中川編[2001])。 〔第62回〕
◆岡田 靖雄(一九三一〜) 精神科医 1931年うまれ。1955年東京大学医学部を卒業して、翌年医師となる。東京都立松沢病院、東京大学医学部、荒川生協病院に勤務した。精神科医療史研究会世話人(岡田[2002])・1931年生まれ。1956年医師免許取得(精神科医)。東京都立松沢病院などをへて、現在、青柿舎(精神科医療史資料室)運営(岡田・橋本・小峯編[2010]より)
◆
木村 敏
(一九三一〜)。1931年2月15日 朝鮮の慶尚南道に生まれる。旧制斐太中学校・第三高等学校を経て1955年京都大学医学部卒業、医学博士。1961-1963年ミュンヘン大学精神科に、1969-1971年ハイデルベルク大学精神科に学ぶ。1974年名古屋市立大学医学部教授、1986年京都大学医学部教授、1992-2001年日本精神病理学会理事長。1994年京都大学を定年退官し名誉教授となる。その後も河合文化教育研究所主任研究員、京都博愛会病院顧問、龍谷大学国際文化学部教授[2]を歴任し、2001年龍谷大学を定年退任。2004年立命館大学文学部客員教授、2006年退任。2008年に河合文化教育研究所所長となる。
◆池澤康郎[やすお](一九三二〜)。東京医科歯科大学卒。五九年当時医学連委員長。現在、東京医療生活協同組合・中野総合病院理事長、本病院会副会長。「石井がプラハに行った翌年、一九六〇年の「ときの委員長が、僕よりたしか二年上の池澤康郎です。[…]当時は東京医科歯科大学生です。なお彼は、血のメーデー事件(一九五二年五月)の時にピストルで足を撃たれて、入院した経歴をもってる。事件当時は大学二年生だったはずだよ。」(市田・石井[2010:23]、文中の石井は石井保男、同[2010:41]に註)〔第62回〕
◆石井保男[やすお](一九三三〜)。一九五五年東大医学部進・入学。医学連書記長。一九五九年にプラハへ。一九六七年まで「国際学生連合(IUS)」副委員長。一九七三年 二〇〇八年 医療法人一陽会陽和病院勤務。副院長、附属高等看護学校校長を歴任。二〇〇四年〜二〇〇八年老人保健施設「練馬ゆめの木」施設長。二〇〇八年二月現在医療法人尚寿会大生病院勤務★06。〔第62回〕
◆小田晋(一九三三〜)
◆小池清廉(一九三三〜)。一九五八年京都大学医学部卒業、六三年びわこ学園医長、六八年三重県立高茶屋病医院医長、七三年京都府立洛東病院医長、七六年京都府立洛南病院長。他に京都大学医学部講師、日本児童精神医学会理事、同学会誌編集委員長など(小池[1982]より)。一般書として『だれでもの精神科治療――最新の手引』(小池[1982])。「一九六〇年代の精神医療運動をかえりみて」(小池[1989])、「措置入院と精神医療審査会――人権抑圧的「法改正要望」の問題点」(小池・田原[1990])等
◆
藤澤敏雄
(一九三四〜二〇〇九)一九五三年新潟大学医学部入学。医学部自治会を再建、六〇年安保闘争に自治会代表として参加。六二年、東京大学医学部精神科教室に入局。六六年松沢病院勤務。六七年国立武蔵野療養所勤務。六八年厚生省派遣第二回沖縄医療援助で沖縄に三か月滞在、島茂郎の出迎えを受ける。六九年、立川保健所精神衛生クリニック嘱託医。七三年、「東京都地域精神医療業務研究会(東京地業研)」を発足させ代表に。第三回精神衛生実態調査反対運動を展開。七四年から国立武蔵野療養所、七八年に外来医長、八一年に退職、一陽会陽和病院院長に就任、八五年辞任。八一年、新宿区に柏木診療所開設、八五年立川市ににしの木クリニック開設、所長に。二〇〇二年に脳内出血で倒れる。著書に『精神医療と社会』(藤澤[1982]、増補新装版が[1998])。藤澤を追悼して年譜・著作録を含む精神医療編集委員会編[2010]。〔第63回〕
◆
中井久夫
(一九三四〜)1952年京都大学法学部に入学、結核で休学、五五年同医学部に転部。五九年四月大阪大学医学部でインターン、同年八月医師免許取得、六〇年京都大学ウイルス研究所助手、六六年ウイルス研究で京都大学より医学博士号取得、六七年東京大学医学部附属病院分院精神科研究生、六九年青木病院勤務、七一年東京大学医学部附属病院分院助手、七二年同講師、七五名古屋市立大学医学部精神科助教授、八〇年神戸大学医学部精神神経科教授、九七年定年退官、同年甲南大学文学部人間科学科教授、二〇〇四年退職。兵庫県こころのケアセンター所長に就任、二〇〇七年退職。著書きわめて多数。〔第64回〕
◆
森山 公夫
(一九三四〜)一九五九年東京大学医学部卒。同附属病院精神科に勤める。東大闘争、精神科自主管理闘争に参加。著書に『現代精神医学解体の論理』(森山[1975])『狂気の軌跡』(森山[1988])。私には本誌(『現代思想』)の古い号にこの人と小田晋(一九三三〜)が時々登場するのが――二人が並んでいるのが、というわけではなく――すこし不思議に思えた記憶がある。〔第63回〕
◆
広田伊蘇夫
(1934〜2011)一九六一年東京大学医学部卒。都立松沢病院を経て同愛記念病院勤務。日本病院・地域精神医学会理事長、国連非政府機関(NGO)国際医療職専門委員会日本代表等を務めた。単著に『精神病院』(広田[1981])『断想・精神医療』(広田[1987])『立法百年史』(増補改訂版・広田[2004])。〔第63回〕
◆
風祭 元
(1934〜)「1934年、東京生まれ。茨城県水戸で育つ。1958年、東京大学医学部卒業。インターンを経て、1959年、東京大学医学部精神医学教室入局。1963年、医学博士。関東中央病院、東大病院、東大保健管理センター等に勤務。1970年、米国タフツ医科大学精神科に留学。1972年、帝京大学医学部精神医学教授。1987年、帝京大学医学部附属病院副院長。1994〜2001年、東京都立松沢病院長(風祭[2001]より)
◆中川善資(一九三五〜)一九六二年熊本大学医学部。六三年東京大学医学部精神神経学教室に入局。六六年国立武蔵療養所に勤務。八三年国立療養所全生園に勤務(副院長)。九一年全生園を退職。三枚橋病院に勤務。九四年国分寺市に中川クリニックを開業。〔第63回〕
◆
石井暎禧
[えいき](一九三七〜)。前出。東大医学部卒業。現在、社会医療法人財団石心会理事長。六〇年安保闘争時、(石井保男の後の)医学連書記長として参加。病院勤務のかたわら六五年の第二次ブント再建時に政治局員。地域医療研究会世話人、日本病院会常任理事・医療制度委員長、中医協(中央社会保健医療協議会)委員などを歴任。〔第62回〕
◆松本雅彦(一九三七〜)。一九六四年京都大学医学部卒業。阪本病院、京都大学精神科勤務を経て、京都大学医療技術短期大学部教授、京都府立洛南病院院長、京都光華女子大学教授を歴任した後岩倉病院。著書に『精神病理学とは何だろうか』(松本[1987]、第二版[1989]、増補改訂版[1996])、共著書に『発達障害という記号』(松本・高岡[2008])。翻訳書多数。金沢学会他についての述懐が、座談会等の他、著書(松本[1996:354-355])にある。
◆黒岩卓夫[たくお](一九三七〜)。東大医学部学生のとき全学連リーダーとして活動。東大医学部自治委員長。東大医科学研究所、青梅総合病院をへて、一九七〇年から新潟県大和町診療所に勤務。独自の地域医療にとりくみ、一九八三年ゆきぐに大和総合病院を発足させ院長。平成四年浦佐萌気園診療所長。著書に『地域医療の冒険――みんなの「健康やまとぴあ」をひらく』(黒岩[1987])、『医者の父から七人の子どもたちへ いま言いたいこと』(黒岩[1991]、個人史が記されている)他。〔第62回〕
◆神田橋條治(一九三七〜)
◆斎藤(斉藤)芳雄(一九三八〜)。「一九六四年、東大医学部在学時に医学連委員長。六五年のMLブント分裂[…]に際しては、石井と同じ統一推進派に。しかし六九年には機関中央派(第三章参照)の立場だった。ブント首都圏委員長を経て、赤軍派を除名した第九回大会で中央委員となる。現在、ゆきぐに大和名誉委員長」(市田・石井[2010:266])「医師。新潟県南魚沼市にある「ゆきぐに大和病院」で病院長を長く務めた。」(市田・石井[2010:99])著書に『死に場所づくり――地域医療・地域福祉のめざすもの』(斎藤[1992])、『人生九〇年時代 老い方・死に方』(斎藤[1997])〔第62回〕
◆徳田虎雄(一九三八〜)。大阪大学医学部卒業。医療法人徳洲会理事長、医師。自由連合代表、元衆議院議員(当選四回)、元沖縄開発政務次官。鹿児島県徳之島町名誉町民。著書多数。徳洲会の関係者が「地域医療研究会」(後出)に参加していたことがあったこと等が市田・石井[2010:232-233,267]に記されている。一九八二年に島成郎から徳田を紹介され唐牛健太郎(一九三七〜一九八四、六〇年安保闘争時の全学連委員長)がその選挙活動や医療広報活動にあたったことがある。〔第62回〕
◆
八木剛平
(一九三八〜) 1938年神奈川県生まれ。1962年慶應義塾大学医学部卒業。1963年慶應義塾大学病院にてインターン修了、慶應義塾大学医学部精神神経科助手、山梨・日下部病院(現・日下部記念病院)出向(医員)。1965年神奈川・皆川病院(現・けやきの森病院)出向(医員)。1979年東京都立大久保病院神経科医長。1986年慶應義塾大学医学部精神神経科専任講師。1991年同助教授・2003年同客員教授・2004年同非常勤講師。2004年翠星ヒーリングセンター長(八木[2005]より)
◆
小澤勲
(1838〜2008)一九六三年に京都大学医学部を卒業。精神科医。一九七〇年から京都府立洛南病院に勤務。同病院副院長、介護老人保健施設「桃源の郷」施設長、種智院大学教授、同大学名誉教授、同大学客員教授を歴任。一九七〇年の著作に、『反精神医学への道標』(小澤[1974])、『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』(小澤[1975])、二〇〇七年に再刊された大著に『自閉症とは何か』(小澤[1984→2007])。九〇年代に入って『痴呆老人からみた世界』(小澤[1998])、岩波新書の『痴呆を生きるということ』(小澤[2003])、『認知症とは何か』(小澤[2005])が広く読まれ、その領域の実践者・著作家として知られるようになる。他に『物語としての痴呆ケア』(小澤・土本[2004])、『認知症と診断されたあなたへ』(小澤・黒川編[2006])、『ケアってなんだろう』(小澤編[2006])。
◆
今井澄
[きよし](一九三九〜二〇〇二)。「東大医学部卒業。医学連を経て、共産同ML派、ML同盟に。六九年の安田講堂攻防戦では防衛隊長を務めた。佐久市立国保浅間総合病院勤務を経て、組合立諏訪中央病院に勤務、一九八〇年に同病院院長に就任する。一九九一年同病院を退職。長野県の公立諏訪中央病院に赴任していた七七年に、安田講堂事件の判決が確定し、靜岡刑務所に服役した。そのとき、刑務所に向かう今井を病院スタッフ一同と多くの患者が駅で見送り、花束を贈ったエピソードはよく知られている。出所後、八〇年に諏訪中央病院院長。九二年から参議院議員(社会党)、その後民主党に移り、二〇〇二年に死去するまで議員の職にあった。」(市田・石井[2010:100])著書として『豊かな明日への暮らしと医療――高齢化社会と地域医療』(今井[1992])、『理想の医療を語れますか――患者のための制度改革を』(今井[2002])。(市田・石井[2010:100]等で言及)〔第62回〕
◆丸茂文昭(一九三 〜)。東京医科歯科大学卒業。六〇年安保の時の医学連副委員長。六・一五事件で重症を負う★07。東京医科歯科大学教授。腎不全、人工透析関連の著作多数。慢性カドミウム中毒についての発言もしている★08。〔第62回〕
◆黒岩秩子[ちづこ](一九四〇〜)。一九六〇年学生運動で知り合った黒岩卓夫と結婚(旧姓北大路)。高校教諭(数学)に。七〇年保母に転職。調布市保恵学園保育園に勤める。七一年新潟に引っ越し、保母。九〇年から登校拒否児・障害者たちのスペース「大地塾」主宰(九八年閉鎖)。九五年参議院議員選挙に、新党さきがけから比例代表区で立候補。二〇〇一年三月繰り上げ当選で参議院議員を五か月務める。厚生労働委員会に所属。後に新潟に戻り、社会福祉法人の評議員を務め、ケアハウスの運営に携わる。知的障害者虐待事件の裁判、無年金障害者の裁判の傍聴・支援などを続ける。著書に『7人の母、国会を行く――ひきこもり・障害児者とともに』(黒岩[2002])他多数★09。参議院議員を経て現在衆議院議員(民主党)を務める黒岩宇洋(一九六六〜)は黒岩夫妻の子。〔第62回〕
◆
山田真
(一九四一〜)
◆松本文六(一九四二〜)。「現在は社会医療法人財団「天心堂」理事長。[…]一九七一年九州大学医学部卒業。六八年六月の米軍機墜落事件(ファントム戦闘機が九大工学部の建物に激突)を機に、学生運動に参加、医学部自治会委員長となって無期限スト闘争を組織する。一九八〇年、大分市に天心堂へつぎ病院を設立し、院長に就任。地域医療研究会の主要メンバーの一人である。二〇〇七年には参議院議員選挙に立候補したが、落選」(市田・石井[2010:266])。著書に『パンドラの箱を開けたのか――崩れゆく日本の医療』(松本[2007])、分担執筆した文章に「「脳死」移植問題を考える――医療現場の感覚と生命倫理の乖離」(松本[2004])等。関わった本に『注射による筋短縮症』(注射による筋短縮症全国自主検診医師団学術調査委員会編[1997])。〔第62回〕
◆
富田 三樹生
(一九四三〜)1943年、新潟県生まれ、1969年新潟大学医学部卒業、佐久総合病院勤務をへて、1971年に東京大学精神科。精神科医師連合に参加。1980年11月東京大学精神医学教室助手。日本精神神経学会「精神医療と法に関する委員会」委員。著書に『精神病院の底流』(富田[1992]、『東大病院精神科の30年』(富田[2000])。北久米川病院
◇岡崎 祐士(おかざき・ゆうじ)(1943〜)
http://jpop-voice.jp/schizophrenia/i/0904/01.html
「都立松沢病院 院長 1943年熊本県生まれ。東京大学医学部卒業。長崎大学助教授、三重大学教授などを経て、現在、精神科病院ながら内科・外科等の諸科を有する東京都立松沢病院院長として精神科医療に従事。日本統合失調症学会理事長、日本精神神経学会理事なども務めている。」
◆横山博(1945〜)「1945年生。京都大学医学部卒。ユング派分析家。甲南大学文学部人間科学科教授。専門は精神医学、臨床心理学。著書に『心理臨床の治療関係』(編著、金子書房)、『神話のなかの女たち』(人文書院)など。」(横山編[2003]奥付より)
◆
岡江晃
(1946〜2013)
◆
浅野 弘毅
(一九四六〜)。1971(昭和46)年 東北大学医学部卒業 1983(昭和58)年仙台市デイケアセンター所長 1989(平成元)年 仙台市太白保健所長兼仙台市デイケアセンター所長 1993(平成15)年 仙台市立病院神経精神科部長兼老人性痴呆疾患センター室長 2004(昭和16)年 東北福祉大学総合福祉学部教授兼認知症介護研究・研修仙台センター副センター長 『精神医療論争史』(批評社)、『精神科デイケアの実践的研究』(岩崎学術出版社)ほか
◆
木田 孝太郎
(1947〜)「昭和22年4月生れ 47年京都大学医学部卒業 48年長浜赤十字病院精神神経科勤務 55年 木田クリニック開設 55年湖南病院開設・院長に就任 平成 元年8月 医療法人周行会設立・理事長に就任 6年グループホーム、12年には訪問看護ステーション、老人保健施設を開設 13年精神障害者地域生活支援センター・援護寮を開設 現在に至る。著書「心をみまもる人のために」(学研)他」
◆鎌田實(一九四八〜)。すこし生年の離れた人だが、こんどの本の「帯」に文章を寄せている人でもあり、ここにあげる。東京医科歯科大学医学部では全共闘に参加。諏訪中央病院医師。一九八八年、今井澄のあとを受けて同病院院長就任。著書たいへん多数。〔第62回〕
◆高木俊介 1957年、広島県因島で生まれ、岡山で育つ。1983年、京都大学医学部卒業。京都大学医学部附属病院精神科評議会で研修の後、大阪の私立精神病院と京都大学医学部附属病院精神科にそれぞれ約10年ずつ勤務。幅広く精神科臨床を行いながら、統合失調症の精神病理を専門に研究する。日本精神神経学会にて統合失調症の病名変更事業にかかわる。精神障害者の在宅ケアを行うACT(アクト=包括型地域生活支援プログラム)を立ち上げるために、2004年、たかぎクリニックを開設(……)
UP: REV:20130307, 0402, 1117, 20140829
◇
WHO
立岩 真也
Shin'ya Tateiwa
TOP
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◇