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障害者差別禁止の限界と可能性

立岩 真也[Korean]) 2013/11/22*のための資料
*障害学国際セミナー2013 於:立命館大学
[Korean]


 *以下に収録
◆立命館大学生存学研究センター 編 20140319 『日韓研究交流活動2013報告書』,立命館大学生存学研究センター,241p. ※r pp.17-25,コリア語訳pp.26-33

強制・禁止は必要ではある

 権利が実際に保持されるべきであれば、それは強制力を行使することによって実現される。当然のことである。
 2013年に日本で成立した法律の「障害者差別解消法」という名称について。「差別禁止」といった文言は現政権下では支持されない。「差別」も「禁止」も「権利」も好きでない人たちがいる――その人たちは別の主題では(とくに「国家」に関わることについては)「禁止」や「強制」や「義務」を支持するのだが。今度の「解消法」は、これらの人たちと「禁止法」を作りたい人たちとの妥協の産物ともいえようが、すくなくとも名称については、すべきではないというほどの妥協ではなかったとはいえよう。(ちなみに米国の法律にも英国の法律にも「禁止」という言葉は入っていない。)「差別」という言葉は入った。「禁止」しても「解消」されないことはあるのだから、「解消」のほうが大きな目標だと言って言えなくもない。
 問題は、もちろん、中身である。第8条は次のようになっている。

 「(事業者における障害を理由とする差別の禁止)
第八条 事業者は、その事業を行うに当たり、障害を理由として障害者でない者と不当な差別的取扱いをすることにより、障害者の権利利益を侵害してはならない。
2 事業者は、その事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をするように努めなければならない。」

 「侵害してはならない」とあるのだから、条文においては禁止されている、義務が課されている(と十分に読むことができる)。それをどのように実現するのかは今後の(困難な)課題ではあるが。

しかし差別はなくならない

 けれども、その法律がうまく実施されたとしても、差別はなくならない。一つに差別は、この社会の基本的な体制に根ざしているあるからであり、しかも、たんにその体制を変えればどうにかなるというものでもないということだ。とくに後述する「能力」に関わる差別については、とくに悪意がなくてもそれは生じてしまう。
 よほど楽観的な人でなければそんなことはわかっていると言われるだろう。けれどもそのことを確認しておく意味はある。法律が限定的なものであることは、それが無効であることを意味しない。限定的であることさえわかっていればよい。わかっていたほうがむだな幻想を生じさせることがない。
 さてそもそも障害者差別とは何か? その前に障害とは何か? 障害と区別されつつ並列される病とは何か? 詳しい話は立岩[2011](英語論文)等でしている。簡単にしよう。病とは身体のあるいは身体にまつわる(1)「苦しみ」であり、(2)「死」の到来の可能性である。障害とは(3)「できないこと」であり、(4)「異なる」ことであり、(5)「加害(の可能性)」とつなげられるものである。
 これはごく素朴な分類だが、それは「障害の社会モデル」の理解に関わる。社会モデルは基本的に(3)についての理論である。だからそれが、(1):痛み・苦痛――痛みのない障害はあるが、例えば精神疾患・精神疾患では多く苦痛がある――を度外視しているという批判は当然にあるが、それは社会モデル自体が限定した部分を対象にしたものであることを認めるなら、そのモデルを批判しても仕方がないということでもある。そして、その痛み――も様々だがすくなくもその一部――は他人・社会がどうすることもできない。(2):死そのものを(遅らせることは多くの場合に可能だが)なくすこともできない。
 加えておけば、(1)痛みが(3)できないことに関わることはあり、そうであるかぎり、れそれに対する社会的対応は可能であり、またなすべきことである。幾度かこのセミナーで 複合性局所疼痛症候群:Complex Regional Pain Syndrome (CRPS)やその組織について報告している大野真由子の研究を参照のこと。
 ここでは(3)と(4)をとりあげる――(5)について考えることはやはり精神障害(者)に関わって重要だが、ここでは略す。

(4):異なりについて

 当然、人はさまざまに、無限に異なる。しかし、そのある部分を取り出し、それを否定的に価値づけ扱うのは人間たちであり、社会の側である。その否定的価値付与・扱いが不当であり、禁じられるべきであると主張することは十分に可能である。(このたびの日本の法律では、「心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。」とあるから、この法律は(3)を対象にしていると考えるのが常識的ではあるだろうが。)
 そのことを主張している日本人の研究者としては西倉実季がいる。西倉の論文の一つに「顔の異形は「障害」である――障害差別禁止法の制定に向けて」がある。その論文が収録された本の書評(立岩[2012])を私は書いていて、そこでもその論文についていくらかのことを記している。
 まず私の立場を示せば、私はその差別を法的禁止の対象に反対しない。賛成する。(そして、私はその詳細を知らないが、西倉によれば幾つかの国においてそうした差別は障害者差別として法的に禁止されてもいる。)
 その上で、その書評でも幾つかのことを述べた。一つに皆が思うことは、人々の「意識」まで変えることできないだろうということだ。そしてそれはその通りである。ただまず、法律というもののたいがいはそういうものであるし、本来はすべてそういうものであるべきであるともされる。後者の主張を認めるか否かさは別に、効力に限界があるのは事実だ。ただそれはそれが無効であることを意味しない。人が実際のところどう思っているかどうかは別として、行為を制約したり禁止することはでき、その意義があることはある。またすくなくともこうした行ないはするべきでない差別である、差別的を行ないをしてはならないと明文化され、その規則が実施されることは、人々の日頃の行ないや意識に対しても影響を及ぼすことはありうる。
 問題の一つは、例えば外形の変異による差別といった場合、どの範囲を差別の対象とするのかである。一方に例えばなんらかの外傷等による明らかな顔の変形といったものがある。ただ、実際には、人はしごく曖昧な「美醜」といったものによって、差別されたり、されなかったりする。前者による差別はいけないが、後者は問題ないといったことがあるだろうか。ないように思われる。とするとどうしたらよいか。難しいように感じられる。ただこのことはその差別禁止を否定するものではないことにも注意しておこう。差別とし禁止できるものが部分的でしかなくとも、その部分については有効であるなら、それは何もしないよりはよいと言えるからだ。
 もう一つは、後で述べることと共通する。つまり、例えば雇用において差別・排除があったとして、その理由が他でなく例えは容貌にあることを――そのことを証明しないとその行ないが罰せられたりすることがないとして――どのようにして示すことができるかである。(ただこれもその法そのものの意義を否定するものではないことを加えておく。ただこの技術的な問題にどう対処するかという問題は残ることは押さえておこう。)

(3):できないことについて

 では、「できないこと」、普通の意味での障害についてはどうなるのか?
 とくに問題になるのは労働についである。ある仕事について、その仕事が「できない」人がその仕事で、この法律によって雇われるようになるかである。日本の法律にこのことに関わる文言はないが、そんなことを多くの人は考えたこともないだろうし、そのことを問われたら、そんなはずはないと言うだろう。当然経営者たちも反対するだろう。そしてこのことに関わる規定が、ADAにおいては明示的に存在する。つまり「資格のある(qualified)障害者を障害ゆえに差別してはならない」とある。「資格のある障害者」とは、「職務に伴う本質的な機能(essential functions)を遂行できる障害者を意味する」とある(第一章・第一〇一項・八)。(そしてこの「本質的な機能」に関わらない部分について、雇い主の側は「合理的配慮(reasonable accommodation)」をしなければならないということになっている。「本質的な機能」以外(の障害)について差別してはならない、つまり「中心的な機能」についてなら差別してよいということなっている。
 しかしそれは障害者を差別していることにならないか。なるはずである。一つに、様々なことができない多くの種類の重度の障害をもっている人のことを考えてみてもよい。その人は障害ゆえに、本人に責はないが、職につけない。一つに、なぜだかわからないが、他の人よりいくらかできない人がいる。ここではとくに、とくに「障害学」[Korean])などしている人はあまり思いつかないだろう後者について考えてみる。その多くは身体を調べてみても多くなにか「インペアメント」が発見されたりはしないだろう。そして人は、「努力」を持ち出すかもしれない。たしかに努力をすればできるようになることもあるだろう。そのことは否定しない。
 けれども誰もが各人の間に存在する差異を努力だけによって説明することはできないだろう。そしてその努力によって説明できない「残余」の部分はその各々の身体に関わって存在していると言っても否定はできないだろう★01。そしてそれは本人に帰責されない部分(本人のせいにできない部分)である。それによって本人はわずかであるかあるいははなはだしくであるか、不利益を被る。しかしそれは不当なことであると、「障害者差別」だと言えるはずだ。
 ならばどう考えるか。どうするか。これはこの社会の最も基本なところ――と私が考えるもの――を問題にすることに等しい。ではどうするか。それを私は立岩[1997](その第2版が立岩[2013])他で考えてきた。その詳細は省く。雇用・労働における「差別」を根絶することはできないし、しなくてよいとする。ただ、一つに、そのことによって生活の水準に大きな差が生ずることは正当化されない。とするとそれは一つに、市場以外の場において是正されることになる。同時に、働きたい人がより多く働けるようにすること、とくに労働時間の短縮や柔軟な働き方を望む人にそれを実現するといった労働政策も否定されない。(さらに加えれば生産財の所有のあり方の変更も正当であると考える。)

★01 障害を言うために必ずしも「損傷(impairment)」があることを示す必要、それがなんであるかを示す必要はないと考えるべきである。このことを昨年のセミナーでは次のように述べた。
「原因が何であろうと実際に生活をいとなむ上で痛い、不便だ、苦しいということがあったときに、それを補う義務が社会にはある、とシンプルに言えばそれだけのことで、原因が何であるかということは本来、問題にならないはずです。だけれども、イギリス障害学のimpairmentとdisabilityという言葉の概念規定そのものの弱点でもありますが、あたかもimpairmentが特定されないとdisabilityという話にならないという仕組みになっているわけです。それは学の理解のなかにある問題でもあるわけですが、そういったややこしい話を脇に置けば、とにかく原因は何か分からないけれども身体が動かない、痛い、だからあそこまで行くにも自分では行けない、ということをわざと言いたい人がいるかと考えれば、そんなにはいないと思います。そうやって考えてみれば、実はCRPSかどうかの線引き問題は本質的なものではありません。いろいろと政策を進めていくなかではさまざまな問題が出て来ます。しかし障害学の基本的発想に戻って考えれば、そうした線引き問題は存在しないと言うことは出来るはずです。」

雇用差別の禁止について

 このように考えた場合に、就労に関する先に述べたような内容の差別禁止法はどう位置づくか? 米国・英国…における障害者運動を牽引してきた人たちの多くは、(いくらかの)「合理的配慮」があれば――例えば車椅子が使用できる環境であれば――職につける「有能な」障害者であったから、その人たちはこうした法律の制定に積極的であったのはよくわかる(対して日本の(新しい)障害者運動がすこし別のことろから発したことについては立岩[2010][English]/a>/[Korean][Chinese])で簡単に述べている。)また、本来は優秀・有能な人材を確保できるなら、生産力・生産性を気にする側にとってもこのきまりはわるくないかもしれない。
 ではそれだけのことか。そうともいえない。私たちは求められている仕事が(相対的に)できない人がその仕事から外されることは仕方のないことだとした。同時に、求められている仕事ができるなら、性・民族・…等々、それ以外の理由によって差別されることが認められないとは言えよう。そして、現実においてもまたより正当な分配がなされる社会においてであっても、働いて収入を得る人はそうでない人より収入が多く、それを求めることを否定する理由はない。そして、仕事を得ることには収入を得る以外の利得(例えば社会貢献や社会参加することによって得られるもの)があり、それを得ようとすることもまた否定できない(より詳しくは立岩[2001])。とすれば、ADA型の差別禁止は肯定される。
 しかしこの法律は有効に機能しない可能性があり、また実際に米国等でも機能していない。このことを私は2012年のセミナーの午前の部での質問・コメントの中で述べた。

 「1点だけ補足させていただきます。[…]長瀬さんの報告のなかにもありましたけれども、ADAによって障害者の就業率が上がっていないどころかむしろ下がっているということです。このことはきちんと考えておいたほうがよくて。つまりこういうことです。障害者を雇用するためのコストがかかり、そのコストを企業自身が負担しなくてはならない。そうした場合に、同じ仕事を出来る人が目の前に2人並んでいたとして、企業はどちらを採用するか。おそらくコストのかからない人のほうを採用するわけです。それは不当だとBさん(障害者)は企業を訴えるかもしれません。しかし企業側は「そんな理由で雇用しなかったわけではない」と言い張り、それに反証することは非常に難しいわけです。このようなことになると、結局原告である雇用されなかった障害者が敗訴してしまうという、簡単といえば簡単な話であるわけですけれども、そういうことを一つおさえておく必要があります。そうすると、なすべきことはそれほど多くはありません。一つには雇用にかかわる費用負担の問題、先ほどイ・ソックさんが、報告の終わりのほうで政府の役割について述べていましたが、たとえばその部分にかんして政府が幾分か負担するならば、一定の効果があがるでしょう。そしてADA的な雇用政策のなかでは何か古くさいものとして雇用割当や雇用率の設定があるわけですが、そうとばかりは言えないということで、それらの組み合わせをどのように構想し実践していくかといったあたりが、障害学が政策に対して理論的に貢献できるところではないかと思います。」(立岩[2012c→2013],※コリア語訳あり)

 例えば職場における介助者の派遣等。職場への(また教育の場への)公的制度のもとでの介助者、ホームヘルパーとしての派遣は日本では認められていない。(雇用に関わる助成金をそうした人の雇用に使うことはできなくはない、ただ当然金額の問題があり、また助成金には多くの場合期限がある。)しかしそれを認めてよいはずだということになる。 (それで達成される生産が例えば2人で1.2であるといった場合はどうか、このとき代わりに介助者が1人で働くなら1の生産が得られるといった場合はどうか、しかしその本人は仕事をしているにせよしていないにせよ介助者を要するならどうか、といった問題が、「理論」的には生ずるだろう。)★02

★02 こちらの大学院では中村雅也が視覚障害をもつ教師たちに対する聞き取り調査による研究を進めている(論文に中村[2013])。それによれば、教師たちの場合、個別の援助者が付くよりも、同僚の、そして中学校・高等学校など科目別に担当の教師が配置される場合には同じ科目を担当する同僚教員の支援が有効であることがあるという。とすればこの場合には、当該の科目について担当教員をいくらか多めに配置する(ための予算を支出する)といった方法が有効であるということになる。

合理的配慮・過重な負担

 以上でも結局コストが問題になった。
 差別解消法第7条2には「その実施に伴う負担が過重でないときは」とある。もちろん問題はどれほどが「過重」である/ない、かだ。
 無限に支出せねばならないとしたら、それはなかなか受けいなられないだろうとは思う。そして現実は、その時々の予算の制約といったものによって決定されるのではある。
 ただ論理としては、他の人が得られるものが得られるのと同じだけのものが得られるのが当然であり、そのための追加費用は社会的に支出されるべきであるということになる★。03これを、実現可能性以外の根拠で正面から批判・否定することはできないはずである。(そして実現可能性については、私自身は十分に実現可能であると主張し続けている。必要なものは人と人以外のものである。人は――もちろん異論のある人はいるだろうが――余っており、もの(を作る原料)も他のものを作る程度には(まだ)この世界に存在する。このように考える。)
 そして、これが先に記したことでもあるが、その費用をどこが負担するかという問題がある。同じ費用をかけるのであれば、誰が負担しようと、自明なことだが負担そのものは同じである。その上でどちらがより確実か、効果的か、そして公平かといったことが問題になる。例えば同じような規模の(大きな〜いずれにせよ一定の障害者を受け入れることになる)企業によってある財の生産がまかなわれているといった場合、そして「合理的配慮」の義務が実際に確実に履行されるといった場合には、そのことによって各企業の競争力に大きな違いが出てることにはならないから、雇い主に義務を課してもよいだろう。ただそうした条件がそろわないことは多々ある(例えば費用負担が競争力〜経営に影響を及ぼすような小企業、等)。そうした場合には税を使うほうが望ましいということになるだろう。以上は雇用の場合だけでなく、教育機関による障害をもつ学生の受け入れといった場面についても言える。また客を受け入れる商業施設等についても言える。とくに商業施設については、障害がある消費者も消費者なのだからその消費者を受けいれることができることは利益をもたらす。一定以上の規模の施設については義務化してそれを確実に遵守させるといった方向で整備を進めることはできるだろう。

★03 個別に必要〜負担が異なる場合にどう考えた方がよいか。私は二つのことを言ってきた。A:一つは、消費に関わる費用については、妥当な収入が各人にあるという前提のもとで、その収入の使途については個々人の選択によって決めるものにし、それに付随する費用については、全て社会的に負担することが公平の原則にかなうということだった。
 B:一つは、上記の場合には、その費用は自ずと決まってくるのだが、実際にはその条件は私たちの社会にそなわっていない。例えば所得に不当な不均衡がある。また多くの人の場合には金銭を払って得ていないものがある(例えば自力で自分の用を足すことがある)――そうしてそうした財・行為を人によっては、他人から得る(介助サービスとして得る)ことがある。こうした場合にば第一に示した基準をそのまま当てはめることはできない。では結局、障害を――医学モデルであれ社会モデルであれ――客観的に測定しそれに基づいて支給するということなるか。例えば介助サービスの場合、その必要はないと私は主張してきた。以下は昨年のこのセミナーの午後の部における質問・コメントの一部。

 「日本でもそうですが、どこの国でも障害の認定・判定にかんしては、多くの障害者たちが反感と疑問を感じ、かつ不利益を被っているのは確かです。そして大野さんが報告の後半で例示された基準(criteria)ですが、相対的にはいまの日本のものと比べれば使えそうだ、ましだという感じは確かにしました。ただし、障害学というのは現実に寄り添いつつも一旦距離を置いて、理論的な可能性を探るという、学問にはそうした機能と役割があるとも思います。[…]使った分だけについて支払う、欲しいだけ出す、という可能性について論理的に検討してみる価値はある、ということです。それは私が今年『差異と平等』という本で書いたことです。それは日本語しかないので韓国の方には読んでいただけないかもしれません。つまり、こういうことです。いろいろな場合、たとえばニセ患者の例や、それから多く得ようとする人たちがいるという話がありまして、それらがどういう場合に起こるかは分けて考えたほうがいい、という話です。お昼に韓国のCRPSの患者会の方と少しお話しさせていただいて、これは難しいなと思ったのは、徴兵逃れの問題でした。これは確かになかなか、どう考えればいいのか、と思いました。私も考えたことがなかったので。ただ、その、いわゆる社会サービスを、医療サービスと福祉サービスを含めてですが、われわれはそういったサービスをたくさん得られるならば得られるほどより幸福になると考えているかといえば、そうではないわけです。たとえば好きこのんで病院に行く人は、まあ普通はいないわけですよね。仕方がないから必要な分だけそのサービスを受けるという性格が、医療にはあります。実際に日本の医療保険では、自己負担分はありますが、基本的には「この病気についてはいくらしか出さない」とはなっていません。出来高払いのシステムで50年以上運営されています。それから類比的に考えてみると、社会福祉サービスもあればあるほどうれしいというようなものではないと思います。だとすれば、自己申告あるいは利用後に請求するという、普通に考えれば荒唐無稽に思われるかも知れない案も、論理的にはありうるということになります。もちろんそういったことをいま政府に要求しても聞いてくれないでしょう。[…]ただ、少なくとも論理的にも現実的にもあり得る選択であるということを一方の極に置いて考え、そして今の不合理な現実を別の極に置いて考え、とりあえずその間のどのあたりに落としどころを作っていくのかという意味で、学問、disability studiesというものがおこなうことは、「この可能性もありじゃないか」と一つの限界を設定し、示すことです。もちろん現実にはそのとおりにはいかないにせよ、それを示すこと自体に意味があります。そこに、運動や政策とは別に、障害学というものが存在する意義があるのだと思います。長々と申し訳ありません。」(立岩[2012d→2013],※コリア語訳あり 『差異と平等』は立岩・堀田[2012]、その中でこの主題について論じているのは[2012a])。

 以上ではBだけが述べられているが、A・B両方(とその根拠)が立岩[2012a]では記されている。そしてBは立岩[2000a]以来幾度か述べてきたことであるのに対して、Aをはっきりと述べたのは立岩[2012a]が最初ということになる。

■文献

◆川端 美季・吉田 幸恵・李 旭 編 2013/03/22 『障害学国際セミナー2012――日本と韓国における障害と病をめぐる議論』,生存学研究センター報告20
◆松井 彰彦・
川島 聡長瀬 修 編 2012/09/25 『障害を問い直す』,東洋経済新報社
◆中村雅也 2013 「視覚障害教師たちのライフストーリー」、2012年度立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文.
◆西倉 実季 2011/06/23 「顔の異形は「障害」である――障害差別禁止法の制定に向けて」,川島・長瀬編[2011:25-54]
◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』 勁草書房,445+66p. ISBN:4000233874 6300 [amazon][kinokuniya] ※
◆―――― 2000a 「遠離・遭遇――介助について・1〜4」,『現代思想』28-4(2000-3)〜28-7(2000-6)→立岩[2000b:221-354]
◆―――― 2000b 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社
◆―――― 2001/12/25 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』37-3:208-217(国立社会保障・人口問題研究所)→立岩[2006]
◆―――― 2006/07/10 『希望について』,青土社,309+23p. ISBN:4791762797 2310 [amazon][kinokuniya]
◆―――― 2010/08/12 「障害者運動/学於日本・2――人々」[English]/a>/[Korean][Chinese]
◆―――― 2011/08/00 "On "the Social Model"", Ars Vivendi Journal1:32-51
 http://www.ritsumei-arsvi.org/contents/read/id/27
 http://www.ritsumei-arsvi.org/uploads/contents/23/2011AVJ1_Article_Tateiwa.pdf
◆―――― 2012a(2012/06/10 「差異とのつきあい方」,立岩・堀田[2012]
◆―――― 2012b(2012/09/25 書評:松井彰彦・川島聡・長瀬修編『障害を問い直す』」,『季刊社会保障研究』48-2(Autumn 2012):240-243
◆―――― 2012c(2012/11/23 「雇用差別の禁止について/国連条約に対する韓国の寄与について」(質疑応答において),障害学国際セミナー2012 於:韓国・ソウル市 イルム・センター→川端・吉田・李編[2013:103-104]
◆―――― 2012d(2012/11/23 「対立について/「基準」について」(質疑応答において),障害学国際セミナー2012 於:韓国・ソウル市 イルム・センター→→川端・吉田・李編[2013:235-237,239-240]
◆―――― 2013/05/20  『私的所有論 第2版』 ,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 [English] [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也・堀田 義太郎 2012/06/10 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社,342+17p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [English] / [Korean] [amazon][kinokuniya] ※ w02, f04


UP:20131013 REV:20131023
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  「障害学」[Korean]) 
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