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承認?

立岩 真也 2013/03/08 一橋大学・大学院社会学研究科 先端課題研究12「社会科学の承認論的転回」
特別シンポジウム「生と性をめぐる承認」,於:一橋大学
http://www.soc.hit-u.ac.jp/~politics/sentan-information.html
http://www.soc.hit-u.ac.jp/~politics/sentan-index.html


■1 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」*より最後の部分
*立岩 真也 2000/10/23 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p. 2800+,第1章 初出は同じ題の『現代思想』原稿

 「もっと積極的には、その人が条件をつけずに肯定されること、少なくとも許容されること、ということになるだろうか。けれど、それがどのような意味で可能なのか、私にはよくわからない。少なくとも、肯定し続けることができるようには思えない。ただ、肯定されることへの欲望もまた一つの症状であると言えるかもしれない。否定が肯定への衝動を形作っているのだとすれば、ともかく肯定される時、肯定への衝動もまた終わっている。その意味で、肯定の過程とは、構築されるとともに解体されていくような過程であるのかもしれない。☆23」

■2 「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」第3節「人に対する人」第2項「承認の重みを軽くすること」(案)より*
*立岩真也 2012/03 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版(近刊)

 「他人に供することができるもの(他人の評価の対象になるもの)には、自分で獲得でき変更できるものもあるが、それには多く限界がある。他方、その他人の評価・好悪、他人にとっての必要は、その他人自身によっても容易に変更はされないものとされる。結果、多くは他の条件も作用して、その人に売れるものがないことはある。それで生活できないことがないようにしようというのが、ここまで述べたことだった。そしてそれは実現可能なことである。
 ただ、その人(他人)による評価・好悪そのものが本人にとって大切なことがある。しかしそれは同時に、随意に他人から求められない、求めても得られないものがあるということでもある。例えば好かれないことがある。得ようとして得られないものもあるし、それを止めることはできないし、また止めるべきでもないことがある。第8章5節4・○頁で、結局のところ、相手の「恣意」如何によって得られる/得られないものが定まり、その契機を受けいれることなしに得ることに意味がないもの、得ることのできないものがあるとした。そしてそれは、他方の側、その相手側の人自身にとっても不如意であり譲渡できないもの、例えば「気持ち」を保護することでもある。
 ただその結果として他方は得られない。ここでの「不平等」は解消されない。しかしまず一つ、そのことと他の財を得られる/得られないことの関連をなくす、少なくとも弱くすることができれば、とくに対・家族を形成することと経済的な利得との関連を弱くすることができれば、すくなくともその部分の生活が相手方の人々の恣意によって左右されることはなくなる。
 そして、人が一般に「承認」を求めることがあることを否定しないし、それが否定されることを否定するが、それ以前に、承認・肯定を求めてしまうことをあまりしないですむことが望ましいとする。そしてそれは不可能ではないとも考える。私の承認といったものにかかっている負荷、その重さを減らすことはできる。
 そして私たちはここでも、認めることに幾重もの層や相があることを踏まえておく必要がある。(にもかかわらず、承認を巡って書かれる種々の本――『自由の平等』(の刊行予定)の第2版そして[2014a]で紹介する――では、その当たり前のことにあまり配慮がなされていないように思う。)例えば、承認する側の人として想定されるのは特定の個人なのかそうでないのか。また、気の合う人間としては認めない(認められない)が、同じ地域に暮らすことは認めるといったことがあるだろう。同じ地にはすまないが、その人(たち)に渡すのための徴税には(しぶしぶ)応じることがあるだろう。あるものを自分では食さないが、その人が食すことは認めるといったことがあるだろう。そして分離や孤立にしても、ときにわるいことではない。相互理解はそれとしてけっこうなものではあるが、無関係でいられるような関係があってもよい。
 さらに、根底的・全面的な肯定といったものが(人生の最初の方に)本来はあって、あるべきであって、それがないと人はおかしくなるといった話もそのままに受け入れることはないだろう。たしかに全面的な否定に囲まれて暮らしていたら、おかしくなりもしよう。しかし、その根底的・全面的な肯定とはなんであるのか、よくわからない。よくわからないままそれを与えなければならず、その後になにごとが起こるとそれはその不足のせいであるとなると、それはそれで困ったことだ。自らを顧慮しないですむこと、承認を求めずにすむこと、そんな状態が求められてよい。そのこと、そのためのことを本書で述べてきたのだとも思う。
 と同時に、あるいは以上を成立させるためにも、認めるにせよ認めないにせよ、それがその他人に大きく関わってしまうならなおのこと、それがたんに「私(たち)」に発しているものであることを確認すること、そうであるから、そのような選好によって人を予め改変しようとはしないようにしようということである。それはときに人々の「本心」を偽ることであるのかもしれないが、だからといって偽りであるのではない。自ら(たち)が作為したものは、その者たち(自らたち)の意志や好みが被さったものであり、そのものたちがもっぱら受け取れるものではない。それは実際には人々の好みに反している。以上について、もっとなにか言えるかわからない。それでそのことについて書こうと思って始めた「連載」(立岩[2011-])はそのままになってしまっている。」

■3 2013/02/01 「制度と人間のこと・8――連載 86」
 『現代思想』41-2(2013-2):8-17

■4 2013/03/01 「制度と人間のこと・9――連載 87」
 『現代思想』41-(2013-3):-

■5「性の「主体」/性の〈主体〉」より
 1999/06/26 第35回日本=性研究会議「性の主体性」講演・シンポジウムの記録→第36回の会議資料に再録
 →報告に続く「討議」の部分を含め立岩・村上[2011:239-252]*
*立岩 真也・村上 潔 2011/12/05 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. \2200+

 今日は、性の「主体」と、性の<主体>という、その二重性についてお話ししようと思います。基本的には2つの話です。
 このお話をいただいたときに思い出した人物が1人います。それは、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーです。彼は最後の著作として『性の歴史』という有名な本を書いています。この本は、多分もっと先があったはずなんですが、第3巻まで書かれたところで彼は亡くなってしまいました。
 こんなことを言うことが何らかの意味を持つかどうかわかりませんけれども、彼は同性愛であることを公表しており、そして、HIVに感染し、エイズを発症し、そしてみずから死を選ぶという形で亡くなった。その死の直前まで書いていた本が、未完に終わった『性の歴史』という本です。この本は、私たちが――私は社会学をやっておりますけれども――、社会学、歴史学、総じて社会科学が性というものを扱おうとするときに、非常に大きな意味を持った著作であったのではないかと思います。
 そこに書かれている内容を紹介することがここでの目的ではありませんので、詳しくは述べませんけれども、1つに、彼が特にその第1巻で強調したのは、19世紀のヨーロッパ社会――ビクトリア朝時代というふうに言われたりしますが――に対する我々のとらえ方への異議なのです。
 我々は、19世紀という時代、社会というものが、基本的に性に対して非常に抑圧的な、抑制的な道徳、規範というものを持っていて、それが20世紀、フロイトなどを経て、次第次第に解放というところに向かっていったと考えていました。つまり、20世紀になって初めて、性の禁圧の時代から解放の時代へ向かうという、そういう歴史があったんだととらえてきたのです。それに対して、フーコーは異議を唱えたのです。
 彼は、19世紀に書かれたもの――それは公にされたものも、日記のようなたぐいのものも含めてですけれども――を丹念に調べた結果、この世紀において性というものが非常に頻繁に語られるようになってきた、言説の水準に上ってくるようになってきたということを見いだし、強調しているのです。
 例えば日記の中に、“私”という主語において、みずからの性というものが書き込まれてきている、私の性というものが私にとって主題になってきている。そしてまた、医療の言説の中にも性というものが浮かび上がってきている。そのありさまを、彼は提示しているのです。
 そして、その中で彼は“主体化”という言葉を使っています。フランス語で“assujettissement”という言葉がありますが、それが“主体化”と訳されたのです。一般には“従属”などと訳される場合が多いはずです。英語で“主体”というのは“subject”であり、フランス語では“sujet”ですが、ご存じのように、“主体”という言葉は形容詞として使われる場合に、“〜に従属する”とか“〜に支配される”といった意味もまた含んでいます。フーコーはそのことを知っていて、そういった二重性というものを込めて“主体性”、“主体化”という言葉を使ったわけです。
 すなわち、何かの主体になるということは、何らかのメカニズムのもとでは、何かに従属する、権力に支配される、ということにつながっていく可能性がある。また、性について語るという場面においても、――もちろん語られ方ということがあっての上ですけれども、そこでも我々は、ある種の権力というものに巻き込まれていってしまう。歴史的に見てそういうことがあったのだと、彼は著書で述べているわけです。
 今述べたことがどういうメカニズムで言えるのかということは、彼の本を読んでいただくしかありません。ただ、命題として今言ったたことは、我々が汲み取っておくべき、どこか頭の隅に置いておくべきことであると思っています。
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 以上のような前置きをした上で、2つの話をしたいと思います。
 すなわち「性の主体」あるいは「性の主体性」と言うとき、少なくとも2つの意味があるだろうということ。そして、この2つは、互いに関係しているのだけれども、どこかで微妙に違っており、その違いをクリアにしながら考えていくということが、性――性だけに限りませんが――を考えていく上で大切なのではないだろうか。そういうことを、許される時間内で申し上げようと思います。
 2つのことというのを、仮にここではαとβとします。

 α:身体や性に対して「主体」であると、また主体であるべきだと、はっきり言わなくてはならない場合があります。それはまず、侵入・侵害によって苦痛を受けるのはその人であり、また快を感じたりするのもその人であって、そうした苦痛を防ぐため、また妨げられずに快を得られるために、その人に権利を認める等々のことが必要だからです。
 β:身体・性・他者…を制御できること、その意味で所有・領有していることに価値が与えられることがあります。そして、それがやはり〈主体性〉と呼ばれます。同時に、受動的であること、不如意であること、それらがあらかじめ負の価値のほうに割り当てられることになります。

 αの方にも「主体」という言葉が使われています。私たちが、「私が、私の身体や私の性というものに関して主体である、あるいはその主体であるべきだ」と言わなくてはいけない、言うしかないような場面は、間違いなくいくつもあると思います。
 例えば、私の身体におけるつらいことも気持ちのいいことも、そういったことを感じるのは、とりあえずはその身体に宿っている私です。その私の身体に対して、不適切な、不当な、不快な危害が加えられるということは耐えがたいことです。それに対してそういうことはしてくれるな、これは私であるから、私の体であるから、それに対して何もしてくれるなということを言いたい。言いたいだけでなくて、言うことに正当性があり、そしてまた、言わなくてはいけない場面が、たくさんあります。
 ただそれだけのことです。簡単なことであって、侵入され、侵害されて苦痛を受けるのはまずはその当人でしかなく、そしてまた同時に、快楽というものを得るのもまたその人であるということです。そうであれば、苦痛を防ぎ、快楽を得るために、その人の身体に対する、身体のあり方に対する決定権というものを認めなければなりません。それは、それ以外の人に対しては、とりあえずは差し控えていてもらわなければいけないということでもあるのです。
 ところが、この当たり前といえば当たり前な、当然といえば当然なことを、私たちは、ある意味では残念ながら、ずっと言い続けなければならなかった。それは明らかに、当然の権利というものが守られてこなかったからです。そしてそのような社会である限りは、今後も、私たちはずっと言っていかなきゃならないでしょうし、言うだけではなくて具体的な活動もなされなければいけないでしょう。その点については、このあとで私より適格な方々からお話があると思います。
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 さて、もう一つ別の意味で〈主体〉という言葉が使われる場合があります。βの方です。そしてそれは、今まで申し上げた、身体に対する侵入、介入ということと無関係ではない、そういった位相に存在するようなものではないかと、私は考えています。
 このことに関しては、『私的所有論』(勁草書房、1997年)という著書の中で延々と述べているのですが、ここではごくごく簡単にお話ししましょう。
 私たちの住む近代社会は、「私がつくるもの、私が制御できるものが私のものである」「私のものであるということは別の人のものではない」というきまりをつくって、それを社会のルールとして、成立してきました。このきまりを“私的所有の規則”と言っていいと思います。そしてその規則と同時に、「私の価値というものは、私が制御し、できるということにおいて存在する」、「私が何かに対して制御できる、そのあり方というものが私の価値を証す」という価値もつくり上げてきました。
 そして、そういった文脈の中で〈主体性〉という言葉が語られるのです。これは支配と言ってもよいのかもしれませんし、また別の言い方で述べるほうが適切なのかもしれません。しかし、ある種の客体に対する一種の主体の制御能力という意味では〈主体性〉と言ってよいのかもしれません。そういったきまり・価値というものを私たちの社会はつくり上げてきたということだと思います。
 ところが、身体あるいは性という現象は、「私」に先だって存在するものであり、「私」が制御しきれるものではありません。その事実が、近代社会が与えた教義からはみ出していることから、さまざまなきしみやゆがみが生じてくるのだと思います。
 一つに、こういうことがあると思います。一方で制御するということにプラスの価値が与えられ、同時に受動的であること、あるいは受容するといったことにマイナスの価値が与えられるということが、先ほど述べた価値の中に存在する。そのときに、これはある意味で蓋然的であるのかもしれないし、ある部分恣意的であるのかもしれないのですが、男性の側に能動性、女性の側にその逆のものが与えられる。そのこと自体がどうであるのかという問題もあります。ただ事実としてはそう割り振られ、そして能動性、あるいは制御する側にプラスの価値が与えられ、その逆にマイナスの価値が与えられる。そういう割り振りというものを私たちはつくってきてしまった…。
 そういったことの中に、究極的には肉体的な暴力、そしてまた精神的な暴力として現象するような、一種の支配として、そして赤裸々な暴力としてあらわれるような関係というものが、特に男性から女性への関係として存在してしまっているということがあると思うのです。
 たしかに私たちは、暴力というものを基本的に否定するわけですが、しかし、いままで申し上げたことが当たっているとすれば、実は、どこかでそういったものを否定し切れないというか、悪いんだというふうにいい切れない部分というのも、また私たちは持ってきてしまっているわけです。そうすると、そこに生じてしまうような暴力性といったものを、確実に否定する、批判するという力が弱くなってしまう。そういった時代に今生きているわけです。
 そこの中で具体的に被害を被る人もいるし、あるいはそこの中で、暴力を与える苦痛というものがあるのかどうか知りませんが、支配する一方の側も、ある意味ではその場に縛られているということがいえるのかもしれません。
 βに関わるもう一つは次のようなことです。先ほども申し上げたように、性あるいは身体は、どこかで「私」の制御を離れる部分があると思います。しかしながら、そのことに私たちの社会が価値を与えず、あくまでも制御するという側にプラスの価値を与えるのだとすれば、「私」の身体あるいは性は、「私」にとって余剰なものとなり、持て余してしまうということが生じてしまうような気がします。
 そしてそのとき、さまざまにある対処方の1つに、「私」が性的な身体であることの否認があるような気もするのです。つまり、「私」自身が「私」の身体に対して、例えば物を食べないというような形で、あるいはたくさん食べるというような形で、ぎりぎりまで管理、あるいは制御しようとして、痛めつける。そういうことの中で、マイナスとしてしか価値づけられない身体を自分の手元に置き、手なづけようとする。そうせざるを得ないというようなことが起こっているんじゃないかと思うのです。
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 とすると、私たちは、「性の主体性」をめぐって、困難な二重の課題を抱えているように思います。
 一つは、先ほαで説明したように、何らかの形で性の主体性を防御し、護持すること。いま一つは、βで説明したように、性の主体性の中には、私たちの社会がつくってしまった仕掛けとして、一種の苦痛を与えるようなもの、支配ともいえるようなものがあり、それを自覚した上でその仕掛けを外していく作業も同時に行っていかなければいけないということ。
 つまり、私たちは性の「主体」というものを死守しつつ、なおまた別の意味での性の〈主体〉(性に対する支配/「私」の身体に対する支配でもあり、他者の身体に対する支配でもある)に対する価値の付与、社会的なその仕掛けを、はずしていくといったこともやらなければいけないと思うのです。


UP:20130307 REV:
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