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『造反有利』はでたが、病院化の謎は残る――連載・96

立岩 真也 立岩真也 20131201 『現代思想』41-(2013-12):

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 ※この回はかなり書きなおし、書き加えて、『精神病院体制の終わり』に収録しました。

◆立岩真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

『造反有理――精神医療現代史へ』表紙   『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙

 ※以下についてリンクはのちほど

刊行されたこと
 つい数日前、二〇一一年から、いったん中断しつつ二〇回ほど書いてきたものを、とにかくまとめて、本を一つ刊行してもらった。題はなかなか決まらなかったのだが、『造反有利――精神医療現代史へ』(以下この本の頁は、たんに(○頁)と記す)となった。
 一九六〇年代末、六九年の第六六回日本精神神経学会大会(金沢大会)が象徴的な出来事であったとされるのだが、その時期からその業界における騒乱があった。実際には当時なされたことは「精神医療改革」といった具合に呼ばれることが多かった。となると「改革(派)」ということになるが――実際連載においてはその語を使ったこともあるが――その「敵」たちも「改革」を言い、行なっていた(と言っていた)のではある。そんなこともあって、その本では、そのはねあがりの人たちを造反派と呼ぶことにした。
 前回はその「序」と「序章」を書いた。それはさらにいくらか手を入れて、その本の「はじめに」と「序章」になった。そうしてできた本の第1章以降の目次は以下。(「あとがき」とそれに関連することについてはまた別途。)

 第1章 前史・既に言われたこと/1 『聞書き〈ブント〉一代』/2 六〇年安保的な人々と地域医療/3 精神医療でははかばかしくなかったとされること/4 中井久夫『日本の医者』/5 幾つかの「開放」の試み・他/6 2018/07/19分の悪い人たちのこと/
 第2章 造反:挿話と補遺/1 とはいえ始めた人たちとその政治活動的紐帯/2 病院経験/3 一九六九年・日本精神神経学会金沢大会/4 関西から/5 「赤レンガ病棟」・広瀬裁判報告集・宇都宮美病院事件/6 京大評議会/7 「反精神医学」?
 第3章 各種療法、とくにロボトミーに対する遅くになされた批判/1 各種療法/2 インシュリン療法その他と経済/3 ロボトミー/4 電撃療法/5 薬物療法/6 ロボトミー事件・裁判――概略/7 (1)北全病院ロボトミー訴訟(札幌ロボトミー事件)/8 (2)名古屋Mロボトミー事件/9 (3)横手興生病院ロボトミー事件/10 (4)弘前ロボトミー裁判/11 ロボトミー殺人事件/12 ようやくこの時になされたこと
 第4章 「生活療法」を巡って/1 生活療法/2 松沢病院/3 国立武蔵療養所・昭和大学附属烏山病院/4 セットで始まり普及したこと/5 病院精神医学会・他/6 二つ(へ)の分かれ方/7 武蔵診療所における秋山・藤沢/8 秋元の「理論」/9 藤澤と秋元の「論理」/10 外していること/11 臺における不健康/12 生活が困難であるにもかかわらず追求されること
 第5章 何を言った/言えるか/1 誰の何のための/2 小澤勲/3 この社会で社会を言うこと/4 吉田おさみ/5 停滞という了解?〜その時代・思想の肯定?/6 ある/なし/7 原因/8 苦痛/9 異なりと不具合、異なりに関わる不都合、に対する行ない/10 他害+制度/11 後続する営み・人たち/12 現在へ

 以下、そこでまだ書きれなかったことについて書く。

増えたこと減らないことについて
 精神病院の病床数が(この国で特異に)多く、減らすことになっていながら、さほど減らないことはよく言われる。こんどの本のように誰がいつ文句をいったのかといったことより、そのこと、なぜたくさんあって、そして減らないのかといったことの方が大切なのだろう★01。この本でもいくらかは書いているが、はっきりしたことは言っていない。多くの場合にはそもそも社会的なできごとの由来について、実験もできないし、確定的な答を示すことはできないということもある。ただ、いくつかのことは記した、というより文章を引用した。するともっと調べたらよいと思うことは出てくる。それはその本では各所に分散してある。それを以下いくつか拾っておく。また新たに加える。そして、確定的なことは言えないとしても、おおまかにはこう言えるはずだと言うための準備をしておく。
 例えばよく言われる、この国における人々の意識の差、「偏見」の度合いの差といったものはあるのかもしれないのだが、それがどこまで本当なのか、私にはわからない。そしてこの意識の差も含めて、この国がどこの国に比べてどうかということも大切ではあるの
だろう。しかし実際のところはよくわからないという感覚はいつも残る。それは、いったん、考えないことにしておく。
 大きくは二つ、加えれば三つだと思う。まず一つ、「防衛」――それにはたしかにいま省くといったばかりの「意識」や「偏見」も関わっているのだが、前段に述べたのは「本当」の防衛と「偏見」とをまずは分けて考えないことにしようということである――は、病院を作ろうという側、作らせようという施策の側にたしかにあった。そして施政者たちだけでなく、医学者・医師たちにもあったし、家族や家族会にもあった。それはたいへん長いあいだまったく無防備に堂々と語られた。それでもともかく、「造反」の後、良識派はいくらかは慎重になったのではあるが、いつから慎重になったというその境も――「偏見」は定義上間違った認識のことであり、それを諫めることはどんな人でもいつでもでき、それなら「慎重論」は常にあったとも言えるはずで――微妙である。そしてこの「動機」はどこからもまったくなくなっていない。それは「社会防衛」といった「大きな」水準にいつもあるのではない。というよりむしろ(社会)防衛は、たいがい、具体的にはごく小さな場所に現われる。
 そして、二つめの前に三つめ――「効いている」と思う順に並べている――として、病院にいた方がそうでないところに住むよりも「その人によい」という判断もあったにはあっただろう。そしてそのときに持ち出されるのがこの国では呉秀三であり、「私宅監置」からの「解放」である。たしかにそうして閉じ込められていた状態に比べてましな境遇といったものはあったのだろう。ただ、あらゆる人が「私宅監置」されていたのでもない。それは、そんなことができた(そんな場所を作れた)人たちによってなされたことでもある。そして監置されていた空間は多く一坪・二坪といったところだったと言われるが(日本精神衛生会編[2002]等にその図・写真等が掲載されている)、それはとりあえず、いま「雑居」よりよいとされる「個室」ではあった。比べようは様々ありうる。この理由は常に用いられてきたが、どの程度のものとして評定したらよいか。事実として確実に言えるのは、それは病院の必要、そして増床が主張されるときには必ず言われたというところまでである。ただ、いったん病院・入院という「選択肢」が現われ、そこが極端にひどくはないなら、そのほうが他よりはたしかにましであること、さらにそもそも他の可能性が現実にはほとんどないこと、既になくなってしまっているといったことが個別にはいくらもあることもまた事実である。それが、退院、退院勧奨、脱施設の政策が過酷なこととして作用しているのでもある。
 それより、二つめに、いったん精神科、精神病院の経営から利益を得ることが可能になると、その状態を手離さないといったことが起こった。それはときに、やがて、病院であったり医療であったりする必要も、すくなくともそれらだけである必要もなくなる。例えば「中間施設」であったりしてもよい。お客の層が変わってもよい。もう長く、その層として注目され期待されており――そのことは後で出てくる「日本精神科病院協会」の近年の動きを見てもはっきりしている――実際に増えているのは認知症の高齢者である。
 二つめとしたこのことがずいぶん大きな部分を占めているように思う。どこまで将来を予見できていたかは別として、いったんできてしまった仕組みによって、増えていき、そしてできてしまったものが自らの保存・維持をはかっているというのである。しかし、仮にそう言えるとしても、それで説明は終わらない。つまり、その政策を転換すること、変化の方向に誘導することはできたはずであり、実際、後述するいくつかでは行なわれてきた。それと比較してどうなのか。そうしたことを調べる必要がある。

家族・家族会
 精神病院には確実に社会的な需要があった。一つに、近頃あまり言われない――代わりに、責任が家族に押しつけられているという、たしかにそのとおりのことは言われる――ことになっているのは、しかしやはり大きいのは、家族の側の需要である。造反派に批判された人たち、しかし「改革」に熱心であることを自ら言ってきた人たち――人体実験を批判された臺弘(91頁)、その前の代の東京大学教授でその後務めた国立武蔵療養所でのことも批判された秋元波留夫(91頁)、烏山病院闘争(205頁)の時の院長だった竹村堅次(390頁)ら――がこぞって(作業所とともに)肯定的に評価した家族会、その組織の連合組織として巨大な組織であったとともに、公金使用に関わる不祥事があって今はなくなってしまっているのではあるが(cf.吉村[2008][2009])、「全国精神障害者家族会連合会(全家連)」について次のような記述がある(60頁に引用)。

 「全家連に家族が入っている限りはどんな場合でも精神病院がついてまわるのである。/私の地方の全家連は政治に食い込み、府会議員に会ったり知事に会ったりして、精神病院をひとつでも多く建設してもらえるよう奔命[ママ]している。とどのつまりニつに分裂し、一九七〇年に地元で開催された全国大会にはその一方だけが参加ということになった。NHKローカルなどは精神障害音の不幸のように報じていたが、京都府の入院患者にとっては全く無関係のことだったのである。患者の多くは厚生大臣の名もでる全家連全国大会の、悲壮劇とも猿芝居ともとれるものにあきあきしている。」(萩原一昭[1976→1981])

 どこまで本当のことかこれから確かめようと思う。ただ、家族会が施設作りに熱心になるのはよくあってきたことであり、まったく不思議なことではない。例えば「重症心身障害児(重心)施設」については、親たちが熱心に運動し、それに理解を示した少数の医療者がおり、政治に訴え、メディアの介在もあって、一九六〇年代に制度化がなされるといった経緯を辿る。それは身体障害、知的障害全般について言える。それが身体の関係ではようやく七〇年代初頭に法的・全国的なかたちでは身体障害者療護施設といったかたちで実現し、実現するのと同時期に本人(たちのごく一部)から批判が始まるのだった(立岩[1990])。それが「精神」の領域でどうであってきたか。「偏見」が直接的な訴えをためらわせ、要求の始まりを遅らせた可能性も考えられる。ただいったん組織ができたなら、個々人の勇気が少なくても、その主張をなすことはより容易にはなるだろう。私が直接に知る人も含め、全家連といっしょに研究してきた研究者たちはいて、その研究の蓄積はある。大きな組織でそれなりの予算を使えたといったこともあって、身体障害に関するものより規模の大きな生活実態に関する調査がなされてもきた。けれどこうしたこと、自らが主張してきたことやその変化については調べられてこなかったのではないか。
 たんに無関係になる、縁を切るということですませることができなければ、家族は最大の利害関係者であり、しばしば直接的な被害者である。そしてそれは、つまりは「他害」を問題にしており、ゆえになんとかなってほしいと、そこにあるのが病院であるなら、病院に行ってほしいとか、病院がないなら建ててほしいとか思う。ただ病院が基本的には私費で行くしかなかった時期の病院とそうでなくなった時とも異なるだろう。そうしたことの子細は調べにくいだろう。だが、すくなくとも全家連発足のあたり(六五年、「全国精神障害者家族会」の結成は六四年)からならわかることもあるはずだ。その経緯は、その後の「脱施設化」の流行のもとで見えなくなってしまっている可能性がある――今あまり言わない方がよいとされることを昔言っていたことを、言わないことにするというのはよくあることだ。調べておいてよいと思う。

医師・病院、その団体、制度
 他の人たちはどうか。すくなくとも個々の病院の経営者たち自身が制度を作り上げたわけではない。その人たちの多くは、制度についての経緯も知らず、できた制度を利用して新規参入したのだろう。ただ、他方、そのもとのところにいて積極的に要請し、維持しようとしてきた人たちもいる。
 そしてその人たちの力がどれほど関わったか、制度が作られ維持されていく。精神科に限ったことではないが、公的保険制度のもとで民間病院を認め、それに大部分を依存した。経営者・院長は精神科医である必要もなかった。政府が特別の融資を行なった。とくに看護師他の人員配置に特例を認め、人件費がかからないようにした。一九五四年、精神衛生法一部改定で、非営利法人の設置する精神病院の設置および運営に要する経費に対して国庫補助の規定が設けられた。五八年、同法改正でいわゆる「精神科特例」が設けられた。一般病院よりも精神病院のほうが確保すべき医師や看護要員の数が少ないくてよいとされたのである(その後幾度か変更があるが基本的なところは変わっていない、cf.末安[2003]、仲[2010])。さらに六〇年七月、精神病院について医療金融公庫――その創設にあたっては日本医師会他の団体、日本医師会の会長・武見太郎が熱心に動いたという(大熊[2009:18-19])――の融資が始まる。それに加え、いっとき流行った脳外科手術も電気ショックも、薬物療法も管理を容易にした。生活療法も、その実態においては、役に立った(この度の本・第3章)。そうした好条件のもとで精神病院は発展していった。そして問題は表に出にくい構造になっていた。
 利害関係者の団体としては「日本精神病院協会」(日精協、二〇〇一年に日本精神科病院協会と改称、社団法人、一九四九〜)がある。その創設の中心となり、精神衛生法の制定にも深く関わった金子準二は、精神科医だが、警視庁に務めた人でもあった(織田[2012:153-154]では日本精神病院協会の最初の会長として金子準二をあげているが、創立時の理事長は植松七九郎)。その人は「社会の平和は精神病院から」と言ったそうで、協会設立趣意書で「精神障害者の家族近隣は勿論のこと、誰でもと云える程、社会人一般の生命、財産、名誉が精神障害者の病的行為の危険にさらされ、文化的の最低限度の生活も到底安穏に営めず、苦悩しなくてはならぬ」と書いたそうだ(織田[2012:153-154])。
 私たちは、このように率直に語られたことがあることにいくらか驚きはする。ただそれは、とても長い間、ごく当たり前のもの言いであった。(他にもこの人は、様々、今日では言ってはならないとされることを言っているのだが、略す。)
 人々によき人生のあり方を説く大量の本を書いてきた精神科医で文筆家の斎藤茂太――日本精神科病院協会名誉会長であり、自身精神病院の三代目の経営者(二代目は斉藤茂吉)であり、自分のところはまじめにやっているので儲けが出ず、自身の本の印税も病院経営を補填するために使っているのだといったことを幾度か記してもいる――はその人のことを次のように記している。

 「大正十三年の[…]頃は厚生省もない時代で、なんと精神科の病院の監督官庁は警視庁だったのだ。/ 今の警視庁とちがって、ちょっと患者が病院からいなくなっても始末書を取られたり、病院長が呼びつけられたりで、監督というよりアラ探しに近かった。[…]/当時、警視庁には父の後輩で、日本精神病院協会を昭和二十四年に創立した、金子準二先生という専門家が技師として居られたからまだよかったが、それにしてもいやなことだらけであったと思う。」(斎藤[1989→1993:130])

 「戦争で数病院が廃業または壊滅したので、敗戦時東京には、あとで私が継ぐことになった宇田病院を含めて私立精神病院はわずか九病院しかなかった。病院の復興のためには大同団結しかなかった。昭和二十四年十月にそれが実現して、慶応の植松七九郎教授を理事長として東京精神病院協会ができ、同時に全日本八十二病院を糾合して日本精神病院協会が結成された。[…]そして昭和二十八年に金子準二先生が会長に就任され、十年後の昭和三十七年に辞任されるまで、かつて警視庁や都庁で監督の立場にあったのが一転してわれわれ私立精神病院の発展復興に寄与されたのであった。もっとも、「監督」といっても金子先生は精神科の専門医であるから、終始役人との間のパイプ役として意志の疎通を計り、真に私立病院を愛しつづけて来られたことを忘れてはなるまい。」(斎藤[1971:173-174])

 同じ人がその後の時期について次のように記す。

 「医師会の集まりなどでも精神病院はもうかるだろう、ひとつ僕もやるかな、などというムードがあった。そして精神病院ブームなどというイヤな言葉が横行した。病院の設立者の中には果樹園の経営者がいたり、パチンコ屋までがいた。また他科の医師が精神障害者に慣れぬまま、患者をなにか特別な人間扱いをしたことも否めなかった。福祉事務所あたりに「刺を通じて」おけば、生活保護法の患者がだまっていても入って来た。新設病院の開院式によばれて行くと、福祉事務所様などと書いた特別の部屋が用意されているのが常であった。」(斎藤[1971:183-184])

 精神病院が作られていく仕組みがあった。その経営者たちの多くは、その同業者組織の創設に関わった人の思想に共鳴したり、その組織に積極的に関わろうとした人たちではなかっただろう。そのことについての研究もあるのか知らない。ただそれでも、その組織は一定の役割を果たしてきたようだ。(この組織の政治献金問題について安原[2003]、七瀬[2006]。なお安原と七瀬は同一人物。)
 それが、今度の本において「造反派」と呼んだ人たちの困難でもあった。その人たちは、いったんできあがった精神病院体制において力をもたない人たち、力を行使するのが困難な人たちであったということである。(今度の本の第1章は、そこでそんなには苦労しなかった、安保ブントから「地域医療」のほうに行った人たちと、精神医療の方面の人たちの違いについて述べている。)
 体制批判側が同業者組織の主導権をとり、その同業者組織が一定の力をもっているなら、政策の方向を変えるという道筋はありうる。そして一般に組織において少数派が主導権をとれないとは決まっていない。その活動は本業以外の仕事だから、たいがいの人はそう熱心になる気にならない。そうしたなかで少数の熱心な人たち、なにか思惑のある人たちが主導権をとれる可能性はある。(例えば大学の自治会はたいがいそうしたものであってきた。)ただここでは経営者たちにははっきりした利害があった。直接に政治を動かし制度を変えるというのでなければ、そうした民間病院の経営者たちの組織の主導権を自らがとって変えていくしかないが、それはできなかった。とするとあとは「現地闘争」ということになった。変革は条件のよいところでもよくないところでも困難だった。常勤医でなければ、またあっても、その勤め先の病院に対してたいしたことはできなかった。ときに経営者になることもあったが、その病院はたいがい困難に陥った病院だった。そして、さきの斎藤の言によれば彼自身の病院もそうであったように、既定の制度のもとでよりましなことをしようとすると経営はより難しくなった。

数について
 そしてそれに精神諸国に比して精神病院は足りないという(そして定員を超過して収容しているから待遇が劣悪なのだという)言説がかぶさっていた。そしてその言説は、米国で「脱病院化」が宣された後でも、そのことが書かれる同じ本の中で言われ続けるといった具合である。それはたんに比べて少ないという言い方で言われることもあり、「防衛」が言われることもあり、そして、そのことと多く滑らかにつながって、「本人」が記されることもある。そして、「海外」が引かれるなら言及されてよいはずの、既に始まっていた「脱施設・病院化」の流れは、ときに紹介されつつもしかしまったく同時に、やはり、増床が主張されるといった具合になっている。
 まず、今度の本でもより長く引いた(341頁)秋元の文章。

 「精神病質はその実態を把握することが、精神薄弱に比していっそう困難であるが、最近の犯罪事件の中には、精神病質者の犯行と思われるものが少なくなく、その実態を明らかにして、適切な処理を講ずることは、社会秩序をまもり、社会生活の安定をはかるためにも、きわめて必要なことである。しかし、この方面の研究や施策は、わが国ではごくわずかな研究者以外にはほとんど手がつけられていない状態である。/[…]さまざまな精神症状をもち、なかにはその症状のために自分だけでなく、周囲に危険を及ばすおそれのある患者も合まれている、精神病患者の約五〇%がまったく医療をうけることなく放置されているのが、現実の姿である。精神薄弱は、医療の対象であると同時に、教育の対象であり、重い精神薄弱のためには、医療と教育とをかねた精神薄弱者サナトリウムやコロニーが、また、比較約軽いもののためには、そのための特別な教育施設や職業補導所が必要である。しかし、そのような機会をめぐまれているのは、わずかにそれを必要とする精神薄弱の九%にすぎないことを厚生省の調査は示している。精神病質者にいたっては、どこにいるのか、見当もつかない状態で、社会のいたるところに生息しているのが現実である。
 このように精神障害者の診療の実態は、ヨーロッパやアメリカの現状とくらべて、劣っているが、その理由は、第一には、精神障害に関する社会一般の理解の不足、ないし、偏見によるところが大きいと同時に、これと関連して国家的施策が貧困であるためでもある。わが国の精神障害に対する医療施設についてみても、精神病のための全国の病床数は十四万床であって、入院を必要とする患者の最小限度の数が三十五万程度[…]人口一〇〇〇に対する病床数は国によっていろいろ差があるが、文化国家といわれるところでは三十〜四十台であるのに対して、わが国はわずかに十四にすぎない。日本は[…]この点に関するかぎり、文化国とはいえない。」(秋元[1964→1971:167-169]、)

 これは六四年五月、『日本医事新報』という業界誌に載った文章である。同年の三月、ライシャワー駐日大使が大使館前で統合失調症の青年にナイフで刺され重傷を負うというライシャワー事件が起こっているが、この記事にその事件への言及はない。この事件の後、精神障害者の治安対策強化が主張され、それに秋元がその中心にいたのでもある日本精神神経学会は反対するし、先述の全家連の結成もそれに関係している。それがいかほどのものであったのかについては別に述べる――今度の本では、この、現実にはことの中心にあったきた「他害(の可能性)」の問題を扱うことができていない。
ただ、以上からもこの時期に大きな転換がなされたと考えるほうが難しい、とは誰もが思うはずだ。
 そして、翌年、『わが国における精神障害の現状』(厚生省公衆衛生局[1965])が出ている。こんどの本で紹介しようと思っていて、準備してあって、できなかった(たんに忘れた)本だ。これは六三年の全国調査(次の調査は「粉砕」された――そのことについても紹介できたらいつかする)の報告書というものなのだが、各々の章には医師である著者がいて、その個人が書いているという体裁になっている。第1章「精神障害と精神衛生」(加藤正明)、第2章「精神障害者処遇の歴史」(岡田靖雄)、第3章「精神医学的疫学」(加藤正明)、この章の一部「昭和二九年精神衛生実態調査」を岡田敬蔵が、「精神薄弱の疫学調査」を菅野重道が担当。第4章「昭和三八年精神衛生実態調査」(大谷藤郎――後に、国のハンセン病政策を批判して知られることになった厚生省技官・医師)(その章の一部「標本誤差」を前田行雄が担当)、第5章「精神病院の統計」(百井一郎)。
 そのごく短い第1章の末尾は以下のようになっている。

 「最近各国ともに地域社会中心の精神障害者の社会復帰対策が急速に発展しており、たとえばイギリスでは一九五九年の法律改正以来、夜間寮と昼間通所施設を全国に組織設置することによって、人ロ一万人対三三床の精神科病床を一八床に減少させる計画がすすめられており、アメリカではとくに一九六三年のケネディ教書以来、各地域に総合的精神衛生センターを設置し、官私立の昼間通所施設を増やし、巨大な州立精神病院を改変していくなどの計画がすすめられている。
 わが国の精神科病床の八割は私立であり、二割が官公立であるに過ぎず、医療職員の不足、医療費問題の不備、各種の専門職員の身分や権限の不安定などの諸条件のため、真に精神障害者の社会復帰を促進させるための体制ができていない。
 本書が期待することは、まず日本の精神医療の歴史をかえりみることによって現状発展を検討し、疫学調査の結果の分析からさらに地域精神衛生対策、社会復帰活動、精神病院内治療の強化を要望し、社会一般の関心と理解を深めることにある。」(加藤[1965:2])

 こうして、専門家だから当然のことだが、この時点で英国での改革、そして六三年の『ケネディ調書』のことは知られているのであり(それは六四年の秋元においてもそうだったはずだ)、この厚生省の報告書の二頁目、全体として二頁だけの章の最後から三つめの段落に、そのことについての言及がある。次の段落へのつながり方は、病院(病床)が足りないから、とくに公立病院が足りないから、病院(病床)を減らせない、とも読める文章になっている。
 そして同じ本の第5章「精神病院の統計」では以下のように書かれる。

 「人ロ一〇万人あたりの全病床数、精神病床数、結核病床数、一般病床数の年次推移は表一三のとおりである。結核病床数を除いていずれの病床数も増加している。また、とくに諸外国における精神病床の保有状況を表一四によってみるとわが国の精神病床数がいかに少ないかがわかる。」(百井[1965:100])

 その表一四の一部より。各国の人口一万人についての病床数、( )内はその調査の年を示す。日本(一九六三)一四・三、アメリカ(六〇)四三・七、西ドイツ(六〇)一八・四、オーストリア(六〇)一七・一、デンマーク(五九)三五・四、フランス(五九)一九・五、アイルランド(六〇)四二・〇、イタリア(五九)七二・七、スコットランド(六〇)四二・〇、スウェーデン(六〇)四四・〇、ソ連(六〇)七・六。
 一見してはなはだしい、そして規則性のようなものが読み取れない各国の数値の差異については、そしてなぜだだか数値の低い国々
(西ドイツ、デンマーク、フランス、ソ連)と比べるならさほど大きな違いのないことについては言及されていない。そして、たしかに多い国々と比べた時には日本の病床数は少ないということになる。そして繰り返しになるが、その本の冒頭では『ケネディ調書』他についての言及はなされているのである。
 その約五年後、前出の斎藤茂太の著書では以下(399頁で引用)。

 「国が敗戦による精神科病床の激減に対してきわめて安易に病院の新設を許可した[…]/病床数は飛躍的にふえつづけ、昭和二十七年にはほぼ戦前の水準に回復し、昭和三十年には四万床(人口万対四・五)だったのが、昭和三十五年には約九万床、四十年には十六万床、そして四十五年には約二十四万床(人口万対二三・三)に達して、厚生省が一応の目標とした人口万対二五床に近づいたのである。いまわが国には精神病院に入院を要する患者が二十八万いるから、数字的にはもう一歩というところとなった。」(斎藤[1971:183-184])

 その翌年、造反派に造反される臺弘の一九七二年の本では以下(399頁により長い引用)。

 「精神衛生法以後、精神病床は急激に増加して、昭和四十六年現在では人口万対二十五、全国で二十五万床の多数となり、結核病床をはるかに越えるようになった。この数は欧米諸国にならぶものであって、その限りでは結構な話である。ところが問題はその質である。わが国では、病床の増加について国や地方自治体が直接関与することが少なく、それを私企業の自由経済にまかせてしまった。現在では全精神病床の八五%が私立病院の経営によるものである。こんな体制をとっている所は世界中どこにもない。しかも国公立病院は、私立病院と機能の分担をせずに、通常、独立採算制をとらされているので、私立病院と同じレベルで並立している。[…]」(臺[1972:252-253])

 そしてそれはこうした人たちだけのことではない。石川清(103頁)は東京大学精神神経科医師連合の委員長で、つまり臺を追い出した組織の委員長をした人で、そしてそれををやめさせようと秋元に説得される人であり(しかし秋元はその説得の最中にクモ膜下出血に倒れる――しかし無事に回復して一〇一歳まで生きた人であった)(216頁)、そして臺の人体実験を告発する(129頁)人だが、その人も、一九六九年、『私はこう考える――東大闘争・教官の発言』と題される本に収録された文章で「しかも精神科病床は現在なお四十万床ほど不足しており」(石川[1969:95])と記している(399頁)。
 「四十万床」は――その数字を私は他で目にしていないが、言われたとして――最も多く見積もられた時の(既に存在する分を含めた)総数といったところであり、これはなにか誤植の類のようにも思われるのだが、それにしても、ともかくたしかに足りないと石川は言っている。造反派がおおむね(先述したように、実現させられなかったのではあるが)減らすことを主張したことは公平のために記しておくが、すくなくとも石川は六九年にそう言っている。
 それがどのように変わったのか。その前に変わったのかである。言説は人によってはいつのまにか、気がついたら変わっていたというように、あるいは変わったことに気づかれもせず、あるいは自分自身が気がつかないといった具合なのではある。ただ現実は変わらなかった、というより、それからも病床数は順調に増えていった。一つには今みてきたように、仕方のないことだとされるせよ、もっと積極的にであるにせよ、まだ足りないといった言説の影響はあったのかもしれない。すくなくともかなり長い間、医療者・研究者の多数は増床を支持していた。そして、最初に記したように、「ニーズ」はつねにあったはずだ。
 例えば警察にとって処置に困る人の受け入れ先があることは好都合だった。困るのは家族――その家族に義務が課された――でもあった。家族会や作業所は(とくに造反派から不当に非難されたと憤った人たちによって)おおいに支持された。それはそれで当然のことではあった。それらは重要な役割を果たしたのではある。ただ、その家族にも様々な都合があり、ときに容易に入院させ簡単に退院させない病院は都合がよかった。それはまったく「切なる家族の願い」でもあった。身体障害者についても知的障害者についても同じことは起こったが、その切実さはときにより大きなものだった。

なぜ放置されたかについて
 そして、その後、ときに同時に、「地域」が主張された。それは滑らかにつながっている。国内外の評判もすこぶるわるいのに、そして「安全」な人たちのために、以前に比べればいくらかは金がかかるようにはなった特別の建物と人材をかけることはない。
 変わっているところは「造反」とは別のところから変わっていった。つまり、もう長く「地域移行」は「国策」とされている。例えば、二〇〇四年、三五万床から七万床を減らす計画が発表される。出せるところから出していく。それでかまわないからだし、病人は十分にたくさんいて、多すぎるぐらいいるからだし、以前よりいくらかでも待遇をよくするのであれば、費用もかかる。これまでの病院の体制ではやっていられない。さんざん言われたきたようにいる場所が病院でなければならない人は、そう多くない。本人も入院の必要を感じないし、周囲もさほどやっかいではない。そんな人たちを病院に置いておく理由はない。では、そうしてやっていくと、かつて力を尽くしてそうならなかったのが「自然に」減っていくことになるか。そう簡単でもない。それは困難なことだったし、今も困難でありときに乱暴なことでもある。出そうとはしている現場における困難はそこでは実感されているし、その理由もわかりにくくはない。ただ、それ以前、政策側が増床をかなり長く、事実上、容認していたのはなぜかだ。つまり、いったん作られた制度はたしかに「自然増加」を抑制できないような仕組みであったのだが、それは変更可能なはず、ではある。
 例えば老人病院が精神病院と同じ動機によってたくさん作られ、儲かる人(病院)はひどく儲かったことがある。そしてそうした病院におけるひどい処遇が批判された(cf.立岩[2008])。ここまでは精神病院と変わらない。それはどのように収拾されたのか、されようとしたのか。そして別のもの(別の「高齢者対策」)にどのようにつながっていったのか。
 あるいは人工透析。これはしばらく放置された後で、つまり自分で金を払えない人をたくさん死なせた後で、やはり一九七〇年前後の腎臓病の患者運動や新聞(『読売新聞』大阪本社版)のキャンペーンがあって(ややこしい話を縮めると)公費負担が実現することになった。そして、しばし相当の保険点数が設定され、それが透析を行なう病院にとっては大きな収入源になり、そうした病院が増え、透析が拡大した。こんどの本の第1章でとりあげている六〇年反安保闘争〜安保ブントの系列の人たちのその後とその「地域医療」が語られる本(市田・石井[2010])で、その石井暎禧が自らの病院を経営していく時に目をつけたのも透析だったという。そしてその後、徐々に点数は減らされていった。透析の日本現代史を巡る初めての本格的な研究書(有吉[2013])が刊行されてその事情もいくらかわかるようになったのだが、次はその変化をどう見るかだ。一時の政策誘導が終わったためにあとは「普通」の価格にもっていったのだと見ることもはできる。ただ、どこからか境ははっきりしないのだとしても、抑制が始まり進められたと見ることもできる。これは規範的に基準を設定しないことには言えないことであるとともに、それといくらか独立して、政策側や医療者側が何をどう見ていたか、見ているかということもある。そうした仕事が残る。
 ただ、理屈として明らかなのは、いったん始まったものが常にいつまでも続くわけではないということだ。始まってしまったものが自動的に作動して事態の継続や拡大につながることはありうるし、そして実際あっただろう。ただ、それは変えることができるはずであり、しかしそうならなかった長い期間をどう説明するのかという問題は残るということである。いつごろまで政策がどの程度意識的にその策を進めたのか、ここまでの増加を目指していたか、予測していたか。優先的に金を投ずるようなことであるとは思っていなかったが、その金の範囲でなんとか収まる限りで、社会的必要もあり、そして「先進国並みに」、という時期もあったかもしれない。予想外に増えてしまったが、それをとどめるほどではないという時期もあったのかもしれない。
 そして、病院が居心地がわるかった人も、それをなんとかすべきだと考えた人も、当然ではあるが、その条件をよくすることを求めた。病院がたいへんきらいな人たちも、「精神科特例」には反対した。もちろん個々人にとっての条件をよくすることを要求しつつ、入院全体の数・期間を減らすことを主張することはできたし、なされてきた。同時に「受け皿」が不足していることが、そんな主張をする人においても常に言われたし、それは実際のところでもあった。そして、ずっと横になっていられてたまに起き上がれるぐらいのことで暮らせたりするのがよいのであれば、それが可能な場は、それをできなくする場よりもよい。そのうえでもちろん、言えること、言うべきことはあったし、実際言われたきた。金をかける場所を変えろといったことである。そしてそれはまったくもっともだ。
 しかし実際はそうはなっていない。今度の本はその条件の幾つかについては記した。造反に有理なところがあったとして、それがそれほど「効かなかった」ことについてである。ちなみに、「全然」とは私はまったく思っていない、そう受け取られることのないようにと思っている。学界・業界の首領であった人がつまらないあるいは誤ったことしか言っていないことについてその人たちは言うべきことを言った。それを、もっと簡潔に言えたはずなのにという後悔は残るが、紹介はした。
 その上で、ごく普通の意味での「政治過程」について、どんな業界団体・関連団体が何をしてきたか言ってきたかといったことについて、調べて見る必要があると思う。そして、かなりの部分それと重なるのだが、「(社会)防衛」についてなにごとが言われ、なされたかである。そうしたことごとが残されている。前者の仕事はたぶん手間がかかるから、できない。後者の仕事は、結局は考える仕事になるはずだが、私にその力があるかわからない。ただその手前のいくつを確認する意味はあるだろうと思ってこんどの本を書いたのではある。


★01 「社会的入院」の要因に関する研究はたいへん少ないのだという(水口[2008])。その後の猪飼[2010]についてはこれから検討してみる。

文献文献表
秋元波留夫 1964 「精神医学の新しい課題」,『日本医薬新報』1964.5.16→秋元[1971:160-169]
―――― 1971 『異常と正常――精神医学の周辺』,東京大学出版会
有吉玲子 2013 『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』,生活書院
安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
―――― 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版
萩原一昭 197601 「精神障害者家族会と友の会」,『友の会会報』8→友の会編[1981:121-123]
猪飼周平 2010 『病院の世紀の理論』,有斐閣
石川清  1969 「医学部闘争のなかで」,田畑書店編集部編[1969:86-114]
加藤正明 1965 「精神障害と精神衛生」,厚生省公衆衛生局[1965:1-2]
厚生省公衆衛生局 1965 『わが国における精神障害の現状』,大蔵省印刷局
水口由美 2008 「社会的入院に関する総合的レビューとその要因モデルの構築」,『KEIO SFC JOURNAL』8-2:161-176 http://gakkai.sfc.keio.ac.jp/journal_pdf/SFCJ8-2-12.pdf
仲アサヨ 2010 「精神科特例をめぐる歴史的背景と問題点――精神科特例の成立および改正の議論から」,『Core Ethics』6:277-286
七瀬タロウ 2006 「精神医療の事件ファイル 第4回日精協政治連盟『政治献金』問題のその後――『同様な行為を再び行』い始めた日精協」,『精神医療』4-41(116):93-5
日本精神衛生会編 2002 『図説・日本の精神保健運動の歩み――精神病者慈善救治会設立100年記念』,日本精神衛生会
織田淳太郎 2012 『なぜ日本は、精神科病院の数が世界一なのか』,宝島社新書
大熊一夫 2009 『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』,岩波書店
斎藤茂太 1971 『精神科医三代』,中公新書
―――― 1989 『父は子へ何を伝えられるか』,ガイア→1993 『父は子とどうわかり合えるか』,PHP文庫
末安民生 2003 「日本における精神病院(病床)に係る人員配置基準の差別」,『精神神経学雑誌』105-7:872-875
田畑書店編集部 編 1969 『私はこう考える――東大闘争・教官の発言』,田畑書店
立岩真也 1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226]→2012 安積他[2012](変更無)
―――― 2009 『唯の生』,筑摩書房
友の会 編 1981 『精神障害者解放への歩み――私達の状況を変えるのは私達』,新泉社
臺弘 1972 『精神医学の思想――医療の方法を求めて』,筑摩書房
安原 荘一 2003 「日精協の『政治献金』問題について」,『精神医療』4-32(107):26-38
吉村夕里 2008 「精神障害をめぐる組織力学――全国精神障害者家族会連合会を事例として」,『現代思想』36-3(2008-3):138-155
―――― 2009 『臨床場面のポリティクス――精神障害をめぐるミクロとマクロのツール』,生活書院

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP:20131116 REV:20180625
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也 
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