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災厄に向う――本人たち・後方から
立岩 真也
2013/11 『学術の動向』18-11:19-26(日本学術会議)
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つながり/のつながり
震災において、また震災に対して、障害者・病者がどのようであった/あるのか、またどのように行動を起こし続けているのかについては、
土屋葉
らが科研費による調査・研究をしている。また御存知のように、
似田貝香門
らのグループが阪神淡路の時から継続して調査を続けている。2013年1月14日に
渡辺克典
らが企画したシンポジウム
「災/生――大震災の生存学」
で、土屋、そして似田貝らのグループで調査を続けてきた
佐藤恵
が報告してくれた。それらの報告をHP(
「生存学」
で検索)に掲載してあるからご覧いただきたい。またそのシンポジウムを受けて、『大震災の生存学』(天田城介・渡辺克典編、青弓社)が出版される。それを読んでいただきたい。そして以下何度か繰り返すことになるが、そして繰り返して宣伝するほどにするべきことをできていないのだが、私が関わっている「生存学研究センター」――2007〜2012年度までのグローバルCOE「〈生存学〉創成拠点」とともに活動を始め、COEなる制度終了後、現在はこの学内のセンターが活動を続けている――のサイト(「生存学」→
http://www.arsvi.com/
)の
「東日本大震災」
を見ていただきたい。(この文章にも、当然に読者は御存知ない人や組織の名が出てくる。その説明をする紙数はない。この文章の全体を掲載し、関連する人や組織等々のページにリンクさせるから、それをご覧いただきたい。)
私自身は何ほどのこともできていない。ただ一つ、(すくなくとも容易に集められる)情報をそれとして集積することは大切な仕事だと思っている。後述する。そしてもう一つ、そのことが大切だと思う理由の一部でもあるのだが、過去から現在の様々がつながって、それがあって、たしかに依然として困難ではあるこの状況下で、行なわれ続けられていることがある。
東北で/東北に向けて、活動をしている人たち、それを支援している人たちには、それぞれの過去があり、過去からのつながりがある。それは、この約40年の、さらに阪神淡路震災後の障害者運動の継承・展開によって支えられているところがある。関西からも人が行き、阪神淡路震災を契機に立ち上がった金を集め配るところ(
「ゆめ風基金」
)が一定の役割を果たしている。地域で暮らす障害者の生活とそのための運動、組織の活動の一端を記した『生の技法』の第3版・文庫版を出してもらった(
安積純子[2012]
)。その版に新たに加えた第10章(立岩[2012b])に次のように記した(CILは自立生活センター)。
「そしてCILもいろいろだ。これまでの章でも多様性については書いてきた。ただ、一九九〇年前後に私たちが関わったのは主に東京近辺の幾つかの組織だった。地域によっても形や「乗り」がずいぶん違う。例えば兵庫の「メインストリーム協会」はとても大きな規模の事業をしているが(常勤のスタッフが二〇人はいると聞いた)、東京の「ヒューマンケア協会」とはすこし雰囲気が違う。比べて緩い感じがある。それらがどんな具合に機能しているのか。どのように利用しているのか。どのように働いているのか。例えばさきにあげた前田・渡邉の本が示しているのは、全国で起きていくことでもあるが、その土地のその組織や人たちのことでもある。その上で、各地にできてきたつながり、そのつながりのつながりが、機能している。例えば阪神・淡路大震災の時、常に機能的に機能しているというわけでないそのつながりがあってなんとかなったところがあった。その人たちは新しい組織も作り、「ゆめ・風基金」を設立し金も集め始めた。そして東日本大震災の直後に東北に向かった人たちにメインストリーム協会の人たちもいたと聞く。そして福島で「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表をしているのは、第1章の安積の先輩で盟友であった、そして全国青い芝の代表を務め、神奈川県相模原市に「くえびこ」という場を作りグループホームを運営した後、福島に戻って活動を続けてきた
白石清春
(一九五〇〜)であり、その活動の支援に、かつて兵庫の青い芝の会にいて(後に解散させ)、その全国組織でも白石と一緒だった(そしてたぶん対立もあったはずの)
古井(旧姓:鎌谷)正代
(一九五二〜)が駆けつけたりもした☆07。
突然の災厄もあり、凡々とした毎日もある。[…]」(立岩[2012b:511-513]、前田の本は
前田[2009]
、渡邉の本は
渡邉[2011]
)
そこに付した註。
「☆07 ごくごく簡単な報告として立岩[2012a]。HPに「東日本大震災」の頁があり、関連頁につながっている。阪神淡路大震災の時・その後のことについては似田貝編
[2006]
、
[2008]
、佐藤[2010]にいくらか記されている。そして、これらの本にも出てくる
大賀重太郎
(一九五一〜)――彼もまたものを言わず傍にいて支えてきた人たちの一人だった――がこの章を書いている年になくなった。」(立岩[2012b:546])
実際にはそうそううまくはいかない、なかなかたいへんなのではある。しかしそれでも、引き継がれているものがある。今記したように、同志でもあり方針において分かれることにもなった古井正代、そして福永年久(については角岡[2010])は早い時期に福島を訪れ、そこに(二人とも重度の脳性まひ者)私が関わる研究科・生存学存研究センター(立命館大学)に関わる院生、PDなどが付き添うになり、そのときに起こったことを報告してもくれている(権藤・有松・青木[2012]等、多数→HP)。つまりそうした人たちは、行政に対しても、またそれに対するところの「当事者組織」のスタッフに対しても、大阪・兵庫の運動の「のり」で言いたいこと(言うべきだと思うこと)を言って帰ってきた。古井は幾往復かした。それは東北の人たちにいくらかの混乱と動揺を与えもしたのだが、しかし、そんなこともあの時に必要ではあったのだと思う。
そしてその
「被災地障がい者支援センターふくしま」
では、白石――障害学会の2012年の大会で大会で報告していただいことがあり、その報告も学会誌『障害学研究』に掲載されている――がかつて活動していた相模原にアパートを借り、そこに移り住むことを希望する人たちが暮らせるようにするための活動をしている。その生活のためには介助者がいる。それはその現地の人か福島で介助していた人か。後者も加わるとして、その人やその家族の生活はどうするか。他方、福島にとどまる人たちの介助者が避難することもあり、介助者・スタッフは残るがその「客」であった人の方が移ることもある。それらのことに関わり、そのつど対応していく。そんな仕事を(仕事も)その人たちはしている。(この他、地震があってほどなくして立ち上がった全国組織や各県の組織の由来、関係者たちの関係については立岩[2012a]に、ごく簡単にではあるが、記した。また前述した青弓社刊の本に掲載される文章でもふれる。)
このような場に研究者はどのように関わるか。被災の前後に人々が何を経験してきたのか。人々にどのような対応がなされたのか、具体的には、在宅や施設で生活してきた人たちのなかに住む場を変えざるをえなかった人たち、変えさせられた人たちがいる。仮設住宅に住む人の境遇はどうか。その手前で、どのような経緯で、どこに行ったのか。すくなくともかなり長い間、その消息がつかめなかった人たちがおり、状況があった。役所の個人情報についてのきまりがその理由にされもした。そうしたことごとについてさきにあげた土屋葉たちが調査している。
そして、ではそのことをどうしたものかという課題もまたある。いま記した「常に機能的に機能しているというわけでないそのつながり」があった人たちについては消息の確認と対応はすぐにできたという。しかしもちろん、そんな人たちばかりではない。そしてみながみな「つながっている」のも無理なことではあり、よくはないことだろう。とするとどうしたものか。
逃げ遅れて死ぬことが多いというのは、実際調べてもそうなのだが、いくらか致し方ないようにも思える。ただ、だから山奥に集められて、安全に、ではないずだ。しかし、「避難」がそのまま見知らぬ場所の施設への「収容」になってしまうことがある。そのようでない暮らしを、その場に留まるにせよ、例えば原発から逃れ、別の場で暮らすにせよ、どのように可能にしていくか。困難ではある。ただ、ここでひとつごく単純な契機が、生き延びる方向に作用している、あるいはしうる。自分が居る(行く)ところに他人が付かざるをえないということ、そんな事情でつながりがあってしまうということは、ときにうっとうしいことでもあるのだが、事実それが存在するなら、人がいるならだが、そしていつもでも、いかなる場面ででもないが、かえって、このような大きな災厄においても、助かることにつながることがある。実際そんなことが起こったのでもある。そしてとくに田舎に手助けを要する人が多くいる、その割合が高いというのはその通りだが、他の職が少ないこともあって、手助けできる人もまたたくさんいる。だから、とても難しそうで、実はそうでもないのかもしれない。そんなことも調査や考察の対象になる。
他方に、他の地域から受け入れようという動きもある。兵庫の人たちががんばって、市営住宅で使えるものを確保したといったことであり、私たちも、そんなあたりの情報提供ができればよいと思って、HPにそんなコーナー(ページ)を作ってはみた。ただ、普通の引っ越しより様々にめんどうなことがあり、複雑な事情・思いもある。ページはあるにはあるが、実際に使われるものにはなっていない。実現しかけた話がなくなったこともある。そんな困難もふくめて伝えていければとよいと思うけれども、そうしたところには手がまわっていないのが実際のところだ。
■
記録すること
こうして遡ること、細々であっても途切れないことを、細々であっても途切れず記録し集積し、報告し、そこから考えていくことがある。私たちには、阪神淡路のときの神戸大学附属図書館・震災文庫(それがあるおかけで私たちはたいへん多くの資料をオンラインで読むことができる)ほどのものはできない。けれども、いくらかのことはしておこうと思う。
そしてそれは、震災直後のひとまずの対応に連続しながら、そして本格的な研究を(すくなくとも私は)他の人々に委ねつつ、後方で、集められるものを集めること、なされたこと、例えば研究成果を誰でも読めるようにしていくことだと思っている。
ひとまずの対応としてしてきたのは、一つ、後にいて、すべては無理だから、障害者・病者に関わって集まってくるものを集めて、公開していくことだ。障害別・疾病別の頁がたいがい既にこちらのサイトに――中身の充実したものは多くないながら――あったから、関連情報をいくらかは分類して、関連情報なり、そこへのリンクをその各々の頁の上の方に置き、そしてそういう個々の頁にリンクされる「災害と障害者・病者:東日本大震災」というページを作って、表紙・右上に赤い字の項目として立てて、そこから行けるようにした(今もそうなっている)。そうしていちおうの形ができたのは3月14日だったと思う。そしてそのことをまずはごく短く、日本語・英語・韓国語のメールマガジンで――伝えるべきことが違うからその中身も同じではない――お知らせした。以下は2012年3月17日の日本語のメールマガジンの臨時号より。
「このたびの大震災に際し、寄せられた情報を
http://www.arsvi.com/d/d10.htm
(3月14日新設)とそこからリンクされるページに掲載しています。生きるために、例えば人工透析や人工呼吸器の利用者たちなど、水や電気をより切実に必要とする人たちがいます。この苦難に際し、多くの人たちが経験・知識・技術を役立てよう、役立ててもらおうとしています。頻回に更新するつもりです。ご覧ください。また情報をお寄せください。[…]」
緊急の対応――というより、様々な対応がなされていることのお知らせ――はしばらくすると終わった。その後、同年9月に京都で「シンポジウム・震災と停電をどう生き延びたか――福島の在宅難病患者・人工呼吸器ユーザー(他)を招いて」を開催し、呼吸のために電気がいる人たち他のためのマニュアル&そのシンポジウムの報告書『医療機器と一緒に街で暮らすために』(権藤・野崎編[2012])を作った。1000冊印刷したがすぐになくなった。マニュアルの部分はHPから読めるようにした。そうしたことと並行して、政策、報道、催、等についての情報を掲載していった。そしてその作業は、知らせることであるとともに、とっておくことでもある。役に立てるのであれば立ってほしいとは思ったが、個別に知りたいことについてはHPの検索をかければかなりのことがわかるからそれで間に合った部分も多かったはずだ。ただそのことがわかった上でも、収蔵はしておいた方がよいと思ったのだ。研究者がする数少ない仕事の一つは記録してとっておくことだと思う。
今もそれを続けてはいる。けれども恒常的な資金がない、というより、作業を継続させていく持続性において筆者自身が非力であってきたことがあって、拾うべきものを拾えていない。例えば、細かなしかし小さいとは言えないことを一つあげれば、報道の全文を引用していく作業を続けていく必要があるのだが、オンラインで記事が掲載される期間を限っている報道機関があり、それはそれで経営上のこともあろうから仕方のないことであるとして、私たちがその記事を拾っていく作業をしばらくしないでおくと、それは(容易には)入手できないものになっていくといったことがある。そうしたごく単純なことがあって私たちは既にいくらかを、あるいはもっと容易に入手できたはずの時間を失い、余計な機会費用を支払うことになっている。
作業自体はごく簡単なことである。欠落させてしまった分のすべてを取り戻すことはできないとしても、いくらかを取り戻しながら、その仕事を続けていこうと考えている。既にあるものを知らせることである。震災・原発関係の本や雑誌の特集号は山ほど出たが、私に与えられた題に関わるものは多くはない。それでも、『季刊福祉労働』(現代書館)131号(2011年6月)が「東日本大震災 障害者救援・復興支援ドキュメント」をまず特集し、何がその時に起こっていて、感じられていたのか、わかる。この雑誌も、また『そよ風のように街に出よう』(りぼん社)も継続して報告を続けている。これらの書誌情報を、その前にそんな雑誌があって、継続的に情報を伝えていることを知らせること、その程度のことは(ことも)できるはずである。
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いくつかの「論点」
私は、まず、ここまでに記したことが必要だと考えている。ただそんなことをしながら、あるいはそれはそれとして、すこし考えておくべき、すこし大きめのことも様々にあるはずである。生き残った人たちが生活をどのように再建・構築していくか。基本的に平時用に作られている各種の制度・仕組みに何を足すと、あるいは省くとよいのか。それは考えるに値する問題だろう。以下、『福祉社会学研究』の特集に書いた文章(立岩[2012a])の一部のほぼ繰り返しになる。
基本は単純なことだろうと思う。ボランティアはけっこうなことだが、もっと距離感をもって考えると、それは緊急時に適したかたちである。そういう人をいちいち把握し、「公平に」支払うといったことに事務コストがかかるということがある。それ以前に、ふだんいらない人手が一時的にいりようだということがある。そうした事態に即対応できる人間たちや、調整の体制を日頃から一定用意しておく必要はあるが、現場の人数が足りない時に、いったんいつもの仕事をやめてという人がいりようなことがある。ただそれがいったん一段落すれば、とくに遠いところの人たちは、たいていの場合、なにかしたいと、するべきだと思うのなら、金を送るのがよい。
代わりに、現地の人たちの人手が、今のところ、あるのであれば、余ってしまっているのであれば、その人たちに――その仕事は今までのその人の仕事ではないことが多いから、それはときに嫌なことで、面倒なことであって、そのことに応ずる周囲の工夫も必要にはなることは考えにいれたうえで――働いてもらい、それはそれとしてきちんと払うのがよい。そしてその仕事は必ずしもフルタイムの仕事である必要もない。まず、あいてしまった期間、時間でよい。そしてその仕事のいくらかはやがてなくなるだろうし、それは好ましいことでもある。ただ、人の、個々の生活、生活のための細々したことを成り立たせていくための細々した手伝いの仕事は、多く災害とはいったん別に、常に必要な仕事である。そしてその、基本的に一対一の関係があり、その関係が組織・事業所において把握されていて連絡がつくようになっているというあり方は、もちろんそれでもだめな時はだめなのではあるが、非常時に人を多く救えるかたちでもある。(施設で多人数をまとめて世話するという形態は、多くの人にとって平常時にも非常時にも望まれないし、そして非常時には人手不足になるのだがら、人が思うほど有効ではないはずであり、すくなくともいくつかの実例において有効ではなかった。)
『福祉社会学研究』のほうでは、その後に所得保障や労働政策や社会サービスのあり方についてこのところ私が書いてきたものの紹介が続くが、それはここでは略す。とにかく私は、その震災においてなにか新しいことが起こった、提起されたという感じはまったくもたなかった。普通のこと――と私には感じられること――を普通に行なうこと。それでも人は死ぬだろう。しかしその普通のこと、そしてそれが実行可能であることについて、考えておくこと、行なうこと、行なうことを提起することだろうと思う。
ただ、言わずもがなのことを少し加えておく。まず、「近さ」や「地域」を言うことの限界はわきまえておくべきである。個々の身体への関係は近いくにあるほかない。しかしそのことと(例えばその関係を可能にする)仕組みをどうするかは別のことである。とくにそのような言論・感覚が広く受容される状況のもとではこのことはふまえておくべきである(財の徴集・配分−分配において「分権」が間違っていることについては立岩[2009])。
また、補償はそれとしてなされるべきだが、今必要であり今後必要になってくる医療等の社会サービスについては、基本的には補償の枠組みで捉えることはできるだけ避けた方がよいと考える。この枠組みでは結局、加害・被害を特定することが求められる。それが必要な場面があることを私はまったく否定しない。しかし常にではない。というか、責任追求と生活保障とはできるだけ独立させたがよい。それが接合されてしまうと、過去の公害や薬害に関わる闘争・裁判が教えるように、いずれをとるか(優先させるか)という悲しい選択が課され、起こるべきでない悲しい内部対立・分裂が起こってしまう(cf.立岩[2008])。こうしたこともまた過去の出来事に遡りつつ、検討され、言われるべきことであると考える。
さらに一つ、この媒体であるから、加えておく。おもに一九七〇年代から八〇年代にかけて、科学技術論・科学技術批判というものがあったにはあったはずだ。雑誌もあったし本も出された。それらでは原発についてもずいぶん多くのことが書かれた――加えると批判の「仕方」について、障害者の側からの批判もあった(cf.立岩[2002])。もちろん、その後もずっとするべきことをきちんとしてきた人たちはいるのだが、(批判派にとって)なかなか厳しい状況が続いてきたことは多くの人が認めると思う。なぜだったのか。住民運動や政策についての研究には堅実なすぐれたものがかなりの数ある。ただ、議論、「理論」において/ついてどうだったか。「環境倫理」やら「技術倫理」やらを輸入し紹介することもそれはそれでけっこうなことだが、あれがなんであったのか。科学史だとか科学論だとかいった学問はそんなことをするのも仕事のうちではないだろうかと思っている。
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文献
安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 2012
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』
,生活書院・文庫版
権藤 眞由美・有松 玲・青木 千帆子,2011 「岩手・宮城・福島における「被災地障がい者支援センター」の活動経過」,グローバルCOE「生存学」創成拠点 国際プログラム
権藤 眞由美・野崎 泰伸 編 2012
『医療機器と一緒に 街で暮らすために――シンポジウム報告書 震災と停電をどう生き延びたか:福島の在宅難病患者・人工呼吸器ユーザーらを招いて』
,生存学研究センター報告18
石川 准・倉本 智明 編 2002 『障害学の主張』,明石書店
前田 拓也 2009
『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』
,生活書院
角岡 伸彦 2010
『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』
,講談社
河出書房新社編集部 編 2011
『思想としての3.11』
,河出書房新社
似田貝 香門 編/柳田 邦男・黒田 裕子・大賀 重太郎・村井 雅清 2006
『ボランティアが社会を変える――支え合いの実践知』
,関西看護出版
似田貝 香門
編 2008
『自立支援の実践知――阪神・淡路大震災と共同・市民社会』
,東信堂
佐藤 恵
2010
『自立と支援の社会学――阪神大震災とボランティア』
,東信堂
立岩 真也 2002 「ないにこしたことはない、か・1」,石川・倉本編[2002:47-87]
―――― 2008 「争いと争いの研究について」,
山本・北村編[2008
:163-177]
―――― 2009 「軸を速く直す――分配のために税を使う」,
立岩・村上・橋口[2009
:11-218]
―――― 2011a 「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」,
河出書房新社編集部編[2011
:106-120]
―――― 2011b
「まともな逃亡生活を支援することを支持する」
,『別冊Niche』3:61-70
―――― 2012a
「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」
,『福祉社会学研究』09:81-96(福祉社会学会)
―――― 2012b 「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」,安積他[2012:499-548]
立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009
『税を直す』
,青土社
渡邉 琢 2011
『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』
,生活書院
山本 崇記・北村 健太郎 編 2008
『不和に就て――医療裁判×性同一性障害/身体×社会』
,生存学研究センター報告3
UP:20140131 REV:
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災害と障害者・病者:東日本大震災
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立岩 真也
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