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生の技法/生の条件

立岩 真也 2013/12/01
『三色旗』788:37-41(慶應義塾大学通信教育部)
http://www.tsushin.keio.ac.jp/students/letter/index.shtml
慶應義塾大学通信教育部:http://www.tsushin.keio.ac.jp/

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◆2013/11/01 「良い死/唯の生」
 『三色旗』788:37-41(慶應義塾大学通信教育部)
◆2013/12/01 「生の技法/生の条件」
 『三色旗』789:(慶應義塾大学通信教育部)
◆2014/01/01 「生の歴史」
 『三色旗』790:(慶應義塾大学通信教育部)

 3回の講義の2回めを「生の技法」、3回めを「生の条件」という題にさせてもらった。『生の技法』というのは、岡原さんと私、そして安積純子さんと尾中文哉さんの共著で1990年に出してもらった本のタイトル。正式には『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』という。1995年に第2版(増補改訂版)が出てからでも17〜年たったこともあり、しかしまだ読んでほしい本でもあり、さらに1995年の後のこともすこし加えておければと思った。そしてなにより、大学等での授業・演習などで使う(参加者全員に買ってもらう)には安いにこしたことはないと思って、文庫版にしてもらおうと思った――2900円→1200円(+税)になった。そして2つの章が増えた。ただ、思いのほか増補に時間がかかったこともあり、それが出たのは2012年12月25日になって、残念ながら講義にはまにあわなかった。
 そこには岡原さんの「感情の社会学」の出発点のひとつがある(第3章「制度としての愛情――脱家族とは」)。私も授業で家族の話をした。前回書いたのは、自分が働いて取れる範囲で生きる権利、同時に義務がある、というようにこの社会はできているという話だった。では、そういうきまりのもとで、暮らすに必要なだけを稼げない人、自分の生活を成り立たせることのできない人は死んでしまうことになるか。そんなこともある。(とても乱暴に言い切ってしまえば、「安楽死」とか「尊厳死」とかきれいな言葉で言われる死もそんな死であると言ってよい。もっと乱暴でない話は前回紹介した『良い死』『唯の生』でしている。)ただ、実際の社会はもう少し複雑になっている。
 つまり、自分>自分でだめなら家族>家族でもだめなら「社会」が救う、という具合になっている。これは現実にそうなっている、そんな意識が社会にあるというだけでなく、政治・法によって(例えば「扶養義務」といったかたちで)定められているのでもある。それで、家族の経済的支援や介助を(場所的に離れるにせよ離れないにせよ)断わり、「社会」が用意してくれる施設にいるのもよしとせず(→第4章・尾中文哉「施設の外で生きる――福祉の空間からの脱出」)、暮らそうとする人はどうなるか。
 自分にお金はない。あればそもそも苦労はしていない。そこで「ボランティア」を得て暮らし始めた。しかしこれは様々にたいへんだ。そして、ボランティアが行なうということは、ボランティアでない人はしなくてもよいということでもある。それでよいか。
 こういうふうに考えていく。つまり社会は市場/政治/家族/その他の自発的な行為の領域という具合に、分かれている。その各々や、その間の境界をどのように考えるか。私はそれが社会学(にべつに限らなくてもよいのだが)の大切な主題だと考えるようになった。政治学も経済学もあるけれども、それはたいがい一つの領域の内部を議論している。それはそれで大切なことではあるが、その各々の間、複数のものの関係を問うことが必要だ思う。私がその本を書くための調査(1980年代の後半、ずっと聞き取り調査をしていた)で感じたのは、その人たちが社会の「境界」を生きている、生き抜いていることだった。そのことを考えればよいのだと思った。
 さきの、自分>自分でだめなら家族>家族でもだめなら「社会」がという順番については、『生の技法』では第10章「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」、1「この社会の編成」、2「自己責任/社会的義務」、3「家族」、4「自発的な行為」、5「有償ということ」…と続く箇所で論じている。述べていることは単純なことで、この順番はまちがっているということだ。そしてでは代わりにどう考えればよいのかを示した。
 もちろん家族社会学だとか社会福祉学といったものもそんなことを言ってこなかったわけではない。しかし、それらはたいがい「家族の変容」をもってきて、「核家族化」し「女性の社会進出」が進んでいるなかで、家族は「ケア」といった仕事を担いきれないから「社会化」、という筋になっている。では担える場合はどうなのか? 実際、私たちが調査した人たちにも、なかには親が亡くなったりといった人もいたけれども、経済的・身体的には(まだ)なんとかなる(扶養・介助できる)という人もいた。ではそんな人は、家族がそんなである限り、家を出られないのか、あるいは同居を続けるとして家族に世話され続けられねばならないのか。そんなことはないだろう。
 ここで、もちろん「現実」はそれとして大切だが、「規範」について考えるべきだと考えることになる。近代家族は自発性に基づいて形成される関係であるとされる。そのことと、その関係に政治的・法的規定――ここまでは家族だが、それ以外は家族ではないといった規定――そして義務が課せられるというのは、考えてみればおかしなことではないか。それで「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」という文章を書いて、それは『社会学評論』という日本社会学会という学会の雑誌に載った。1992年のことで、それが「学会誌」というものに載ったものでは最初の論文ということになる。大学院の博士課程に入って7年も経っていた。この稼業で食べていこうと思えばそれは普通はない――もっとせっせとそういう雑誌に論文を載せなければならない。調査し本を書いているあいだにそういうことを忘れていたようだ。ちなみにこの論文は、さらにそれからずっと経って、家族とか性別役割分業といった主題について書いた文章――今述べたような経緯もあって1990年の前半に書かれたものが多い――を集めた『家族性分業論前哨』(2011、生活書院)という本に収録された。その本は私の勤め先(立命館大学先端総合学術研究科)を出た村上潔さんとの共著で、村上さんは「戦後日本の性別役割分業と女性/労働をめぐるブックガイド90」というのを書いてくれている。こういうテーマに関心のある人にとってはとても役に立つものになっている。
 さて、この「境界」について(規範的に)考えるということは、実は前回に述べた「所有」のあり方について点検し、別のあり方――それは未来に想定されるものであるとは限らず、既にこの社会に存在するのだが近代社会の規範がそれを隠している場合もありうる――を考えるということでもある。どういうことか。近代社会における所有の規範は(その理念としては)自分が(自らによって対象を統御し)生産したものは自分のものであり、それをいかようにも処理してよい――使っても、売っても、あげても、捨ててもよい――というものである。けれども、実際には、あるいは(ある部分の)人々の思いとしては、贈与はよい(かもしれない)が、売買はいけないだろうとか、どちらもだめだとか、家族による贈与はよい(かもしれない)が、そうでない人の贈与は問題だと思うものがある。場合によったらそれがきまりになっている場合もある。そうしたことをどう考えたらよいか。あるいはより基本的なところを考えてみると――例えばカントという人は、人が自分の身体を統御できることによってその身体のその人による所有が正当化されるとしたのとだが――例えは心臓は人が随意に動かせるのではない。心臓に限らず、身体の大部分はそんな不随意のものである。とすると、こんどはその部分については、当人の権利・優先権――自己決定権というか(他人たちにおける)不可侵性というかですこし意味が異なってくるのだがそれはここでは略す――は正当化されないことになってしまわないか。そんな問題があるし、それにどう答えるかということになる。
 そんなことをさきの「近代家族の境界」という文章を書いた頃(すこし後)、体外受精であるとか代理母であるとか「生殖技術」について考えることになって――私自身がその技術そのものに関心があったというより、「交換の境界/贈与の境界」という関心があって考えることになった――論文を幾つか書いた。そうして考えて書いていって、つまりはこういうことかもしれないと思ったのが、1994年とか95年とかそんな頃だと思う。それで長らくまとまりきらなかった話がひとつまのまとまりをもつものになるように思った。それが、前回紹介した『私的所有論』(初版1997:勁草書房、第2版・文庫版:生活書院)という本にまとめられることになった――講義ではそのあたりのややこしい話はあまりしなかったけれども、ごく基本的なことは述べた。
 その後、私の仕事はおもに、そういう微妙な部分についてというよりは、右から左に(本人の意向に反しても)移動させられるもの、徴集・分配されることが可能でありまたなされべきであるもの――おおざっぱにはお金というものはそういうものである――の集め方とか配り方について考えたり調べたりすることが一つの主な仕事になった。理論的な部分では『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(2004、岩波書店、ただしこの本はいま書店では買えなくなくなっている→そのうちやはり第2版を出してもらうか、考えようと思うが、手元にまだ何冊か残っているので、いりような人は連絡ください)、そしてもうすこし実際的なところでは、『税を直す』(村上慎司・橋口昌治との共著、2009、青土社)、そして『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(齊藤拓との共著、2010、青土社)といった本に書いてきた。とくに『税を直す』では、『若者の労働運動――「働かせろ」と「働かないぞ」の社会学』(2011、生活書院)の著者でもある橋口昌治さん(やはり同じ大学院卒、村上慎司さんも齊藤拓さんも同じ)が「格差・貧困に関する本の紹介」を書いてくれている。そういう主題の本がたくさん出ていることはみなさん感じられていると思うが、あまりにたくさんあって(ありそうで)、なんだかわからないという人も多いのではないかと思う。参考になると思う。
 最後に一つ。それにしても「境界」の問題は終わったわけではない。2012年の堀田義太郎との共著書『差異と平等――障害とケア/有償と無償』(青土社)の一つの主題は、「本来」介助という行ないは無償の行ないであるとよいのか、それとも有償(この場合には税を使ってその費用が徴集されそれが直接の介助者に支払われることを意味する)でよいのにかについて、堀田が前者の、私が後者の立場で論じている。それらは相互の論を知った上で書かれたのではあるが、では決着がついたのかと言えばそうではない。こうして話は続くのではある。ただ、私は、基本的には、言えること言うべきことははっきりしているとも考えている。その概略・一部を授業で皆さんにお伝えした。忘れてしまったところ、わからなかったところ、論理の道筋、細かなところは前回と今回あげてきた本で補っていただけれと思う。前回と今回の文章を、とりあげてきた本のページ(ファイル)にリンクされるようにして、こちらのHP(「立岩真也」で検索すると一番上に出てくる)に掲載しておくことにする。ご参考まで。


UP:20131130 REV:
立岩 真也 
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