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障害者の自立を考える・前篇

―社会学の視点から―

岡原 正幸立岩 真也(対談) 2013/04/15
『地域リハビリテーション』8-4(85 2013-4):260-265
https://www.miwapubl.com/products/list/27


 弊社より『身体障害者の性活動』が発刊された(2012年7月刊)。専門職による身体機能面からみた解説や支援の実際,また当事者によるさまざまな性活動が主な柱である。本日の対談者の共著『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』(生活書院,2012年)では、施設から出て暮らす理由の一つに「セクシュアリティへの抑圧」が挙げられている。その意味では自立と性の問題はつながっているともいえる。そもそも「自立」とは何か、性支援についてどう捉えることができるのか、社会学者の岡原正幸氏と立岩真也氏に語っていただいた。2回にわたってお届けする。(2013年1月26日収録)

◆安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩 真也 2012/12/25 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 1200+60 [amazon][kinokuniya] ※

『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版表紙』

それぞれの社会学について

−日常において、セラピストが社会学に触れる機会は少ないわけですが、社会学は社会の多様な面を、多様な方法論によって捉える学問といえるかと思います。社会学に触れることで、いまある現象に対して「なぜ」という姿勢を持つことができそうです。さて、リハビリの世界では「自立」を重んじることの大切さが強調されますが、そもそも「自立」とは何かと振り返ることはあまりありません。そこで今回、障害者がなぜ自立生活を求めたのか、どのように生活しているのかを捉えた共著『生の技法 第3版ー家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(以下、『生の技法』)を中心に、前篇は社会学から捉えた障害者の自立について、後篇は障害者への性支援についてお伺いできればと思います。まずは自己紹介とお二人の接点についてよろしいでしょうか。

立岩○立命館大学大学院の教員です。専攻は社会学で「所有」や「分配」を基本的テーマにしています。
 岡原さんと出会ったのは『生の技法』を岡原さんと僕と日本女子大学で社会学を教えている尾中文哉さん、それから骨形成不全症の障害を持つ安積遊歩(純子)さんの4人で作ったことがきっかけです。初版発行が1990年ですから、もう23年も経っていますね。いまの関心事は、『生の技法』の第3版が出たので、それが売れてほしいなって思っています(笑)。二十歳を超えた子どもが一人います。

−研究の中心テーマに「分配」や「所有」を選んだきっかけはありますか。
立岩○基本的にこの世の中は、abilityとdisabilityがあって、abilityがある人は得をするっていう世界です。が、それはおかしい、じゃ、代わりに何だっていう気持ちがずっとありました。そもそも大学とか高等学校も、そういう世界の練習みたいな場所になっているのです。能力に応じた、あるいは働きに応じた受け取りといいますか、所有といいますか、それが当たり前とされていることについて問題視するっていう意味では、もう30年くらい同じテーマをやっていますね。重度の身体障害の人というのは、そういった世界の中では、どちらかといえば、というより明らかに損な役回りの人たちですよね。Abilityがある人が得をする社会の中で、損な役回りの人たちがどうやってものを言ったり生きていくのか、『生の技法』もそれが中心テーマになっています。この社会は事実としても、言説としても、abilityというものと暮らし向き、あるいはabilityと人の価値とがつなげられている社会ですが、能力があろうがなかろうが、暮らしていければよいというようなことを、僕はいままで書いたり話したりしてきました。

−ありがとうございます。岡原先生、お願いいたします。

岡原○慶應義塾大学文学部で社会学を教えています。専攻としては、感情社会学やアートを利用した調査研究などをしています。『生の技法』の誕生についていえば、石川准さん(静岡県立大学)や好井裕明さん(日本大学)といった、社会学を専攻する、東京大学の大学院生だった二人と、障害を持った人に関する社会学をしようと考えたのがきっかけです。僕は慶應義塾大学の大学院生でした。その成果は1986年に論文になっています(『解放社会学研究』1号)。この研究を膨らませようということで、石川さんがミスタードーナツの奨学金でアメリカに研修に行ったときからの知人、安積遊歩(純子)さんを仲間にして調査研究が始まりました。石川さんは全盲、安積さんは骨形成不全という障害を持っています。彼女は福島から東京に出てきて一人で生活していました。そんな彼女の生活の実態から聞き取りを始めようとした矢先、やはり東大の大学院生だった立岩さんがあらわれたわけです。

―障害学などをテーマにするきっかけはありましたか。

岡原○僕が中学生のときに亡くなった叔父は脳性まひでした。だから、祖父母の家に遊びに行けば、ほぼ寝たきりの叔父と日々関わっていたことになります。学生時代にも大学のサークルで障害を持った地域の子どもたちを集めて遊んでいました。障害学とか社会学とは関係なしに、その前から、障害を持つ人々とのかかわりはあったわけです。そんなかかわりに対して、社会学的に近づくということでいえば、まずは感情社会学という視点です。つまり、感情と社会がどのように関係するのかというところから、現象をみていきます。障害者への憐れみって何だ、障害者を生理的に受けつけないと言っている人って何だ、母親の愛情はどんな形で障害者の自立に関わるのか、あるいは介助者に遠慮したり、介助者が障害者に遠慮したりって、何なのかという問いかけからスタートします。

―立岩先生との違いを簡単に教えていただけますか。

岡原○立岩さんの関心は、社会学ではかなり根本的な関心になるかと思います。社会学がいまの社会をどう捉えているかといいますと、教科書的にいえば「近代社会」という言葉を持ってきます。その「近代社会」の特徴の一つは、能力に応じて生活や地位やその他もろもろが決まるというものです。かつてのそうではない社会、すなわち簡単に言ってしまえば、生まれや性別などでその後の生活のありようがほぼ決められてしまうような社会、時に「前近代社会」とよばれますが、そんな古い世界を壊して、人々を束縛から解放して自由にしたのが「近代社会」だと考えられるわけですね。だから、個人の主体性を擁護する社会学のニュアンスからみれば、近代社会は悪役ではありません。しかし、その基本原則を根本から見直して疑問を突きつけているのが、立岩さんだと思っています。もちろん全否定ではありませんが、近代社会の中で、ガチガチに固まったかたくなな部分を、「それは違うぞ」と言いながら、一つひとつしっかりと、細かく細かく削り出している職人が彼ですね。その点、僕は大雑把です(笑)。

立岩○僕の著書は難しいっていわれますが、テーゼは単純です(笑)。

―『生の技法』では、「障害がある人=弱者」という思い込みについても指摘しています。その思い込みが招く障害者と介助者間の非対称性の関係についても、私たちは認識する必要がありそうです。本誌の主な読者であるセラピストは、ADLなどの評価法を用いて能力判定を行います。能力を通して、その人を規定する作業ともいえそうですが。

岡原○立岩さんは、近代社会が能力に応じて配分されるシステムであることについて、異議を唱えているわけですよね。

立岩○僕の場合、能力に応じて配分なんておかしい、という直感から始まっているわけですが、じゃあ、どうするのかというようなことも含めて考えていくと、けっこうやらなくてはならないことがあります。働いたら褒美を出すという近代社会ですが、例えばそれを全部やめちゃったら、僕らは、この社会は、やっていけるだろうかとかですね。

―全部やめちゃうとはどういうことでしょうか。

立岩○例えば、原稿料を出してくれなかったら、今日、この対談に来るかなぁとかです(一同笑)。つまり、働きに応じた分配がなくてもやっていけるだろうかってことですね。「能力」に応じた分配となるのか、「働き」とか「労苦」とか、「苦労」に応じた分配になるのかは、またそれぞれ異なるでしょうし。じゃ、どこがどう違うのかとか。では、そういうのを全部ひっくるめて、全部取っ払ってしまって、それでこの社会はやっていけるだろうか、とかですね。

自立について

―「自立」という言葉は、リハビリの世界で漠然と使われている感があります。障害者の自立についてお伺いしたいのですが。

岡原○障害者の自立、それを僕は『生の技法』を書いているときには、「自分のしたいことをしたいようにする」と捉えていました。経済的な自立でもなければ、身辺の自立でもない。たとえ一人では、服を着られなくても、トイレに行けなくても、自分のしたいことをできていれば「自立」しているのだと考えました。ずっとこのテーマで研究している立岩さんからすると、かなり大雑把でしょうが。

立岩○基本、そういうことですよ。『生の技法』ではあえて、自立生活というタイトルを使っていません。「自立したからどうなのよ?」って思いが根っこにありましたから。『生の技法』の制作当時、自立ってなんか積極的な理念というよりは、とりあえず親の庇護にいる状況から逃れるとか、施設から逃れるとかそんな雰囲気でした。じゃ、逃れて何があるのかっていうのはわからないし、わからなくていいしと。「それは自立なのか」って問われたら、そうじゃないかもしれないしそうかもしれないけど、そんなことはどっちでもいいじゃん、とりあえず暮らしたいところに暮らして、その人がどう暮らしたいかはあとからまた考えようでいいと思ったんですね。言ってみれば、ある種の逃亡っていうか、家出っていうか。そういうのを僕らの、その当時の言葉では、自立生活ってよんでいたのです。「今度、あの人、自立したんだって」というのは、そんな意味合いでした。けれども、タイトルに「自立」の文字を入れたところで、そのニュアンスが伝わるかっていったら、たぶん伝わらない。そういうこともあって「自立」っていう言葉は使わなかったのです。

岡原○そうでしたね。

立岩○教科書的にいうと、自立とは、かつては、職業に就いてご飯が自分で食べられるようになるという経済的な自立を指していて、次は経済的自立は無理ですがADLの自立を目指しましょうになり、その次は自分で自分の身体を動かせなくても、自分なりの動かし方を決めて人に伝えて暮らしていくという3段階の歴史的流れがあって、この3つ目が正しいというふうに記載されているわけです。そうなると、かえって、自分で決められるってことが、とても大切なことのように強調されるようになります。僕はそのことにも違和感を感じました。別にそんなに自分で自分の人生を決めたくもないかなぁという(笑)。そもそも、3つ目を言い出した人たちは、身体は動かないけど、頭は動くぞっていう人たちでしたからね。

岡原○そうそう。

立岩○知的な障害を持った人ならまた違ってきますよね。であるのに、それを一番の旗頭にすることに、ずっとためらいがあるのです。

―障害のあるすべての人を含めた「自立」とは、という問いがあったとして、現時点で、立岩先生の中でこういうものかなっていうのはありますか。
立岩○僕は自立という言葉を使わないですね。具体的な行い、好きなように暮らすぞ!っていう、ある種の宣言とともに行われる行いを記述する際の言葉として、自立とか自立生活って言葉が存在することは知っていますから、ある時には使いますけど、例えば僕が僕自身の言葉として「自立」という言葉を使ったことはないと思います。自分で立っているということは大切かもしれないけれど、とっても大切ではないですから。

―岡原先生はそのあたりはいかがでしょう。

岡原○『生の技法』を書いたときは仮想の敵というものがありました。「保護」とか「安全」という言葉のもとに、あることを子どもたちにさせない、障害がある人をどこそこに行かせない、いわゆる家父長的な温情主義が社会の基底的な雰囲気でした。この雰囲気の中で、「自立」という言葉はそれを打ち破るための標語だったと思います。その後、社会情勢が変化し、施設中心の福祉政策はコスト面で破綻するといわれ、国の施策として「自立」が持ち出されます。この言葉を冠した法律までできるし、「脱施設」という言葉も「脱家族」という言葉も、いつの間にか厚生労働省さえ使用するものになりました。そのとき、僕らが込めた思いとは明らかに違うものとして使われたと感じます。安上がりのための自立ということなら、「自立」という言葉の意味は、もう一度問い直す必要があるだろうと思っています。当事者が一つの標語として「自立」ということをうたって、それによって何かを勝ち取るという場面では、まだまだ意味があるかもしれません。しかし、当事者以外の人が、この言葉を使い始めて、この名のもとに、当事者に対してある便宜をしたりしなかったりとなれば、それは本末転倒なわけです。自立は目的ではありません。目的にしてしまっては意味がない、当事者が自立を手段にして何を手に入れるのか、手に入れたいものを手にできるのか、それが大事です。自立が大事だとしたら、当事者が自分の生を思うように拡張できることに資するかぎりです。リハビリの世界では、依然としてこの言葉はよく使われるのですか。

―カンファレンスや論文などあらゆる場面で使用されています。「自立」という言葉が持つ潜在的・根源的な問題について、認識している人は少ないと思います。

立岩○岡原さんがおっしゃったように、標語の意図するものが違う意図にすり替えられて使われていますよね。「医療から福祉へ」とか、「脱施設」とかそういう類の標語が、最初に使っていた少数派の当事者の人たちから取り上げられてしまって、違ったものになってしまっている。実際、そんなようなことが起きています。

岡原○立岩さんはそのあたりをずっと追っていますね。

自己決定と他者の都合について

立岩○『生の技法』を通して行ったことはいくつかありますが、一つに80年代、90年代、2000年を越えて起こってきた出来事って何なのかっていったときに、70年代、80年代に当事者本人が言ってきた言葉が、別な言葉で、あるいは別の含意を持って使われていることについて、きちんと追っていくということでした。そうしなければ、時代が変わったのだからすべてOKということになってしまいかねないのです。

―その視点は、私たちも意識する必要がありそうですね。

立岩○「自立ってなんで大切なの?」っていう問いに対する一つの答えはあります。それは経験的に他人に決めさせるとろくなことがないというものです(笑)。他人に決定をまかせると、他人には他人の利害というものがありますから、食べたいものを食べられないとか、寝たいときに寝られないとか、それは就寝って意味もあるでしょうし、もう一つの対談のテーマ「性」という意味での寝られないっていうのもありますが、そういうことが生じてろくなことがない、だから自分で決めさせろと。ある意味、しょうがないから自分たちで決めるみたいなところがあるわけですね。他人の利害のほうが通ることにならないことが問題で、自分で決めることが大切ということよりもむしろ、他人の利害というものをどうやってのけていくか、そちらのほうが大切かもしれないのです。他人の都合というものが、どういう脈絡で当事者の生活やリハビリの目標に食い込んでいるかとかですね(笑)。

岡原○いまの社会、権威や命令が昔と比べて嫌われ、いろいろな場面で、自分で決めていいよっていわれますよね。けれども、このロジックでは、他人が他人の都合のために、あなたのことはあなた自身で決めろという、そういうことも起こり得てしまうのです。それらが自立とか自己主張とか自己決定といった言葉で覆われてしまえば、自立が皮肉なことに他人の都合を果たすだけのものになってしまいます。最後には自己責任といわれて放り出されるようなことが起きてしまうのです。

立岩○自分で決めたことの結果は自己責任で、これはもっともらしく聞こえますが、なおかつ、その全部を否定すべきとは思わないですが、最初に言った、自分の能力に応じて何事かをしたら、その分だけあなたのものだよっていう話に近いですよね。自己で決めて何かして、それが自分に還ってきて、それは権利でもありますが、その範囲でやっていきなさいという義務、責任でもあるわけです。いまの社会でいわれている「自立」というのは、つまりはそういうことですよね。そういう意味では、法律の前文などで記載される言葉や標語が、僕らの意味するところと違う意味で、すでに社会には認識されてしまっているわけですから、「自立」という言葉も、うっかり使用するととんでもないことになります(笑)。

―なるほど、そうですね。

岡原○自立生活という考えは、この国では1980年代初頭にアメリカから導入されました。でもその時代といえば、アメリカではレーガン政権で、政府がどういう意味合いで自立生活の言葉を使っているのか…、結局は小さな政府でお金を使わないっていう方向であることはすでに知られていました。ですから日本に導入されたときには、すでに批判的な視点も込みだったと思います。「自立生活」というものが必ずしも満点ではなく、いろいろなところからの力関係や都合の中で、その言葉が使われてしまう可能性は『生の技法』を書く前から僕らもわかっていたのです。
ー「自立」という言葉が、そもそもどのような意味合いのものであったのか、そして、どのような他者の都合を受けて、いま使われているのかということを知っておくことは重要ですね。

セラピストへのメッセージ

―前篇のまとめとしてセラピストへのメッセージをお願いできますでしょうか。

立岩○リハビリって基本的には目的があるわけですよね。達成水準といいますか。そのこと全般が悪いというわけではないのですが、なぜこれが目的なのかということに対する疑惑みたいなものは必要なのかなと。うちの大学院でも専門職や教職員の参加者は多くて、それぞれの分野に存在するレールみたいなものに違和感を感じている人が来ている気がします。

―なるほど。

立岩○で、ちょっと批判されると、今度は「わかりました、ではご自分で」ってことになるわけです。すると専門職は考えなくてもよくなります。「本人が決めたとおりにやりましょう」と。しかし,それでだいたいの場合はよいとして、いつもそう言えるか。すると目標を設定することや本人が決定することが、この社会の中で、どういう位置を持ってしまうのか、どういう意味合いを持たせてしまうのか考えることが、大切かもしれません。社会学者は職業としてそれをやっているわけですが、セラピストも考えなきゃいけない気がします。

―岡原先生、お願いします。

岡原○まずは大変な現場にいるということですね。理論も原則も公式も哲学も、現場の中でいろいろに具体化されてはじめて意義を持つものです。そして具体化の頃合いを、目の前にいるクライアントとの関係で個別に作り上げるという大変な仕事です。僕の専門では感情労働という視点があるのですが、セラピストは相手の個別性に隅々まで自分の感情をつぎ込んだり控えたりしなくてはならない仕事です。その意味で、感情労働者としてのセラピストが抱える問題はもっと注目されていいと思います。

―社会学に触れないとなかなか気づけない貴重な示唆をありがとうございました。次回は「障害者の性」についてお伺いしたいと思います。


(安積純子、他著/文庫判
666頁/1,260円(税込)/生活書院/2012年)

◆本対談における社会学について
「社会学として行われている営みは多種多様だが、『生の技法』の著者らに共有されているのは、現実に行われているさまざまな出来事、例えば政治、経済、教育、医療、文化、地域あるいは日常生活などで起きるおよそあらゆる事象について、そこに潜む前提を疑う、あるいはその前提がどのようにして歴史的に作られ、日々どのように再生産されているのかを、具体的な素材や資料を使って明らかにしようとする立場である」(岡原)

◆Masayuki OKAHARA
岡原正幸(おかはら まさゆき)
1957年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部教授。1980年、慶應義塾大学経済学部卒業。1987年、同大学院社会学研究科博士課程修了。専攻は障害学、感情社会学、アートによる文化実践など。著書に『ホモ・アフェクトスー感情社会学的に自己表現する』(世界思想社、1998年)、共著に『生の技法 第3版ー家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(生活書院、2012年)、『身体障害者の性活動』(三輪書店、2012年)、『感情資本主義に生まれて』(慶應義塾大学出版会、2013年)など多数。

◆Shinya TATEIWA
立岩真也(たていわ しんや)
1960年、新潟県生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。1983年、東京大学文学部社会学科卒業。1990年、同大学院社会学研究科博士課程修了。信州大学医療技術短期大学部准教授などを経て2004年より現職。著書に『私的所有論』(勁草書房、1997年/第2版・文庫判、生活書院、2013年刊行予定)、『弱くある自由へー自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000年)、『ALSー不動の身体と息する機械』(医学書院、2004年)、共著に『生の技法 第3版ー家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(生活書院、2012年)など多数。


UP:2013 REV:
立岩 真也 
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