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報告

日本生命倫理学会第24回年次大会・シンポジウムU「生存学と死生学」報告
立岩 真也 2013 『日本生命倫理学会ニューズレター』


 コーディネイターを大谷いづみが務めた本シンポジウムは、基本的に立岩と清水哲郎の対論という形のものであり、その報告を書く筆者は二人の一人であって、そこに「偏り」があってしまうことをまずお断りしておく。
  二人の主張そのものは双方の著作に示されているから、それに重なる部分はここに記す必要はないだろう。そこに明示はされていないと思う部分で、立岩が清水の話から受け取った一つは、(「延命」のための行ない)の停止と不開始とが乱暴に一緒にされてしまうことに対する批判だった。そしてそれは、両者の連続性をその著作(『医療現場に臨む哲学II』)で証した上での発言であった。確実な素早い死が到来することとそうでない場合といった異なりがあり、それが時に大きな意味を有することを立岩も認めた。
  ただその違いに慎重であるべきことを認めた上でもなお、それは二者について常に別の態度をとるべきことを示すものではない。このことも確認されたと思う。では、何が正当化(あるいは否定)の基準・根拠とされるのか。清水の従来からの論によればそれは、正負のついての関係者(当事者)の計算の総合による。ここで「誰の」選好を計算に入れるかについて、家族のそれを算入することに否定的な立岩との差は埋まらなかった。ただ、清水においても家族は家族であるがゆえに認められるのではないことは確認された。すると、利害関係者であるからという理由と代弁者であるという理由と二通りが残る――そして立岩は家族が前者であるがゆえに「危険」であるとしている。これらの場合、当人と家族の意向が一致しているとしても、家族(等)の意向を算入するか否かについて判断する別の審級を要さざるをえないのではないか。この疑問は残されたと思う。
  そして結局、今度はとくに本人において、二つの生きている状態の間の比較は日々行なわれているとして、さらに身体的な苦痛が除去すくなくとも軽減可能だとして、死は何ゆえに選ばれてよいものとされるのか。それが選好される可能性は除去されないし、現に存在もする。ただ、清水の立場は本人(と関係者)の決定を至上とする立場ではないから、それはいかなる状態であるのか、どのように妥当な決定であるのかを言わねばならない。論理的な可能性があることを立岩の立場は否定できないが、その点の疑問が残る。最低限の人数に絞ってなお、たんに立場の違いからというのでは時間内に収束しない論点があること、その論議に本学会で用意された時間では足りないことを感じた。

◆立岩 真也 2012/10/20 「対論のために」(大会企画シンポジウムU・発表要旨),『日本生命倫理学会第24回年次大会予稿集』 p.32


UP:2013 REV:
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