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生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学(仮)

立岩 真也・有馬 斉 2012


 *文献表

 T:46字×19行→202頁+文献表7頁
 リンク数:77→91→144→159(0921)→272(0921)→279(0925)→320(0929)/+総合文献表198

■■■ 序

 「安楽死」「尊厳死」について、立岩『良い死』『唯の生』(筑摩書房、二〇〇八年・二〇〇九年)の二冊の本に書いた。それから基本的に言うべきことに変わりはなく、とくに足すべきこともない。ただ、それらで、もう一冊、関連する本・言論を紹介する本を出すことを予告していた。もとになる原稿はその時にほぼ一冊分あったのだが、他の仕事・事情が様々あったりもして、まとめる時間がなかった。ただそろそろ出せねばとは(いつも)思っていた。そこで、なんとかその仕事をして、刊行してもらおうと考えた。ただ結果、当初考えていたのと違う本になった。そこで、その事情と本書の概要を。
 それらの本が出る前、二〇〇四年から二〇〇五年頃にかけて「尊厳死法」を作ろうという動きがあった(その時のことは『唯の生』第2章の「近い過去と現在」、第4章「現在」に記した)。今年(二〇一二年)になってまた法律を作ろうという動きが出てきた(九月に閉会した国会には法案は出されなかった)。取材依頼などいただくと、本を読んでくださいとすませるわけにもいかず、同じことを手短かに話したり書いたりといったことをすることになる。第T章ではそうしたもの他を幾つか再録した。
 これまで法律化の動きは今度のものを含め三回あった。その(二回目までについての)経緯については『唯の生』第2章――そこで日本尊厳死協会日本安楽死協会が一九七六年に改称して発足)等についても紹介している――と第4章に記したのだが、本書第U章では各々の時の法案とそれに関わる意見を幾つか収録した。(二番目からだんだんと、そして)今回の三番目についてはそれまでより「障害者関係」の団体が動いている(法律化を推進する人々は障害者とは関係ないと言うが、そんなことはないことは本書を含む三冊で示した)。また『現代思想』二〇一二年六月号の特集が「尊厳死は誰のものか――終末期医療のリアル」で(その時点での)現況を伝えている。
 第V章では、有馬斉バイオエシックス(生命倫理学)における肯定論を紹介してくれる。有馬に書いてもらうことは一昨年か昨年かから決めていた。読者は、同じ主題であるのに、なんだかまったく異なった世界があるように感じるだろう。そう、そのように世界はできている。ただ関係はしている。どこがどうなって、話が違ってくるのか考えてみていただきたいと思う。
 ここでは「功利主義」が取り上げられるが、それは素人の私たちがその言葉で思う「最大多数の最大幸福」といった原理に限られるものではない。まず「本人」によって「よい」ことがよいことであることについては多くの人が同意するだろう。すると、そのことはどのように論じられているのか。また、「本人」をもってくれば、結局、有馬が紹介するように、「自律」「自己決定」が関わってくる。この主題については立岩は『良い死』第1章「私の死」で論じている。また(人・ヒトの)特別扱い、「生命尊重主義」批判については『私的所有論』(立岩[1997]、第二版立岩[2012]が文庫版で出る――本文は変更なし、注などは足した)の第5章「線引き問題という問題」、続いて『唯の生』第1章「人名の特別を言わず/言う」で、有馬があげる人・文献と同じ人・文献をあげて論じている。生と死を比較することについては『唯の生』第6章「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」で論じている。サバイバル・ロッタリー(生存籤)については『私的所有論』第2章第4節。読み比べていただければと思う。
 そして、この章の後半で有馬が紹介していることで大切なのは、積極的安楽死と消極的安楽死、尊厳死、治療停止、不開始…等いろいろと区別されているものが区別しがたいという主張である。立岩はこの主張にほぼ同意する。(「自然」に委ねるのと「人工的」に行うことに違いがあるという言い方はあるだろうが、やはり本章で紹介される人たちの同様、この区別の有効性は疑わしい。このことについては『唯の生』の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」。)すると、このことは、今この国で盛んに言われていること、つまり、自分たちは「安楽死」を認めるわけではない、あくまで「尊厳死」――最近はこの言葉もあまり使われない傾向がある――を主張するのだという主張に危ういところがあることを示しているということである。だから、区別した上で一部を認めるべきだと主張する人たちは、この章に紹介される論に反論し論破せねばならないということである。
 そしてやはり、功利主義そのものも気になってしまう。「最大多数の最大幸福」とかそんなに素朴なものではないと述べたばかりだが、ではそれはどんなものか。それはどこまで論じられているのだろう。「すべての人」にとって(より)よいならよい、などということは現実にはそうありそうにないことだが、それならよいだろうか。しかしそんな誰からも文句が出そうにない場合(パレート改善〜最適)でさえ、それでよし、と言えると限らないことことは、『自由の平等』(立岩[2004a])第1章第2節「ゲームから答はでない」でも述べた。誰にとってのよし/あしか。それをどうやって「集計」するのか。こうして話は広がってもいく。ただ、まずはさきにあげた「本人」やその「選好」のことだけでもよい。考えてみていただければと思う。  言うまでもないことを加えると、人々の議論を紹介することと自らの論を示すこととは別のことであり、ここで紹介される論と有馬自身の論(有馬[2009][2010])とは同じでない。それらの論文では、自由主義は、特定の価値なく、人の自由をもって安楽死他を認めると主張するが、実際にも、規範的にもすべての自死を認めるとはしない。とすればそこには特定の価値観があるとしか言いようがないことが証明されている。読んでいただきたい。ただそれが掲載されている雑誌の残部がなくなりつつある。後で紹介する電子書籍での提供などを検討したいと考えている。
 立岩は、『看護教育』(医学書院)で、二〇〇一年から二〇〇九年まで毎年十一回、計一〇一回、本の紹介をした。最初は、それを使い補って本を作ろうと思った。というかその連載はもともと、本の紹介の本を依頼され、そのためには原稿がいるから、そのために始めたものでもあった。その企画自体は、出版社の栄枯盛衰に関わる事情で宙に浮いたのだが、やはり本があってもよいだろうと思ってもきた。そのから「生死」「死生」に関わる本を紹介した回を使い、註を新たに付して本を作る。それが最初の計画だった。ただ今回は、手にとりやすいよう全体の分量を抑えるため、九回分にとどめた。残りは次にということになる。今回とりあげたもの、とくに日本の著者のものは、肯定的でない方に偏っていることを断っておく。例えば清水昭美は、さきに三度と述べた法制化のうち最初と第二回――その間に約二五年が経っている――の法案の「阻止」の際、その活動の実務を(第一回めの時は八木晃介とともに)ほぼ一手に引き受けた人である。ただ、その次に紹介する松田道雄は初回の一九七八年に「阻止する会」の発起人だったが、後年賛成の立場に転じた人――実際はさらにもう少し複雑だった――人である。
 そして、断片的にではあるが、「海外」における反対の運動――その大きな部分は(日本でのこのたびの、つまり三度目の動きへの動きと同様、障害者たちによって担われている――を紹介している。しかし、今回は急いでの出版になるために、断片的にでしかない。もう少し詳しい知りたい人は、ホームページに情報がある。また今後増補の機会があればと思う。
 先に記した二〇〇四年頃、出来事を追い字を扱うのが(人文社会系の)学者の仕事で、その分他の仕事ができない(ことになっている)のだから、できることはした方がよいのだろうと思い、まずホームページを増補した。「生存学」「安楽死・尊厳死」(表紙では「良い死?」という項目になっている)からつながるファイルたちである。それからもぼつぼつと続けた。それらが収蔵・掲載されているHPは二〇〇七年から二〇一二年までグローバルCOE「「生存学」創生拠点」(今は「生存学研究センター」)のHPになって、関心のある大学院生他がリサーチ・アシスタント等として増補してもくれた。それで現在、直接に関わる(「et」で始まる)ファイルが一一〇ほど、計六メガバイトほど。これに本の目次のファイルやら、太田典礼松田道雄といった人物のファイル等を加えるとさらに多くなる。文字の部分を取り出しても何冊か分にはなっている(〇・五メガバイトほどテキスト・ファルルがあると本ができる――安くして手にとりやすくしようともくろんだ本書の文字量はさらに少ない)。
 ただそうした資料は――とくに私(たち)のように工夫が足りない場合――やはり羅列的で断片的であり、よほどその主題に入れあげないと読み込むのは難しい。難しくなくともその気になれない。一つには、私にはこう見える、思えることを書いて読んでもらう。それは一つの物語ではあるが、物語だから、それに反対することもできる筋をもったものとして読んでもらい、考えてもらうことができる。さきの二冊の本はそうした本だ。本書もどこからでも読んでもらえるものでありつつ、「こんな感じ」と(すくなくとも筆者は捉えていることが)わかるようになっている。ただ他方で、本に書ける量は限られている。これで同じ(ような)主題で三冊、というだけですでに顰蹙ものである。どうしたものか。
 このたびに限らず、そのことをときどき考えることがあった。とくに日本語の本はすぐ厚くなってしまい、書くべきことを十分に書けないことが多い。しばしば、事実を伝えるのにも中途半端で、考えを展開するのも中途半端になってしまう。そうした半端な書き物が多すぎると私は思ってきた(それは、たんに書籍にする際の制約というだけのことではないと私は思っているのだが、それにに関わる愚痴はここではよす)。そこで、個別の詳しいことについてはHPでということにした。また情報は新しく加わるが、毎年本を書いて出してもらうのは難しい。そこで基本的な筋については本として残してもらい、新しく起こったことやわかったことはHPに載せるというやり方がよいだろうと思った。本書に出てくる書名や人名を検索してもらえばよい。多く貧弱で失望してしまうとしても、何かは出てくるはずだ。
 ある筋をもつ文章はそれとしてあった方がよい。またある分量以上の文章は本になった方がよい。同時に、関係する資料はそれとしてHPで読めたらよい。そして両者の行き来がたやすい方がよい。そんなことを思っていた。すると、近頃は電子書籍がようやく日本でも普及し始めた、らしい。その中の言葉から直接にHP上のファイルに飛んでいけるようにできるらしい。そこで、本書を電子書籍としても提供する。(まずは試験的に。HPで本書の書名で検索してほしい。)
 私は多くのことを知らないが、それよりもなお知らない人がいる。むろん、なんでも覚えていたらたいへんで、人はたくさんのことを忘れるし、忘れたらよい。しかし、そうとばかりも言ってられない。例えば二〇〇三年に要項が作成され二〇〇五年に出されると報道された法案は、一九七八年に日本安楽死協会が作った「末期医療の特別措置法案」のほぼ蒸し返し、おおむね同じものである。
 推進する側(の一部)には連続性がある。あの時実現しなかったことが、時代が変わり、今度こそと思っている人もいるだろう。だが、賛成の人も、よくわからない人も、また批判的な人も、多くはそのことは知らない。それはよくないと思う。その時は提出されなかったものが、今度提出されそして通るとしたら、それはかつても正しかったことがようやく実現されるということなのか、そうでないのか。何かが変わったのか、そうでないのか。そんなことも考えられないまま、ものごとが決まっていくのはよくないと思う。「現代史」を辿ることがいやでも必要になる。本書の最後に「カレン・クインラン事件」を丁寧に追った香川千晶の本の紹介を置いたのもそんな思いがあってのことでもある。
 ただ本の多くはすぐに品切れ・絶版になってしまう。今は出ていないものに紹介すべきものがある。紹介する本が買えない本ばかりでは困る。ただ図書館にあれば借りられる。そして、これは次の本で明らかにされることの一つだが、あきれるほど同じようなことが繰り返し語られてきた。「死について語ることを避けてきた」という話が、繰り返し、もう三十年以上、語り続けられている。だいたいこんなものだ、ということをわかってもらえたらよい。そして、中に読まねばと思うものがあったら――あるはずである――読んでもらったらよい。
 最後に、まったくもって無理な急な願いを受け入れてくださった生活書院の高橋淳さんに、とても、感謝しています。ありがとうございます。
                         立岩 真也 二〇一二年九月
■■■目次
■序
■■第T章 短文・他 立岩 真也
■私には「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」はわからない 2012/08
■「自己決定」について三〇〇字で論じなさい、に 2012/08
■人工的な延命/自然な死?  2011/11/20
■死の代わりに失われるもの――日本での動向の紹介に加えて 2009/11/02

■■第U章 引用集――法案・意見
■末期医療の特別措置法案 日本安楽死協会 1978/11
■「安楽死法制化を阻止する会」の声明 1978/11
■「安楽死法制化を阻止する会」の声明に対する反駁声明 日本安楽死協会 1978/12/20
■尊厳死に関する法律案要綱  日本尊厳死協会 2003/12/01
安楽死・尊厳死法制化を阻止する会声明 2005/06/25
■終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案・第1案  2012/07/31
■終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案・第2案  2012/07/31
■尊厳死立法に反対します 今こそ尊厳ある生を 全国「精神病」者集団 2012/01/27
■尊厳死法制化を考える議員連盟の件で ALS/MNDサポートセンターさくら会 2012/01/31
■全国青い芝の会は「尊厳死法案提出」に反対し強く抗議をします。 日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」 2012/02/29 
■私たちは、生命維持に必要な治療を拒否するための法案上程に対し、反対いたします。 人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会) 2012/03/13
日本ALS協会 「終末期の医療における患者の意志の尊重に関する法律案」上程に対する意見表明 2012/03/19
■終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案の制定に反対する 社団法人全国委脊髄損傷者連合会・ NPO日本せきずい基金 2012/03/22
日本弁護士連合会 「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案仮称)」に対する会長声明 2012/04/04
日本自立生活センター「尊厳死ってなんやねん!?」学習会参加者有志一同 尊厳死法制化撤回を求めます 2012/04/13
■法律案に反対する団体の意見に対する(社)日本尊厳死協会の見解 2012/04/24
■平成二四年四月二四日の日本尊厳死協会理事長、井形昭弘氏の見解は事実誤認  ALS/MNDサポートセンターさくら会 2012/05/25
■私たちは、「終末期の医療に患者の意思の尊重に関する法律案」(いわゆる「尊厳死法」)による法制化に強く反対し、慎重な議論を求めます。 全国遷延性意識障害者・家族の会 2012/06/03
■改めて尊厳死の法制化に強く反対します 人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会) 2012/07/12
■終末期における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)修正案について――疑問と要望  DPI(障害者インターナショナル)日本会議 2012/07/12
■尊厳死法制化反対の意見書 TILベンチレーターネットワーク 呼ネット 2012/07/12
■「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」に関する声明 医療的ケアネット 2012/08/03
■尊厳死法制化に反対する呼びかけ 尊厳死の法制化を認めない市民の会 2012/08/27
■■第V章 功利主義による安楽死正当化論 有馬 斉
■第1節 生命の神聖さ
 ■1生命は神聖であるという主張の曖昧さについて(グラバー
 ■2生命の神聖さ批判(1)(グラバー)
 ■3生命の神聖さ批判(2)(レイチェルズ
 ■4生命の神聖さ批判(3)(シンガークーゼ
 ■5生命は神聖であるという主張の曖昧さについて(2)
■第2節 与益
 ■1功利の原則と安楽死(レイチェルズ)
 ■2自殺から安楽死まで(ブラント)
 ■3任意的安楽死の倫理(グラバー、レイチェルズ、マクマーン)
 ■4非任意的安楽死の倫理(シンガー)
 ■5死と生の比較(フェルドマン)
 ■6手段と意図(レイチェルズ、トゥーリー、ベネット)
 ■7反任意的安楽死の倫理(1)(シンガー、ハリス、グラバー、レイチェルズ)
 ■8反任意的安楽死の倫理(2)
■■まとめ
■■第W章 「ブックガイド・医療と社会」より 立岩 真也
米国 2000/12 [連載04]
オランダ 2001/01 [連載05]
清水昭美 2001/06 [連載06]
松田道雄  2001/07[連載07]
斎藤 義彦DPI(障害者インターナショナル)世界大会で 2003/08 [連載30(抄)]
向井承子 2003/10[連載31]
香川知晶『死ぬ権利』 2008/10〜12 [連載・87〜89]

[凡例]
※ 引用文中で[…]は中略を示す。「/」は原文の段落の変わり目を示す。
※ 文献表示は、おおむね「ソシオロゴス方式」に従っている(が例外もある)。本文及び注では、著者名[出版年(=訳書の出版年):頁]のように記され、当該の文献は巻末の文献表で知ることができる。また文献表では、当該の文献が本書および『良い死』『唯の生』のどこに出てくるかを〈 〉内の数字(頁を示す)によって知ることができる。
※ 第T章・第W章はあえて執筆時のまま再録した。今回補った部分は〔 〕で括った。



■■■第T章 短文・他 立岩 真也

 *「序」に記したように、この主題で書いた本の他、『弱くある自由へ』(二〇〇〇)、『希望について』(二〇〇六)に短い記事やそう短くない文章が収録されているが、以下、今回の法案に関係して書いたものなど、再掲する。他にいくつかHPに掲載されており、これからも掲載していく。


■■私には「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」はわからない
 2012/08/24 『SYNODOS JOURNAL』

 「尊厳死法制化を考える議員連盟」が今期国会での成立を目指している法――公表されているのは「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」で2案を同時に出すという話もある――――がどんなもので、どんな報道がなされ、どんな意見があるかは以下を見ていただければだいたいわかる。
 http://www.arsvi.com/d/et-2012.htmhttp://www.arsvi.com/d/et.htm
 そして私がこの主題についてどう思うか、何が起こってきたかは、次の2冊の拙著を読んでいただければと思う。
 『良い死』(2008、筑摩書房)・『唯の生』(2009、筑摩書房)
 それからとくになにか新しいことが言われているわけではない。長いものはまた、必要があったら、書かせてもらう。以下簡単に。

 まず、すくなくとも、ほとんど誰も何も知らないこの状況で、なにがなんだかわからないまま、法律を通すようなせこいことはよしてくれ、いや、よしなさい。それが一つ。
 脳死(・臓器移殖)法のときには、それなりに長い議論がなされた。今回問題にされている「ステージ」は脳死よりさらに「生」の側に近い。というか、実際生きている状態である。さらにより慎重な議論がなされるべきだが、そう考えない人たちがいるのは不思議であり、よくないことである。

■「終末期」?
 次に、単純に不思議なことを二つ。一つめ。この法案では「終末期」が以下のように「定義」されている。「この法律において、「終末期」とは、患者が、傷病について行い得る全ての適切な治療を受けた場合であっても回復の可能性がなく、かつ死期が間近であると判定された状態にある期間をいう。」(私が読んだものでは第5条1項)
 第一に、「回復の可能性がな」い場合はたくさんある。障害者という人たちは、すくなくとも制度上はその身体の状態が固定された人たちを言うから、その限りでは、すべて「回復の可能性がない」。法律上の障害者の定義――それがよいものだと言っているのではない、よくないと私は考えている――などもってくる必要もない。回復の可能性のない障害・病を抱えている人はたくさんいる。すると、一つに、「当該」の――この法案では――「傷病」の治療という意味では手だてがないということであれば、それはしても無益であり、かつ治療は多く侵襲的であるから、加害的でさえありうる。それは行なう必要がない、あるいはすべきでない。だからそれはよい。もちろん法律的にも問題はない。
 すると、「かつ」の次、つまり「死期が間近」という文言が問題になる。
もちろん、誰が何をもって判定するのかという疑問もある。複数の医療者が、というのがいちおうの回答のようだが、その複数の人とはほぼ同僚だろうから、どこまで有効かという疑問も当然出されている。その上で、医療者の「経験知」による「見立て」が「あと何時間」というレベルではかなり当たることは否定しない。そして「死期が間近」とはそのぐらいの時間を指すと考えるのが普通ではないか。
 となると、停止するにせよ、開始するにせよ、その短い時間のあいだに何を新たにする必要があるのだろうかと思う。できるだけその人が楽であることに気を使いながら、維持し、看守ればよい。こうした時点で、新たに手術などしないことは、現行の法律からも、別に法律論にもっていかなくても、問題にされないだろう。とすると、なぜ新たな法律がいるのかということになる。
 長く同様の法律の制定を主張し活動してきた日本尊厳死協会の(いまは前)理事長という方と、二人の副理事長という方と直接に話をさせていただく機会がこの数年の間にあった〔二〇〇七年に荒川迪生副理事長、二〇一〇年井形昭弘理事長(いずれも肩書は当時)、催についてはHP〕。いずれも率直なところ――しかし様々に私にはよくわからないところが残ったこと――を語ってくださった。最近では、七月三日に東京弁護士主催のシンポジウムで副理事長の長尾和宏氏(医師)のお話をうかがったが、氏は「死期が間近」な「終末期」がどのぐらいの状態・時期のことを指すのか、決めることはできない、わからないととおっしゃった。それは正直な発言ではあるが、たいへん困る。「末期」と言われて今も生きている、あるいは長く生きた人をたくさん知っているが、そういう「誤診」の可能性のこと(だけ)を言いたいのではない。そもそも「わからない」のである。そして他方、繰り返すが、私のように(たぶん)普通な言葉の受け取り方をする人にとっての「間近」なのであれば、あらためて新しいきまりを作ることもない。
 かつて、やはり尊厳死協会の人々は――これも人によって言うことが違うので困ってしまうのだが――「認知症」「植物状態」「(神経性)難病」等様々な状態について「尊厳死」の妥当性を言い、認知症を対象とすると言った時には認知症の人たちの家族の会から抗議を受けた(それでいったん引っ込めた)ということがあった〔本書201−202頁〕。これらの人々が「間近」であることはない。そうして「間近」でない人を抜いていくと、さきほど私が述べた「正しい」意味での「間近」な人だけが残り、そこに新しいきまりは不要である。とすれば、この法律がなにか実際的な効果をもたらすのは、文案に書いてあるのと違い、「末期」でない人に対してなされる場合だということになる。これは、もう説明の用はないと思うが、よくない。

■「延命措置」?
 同じ第5条では「延命措置」の「定義」もある。「この法律において「延命措置」とは、終末期にある患者の傷病の治療または疼痛等の緩和ではなく、単に当該患者の生存期間を目的とする治療上の措置(栄養又は水分の補給のための措置を含む。)をいう。」とある。
 前半はここでは飛ばそう。「ではなく」とあるし、「疼痛等の緩和」は――意識をなくさせてそれをもって「緩和」とし、そのまま逝ってもらうといったことになるとまた話が別だが――基本的にはよいことである。そして「治療」はこの第5条2項の前の第1項で既に無効であることになっていた。
 すると問題は「単に当該患者の生存期間を延長を目的とする治療上の措置(栄養又は水分の補給のための措置を含む。)」ということになる。まず「単に」がわからない。この言葉が使われているということは、「生存期間を延長」すること「以上」に「よいこと」があることが想定されているのだか、それは何か。言ってもらわないと法文としては成立しない。
 そして例えば()内の「栄養又は水分の補給」だが、まず、長くその状態に置かれれば、その人は喉が乾いたり腹が減ったりするだろう。それはどのようにいけないことなのか。(仮にその人にまったく意識・感覚がないとしても、その本人にとってすくなくともわるいことではない。)そして他方、さきほどのように「間近」を普通の意味に受け取れば、その短い時間の間になにかすることを変える理由も思いつかない。「胃ろう」はこのごろ最初からよろしくないものであるかのように言われることがあるのだが、それもすこし冷静に考えたらよい。ほとんど運動がない人に多くの栄養はいらない。それを過剰に供給すれば、身体がおかしくなる。その調整は微妙だが可能であり、それをきちんと行なわないと本人にとって苦しいことにもなる。それはやめた方がよい。しかしそれはその「措置」を行なわない方がよいことを意味しない。

■答えてもらってから、することしてもらってから
 このように逐条的にみていくと、まだいろいろとあるが、それはここではよすことにする。二〇〇四年からしばらく同様の法案が上程されようとした時(この時のことについては前掲の拙著『唯の生』の第2章・第4章)以来、私は文章を書き(文章はそれ以前から書いてきた)、そして多くの場に呼び出されて、自らも話し、また直接にこうした法案の作成・法の制定をしようとしている方々に質問をしてきたが、ともかく、一度も、理解することのできる回答をいただいたことがない。最低、この小学生にもわかる問いに、小学生でもわかる答をもらいたい。でないと議論にもならない。
 私だけでない。多くの人が様々な懸念を呈してきた。例えば「経済」がここに絡んでしまっていること。尊厳死協会の前理事長である井形明弘氏は、日本宗教連盟主催のシンポジウム(二〇一〇年)で、医療や福祉のお金を削るために(膨張を抑制するために)法を作ろうなどと毛頭思っていないとおっしゃった。そのようにたしかに信じておられるとして、しかし、お金(と人手)の事情があって少なからぬ人々が死を選んでいることは、「つもり」がどうであろうと、「事実」である→拙著『ALS』(立岩[2004])。そして今度新たに理事長になられた方は、ことが「医療経済」の問題で(も)あることを、すっきりと認めているとも聞く。「話は生きられる社会にしてからだ」という多くの人々の主張はもっともである。
 最後に。それにしても、以上のようにすこし考えていくとわからなくなってしまうことを含めて、このかんずいぶん多くのことが語られ書かれた。本がたくさん出されている。そうしたものを紹介する本を出す企画がずいぶん前からあって、一冊分の分量にはなっているのだが、しょうじき気が進まないということもあり、まとめの作業を怠ってきた。そこで、まず前文(の下書き)、そして既にある文章と文章のあいだにあいだにはさみこむ短文を書いて、生活書院のウェブサイトで、短期集中かつ不定期の連載?させていただいて、なんとかまとめようと思っている。よろしかったらご覧ください。〔その連載?が「序」、第W章の注になり、本書ができた。〕


■■「自己決定」について三〇〇字で論じなさい、に 2012/09
『中外日報』(中外日報社)

 自己決定についてという御依頼なので、幾つか指摘させていただく。第一点。死に関わる自己決定が認められるか。自殺幇助は法的に禁じられているし、法律云々を別として、自殺を止めに入ることは許容される、むしろなされるべきことだと一般にされる。死の自己決定権の正当性は自明ではない。次にこの自己決定権を認めたとしても問題は残る。第二点、主に家族の身体的・経済的負担のために死を選ばざるをえなかった人たちが多く、いくらでも、いる。生きられる条件をきちんと用意してから選択を論ずるべきだという主張はまったくもっともだと思う。加えて第三点、事前の決定はどこまで有効か。変更可能だとされても、言葉を失えば言えない。健康な状態の時の決定は必然的に想像による。それは病者・障害者への偏見に基づいていると言えないか。


■■人工的な延命/自然な死?  2011/11/20
 『THE LUNG Perspectives』19-4(2011-11)79-81(523-525)(メディカルレビュー社

 いきさつを略すと、一〇年ほど前から、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちのことにすこし関わるようになって、二〇〇四年に『ALS――不動の身体と息する機械』">(医学書院)という本を出してもらった。そんなこともあってか、私が勤めている大学院(立命館大学大学院先端総合学術研究科)には(自然科学系の大学院ではないのだが)そんな関係の家族・遺族・医療者を含め、そういう方面の研究をしている大学院生が一〇人ほどはいるという不思議なことになっていて、私も細々とながら、いくらかの関係が続いている。ALSの人たちだけでなく、筋ジストロフィーの人や生まれた時からやはり所謂医療的ケアを必要とするするウェルドニッヒホフマン病等の(元)子やその親たちの会の集まりに呼んでいただいたり、こないだはインタビューさせてもらったりしている★01。そんなこんなでどんなことをしているのか、それは、私たちのHP(「生存学」で検索すると最初に出てくる)に行っていだいて、さらにその中を検索していただくと――すかすかの部分もたくさんあるのだが――いろいろと出てくるのでご覧ください。
 近いところでは、今度の震災があり原発のことがあって――そして停電のことはどこでも起こりうる問題でもあるなのだから――停電が死活問題になった方を福島他から京都にお呼びしていて話をしていただく企画も、この原稿を書いて出そうしている前日(九月十八日)にあって、司会のようなことをさせていただいた(各種報道含め、これもHPに情報があります)★02。
 さて、そのALS(他)は進行していくと肺を動かす筋肉も弱くなっていくから、呼吸を続け生きていくためには、人工呼吸器が必要になって、だから電気も必要になるのだ。必要なのだから得ればよい、緊急の時にも間違いなく得られるようにすればよい――そしてそれはそんなに難しいことではない。いま紹介した催はそのためのものなのだが、それ以前に、付ける/付けない、外す/外さないが議論されたり、実際、付けない人がたくさんいたり、外したくなったら外してくれといったことを言う人も出てくる。それらをどう考えるのか。「安楽死」だかと「尊厳死」だとかをどう考えるのかという話になってくる。それは理論的にも考えなければならないことだし、歴史的に議論や政策がどうなってきたのかを検証する必要もある。それで最初一冊でと思っていた本が、『良い死』(筑摩書房、二〇〇八)、『唯の生』筑摩書房、二〇〇九)という二冊の本になっている。長い話にはなってしまっているが、順番を踏んだ議論をしているので読んでいただければと思う。
 それをまんべんなく要約するのはここでは無理だ。他方、ずっと短く、要するに何が言えると思っているのか、とりあえずという方には、『希望について』(青土社、二〇〇六)という本にいくつか新聞に書いた短文を再録しているのでそちらをどうぞ。ということで、以下、『良い死』の方に書いたことの一部、「自然/人工」という対について。
 「人工的な延命」対「自然な死」というのが言葉がいつのころから「一般大衆」のレベルでも知られている言葉になり、そしてその言葉は前者はよくないものであり、後者はよいものであるという価値付与と込みになって、現われ流行り、そして定着しているように思う。しかしまず単純に私はそれがわからない、というか、違うと思った。そしてここでは「自然」の方より「人工」の方についてすこし考えておきたい。
 まず人工物一般物は否定されない。論理的に否定する理由もそう見つからない。原理主義的な人工物排斥主義者がいるかもしれず、そしてそれはそれでかまわないとして、他人を説得するのは難しいかろう。そして実際、私たちは山ほど人工物を作って(作ってもらって)使って生きている。もちろん天然資源や廃棄物の問題はあり、地球温暖化の問題もあるかもしれない。それらはとても大切な問題だろう。しかし、そこは様々に工夫してうまくやっていくしかないということにしかならないはずだ。
 そして、「延命」に用いられる人工物となると、人工呼吸器であったり、また――このごろよくとりあげられるような気がするのだが――胃瘻ということになる。また人工透析がある(その普及や費用の公費負担に関わる歴史を調べている大学院生がいる★03)。こちらは長い期間使っている人がたくさんいてもうすっかり定着しているから「延命」という言葉とつなげられることはあまりないが、一定年齢以上については使うなら全額自己負担でという国もあるから、関係がなくはない。
 本誌と関係するところでは人工呼吸器ということになる。かつては大仰な機械で、値段も高かった。ただ、微妙な調整は難しいところがあるのだろうが、原理は単純なものであり、そして言うまでもなく呼吸自体を実際に代行しているわけではなく、空気の出し入れを補助しているだけといえばそれだけの機械である。そしてだんだんと大きさも小さくなってきて、使う鋼材等にしても冷蔵庫とかそんな家電より少なくてすんでいる。そして、そう数がはけるというものでもないから割高ではあるが、本来作るのにそう手間も値段もかかるものではない。そして冷蔵庫はほとんどの人たちが、たしょう節電に気をつけたりしながら、毎日使っていて、それでよいことになっている。以上、まったく言うまでもないことだが、人工的(人工物)自体がよくないと言えず、だから人工呼吸器がいけないことも、当たり前だが、ない。そして格別な費用がかかったり、環境に対する負荷が大きいわけでもない。希少性の問題は少ない。少なくとも冷蔵庫や自動車とそう違わない。(ここのところは臓器移植の場合には決定的に異なる。臓器には、生きている人からどれだけとってもかまわないということにしない限り、絶対的な希少性がある。)
 では「延命」「救命」――そもそもこの二つの言葉に違う意味が予め込められているのだが――の方はどうか。冷えたものが食べられることと、息ができて生きられることと、どちらも大切であるとしても、普通は、後者の方が大切であると思う。となれば、なおなんの問題もない、むしろ「人工的な延命」の方が大切だということになるはずである。そして、機械を使うにしても手術をするにしてもiPS細胞でなにやらするにしても、高度な技術によって「救命」することは最もほめたたえられ、大々的に報道されたりもする。だから命を救うことが問題にされているのでもない。
 しかし、そうはなっていない。とするとどうなっているのか。答は誰でも知っている。救うとよい命と救うほどでもない命とを私たちは区別しているということである。
 何をしてもそうもたないという時に侵襲性の強い処置を行なうべきではないというのには一理あると私は考えている。しかし、実際にはそんな場合ではないことが、とてもたくさんある。ALSにしても(ある種の)筋ジストロフィーにしてもウェルドニッヒホフマン病にしても、かつては(今でも?)、予後極めて不良、もって二・三年といったことが本に書かれていたのだが(その辺の記述の変化(のなさ)については前掲『ALS』)、使うものを使えば何十年も生きられる。さっきインタビューしたと記した、生まれて一・二年もたないと言われた人たちにも二五歳といった人たちがいて、今までのことを語ってくれた。
 最近、私の知る(私のいる大学院の院生が関係する)ALSの人が、それまで呼吸器も使わずに長いこと暮らしてきたのだが――これはこの障害・病ではかなり珍しい――突然の呼吸困難になって、救急車が来るまでに(現状がそんなことになってしまっていることも皆が知っていることだが)ずいぶんかかってしまったこともあり、心肺停止がかなり長く続き、低酸素脳症の状態になって、入院して、転院して、もう二月ほどになる。入院した当日は、脳死状態・多臓器不全の状態だと言われて、あと24時間もたないだろうと言われた。その後、血圧が下がったり、いろいろあった。けれど、転院した先の病院の人たちはとてもよくしてくれていて、一日もたないと言われた人はそこにいる。ただ、ICUの大部屋しかなくて、そんなことも関係したのだろうか、感染症にかかり、肺の状態がわるくなったり、ずいぶんいろいろとあったにはあったが、いくらかもちなおしている。肺がもうすこしなんとかなったら、在宅の生活に戻れるだろうと思う。意識があるかどうか、たぶんないか、ないに近いと思う。けれど、その方と暮らしてきた人は、これからもいっしょに暮らせることを願っている。肺の状態がもう改善されれば、所謂「医療的ケア」のできるヘルパー(この辺の制度変更が、満足なものではないが、近頃なされた)に介助してもらって、在宅に戻れるだろう。〔その方は、約一年後、二〇一二年の夏、亡くなられた。)
 「たんなる」とは何を指しているのかと言いたいところもある。「たんなる延命」のどこがわるい、と言いたいところもある。それがそんなによいものであると言いたいのではない。ただすくなくとも、意識もなく苦痛もないのであれば、それは、その人自身にとって、わるいものではない。よくないことがあるとすれば、それは周囲の人にとってやっかいであるということ、ただそのことだけである。そのことを否定する必要はない。ただ、たんにやっかいであること、そのはっきりした事実を隠して、それだけが理由であることを隠して、なにか本人のことのように偽るのはよくない。そして、すくなくとも人工物の提供という点ではその「処置」は、他と比べて、そうたいした負担でもない。では人的な負担はどうか。もちろん実際に、個々の病院や介助者派遣事業所その他で人は足りていない。しかし、全体としては、明らかに、人は足りてむしろたいへんたくさん余っている。いくらか仕組みを変えるだけですむことだ。以上にまちがいはないと思うのだが、上記した拙著に正面からの反論をいただいたことがない(しかし現実は「止める」ことの方に流されているように思う)。いただけるものなら、と思っている。

■註br>
二〇一〇年七月に行なわれたこの公開インタビューの記録は「人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>の成り立ちと現在 第一部・第二部」として、『季刊福祉労働』(現代書館)133:8-31、134:8-31に掲載された。
★02 その報告書は、停電時のマニュアルを付して、権藤・野上編[212]として刊行された。
★03 その成果は博士論文(有吉[2012])となった。公刊される予定。


■■死の代わりに失われるもの――日本での動向の紹介に加えて 2009/11/02
 安楽死問題韓日国際セミナー 於:韓国・ソウル市・国会議員会館

 本日はこの場に招いていだき、たいへん光栄に思います。日本の、京都にある立命館大学に勤めております立岩真也です。文部科学省によって選ばれた研究拠点、グローバルCOE生存学創成拠点のプログラムリーダーを務めております。専門は社会学ですが、哲学・倫理学も近いところでも研究をしており、何冊か生命倫理に関わる著書もあります。資料集にあります原稿〔本書では略〕は、私がここ数年、いくつかの新聞などから依頼されて書いた三つの短文です。私の考えることを、ごく短く、一般の読者にもわかるように書いたつもりのものです。ご参考になればと思います。昨年と今年に出版された専門的な著書が二冊ありますが、それは日本語版しかありません。もうしわけありません。
 ここでは私の考えるところ、そして日本での状況について、手短にいくつかお話しさせていただきます。その韓国語版、日本語版、英語版は、近日中に、立命館大学の生存学創成拠点のHPに掲載する予定ですのでご覧ください。関係する各国の情報についても今のところほとんどが日本語ですが、かなりの量の情報がHPに掲載されています。文部科学省の資金援助を受けつつ、今後多言語化していきたいと考えております。〔この報告も、その韓国語訳英語訳がHPに掲載されている。〕
 私の報告は短めにしたいと思います。あとでご質問などいただければ、時間の許す限りお答えしたいと思います。

 まず、さきのジョ先生〔李相原氏・総神大学神学大学院教授・ソンサン生命倫理研究所副所長)のご報告にも重なるところがあるかと思いますが、今回の韓国の事件★01について一言もうしあげます。
 私は、いついかなる場合にも延命のためのあらゆる措置がなされるべきであるという立場には立ちません。ただ、「植物状態」と呼ばれる状態において、その人の世界がどのようであるのか、たいへんにわかりがたいことはたしかです。意識がまったくないという推定が多く誤っていることが実証研究によって知られています。そしてそれ以前に、いくらかでも考えてみれば、その人の状態を判断する確実な手段を、その人の外側にいる私たちはもっておりません。また、回復の可能性、また回復とまでは言えないにせよ状態の変動がずいぶんとあることも知られています。ですから、この状態においてその人が生きることを止めることの不利益の可能性は否定できません。
 他方、処置が無益である可能性もまた否定できません。しかし、感覚がいっさい失われており、その人にとってなんらの益をもらさないということは、同時に、害もまた存在しないということでもあります。つまり、所謂植物状態の人の延命は益の可能性がある、あるいは、害はない、このいずれかということになります。とすれば、延命のための措置を継続することが、その人の尊厳を侵してしていると言えるでしょうか。そのようには言えないと考えます。
 さらに、本人の意志の尊重という、たしかに大切であり尊重されるべき原則についても、考えるべきことが幾つもあります。ここでは二つだけ述べます。
 一つ、その人の今の状態がどんなであるか、それ以前の状態にある本人であっても、知ることはできません。人々が大切にしてきた自己決定とは、なかでもそれが奪われたきたがゆえにそれを大切にすべきだと世界の障害者たちが訴えてきた自己決定とは、自分のことは自分がよく知っている、だから自分に決めさせよというものでした。しかし、ここではその前提は成立していません。
 一つ、そこにどんな要因が働いているのか。周囲に迷惑をかけたくないという心情があるでしょう。その心情は立派であると認めてよいと思います。しかし、その周囲の者たちは、その心情を認めた上で、「そんなことを心配することはない、私たちはあなたを守る」と言い、そしてそのことを実現するべきではないでしょうか。それは、人を大切にしようというその人自身の心情にかなう、その人への返信・返礼ではないでしょうか。
 このように考えるならば、安楽死・尊厳死について問題が少ないと思われているかもしれない今回のようなケースについても、法・政治は最大限に慎重であるべきであることになります。

 次に日本の状況についてすこし紹介しながら、すこし議論の幅を広げてみようと思います。
 日本でも二〇〇五年頃から、今回の韓国での例のような状態にある人について、措置の停止を許容する法律を作ろうという動きがあります。今のところ法案の提出といった段階には至っておりません。ただ、立法化については慎重であるとしても、その方向を許容する流れは一定の大きさをもっているだろうと考えます。
 しかし、それに対する警戒・批判もまた存在してきました。それは一つに、いわゆる「植物状態」について、今申し上げたようなことを指摘しています。たださらにもう一つそのような状態に今あるわけではない人たちについても、生きるために必要な手段を停止してしまうその流れが及んでしまうことへの懸念があり、現にそのようになってしまいつつあることに対する危機感があります。
 そこには第一に、現実があります。さきほど紹介のあった「積極的安楽死」、すなわち致死薬の投与など死を直接に招く積極的な行ないを許容する国・地域は、オランダ米国オレゴン州などわずかです。しかし、そこまではいかない措置の「停止」あるいは「不開始」についてはそうではありません。許容しているところがあります。そして、日本のように許容することを明示していない国もあります。韓国もそうです。
 しかし現実には、人工呼吸器を使えば生きられる人が使わないで死を迎えるといったことが多くあります。日本でも、今回の法律化の動きに最も敏感に反応したのは、そうした重度の障害者の人たちでした。その人たちに対して、意識があり判断能力のある人たちは法や規則の適用範囲として想定していないと、推進する側は言ってきました。しかし、生きていられる条件があれば生きていたい人が生きることを断念してしまうということがあるのは事実です。そしてその断念の度合いは、措置の不開始や停止について寛容であるその度合に、比例しています。つまり、人工呼吸器を必要とする重度障害者が、それを使わずに亡くなる率は、死に寛容な「先進国」において非常に高いのです。このことについて今のところまだ「保守的」な国々、日本や韓国のような国々においても、例えばALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちが呼吸器を使って生きる率は、三割から四割とけっして高くないのですが、それよりはるかに低いのです。このことは、日本で法律家の動きに対して敏感に反応した障害者たちの思いがけっして「杞憂」ではないことを示していると思います。
 第二に、その懸念には理にかなったところがあります。説明しましょう。生命倫理(バイオエシックス)の理論家たちから、死がすぐに訪れることがわかった上で、死に至る注射を行なうことと、死なないための措置を行わないことと、基本的には違わないではないかという主張がなされることがあります。その主張には否定しがたいところがあります〔本書130−135頁等〕。そして、なにかを止めること、またしないことと、積極的な措置を行なうことの違いはないではないかと主張する人たちの多くは、措置を止めること、措置をしないことが認められるならば、死のための積極的な行為も認めてよいと主張します。前半を認めるなら、そうなります。ですから、理論的にも、「滑り坂」を滑っていってしまうという主張にはもっともなところがあるのです。そしてそれが欧米の「バイオエシックス」の主流、少なくとも大きな流れの一つだと言ってよいと思います。
 ですから、自分たちとは別だとされる人たちの死を認めることは、自分たちの死につながるという心配は、根拠のない心配とは言えないのです。日本でも、また他の国々でも表明されている懸念は、現実的な懸念であり、また現実であり、そして論理的に筋の通っているものでもあるのです。
 そして第三に、歴史があります。例えば日本について、今ではその過去を知る人も多くはありませんが、尊厳死の推進の動きは最初のものではありません。一九七〇年代後半から一九八〇年代にかけて、日本安楽死協会、名称変更の後は日本尊厳死協会によって同様の法律を作らせようという動きがありました。その運動が今に引き継がれてもいるのです。そしてその時も反対の運動があって、法案が上程されることはありませんでした。それは、その組織の中心にいた人たちが、社会の生産活動に不要とされる人が生まれ生きることを抑止しようという信念、一言で言えば優生思想を抱き、時にそれを公言したことに対する強い反発があったからでもあります。この協会を創始した太田典礼(おおた・てんれい)は、「不良な子孫の発生を防止する」ためとして制定され、やがて世界から非難をあびて廃止されることになった優生保護法の成立のために活動した人でもあります。
 今、優生思想をおおっぴらに肯定する人は多くはありません。しかし、本人にとってよいと言えないことを行なうこと、さらに直接に死に至らしめることを行なうこと、そのように本人も望んでいると想像し語ること、また本人の言葉だと言って、周囲の人を思う本人の気持ちをそのまま受けとると言って、その生きている人々の中の一人である人の生命が失われることを肯定すること、それを、優生思想と呼ぶか否かは別として、肯定してよいでしょうか。

 世界中でそれは肯定できないと言う人たちがいます。ある人が人々に負担をかけることがあったとしても、それはそんなにたいへんなことではないはずだ、その人が、そしてみなが生きられるような社会が望ましいと主張してきた人たちがいます。韓国にもたくさんいらっしゃますし、この会場にもいらっしゃると思います。死の決定に対して積極的な欧米においても、それらの国々の障害者、障害者の組織の多くは、その動向を批判してきています。それを私たちは紹介しようとしてきましたし、これからもしていきたいと思っています。そして、それを皆さんにも知っていただきたいと思います。私たちも知りたいと思います。
 だんだんと難しい話になってしまったかもしれません。だとしたらすみません。しかし基本は簡単です。本人にとって、死を与えられることがよい場合があるのかもしれません。しかし、どうしてよいと言えるのか。それはあるとしてもとてもわずかな場合ではないか。それまで、生きさせることがたいした益はないとしも害でないなら、みなに生きてもらおうではないか。そんなふうに当たり前に考えてみようということです。そしてその当たり前のことを、世界中の人たち、なかでも生きているのが窮屈にさせられている人たちが言ってきたはずだということです。そこから今、世界中で起こっていることを、またこの韓国で今起こっていることを、冷静に見て、判断しようということです。ありがとうございました。

★01 詳しくはHP「安楽死・尊厳死:韓国」。経緯は本書で最後二取り上げるカレン・クインラン事件に似ている。二〇〇七年に家族が病院と担当医師を提訴、二〇〇九年大法院(最高裁判所にあたる)判決。人工呼吸器が取り外されるが、本人は自発呼吸を維持。


■■■第U章  引用集――法案・意見


 *以下に引用するのはいずれも組織が社会に自らの主張を伝えようと発表されたものである。よって筆者(立岩)は引用・掲載にあたって許諾を得てはいない。なおこの種の文書は、発表した組織や宛て先の組織の代表者名が記されていることが多いが組織(から組織へ)の文書と判断できるものについては個人名は略した。また明らかな誤字は訂正した。文書内における強調・傍点や文字の大きさは再録にあたって反映させていない。また個人名の文書は今回は再録していない。もとの(MSワードやへPDFファイルの)文書や再録しなかった文書の幾つかは、作られ提出されたままの文章をHPでご覧になれる。
 *おおむね時系列に並べているが二〇一二年についてはそうでない場合もある。「尊厳死法制化を考える議員連盟」から、二案を同時に提出すること決定された(結局、九月に閉会した国会には提出されなかったが)のが七月三一日で、それ以前に法案(未定稿)が示され、知られ、それに対する意見がその都度出されたといった事情がある――三月二二日に「不開始」を認める法案が公表され(この日の議員連盟の総会で日本医師会、日本尊厳死協会、日本弁護士連絡会、DPI日本会議からヒアリング)、五月三一日に「不開始」だけでなく「停止」を含める法案を提出することが知らされ、結局、二案が同時に出された。
 *例えば、法案に規定されている「末期」と、尊厳死協会――協会は議員連盟に謝意を示す文書を送っている(HPに掲載している)――の理事長(その後退任)の井形氏がその文書に示されている事例(末期の状態にあったとは言えないはずだ)――が整合していない等、様々言えることはあるが、第T章で法案についての文章を再録したこともあり、ここではこれ以上述べない。「もちろん二〇〇五年と二〇一二年の間に何もなかったわけではない。二〇〇八年までについては『唯の生』、その後についてはHP。執筆時、「尊厳死の法制化を認めない市民の会」「尊厳死法制化に反対する会」と二つあるのだが――互いに争っていたりしているわけではない――それらの文書、等々についても、HPに掲載していく。」


末期医療の特別措置法案 1978/11 日本安楽死協会

第一条(目的)
 全ての人は、自己の生命を維持するための措置を受容すべきか否かにつき、自ら決定する権利を有する。この権利に基づきこの法律は、不治かつ末期の状態にあって過剰な延命措置を望まない者の意思に基づき、その延命措置を停止する手続きなどを定めることを目的とする。
第二条(定義)
 この法律で「不治かつ末期の状態」とは、合理的な医学上の判断で不治と認められ、延命措置の施用が単に死期を延長するに過ぎない状態をいう。
 この法律で「過剰な延命措置」とは、その措置によって患者が治癒現象を呈せず単に死期を延長するに過ぎない措置をいい、苦痛緩和のための措置は含まない。
第三条(本人の過剰な延命措置を拒否する意思の表示)
 一五歳以上の意思能力ある者は、不治かつ末期の状態になった場合には、過剰な延命措置を拒否する旨を予め次のいずれかの方法で文書により表示することができる。
 1 本人が不治かつ末期の状態となったときは、過剰な延命措置を拒否する旨を、正常な意識をもって予め文書により表示し、その文書に日付、住所、氏名を自署し捺印すること。
 2 疾病その他の事由によって本人が自筆署名をなし得ない場合は、本人が前項の意思を表示したこと及びその日付を記録する文書に、その意思の表示に立ち会い、かつその意思の表示が正常な意識をもってなされたことを証明する医師二名以上が署名捺印すること。
第四条(本人の意思の撤回)
 前条第一項の場合において、本人がその意思を撤回するには、本人がその文書を破棄するかまたはその文書にこれを撤回する旨及び日付、氏名を自署しなければならない。
第五条(意思能力のない者についての措置)
 第一条に定める個人の意思決定権は他の者が代行できない。但し意思能力のない者については家庭裁判所の審判を受けることができる。
第六条(本人が不治かつ末期の状態にあることの証明)
 本人が不治かつ末期の状態にあることは、延命措置を差し控え、または停止する医師以外の医師二名以上の診断によって、確認されることが必要であり、確認した医師は、不治かつ末期の状態であることを確認したことを証明する文書に署名捺印しなければならない。
第七条(医師の行為の免責)
 この法律の規定にしたがってなした延命措置の差し控えまたは停止の措置について、医師は民事上、刑事上の責任を問われることはない。
第八条(文書保管の義務)
 第三条、第四条及び第六条の文書は延命措置の差し控えまたは停止した医師が五年間保管をしなければならない。
第九条(生命保険契約との関係)
 本人が延命措置を拒否する意思を表示したことによって、保険契約上自殺とみなされてはならない。
第一〇条(罰則)
 第三条、第四条、第六条の文書を破棄し、または隠匿した者、文書に虚偽の事実を記載た者、虚偽を知りつつ証人として署名した者、及び文書を偽造しまたは変造した者は〇〇年以下の懲役または○○円以下の罰金に処する。

「安楽死法制化を阻止する会」の声明 1978/11

 「最近、日本安楽死協会(太田典礼理事長)を中心に、安楽死を肯定し、肯定するばかりでなく、これを法制化しようとする動きが表面化している。
 しかし、このような動きは明らかに、医療現場や治療や看護の意欲を阻害し、患者やその家族の闘病の気力を失うばかりか、生命を絶対的に尊重しようとする人々の思いを減退させている。こうした現実をみるにつけ、我々は少なくとも、安楽死法制化の動きをこれ以上黙視し放置することは許されないと、社会的な立場から考えざるをえなくなった。
 現在、安楽死肯定論者が主張する「安楽死」には、疑問が多すぎるのである。真に逝く人のためを考えて、というよりも、生残る周囲のための「安楽死」である場合が多いのではないか。強い立場の人々の満足のために、弱い立場の人たちの生命が奪われるのではないか。生きたい、という人間の意志と願いを、気がねなく全うできる社会体制が不備のまま「安楽死」を肯定することは、事実上、病人や老人に「死ね」と圧力を加えることにならないか。現代の医学では、患者の死を確実に予想できないのではないか……。
 これらの疑問を措いて、安楽死を即座に承認することは、我々には到底できない。実態を学びつつ考え、討論し、正しい方向を追求するためには、我々は「安楽死法制化を阻止する会」を組織し、真に生命を尊重する社会の建設をめざそうとするものである。
 右、声明する。
    安楽死法制化を阻止する会 発起人 武谷三男 那須宗一 野間宏 松田道雄 水上勉

■「安楽死法制化を阻止する会」の声明に対する反駁声明 1978/12/20 日本安楽死協会

一、「安楽死法制化を阻止する会」の声明は誤解に基づき、理論的根拠がない。
二、われわれは心情的生命尊重論を排し、かねてより、末期患者の人権を護るための立法案を作成し、近く成案を発表する。
三、これは第二回国際安楽死会議の決議によるサンフランシスコ宣言の国際合意に基づくものである。
 ちなみに「阻止する会」が指摘する「もし安楽死が法制化されたら云々」の懸念は、現に法制化されているアメリカ八州においては、そのような事態はなく、根拠のない杞憂にすぎない。

■尊厳死に関する法律案要綱 2003/12/01 
日本尊厳死協会

第一条(目的)
 何人も自己の生命を維持するための措置を受容すべきか否かにつき自ら決定する権利を有する。この権利に基づきこの法律は不治且つ末期の状態になって延命措置を望まない者の尊重する末期医療に関する手続き等を定めることを目的とする。不可逆的で不治ではあるが末期ではない持続的植物状態においても、あらかじめ、かかる場合の延命措置を断る明示の意思表明がある場合の措置も本法に依る。前二項のいずれの場合も意思の表明者が妊娠中は本法は適用されない。

第二条(定義)
 この法律で「不治且つ末期の状態」とは、合理的な医学上の判断で不治と認められ、延命措置の施用いかんに拘わらず死期が切迫し、その施用が単に死期を延長するにすぎない状態をいう。
 この法律で「延命措置」とは、その措置によって不治且つ末期の患者の死期を単に延長するにすぎない措置をいい、苦痛緩和のための措置は含まない。

第三条(本人の延命措置を拒否する意思表明)
 一五歳以上で、意思能力のある者は、第一条に規定する状態になった場合には延命措置を拒否する旨を予め別表の様式に従い次のいずれかの方法で表示することができる。
 @ 日付、住所、氏名を自著して捺印し、これに成年ニ名以上の承認が署名捺印する文章。
 A 疾病その他の事由によって本人が自書しえない場合は、本人が前項の意思を表明したこと及びその日付を記録しその意思表明が正常な意識をもってなされたことを証明する担当医を除く医師一名を含む2名以上の立会人が署名捺印する文章。
 B 前項の証人には民法弟七四条を準用する。
 C 第一項の文章の書式による。

第四条(意思の撤回)
 前条の意思表示を撤回するには、本人がその文章を破棄するか又はその文章に、これを撤回する旨及び日付、氏名を自書し捺印しなければならない。

第五条(意思の表明者の状態の証明)
 第一条第一項もしくは第二項の状態にあることは、延命措置を差し控え、または停止する担当医を除く医師二名以上の診断によって、確認されることが必要であり、確認した意思は、その旨を記録した書面に署名捺印しなければならない。

第六条(医師の行為の免責)
 この法律の規定にしたがってなした延命措置の差し控えまたは停止の措置について、医師は民事上、刑事上の責任を問われることはない。

第七条(文書保管の義務)
 延命措置の差し控えまたは停止をした医師は、第三条、第四条及び第五条の文書を、一〇年間保管しなければならない。

第八条(生命保険契約との関係)
 本人が、延命措置を拒否する医師を表示したことによって保険契約上自殺と看做されてはならない。

第九条(罰則)
 第四条及び第五条の文書を破棄し、又は隠匿したものは、文書の虚偽の事実を記載したもの、虚偽を知りつつ証人として署名したもの、または変造したものは○○年の懲役又は第七条の義務を怠ったものは○○円以下の罰金に処する。


安楽死・尊厳死法制化を阻止する会声明 2005/06/25

 現在、尊厳死の法制化を求める動きが活発化している。
 日本尊厳死協会は、リビング・ウィルに署名し入会する者を募り、その数が一〇万人を超えたと宣伝している。しかし、同協会のリビング・ウィルは、将来おこるかもしれない状態を想定して前もって行う意思表示であり、実際に延命措置に直面しての意思表示ではない。
 リビング・ウィルの署名者を広く募り、尊厳死の法制化をめざすとき、個人の「死ぬ権利」は、「死ぬ義務」となり、弱い立場の者に「死の選択を迫る権利」に置きかわっていかないか。
 「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要がある。
 尊厳死法制化の動きは、人工呼吸器を使って呼吸し、栄養・水分補給をうけて生活している人々をはじめ、障害者や高齢者に目に見えない恐怖をいだかせるものとなる。
 現在では癌への対処法も進歩し、抗癌剤の副作用を減らし激痛を緩和することも可能になってきている。激痛のため生命を絶つなどということは、もはや過去のこととなった。
 生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制が不備のまま、「尊厳死」を法制化することは、病に苦しむ人や高齢者に「死の選択を迫る」圧力になりかねない。
 これらの疑問を措いて、尊厳死を法制化することを、決して認めるわけにはいかない。医療の現実を把握し、検討し、正しい方向を追求するために、私たちは「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」を組織し、真に生命を尊重する社会をめざそうとするものである。
 二〇〇五年六月二五日 安楽死・尊厳死法制化を阻止する会発足集会参加者一同

■終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案・第1案 2012/07/31
 尊厳死法制化を考える議員連盟

(趣旨)
第一条 この法律は、終末期に係る判定、患者の意思に基づく延命措置の不開始及びこれに係る免責等に関し必要な事項を定めるものとする。
(基本的理念)
第二条 終末期の医療は、延命措置を行うか否かに関する患者の意思を十分に尊重し、医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と患者及びその家族との信頼関係に基づいて行われなければならない。
 2 終末期の医療に関する患者の意思決定は、任意にされたものでなければならない。
 3 終末期にある全ての患者は、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられなければならない。
(国及び地方公共団体の責務)
第三条 国及び地方公共団体は、終末期の医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努めなければならない。
(医師の責務)
第四条 医師は、延命措置の不開始をするに当たっては、診療上必要な注意を払うとともに、終末期にある患者又はその家族に対し、当該延命措置の不開始の方法、当該延命措置の不開始により生ずる事態等について必要な説明を行い、その理解を得るよう努めなければならない。
(定義)
第五条 この法律において「終末期」とは、患者が、傷病について行い得る全ての適切な医療上の措置(栄養補給の処置その他の生命を維持するための措置を含む。以下同じ。)を受けた場合であっても、回復の可能性がなく、かつ、死期が間近であると判定された状態にある期間をいう。
 2 この法律において「延命措置」とは、終末期にある患者の傷病の治癒又は疼痛等の緩和ではなく、単に当該患者の生存期間の延長を目的とする医療上の措置をいう。
 3 この法律において「延命措置の不開始」とは、終末期にある患者が現に行われている延命措置以外の新たな延命措置を要する状態にある場合において、当該患者の診療を担当する医師が、当該新たな延命措置を開始しないことをいう。
(終末期に係る判定)
第六条 前条第一項の判定(以下「終末期に係る判定」という。)は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う判断の一致によって、行われるものとする。
(延命措置の不開始)
第七条 医師は、患者が延命措置の不開始を希望する旨の意思を書面その他の厚生労働省令で定める方法により表示している場合(当該表示が満十五歳に達した日後にされた場合に限る。)であり、かつ、当該患者が終末期に係る判定を受けた場合には、厚生労働省令で定めるところにより、延命措置の不開始をすることができる。
(延命措置の不開始を希望する旨の意思の表示の撤回)
第八条 延命措置の不開始を希望する旨の意思の表示は、いつでも、撤回することができる。
(免責)
第九条 第七条の規定による延命措置の不開始については、民事上、刑事上及び行政上の責任(過料に係るものを含む。)を問われないものとする。
(生命保険契約等における延命措置の不開始に伴い死亡した者の取扱い)
第十条 保険業法(平成七年法律第百五号)第二条第三項に規定する生命保険会社又は同条第八項に規定する外国生命保険会社等を相手方とする生命保険の契約その他これに類するものとして政令で定める契約における第七条の規定による延命措置の不開始に伴い死亡した者の取扱いについては、その者を自殺者と解してはならない。ただし、当該者の傷病が自殺を図ったことによるものである場合には、この限りでない。
(終末期の医療に関する啓発等)
第十一条 国及び地方公共団体は、国民があらゆる機会を通じて終末期の医療に対する理解を深めることができるよう、延命措置の不開始を希望する旨の意思の有無を運転免許証及び医療保険の被保険者証等に記載することができることとする等、終末期の医療に関する啓発及び知識の普及に必要な施策を講ずるものとする。
(厚生労働省令への委任)
第十二条 この法律に定めるもののほか、この法律の実施のための手続その他この法律の施行に関し必要な事項は、厚生労働省令で定める。
適用上の注意等)
第十三条 この法律の適用に当たっては、生命を維持するための措置を必要とする障害者等の尊厳を害することのないように留意しなければならない。
 2 この法律の規定は、この法律の規定によらないで延命措置の不開始をすること及び終末期にある患者に対し現に行われている延命措置を中止することを禁止するものではない。

附則
1 この法律は、○○から施行する。
2 第六条、第七条、第九条及び第十条の規定は、この法律の施行後に終末期に係る判定が行われた場合について適用する。
3 終末期の医療における患者の意思を尊重するための制度の在り方については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況、終末期にある患者を取り巻く社会的環境の変化等を勘案して検討が加えられ、必要があると認められるときは、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるべきものとする。

理由
 終末期の医療において患者の意思が尊重されるようにするため、終末期に係る判定、患者の意思に基づく延命措置の不開始及びこれに係る免責等に関し必要な事項を定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。

■終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案・第2案 2012/07/31
 尊厳死法制化を考える議員連盟

第一条・第七条が以下になっている。他は第1案と同じ。

(趣旨) 第一条 この法律は、終末期に係る判定、患者の意思に基づく延命措置の中止等及びこれに係る免責等に関し必要な事項を定めるものとする。
(延命措置の中止等)
第七条 医師は、患者が延命措置の中止等を希望する旨の意思を書面その他の厚生労働省令で定める方法により表示している場合(当該表示が満十五歳に達した日後にされた場合に限る。)であり、かつ、当該患者が終末期に係る判定を受けた場合には、厚生労働省令で定めるところにより、延命措置の中止等をすることができる。

■尊厳死立法に反対します 今こそ尊厳ある生を 2012/01/27
 全国「精神病」者集団

 私たち全国「精神病」者集団は一九七四年に創立された、全国の「精神病」者団体個人の連合体です。私たちは精神障害者として、今作られようとしている尊厳死立法に反対します。
 伝えられるところによると法案では、尊厳死という形で殺される人は明記されておらず、複数の医師による判断により「終末期」と判断されると、水分や栄養補給も含め一切の医療行為が差し控えられたり、あるいは中止されたりする、そしてそうした医療差し控えや中止をしても医療機関も医師も刑事民事とも責任を問われず免責されるという中身です。
 また家族の同意も必要という説もありますが、家族のいない場合は医師の判断だけで治療が停止され殺されることになります。
 しかし「終末期」とはなんでしょうか? なんら定義されていません。
 こうしたスカスカの法律がいったん作られれば、脳死・臓器移植法改悪のように、本人の意思表示がなくとも家族の意志だけで、さらには家族がいない孤立した人は医師の判断だけで殺されていくことになることは明確です。
 そしてその対象も「終末期」というあいまいな要件はどんどん拡大されて、遷延性意識障害者、重度障害者、精神障害者や知的障害者など「人格がない」とされてきたものへと広がっていくことは避け得ないと考えます。
 医療はまず命に向けられた営みであり、死へ向けた営みであってはなりません。
 私たちは尊厳死ではなく、まず尊厳ある生が障害のあるなし、年齢性別にかかわらず保障される社会を求めます。法律による殺人をこれ以上認めるわけにはいきません。

■尊厳死法制化を考える議員連盟の件で 2012/01/31
 NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会 橋本 操→関係国会議員

 私たちALS等神経筋疾患患者は病いの進行に伴い、いずれは常時人工呼吸器を装着し、経管等で水分や栄養の補給をすることになりますが、これらの治療法の確立のおかげで長期生存が実現しています。
 しかしながら、現在の日本において一日二四時間、一年三六五日をカバーする公的介護保障が確立されていないために、長期生存につながる経管栄養や人工呼吸器の治療の開始と継続は、実質的には世話をする家族の犠牲的覚悟に委ねられています。
 それゆえALS等の難病患者が家族に遠慮することなく、治療を受けたい、生きていきたいという気持ちを自由に表明できる環境はないに等しく、家族の同意なしには呼吸器の装着が叶えられず、医師にも社会にも見捨てられ、無念のうちに亡くなる患者は後を絶ちません。
 難病患者とて命に係わる治療に関して自分の意思で決定したいと思っていますが、ALS等の進行性疾患の場合、早期の事前指示書の作成により治療を断念する方向に指導されてしまいます。重度の身体障害を併せ持つ難病患者が、家族に頼らず、個人で生き延びるための生活保障や介護保障は、いまだ皆無に近い状況にあるため、事前に治療を断って死ぬ覚悟を患者自らが表明してしまうと家族も医師も安心し、呼吸器の長期装着を勧めてくれなくなります。もし、治療を断るための事前指示書やリビングウィルの作成が法的に効力を持つようなことになれば、ますますこれらの患者たちは、事前指示書の作成を強いられ、のちに治療を望む気持ちになっても書き換えはことごとく阻止され、生存を断念する方向に向けた無言の指導(圧力)を受け続けることが予想できます。
 このたび「尊厳死法制化を考える議員連盟」で検討されているという「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」は、その内容から難治性疾患患者や重度障害児者、遷延性意識障害者、頸椎脊椎損傷者、精神疾患患者、また貧困のために医療費や介護費用の自己負担に耐えられない社会的弱者に対しても、冷たく自己決定による治療の断念を迫るものであります。
 この法案は患者の権利を謳いながら、実はこれらの難治性疾患・重度障害の予備軍であるすべての国民から生存のために必要不可欠な治療や、救急医療を受ける権利をはく奪するものであります。私たちは法案提出に反対する意見をここに表明いたします。
 「誰の尊厳のための死なのか。優先されるべきは当事者の尊厳であることはいつの世も変わってはならない」と人工呼吸器療法も20年目のALS患者は考えています。

■「終末期の医療における患者の意志の尊重に関する法律案」上程に対する意見表明 2012/03/19
 日本ALS協会尊厳死法制化を考える議員連盟 2012/03/19

 日本ALS協会は、今回の「終末期の医療における患者の意志の尊重に関する法律案」の上程に反対いたします。
 ALSは、病状にも生き方にも、個別性が強く表れる疾患で、症状の変化とともに患者の意思も日々激しく揺れ動くため、医療・ケア・制度等の利用など、あらゆる方面からの丁寧な個別の相談支援が、繰り返し必要です。
 そのような患者の生死に関わる重大な問題を、法律で一律に規定すべきものではないと考えます。

■全国青い芝の会は「尊厳死法案提出」に反対し強く抗議をします。 2012/02/29
 日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」尊厳死法制化を考える議員連盟

 私たちはこの健全者社会にはびこる障害者差別と長年にわたり闘いつづけてきました。それは、私たち障害者を「本来あってはならない存在」・「間違った存在」と位置付け、この世に生きること自体を否定する優生思想との闘いでもありました。
 それは親による障害児殺しから始まりました。障害者を不幸と決め付け、「死んだほうが幸せなのだ」という思いからの犯行だという事ですが、これに同情し、地域の住民からは減刑嘆願運動が起こりました。
 こういったことを許すことは、私たち自身の存在を私たち自身が否定することだと、社会に対し鋭く問題提起を行なっていきました。
 この「子殺し事件」は今も後を絶たないし、減刑嘆願運動という社会現象も後を絶ちません。
 また障害者を合法的に生まれないようにしようとする動きは、旧優生保護法を始めとし、最近では出生前診断がより科学的に着床前診断、遺伝子診断という形で行われています。そして役に立たない人間を一方的に死と決めつけ殺していく「脳死・臓器移植法」の制定です。
 このように人間を社会的な一定の能力で命の価値を決定する社会は、ますます強化されようとしています。それを露骨に現すものとして出てきたものが、「尊厳死法」の法制化の動きです。
 私たち障害者を始めとする社会的に弱いとされる人間を抹殺しようとするこの動きは、正に「姥すて山」的な価値観を是とする社会の到来です。「人間の定義」を「社会的労働力のある者」と一方的に決め付け、それ以外の者は「人間」ではないから今にも死にそうな人を水も飲ませないで殺してもいいのだと言う内容での法律設定です。
 そもそも人間の命を尊厳のある状態と尊厳のない状態に分けて考えること自体が障害者差別につながるものであり、それを「尊厳のある死を」などと他人に死を強要するように考える事自体が正に命の選別にほかなりません。
 今、社会は親子が殺し合い、兄妹や夫婦が殺し合いバラバラにして捨てるなど、人間の命をあまりにも軽視する風潮が強くなってきているし、国は財政難を理由に年金や生活保護や医療費等の財出カットをやり、障害者自立支援法に到っては働けない障害者からまで利用料を取るという暴挙に出てきました。これは「働かざる者に死を」と言って来た事です。
 このような時代の状況の中で、もし、「尊厳死法」なるものが法制化されるならば、拡大解釈され、治る見込みの無い患者、障害者、老人は周りの圧力で死を選ばざるを得なくなることは今まで国のやって来たことを見ると必然です。
 今回の厚生労働省が総合福祉法の問題で福祉部会が出した骨格提言を無視し障害者の存在を認めず何かお可愛そうな者を救済するような原案文を出してきたり、さらにそれを認めるような内閣や政党がある事を見ても明らかです。私たちは絶対に許しません。
 私たちは、このような考えから、どんな例え末期の患者の状態の者であろうと人間として認め、尊重し、命の選別を許さない、そして、どんな人間でも最後の最後まで命の火が燃え尽きるまで見届けられる社会を目指す立場から、また殺される立場に立って、この「尊厳死法」の法制化に強く反対し法制化の動きに抗議すると共に、このような法律を出そうとする国会議員の方がおられる事に日本社会の将来の危なさを感じざるを得ません。こんな事はすぐに止めていただきたいのです。
 国会議員の皆さんの仕事はどんな国民の命を守り安心を与える事にあったのではないでしょうか。

■私たちは、生命維持に必要な治療を拒否するための法案上程に対し、反対いたします。 2012/03/13
 人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)尊厳死法制化を考える議員連盟

 国会議員のみなさまにおかれましては、すべての子どもたちの命を健やかに守り育むために、日夜、ご尽力いただきまして、心より感謝しております。
 私たち、人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>の子どもたち(以下、バクバクっ子)の多くは、病気や事故など理由は様々ですが、長期に渡って人工呼吸器や経管栄養を使いながら、生活しています。
 二〇一二年三月七日、東京新聞朝刊で、「終末期患者が延命治療を望まない場合、人工呼吸器装着など延命措置を医師がしなくても、法的責任を免責される法案」が、三月中にも議員立法で国会に提出されようとしていることが報じられました。
現在、国連障害者権利条約の批准をめざし、どんな重い障害があっても、ひとりのかけがえのない人間として尊重され、当たり前に暮らせる方向を目指して、障害者施策の見直しがされている中で、なぜ、このように重度障害や難病をもつ人々の命の軽視につながりかねない法案が上程されようとしているのか、私たちには理解できません。
 法案では、「適切に治療しても患者が回復する可能性がなく、死期が間近と判定された状態を『終末期』と定義」されているようですが、人の命とは、専門家といえども簡単に推し量ることなどできないことをバクバクっ子たちが証明しています。
 バクバクっ子のほとんどは、当初、医師より生命予後不良との宣告を受けたものの、それらの予測を大きく覆して、それぞれの地域で様々な困難に直面しながらも、年齢に応じた当たり前の社会生活を送りたいと願い、道を切り拓いて来ました。医療によって命を救っていただき、サポートしていただいたからこそ、彼らの「現在」があります。
 その生き抜く彼らの姿から、生きても仕方のない命など一つもないことを私たちは教えられました。さらに、彼らの未来を阻む最も大きな障壁は、彼ら自身の障害や病気などではなく、わたしたち家族を含めた社会の「重い障害や病気を持って生きることは尊厳がない」という決めつけであることにも気づかされました。
 その人の思いに沿った医療は、本人・家族と医療関係者のみなさんが、信頼関係の下、ていねいにコミュニケーションをとっていくことで実現されるはずです。それを、わざわざ法制化することは何を意味するのでしょうか。私たちは、今後、重度障害や難病をもつ人や子どもたちの未来をも否定されていく方向に、社会が転がり落ちていくのではないかという大きな危惧を覚えます。
 二〇一〇年八月、バクバクの会設立二〇周年集会において、バクバクっ子たちが「バクバクっ子・いのちの宣言」を発表しました。私たちは、この「いのちの宣言」を添え、ここに、尊厳死法制化反対を表明します。
*バクバクっ子・いのちの宣言 http://www.bakubaku.org/inochi-no-sengen-by-bakubaku-kids.pdf

■終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案の制定に反対する
 社団法人全国委脊髄損傷者連合会・ NPO日本せきずい基金 2012/03/22

 いわゆる尊厳死法についてであるが、「終末期の医療における患者の意思の尊重」が前面に謳われている。ここで、本法案の定義で「終末期」とは、『患者が、傷病について行い得る全ての適切な治療を受けた場合であっても回復の可能性がなく、かつ、死期が間近であると判定された状態にある期間をいうもの』とある。
 しかし、
1.「適切な治療を受けた場合」とあるが、誰が「適切な治療を受けた場合」と判断するのか?言い換えれば、リスボン宣言(患者の権利に関する世界医師会(WMA)リスボン宣言)の原則としての患者が「良質の医療を受ける権利」を、医師が十分に行使できたと誰が判断するのかである。
 ⇒現実問題として、判断しうる人はいない。
 私事であるが、怪我をして当初の急性期に三度、医師からあと数時間の命ですからと家族・親戚に集合命令がかかった。また、怪我をして一週間後に、気管切開をされて人工呼吸器を装着されていた。
 このような、私事と照らし合わせたケースを想定すると、途中で医師が「適切な治療をした」また「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」と判断したとして、怪我する以前に私が「延命措置の差控えを希望する意思を書面」にサインしていたら今の私は存在しない。
 このように、「延命措置の差控え」とは、終末期であるとの判断が医師に委ねられるとしたら、真に最善の良質な医療が医師によって、病院によって医療水準に差異が常に存在する(すべての医師、病院が最高・最善の水準にあることは不可能である)限り、結果としては殺人である。
 即ち、この法は、リスボン宣言の「良質な医療を受ける権利」を医師が、患者に全うさせようとすれば、「適切な治療」の判断を下せる人はいない。
 2.「回復の可能性がなく」の判断は、医師でも困難であり、経験則に基づいた推定程度であろう。としたら、経験則に基づいた推定で治療を差し控え、死に至らしめたとすると、たとえ同意文があろうともこれは殺人であろう。また、同じくリスボン宣言の1.「良質の医療を受ける権利」のa、c、d、.f 項に反している。特にf項「患者は継続性のある医療を受ける権利を有する。医師は医学的に適切なケアが一貫性を保って患者に提供されるよう他の医療提供者と協力する義務を負う。医師は、患者がそれに代わる治療の機会が得られるような適切な支援と十分な配慮をすることなしに、医学的に必要な治療を中断してはならない。」の中断であり限りなく殺人である。
 3.「死期が間近である」との判定の後、蘇生した事実は、私の事例を待たずとも多数報告されている。死期が間近であるとの判定は、誰にもできない。
 以上のように、本法案の大前提である定義「終末期」の規定そのものが現実的に無理があり、終末期と判断できる人(医師)は存在しない。存在するとすれば、リスボン宣言を無視あるいは違反し、患者を死へ誘導する者(医師)である。この場合、殺人罪に問われるであろう。
 従って、当団体としては、本法案に反対する。

「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案仮称)」に対する会長声明 2012/04/04
 日本弁護士連合会会長 宇都宮 健児

 「尊厳死法制化を考える議員連盟」が、「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」(以下「本法律案」という。)を発表し、本法律案を、本通常国会に超党派の議員立法で提出する予定と報じられている。
 本法律案は、終末期の延命治療の不開始を希望する患者の意思を表示する書面などに従い延命治療の不開始をした医師を免責することを主たる内容として、いわゆる尊厳死(以下「尊厳死」という。)を法制化しようとするものである。
 そもそも、患者には、十分な情報提供と分かりやすい説明を受け、理解した上で、自由な意思に基づき自己の受ける医療に同意し、選択し、拒否する権利(自己決定権)がある。この権利が保障されるべきは、あらゆる医療の場面であり、もちろん、終末期の医療においても同様である。また、終末期の医療において患者が自己決定する事柄は、終末期の治療・介護の内容全てについてであり、決して本法律案が対象とする延命治療の不開始に限られない。特に、延命治療の中止、治療内容の変更、疼痛などの緩和医療なども極めて重要である。この点、二〇〇七年五月に、厚生労働省が公表した「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」においても、「医師等の医療従事者から適切な情報提供と説明がなされ、それに基づいて患者が医療従事者と話し合いを行い、患者本人による決定を基本としたうえで、終末期医療を進めることが最も重要な原則である」と確認されているとおりである。疾患によって様々な状態である終末期においては、自ら意思決定できる患者も少なくないが、終末期も含めあらゆる医療の場面で、疾病などによって患者が自ら意思決定できないときにも、その自己決定権は、最大限保障されなければならない。しかるに、我が国には、この権利を定める法律がなく、現在もなお、十分に保障されてはいない。
 特に終末期の医療に関する自己決定に関しては、これが真に患者本人の自由な意思に基づくものであることを保障する手続や基盤の整備が必要である。本法律案が対象とする終末期の延命治療の不開始は、患者の生命を左右することにつながる非常に重大な決断であるところ、患者が、経済的負担や家族の介護の負担に配慮するためではなく、自己の人生観などに従って真に自由意思に基づいて決定できるためには、終末期における医療・介護・福祉体制が十分に整備されていることが必須であり、かつ、このような患者の意思決定をサポートする体制が不可欠である。しかしながら、現在もなお、いずれの体制も、極めて不十分である。
 このような視点から、当連合会は、二〇〇七年八月に、「『臨死状態における延命措置の中止等に関する法律案要綱(案)』に関する意見書」において、「尊厳死」の法制化を検討する前に、@適切な医療を受ける権利やインフォームド・コンセント原則などの患者の権利を保障する法律を制定し、現在の医療・福祉・介護の諸制度の不備や問題点を改善して、真に患者のための医療が実現されるよう制度と環境が確保されること、A緩和医療、在宅医療・介護、救急医療等が充実されることが必要であるとしたところであるが、現在もなお、@、Aのいずれについても全く改善されていない。そのため、当連合会は、二〇一一年一〇月の第五四回人権擁護大会において「患者の権利に関する法律の制定を求める決議」を採択し、国に対して、患者を医療の客体ではなく主体とし、その権利を擁護する視点に立って医療政策が実施され、医療提供体制や医療保険制度などを構築し、整備するための基本理念として、人間の尊厳の不可侵、安全で質の高い医療を平等に受ける権利、患者の自己決定権の実質的保障などを定めた患者の権利に関する法律の早期制定を求めたものである。
 本法律案は、以上のように、「尊厳死」の法制化の制度設計に先立って実施されるべき制度整備が全くなされていない現状において提案されたものであり、いまだ法制化を検討する基盤がないというべきである。しかも、本法律案は、医師が、患者の希望を表明した書面により延命措置を不開始することができ、かつその医師を一切免責するということのみを法制化する内容であって、患者の視点に立って、患者の権利を真に保障する内容とはいい難い。また、「尊厳死」の法制化は、医療のみならず社会全体、ひいては文化に及ぼす影響も大きい重大な問題であり、その是非や内容、あるいは前提条件などについて、慎重かつ十分な国民的議論が尽くされることが必須である。
 当連合会は、こうした前提を欠いたまま、人の生命と死の定義に関わり国民全てに影響する法律を拙速に制定することに、反対する。

■尊厳死法制化撤回を求めます  2012/04/13
 日本自立生活センター「尊厳死ってなんやねん!?」学習会参加者有志一同→国会議員

 私たちは、さる四月一〇日、一部の国会議員によって進められている尊厳死法制化を危惧し、京都にて「尊厳死ってなんやねん!?」緊急学習会を開催しました。
学習会には、日本自立生活センターの障害当事者メンバー、そして、人工呼吸器や胃ろうをつけた高齢者や難病患者、またその家族や支援者など、関西各地より多数のメンバーが集まりました。
 さまざまな社会的偏見や制度不足の中で生きてきた私たちには、これまで尊厳ある生が政府や社会によって約束された経験はほとんどありません。
 尊厳ある生の保障を放棄して、尊厳ある死というまやかしを推奨することは、政治にとって敗北を意味すると私たちは考えます。
 以下のように、緊急学習会にて、「尊厳死法制化撤回を求める集会アピール」を採択しました。
 尊厳死法案の立法化は撤回していただくよう強く要望します。

日本自立生活センター緊急学習会「尊厳死ってなんやねん!?」尊厳死法制化撤回を求める集会アピール

 私たちは、このたび「尊厳死法制化を考える議員連盟」によって、今回の「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案」が提出されようとしていることはあまりに拙速と考え、その立法化を危惧します。
 私たちが開いた勉強会には、人工呼吸器や胃ろうを使って在宅生活する仲閧竄サの介護者、遷延性意識障害者の家族らが参加しました。こうした仲閧ヘ、「不治かつ末期」「回復の見込みのない」「無駄な○○」「植物人間」などと、マイナスイメージで語られることがほとんどです。
 今の日本の医療、社会保障、障害者理解の貧しい現状を思うとき、「尊厳死」が法制化されれば、重い障害とともに生きる多くの人を死に追いやることにつながるのでは、と恐れます。
 高齢者医療、脳死、高額な医療費、家族の介護負担、入院できるところがなく特養も三年待ち・・・こうした現状の中で、生きる意思を伝えることはとても難しいことです。
ある日の家族の「深いため息」で治療中止を「決意」したり、家族に対する遠慮で、生きたいのに生を断念したりするようなことがあっていいのでしょうか?
 人は困難に直面した時、自分の「生きる」価値について問うてみたくなる時があります。生きていてもいいのだろうか?と。この苦しさから逃げたい、と。そう思わされた時に法律で尊厳死が認められていたら、「あなたの死にたい気持ちを尊重しますよ」などと国全体が言い出したら、どうなると思いますか?
 私たちは尊厳死法案に怖さを感じます。尊厳ある生が保障されていない現代社会において、私たちの生を無駄なものとみなす社会の風潮をますます助長するように思います。まず尊厳ある生の保障を。苦しみの逃げ道が「死」である、そんな法律はつくらないで下さい。

 二〇一二年四一〇日 日本自立生活センター 「尊厳死ってなんやねん!?」学習会参加者有志一同

■法律案に反対する団体の意見に対する(社)日本尊厳死協会の見解
 (社)日本尊厳死協会理事長 井形 昭弘 2012/04/24 於:自民党勉強会

はじめに
 各団体から法案に対して反対意見が出ていますが、法案の趣旨が曲解され、論点がかみ合わずにいることは遺憾に思います。協会は豊かな生の延長上に尊厳ある死が続いていると考えており、障害者ないし弱者の生命を疎かにする意図は全くありません。十二万五千名の協会会員のうち、現にかなりの数の障害者の方々が登録されています。したがって、協会では、視覚障害者に対しては点字のリビングウィルの宣言書を作り、点字会報を届けています。誰もが生きていて良かったという社会の実現を目指すことに異論はありません。
 尊厳死協会の発行物を読み「現在の障害者ないし患者を抱えている家族の努力を無視される」と危惧する方々がおられるのは承知しています。懸命に生きようとしている方には、現行制度で治療を受ける権利が保障されております。障害者団体の方々には安らかな死・自然死を希望する方の人権も重視していただきたいと考えます。
 以下に各団体からいただいた法律案に反対する個々の理由について、協会としての見解を述べさせていただきます。

○反対意見1.「終末期の定義は困難」について
 終末期を定義できないからと言って、人生の終末期が存在しないことにはなりません。終末期は厳然として存在しており、世界各国が種々の方法で定義し、尊厳死を認めています。世界でできていることがわが国だけ不可能ということはあり得ません。協会では2007年に発行した刊行物「私が決める尊厳死」において不治かつ末期状態の具体的提案をしています。
○反対意見2.「治療を治癒のためと延命のためとには分けられない」について
 治療法そのものには「治癒のための治療法」「延命のための治療法」という区別は勿論ありません。その治療法がどのような目的でなされているかにより決まります。つまり、全ての治療法は「治癒のため」「緩和のため」「単なる延命のため」になり得るのです。実際に行われている治療目的を見ればその判断は十分に可能であります。  
○反対意見3.「家族に迷惑を掛けるから呼吸器はつけないというのは自己決定ではない」について
 わが国では既に憲法により自己決定権が確立しており、本人意思の理由はあくまで本人の決断の結果であります。第三者が自分の価値判断をもって説得することは結構ですが、強制的に押しつけることはできません。したがって、本人意思の内容に第三者が介入するものではありません。これは人権の問題です。欧米では本人意思が明確であれば家族が反対してもこれを覆すことはありません。
○反対意見4.「免責でも医師の負担感は変わらない」について
 本人意思が明確で、家族も医療施設の倫理委員会も患者の状態と意思を確認してもなお、医師は延命措置を中止すると刑事告訴されるのではないか、という恐れを持っています。したがって、延命措置の中止という医師の行為を法的に免責することで、その負担感は軽減されます。もちろん、本人が生きたいと希望している場合には中止はありえませんし、医師が全力を挙げて最善を尽くすのは医師法上当然であります。このことは現場の臨床医も十分承知しています。
○反対意見5.「人の生死に関することを法律で決めてはならない」について
 本法案は自己決定権に基づく終末期における本人の意思表明を担保するものです。終末期の医療行為に関する立法の不存在が、人の生死にかかわる医師の診療行為を不安定にさせ、安らかな死を妨害しているのです。

おわりに
 二〇〇四年八月二六日、相模原市でALS(筋委縮性側索硬化症)に罹患し人工呼吸器装着を選択した息子が、その後人工呼吸器装着を悔やみ、母親に取り外しを懇願し、母親が人工呼吸器のスイッチを切るという事件が発生しました。息子は死亡し母親は殺人罪に問われましたが、裁判所は息子の懇願事実を認定し、嘱託殺人罪で執行猶予付きの懲役判決を下しました。法廷にはALS患者が大勢傍聴しておられました。残念なことに、この法廷では尊厳死について弁護人から主張された形跡はありません。
 この件には後日談があり、有罪となった母親がその後うつ病となり、自殺念慮が強く夫に自殺ほう助を頼みます。両名で自殺を図りましたがうまくゆかず、結局夫が妻を殺して嘱託殺人罪に問われるという展開となりました。ALS協会の会員であれば、この事件をご存知と思います。
 二〇〇九年二月二日、NHK総合テレビ、クローズアップ現代で「私の呼吸器を外して〜」が放映されました。千葉県在住のALS患者が亀田総合病院倫理委員会に対して人工呼吸器を外すことを求める要望書を提出したのです。倫理委員会はそれを認めましたが、病院長が却下し、本人の言う「栄光ある撤退」は叶いませんでした。この放映に関連してインターネット上(http://hpcgi3.nifty.com/masasi/komento-ankeito/votedata1/vote8.cgi)で人工呼吸器取り外しの是非をアンケートしていますが、七八%の方が本人意思の明示されている状態での取り外しを是としています。
 人工呼吸器も一度装着してみなければ、その良し悪しは患者さんや家族にもわかりません。不開始のみと限定せずに中止も含めた法律にする必要性が障害者の方々にもあることは、障害者自身が十分承知しているはずです。
 ALS患者にも誰にも何時かは不治かつ末期の時が来ます。障害者団体の主義主張としての弱者保護は基本的なことであり、十分に理解しております。しかし、団体の主張によって本人意思を尊重する終末期医療の選択が妨害されれば、それはとりもなおさず障害者が他の人権および自分自身の人権をも侵害していることに他なりません。
 上記のような事件を二度と引き起こさないためにも、自然死の重要な要件の一つである「不治かつ末期」についても真摯に向き合っていただきたいと考えます。安らかな自然死を希望する人が現代社会の八割を越えており、多くの主治医が賛同している現実を直視していただきたいと思います。
 本法律案は、静かな看取りを希望している国民の願いを担保する法律であり、存在意義は大きいと考えます。議連のみなさまには、本法案の要件をしっかりご理解いただき、法律の早期成立に向けてご尽力いただきたいと願ってやみません。

■平成二四年四月二四日の日本尊厳死協会理事長、井形昭弘氏の見解は事実誤認 2012/05/25
 NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会 橋本 操

 自民党での説明会で配布された井形氏による「法律案に反対する団体の意見に対する(社)日本尊厳死協会の見解」の次の文章には事実誤認があります。
 井形:「おわりに。二〇〇四年八月二六日、相模原市でALS(筋委縮性側索硬化症)に罹患し人工呼吸器装着を選択した息子が、その後人工呼吸器装着を悔やみ、母親に取り外しを懇願し、母親が人工呼吸器のスイッチを切るという事件が発生しました。息子は死亡し母親は殺人罪に問われましたが、裁判所は息子の懇願事実を認定し、嘱託殺人罪で執行猶予付きの懲役判決を下しました。」

 我々は、この公判のすべてを傍聴し、事件の関係者への聞き取りもしました。
 当時、ALSの息子は全身性の麻痺のため意思伝達機能が低下し、母親が意思を読み取るのはままならない状態でした。神経内科医である主治医は、かかりつけ医に指示し、訪問看護師(透明文字盤を使って息子の意思の読み取りができた)を派遣し、患者から「呼吸器を外して死にたい」という意思確認をもって、患者の「死ぬ権利」として訴訟に持ち込もうとしました。しかし、患者は看護師の読みとる文字盤に「呼吸器は苦しくてもそのままでよい。」と伝えました(裁判記録に明示)。すなわち、患者は最終段階で意思を覆し、呼吸器の取り外しはしないと意思表示しました。しかしながら、判決では嘱託殺人となったため、患者が直前に意思を覆した事実は伏せられ、日本神経学会やALSの国際学会等で、日本の法の不備により治療停止ができないために起きた事件として報告されてきました。このことは、患者が意思を変えても家族や医師は聞き入れないこと、意思の表現が難しい者の意思は他者により曲解され、都合よく扱われる事例を提示しています。
 患者会の独自調査では、母親は三六五日二四時間、たった一人で息子の介護をしていたため、過重な心身の負担を抱えていたこと、当時この地域ではヘルパーが吸引等を実施していなかったことが判明しています。殺される直前の息子はレスパイト入院を強く拒み、少しでも介護を休みたかった母親を絶望させていました。 
 母親は八方ふさがりの中で、症状が悪化する一方の息子の介護をし、自らの精神も病んでいました。公判後も精神を病んでいた妻の世話は執行猶予中も同居の夫に委ねられており、社会から見放され救いのない中で、夫による自殺幇助の形で妻は命を絶っていきました。
 相模原市で起きたこの事件は、治療停止により解決できる問題ではなく、家族介護に対する社会の責任を問うべき問題です。

■私たちは、「終末期の医療に患者の意思の尊重に関する法律案」(いわゆる「尊厳死法」)による法制化に強く反対し、慎重な議論を求めます。 2012/06/03

尊厳死法制化を考える議員連盟の皆さまへ 全国遷延性意識障害者・家族の会

 私たちは、「終末期の医療に患者の意思の尊重に関する法律案」
(いわゆる「尊厳死法」)による法制化に強く反対し、慎重な議論を求めます。
 私たちの会は、事故や病気で最重度の中途障害(遷延性意識障害=いわゆる「植物状態」)を負い、日夜、医療や介護の問題で苦闘している障害者・家族の団体です。
 障害を負う原因は、交通事故、脳卒中、心肺停止、労働災害、犯罪被害、スポーツ事故、医療過誤など、多くの原因があります。
 昨年度に、上記法案について検討が開始され、他の多くの団体からも反対声明が出ています。私たちの会は、介護の合間をぬう困難な中、全国から多くの者が上京し、総会を行い、その中でこの声明を採択しました。
 私たちの会は、結成されて8年になります。結成以前より、医療や福祉の十分なあり方を求めて、国や自治体と交渉を各地で行ってきました。今まで、決して少なくない方々が、意識障害を脱し、明確なコミュニケーションをとれるようになることを見てきています。また、毎年行われる日本意識障害学会にも、10年以上、発表や出席を続け、回復の事例を見てきました。
 顕著な例では、自動車事故によって、遷延性意識障害者に陥った障害者の治療・看護を集中的に行う、(独)自動車事故対策機構の療護センターや委託病床が全国に260床あまりあります。その中で、意識障害から脱却される人は10%程度あり、また意識回復まではいかないものの、かなり多くの人の改善が実証されています。本来、十分な医療や看護、リハビリテーションがあれば、回復が可能な人々は、潜在的には相当な数になると思います。
 今回の法案は、「終末期の判定」、「延命措置の差し控え」と、「医師の免責」を求めるものと考えていますが、以下の点を慎重に審議して頂きたいと考えています。
1、終末期の定義について
 今まで「終末期」「臨死期」「ポイント・オブ・ノーリターン」など、多くの事柄が議論されてきましたが、いわゆる「終末期」の定義は、厚労省のガイドライン、日本医師会、救命医学会の見解などでも不明です。法制化されるときの「終末期」は、「案」にあるように本当に二人の医師の判断で十分なのでしょうか。
2、延命医療の差し控えについて
 十三年前の平成十一年に、「脳死」からの心臓移植などが法制化されました。(「臓器移植に関する法律」)その議論の中では、「ご本人がドナーカードを持っているから」ということが大きな理由になったと理解していますが、その後、平成二一年に改定され、家族の同意で移植が可能になり、二二年には親族への優先提供も可能になりました。
 今回の法案では、「本人の意思が不明の場合は、この法の対象としない」ということが明記されているのですが、「法」は時代とともに変わるので、変更もあり得るということに、疑念がどうしても拭うことができません。
 また、「本人の意思」についても、決して十分とは言えない我が国の医療や福祉の中で、長期療養も難しく、重い障害のある当事者本人が、家族や周囲を慮って「意思」を表明する場合もあり、それは本当に「本人の意思」と言えるのでしょうか。
3、医師の免責について
 終末期の判断が問われる救命の現場で、「医師が救命をしなくとも良い」ようにもとれる可能性があることに、非常に不安を覚えます。「終末期」の判断もさることながら、当会会員のような障害の極めて重い、遷延性意識障害の場合は非常に厳しい状態にあります。
 私たちは、止む無く医療が中止されるケースを否定しませんが、それは患者・家族と医療職との信頼関係があれば、現状でも十分可能ですし、その信頼関係こそが、最も求められているのは明らかです。またそれは決して、法制化ということで進むわけではありません。
 また、自己決定の原則を理解しつつも、過剰なまでの自己決定論には懐疑的で、私たちの意思決定には家族や周囲の多くの人々とともに行っているというのが実感です。
 この問題は、個人の価値観や信条、宗教観など多くの要因が考えられ、本来議会で多数決をとるような法には馴染まない面がありますが、法制化には過半数でなく、かなり多くの賛同が必要であろうと考えています。
 他方、この法案には、「回復不能な遷延性意識障害者」のことが、強く意識されている背景があります。人の生きる「尊厳」には比較不可能性があると私たちは考えています。
 終末期を医療の中止という形で迎えるのも「尊厳」の在り方でしょうし、最期まで医療を続け、人の命を守るのも「尊厳」の在り方と思います。またグローバルスタンダードとされる「欧米では認められている」と一括りで言っても、英米と大陸でも異なり、ヨーロッパの中でも国によって、「尊厳」の内容にも非常に差があります。
 そのような中で、終末期の議論をされ、法制化されることについて、強い危惧を覚えます。私たちは、尊厳死法制化を考える議員連盟の方々には、慎重な審議を求めるとともに、この法の制定=医療の不開始には反対を表明します。

■改めて尊厳死の法制化に強く反対します  2012/07/12
 人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)→尊厳死法制化を考える議員連盟

 国会議員のみなさまには、二〇一二年三月一三日付で、当会から意見書「尊厳死の法制化に反対します―バクバクっ子『いのちの宣言』とともに―」を配布させていただきました。その中で、私たちは、日常的に人工呼吸器、経管栄養などを必要とする子どもたちとともに歩んできた立場から、次のようにお伝えし、尊厳死法制化への懸念を表明いたしました。
 法案では、「適切に治療しても患者が回復する可能性がなく、死期が間近と判定された状態を『終末期』と定義」されているようですが、人の命とは、専門家といえども簡単に推し量ることなどできないことをバクバクっ子たちが証明しています。
 バクバクっ子のほとんどは、当初、医師より生命予後不良との宣告を受けたものの、それらの予測を大きく覆して、それぞれの地域で様々な困難に直面しながらも、年齢に応じた当たり前の社会生活を送りたいと願い、道を切り拓いて来ました。医療によって命を救っていただき、サポートしていただいたからこそ、彼らの「現在」があります。
 その生き抜く彼らの姿から、生きても仕方のない命など一つもないことを私たちは教えられました。さらに、彼らの未来を阻む最も大きな障壁は、彼ら自身の障害や病気などではなく、わたしたち家族を含めた社会の「重い障害や病気を持って生きることは尊厳がない」という決めつけであることにも気づかされました。
 日本尊厳死協会副理事長の長尾和宏医師でさえ「末期を定義するのは非常に困難だと思う。死んでからしか分からない。死んだらあの時が末期だったということです。」(七月三日東京弁護士会主催シンポジウム)と認めています。さらに「法律を作りたいわけではない。平穏死ができれば法律はどうでもよい。」(同)、「在宅の現場で尊厳死、平穏死、自然死は普通に行われている現状にある。」(三月二二日議連総会)と発言しています。
 このような現状にあって、法案の名称こそ「患者の意思の尊重に関する法律案」となっていますが、定義ができない「終末期」をわざわざ定義し、治療の不開始や中止を認めようとする法律をつくることの本当の目的はどこにあるのでしょうか。たとえ「障害者等の尊厳を害することのないように」との一文が入ったとしても、法律が出来てしまえば、人工呼吸器や経管栄養の助けを借りて生きている人たちに対して、『「自己決定」のもと「尊厳死」を選択している人がいるのに、なぜそうまでして生きているのか、なぜ死なせないのか』という社会の無言の圧力がかかることは必至です。
 患者の意思を尊重した医療の実現のために必要なのは、尊厳死の法制化ではなく、どの様な選択をしても医療・福祉・介護による支援が保障されることと、患者や家族に対する十分な情報提供です。
 私たちは、ここに改めて、尊厳死法制化に対し強く反対いたします。

■終末期における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)修正案について――疑問と要望 2012/07/12
 DPI(障害者インターナショナル)日本会議尊厳死法制化を考える議員連盟

 私たちDPI(障害者インターナショナル)日本会議は、障害種別を超えた当事者主体の八八団体が加盟し、一九八六年の結成以来、自立と社会参加、権利保障を確立するための活動を進めてきています。近年は二〇〇六年に国連で採択された障害者権利条約の批准に向けて、内閣府に設置された障がい者制度改革推進会議などを通じて、さらにその取組みを強化してきました。とりわけ、どんなに重度の障害があっても地域での自立した生活の権利の実現を目指して活動を進めています。
 今回、発言の機会を頂きありがとうございます。
 障害があっても他の人々と同等の、当たり前の暮らしが出来ること、重い病気であっても、必要な医療や介護を受けながら、その人らしい尊厳ある生を保障することこそが、国の責任ではないでしょうか。
 しかしながら、これまでの歴史上、障害者は生存を脅かされ、厳しい差別と偏見、排除の中で過酷な生活を強いられてきました。21世紀の今日においてさえ、障害者の人権が確立したとは到底言える状況ではありません。また、これらの歴史に対する検証・総括もなされていません。そうした中、人間の生死に関わる重大な法制度が、国会に上程されようとしていることはとても認められものではありません。
 今回、あらためてお示し頂いた案に対して、以下、疑問と意見を述べさせて頂きます。

○一〇の疑問
1 修正案二において、「延命措置の中止」も含めるとされていますが、三月のたたき台から変更した経緯を詳しく教えてください。
2 二つの修正案が示されていますが、議員連盟としてはどちらを採用しようと考えているのですか。
3 患者の意思の確認方法について、具体的にはどのように行うと考えていますか。
4 終末期の定義について、「死期が間近」と規定していますが、具体的にはどのような状態をさすのでしょうか。尊厳死協会の長尾副理事長も「終末期を定義することは困難」と発言されていますが、確実な判定は可能であるとお考えですか。【資料1 医療介護CBニュース】
5 現在の制度においては「医師の免責」は認められていないのでしょうか。
6 患者の意思の撤回はいつでも出来るとなっていますが、具体的にはどのような方法で行われるとお考えでしょうか。
7 国及び地方公共団体が、延命治療の不開始に関して国民への啓発を行うよう求めていますが、不開始は望ましいことであり、延命治療を行うことはそうではないとの考え方に基づくものでしょうか。不開始への誘導ではないかと思われますが、いかがでしょうか。
8 障害者等への配慮規定が盛り込まれましたが、ここでいう「障害者等」とは誰を示しているのでしょうか。現在、身体障害者手帳保持者のうち六割以上が高齢者ですが、何か区分けがされるのでしょうか。【資料2 障害者白書より】
9 第一三条で示されている「生命維持のための必要な措置」と第五条でいう「延命措置」とは異なるものでしょうか。共通する内容もあるとお考えでしょうか。
10 現在、人工呼吸器人、人工透析、人工栄養などによって、生活を営んでいる人々にとって、今回の法案がどのような影響を与えるとお考えでしょうか。

○要望
1 今回の法案(修正案も含む)は、人の生死に関わる重大な内容であるにもかかわらず、十分な議論が行われたとはいえません。まずは法案を撤回し、医療や福祉を必要とする多くの人々と真摯に向き合い、議論を重ねてください。
2 重い障害があっても、寝たきりになっても住み慣れた地域社会の中で暮らし続けることが出来るような、医療、福祉等の施策を拡充してください。
3 二〇〇九年に設置された障がい者制度改革推進会議、並びに同差別禁止部会で、「不幸な子どもの生まれない県民運動」や「優生保護法(1996年まで不良な子孫の出生防止規定・存続)」の問題が、ようやく取り上げられてきました。こうした優生思想に基づく歴史に関する検証・謝罪の取り組みを、国会が率先して行って下さい。【資料3 障がい者制度改革推進会議・差別禁止部会資料より】
 *資料[略]

■尊厳死法制化反対の意見書 2012/07/12
 TIL(東京都自立生活センター協議会)ベンチレーターネットワーク 呼ネット

尊厳死法制化を考える議員連盟にご参加の議員の皆様

 議員の皆様におかれましては、日頃より重度障害者の在宅生活にご尽力いただき感謝申し上げます。
 私たち「TILベンチレーターネットワーク 呼ネット」は、人工呼吸器を使いながら自立生活を送る当事者が中心となり、同様に人工呼吸器を使っていても地域生活を送りたいと思っているユーザーの相談・情報交換・自立支援の場として二〇〇九年三月に発足しました。現在全国各地に約一五〇名の会員がいます。
 さて、今年三月二二日、および六月六日に公表された「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」に関して、二〇〇名を超える超党派の議連の中で、法制化のご検討をされているとの事です。
 しかし、私たちは、議連に所属されている議員の皆様が、本当にこの法案の意味、法制化されることによる社会への影響を理解されているのか、疑問に思っております。
 以下に、ご理解いただけているのか、国民一人ひとりに、適切に、納得のいく説明ができるのか、今一度お考えいただきたいポイントを挙げさせていただきます。

1 終末期の定義
 「人工呼吸器や経管栄養を使わなければ生きていけない状況を終末期」と定義すると、そのような医療的ケアを使いながら生活している重度障害者は終末期にあたります。「本人との意思疎通が取れなくなった状態が終末期」と定義すると、遷延性意識障害の方などは終末期にあたります。大きな事故にあい、医師からもう無理だろうと言われた人が、人工呼吸器を装着することによって社会活動ができるまでに回復した人もいます。障害が進行し呼吸不全で意識不明に陥った人が、医師から「人工呼吸器をつけたら生きていくことはできるが意識は戻らない」と言われたにもかかわらず、人工呼吸器装着後すぐに意識を取り戻し、地域生活を継続しているケースも多々あります。
 尊厳死協会の副理事長である長尾和宏氏(医師)は、「終末期(末期)は全ての人に必ずあるものではあるが、それを医学的に定義することはきわめて困難であり、実際はその人が亡くなってみなければ本当の終末期(末期)は分からない。」と発言しています。終末期というのは、本人、家族、医師その他が、じっくり話し合って、全員が納得して決めていくものであり、医学的に定義することは不可能です。
 終末期が定義されなければ、尊厳死の法律は成立しえません。
2 「治療のすべてを尽くしても」の定義
 治療の全てを尽くしましたと判断するのは、たまたまその人を担当していた医師であり、その判断は客観性にかけるものです。また、何かの処置をしても効果が無く無駄だと医師が判断した場合、その処置をしないで「全ての処置をした」と言われる可能性もあります。インフォームドコンセントの徹底がなされていない環境下で、治療の精度、成果を判断することは非常に困難です。
3 回復の見込みがない場合と13条の障害者等の尊厳について
 回復というのは、どこまでの回復を指すのでしょうか?回復しなければ医療処置の意味はないのでしょうか?障害者は回復はしません。しかし、様々な医療的ケアを使いながら地域で生活をしています。「単に当該患者の生存期間の延長を目的とした医療的な措置」を延命というのであれば、障害者の多くは延命措置を受けながら生きていることになりますが、第13条の「生命を維持するための措置」という文言と延命の定義の違いは何でしょうか。
 また、「障害者等の尊厳を害することのないように」と13条で述べていますが、障害者等とは誰を指すのでしょうか、高齢になって高度の医療を必要とする人は、障害者基本法での「継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」として手帳を持っていなくても障害者の範囲に入るのではないのでしょうか。
 このような、障害者条項を作っても終末期や延命措置を明確に位置づけることはできません。逆に障害者等の尊厳という文章は法案をより分かりづらくするための悪意ある文章としか受け止められません。
4 本人の意思(尊厳)に沿って
 本当の本人の意思はどこまで誰が汲み取れるのでしょうか?医療的ケアを必要になった段階で、当事者は、家族への負担や経済的な不安、制度の不備による生活全般への不安に押しつぶされた結果、生きていくことを諦めたくなります。周囲の環境に遠慮して、不要と感じる(感じさせられている)自分の存在に対して責任を取るために、リビングウィルに延命の拒否を表す可能性も大いにあります。それは、本当に本人の意思でしょうか?
5 意思撤回の困難
 日本尊厳死協会の前理事長である井形昭弘氏(医師)は、「医師の仕事は命を助けることだから、救急医療は行なう。」と言っていますが、もし救急で運ばれた患者の意識がなく、リビングウィルにより延命治療を望んでいないことが分かった場合、本当に救急医療を行なうでしょうか?事故により、生死をさ迷うような大きな怪我をした人も、人工呼吸器などの医療的処置を受けることで、障害は残っても地域生活を取り戻しているケースはたくさんあります。事前の意思表示と、処置が必要になった時点での本人の本当の意思が必ずしも一致するとは限りません。治療の不開始、または治療の中止の判断をおこなうその時に、本人に意思の撤回の機会が与えられない限り、リビングウィルを適用するべきではありません。
6 生きるための法律の不備
 四番目のポイントとも重なりますが、医療的なケアを使いながら生きていこうとする人にとって、家族への負担や経済的な負担、介助者不足、地域での医療体制の不備が、大きな障害になっているのが現実です。その環境は、自治体、地域によって大きく格差があり、制度の整った地域に住んでいる障害者は生きるという選択をすることができるけれども、地域によってはそれが叶わない場合もたくさんあるのです。
 尊厳とは、どう生きるもどう死ぬも、本人の本当の自己決定によって、命のあり方が決められることを意味します。家族や社会の中の弱者に、責任を取らせる形で死ぬという選択をさせてしまっているとしたら、果たしてそれは「尊厳のある死」と呼べるでしょうか?死ぬための条件を法的に整える前に、誰にも遠慮せず生きることを決定できる社会環境を国として保障していくことが、まずは必要なのではないでしょうか。
7 死生観の操作
 複雑な医療的ケアを受けずに死ぬことが「尊厳死」と定義づけることによって、複雑な医療的ケアを受けながら生きることが「尊厳」と取られなくなる危険性があります。大袈裟だと思われるかもしれませんが、この法制化により、日本における死生観に大きな影響を与えることは間違いありません。法案には、「終末期医療の啓発および知識の普及に必要な施策を講ずるものとする」、「国及び地方公共団体は終末期医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とあり、法制化された後、リビングウィルを残すように国民に促していく意図があります。尊厳死協会の副理事長は「リビングウィルを残しているほんの数パーセントの人が対象になっている」と言っていますが、国がこの法制化の啓発に取り組むことで、リビングウィルを残す国民は増えるでしょう。
8、ガイドラインの徹底
 現在でも医療会では尊厳死を扱う際のガイドラインがありますが、尊厳死協会の副理事長は「ガイドラインは医師が一方的に作ったもので、周知も徹底されておらず、広まらない。法律になれば、国民の代表である国会議員の方々の審議を経るので、民意として成立し効力を持つ。」と言っています。しかし、人の命の在り方は個別性の強いものであり、法律で一定の基準・条件の下、一括りにできるものではありません。法律にするのであれば、その個別性を最大限引き出し、サポートし、本当の自己決定につなげるためのものである必要があります。そのためには、例えば、病院におけるインフォームドコンセントを保障する法律を制定する方が、国民の誤解と混乱を避け、有意義であると思います。

 他にも疑問に思う点や不安な点はあります。私たちは、「尊厳死」を否定しているわけではありません。本人が納得して、自分の命の在り方を自己決定できることが「尊厳」だと思っているからです。しかし、尊厳死を「法制化」すること自体に、何のメリットがあるのか、どのような必要性があるのか、今の時点では全く理解できません。議連に名を連ねていらっしゃる議員の皆様、お一人お一人にも、あらためてその法制化の意味と、社会に及ぼす影響を考える機会をお持ちいただければと思います。

■「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」に関する声明 2012/08/03
 NPO法人医療的ケアネット→尊厳死法制化を考える議員連盟

 わたしどもNPO法人医療的ケアネットは、痰の吸引や経管栄養(胃瘻等)を必要とする重い障がいのある人々が「当たり前に暮らせる社会」を実現するために、具体的な政策提言、支援者養成、さらに様々な調査・研究に取り組んでいる団体です。
 今回、「尊厳死法制化を考える議員連盟」によって国会上程を予定されている「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」(以下「法案」)について、当NPO法人としての意見および懸念を示し、法案の撤回を希望する旨をお伝えいたします。
 法案における「終末期」の定義については「二人の医師の判断」で行うとなっていますが、それではなにをもって「終末期」とするのかは、それぞれ医師の「主観」に左右されることとなり、大変曖昧なものであると言わざるをえません。根拠が曖昧である判断を「法律」の中で認めることについて大変疑問を感じます。
 またこの法案によって「人工呼吸器を使って生きる」、「胃瘻や経管栄養で生きる」という重い障がいのある人々にとっては「当たり前でかけがいのない生」を、「尊厳のない生」としてしまう危険性をはらんでいるということも指摘しておかねばなりません。当法人ではどのような様態であろうと、いかなる年齢であろうと、当然に存在する「尊厳ある生」を保障するために活動しており、ある特定の状態を「尊厳のない生」とされることには断固反対いたします。 
 当法人で「医療的ケア」と称しているこれらの「生きる術」によって、安楽に幸せに暮らせる社会をつくりだすことこそが、多様な生を認める「より豊かな社会」であることは、国連の「障害者権利条約」を持ち出すまでもなく自明のことです。
 「治療の不開始」の背景に「治療しても重い障がいが残るなら治療せずともいい」という発想がある以上、到底認められるものではありません。また「延命措置の中止」という言葉が終末期の定義の曖昧さとともに、医療的ケアを必要とする重い障がいのある人々に、日常的に「生きるに値しないいのち」であるかのような重圧をかけることにもなりかねません。必要なのは「治療の不開始」や「治療の中止」ではなく、「尊厳ある生」を保障するために介護や医療がきちんと保障されることです。
 法案には「障害者への配慮」という文言もありますが、この法案が「治療の不開始」に触れている以上、それは、この国に暮らす人々に対する医療が「他者の判断によって、選択的に行われないこともありうる」ということを意味しています。上述のような理由で「治療の不開始」とされることは、重い障がいのある人々の「存在の否定」につながる可能性のあることを厳しく指摘せねばなりません。
 これらの点から、この法案が、障がいのある人々への十分な配慮に基づいて提案されたとは考えにくく、法案の撤回を求めます。

■尊厳死法制化に反対する呼びかけ 2012/08/27 尊厳死の法制化を認めない市民の会

 現在、尊厳死議連による議員立法で、「尊厳死法案」が国会に上程されようとしています。この法案は、人間の個人的な「死」に関して国家が介入するという政治的なものです。過去にも何度も同じような動きがありましたが、その都度関係者や文化人による反対の運動によって阻止されてきました。この度も、法制化の動きは増大する医療費の圧縮や臓器移植への期待などを背景にして活発になってきております。わたしたちは、本来の意味での「死の尊厳」を守るためにこれを阻止しなければならないと考えております。この会は、代表の存在しない個人の集まりであり、尊厳死に対する考え方も様々ですが、個別的であり、多様でもあるひとの死の決定に国家が関与することには断固として反対いたします。下記の意見にご賛同いただける方々に対して、連帯していただけますようここに呼びかけたいと思います。趣旨に賛同いただける皆様と連帯して、尊厳死の法制化を阻止していきたいと思います。
 平川 克美・中西 正司川口 有美子

 *呼びかけ人からのメッセージは会のHPで読むことができる。




■■■第V章 功利主義による安楽死正当化論 有馬 斉


 本章では安楽死や尊厳死の倫理をめぐる英語圏の論争についてレポートする。様々の状況下で病人を死なせたり殺したりすることについて、賛成派と反対派それぞれの立場で多様な議論が展開されてきた。ここではそのうちでもとくに賛成派の急先鋒とも言える功利主義者による安楽死擁護論を中心に、主要な文献に即して紹介していく。

 安楽死の倫理的妥当性を支持する側の議論にはいくつかの特徴的な立論の仕方がある。なかでも重要と思われるのは、 (1)生命が神聖であるとする思想を批判する、(2)患者の利益を守ることの価値に訴える、(3)患者の自己決定を尊重することの価値に訴える、(4)医療資源の公正な分配を実現することの価値に訴える、の四つであろう。
 これら四つの議論は、かならずしも常に分離独立したかたちで展開されるとは限らない。実際のところ、どんな議論でも安楽死を擁護する側に立つ限り、容態のきびしい患者にとって安楽死がときとして利益であるとする見方に論拠としてまったく言及しないということはあまり考えにくい。これは患者の利益よりも自己決定や公正の価値を常に優先するべきだと論じる研究者の場合も例外ではない。
 しかし、功利主義者による安楽死擁護論の特徴は究極的に人々の利益という一つの価値のみに訴える点にある。功利主義者にとって、例えば個人の自己決定や資源の公正な分配といったことは、それが人々の利益の増大に貢献する限りで価値を有するにすぎない。究極的に訴える価値の数が一つしかないという意味で、功利主義者の議論は同じように安楽死を擁護する他のタイプの論と比べてシンプルである。
 功利主義者による安楽死擁護論には、他にもいくつか顕著な特徴がある。例えば、著名な功利主義者の多くがこぞって安楽死の倫理を持論の応用問題として取り上げているにもかかわらず、ほとんどの論文は、結論だけでなく論の運びや批判に対する反論の仕方に至るまでおおよそ一致するようにみえる。そこで、多くの文献をひとまとめにして「功利主義者による安楽死擁護論」と紹介することに、それなりの意義があると思われる。(ただし、例えば、死ぬことが患者の利益になるというときの「利益」の語をどう定義するかなど、功利主義者の間でも意見の分かれている問題はある。こうした違いが安楽死の是非に関する各論者の結論に与えうる影響についてはそのつど指摘したい。)
 また、功利主義者は、致死薬を積極的に投与する場合や新生児のように同意の得られない人を対象とする場合も含め、比較的幅広い条件で患者を殺したり死なせたりすることが倫理的に許されると結論する点にも特徴がある。あえてはじめに安楽死擁護論の「急先鋒」と形容したのはこのためである。
 さらに、いま述べた組立がシンプルであるという第一の点とも関わることだが、功利主義者の議論は、組立がシンプルである分、他のタイプの安楽死擁護論との対照がはっきりしている。例えば患者の自己決定や自律の価値を重視するタイプの論は、利益だけしかみない功利主義の論やそれに対する批判を理解したうえであらためてみてみれば、その特徴や利点がより明瞭となるだろう。人々の利益を大きくすることにそれ自体として価値があることはほとんど否定しがたい。それは認めた上でそれでもときとして利益の最大化は断念し、患者の自己決定や権利を優先しなければならないことがあると考えられているのはなぜか。以下ではこうした点も明らかにしていきたい。以上のような諸特徴を合わせ考えたとき、安楽死を擁護する側の主張の代表的なサンプルの一つとして、まず功利主義者の議論に注目することの意義はある程度明らかだろう。
 なお、ここからの章では「安楽死」という語について「主として臨床で人を殺したり死なせたりすること」とする定義を採用する。これはほとんど思いつく限り最も広い定義である。ここには塩化カリウムや筋弛緩剤などの致死薬を注射するいわゆる「積極的安楽死」だけでなく、死にたいと希望する病人がいつでも服用できるよう致死量の睡眠薬などを処方する「医師による自殺幇助」も含まれる。さらには、カテーテルや呼吸器などの延命治療を中止したり差し控えたりする「消極的安楽死」(あるいは「尊厳死」とも呼ばれることがある)や、痛みの緩和のために死期を早めることがわかっていてあえて多量の鎮静剤を投与するいわゆる「間接的安楽死」(「セデーション」という語の方が普通好まれる)もすべて含むものとする。あとでみるように功利主義者は患者が死ぬまでにとられる手続の上のこうした違いにそれ自体として倫理的な意義を認めない。したがって、手続の差によらず人の死に導く行為全般に総称として「安楽死」の語を当てておくことが便利である。
 また念のために言っておけば、安楽死という行為の主体は死ぬ人の方ではなく、あくまで投薬したり治療中止したりする医療者の側である。安楽死は死ぬ本人の求めに応じてなされるか、それとも本人の意向が不明のままなされるかによってよく「自発的安楽死」と「非自発的安楽死」とに区別される。これはおそらく英語の"voluntary euthanasia"と"non-voluntary euthanasia"の和訳に由来するのだろう。しかし行為主体が医療者の側であることに鑑みるとこれはあまりよい訳と思えない。ここでは一部の先例にならってvoluntary euthanasiaに「任意的安楽死」の訳を当てる。死ぬ人の意向が不明の場合を「非任意的」、死ぬ人の希望に反してなされる場合を「反任意的」とする。
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 安楽死の倫理的妥当性を支持する議論は様々な価値に訴える。そのうちとくに注目に値すると思われるのは、(1)生命の神聖さ、(2)与益(beneficence)、(3)自己決定、(4)公正の四つである。
 生命にはなにか特別な価値があり、ゆえに生命を破壊することには大きな倫理的問題がある――こうした見方は、洋の東西を問わずほとんどすべての文化圏で伝統的に受け入れられてきたとされる。「生命の神聖さ(sanctity of life)」とはこの伝統的倫理観を表現する言葉である。安楽死は生命の破壊を伴うためこうした見方とは一見して相いれない。そこで安楽死の倫理的妥当性を支持する研究者の論は、生命が神聖であるとする伝統的な見方を吟味し批判することから開始されることが少なくない。(主な文献は第1節5にまとめた。)
 さて、安楽死支持派の研究者が生命の神聖さを批判するのは、安楽死に対する否定的意見を払拭するためのいわば守りの議論である。同じ立場の研究者らには、さらに、安楽死がむしろ積極的に望ましいことを言いたてるための攻めの議論がいくつかある。
 第一に、安楽死は患者やその周囲の人々の最善の利益を実現することがあると言われる。この場合の安楽死は倫理的に正当化できるとする論をここでは与益の価値に訴える議論と呼ぶ。第二に、安楽死の実施は、とくに死にたいという人の意向に即してなされる場合、個人の自己決定を尊重することになるから倫理的に正当化できると言われる(Brock [1992]、Buchanan and Brock [1990]、Dworkin [1993]、Dworkin et al. [2008] 等)★01。これを自己決定の価値に訴える議論と呼ぶ。最後に、終末期の病人や高齢者は他の集団と比べて特別に多くの医療費や資源を消費するとされる。そこで、こうした医療費が特別にかさむ人を対象とする安楽死は他の多くの患者がより適切な医療を受けられることにつながり、
医療資源の公正な分配にとって不可欠だから倫理的に正当化できると論じられてきた(Callahan [1987]、Gillon [1996]、Daniels [1996]、Harris [1985]等)。本章ではこれを公正の価値に訴える議論と呼ぶ。
 第一に、安楽死は、患者やその周囲の人々の最善の利益を実現することがあると言われる。この場合の安楽死は倫理的に正当化できるとする論を、ここでは与益の価値に訴える議論と呼ぼう。第二に、安楽死の実施は、とくに死にたいという人の意向に即してなされる場合、個人の自己決定を尊重することになるから倫理的に正当化できると言われる。これを自己決定の価値に訴える議論と呼ぶ。最後に、医療費が特別にかさむ人を対象とする安楽死は、他の多くの患者が適切な医療を受けられることにつながると言われる。終末期の病人や高齢者は他の集団と比べて特別に多くの医療費や資源を消費するとされる。そこでこれらの人の余命を短くする安楽死は、医療資源の公正な分配にとって不可欠だから倫理的に正当化できると論じられてきた。本章ではこれを公正の価値に訴える議論と呼ぶ。
 すでに述べたように、これらはかならずしも常に独立した議論として展開されるわけではない。あるタイプの安楽死の倫理的妥当性を言いたてるために与益と自己決定の両方の価値に同時に訴えることは論理的にいっておかしくないし、実際にもよくなされることである。しかし、これもすでに述べたとおり、功利主義者は最終的にこれらのうち与益の価値にだけ訴える。また、功利主義者の論の他にも、これらの価値が互いに衝突する状況では、たんにそのつど両者を比較考量すればよいというだけでなく、常に(あるいは一定の条件下では常に)一方の価値が優先するといったタイプの議論もある。
 以下ではこれらの議論のうち生命の神聖さ批判と与益の価値に訴える議論の二つを主に取り上げる。安楽死を論じた功利主義者の多くはその議論を生命が神聖であるとする思想の批判から始めている。すぐ後に詳しく述べるとおり、生命は神聖であるとする主張に対する批判の要点は二つある。第一に、この主張がたいてい曖昧であること、はっきりとした内容をもたないために安楽死・尊厳死の不正を論証するのに役立たないことが言われてきた。また第二にその一方で、多くの研究者はこの主張が一般的な傾向として生きている本人(神聖とされる生命の主体)の利益を省みないことを指摘してきた。
 生命が神聖だという人々は、多くの場合、生きていることが本人の利益に叶うかどうかにかかわらず生命を破壊してはならないと主張する。安楽死支持派の研究者はこの結論を倫理的に受けいれがたいものとして批判してきた。さてしかしこの批判は、裏を返せば、人の生死に関わる臨床判断は本人の利益に叶うものでなければならないとする主張でもある。すなわち、人の生命を破壊することが不正であるのは、それがその人の利益に反するときである。また反対に、人を殺したり死なせたりすることがその人の利益である場合、そうすることはむしろ倫理的に正しいこととみなしうる。このように議論を展開するに至ってきた。こうして、生命の神聖さに対する一つの重要な批判は、与益の価値に訴えて安楽死を支持するタイプの論となめらかに接続する。
 次に、与益の価値に訴える議論は、与益以外の価値についても同時に考慮するかどうかによって、さらに二つの類に大別できる。第一の類では、安楽死が患者やその周囲の人々に最大の利益をもたらすかどうかが、究極的には安楽死の倫理性を評価するにあたって考慮されるべき唯一のこととみなされる。
 これに対し第二の類では、安楽死が関係者の最善の利益を実現するかどうかは、複数ある論点のうちの一つにすぎない。したがって、安楽死が患者や家族にとって最善である場合でも、例えばそれが患者の権利を侵したり、社会通念に反したりするなど、他に好ましくない特徴を同時に有するなら、すべて勘案したうえで最終的に正当化できないこともありうるとされる。
 本稿で取り上げるのはこのうちの前者である。(ただし後者についても論考の終わりにもういちど簡単に触れる。)前者の論は功利主義の基本原理(功利性の原則)を前提にして導くことができる。功利性の原則によれば、行為が倫理的に正しいのは関係者の利益を最大化するときであり、またそのときだけであるとされる。すなわち、任意の状況でとりうる選択肢のうち、倫理的に正しいのは、他の選択肢のどれと比べても同じかまたはより多くの利益を関係者にもたらす行為であり、その行為だけであるとされる。この考えに従って安楽死の倫理を論じればいま大別した二つの議論のうちの前者がえられる。
 以下、功利主義者が、生命の神聖さという概念をどのように批判し、また与益の価値に訴えながらどのようにして安楽死の倫理的妥当性を主張してきたか、代表的と思われる文献を取りあげながら見渡してみたい。

■■第1節 生命の神聖さ

 生命は神聖であり、したがってこれを破壊することには大きな倫理的問題が伴う。こうした考え方は、洋の東西を問わずほとんどすべての文化圏で伝統的に受けいれられてきたとされる。
 生命の神聖さという表現には、宗教的な響きがある。しかし、生命がそれ以外のものと比べて特別な価値を有するという感覚や生命を破壊することを他の行為と比べて特別に疾しく思う気持は、今日のより世俗化した社会にも広く受け継がれているものと考えるのが妥当だろう。安楽死は患者の生命の破壊を伴うので、一見する限り、こうした伝統的な倫理観と相いれないように見える。そこで安楽死の倫理的妥当性を支持する研究者のなかでも、この倫理観を批判することから議論を始めるものは少なくない。
 生命は神聖だから破壊してはならないとする主張を批判した研究者の主な論点は、二つに大別できる。
 第一に、この主張を批判する研究者のほとんど全員が、その曖昧さを指摘してきた。事実、この主張の内容については様々な解釈が施されてきた。まず、この主張は、破壊してはならないとされる生命のうちに動物や植物まで含むバイタリズム(vitalism)の思想を表現するものとして理解されうる(Rachels [1986])。また、破壊してはならない生命を人に限る一方で、人の生命については例外なく常に破壊してはならないとする完全平和主義(absolute pacifism)として理解することも可能であるという(Glover [1977])。さらには、破壊してはならない生命を罪のない人間だけに限定したうえで、これを意図的に殺すことを一般に禁じるキリスト教倫理の中核にある思想の表現として理解する向きもある(Rachels [1986])。その他、人間の生命についてただそれが人間の生命であるというだけの理由から他の動物や植物の生命より大きな価値があるとする種差別(speciesism)の思想や、人間の生命についてその価値を質で評価してはならないとする意見(QOL評価の否定)を表現するものとみなす研究者もある(Kuhse & Singer [1989])。
 これらの解釈は、一見して明らかであるとおり、たんに強調点が異なるだけでなく、互いに矛盾するところさえある。そこで、生命は神聖であるとする主張は、まずその意味するところがそもそも明らかでないとして批判されうる。(ここに挙げた解釈を含め、主な解釈は本節5に列挙した。)
 第二に、多くの研究者は、生命は神聖であるとする主張が、生きている本人にとっての利益を省みない傾向にあることを強調してきた。たいていの解釈に従う限り、生命の神聖さという概念は、生きていることが本人の利益に叶うかどうかにかかわらず生命を破壊してはならないことがあるとする見方を支持するとされる。安楽死支持派は多くこの点を集中的に批判してきた。
 すでに述べたとおり、この第二の批判は、与益の価値に訴えて安楽死の倫理的妥当性を結論するタイプの議論と結びつきがよい。人の生死に関わる臨床判断を下すにあたって生きていることが主体の利益であるかどうか省みない態度を批判するということは、言い換えれば、そうした臨床判断が本人にとっての利益を重視するものでなければならないと主張することに他ならないからである。現実に、功利性
の原理を前提として安楽死の倫理的妥当性を結論するに至った議論は、生命の神聖さに対する批判から始まることが稀でない。
 以下、こうした趣旨の批判が典型的に展開された例として、ジョナサン・グラバー、ジェイムズ・レイチェルズピーター・シンガーヘルガ・クーゼの議論を紹介する。しかしあらかじめ述べておけば、与益の価値を重く見るこれらの研究者による批判は、安楽死との関わりで生命の神聖さの概念に言及する議論のなかでもとくに重要なものではあるが、すべてではない。生命の神聖さに関する他の論の可能性については、本節最後の5で別にまとめて紹介することにしたい。

■1 生命は神聖であるという主張の曖昧さについて(グラバー
 生命は神聖であるとする主張に関わる二つの論点を最も明瞭に論じた文献として、まずジョナサン・グラバーの本(Glover [1977]、Chapter 3 "Sanctity of Life")を挙げることができる。
 生命が神聖だとする主張について、グラバーは、二つの種類の曖昧さを指摘する。まずこの主張は、生命の破壊が許容される度合についていくつかの解釈を許す。また、破壊してはならないとされる生命の範囲についても、一通りでない解釈を許すという(Glover [1977:39-43])。
 生命の破壊が許容される度合からいえば、どんな状況でも生命の破壊が常に許されないとする主張を、グラバーは完全平和主義(absolute pacifism)と呼んでいる。生命は神聖だから破壊してはならないという主張は、ときにこの完全平和主義を意味するものとして理解しうるという。
 完全平和主義は、今日では、ほとんどの人にとって受け入れがたい主張に映ることだろう。完全平和主義に従えば正義に叶う戦争はありえない。正当防衛による殺人も絶対に認められない。こうした結論は極端にすぎて擁護できないもののように思われるに違いない(Battin [1995:114-121])。
 しかし他方、生命の神聖さという概念は、様々な条件のもとで生命の破壊を許容するもう少し緩い主張として解釈することも可能である。すなわちグラバーによれば、生命が神聖であるという主張については第二の解釈が可能であり、これに従うとその主張は、たとえ周囲に悪影響を及ぼさなくても人の生命を奪うことは不正であるという考え方を表すにすぎない。
 人の生命を奪うことが不正である理由の少なくとも一部は、人が死ねば多くの場合、周囲の人が悲しんだり困ったりするからであると考えうる。死んだ人がとくに能力の高い人だったりすると社会も損失を被るとさえ言える場合があるかもしれない。生命が神聖であるという言葉が意味するのは、しかし、このように間接的に引き起こす第三者への悪影響(side-effects)だけでは生命の破壊が不正である理由のすべてを説明することはできないとする見方である。グラバーはこの見方を「生命を奪うことが直接的に不正である(directly wrong)」と言い換えている。
 この見方に従えば、たとえ悲しんだり困窮したりする家族がいなくても、また社会的損失がゼロでも、人の生命を奪うことは依然として不正でありうる。しかし同時に例えば正当防衛による殺人の場合のように、他の事情があって人の生命を奪うことはやむをえないとされる可能性もある。この意味で、生命の神聖さに関する第二の解釈のもとでは生命の破壊が許容される度合は完全平和主義と比べて高くなる。
 実際のところ、第二の解釈が殺人を許容する範囲は相当広い。第二の解釈では、周囲への悪影響がなくても殺人は不正でありうるとされただけで、殺人が不正である理由についてそれ以上の具体的な説明はなされていない。そこでこの主張は、生命の破壊が不正であるのは、死にたくないという本人の欲求に反するからだとか、あるいは死ぬことが本人の利益を損なうからだといった考えとも整合的である。言い換えれば、本人がこれ以上生きたくないと思っている場合や、これ以上生きても本人の利益にならないことの明らかな場合(またとくに周囲への悪影響もないと仮定すれば)、生命を奪うことにまったく問題がないとする見解とも矛盾しない。これだけ緩い意味で解釈すると、生命が神聖であることは、例えばいわゆる任意的安楽死(本人の希望に即してなされる安楽死)など、ここで議論の対象としている重要なタイプの安楽死について、反対する理由を構成しなくなってしまう。
 グラバーによれば、しかし、生命の神聖さという概念には、生命の破壊を許容する度合に関してこれまでにみた二つの中間に位置するさらにもう一つの解釈が可能である。この第三の解釈によれば、生命が神聖であるとは、生命はただ生命であるというだけで価値を有するという見方を表現する。
 第三の解釈のもとでも、生命にはただそれ自体として価値があるとしか言っていない(つまりかならずしも常に破壊してはならないとは言っていない)ので、例えば正当防衛による殺人の場合のように他に特別な事情がある場合、生命の破壊がやむをえないとされる可能性がある。そこで、第二の解釈の場合と同じように、完全平和主義と比べると生命の破壊が許容される度合は高い。一方、たとえ本人が死にたがっていたりその人の残りの人生が不幸でしかありえなかったりするとしても、そこに生命が生命としてある限り価値は残されると考えられることになるから、その生命を奪うことは依然として不正でありうる。そこでさきの第二の解釈と比べれば、生命の破壊が許容される度合は低くなる。グラバーは、生命はただ生命であるというだけで価値を有するからこれを破壊することには倫理的問題が伴うとする見方を言い換えて、「生命を奪うことが本来的に不正である(intrinsically wrong)」と述べている。
 ここまで、生命は神聖だから破壊してはならないとする主張が、例外的に生命を破壊することの許容される度合について様々な解釈を許すことを確認した。さてグラバーによれば同じ主張はさらに、破壊してはならないとされる生命の範囲についても様々な解釈を許す。
 ここでの主な問題は、破壊してはならないとされる生命が人の生命に限定されるか、他の動物や植物まで含むかである(Glover [1977:42])。「人間だけでなく他の動物や植物を含めすべての生命が破壊されるべきでない」とする主張は、ときにバイタリズム(vitalism)と呼ばれる(Rachels [1986:20])。
 今日、グラバーやあとで紹介するレイチェルズも含め、ほとんどすべての研究者は、バイタリズムを擁護することは不可能だと考えている。理由は簡単である。バイタリズムを認めるとすると、例えば園芸で雑草を刈ったり、蚊とり線香をたいたり、抗生物質を服用(つまり病原菌を退治)したりすることまですべてまったく許容できないか、または少なくとも倫理的に重要な問題を伴うことになるが、この結論は明らかに受け入れがたいからである。
 したがって、生命は神聖であるから破壊してはならないとする主張がいくらかでも妥当性を有するとすれば、それはすべての生命が同じように破壊されるべきでないとする主張ではありえない。もちろんこれは人間以外の生命についてはすべて破壊することにまったく問題がないということではかならずしもない。グラバーは実際一部の霊長類についてはその生命を破壊することに重大な倫理的問題があるとする立場を検討し、擁護している(Glover [1977:46-51])が、この議論は安楽死の倫理とは関わりが薄いのでここでは立ち入らずに措いておこう。ここで安楽死の倫理との関わりで重要と思われるのは、とくに人間の生命について、これを破壊することは(さきにに述べた意味で)本来的に不正であるという見解の妥当性であろう。次にグラバーがこの見解をどのように批判するかみてみたい。

■2 生命の神聖さ批判(1)(グラバー
 人の生命を奪うことが本来的に不正だとする見解が真だとすると、安楽死の正当化は容易でないと思われる。少なくとも、患者自らが死にたいと希望していたり、残りの人生が不幸でしかありえなかったりすることは、安楽死を正当化する理由とみなされない。グラバーはしかしこの見解が誤りであると言う。その批判の要点は、奪われるかもしれない生命を現に生きている人の主観的視点をとったとき、右の見解に説得力がないということにある。例えば遷延性の意識障害(植物状態)に陥るなどして、意識が不可逆的に失われた患者について考えてみよう。仮に人の生命を奪うことが本来的に不正であるとする主張が一般に真だとすると、この患者を死なせることは、他に特別な事情がない限り倫理的に認められないと結論しなくてはならない。遷延性意識障害の患者は生きているが、さきの主張に従えば、人の生命はただ生きているということのために価値があり、だから破壊してはならないとされるからである。
 だがこの結論は当の患者の主観的視点から考えれば説得的でない。遷延性の意識障害に陥ることは意識を不可逆的に失うことなので、自分のこととして考えれば死ぬこととまったく変わらないからである。いったん遷延性意識障害に陥ってしまえば、その後で殺されたり死なされたりすることは自分の意識にそれ以上の変化を加えない。だからそれを不正なこととは考えにくい(Glover [1977:45-6])。(ほぼ同内容の議論が次項に紹介するRachels [1986:26=1991:48]やSinger [1993:192=1999:230]にもある。)
 そこでまず、生命を破壊してはならないとする主張が真であるためには、少なくともその時点で生命に意識の伴っていることが必須と思われる。言い換えれば、生命はそれ自体として価値があり、破壊してはならないとする主張は誤っている。それ自体として価値のあるものがあるとすれば、それはむしろ意識が存続することの方であり、生命に価値があるのは、ただそれが意識の存続のために欠かせないからにすぎないのである。
 もう一度繰り返せば、グラバーによると、生命それ自体に価値があるという主張は誤りである。価値ある生命には少なくとも意識が伴っていなければならない。さてしかし、さらにグラバーによれば、たんなる意識がそれ自体として価値をもつという主張も、やはり受け入れられない。あるいは、少なくとも、生命の破壊を不正にする唯一の理由が、たんなる意識それ自体のもつ価値にあると考えることは難しいという。
 たんなる意識にそれ自体として価値があるとすると、ただ周囲の状況を認識している(being aware of environment)だけの状態にもやはりそれ自体として価値があることになるだろう。しかし、人でなくとも、例えば牛でも意識さえあればふだんから周囲の状況は認識している。生命の破壊が不正なのはもっぱら意識の存続それ自体に価値があるためであるとする主張を認めるとすると、牛の生命にも人間の生命と同じだけの価値があり、牛を殺すことは人間を殺すことと同じように不正であると結論しなくてはならない。しかしこの結論は明らかにおかしい(Glover [1977:47-8])。
 したがって、グラバーによれば、ただ生きているだけの状態や、ただ意識があるというだけの状態には、それ自体として価値はない。それ自体として価値があるものは、ただ意識があるという以上の状態にある生命でなければならない。グラバーはこの状態を「生きるに値する生命(life worth living)」もしくは「幸福な生命(happy life)」と呼んでいる(Glover [1977:51,62])。それ自体として価値をもち破壊することが問題なのは、この意味での生きるに値する生命である。(このように言うとすると、次に問題になるのはもちろん、生きるに値する生命が、ただ意識があるということに加えて他にどのような要素をもつのか、であろう。グラバーはこの点について、誰もが賛同できるようなことを述べるのは困難だから、として、明言を避けている。ただし、グラバーは別のところで、ある状態の生命が生きるに値するかどうか評価するためのある「テスト」を提案している。次節の3で紹介する。)

■3 生命の神聖さ批判(2)(レイチェルズ
 グラバーと非常によく似た議論を展開した例として、もうひとりジェイムズ・レイチェルズを挙げることができる(Rachels [1986=1991]、Chapter 2 "Sanctity of Life"「生命の尊厳」)。レイチェルズはとくに、生命がなんらかの意味で神聖だとする主張の具体的な内容は、洋の東西で伝統的に異なってきたと指摘する。最も顕著な違いの一つは、神聖とされる生命の範囲の広狭である。伝統的に東洋では、人だけでなく他の動物や植物まで含めて生命を神聖とみなすことが多い。レイチェルズの引くジャイナ教の修道僧のふるまいに関する記述は印象的である。

 僧は水を飲む前にそれを濾さなければならない。罪のない虫を知らずに吸い込まぬように、彼はガーゼのマスクを着けている。僧には、歩く時、前の地面を掃くことが要求される。そうすれば生き物を踏みつぶすことがない。僧はいつもそっと歩く。というのは、足もとのまさにその原子が、微細な生命のモナドを宿しているからである(Rachels [1986:20=1991:37]から孫引。引用元はSmart [1971:106]。訳文は加茂監訳書のまま)

 これに対し西洋の伝統では、ギリシャ哲学やユダヤ教またキリスト教の影響のもと、神聖とされるのは人の生命に限られてきた傾向があるという。レイチェルズはとくに教父哲学における生命の神聖さの概念の変遷を概説する。初期の教会は、ほぼ完全な平和主義を標榜した。しかしのちの教父たちは正義の戦争、死刑、正当防衛による殺人など、例外的に許される殺人もあるとして立場を変えてきている。人の生命は神聖だから破壊してはならないとする原則の内容は、これら例外を認めることと矛盾しないかたちで、次第により洗練された定式を与えられてきたという。最終的に整えられたところでは、この原則は「罪のない人間を意図的に殺すことは常に不正である(the intentional killing of innocent humans is always wrong)」と定式化された。レイチェルズによると今日に至るまで人々の思考はこの原則の強力な影響下にあるという(Rachels [1986:15=1991:27])。
 罪のない人間を意図的に殺すことが常に不正であるとすれば、一部の安楽死は容易には正当化できなくなるだろう。安楽死を施されて死ぬ患者はたいていの場合右の原則にいう「罪のない」人に該当する。またほとんどの安楽死では患者が死ぬことは「意図」されているに違いない。さらに、いわゆる積極的安楽死(延命治療を中止したり差し控えたりすることではなく、致死薬を投与すること)は、患者をたんに「死なせる」ことではなく、「殺す」ことだと考えられていることが多い。こうした条件に一致する場合の安楽死については、右の原則から常に不正であり、許されないとする結論が導かれる。
 レイチェルズの本の全編を通しての主な目的はこの原則を批判することにある。この原則は、人間を殺すことと人間以外の動物を殺すこと、意図して殺すことと意図せず(たんに死を予見しながら)殺すこと、殺すこととただ死なせるにすぎないこと、罪のない人を殺すことと罪深い人を殺すことなどを区別する。レイチェルズの批判の要諦の一つは、これらの区別が各々それ自体として道徳的に重要であるとする原則の前提を否定することにある。(とくに殺すことと死なせることの区別がそれ自体として道徳的に重要であることを否定する有名な批判については次節の6であらためてふれる。)しかしまたレイチェルズは、この原則にはもっと深いところで、根本的な誤りがあるという。
 レイチェルズによれば、「罪のない人間を意図的に殺すことが常に不正である」とする原則が根本的に誤っていると言えるのは、この原則が殺してはならないとされている生命の主体にとっての利益を十分に省みない傾向にあるからである。この点について、レイチェルズは、英語の「life」という語の意味に関する独自の分析とからめて次のように説明している(Rachels [1986:24-7=1991:45-9])。
 生命が神聖だとする主張は、「life」に価値を置き、これを守るべきだとする。さてしかし、英語の「life」にはじつは二つの意味がある。レイチェルズは一つを生物学的生(biological life)、もう一つを伝記的生(bibliographical life)と呼んで両者の区別を明瞭にする。まず前者は、死んでいるものや非生物と対をなす概念で、生きているものや生物のことを指す。ここには人間だけでなく、チンパンジーや虫や草木が含まれる。
 後者の伝記的生が指すのは人の履歴や性格にまつわる事実である。例えば(これはレイチェルズの挙げている例だが)チェスの棋士だったボビー・フィッシャー(Bobby Fischer)の生(life)にまつわる事実というとき、そこに含まれるのはフィッシャーが一九四三生年まれであること、十四歳のとき全米王者となったこと、一九七二年に世界王者となった後は死ぬまで隠遁生活を送ったことなどである。
 レイチェルズによればそれ自体に価値があり守られるべき生命とは、人の伝記的生である。あるいは、個人がそれぞれ伝記的生の主体であるという事実のために有する利益にこそ価値があり、これが守られなければならない★02。ところが生命が神聖だとする伝統は、ただ生きているということそれ自体、つまり生物学的生のほうに価値をみている。ここに間違いがあるという。
 なぜ守るべきは生物学的生ではなく、伝記的生なのか。レイチェルズによればこれは単純(simple)だが異論の余地を残さない(conclusive)しかたで論証することができる。すなわち、現に生きている本人の視点に立って考えたとき、自分が生物学的に生きているという事実は、伝記的生の主体として生きるためにそれが不可欠であるという一点を除けば、それ自体として何も重要なところがないのである。ここでの議論はさきにみたグラバーの論証と基本的に同じ内容である。レイチェルズは、今すぐ死ぬことと、いますぐ完全に意識を失ったまま回復することなく十年後に死ぬこととを比べてみればよいという。これら二つの選択肢の間に重要な違いは存在しない。どちらにしても本人にとってはこのさき意識が永久に失われたままでしかないからである。
 そこでレイチェルズは、現に生きている本人の視点で考える限り、ただ生きていることはそれ自体としてまったく重要なことではないと結論する。とくに意識が伴わなければ、生きているか死んでいるかはそれ自体として重要なことではありえない。生きていることに価値があるとすれば、それはただ、我々が人生や利益の主体であるために生きていることが不可欠であるからにすぎない。ところが生命が神聖だとする伝統はこの点を理解していない。意識のない人は人生の主体でありえないにもかかわらず、そんな生命でも破壊してはならないことがあるとする。そこで伝統的な原則は誤りであると結論される。
 レイチェルズの論はグラバーの論と共通する点が多い。第一に、グラバーとレイチェルズは、生命は神聖だとする主張が現に生きている主体にとっての利益を軽視する傾向にあると指摘する。第二に、そうした傾向を批判するなかで、生命の価値は、現に生きている人の主観に即して理解されるべきだと結論するに至る。言い換えれば、生命の価値を決めるのは、大部分、その生命の主体にとって生きていることが利益であるか否かである。したがって、生きている当人の利益にならない生命は破壊してもよい。この結論が、与益の価値に訴えて安楽死を正当化するタイプの議論の基礎にある。

■4 生命の神聖さ批判(3)(シンガークーゼ
 やはり大筋で同様の論が展開された例として、最後にピーター・シンガーとヘルガ・クーゼの論文を紹介する。
 グラバーとレイチェルズはどちらも生命は神聖だとする主張が様々な解釈を許すと言った。かれらによれば神聖で決して破壊されるべきでないとされる生命は、ときに人間だけでなく他の動物や植物を含む場合があるという(グラバーはこの考え方をバイタリズムとよび、レイチェルズはそれを東洋的だと述べた)。これに対しシンガーとクーゼは、共著を含む複数の論考のなかで、生命の神聖さという概念がときにむしろ人間だけを特別扱いすることを強調し、この点をとくに批判してきた。すなわちかれらによれば、生命が神聖であるとする主張は、まず、(1)人間だけが他の動物と比べて特別に優れた価値をもち、また(2)人間の生命に関する限り、状態や質によらずすべて等しく価値があるから破壊されるべきではないとする考えを表現している。(すでにここまでに紹介した解釈だけでもかなりある。異同も含めてあらためて次の項で整理してあるので参照していただきたい。)
 (1)と(2)は、互いに無関係ではないが、別々の主張である。とくに(1)を批判した文献としてシンガーの著書(Singer[2002=2007]、中の"Unsanctifying Human Life"はpp.85-107)がある。
 シンガーによれば、現実に人々はすべての生命が神聖であるとは考えていない。少なくとも医学倫理が議論される文脈では、神聖とされているのはあくまで人間の生命だけである。とくに人間の生命とそれ以外の生命との間の違いは、たんなる程度の差ではなく、質的なものと理解されているという。このことをシンガーは実例を引いて示している。
 ダウン症の児は生まれるときに合併症を伴うことが稀でない。アメリカでは、治療しなければ命に関わる腸閉塞をもって生まれたダウン症児の母親が、治療に同意しなかったため、地域の児童福祉団体が裁判所の命令をとりつけて手術を強制したことがあった。児は救われたが、ダウン症からくる知的障害に加え、同時に併発していた心疾患に由来する重度の身体障害が残ったという。
 この事例をシンガーはやはりアメリカのミシガン大学で行われた動物実験と対比する。実験では、様々な薬品の使用に伴う中毒症状についてデータを集めるため、六十四匹の猿に多量の薬品が投与された。モルフィネに中毒した三匹の猿がひきつけをおこしながら死んでいった。コカインを多量に投与された猿は自らの手先や足指を食いちぎりながら死んでいくのが観察されたという。
 児童福祉団体は、知的に障害のある人の児を一人延命するために努力を惜しまないが、研究者は多くの猿が長時間苦しみながら死んでいくのを淡々と観察する。これらの態度を比べれば、特別に価値があるとみなされているのが人間の生命だけであることは明らかだとシンガーは言う(Singer [2002b:218-9=2007:88-9])。
 シンガーは、人間の生命をその他の生命からこのように峻別する態度を批判して、次の有名な議論を展開している(Singer [2002b:219=2007:90])。シンガーによれば、AとB二つの存在を違う仕方で扱うことが倫理的に正当化できるのは、AとBがそれ相応の仕方で違っているときだけである。例えば私たちは自分の子どもに本を読むことを教えるが、犬の子には読書を教えない。この扱いの違いは倫理的に正当化することが可能である。人は読書から利益をえることができるが、犬はそのような能力をそなえていないという点で人と異なるからである。他方、特定の人種の子どもにだけ本を読ませ、他の人種の子どもから読書の機会を奪うことは正当化できない。人種間の違いは、読書から利益をえられるかどうかと関わらないからである。
 シンガーによれば、知的に障害のある人の子を病気から救う一方で、猿を実験に供して苦しめたり殺したりすることは倫理的に正当化できない。第一に、事実として、知的に障害のある人間は、猿を含むいくつかの動物と比べたとき、様々な能力において同等かあるいは劣っていることがある。例えば痛みを知覚する、意図をもって行動する、問題を解決する、他者と意思疎通する、時間を経て存続する自己を意識する、他者を気づかう、好奇心をもつ。こうしたふるまいをするうえで、少なくともいくつかの種類の動物が、知的に障害のある人と同等かそれ以上の能力を有する。そこで、治療したり実験台にしたりすることで前者が得たり失ったりする利益は、後者の場合と変わらないかむしろより大きいことがあると考えられる。
 また第二に、知的に障害のある人の児と猿とでは、私たちと同じ種に属するかどうかという点ではたしかに違う。しかしこの違いはそれ自体、両者に対する私たちの扱いの違いを正当化しないという。人間がただ人間であるというだけで他の動物と比べてより高い価値を有するとする見方は、ときに種差別(spiecesism)と呼ばれる。
 シンガーだけでなく、グラバーやレイチェルズも含め、種差別を倫理的に正当化できないものと考える研究者は少なくない。種差別の不正は、それが人種差別と同じ構造をもつことから明らかだとされる。すなわち、もし仮に二つの生物個体がただそれぞれ異なる種に属するからというだけで、両者を差別することが正当化できるとすれば、特定の人種に属する人々が自分たちと異なる人種に属する人々を(ただかれらが自分たちとは異なる人種に属するというだけで)差別することも正当化できるようにみえる。したがって、仮に人種差別が許されないとすれば、種差別も同じ理由から許されないはずである(Glover [1977:50]; Rachels [1986:72]; Singer [1993])。シンガーによれば、人の生命が神聖だとする主張の核には、種の違いにのみ基づき、それ以外の根拠をまったくもたない差別がある。生命が神聖であるとする主張は、人間だけを他の動物から区別して特別視する一方で、人間に関する限りは全員を同じだけ価値あるものとみなすという。シンガーはまずこれが倫理的に正当化できないと結論している(Singer [2002b:222=2007:93])。
 さて述べたとおり、シンガーによれば、生命が神聖であるとする主張は人間だけを他の動物から区別して特別視する一方で、人間に関する限りは全員を同じだけ価値あるものとみなすという。生命の神聖さを構成するこの第二の要素を批判する議論は、シンガーがかつてオーストラリアのモナシュ大学で教えていたころの同僚であるヘルガ・クーゼとの共著論文(Kuhse & Singer [2002])で展開されている。
 人である限り全員等しく価値があり破壊されてはならないとする主張をはっきり打ち出した例として、プロテスタントの神学者ポール・ラムゼーの論考がある。クーゼとシンガーは批判の対象としてラムゼーの文章を引用する。ここでラムゼーは、テイ・サックス病を患う児の生命の価値について検討している。テイ・サックス病は致死性の遺伝病である。生後約六ヶ月の間は健常児と同様に発育するが、その後は視覚・聴覚を失うなど様々の症状に襲われ、ほぼ確実に五年のうちに死亡するとされる。これまで治療法は確立していない。ラムジーは次のように述べている。

 宗教的観点に立てば、そのような六ヶ月が、二度と元通りにはならない老衰が開始するまで七十年生きることよりも、神からみて低い価値しかない生だという理由はどこにもない。…私たちの日々や年月は、その帰結がどうであれ、すべて同じだけ価値がある。ある時点における死が他の時点と比べてより悲劇的であるなどということは決してない。(Ramsey[1978:191]、Kuhse & Singer [2002:235]に引用)

 つまりラムジーは、人の状態がどうであるかによってその人の生命の価値が変わることはないと言う。クーゼとシンガーは、ラムジーのここでの主張が、生命の質(quality of life)に関する評価に基づいて人の扱いを変えるべきでないということにあると理解し、この主張を批判する。
 クーゼとシンガーによれば、臨床で、患者の生命の質や状態をまったく考慮せずに治療に関する判断がなされることは、事実としてありえない。倫理的に考えてもこれはそうでなければならない。臨床で倫理的に正しく判断するためには、患者の生命の質を評価することはむしろ不可欠であるという。クーゼとシンガーがこう主張する根拠にあるのは、患者本人の利益に対する配慮の重要さである。仮に人の生命が質や状態にかかわらず常に破壊されるべきでないとすれば、たとえそうすることが本人の利益を著しく損なうとしても患者は常に生き続けなければならない。クーゼとシンガーによればこの結論は明らかに誤りであり、その含意するところはときにグロテスクでさえある。
 例えば表皮水泡症のように大きな苦痛を伴う病がある。表皮水泡症を患う患者は、からだ中にできる水ぶくれに苛まれる。全身の皮膚だけでなく、口の中、食道の表面にまで傷ができる。症状の程度には個人差があるが、多くの患者は治療しても発症から二年以内に死亡するという。クーゼとシンガーは表皮水頭症をもって生まれた女児の実例を次のように描いている。

 ステファニーは二ヵ月間生きた。この二ヵ月で彼女は多くを耐えた。腸閉塞を取り除くために手術を受けたにもかかわらず、口から十分な栄養をとれず、点滴で栄養を与えられなければならなかった。傷ついた皮膚から体液が染み出し、水分補給と栄養補給は安定しなかった。からだの外側の皮膚と同じように内側の皮膚も剥けてしまうため、吸引や挿管も難しい。ひとびとは彼女のことをくりかえし「やけどの犠牲者」だと、つまり毎日熱くほてるやけどの犠牲者だといった。ステファニーはワセリンに浸した包帯にくるまれて、顔の近くにおいてあるマスクをとおし酸素が与えられ、痛みをやわらげるためのモルフィネと、量の多すぎるモルフィネの影響を打ち消すためのナルカンというもう一つの薬が与えられた。/しかし、多量のモルフィネ投与にもかかわらず、ステファニーは依然として不快感と苦痛を経験した(Kuhse & Singer [2002:234])。

 この患者にとって生き続けることは負担である。仮に喜びや幸せを覚える瞬間があるとして、苦痛を埋め合わせることはありえない。クーゼとシンガーによれば、生命が神聖だとする主張が受け入れがたいのは、それがステファニーのような患者にも生き続けることを強いるからである。
 シンガーとクーゼもまた、グラバーやレイチェルズと同じように、生命の神聖さという概念が患者の利益を省みない傾向にあることを強調し、この点を集中的に批判した。かれらによれば、患者の生死に関わる臨床上の判断は、患者の主観的視点から捉えられた利益に叶うものでなければならない。ここで重視されているのは与益の価値である。生命の破壊が生きている当人の利益を損なう場合、このことは生命の破壊を倫理的に望ましくないことと考える理由を構成する。反対に、生命の破壊が生きている本人の利益を損なわないかまたは本人の利益に叶う場合、このことは生命の破壊を倫理的に許容できることあるいはむしろ望ましいことと考える理由になる。こうして、生命の神聖さに対する大きな批判の一つは、安楽死を積極的に支持する議論のうちとくに与益の価値に訴えるタイプの論と結びついている。

■5 生命は神聖であるという主張の曖昧さについて(2)
 生命が神聖だとする主張は曖昧である。誰が主張するかあるいはまた誰が解釈するかによって、それは様々に異なる内容の主張でありうる。生命の神聖さという概念を用いて道徳を論じるにあたっては、このことを踏まえておく必要がある。ここではまずこれまでに紹介した解釈を整理する。その後、さらにその他の解釈の可能性についてもいくつか紹介しよう。ここまでに紹介した解釈は次の七つである。(以下〈 〉内にはそのような解釈が可能であると述べた研究者の名を入れた。)

 @ 植物や動物を含むすべての生命は常に破壊されてはならない[バイタリズム]
 A すべての人間の生命は、例外なく常に破壊されてはならない[完全平和主義]
 B 罪のない人間を意図的に殺すことは常に許されない[殺人に関するキリスト教の伝統的な倫理原則]〈レイチェルズ
 C 人間の生命には、ただそれが人間の生命であるというだけの理由で、他の動物や植物の生命より大きな価値がある[種差別]
 D すべての人間の生命は、その質や状態にかかわらず常に等しく特別な価値を有する(したがってそれを破壊することには常に大きな倫理的問題が伴う)[人の生死に関わる判断をQOLの評価に基づいて下すことの否定]〈クーゼとシンガー〉
 E 生命を破壊することに大きな倫理的問題が伴う理由の一部は、ただそれが生命であるというだけのことにある(たとえ死ぬことが本人の利益を損なったり本人が生き続けたいと思っていたりしなくても、生命の破壊は不正でありうる)[生命の破壊は本来的に不正であるとする主張]〈グラバー〉
 F 生命を破壊することに大きな倫理的問題が伴う理由の一部は、生きている主体に直接に関わる(たとえ家族が悲しんだり社会が損失を被ったりするなどといった第三者への悪影響がまったくなくても、生命の破壊は不正でありうる)[生命の破壊は直接的に不正であるとする主張]〈グラバー〉

 @とAはどちらも人の生命がすべて常に破壊されるべきではないとしているから、安楽死が倫理的に許容できるとする考えとはおよそ相いれない。B〜Eも、倫理的是非が争われる様々のタイプの安楽死事例について、常に許されないか少なくとも倫理的に重大な問題を伴うとみなすはずである。
 最後のFはグラバーが示した三つの解釈のうちの第二である。この解釈に従えば、生命が神聖であることは安楽死の倫理的妥当性を支持することにほぼ差し支えない。とくに、本人が死にたいと希望している場合や、死ぬことが本人の利益に叶うことの明らかな場合の安楽死を倫理的に許容できると考えることと矛盾しない。
 F以外の六つについては、それぞれに関してすでに強力な批判が提出されてきている。@のバイタリズムは、例えば抗生物質を飲むことさえ許容しないといった極端な結論を導く。Aの平和主義は、正当防衛による殺人など、今日たいていの人が例外的に許容できるとみなす殺人を許容できない点に問題があるとされる。Cの種差別は、人種差別が妥当でないのと同じ理由から、妥当でないとされる。
 BとDとEについては、一般に神聖だとされる生命を現に生きている本人の利益を省みない傾向にあることが問題視されてきた。例えばさきにみた表皮水痘症患者のステファニーの場合、一見して生き続けることは本人の利益を著しく損なうように思われる。Bはこのような患者でも意図的に殺すことは常に許されないという。Dは生き続けることが患者の利益を損なうかどうかは患者が生き続けるべきかどうか判断する際して一切考慮されるべきでないという。Eは、たとえ延命が本人の利益を著しく損なうとしても本人が今生きている限り患者を殺すことはあくまで重大な倫理的問題を伴うという。これらの結論がそれぞれ受け入れ難く思われるなら、B・D・Eの主張を擁護するのは容易ではない。(とくにBのキリスト教倫理の原則とされる主張については他にも様々な批判がある。とくにこの原則が「殺すこと」と「死なせること」、「意図されている帰結」と「たんに予見されているにすぎない帰結」などといった区別に倫理的に重要な意義を見いだしている点に関する批判は、次節6で取り上げる。)
 生命は神聖であるとする主張についてここに示した六つの解釈のうちいずれかを弁護したい人は、これらの強力な批判に応える必要がある★03。
 本節の残りでは、さきに挙げた以外の解釈の可能性としてさらに二つ紹介しておく。これらはいずれも、@からEと比べると生命の破壊を許容する度合が高い。様々のタイプの安楽死が倫理的に許されると考えることと矛盾しない。

 G 患者の生死に関わる判断を下す際、患者以外の誰かが被るかもしれない負担や、患者の生命の社会的価値を考慮してはならない。ただ一つ考慮すべきは患者本人の利益だけであり、その他の人の利益や負担は一切考慮されるべきではない。
 H 基本的に生命は維持する方がよいと考えられているべきであり、状況を注意深く検討し、正当化のための議論が尽くされたあとでなければ生命を破壊してはならない。

 Gはエドワード・カイザーリンクによる解釈である(Keyserlink [1983=1988])。これについては二つコメントしておこう。第一に、カイザーリンクによれば、人の生命を神聖とみなすことは、QOL評価や本人の利益を考慮して人の生死に関わる決定を下すことと矛盾しない。この点でGの主張はDの主張(クーゼとシンガーによる解釈)と対照的であり、相いれない。
 第二に、カイザーリンクによれば、人の生命を神聖とみなすことは、人の生死に関わる決定を下す際にその人の家族やその人を含む社会など第三者にとっての利益や負担を考慮することと相いれない。Gの主張はこの点では、グラバーによる第二の解釈(F)と比較するとよい。グラバーは人の生命を奪うことが直接的に不正であると言う。すなわち、人の生命を奪うことの正・不正は、そのことが周囲の人々や社会に間接的に及ぼす影響の善し悪しによってのみ決まることではないという。カイザーリンクの主張はこれをさらに強めたものとして理解できる。つまりカイザーリンクによれば、人の生命を奪うことの正・不正は、周囲に及ぶ間接的な影響の善し悪しにまったく依存しない。あくまで生命を奪われる本人への直接的な影響によってのみ決まることであるとされる。
 次節8では、病人にはときとして周囲の人々の利益のために死ぬ義務があるとする主張を検討するが、カイザーリンクの構想する生命の神聖さは、その真を擁護することが可能かどうかは措くとして、この問題を考えるときにあらためて思いかえせば示唆深いものがあるはずである。すなわちGには、場合によって人には家族や社会の負担を減らすために死ぬ義務が生じるとする一見して明らかに極端で受け入れがたい結論をまえもって排除しておく効果がある。F(グラバーの第二の解釈)には同じ結論を排除する効果はない。その点で、GはFと比べると安楽死が許容される度合を低く設定する(つまりGほど許容範囲が広くない)。
 最後に、Hはジェイムズ・キーナンによる解釈である(Keenan [1996:11])。キーナンの言う生命の神聖さは、考えうる限りおそらく最も生命の破壊を許容する度合が高い。キーナンによれば生命が神聖であるという表現の役割は、なされてはならない行為や踏み越えてはならない領域をはっきりと特定することではなく、生死に関わる判断を下す際に誰もが備えておくべき基本的な心持や態度を明らかにすることであるにすぎない。生命の維持に大きな価値のあることがきちんと了解されていれば、様々な状況のもとで注意深く検討したすえに至る結論が生命の破壊を承認するものであっても、そのことは生命が神聖であると考えることと矛盾しない。(キーナンによれば生命の神聖さに関するこうした解釈は、アメリカの生命倫理研究機関ヘイスティングス・センターが作成した終末期医療の倫理に関するガイドライン(Hastings Center [1987])のなかにもみられるという。)
 生命にはなにか特別な価値があり、生命の破壊は大きな倫理的問題を伴うとする感覚は、多くの人の共有するところだろう。生命の価値に対するこうした感覚はよく生命は神聖であるという言葉で表現されてきた。同じ表現は安楽死の倫理に関する議論にもたびたび現れる。しかしこれは曖昧であり、様々な解釈を許す表現である。その多くの解釈については主張として擁護することを難しくするような批判もすでになされてきた。なかでも本節ではとくに功利主義を標榜する研究者らによる批判、すなわち生命が神聖だとする主張は生きている主体の利益を省みないとする趣旨の批判を主として紹介した。

■第2節 与益

 前節では生命が神聖であるとする主張に対する主な批判を整理した。生命がなんらかの意味で神聖であり特別な価値をもつとすれば、生命を破壊する安楽死という行為は一見して倫理的に許容しがたく思われる。安楽死の倫理的正当性を支持する研究者はこうした見方をくつがえすために努力してきた。その議論は、これらの研究者にとっては自らの立場に対する批判を鎮めるためのいわば守りの議論である。
 これに対し、本節では、同じ立場の研究者らが展開してきた攻めの議論を紹介する。なかでも、死んでいく人の利益に訴えて安楽死を積極的に擁護するタイプの論に焦点を当てる。安楽死をほどこすことは、苦しむ病人やその家族にとって最善の利益でありうる。安楽死がときに倫理的に正当化できるのはこのためだとされる。ここではこうした論を与益の価値に訴える議論と呼ぶ。
 さきにみたグラバーやレイチェルズ、またシンガーとクーゼは、いずれも、生命の神聖さを否定する結果として、患者の生死に関わる臨床判断が患者の利益に叶うものでなければならないと主張するに至った。この主張に従えば、患者の利益に叶うなら安楽死も正当化できると考えられるかもしれない。実際にこれらの研究者はいずれも安楽死の是非について大筋そのように主張している。
 与益の価値に訴えて安楽死を正当化しようとする人が、与益以外の価値にも同時に訴えることは可能である。しかし以下では主として最終的に与益の価値にのみ訴えるタイプの議論を展開してきた功利主義者による安楽死擁護論を紹介する。安楽死の是非に関する倫理学上の論争が言及する重要な概念や論理を理解するうえで、功利主義者による一連の議論を理解することがとくに有効と思われる。(ただし与益以外の価値に同時に訴えるタイプの議論の可能性についても本節の終わりで言及する。)
 1ではまず、議論の前提に功利主義があることを明らかにして定式化されたレイチェルズによる安楽死擁護論から紹介する。

■1 功利性の原則と安楽死(レイチェルズ
 レイチェルズ(Rachels [1986=1991]、Chapter 9 "The Morality of Euthanasia "「安楽死の道徳性」)によれば、倫理的に言って安楽死がときに許容できることはまず適当な具体的事例を考えてみれば直観的に明らかである。レイチェルズが示すのはジャックと呼ばれる男の事例である。

 ジャックは二十八歳くらいの風采のよい男で勇敢だった。彼は持続的な痛みにさらされており、主治医は彼に四時間おきに合成阿片系麻酔剤――痛み止めあるいは鎮痛剤――を静脈注射するよう処方していた。彼の妻は昼間の時間の多くを彼に付き添って過ごした。…夜の帳が下りると、痛みは容赦なく彼を襲うことになるのだった。指示された時間になると、看護婦が合成鎮痛剤の注射をしにやってくる。そしてこの処置はたぶん二時間かそこら痛みを抑えることになった。それから彼はまるで私を起こさないよう気を使っているかのように非常に低く、うめき声あるいは啜り泣く声を立て始める。ついで彼は、まるで犬のように吠え始めるのだった。
 こうなると彼か私かがベルを鳴らして看護婦を呼び、鎮痛剤を頼むのだ。彼女は彼にコデインかその類の経口剤を与えるが、それが本当に効いたためしはなかった――たった今腕を骨折した男に半錠のアスピリンが聞かないのとまったく同じように彼には効かなかったのだ。いつも看護婦は、できる限り励ますような仕方で、もう少しで次の注射の時間になりますよと説明するのだった――「さあ、あとほんの五十分ばかりの辛抱ですよ」。そしていつもあわれなジャックの啜り泣きと吠え声は、ついにありがたい救いがやってくるまで、ますます大きくますます絶え間無くなっていくのだった。…恐ろしい考えが私の頭に浮かんだ。「もしジャックが犬だったら、彼に何がなされただろう」と私は考えた。答えは明白だった、すなわち動物収容所に入れて、クロロフォルムだ。少しでも憐みを持ち合わせている人間なら、生き物を無益にあんなにも苦しませておけるはずがない。(Rachels[1986:153=1991:292-4]から孫引。引用元はAlsop[1974:69]。訳文はほぼ加茂直樹監訳書のままだが、一部省略し、また読点の位置を変えたところがある。)

 ジャックは治る見込みのない病におかされて、余命が短く、からだの痛みを薬で和らげることもできない。レイチェルズによればジャックのような患者の場合、安楽死が倫理的に許されることは直観的に明らかである。しかし、安楽死がときに倫理的に正当化できるという結論は(具体例について直観的に言えるだけでなく)前提を明らかに示しつつ一般的に論証することができるという。すなわち、
 1.もしもある行為が、関係者全員の最善の利益を増進する(promotes the best interests of everyone concerned)ならば、その行為は道徳的に容認可能である。
 2.少なくともいくつかのケースにおいて、安楽死は関係者全員の最善の利益を増進する。
 3.それゆえ安楽死は少なくともいくつかのケースにおいて道徳的に容認可能である。(Rachels [1986:156-7=1991:299])
 一つめの前提は、レイチェルズも示唆するように功利主義の基本原理である。ただし、これはここからさき重要となる点とも関わるのでふれておくと、出版されている邦訳は原文にあるeveryoneを「全員」と訳しているが、この語は「各人」と読む方が自然かもしれない。事実、レイチェルズは、次の段落でも紹介するとおり、ジャックの事例で安楽死が be in everyone's best interestsであることを強調しているが、ここでのeveryoneはおそらく「各人」を意味するとしか読めないだろう。さて、右の第一の前提でも「各人」と読んだ場合、これは功利性の原則そのものではなく、功利性の原則から演繹的に導くことのできる別の命題である。もちろん、正しい行為とは関係者各人の利益を最大化する行為であるとするこの命題を仮に第二の前提の位置にずらし、そのうえに第一の前提として功利性の原則そのもの(=正しい行為とは関係者の利益を「全体」として最大化する行為である)をおけば、やはり功利性の原則を出発点としつつ同じ結論に至る新しい論証を作ることができる。その場合しかし当然のことだが、関係者のうち一人の利益を犠牲にして全体の利益を最大化するタイプの安楽死も第一の前提により正当化されることになる。この点については8で患者の死ぬ義務の問題を検討するときに戻ってきたい。
 二つめの前提は、とくに安楽死という行為に注目し、安楽死が関係者の各人にとっての最善の利益を実現する場合があるとする。レイチェルズによればさきのジャックの例はまさにそのような場合である。まずジャックは、安楽死を行えばこれ以上苦しまずにすむ。ジャックの妻もこれ以上ジャックの苦しむ姿を見なくてすむ。また、ジャックが早く亡くなれば、その分医療資源が節約できるから、他の患者にとっても益がある(Rachels [1986:157=1991:299-300])。そこでレイチェルズによれば、ジャックのような例では安楽死が許されると結論できる。
 レイチェルズの論証は、功利主義を前提として安楽死の倫理的妥当性を結論する議論の典型例だといえるだろう★04。以下、同様の議論が、すでに紹介したグラバーやシンガー含め多くの研究者によって展開されていることを確認する。またこうした議論に対する主要な批判を概観する。
 今みたレイチェルズの論は、ジャックの事例の詳細をみれば、主として積極的かつ任意的な安楽死を念頭において作られたものであることがわかる。しかしレイチェルズは、消極的安楽死や非任意的安楽死も含め、より一般に様々なタイプの安楽死が倫理的に正当化可能であると考えている(Rachels [1986:Ch2=1991:第二章])。他の功利主義者も同様である。功利主義を前提とする安楽死擁護論の適用範囲は広く理解されるべきである。次項以降では、功利主義者の論を任意的安楽死に関するものと非任意的安楽死に関するものとに分けて紹介する。
 まず、任意的安楽死が正当化できるとする議論の多くは、自殺が合理的であることを根拠とする。功利主義者の場合も、まず自殺の合理性あるいは倫理性を言いたてることから議論を開始することが多い。そのうえで、自殺が合理的あるいは倫理的であるなら、他人が様々な仕方で手を貸す安楽死や自殺幇助も倫理的であると結論される。本節2ではそうした立論のなされた代表例であるリチャード・ブラントの議論を詳しくみたあと、3では他の研究者による類似の議論をまとめて紹介する。
 4では非任意的安楽死に関する議論に移る。たいていの功利主義者にとって、本人が死にたいと希望していることは安楽死の正当化のために必須の条件とはみなされていない。意識不明の終末期患者や新生児など、意向の明らかでない人についても安楽死が正当化できる場合があるという。ここではそう主張するシンガーの議論を紹介する。
 功利主義を前提とする安楽死擁護論に対する批判には、主として次の三つがある。第一に、功利主義者が安楽死を倫理的に正当化できるというのは、基本的に、死ぬ本人にとって生きているよりも死んだ方がよいとされる場合である。ここでは、生きている状態と死んでいる状態について善し悪しを比較できることが前提になっている。この前提の妥当性がときに疑われる。
 第二に、安楽死の是非を論じる功利主義者は、安楽死という行為がもたらす帰結の善し悪しだけに注目する。言い換えれば、どのようにして患者の死がもたらされるか、実施に伴う手続きの違いは、安楽死の倫理性を左右しないと言う。このことが安楽死の倫理に関する人々の一般的な感覚からかけ離れているとして問題視されてきた。
 第三に、レイチェルズも示唆したように、安楽死はときとして死ぬ本人だけでなく周囲の人々の利益にも関わる。行為の是非は行為の帰結の善し悪しによってのみ決まるとする功利主義の前提にのっとって考えれば、一見する限り、安楽死が全体の利益を最大化するなら、たとえ本人が生き続けたいと希望していても希望に反して安楽死を行うべきだと結論しなくてはならないようにみえる。すなわち、功利主義はときに反任意的安楽死を正当化するようにみえる。この点も功利主義を前提とする安楽死擁護論が抱える欠点として指摘されてきた。これらの批判については、第一の批判を5で、第二の批判を6で、第三の批判を7で、功利主義者による反論とともにそれぞれ詳しくみる。
 次項へ移る前に、とくに第三の批判にレイチェルズがどう反論したかだけみておこう。(レイチェルズには第二の批判についても有名な反論があるが、これは6で紹介する。)
 問題になっているのは、その人は死んだ方が本人のためであるだけでなく同時に他の皆のためにもなるような悲惨な状態の病人が、それでも延命を希望する場合である。功利性の原理を前提とすると、私たちには関係者の利益を最大化する義務があるから、この患者は本人の意向に反して殺したり死なせたりするべきであるという結論が導かれる。しかし、ほとんどすべての人がこうした反任意的安楽死は倫理的に許されないと考えるだろう。そこで、功利性の原理を前提とする安楽死擁護論はこのような明らかに受けいれがたい結論を導くから誤りであると批判される。
 これに対してレイチェルズは、「利益」や「幸福」という語を注意深く定義すれば批判をかわすことができるという(Rachels [1986:156=1991:298])。一般に、功利性の原理は関係者の利益を最大化する行為を義務とするが、ここで言う利益が正確に何を意味するかについて功利主義者たちの意見は統一されていない。たいていの功利主義者は、快楽説と欲求説と呼ばれる二つの説のどちらかを採用する。快楽説(hedonism)は、利益を、快楽や安心や満足などの陽性の精神状態が実現すること、または苦痛や不安や落胆などの陰性の精神状態が取り除かれることと同一視する。欲求説(desire theory)によれば、利益とは、欲求されたことがらや選好の対象が実現することであると定義される。
 レイチェルズによると、悲惨な状態にあるにもかかわらず生き続けたいと希望する人について功利性の原理が反任意的安楽死を推奨するようにみえるとすれば、それは功利性の原理に言われる「利益」の意味が快楽説に従って理解されているからに他ならない。悲惨な状態にある人を殺せば、本人や周囲の人は苦痛や不安から解放される。そこで快楽説に従えば、本人の意向がどうであれ、このとき関係者の利益は増大すると考えられるだろう。しかし欲求説を採用すればこのように考えることはできない。欲求説に従えば、利益とは欲求が成就することである。したがってレイチェルズによれば、たとえ容態が悲惨でも、本人が生きたいと言うなら、生かすことこそ利益の増大につながるはずである。生きたいという人を殺すことがその人の利益に叶うという結論は、「利益」という語の定義上ありえない。(レイチェルズは、陽性の精神状態のことを「幸福」、欲求が実現することを「利益」と呼んで両者を区別するが、こうした語法は功利主義者の間でも一般的とは思われないので踏襲しなかった。)
 ひとことでいえばレイチェルズは、「利益」の定義に関して快楽説をしりぞけ、欲求説を採用すればさきにみた第三の批判はかわすことができるという。しかし、実はレイチェルズのこの応えはおよそ成功しているといいがたい理由がある。やはり欲求説を採用しているリチャード・ブラントの議論を次項で紹介する際今みたレイチェルズの論の是非について少し検討してみることにしよう。

■2 自殺から安楽死まで(ブラント)
 Brandt [1992b]は、功利主義を前提として自殺の是非について扱った論文である。ブラントによれば自殺は本人の最善の利益を実現することがある。そのとき自殺は合理的であり、倫理的にも許容できる。さらにその場合、周囲の人にとっては自殺を手伝うのが倫理的なことであるという。
 ブラントによると、自殺するかどうかを選ぶということは、これからの世界の成り行きに関する複数の可能性から一つを選ぶことである。自殺すれば、世界から自分が消えるため、世界はそれだけ変化する。自殺しなければ、それとは異なる世界の成り行きが現れる。自殺するべきかどうかを考えるとは、このうちどちらの世界を選ぶことが自分にとって善いかを考えることに他ならない。
 正確にいうと、ここでの問題は、これら二つの世界のうち純粋に今の自分がどちらをより好ましく思うかではない。今の自分はこれ以上生きても善いことはないから死んだ方がましだと思っているかもしれないが、しかし実際に生き続けてみると、思いがけず善いことが起こるかもしれない。また、今は何事にも魅力を覚えないとしても、すこしすれば新しい目標がみえたり欲求が湧いたりするかもしれない。こうした将来の可能性やそこで自分が抱くかもしれない欲求の内容を考慮せず、純粋に今の自分のなかに現実にある欲求だけに従って選択することは、結局のところ自分の利益を損なう可能性がある。
 つまり、仮に生き続けたとすれば起こりうる出来事や将来の自分に生じるかもしれない欲求についても、わかりうる範囲ですべて勘案することが肝要である。その結果、たんに生き続けることより死ぬことの方を今の自分が好ましく思うというだけでなく、仮に生き続けたとしてこれから先の自分は生きることより死ぬことの方を常に好ましく思うであろうことに疑いの余地がなければ、そのときは自殺するべきである。そこでブラントによれば、例えば愛する人を失った時、長い間目標としてきたことがもはや決して実現しえないと知れた時、老いのために衰えがきた時、末期の病に堪えがたい激痛が伴う時など、実際に自殺の合理的な場合があるという。
 さて、ブラントはこうして自殺がときに合理的であることを示したわけだが、さらにブラントによればその場合、この自殺を手伝うことは周囲の人にとって倫理的であることがあるという。本人にとって自殺が合理的であるときに周囲にとって自殺幇助が倫理的であると言えるための条件をブラントは三つ指摘する。まず、本人が自殺を決意していることである。次に、この決意が正しい(情報不足や誤判断によるものではない)と明らかに言えることである。最後に、死ぬために本人が周囲の助けを必要としていることである。これらの条件がそろえば、周囲の人には自殺を助ける義務がある。例えば人が死ぬために薬を必要としているなら医師にはそれを与える特別な義務があるとブラントは主張する。
 ブラントの議論の特徴を二つ指摘しておこう。第一に、自殺の合理性から自殺幇助の倫理性を導くブラントの議論は、一貫して与益の価値に訴えるものとみなすことができる。ブラントは自殺幇助が倫理的であると言えるための条件として、本人が決意していることを挙げている。これは一見すると与益と関わりのない点のようにみえるかもしれない。しかし、さきに述べたことからも明らかなとおり、ブラントにとって人の利益とは一般に、十分な情報に基づいてよく考えたうえで選んだことが成就することにある。そこで、人が十分な情報に基づきよく考えて自殺を決意したなら、自殺は本人の利益であることになる。したがって、本人の決意が正しいことを確かめてからでなければ周囲は自殺に手を貸すべきでないというブラントは、結局のところ自殺幇助は本人の利益に叶うことの確かな場合だけ正当化できると主張しているにすぎない。このように与益の価値に訴えて自殺の合理性から安楽死の倫理性を導く仕方はブラントに特有のものではない。同様に立論された例を次項でいくつかまとめて紹介する。
 ブラントの論にはもう一つ特徴がある。ブラントは「利益」の定義について前項でみた欲求説を採用しているといえる。しかしその議論は、人が実際に有している欲求や選好と、人が十分な情報に基づいてよく考えた時に有するはずの欲求や選好とを区別している。ブラントによれば、利益とはこのうちの前者でなく後者が成就することにある。現実の欲求や選好とこうしたいわば理想的な状況下で得られる欲求や選好との間になんらかの仕方で区別を設けることは、欲求説を採用する限りは必須と思われる。誤った情報に基づく選好や、いっときのひどい鬱にあるときの暗い欲求でさえ、成就しさえすれば常に本人の利益になるという考えは明らかに受け入れがたい(Cf. Brandt [1979])。
 レイチェルズは功利主義者も反任意的安楽死が常に不正であることを認めうると論じたが、レイチェルズのこの議論に誤りがあることは今述べたことからわかる。レイチェルズは、快楽説を排して欲求説を採用すれば、たとえ悲惨な状態にあっても本人が死にたくないと言っている限り、この人を殺すことは「利益」という語の定義上その利益に反すると言う。そこで反任意的安楽死は常に本人の利益に反すると言え、したがって功利性の原理に即して正当化することはできないと言う。しかしレイチェルズのこの議論で用いられているのは、なんであれ人が現実に有する欲求の成就することをすべてその人の利益と同一視するいわば粗雑な欲求説である。現実の欲求と理想的な欲求とを区別する洗練された欲求説を用いれば、こうは言えない。これは、悲惨な病状にあるにもかかわらず延命を希望する人が、自分のことを十分に理解していなかったりよく考えていなかったりする可能性があるからである。洗練された欲求説に従うと、よく考えさえすれば死にたくなるはずなのだが、よく考えていないので生き続けたいという患者にとって、安楽死は利益である。しかし本人はあくまで安楽死を拒否している。このような場合、(他の関係者にとっても安楽死が利益であると仮定すると)功利性の原理は反任意的安楽死を義務とするようにみえる。したがって、欲求説を採用すれば功利主義は反任意的安楽死を常に不正とみなすというレイチェルズの反論は成功しているとは言えないことが明らかである。(レイチェルズには反任意的安楽死が義務ではないことを結論するための議論がもう一つ別にあるが、こちらは8でみる。)

■3 任意的安楽死の倫理(グラバーレイチェルズ、マクマーン)
 ブラントは、一貫して与益の価値に訴えつつ、自殺の合理性から始めて安楽死の倫理性にまで説き及んだ。同様の立論が第1節に紹介したグラバーやレイチェルズにもある★05。またジェフ・マクマーンにも、やはり同じ趣旨でさらに徹底した議論がある。マクマーンは功利主義者とはいえないが、その議論を紹介することは、自殺の合理性さえ言えれば様々な種類の安楽死まで倫理的に正当化できるとするタイプの議論の適用範囲の広がりを理解するため、とくに有用と思われる。
 まずグラバーの議論をみてみよう。前節で紹介したとおり、グラバーは、人の生命を奪うことが直接的に不正なのは、それが生きるに値する幸福な生命であるときであるとした。そこでグラバーの考えに従うとすると、それが生きるに値しない不幸な生命で、また周囲への悪影響が懸念されないなら、その生命を奪うことは不正でない(Glover [1977:52])。
 自殺(自分の生命を奪うこと)についても同様に考えることができる。グラバーはとくに自分の生命の状態についてそれが生きるに値するかどうか判断するためのテストを一つ具体的に示している(Glover [1977:43-6])。自分の生命が生きるに値する状態にあるかどうか知りたければ、それを無意識の状態と比べてどちらがより好ましいか検討するとよい。例えば激痛の伴う外科手術を受けなければならないとしたら、たいていの人はそのあいだ全身麻酔を希望するだろう。そこで、病気を患って、そのような手術を麻酔なしで受けるのと同じくらい激しい痛みの伴う状態でこれからずっと生きていかなければならないとすれば、たいていの人はむしろこれからずっと意識を失ったままの状態でいることを希望するに違いない。しかし永久に意識の失われた状態とは、主観的な視点にとれば、死んだ状態と変わらない。したがってグラバーによれば、このような病気を患った生命は生きるに値しない。
 自分の生命が生きるに値しないうえに、自分が死んでも誰も悲しんだり生活に困窮したりしない(つまり悪影響を被る第三者は一人もいない)としよう。この場合グラバーによれば自殺は倫理的に正当化できる。
 またグラバーは、自殺が正当化できるとすれば、医師による自殺幇助(死にたいという病人に医師が致死薬を処方すること)もまた正当化できることがあるという。グラバーは自殺幇助が正当化できるための条件を二つ挙げている。第一に、他人の手を借りなくても独力で死ぬことができる人については、周囲が手を貸すことは許されない。必要もないのに助けを求める人は、本当は死ぬつもりのない可能性が高いからである。第二に、独力で自殺できない人についても、まず自殺するという本人の決意が揺るぎないことと、また合理的であること(つまり他人からみてもその人の命は生きるに値しないと思われること)を確かめてからでなければ、周囲は手を貸してはならない。しかしこれらの条件が満たされれば、自殺幇助は正当化できるとされる(Glover [1977:ch.13])。
 さらにグラバーによれば、自殺幇助が正当化できるなら原則として積極的安楽死(致死薬を投与するなどの積極的な行為によって人を殺すこと)まで正当化できるという。ただしここでは、自殺幇助で死ぬことができるなら、その方が積極的安楽死を行うよりも常に望ましいとされる。これは、自殺幇助では死ぬ前の最後の処置を本人がするが、積極的安楽死では医師がするからである。そのため積極的安楽死では、自殺するという本人の決意の揺るぎなさの疑われる余地が自殺幇助の場合と比べて大きい。また積極的安楽死の場合、例えば致死薬の投与される直前になって患者がやはり死ぬのはいやだと思い直したとしてももはや間に合わないといったことが起こりうる。しかしこれらは自殺が許されるなら積極的安楽死もまた許される場合のあることを妨げるものではないと言う(Glover [1977:ch.14])。
 レイチェルズは、やはり同じことをより簡潔に一般的な原則にたくして次のように述べている。すなわち、一般に、ある行為をしたりある状況をもたらしたりすることが許されているならば、そのために他の人の自発的な助けに頼ることも、第三者の権利を侵害しない限り、許される。レイチェルズによれば、この原則が正しいため、仮に自殺が正当化できるなら、積極的安楽死も正当化できるという(Rachels 1986:86=1991:163])。これらはいずれも自殺の合理性から安楽死の倫理性へつなぐ立論の例として理解することができる。最後に、やはり同じタイプの立論だがより議論の徹底した例として、マクマーンの本から(McMahan [2002:458-463])紹介する。
 議論の出発点にある自殺の倫理性を言いたてるためのマクマーンの分析(McMahan [2002:463-485])は非常に入り組んでいるうえ、功利主義を前提としたものでないから、ここで詳しくは立ち入らない。以下では、自殺の合理性を前提として展開されるマクマーンの安楽死擁護論に限ってみていく。この前提にたったマクマーンの立論はあくまで与益の価値にのみ訴えるものとして理解することが可能であり、功利主義とも矛盾しない。そこで、さきにみてきた功利主義者による任意的安楽死擁護論の適用範囲の広がりの可能性を見極めるためにも、マクマーンの議論をみておくことが有益である。
 マクマーンの論は、ここまでにみてきたブラント、グラバー、レイチェルズの論と比べて、いくつかの意味でより徹底した論といえる。まず、ここまでにみてきた論者はいずれも、自殺幇助や積極的安楽死を独力では自殺できない人のための次善の策として理解していた。またとくに自殺幇助と積極的安楽死を比べても、後者は前者より他人の助けを借りる度合がさらに大きいので、なるべくなら避けた方がよいとされた。しかしマクマーンは、死ぬために他人の助けを借りることについて、必ずしもこうした否定的な見方をしていない。積極的安楽死や自殺幇助をもっと積極的に肯定する。
 また、ブラントやグラバーはこの文脈で消極的安楽死にはふれていない。対するマクマーンは、自殺の合理性さえ立証できれば、それを根拠としてすべての任意的安楽死(自殺幇助・任意的かつ消極的安楽死・任意的かつ積極的安楽死)が正当化できるという。これら二点に関してマクマーンの立論は他と比べたとき安楽死擁護論としてより包括的で徹底的だといえよう。
 さて、マクマーンの論は、自殺からまず自殺幇助へ、次に消極的安楽死へ、最後に積極的安楽死へと順に進む。まず第一に、マクマーンによれば、自殺が合理的であることを前提すると、自殺幇助はたんに倫理的に許される場合があるだけでなく、むしろ自殺より望ましいこともあるという。まず、マクマーンはさきにみたレイチェルズの「原則」がおおむね妥当であると言う。すなわち、例外がないわけではないが、たいていの場合、個人になんらかの行為が許されているなら、他人がそれを助けることも許される。当の行為が自殺であってもそれは変わらないという(McMahan [2002:458-9])。
 加えてマクマーンはさらに、ひとりで自殺するよりも誰かの手を借りた方が、様々な点でよいことがあるという。例えばひとりで死ぬのはたいてい寂しく、恐ろしいことだ。死に方がうまくないと必要以上に痛かったり、醜い死にざまを晒したりしかねない。それどころか失敗して死に切れなかったら、怪我や障害や不名誉を負ってそのあと生き続けなければならないかもしれない。適当な人に助けてもらえば、より安らかにかつ確実に死ぬことができるだろう。したがってマクマーンによれば、自殺幇助はむしろ自殺より望ましいことがある(McMahan [2002:459])。
 さて、こうして自殺幇助の倫理性が言えれば、第二に、任意的な消極的安楽死も倫理的に許されることが言えるとされる。マクマーンによれば、そもそも自殺が合理的でありしたがって倫理的にも許されると言えるとすると、それが例えば服毒による自殺なのか延命治療の拒否によるものなのかは問題にならないはずである。そこで自殺幇助についても、幇助する医師の役割がより具体的に致死薬を処方することにあるのかそれとも延命治療の取り外しを手伝うことにあるのかは、その倫理的妥当性を左右しない。さてしかし、このうち延命治療の停止を手伝うという後者の自殺幇助は、実際のところ消極的安楽死のことを指すといってよい。すなわち、前段で自殺幇助の倫理性が言いたてられた際、じつはすでに消極的安楽死の倫理性も同時に示し終えていたと考えることができる(McMahan [2002:459-460])。
 最後は任意的な積極的安楽死である。マクマーンによれば自殺幇助が正当化できれば場合により(消極的安楽死だけでなく)積極的安楽死も正当化できる。ここには論拠が二つある。第一に、具体的な行為をみた場合、自殺幇助と任意的な積極的安楽死の間にはときに僅かな違いしか存在しない。
 一九九七年アメリカで有罪判決を受けたジャック・キボーキアン(Jack Kivorkian)は主として自殺幇助を行っていた。キボーキアンは点滴の管の一端を依頼人の腕に注射針で固定し、もう一方の端を手製の器械につなぐ。器械に取り付けたスイッチを押すと致死薬の点滴が開始される仕組である。いつもは病人がスイッチを押した。こうしてキボーキアンはおよそ百人の自殺を助けたとされる。しかし一度キボーキアンは四肢の動かないALS患者から依頼を受けた。この時最後にスイッチを押したのは依頼人でなくキボーキアン自身だった。キボーキアンが関わった他のすべての事例は自殺幇助だが、ALS患者の依頼によるこの件だけは積極的安楽死の事例である。両者の違いは、スイッチを入れたのが患者かキボーキアンかの一点につきる。この違いだけのために、キボーキアンの関わった事例のうちALS患者の件だけが倫理的に異なる評価を受けるべきであるとは考えにくい。したがって、場合によって、自殺幇助が許されて積極的安楽死だけ許されないと考えることはむずかしいことがある(McMahan [2002:460])。
 自殺幇助の倫理性から積極的安楽死の倫理性を言いたてるマクマーンの根拠の二つめは、人の死ぬ権利に訴える。(権利の概念はときに功利主義と相いれないようにいわれることがあるが、実際必ずしもそうは考えられないことについて後述する。)ブラントやグラバーも想定していたとおり、死にたいと思う人のなかには自殺を幇助してもらうだけでは死ねない人がある。ちょうどさきにALS患者がそうだった。かれのような重度の病や障害をもつ人は自分の手足がうまく動かないので、死ぬためには他人によって積極的に殺してもらうしかない。そこで仮に自殺幇助だけ許されて積極的安楽死は許されないと決めたとすると、このような重度の病人や障害者だけが死ぬ権利を奪われることになる。例えば不治である、耐えがたい苦痛がある、死にたいと強く思っているなどの条件が同じであるにもかかわらず、一人は他人の手を借りるだけで自殺でき、もう一人は殺してもらうしか方法がないという二人の人がいた場合、前者にだけ死ぬ権利を与え後者に与えないのは不当な差別である。したがってマクマーンによれば、自殺幇助だけ認めて積極的安楽死を認めないことは正当化できない(McMahan [2002:460])。
 マクマーンは、自殺の合理性さえ言えればすべてのタイプの任意的安楽死も場合によって正当化できると主張した。功利主義に即して自殺の合理性を言いたてたブラントやグラバーの議論にこの主張を継ぎ足せば、すべての任意的安楽死について正当化のための議論を作ることができる。

■4 非任意的安楽死の倫理(シンガー
 ここまで何人かの代表的な功利主義者が任意的安楽死を擁護する仕方を概観してきた。かれらによれば人の死にたいという希望はときに合理的である。つまり、自分は死んだ方がよいと思う人の生命は実際に生きるに値しない場合がある。このとき、人は周囲に悪影響を及ぼさない限り自殺してもよいし、他人がそれに手を貸すことも倫理的に正当化できるという。
 以上の議論は、本人が死にたいと希望していることを前提とする。しかし功利主義者にとって、本人が死を希望していることは安楽死が正当化できるために必須の条件ではない。
 これは第一に、本人が死にたいと希望していることは、死ぬことが本人の利益になると言えるために必須の条件とみなされていないからである。例えば延命するのに治療を必要とする人が、意識レベルの低下や精神の混乱から、治療を希望するかどうかわからないとしよう。それでも、治療せずに死ぬことがこのような人の利益になると考えられる場合はあるかもしれない。
 グラバーは、意思疎通できない病状にある人を延命するべきかどうか判断に迷う場合、病人の生命が生きるに値するかどうかを他の人が代わりに評価するべきだと言う。このとき評価者は、グラバーによると、仮にその病人の立場に置かれたとして自分は死んだ方がよいと思うかどうかを指標とするべきである。評価者に固有の選好によって評価が偏らないようするため、事情をよく理解している第三者の意見をたくさん聞いたり、これまで同じような病状にある人が実際に自殺を希望した割合を参照したりするとよい。グラバーによればこうして注意深く検討した結果、病人の生命が生きるに値しないと思われ、かつ他の関係者に悪影響が及ばないことも確かなら、非任意的な安楽死が正当化できるという(Glover [1977:192-4])。
 功利主義者たちにとって本人の意向が安楽死の正当化にとって必須でない第二の理由は、生きるか死ぬか(あるいは生かすか死なすか)の選択が死ぬ本人の利益をそれほど大きく左右しない場合があるからである。具体的に考えられているのは主として障害のある新生児を対象とする安楽死である。すなわち、安楽死が新生児の利益をとくに増すとは考えられないが、かといってその利益を損なうとも言えずしかし同時に周囲の人々にとってはそれが多大の利益になることの明らかな場合があるとされる。その場合、新生児が死にたいと希望していなくても(つまり非任意的であっても)安楽死は正当化できるとみなされる。ここでもほぼ同じ趣旨の論をGlover [1977:158-162], Brandt [1978=1988], Brandt [1992c])など他の功利主義者の著作にみつけることは容易だが、とくに議論の展開の念入りなピーター・シンガー(Singer[1993=1999]、Chapter 7 "Taking Life:Humans"「生命を奪う――人」)を中心にみていくこととする。
 人の生き死にと関わる選択は通常その人の利益を大きく左右すると考えられている。これは少なくとも部分的には、人が一般に生きていたいあるいはときに死にたいといった欲求をもつからである。例えば生きたいという人の思いに反してその人を死なせたり殺したりすれば、その人の利益が大きく損なわれるのは明らかである。しかし生まれたばかりの児は、精神の構造が単純だから、生きていたいとか死にたいなどといった欲求を形成しない。そこでシンガーによれば、新生児を死なせたり殺したりすることは、成人を死なせたり殺したりすることと比べて、本人の利益をそれほど大きく左右しないと考えられる(Singer [1993:182=1999:218])。
 シンガーによればこの差は生きる権利の有無として理解できるという。生きていたいという欲求をもつことのできる成人には生きる権利があり、その欲求に反してその人を殺すことは権利の侵害である。シンガーは生きる権利のある存在を人格(person)と呼び、人間のなかでも人格とみなせない存在をヒト(homo sapience)と呼んで区別する。新生児は生きる権利のないヒトなので、生かすも殺すも児の権利には関わらない(Singer [1993:87,182=1999:218-9]、Cf. Tooley [1972])。いずれにしても、シンガーにとって新生児を殺すことは(その児に障害があるかないかにかかわらず)そもそも一般にそれほど大きな不正ではない。
 そこでシンガーによればとくに新生児の安楽死が正当化できるのは次のいずれかの場合である。第一は、その児のこれからの人生が全体としてより不幸であることが予想される場合である。すなわち、仮に児を生かすとしたとして、これからの人生でその児が経験する不幸が幸福を量で上まわるだろうと考えられるときである。しかし、その児だけみればこれからの人生で幸福が不幸を上まわる場合でも、第二に、他の人の人生も含めて考えたときにはむしろ安楽死を行った方が全体として幸福量が大きくなると予想されるなら、やはり安楽死を正当化できるという(Singer [1993:183-191=1999:219-229])。
 このうち第一の場合に関するシンガーの立論は、意思疎通できない成人の終末期患者について非任意的安楽死を正当化できるとしたグラバーのさきににみた論理とあまり変わらない。シンガーによれば、障害のある新生児は、障害の程度によるがとくに重度であれば、生き長らえても幸福であるよりむしろ不幸であることの明らかな場合がある。だとすれば、死んだ方が本人の利益に叶うというのである。そこで例えば第1節でみた表皮水痘症のステファニーの事例では、シンガーによると本人の死にたいという希望がなくても安楽死が正当化できる。
 しかし第二に、シンガーにとっても、障害があるとして例えば(シンガー自身の挙げる例によると)ダウン症血友病など程度の軽いと思われる場合には、その人生の全体を通して不幸が幸福を量で上回るはずとは言えない。しかしその場合でも、シンガーはときに非任意的安楽死が正当化しうると言う。シンガーが具体的に考えているのは次のような状況である。障害のある児を産んだ親は、その児とともに生きることになるならこれ以上また児をもうけるつもりはないが、その児が死ぬなら代わりにもう一人産もうと思うかもしれない。次の児も同じように障害をもって生まれてくる可能性がとくに高いわけでないとすれば、全体として考えたときに今生まれた障害児を生かすか死なすかでは後者の方が幸福量の増す可能性は高いと考えられるかもしれない。今いる軽度の障害児の人生(それはそれで全体として不幸であるよりはむしろ幸福な人生なのだが)と比べて、この児の代わりに生まれてくる健常児の人生はさらにより幸福である可能性が高いと考えられうるからである。だとすれば、ここでも安楽死が功利性の原理に基づいて正当化できると結論される★06。
 さて、今みたシンガーの最後の安楽死の例では、生き長らえたとすれば全体として幸福な人生を送るはずの児が殺されることになる。つまり、安楽死はここでは死ぬ本人の利益に反する。その点で、この事例は功利主義者たちがここまでに擁護できるとしてきた他の安楽死事例と、一線を画する。ここまでにみてきたのは、あくまで本人にとって死んだ方がよいと考えられる事例だった。しかし今みたのは、本人にとっては生きた方がよいにもかかわらず、その人が死ねば他の人(々)がもっと幸せに生きられる(あるいは他にもっと幸せな人が生まれる)から、安楽死を正当化できるとされる事例である。
 安楽死は死ぬ本人のためにならなくてもときとして正当化できる――たいていの人はこの主張を受け入れがたいと感じるだろう。しかし、関係者の利益を全体として最大化するべきだとする功利性の原理が真だとすれば、この結論は一見して避けがたくみえる。事実シンガーは新生児については生きる権利がないからとしてこの結論をそのまま受け入れている。さてしかし、より大きな問題は、では成人の場合はどうかという問題である。功利主義を前提すれば、とくに死ぬのが新生児でなくても、関係者の利益が全体として最大化する場合、本人の利益を損なう安楽死でも正当化されてしまうように思われる。実際のところ、シンガーはこの場合には功利主義者でも安楽死を正当化することはできないと述べているが。本当にそう言えるだろうか。7でこの問題にもういちど戻ってこよう。
 以上、功利主義を前提とする安楽死擁護論の主なものを概観してきた。これらの議論は消極的と積極的、任意的と非任意的を含む様々のタイプの安楽死が場合によって正当化できると結論する。本節の残りの項では、以上の擁護論に対する主要な批判を概観する。

■5 死と生の比較(フェルドマン)
 本節1で述べたとおり、功利主義者の安楽死擁護論に対する主な批判は三つある。
 第一の批判はこうだった。功利主義者が安楽死を正当化できるというのは、たいていの場合(つまり前項の終わりにみたシンガーの非任意的安楽死擁護論などごく一部の例外を除けば)、本人にとって生きているより死んだ方がよいとされる場合である。ここでは当然、生きていることと死んでいることの善し悪しを比較できることが前提になっている。しかしこの前提はすこし考えてみると自明ではないことがわかる。
 私たちは一度死んでしまえば、おそらくは(確かなことは知りようもないが)極楽や地獄をめぐるのでなく、存在ごとまったく消滅し、それ以上幸も不幸も経験しないに違いない。あるいは仮に極楽か地獄に旅立つとして、そこで経験されることの内容について私たちは知識を一切もたない。したがって、生きているのと死んでいるのとではどちらの方が幸福かという問いは、問いとしておかしいか、あるいは仮に答があるとして誰もその答えを知らない。そこで、生きているより死んだ方がよいこともあるという功利主義者の議論の前提は間違っていると批判される。本項ではまずこの批判に反論したフレッド・フェルドマンの議論 (Feldman [1992:210-224]、"The Morality and Rationality of Suicide")を紹介する。
 残り二つの批判はどちらも、功利主義者が行為の正不正を評価するにあたって行為の帰結だけに注目する点を問題にする。まず、第一に、安楽死はその帰結としてもたらされる死が患者や家族の利益になるなら、それがどのような手段によってもたらされるのかは問題にならないとする功利主義者の主張が批判される。すなわち、死をもたらすのが延命治療の差し控えなのか、致死薬の投与なのかといった手段の違いもそれ自体として倫理的な妥当性を左右する要因であるはずだと言われるのである。第二に、仮に帰結としてもたらされる死が関係者の利益になるかどうかだけに注目するべきだとすると、本人がそのことを希望しているかどうかもそれ自体としては問題でないように思われる。だとすれば、反任意的安楽死(生き続けたいという本人の希望に反してなされる安楽死)も場合によって容認されてしまいかねない。この点が批判される。前者の批判を次の6で、後者を最後の7、8で検討する。
 功利主義者の安楽死擁護論は、ときとして生きているより死んだ方が本人にとってよいという考えを前提にしている。例えばレイチェルズは、がん患者のジャックを殺すことがジャックの利益になるといった。ブラントによれば、人が十分な情報を得たうえでよく考えたすえに死にたいと思うなら、その人にとって死ぬことは最善の利益である。グラバーの考える「生きるに値しない生命」とは、死んでいるのと変わらないかまたは死んでいるより悪い状態のことだった。シンガーとクーゼによると、表皮水泡症のステファニーにとって死なずに生き続けることは本人の利益を損なう。いずれの議論も、生きている状態と死んでいる状態について、善し悪しを比較できるとする考えが前提にある。
 しかしこの前提は批判しうる。フェルドマンが批判を三つに分けて検討し、それぞれに反論している。
 第一はジョン・ドネリーが定式化した次の批判である(Donnelly, [1978])。死は主体にとってすべての精神状態の消滅を意味する。死後、人は何も経験しない。だから死んだ方が幸せだとか死が慰めをもたらすとか死者が安らかに眠るなどということはすべてレトリックであって現実には起こりえない。ゆえにドネリーによれば生きている状態と比べて死んだ状態の方がよいという判断は合理的でない。
 ドネリーこの議論は、幸福や利益について、それはなんらかの陽性の精神状態のことを指すとする理解に従っている。すなわち、幸福や利益の定義に関して先述の快楽説を採用している。ドネリーの批判は、快楽説を棄てて代わりに欲求説を採用すればそれだけで十分にかわしうると考えることができるかもしれない。欲求説を採用すれば、幸福とは、欲求が実現することを意味する。欲求説を支持する研究者の間では、欲求の実現する時点で主体が生きて存在していることは幸福の実現にとって不可欠とは普通考えられていない(Cf. Feinberg [1984: 84-90]、Buchanan and Brock [1990: 162-5])★07。そこで欲求説に従えば、死が精神状態の消滅を意味することは、死が幸福をもたらすかもしれないと考えることと矛盾しない。
 さてしかしフェルドマンは、快楽説を保持したままドネリーの批判への反駁を試みる。フェルドマンによれば、生きているよりも死んだ方がよいという判断は、かならずしも生きていることを死んでいることと比べたうえでの判断でなくてはならないわけではない。フェルドマンの検討する例はこうである。八十才の人が病気にかかり自殺を迷っている。これから先長く生きたとしてせいぜい五年ももたないだろう。しかもその間、大変な苦痛に耐えなければならない。自分はそれでも死なずにいるべきだろうか。
 このように迷う人について、一方では、死なずにいた場合の自分が経験するはずの五年間を、今すぐ死ぬとしてその後に来る何も経験しない無と比較考量しているのだと理解することは可能である。事実グラバーやレイチェルズやブラントらの安楽死擁護論は、そうした理解を暗示または明示している。また、だとすると、こうした比較に基づいて一方が他方より幸福だと結論することは合理的でないとするドネリーの批判に、それなりの説得力が感じられるかもしれない。
 しかしフェルドマンは、いまの病人の思考の内容について別様の理解が可能であると言う。すなわち、フェルドマンによればこの病人は、今すぐ死んだ場合の八十年で完結する人生と、死なずに生きたとして自分がこれから経験するはずの五年間をそこに加えた計八十五年で完結する人生とを比べているものと理解することが可能である。
 この場合、比較の対象はどちらも生きている状態である。さて、二つの選択肢に共通する八十年分の人生は、まったく同一の内容の経験を含む。しかし後者の選択肢には、ここに苦痛に満ちた不幸な五年間が付加される。したがって、かれが自殺を択ぶとすると、それは後者の人生がより多く苦痛を含むからである。そこでフェルドマンによれば、死んだ方が幸福だと結論するかれの判断は、かならずしも合理的でないとはいえない(Feldman [1992:215-7])。
 生きているより死んだ方がよいこともあるとする功利主義の前提に関して、フェルドマンが検討する第二の批判は、フィリップ・デバイン(Philip Devine)による次の批判である(Devine [1978])。デバインも、生きているより死んだ方がよいとする判断を、合理的でないと批判する。デバインによれば一般に誰かのした選択が合理的だと言えるためには、その人が自分で選んだ対象について知っていると言えなくてはならない。しかし、死んでいる状態を本人がかつて経験したということはありえない。また他にすでに経験したことのある人がいたとして、その人から教えてもらうこともできない。すなわち、死んだ方がよいという人が、自分でよいといっているものの内容を知っているということはありえない。したがって、デバインによれば、そうした選択は常に合理的でないとされる。
 デバインの批判に対しても、フェルドマンにはうえにドネリーの批判をかわしたのと同じ仕方で応えることが可能だろう。しかしフェルドマンは実際にはここでもう一つ別の反論を用意している。反論は二段階からなる。フェルドマンによると、第一に、私たちはじつは死について十分によく知っている。死ぬと人は冷たくなる。顔が白くなる。医師が死を宣告する。これらのことを私たちは知っている。また、死んだあと何も経験できないということも私たちはほとんど確かなこととして知っている。
 また第二に、一般に誰かの選択が合理的であるためにその人が自分で選んだ対象についてよく知っていることは必須でないという。選択の対象についてよく知らなくても選択は合理的でありうる。例えばテレビのクイズ番組に出演して、「ここで終わりにしますか?しかし次のクイズにも正解すればすばらしい特典がありますよ」と司会者から選択を迫られたとしよう。フェルドマンによれば、すばらしい特典が何か知らなくても次のクイズを要求することは明らかに合理的でありうる(Feldman [1992:217-9])。
 デバインには、生きていることと死んでいることについて善し悪しが比較できるとする見方に対する批判がもう一つある(Devine [1978])。(これがフェルドマンの検討する第三の批判である。)デバインによれば、一般に誰かの選択が合理的であるといえるためには、さきにみたことに加えて、もう一つ条件がある。つまり、選択肢の各々について価値を見積ったうえで大小が比較できるということである。しかし、死んだ状態について価値を見積るということは不可能なので、デバインによると自殺はやはり合理的な選択ではありえないとされる。
 これに対しフェルドマンは、自殺するかどうかに関しても両方の選択肢について価値を見積ることが可能であると反論する。フェルドマンは経済学でいう期待効用(expected utility)の概念を導入する。フェルドマンによれば、自殺を選んだ場合、おそらく自分は完全に消滅することになる。しかし仮に消滅しないとすると、残りの可能性は天国へいくか地獄へいくかのどちらかだろう。そこで例えば完全消滅する確率を九八%、天国へ行く確率を一%、地獄へ行く確率を一とそれぞれ見積るとしよう。これらの可能性のそれぞれについて、それが自分にとってもつ価値と確率とを掛け合せて得られる値を合計すれば、自殺の期待効用が得られる。自殺しないで生きることを選んだ場合についても同じように期待効用が算出できる。そこで自殺は、自殺することの期待効用が自殺しない場合より高いとき、合理的であるとされる(Feldman [1992:219-223])。

 フェルドマンによる期待効用の算出の例
 選択肢 帰結 確率(%) 価値 期待効用
 1.自殺 天国へいく   1 +1000 +1000−1000+0= 0
     地獄へいく   1 −1000 
     完全に消滅する 98 0 
 2.生存 苦痛で悲惨   99 −500 −99×500 + 1×500= −49000
     奇跡的に回復  1 +500 (Feldman [1992:222])

■6 手段と意図(レイチェルズトゥーリー、ベネット)
 さきに功利主義者による安楽死擁護論の批判を三つに大別した。その二つめに移ろう。功利主義という道徳理論の特徴の一つは、行為の正・不正が、その行為によって帰結としてもたらされる状態の善し悪しによってのみ決まるとする立場を採用している点にある。この立場は普通帰結主義(consequentialism)と呼ばれる。
 そこで功利主義者は、安楽死という行為の正・不正を評価する際も、この行為がもたらす帰結の善し悪しにのみ注目する。さて、安楽死では、帰結は同じでも、それをもたらす手段が事例によって異なりうる。また実際に手を下す人にあるそのときの意図にしても決して一様ではない。帰結だけに注目するということは、裏を返せば、こうした違いにそれ自体として倫理的な意義をみないということでもある。批判の一部はこの点に集中する。
 現に安楽死を規制するために国内外で採用されているルールのほとんどは、実施に伴う手続きや意図の違いによって許容される安楽死とそうでない安楽死を峻別する。国内では、政府や各学術団体また医療関係者のつくる諸組織がそれぞれガイドラインを公表している。どのガイドラインも許容するのは一部の消極的安楽死だけで、積極的安楽死と自殺幇助はすべて禁止している。また消極的安楽死に限っても、中止したり差し控えたりしてよいタイプの延命治療とそうでないものを区別している(厚生労働省 [2007], 日本医師会第X次生命倫理懇談会 [2007], 全日本病院協会 終末期医療に関するガイドライン策定検討会 [2009]など)。
 海外ではベネルクス三国など積極的安楽死を合法とするところがある(盛永 [2012])。アメリカには自殺幇助を合法とする州がいくつかある。しかしこれらは数少ない例外であり、他のたいていの国と地域では、日本同様、許容されているのは一部の消極的安楽死だけである(Blank and Merrck [2005], Blank [2011])。実際のルールに照らせば、安楽死をて論じる功利主義者が手続き上の違いを本質的なものでないと述べていることは現実離れして映るに違いない。
 手続き上の違いを重視するのは政策だけではない。たいていの人の倫理感覚でも、この違いは無視しがたいはずである。
 安楽死の実施に伴う手続きに関わって、人々が倫理的に重要とみなしている区別はいくつかある。まず、積極的安楽死と消極的安楽死から考えよう。積極的安楽死では人に致死薬が投与される。消極的安楽死では、治療しなければ死ぬ患者について治療を控えたり中止したりする。第一に、ここで倫理的に重要な違いは、前者が人を殺すことであるのに対して、後者はただ人を死なせることであるにすぎないという点にあるとする見方がある。人を殺すことは許されがたいが、ただ死なせるだけならそれほど不正なことではないと言われるのである★08。
 殺すことと死なせることとの間のこの違いは、より一般に、何かを為すこと(作為=action, commission))と何も為さないこと(不作為=omission)の間の区別として理解されることも多い(Brock [1992], Challahan [1992])。誰かを殺す人には、例えばナイフを突き刺す・引き金をひく・ひもで縛る・致死薬を打つなど、なんらかの行為がある。ところが誰かを死なせる人は、例えば溺れている人を見捨てる・救急車を呼ばない・治療しないなど、一見して何もしていない。結果としては同じように人が死ぬのだが、そのために何かするのと何もしないのとでは、前者の方が後者より不正であると感じられるというのである。
 倫理学者の間では、さらに、殺すことと死なせることとの間の違いは、何かを為すことと何かが起きるのを許すこととの区別として理解できるとする見方もある。英語だとこの差はdoingとallowingなどの言葉で表現される(Donagan [1977: Ch.2])。結果として発生するできごとが同じ悪であっても、それを為すこととただそれが起きるのを許すこととでは、前者の方が後者より不正であると考えることは一見して妥当である。
 あるいは、微妙に異なる表現を用いて、できごとの原因を作り出すことと他に原因のあるできごとをあえて止めないこと(causing and allowing)とが区別されることもある(Tooley [1994], Brock [1993b: 189], Foot [2002b])。さらにはまた、できごとを発生させることとできごとの発生の妨げとなっている要因を取り除くこととが区別されることもある(Foot [2002b])。これらの区別も道徳上の含意は同じである。結果として同じ悪が生じるとしても、それを自分で引き起こすのと、どこか別で引き起こされたのを止めない(あるいはその発生の妨げとなっている要因を取り除く)のとでは、一見して前者の方が後者より不正であるようにみえる。
 さて、さきに作為と不作為の区別にふれたときは、これを積極的安楽死と消極的安楽死の間に感じとられる道徳的な差を説明するものとして紹介した。しかし同じ区別は、いちど開始された延命治療を中止することと、はじめから治療を差し控えることの間にある道徳的な差を説明するものとして理解されることもある。延命治療の中止と差し控えはどちらも消極的安楽死の範疇のうちだが、両者の間に本質的な道徳上の差があるとみなす向きもあるのである。事実、すでになされている治療を中止する医療者は、例えば呼吸器のスイッチをひねったり、胃ろうのチューブを引き抜いたりする。まったく何もしていないとは言いがたいところがある。しかしはじめから治療を差し控える医療者は少なくとも一見する限り、まさに何もしていない。作為と不作為で線を引く立場にたてば、延命治療の中止は、治療の差し控えよりむしろ致死薬の投与に近いと思われるかもしれない。
 消極的安楽死に関しては、中止と差し控えの間の違いに加えて、中止されたり差し控えられたりする治療の種類の違いが問題となりうる。例えば抗生物質や輸液など比較的簡単でありふれた処置を控えた結果として人が死ぬのと、呼吸器や人工心肺や透析など一見して大がかりな治療を控えた結果人が死ぬのとでは、たいていの人は前者の方が後者より不正だと感じる。生命倫理の文献では、この差を表すのに通常の治療と通常外の治療(ordinary and extraordinary treatments)という表現が使われる(Ramsey [1978:154-9])。なかでもとくに栄養補給と水分摂取(nutrition and hydration)だけ取り上げて、これらだけは他の延命処置と違って決して差し控えたり中止したりしてはならないとする見解もある(Weisbard and Siegler [1998])。
 最後にもう一つ重要な対比は間接的安楽死とそれ以外の安楽死との対比である。間接的安楽死では大きな苦痛を和らげるために大量の鎮静剤や鎮痛剤が投与される。その結果、病人は薬を与えられずにいた場合より早く死んでしまう。他の安楽死がこれと違うのは、結果を意図して行為することと予見して行為するにすぎないこと(intending and foreseeing)との間に倫理的に重要な区別があるからだとする議論がある。結果としては同じように人が死ぬのだが、そうなることを意図して行為するのとただそうなることを予見して行為するのとでは前者の方が後者より不正であると主張される(Beabout [1989])。
 結果を意図することと予見することの間に倫理的に重要な違いがあるとする考え方は、中世のキリスト教倫理に端を発する二重結果原理(doctrine of double effect)の一部である。二重結果原理によれば、行為は、たとえ悪い帰結を伴うことがあらかじめわかっていても、倫理的に許される場合があるとされる。またそのためには、より正確に言うと(1)問題の行為が、帰結から切り離してそれ自体としてみたときに不正でないといえること、(2)同じ行為が同時にもう一つ善い帰結を伴うこともわかっていること、(3)悪い方の帰結は行為者によって意図されておらずただ予見されているにすぎないこと、などが条件として挙げられる。倫理学者が意図と予見の区別について論じるときは、二重結果原理の全体の妥当性が主題となっていることも多い★09。
 以上、安楽死の倫理との関わりで言及される主な区別を無理して改めて列挙すれば次のようである。
 A) 殺すことと死なせること
 B) 作為と不作為
 C) 為すことと起きるのを許すこと
 D) 引き起こすことと止めないこと
 E) 引き起こすことと、妨げている原因を取りのぞくこと
 F) 通常の治療を中止する(/差し控える)ことと通常外の治療を中止する(/差し控える)こと
 G) 栄養補給・水分補給を差し控えることとそれ以外の延命処置を差し控えること
 H) 意図してすることと予見してすること★10
 これらの区別はどれも一見して明らかに倫理的に重要そうにみえる。しかし帰結主義はこれらの区別に意義を認めない。このことが安楽死を論じるうえで帰結主義という立場のかかえる問題として指摘される。とくにこのうちいくつかの区別については、その意義を主題的に論じた文献だけでも膨大な数に上る。すべて紹介することは到底できない。以下、帰結主義の立場を擁護するがわのごく基本的な論点にしぼり、代表的な文献三点から紹介するに留めたい。
 いま列挙したような区別が道徳的に重要であることを否定するために展開される議論は、主として二つのタイプに大別できる。第一は、ときとして科学実験になぞらえられるタイプの議論である(Rachels [1986:112=1991:209])。多くの科学実験の狙いは、注目している諸要素のふるまいだけ観察できるようするために、他の要素は無視できる単純な環境を人工的につくりだすことにある。例えば、重さの違いがそれ自体としてものの落下する速度に影響するかどうか知りたければ、重さの違う二つのものを重さ以外の違いについてはすべて無視できる状況で、同じ高さから同時に落下させて観察するとよい。そこで、羽と鉄球を空気抵抗の影響がない真空管の中で落下させる。両者同時に地面に着くことが観察されれば、重さは落下速度に影響しないことを明らかにできる。
 倫理学でも同様の思考実験が試されてきた。今問題になっていることを一般的な言い方で表せば、甲と乙二つの行為類型の間の違いが、それ自体として人のふるまいに対する倫理評価に影響するかどうかである。そこで、一つは甲という行為を含み、もう一つは乙という行為を含む以外すべて等しい二人のふるまいを比較するとよい。仮に両者が倫理的に等しく評価されるべきだとすれば、甲と乙との間には、それ自体として倫理的に重要な違いのないことがわかる、と、このように論じられる。以下、こうした議論のなされた代表的な例として、(A)と(B)の道徳的意義を否定したレイチェルズ、(C)の意義を否定したマイケル・トゥーリーの文献を紹介する。
 上記のような区別が道徳的に重要であることを否定するもう一つのタイプの議論は、ジョナサン・ベネットの諸著作に展開された議論である(Bennett [1994a; 1994b; 1995]等)。まえに確認したとおり、人々の常識的な道徳感覚は、行為によって帰結のもたらされる仕方を大きく二つのグループに分ける。一方のグループは「為すこと」や「引き起こすこと」などの言葉で表され、もう一方は「何もしないこと」や「起きるのを許すこと」また「止めないこと」などと表現された。ベネットは、こうした言葉で人々が捉えようとしている区別が本当のところどこにあるのかを厳密な分析によって正確に明らかにしようとする★11。ベネットによれば、行為が帰結をもたらす二つの仕方の内容を正確に明らかにできれば、それだけで、二つの仕方の間の違いが倫理的に重要でないことは瞭然であるという。レイチェルズとトゥーリーのあとで、 (A)から(E)まですべてひとまとめに批判したベネットの論を紹介する。
 レイチェルズ(Rachels[1975=1988])によれば、殺すことと死なせることとの間に倫理的に重要な違いは存在しない。このことは次の二つの事例を比べてみれば明らかであるという。
 第一の事例ではスミス氏に六才のいとこがいる。いとこが死ぬとスミス氏には莫大な遺産が手に入る。ある日スミス氏は遺産のために、風呂場へ行くいとこの後を追い、事故を装って浴槽にいとこを沈めた。
 第二の事例では、ジョーンズ氏にやはり六才のいとこがおり、彼もいとこが死ぬと莫大な遺産を手に入れることができる。そこでジョーンズ氏は浴槽に沈めるつもりでいとこのいる風呂場へ忍び入ったが、ちょうどそのとき、いとこは足を滑らせて頭を打ち、ひとりでに湯船の底に沈んでしまった。ジョーンズ氏はいとこが起きあがろうものならすぐにも頭を押さえつけるつもりで身構えていたが、その必要もなくいとこはそのまま溺れ死んだ。ジョーンズ氏は遺産を手に入れた。
 スミスとジョーンズのふるまいは、一方が人を殺すことで他方は人を死なせることであるという点を除けば、他の点ではまったく同じである。そこで、仮に殺すことが死なせることよりそれ自体として不正であるとすれば、スミスの行為はジョーンズのより不正でなければならない。しかし、二つの行為は明らかにどちらも同じだけ不正である。したがって、レイチェルズによれば、殺すことと死なせることの区別は、それ自体として倫理的に重要な区別であると言えないと結論できる。
 ここはしかし注意深い理解が必要である。レイチェルズの結論は、誰かを殺すことと誰かを死なせることが常に同じだけ不正である(あるいは正しい)ということではない。具体的な殺しの事例を倫理的に評価しようとすれば、それが殺すことという行為を含んでいるという事実以外にも、例えば死んだ人の数、遺族に与えた苦しみの量、行為者の動機など、他の様々な要素も同時に考慮する必要がある。誰かが死なせられた具体的な事例を評価する場合も同様である。したがって、現実の事例に即して誰か殺すことと誰か死なせることとを比べた場合、一方の方が他方より遺族をよけいに苦しめたり、一方だけ動機が邪だったりするために、両者に対する倫理的な評価が異なることは当然ありうる。レイチェルズの主張はあくまで、殺すことと死なせることとをそれ自体として比べた場合、両者の違いに倫理的な重要性がないということにすぎない。
 いずれにしても、積極的安楽死と消極的安楽死について、一方は人を殺すことだが他方はただ人を死なせることにすぎないという理由で、前者だけ禁じて後者を許すという判断は正当化できない。他の事情がすべて同じ場合、仮に消極的安楽死を許すなら積極的安楽死も許さなければならない。
 さらにレイチェルズによれば、多くの場合むしろ積極的安楽死の方が消極的安楽死より倫理的に望ましいと考える理由がある。ある人が不治の病で、ほとんど休みなくからだの大きな痛みにおそわれ続け、緩和医療は効かず、いずれにしても死期は間近に迫っているとしよう。本人が希望するなら延命治療を控えてこの人を死なせることは倫理的に許容できると考える人は少なくない。こうした見方の根拠にあるのはおそらく、長く生きることより苦しみに耐える時間を短くすることの方がこの人にとってよいという判断だろう。しかしだとすれば、この場合、消極的安楽死よりむしろ積極的安楽死の方が望ましい。治療を止めても患者はただちに死ぬわけでなく、しばらく苦しみに耐えなければならない。むしろ致死薬を投与した方が確実に速やかに痛みから解放されるだろう。目的が苦しみに耐える時間を短縮することにあるなら、積極的安楽死は消極的安楽死と比べてこの目的をよりよく達成する。
 トゥーリー(Tooley [1994])によれば、殺すことと死なせることの間にある違いは、一般に、何かを為すことと何かが起きるのを許すことの違い(右のC)である。しかしトゥーリーはこの後者の区別が道徳的に重要であることを否定する。そこで、殺すことと死なせることもまたそれ自体として道徳的に重要な違いでないとされる。何かを為すことと何かの起きるのを許すことの間の区別(C)が道徳的に重要でないことは次の道徳的相称性原理(moral symmetry principle)の真を示すことで論証できると言う。

 [道徳的相称性原理]Cを通常Eという帰結に至る因果のプロセスとする。AはプロセスCを開始する行為、BはプロセスCを帰結Eが起きる前に中止する行為とする。また、AとBは他に倫理的に重要な帰結を一切伴わず、Cの部分または帰結のうちEだけがそれ自体として倫理的に重要であるとする。このとき、行為Aを為すことと、行為Bを意図的に控えることとの間には、両者の動機が同じだとすると、倫理的に重要な違いは存在しない(Tooley [1994:104])。

 さて、道徳的相称性原理が真であることは次の二つの事例の比較により明らかにできるという(Tooley [1994:106])。
 第一の事例では、箱形の機械の中に子どもが一人と軍事機密が入っている。この機械は、ボタンを押さない限り子どもが拷問を受け機密が破壊される仕組になっている。ボタンを押すと子どもは解放されるが機密は敵の手に渡ってしまう。そこでボタンを押すのを控えた。第二の事例でも、やはり箱型の機械がある。しかしこんどは反対に、ボタンを押せば子どもが拷問を受け機密が消滅する仕組である。ボタンを押さなければ、機密は敵の手にわたり、子どもは無事解放される。そこでボタンを押した。
 第一の事例でボタンを押さずにいることと第二の事例でボタンを押すことは、どちらも同じ帰結を導く。すなわち、子どもが拷問を受けるという倫理的に重大な帰結である。第一の事例ではこの帰結に至る因果のプロセスを止める行為が意図的に控えられたのに対して、第二の事例ではこれと同じ帰結に至るプロセスを開始する行為が意図的になされている。ただしこの一点を除いて二つの事例はすべて同じである。トゥーリーによれば、どちらの行為も等しく倫理的に不正なので、道徳的相称性原理が真であると結論できる。
 すでに述べたようにトゥーリーによると、殺すことと死なせることの区別は、より一般に、何かを為すことと何かが起きるのを許すことの区別である。そこで、道徳的総称性原理が真だとすると、殺すことと死なせることの間の区別はそれ自体として道徳的に重要な区別ではないと結論できる。
 トゥーリーの結論についても、さきにレイチェルズの議論について述べたのと同じ注意が必要である。トゥーリーも、現実のケースにおいて誰かを殺すことが誰かを死なせることと比べて常に同じだけ不正である、あるいは正しい、といっているのではない。現実のケースでは当の行為が殺すことであるか死なせることであるかということ以外にも、他の様々な要素が同時に存在するからである。
 実際トゥーリーは、たいていの場合、殺すことの方が死なせることよりも不正であると言う(Tooley [1994:107])。主な理由は三つある。まず、動機の違いがある。たいてい人が誰かを死なせてしまうのは無関心や怠惰のためである。しかし人が誰か殺すのは、ほとんどの場合、まさに相手に死んでほしいからである。つまり、現実のケースでは、誰かを殺す人の方が、誰かを死なせる人よりも、邪な動機をもっていることが多い。第二に、多くの場合、人を死なせないようにすることには困難や危険が伴う。そこで、人を死なせてしまうのも止むをえないと思われる理由がある。ところが、人を殺さずにいることはたいていなんの努力も要しないだろう。最後に、死なせる(救わない)ことを意図してふるまっても、相手が確実に死ぬとは限らない。少なくとも、殺そうとしてふるまう場合と比べると、たいていの場合、相手が死なずに生き延びるチャンスは大きい。すなわち、殺すことと死なせることでは、結果からいえばどちらも相手が死ぬのだが、行為のなされた時点では相手の死を確実といえる度合に差がある。こうした理由から、現実のケースではたいていは殺すことの方が死なせることよりも不正である。
 さてしかし、同時に、今述べたような理由がすべて該当しないケースも存在する。とくに積極的安楽死と消極的安楽死を比べた場合、動機、行為者が負わなければならないリスク、患者の死が確実である度合などの点で差のないことも十分に考えられる。(そもそも死が患者にとって利益であると考えられるなら、それをより確実にすることは行為の倫理的評価を下げるよりむしろ上げることにつながると考えらえるかもしれない。)そこでトゥーリーも積極的安楽死が常に許容できないとする見方を否定する。
 ジョナサン・ベネット(Bennett [1994b])によれば、常識的な道徳感覚は行為が帰結をもたらす仕方を二つのグループに分類している。普通この分類は「XがYを為すこと」と「XがYの生じるのを許すこと(あるいはXが何もしないためにYが生じること)」などと表現されている。しかしベネットは、人々がこうした言葉を使って捉えようとしている区別はより正確には次のような内容をもつという。
 すなわちベネットによればまず、二つに分類されるグループはいずれも、行為者Xが身体を動かすという事実と、Yが生じるという帰結を含む。両者の違いはただ、XがそうすればYが生じるといえるようなXの身体の動きが可能性としてどれだけ多く存在するかにある。私たちがふだん「XがYを為した」というのは、帰結としてYの生じる身体の動きのパターンが比較的すくないときである。反対に、私たちがふだん例えば「XはただYの生じるのを許したにすぎない」などというのは、Xがほとんどどのように身体を動かしたとしてもYは生じたに違いないときである。両者の違いはただこの一点にのみある。
 ベネットの分析を殺すことと死なせることの区別に適用すれば次のよう言える。まず、私たちがふだん「XはYを死なせた」というのは、左の三つの条件を満足する場合である。すなわち、
 イ) Xが身体を動かした。
 ロ) Yが死んだ。
 ハ) Xにそのとき可能だった動きのほとんどすべては、Xがそのように動けばYは死んだといえる動きだった。
 次に私たちが普通「XはYを殺した」とみなすのは、左の三つがいえるときである。すなわち、
 ニ) Xが身体を動かした。
 ホ) Yが死んだ。
 ヘ) Xにそのとき可能だった動きのなかで、Xがそのように動けばYは死んだといえる動きが比較的すくなかった。
 例えば、私の目の前にいる男が、猛スピードで走る車に追突されようとしているとしよう。「危ない」と声をかければ男は逃げることもできただろうが私はそうせず、男が死ぬとしよう。常識的な感覚でいえばこの場合私はこの男を「死なせた」と言うべきだろう。ベネットの分析によるとこれは、この状況で私になしえた動きのうち、結果的に男が死ぬことになる動きは無数にあるからに他ならない。例えば私が歩き去っても、顔をおおっても、息をのんでも、となりを歩いている学生と話し続けても、足元の小石を蹴っても、その場に立ちつくしても、つまり「危ない」と叫ぶ以外ほとんどどんな動きをしても、男は車に追突されたはずだからである。
 もう一つ、こんどは、例えば私が歩道ですれちがった男の急所をナイフで刺すとしよう。この場合普通人々は「私が男を殺した」というだろう。ベネットの分析に従えばこれは、この状況で私にできた動きのうち、結果的に男が死ぬといえる動きの範囲が比較的少ないからである。ナイフで突いた実際の私の行為は、可能性の全体からいえばごく限られた範囲の中にに含まれる。もちろん、人の急所は一つでないし、ナイフを突きたてる角度にもいくらかの自由度があったはずである。また、そのときの私が他にも適当な武器や獲物をもっていたら、ナイフで刺す以外にも、首を絞めるなり銃で撃つなり、動きの可能性の幅はさらに広がったかもしれない。しかしこれらの可能性を加えるとしても、全体からいってその範囲がごく限られたものでしかないことに変わりない。
 さてしかし、ベネットによれば、人の行為が殺すことであるか死なせることであるかの違いが今述べた点にしかないとすると、それが倫理的に重要な違いでないことはすでに明瞭である。しかしそう簡単に納得できない場合は、次のように考えてもよい。第一段階としてまず、Yの死を導くXの動きがたった一つしか存在しないとしよう。そこでXがそのたった一つの動きをし、結果Yが死ぬとすると、ベネットの分析によればこれはXがYを「殺した」ケースである。次に、Yの死につながるXの動きがさきに可能だった動きの他にもう一つだけ(つまり全部で二つ)あったとしよう。Xが二つの動きのどちらかをした結果、Yが死ぬとすると、こんどもやはりXがYを「殺した」ケースができる。さて、これら二つのケースを並べて考えた場合、第一のケースのXの行為が、第二のケースのXの行為と比べて、倫理的により不正だとは思われないはずである。
 当然、Yの死につながるXの行為の可能性が、もう一つ増えて三つになっても、ここまでに述べたのとまったく同じことが言えるだろう。四つになっても五つになっても同じである。さてこうして数を増やしていけば、いずれXはYを「死なせた」のだといった方が適当なところまでいく。しかしその間の手順としては常にはじめと同じようにXに可能な動きを一つずつ増やしていっただけである。そこで、はじめに比べた二つのケースにおけるXの行為がどちらも倫理的に同じように評価されるとすれば、最後のケースにおけるXの「死なせた」行為もやはり同じように評価されるはずである。言い換えれば、「殺すこと」と「死なせること」の間の差は、「唯一可能な動きで殺すこと」と「たった二つしかない動きのうちのどちらかで殺すこと」の間の差と質的に変わらないからである。
 ベネットによれば、「殺すこと」と「死なせること」や「為すこと」と「起きるのを許すこと」また「作為」と「不作為」などの言葉で表現される区別は、いずれもここまでに述べたのと同じ仕方で分析できる。そこで上記の(A)〜(E)はどれも倫理的に重要な区別ではないと結論できる。

■7 反任意的安楽死の倫理(1)(シンガーハリスグラバー、レイチェルズ)
 以上、二つの批判と、それぞれに対する功利主義者からの反論をみてきた。しかし、功利主義者の安楽死擁護論に対する最も強力な批判は、おそらくここから紹介する三つめの批判だろう★12。それは擁護論の前提がときとして反任意的安楽死も正当化するようにみえることを指摘する。
 この批判は二つの部分に分けることができる。第一に、きわめて悲惨な状態の病人がそれでも可能な限り長く生き続けたいと言うとしよう。功利主義者は、このような患者について、本人の最善の利益のためなら本人の意向に反しても安楽死を行うべきだと言わなければならない時があるようにみえる。この点がまず批判されうる。
 第二に、功利主義者は、本人の病状がそれほど悪くなくても(あるいはまったく悪くなくても)、他の関係者の利益を最大化するために、やはり本人の意向に反して安楽死を行うべきだと言わなければならないときがあるようにみえる。この点が第一点とは別に批判されうる。ここではとくに、第一の安楽死をパターナリスティックな殺人、第二を義務として要求される安楽死と呼んで区別しておこう。
 本節の残りではこれらの批判に対する功利主義者からの反論を紹介する。第一に、反任意的安楽死の問題は、個人の自律を尊重しない、あるいは患者の生きる権利を侵害するところにあるとして理解されることが多い。そこで、まず、功利主義にも個人の権利や自律に価値を認めうるとするシンガーの主張を紹介する。次に、功利主義にも反任意的安楽死が倫理的に許容できないことは示しうると主張する論者の議論をいくつか紹介する。最後に、これらの反論の妥当性について簡単にコメントする。
 すでに本節4で紹介したとおり、シンガーは功利主義者にも人の生きる権利を認めうると論じている。とくにシンガーは生きる権利のある存在を人格とよび、人格に該当しない人間はヒトと呼んでこれから区別する。繰り返せば、シンガーのいう人格とは、自己を意識したり将来に関わる欲求を形成したりするのに必要な高度の精神機能をそなえた存在のことである(Singer [1993:87=1999:103-4])。そこでたいていの成人に加えて、一部の類人猿も人格とみなされる。シンガーによれば、人格が将来にわたって存在し続けたいと願うなら、功利主義を前提として考えてもその希望は原則として叶えられなければならない。そうした希望を叶えることは当の人格の利益になるからである。
 これは、利益の定義について欲求説を採用するか快楽説を採用するかに関わらず言えることだとされる。まず欲求説を採用するとすれば、人格が生きたいという場合、この欲求を実現することが(情報不足や判断の誤りが含まれていない限り)本人の利益になることは「利益」という語の定義から言える。快楽説を採用した場合には、欲求の実現と利益との関わりはそれほど直接でない。しかし、死にたくないという人の願いが原則として尊重されない世界では皆ふだんに不安や恐れといった陰性の精神状態を経験しなければならないだろう。そこで快楽説を前提しても人々の利益は損なわれると言わざるをえない(Singer [1993:89-101=1999:109-122])。したがって、欲求説でも快楽説でも、人格の生きたいという思いに応えることは一般に人の利益に叶うといえる。功利主義者のシンガーにとって、個人の生きる権利や自律が尊重されなければならないというのはこの意味においてである。
 しかし、ここまでのシンガーの議論は裏を返せば端的に次のことを意味する。功利主義にとって個人の権利や自律に価値があるのはそれが関係者の幸福や利益を増大することに役立つ限りにおいてである。個人の権利や自律を尊重すると関係者の利益が全体として損なわれる場合、功利主義者は権利や自律は常に尊重されるべきでないというだろう。すると結局、さきの二つの反任意的安楽死(パターナリスティックな殺人と義務として要求される安楽死)は正当化できると言わざるをえないようにみえる。
 実際に功利主義的な考えを前提に、人をその意向に反して殺すことがときに正当化できると結論するに至った例として、ジョン・ハリスの有名な論文がある(Harris [1980=1988])。臓器移植の技術が完成した未来の世界では、健康な人を一人殺してその臓器を二人以上の病人に移植すれば全体としてより多くの人が幸福に生きられる。だからハリスによればこの場合一人が犠牲になるべきだという。
 もちろんここで移植するということは、一人の健康な人を殺すことである。反対に移植しなければ二人死ぬが、その選択は人をただ死なせることでしかない。仮に殺すことと死なせることの違いにそれ自体として倫理的な意義があって、殺すことが常に死なせることより不正だとするとすれば、この移植は倫理的に正当化しがたいだろう。しかしすでに前項で述べたとおり、功利主義者はこの違いが倫理的に重要であることを否定する。(ハリス自身にもこの違いの道徳的な意義を否定する議論がある。)また、犠牲者の択び方は例えばレシピエントの担当医が独断で決めたりすると人々の恐怖心をいたずらにあおることになる。そうした間接的な悪影響はできるだけ抑えなければならない。そこでハリスによれば、社会のすべての成員にあらかじめ番号をふっておき、必要に応じて適宜くじを引いて犠牲者を選ぶとよい。ハリスはこの仕組に生存くじ(survival lottery)と名前をつけている。ハリスの論文は安楽死の倫理に直接ふれていない。しかしハリスがたどったのと同じ筋道にそって考えれば、老や病のために衰えた人が周囲の人々の心理や経済に大きな負担を強いる場合、この人に安楽死を択んで(たんに死ぬことが許されるというのではなく)死ぬ義務があるという結論は一見する限り避けがたくみえる。
 この結論は直観に反する。例えばダニエル・カラハン(Daniel Callahan)は、帰結主義者の言うように殺すことと死なせることを区別しないとすると、教育にかける国の予算をひっ迫するからという理由で医療費のかさむ高齢者が殺されてもよいことになると述べている (Callahan [1995:186]、同様の問題をHarris [1985: 84-86]、Gillon [1996]、Daniels [1996]等も指摘している)。もうすこし足せば、功利主義者は、殺すことと死なせることの区別だけでなく、本人の同意にもそれ自体としては価値がないと主張している。そこで例えば一部の高齢者には、若い世代の教育の充実のために、死にたくなくても致死薬を投与されて死んでいく義務があると結論しなくてはならないようにみえる。
 この結論にはほとんど例外なく誰もがどこかおかしいと感じるだろう★13。功利主義者の安楽死擁護論に対する最後の批判は、その前提がこうして明らかに間違った結論を論理的に導くようにみえる点に対する批判である。グラバーもレイチェルズもシンガーも反任意的安楽死が許されるべきだとは考えていない。それぞれに功利性の原理から反任意的安楽死の正当性はかならずしも導かれないとする趣旨の議論がある。以下、与益の価値に訴えてきたこれらの論者が、どのようにして反任意的安楽死の倫理的妥当性を否定するのかをみる。
 まずレイチェルズがこの点についてどのように考えていたかもう一度確認しておこう。1で紹介したとおり、レイチェルズは、利益の定義について快楽説でなく欲求説を採用しさえすれば、功利主義のもとでも反任意的安楽死が正当化されることはないと言った(Rachels [1986:156=1991:298])。反任意的安楽死とは、定義上、死ぬ本人に死にたくないという欲求がある場合の安楽死である。しかし欲求説に従えば、これも定義上、死にたくないという本人の欲求にさからって人を殺したり死なせたりすることはその人の利益に反する。だから、利益を最大化するべきであるという功利性の原理から反任意的安楽死の正当化はできないという。
 レイチェルズの論には二つ問題がある。一つめはすでに2で指摘した、この論が欲求説の定式化を粗雑にしているという批判である。欲求の成就が利益であるという主張にいくらかでも信憑性をもたせたければ、成就することが利益になるタイプの欲求をそうでない欲求から選り分ける必要がでてくる。人の欲求が自分の置かれた状況についての理解不足や誤った推論の結果だとしても、とにかくすべて叶えてやるのが本人のためだという見解は明らかにおかしい。そこで欲求説が洗練されると、例えばことがらの十分な理解にもとづきよく考えられた欲求だけに限り成就すれば利益になるとみなす。こうした洗練された欲求説にしたがえば、人の死にたくないという欲求についても、叶えてやることがすべて本人の利益になるとはいえない。だから反任意的安楽死が常に死ぬ人の利益に反するとはいえない。この節導入した区別に即せば、欲求説を採用してもパターナリスティックな殺人は否定しきれない。
 レイチェルズの論の二つめの難は、この論がそもそも反任意的安楽死のうちでもパターナリスティックな殺人の方にしか言及できていないという点にある。功利主義の問題は、たんに死にたくないという人を殺すことが本人の利益になる場合それを正当化してしまう(パターナリスティックな殺人)ようにみえるというだけでなく、死ぬことがたとえ本人の利益を損なうとしても周囲の人々にとってそれ以上の利益が見込める場合それを義務としてしまう(死ぬ義務)らしいということにもあった。レイチェルズは、欲求説を採用すれば、反任意的安楽死が死ぬ人の利益となることはありえないと述べた。仮にこの主張が正しいとして、これではパターナリスティックな殺人がありえないと言うことしかできていない。すなわち、反任意的安楽死がときに周囲の人々の大きな利益となることを否定しなければ、功利性の原理からは死ぬ義務が導かれてしまうようにみえる。
 では次に、シンガーはどうか。シンガーも功利性の原理は反任意的安楽死を正当化しないと主張する。シンガーには根拠が二つある(Singer [1993:200-201=1999:241-242])。
 第一に、現実の事例で反任意的安楽死が正当化できるためには、本人が死にたくないと言っているにもかかわらず本人にとって死ぬことが最善の利益であると誰か他の人が判断しなければならない。しかしシンガーによれば、生きている本人がその時点でまだ生きていたいと希望しているということは、そのこと自体、その生命が生きるに値するという見方を支持する強い理由である。言い換えれば、本人が死にたくないと言っているにもかかわらずその生命は生きるに値しないと評価する第三者の判断が正しいということはまずありえない。
 ただし、死んだ方がよいという第三者の評価でもごく稀に正しいことはあるかもしれない。しかしシンガーによれば、第二に、それはごく稀なことでしかないから反任意的安楽死を絶対的に禁止する原則が採用されるべきだという。
 このシンガーの議論はヘアの二層功利主義(two-level utilitarianism)を引用する。ヘアは道徳的な推論に批判的レベルと直観的レベルを区別した。批判的レベルの推論は可能な選択肢のそれぞれについて評価・比較し、帰結が最善となるよう行為することを要求する。しかし、日常では様々な制約があるから、常に批判的レベルの推論に従うことは不可能である。とくにとっさの判断が要求されたり疲れていたりすると、偏見や感情に流されるなどして状況を自分に都合よく解釈してしまうこともある。そこでヘアによれば、たいていの状況で正しい判断を導くことのわかっている比較的単純な原則があれば、日常ではあくまでこの原則にのっとって直観的に判断して行動するべきである。そうした方がそのつど複雑な計算を試みるより長い目でみると全体としてより正しくふるまうことができる。ヘアはこのように日常では直観的レベルの推論に従うことを推奨する。批判的レベルの推論は、日常で使う原則を選んだり原則同士が対立して解決を要したりする時のためにとっておかれる(Hare [1981])。
 シンガーによれば、ヘアにならって直観的レベルの推論を批判レベルから区別すれば、功利主義者でも反任意的安楽死に反対することになるという。本人が生きていたいと言うのなら、他人からみて死んだ方が本人のためだと思われるとしても、そうした他人の判断が正しいことはごく稀である。だからふだんはあくまで「安楽死を行ってよいのは本人に判断能力が欠けているか、本人に判断能力があってよく考えたうえで死ぬことを希望している場合だけである」とする原則に例外なく従った方がよいという。
 すでに明らかと思われるが、シンガーの議論も反任意的安楽死の妥当性を否定すると言いながら、パターナリスティックな殺人の問題にしか言及していないようにみえる。シンガーの言うとおり、本人が死にたくないと言うのにそれでも死んだ方が本人の利益になる場合はごく稀なのかもしれない。しかしたとえ本人は死にたくなくても死んだ方が周囲のためになる場合はどうか。とくに不本意に殺される本人にとっての損失より、周囲の利益が量的に上まわることはないか。シンガーがこうした後者のケースもごく稀にしか起きないと考えているかどうかは不明である。ただし、本稿の最初にいった「公正の価値に訴える議論」をする研究者は、希少な医療資源を公正に分配するためにときとして病人の延命治療を受ける権利が否定されてもよいと論じている(Callahan [1987]、Gillon [1996])。これらの研究者によれば、生き続けたいと思っている人が死ぬことで社会全体の利益が増すことは、決して稀なことではないだろう。
 最後に、グラバーによる反任意的安楽死の扱いをみておこう。グラバーもまた丁寧に考えれば、功利主義を前提しても反任意的安楽死はかならずしも正当化されるわけでないことがわかるという(Glover [1977:78-80,191])。これは、仮にパターナリスティックな殺人が現実の病院で広く行われるようになると、人々が不安や恐れに陥るからである。実際に殺される病人たちだけでなく、今は健康な他の人々まで、いつか自分も同じように殺されるかもしれないと考えて不安になったり恐れたりする。そこで少なくとも利益について快楽説を採用する功利主義者は、パターナリスティックな殺人が(たとえ殺される本人の利益には叶っていても)間接的に周囲の人々の利益を損なうと認めうる。
 グラバーもやはり論じるにあたってパターナリスティックな殺人しか念頭においていない。(本人がはっきりとパターナリスティックな殺人と名指してそれだけ批判している。)しかし今の議論は、人にはときとして死ぬ義務があるとする主張を論駁する目的にも役立つかもしれない。人には死ぬ義務があると言われるのは、その人が死ぬと周囲や社会の負担が減って全体の利益は増す場合があると考えられているからである。しかしグラバーは、死にたくない人を殺せば、むしろ他の人々は不安や恐怖に駆られるから全体の利益は減ると考える理由もあることを示したわけである。両方の要素をきちんと計上したうえであらためて算出すれば、反任意的安楽死の実施は常に関係者の利益を全体として減らすことにつながる(あるいは増やすことにつながるのはごく稀な場合でしかない)という結論になるか。これは功利主義による安楽死擁護論の妥当性を考えるうえで未解決の実証的な問題である。

■8 反任意的安楽死の倫理(2)
 前項で示したのはいうまでもなく、究極的に与益の価値だけに訴えて安楽死の倫理的妥当性を結論しようとした場合に出てくる問題である。安楽死の倫理を論じる研究者の多くは、与益の価値だけでなく、他の価値にも同時に訴えて議論を展開する。とくに自己決定や自律にそれ自体として価値があることを認めれば、パターナリスティックな殺人や死ぬ義務には悩まされずに済むだろう。じつはグラバーレイチェルズにも自己決定の価値をもちだす議論がある。本項では二人のこの議論を簡単に紹介しておく。
 グラバーによれば個人の自律に価値があるのは、一方では、本人の決定に従うことが本人にとって一番満足のいく結果を導く見込みが大きいからである。しかし自律のもつ価値をすべてこのように本人の利益によって説明することには不自然さが残る。人は自分の人生に関わるいくつかの重大な問題については、たとえ誰か他の人に決めてもらった方が自らに得であることが明らかな場合でも、容易には選択権を放棄しようとしない。例えば仕事や結婚相手はどうあっても自分で決めたいと思うのが通常である。自律の価値をすべて与益の価値に帰してしまう考え方ではこうした思いをうまく説明できない。
 さきにみたようにグラバーは、パターナリスティックな殺人の不正を、それが第三者の心理に与える影響の悪によって説明しようとした。この説明は、たいていの人にとってはあまりに間接的すぎてことがらの核心を捉えていないように思われるだろう。グラバーによれば、パターナリスティックな殺人が普通不正だと思われるのは、いつどのようにして死ぬかという人生の重大事について人が自分で選ぶこと定するからである。自律にそれ自体として価値があることを認めれば、この感覚にそった説明を与えることができる(Glover [1977:78-83])。
 グラバーは実際のところ最終的には自律に独立した価値を認め、様々な主張の正当化のためにこの価値に訴えている。パターナリスティックな殺人とは別に反任意的安楽死一般を論じた箇所でも、それが許されない理由として、周囲の人々への悪影響とともに個人の自律が尊重されるべきことを挙げている(Glover [1977:191])。また、自律の価値と与益の価値が対立するときには、いくつか例外はあるとしても(例えば薬物中毒の人がクスリを要求しても応じてはならない)原則的に自律の価値が優先するべきだと述べている。こうした立場に立てば、人には死ぬ義務があるという主張を容易に反駁することができるだろう。
 最後に、レイチェルズは、さきに紹介した安楽死擁護論とは別の本のなかで、それと非常によく似てはいるが重要な点で異なるもう一つの擁護論を発表している(Rachels [1993])。この別ヴァージョンの安楽死擁護論は、一つめの前提のなかで個人の権利に言及している。すなわち、
 1.もしもある行為が、関係者全員の最善の利益を増進すると同時に、誰の権利も侵害しないならば、その行為は道徳的に許容可能である。
 2.少なくともいくつかのケースにおいて、積極的安楽死は関係者全員の最善の利益を増進すると同時に誰の権利も侵害しないことがある。
 3.それゆえ安楽死は少なくともいくつかのケースにおいて道徳的に容認可能である。(Rachels [1993:48])
レイチェルズは本節1に紹介したRachels [1986=1991]のなかで議論を展開した時点でも、【功利性の原理】のもとで反任意的安楽死が正当化されてしまいかねない点を憂慮していた。そこでこの別ヴァージョンの論では、与益とならんで自己決定にも独立した価値のあることが認められている★14。

 レイチェルズはさきに紹介した『生命の終わり』のなかで議論を展開した時点でも、功利性の原理のもとで反任意的安楽死が正当化されてしまいかねない点を憂慮していた。そこでこの別ヴァージョンの論では、与益とならんで自己決定にも独立した価値のあることが認められている。

■■まとめ

 本章では、与益の価値に訴えて安楽死の正当化を図るタイプの議論の代表例として、功利主義者による安楽死擁護論をまとめて紹介した。グラバー、レイチェルズ、シンガー、ブラント、フェルドマンといった功利主義者たちは、積極的であるか消極的であるかにかかわらず、また本人の同意がない場合も含めて、様々な状況下で安楽死が倫理的に正当化できると主張している。こうした主張に至る議論の流れを、主要な文献に即して紹介した。
 まず、第1節では、生命は神聖だから破壊してはならないとする思想に対する功利主義者の批判をみた。また第2節の前半部では、安楽死が任意の場合と非任意の場合それぞれの倫理的妥当性がどのようにして主張されてきたかを概観した。後半部では、生と死は比較できない、手続上の違いは明らかに倫理的に重要である、功利主義の前提は反任意的安楽まで正当化してしまう、とする三つの主な批判に対して、功利主義者がどのように応えてきたかを詳しく説明した。
 また第2節7では、この最後の批判に対する功利主義者の反論の妥当性について簡単にコメントした。反任意的安楽死はパターナリスティックな殺人と周囲の利益のために義務として要求される安楽死との二つに区別できる。功利主義者がこれまでしてきた反論は功利性の原理を前提して前者の妥当性が否定できることまでは言えたとして、後者の妥当性まで否定しきれているか疑問が残ることを指摘した★15。

■注
★01 これらの文献は本書では詳解できないが、すでに有馬[2009]、[2010]で批判的に検討した。
★02 正確にはレイチェルズはいくつかの霊長類を含む人間以外の動物にも伝記的生の主体となりうるものがあるという。そこでたとえばチンパンジーの伝記的生も価値があって守られるべきであるとされる(Rachels [1986:33-6=1991:61-66])。
★03 Cのように人間の生命はただそれが人間の生命であるというだけの理由から他の生命よりも大きな価値をもつとする主張を擁護した重要な議論としてFinnis [1995a]がある。また、Dworkin [1993: Ch3 = 1998:3章]にも、生命には生きている主体にとっての主観的価値とは別に客観的価値があるとする趣旨の有名な議論がある。これらの議論はいずれも生きている主体の利益を損なわなくても生命の破壊が不正でありえるとしている点で、生命に主観的な価値しか認めないグラバーやレイチェルズやシンガーの議論と対照的であるが、ここでは詳解しない。フィニスの論文を収録したKeown ed. [1995] にはフィニスの議論にたいするジョン・ハリスの批判(Harris [1995a] [1995b])とフィニスからの反論(Finnis [1995b] [1995c])が収録されている。また、後述のジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)にもドウォーキンとフィニスの議論についての批判的な言及がある(McMahan [2002:464-9])。
★04 レイチェルズは功利性の原理だけでなくカントの定言命法からも安楽死の倫理的妥当性を導くことができるという(Rachels [1986: 158-160=1991: 301-305])。そこでレイチェルズが安楽死を正当化できると考える理由の全体はむしろ「有力な道徳原則がいずれも安楽死の倫理的妥当性を支持する」ことにあるとみなすことも可能である。しかしレイチェルズの議論が功利性の原理から安楽死の倫理的妥当性を演繹する側面をもつことはたしかである。
★05 またFeldman [1992]にもやはり同様の論がある。ただしフェルドマンは快楽説を採用している。
★06 ただしシンガーによれば功利主義は、すでに世界に存在している人や動物の幸福を最大化することだけ問題とするか、あるいは世界の幸福量を増やすためならすでに世界に存在している以上に人や動物の数を増やすことまで義務の一部とみなすかによって、立場が大きくふたつに分かれる。もっと幸福な二人目の児が生まれる可能性を大きくするべきだとする本文に紹介した議論は、このうち後者のタイプの功利主義からのみ導かれるという(Singer [1993:185=1999:221])。
★07 ただし例外的に欲求された事柄の成就する時点で本人が生きて存在していることを幸福の実現の条件とみなす研究者としてOvervold [1982]がある。
★08 この区別が臨床で重視されていることをあきらかにしてみせたたうえでその倫理的意義を否定したのはRachels [1975]
★09 Woodward [2001]にこの主題にかんする基本的な文献が集められている。
★10 他にもすでに本文でふれたが、(1)自分の手で死ぬことと、(2)他人の手を借りて死ぬこと、(3)他人に殺してもらうことの区別などがある。これは自殺と自殺幇助と積極的安楽死の間の区別に対応する。
★11 ベネットが区別の内容を正確に明らかにすることから批判を開始するべきだと考える理由のひとつは、ふつう用いられている「為すこと」や「許すこと」といった概念が問題の区別を正確に表現できていないと考えているところにある。ベネットによれば、例えば「何かが起きるのを許す」という表現は、多くの場合、発生する出来事に対する行為主体の否定的な態度を含意するようにみえる。しかし同様の含意は、「為すこと」のほうにはみられない。問題は、「為すこと」と「許すこと」という言葉で人々が表現しようとしている当の区別(行為が帰結をもたらす仕方に関する区別)に今述べたような含意の差は含まれていないようにみえるという点にある(Bennett [1995:66])。
★12 しかし二つ目の批判に対する帰結主義者からの反論については、Foot [2002b]、Foot [1994]、Kamm [1989]、Kamm [1996]、Quinn [1993b]、Quinn [1993c]など数多くの重要な批判がある。この他にもこの主題に関しては重要な論文の多くがSteinbock and Norcross eds. [1994]に収録されている。またとくに意図と予見の違いと終末期医療とのかかわりに関してはBeauchamp ed. [1995]も多く論文を集めている。
★13 ただし、周囲の人々のために(致死薬を投与されて殺される義務ではなく)治療を拒否して死ぬ義務については、あると考える論者もある(Hardwig [1997]など)。個人に死ぬ義務があるという表現はしないが、政府には社会全体の利益のために延命治療を高齢者や終末期患者に与えることを拒否するべきであるとする議論はCallahan [1987]、Gillon [1996]などがある。
★14 この別ヴァージョンの議論の展開された論文では、レイチェルズは最終的に功利主義が行為の正不正を一般的に評価する基準としてふさわしくないと結論されている。一方、Rachels [2007=2003]の最後の章では動機功利主義を引用するなどして功利主義でも個人の権利を認めうるとする議論が展開されている。
★15 この研究は、学術振興会科学研究費補助金 若手研究(B)(研究課題名「非帰結主義の論理を踏まえた消極的安楽死の是非に関する研究」 研究課題番号24720002)ならびにファイザーヘルスリサーチ振興財団による研究助成(平成二一年度 国内共同研究(満三九歳以下の部)研究課題名「安楽死・尊厳死に関する規範的研究」)を受けた研究の成果の一部である。とくに第1節5および第2節2と3の内容は、後者の助成を受けて二〇〇九−一〇年に定期的に開催された安楽死・尊厳死研究会の第二回と第五回で報告し、参加者の意見をもらう機会を得た。各助成と研究会参加者に感謝する。




■■■第W章 「ブックガイド・医療と社会」より 立岩 真也

 *「序」に記したように、雑誌『看護教育』(医学書院)で、二〇〇一年から二〇〇九年まで毎年十一回、計一〇一回、本の紹介をした。以下はその一部。〔〕は補記。注も新たに加えた。


■■米国 2000/12 [連載04]

 数えてみたら、安楽死が主題的に扱われる日本語の単行書だけで五〇冊余〔HP「安楽死・文献」には八六冊〕。主に法律・裁判関連の資料集として中山研一・石原明編『資料に見る尊厳死問題』([1993])、町野朔他編『安楽死・尊厳死・末期医療――資料・生命倫理と法II』([1997])。他に、五十子敬子『死をめぐる自己決定について』([1997])も一九九六年までの事実の経緯を押さえておくためには役に立つ。
 ただこの主題にとっては個々の具体的なところが大切なのだが、そんなところはわからない。細かに記述し出したらかさばって仕方がないからこれは当然のことである。さらにそうした情報は今後も次々と加えられることになるだろう。こうした部分はホームページで提供されていくのが望ましいと思う。ホームページにも、もとより十分ではないが、他の項目に比して多めの情報がある。まずはご覧ください。論文としてはやはり法学の領域のものが多いのだが、個々のケースをある程度詳しく追える。(五十子の本には文献表がある。町野他編の本にはない。ホームページ掲載の文献リストには約二〇〇点があり、中山・石原編の本に掲載されている文献の書誌事項は網羅している)〔私・私たちの一連の本で取り上げた/取り上げる文献表にある文献は約九四〇→HP「『良い死』『唯の生』他文献表」。それと別に関連文献表掲載。〕
 ただ同時に、具体的な事例や各国の多様な制度、判例を見ていくと、事実の海に溺れそうになる。死期を早める措置を患者本人の希望で行ういわゆる積極的安楽死、医師による自殺幇助に限ったとしよう。それにしてもこれはどんな問題なのか。
 自己決定権の範囲内にあるという肯定論がある。生き死には当人にまかせればよい。これはこれですっきりした考えのように思える。それをどうこう言うのは、パターナリズム、余計なおせっかいというものではないか。しかし、自己決定を大切なものだと思いながら、そんなふうに簡単に割り切れるだろうか。一つにはそんな問題なのだと思う。私自身の考えは『所有のエチカ』(鷲田・大庭編[2000])中の「死の決定について」([2000b]→『唯の生』第5章)と『弱くある自由へ』([2000c])の第2章「都合のよい死・屈辱による死」([1998a])、第3章「「そんなので決めないでくれ」と言う」([1998b])〔、そして『良い死』第1章「私の死」〕に書いたので読んでいただければと思う。
 以下では、またも、まずは、おもに米国に限り、具体的なところがある程度つかめ、同時に何が論争の論点なのかが見えてくる本を紹介する。

 米国では、州法により合法化され、実行されているのは〔執筆時では〕オレゴン州だけだが〔オレゴン州尊厳死法(Oregon Death with Dignity Act、一九九四年成立)の成立過程等について久山・岩田[2005]〕、各地で法案が提出され、賛成と反対が拮抗する情勢になっている。
 安楽死を認めさせる運動を積極的に展開してきたのが一九八〇年に米国で設立された「ヘムロック協会」。その創立者の一人デレック・ハンフリーが書いた本の翻訳が、品切れで今はもう買えないが、かつて出ていた――『FINAL EXIT――安楽死の方法』(Humphry[1991=1992])★01
 この本自体は、その主張そのものを様々な論拠により正当化するというより、どんな死に方だと苦しいのか、苦しくないのか、薬の入手法は、生命保険のことは、と具体的な死に方を教えるハウ・トゥ本になっている。翻訳本が出た時点で全米で五〇万部以上売れたという。ただ、そうした具体的で「役に立つ」記述の間に、安楽死することをどのように著者が捉えているかが見える部分がある。HPに目次とすこしばかりの引用を掲載しておいた。
 そして『死を処方する』(Kivorkian[1991=1999])。著者のキヴォーキアン〔cf.第V章・134頁〕という人は、「マーシトロン」なる自殺装置を一九九〇年に自ら開発し、これまで一二〇人あまりの死を介助してきた人だ。法廷やメディアで自説を強力に主張し、有名になった。「ドクター・デス」と呼ばれると本の帯にある。
 訳書の刊行は一九九九年だが、書かれたのは、先に記したハンフリーの本が出たのと同じ一九九一年。つまり彼が自殺幇助を始めて一年後に出た本で、この本自体で安楽死について書かれているのは全十七章中の第13章以降と、分量的には多くない。一九九〇年の最初のケース(アルツハイマーの初期の状態の女性、Janet Adkins、五四歳)のことは第15章に書かれている。
 ではその前には何が書いてあるのか。死刑囚を、本人の同意があった場合に、人体実験に使うこと、臓器移植の臓器の提供者とすべきだという主張を彼がいかに熱心に行ってきたか、そして世の中がそれにいかに冷淡であったのか、しかしそれでも自らの説がいかに正しく、それを理解しない人たち、とくに医学界がどんなに愚かであるか、そうした記述が延々と続くのである。そんな中、一九八六年にオランダのことを報道で知って、八七年に訪問、安楽死が合法化されていると思っていたのは誤解であるとわかり、その人たちを人体実験に使うこともできなさそうだと知って落胆するのだが、しかし安楽死、自殺幇助を行うというアイディアは持って帰る。それが彼を有名にする。
 こういう本を読んでいくと、安楽死を推進する側は突拍子もないことを言っている人たちだとも思える。しかし、僅差で否定された州も含め、積極的安楽死を法的に認めることを多くの人が支持しているのは事実であり、ヘムロック協会がその大きな動きを作る一翼を担ってきたこと、そして既存の推進派の動きを中途半端だと批判するキヴォーキアンという人物が、その運動の多数派ではないにせよ「先端」に位置しているというのも事実ではある。
 彼の安楽死についての主張自体は簡明なもので、この本では記述の量も多くない。だから買わなければならない本ではない。ただやはり、この人はいったいなんなのだろうと考えてしまう。変人ではある。けれど、どうせ死ぬなら役に立って死ぬ方を本人も望むのだという年来の彼の主張と安楽死推進の主張に一貫性はある。そんなことを私は考えてしまう。

 次に反対論。これまでもバチカンの反対声明などは報道されてきた。ただ、反対しているのはカトリックなどの宗教勢力だけでなく、その主張は「生命の尊厳」の立場からだけでないことは知っておいた方がよい。
 安楽死に反対の立場で書かれた本の翻訳が二〇〇〇年に出た。『操られる死』(Hendin[1997=2000])。著者のヘンディンは自殺の研究を続けてきた精神医学者で「アメリカ自殺予防財団」の医療責任者だという。
 この本は、先の本より手元に置く価値がある思う。もちろん反対派の立場からの本だから、反対派にとって都合のよいことが書かれているのかもしれない。ただそうではあっても、かなり記述が詳しい。
 オランダの推進側の医師たちに直接会って書かれた部分があり、その記述に対する推進側からの批判が紹介された上でさらに批判が続くといった具合になっている。
 自発的に、自由意志によってなされているとされる安楽死が、実態としてそう捉えることができないことが指摘される。なぜ米国とオランダでこれが受け入れられているかの分析もある(第六章)。ハンフリーやキヴォーキアンに対する、もちろん否定的な、言及もある([39-44])。
 この本にも気になる部分はある。著者は上に記したような人だから、自殺を企図し、自殺幇助を求める状態は精神的な「抑うつ」の状態にあるという診断になる。そう簡単でもないだろうと私は思う。死を望む状態を必ずしも病理的な状態であると考えずになお何を言いうるか、私はそういうふうに考えたいと思う。
 また別に反対派の重要な一翼をになっているのは、障害者のグループ、団体である。書籍等でそれをきちんと紹介しているものを私は知らないが、ホームページでは以下がある。
 International Anti-Euthanasia Task Force(http://www.iaetf.org/)そして、Not Dead Yet(http://acils.com/NotDeadYet/)
 前者は「反安楽死国際機動部隊」、後者は「まだ死んでないぞ」という米国の草の根のグループ。これらも当方のホームページからリンクされているし、その内容の一部の日本語訳を置いてある。かなり詳しい情報がある。ヘムロック協会やキヴォーキアンに対する具体的な批判もある。そして、自己決定を強力に主張してきた集団が、安楽死には反対する。その意味を考えることが、安楽死を考える上で最も基本的なことだと私は考えている★02。

★01 この訳書の末尾に付された「安楽死について――わが国の場合」で、日本生命倫理学会の会長も務めたことのある星野一正は次のように記している。
 「デレック・ハンフリー氏の著作『FINAL EXIT』の英文原著を拝読し、安楽死推進者ではない私でも、基本的にハンフリー氏の考え方に反発も反感も抱くことはなかった。それどころか、肉体的に精神的に苦痛にさいなまれながら死にきれずに葛藤している患者への温かい思いやりとコンパッション(compassion)に溢れた著者の人柄がにじみ出ている本書にむしろ共感さえ覚えたのであった」(p.251)
 なおハンフリー(一九三〇〜)は英国人だが、彼が創始者の一人であるヘムロック協会は米国の組織。もう一冊、『ジーンの選んだ死』(Humphry & Wickett[1977=1979]が翻訳されている。この本のジーンは、ハンフリーの妻で、その安楽死をハンフリーが手伝った。それがその活動に入っていくきっかけになったと言われる。共著者のアン・ウィケットもヘムロック協会の創始者の一人であり、ハンフリーの二人目の妻でもある。この本では、キヴォーキアンンの行なった五四歳のアルツハイマー病の初期症状にある女性、ジャネット・アドキンズ(ヘムロック協会の会員)のことが記されてもいる。
★02 第V章でも取り上げられたピーター・シンガーとドイツの障害者たちの間の応酬については、『私的所有論』(立岩[1997:209→2012])で文献をあげた。米国の障害者たちが生命倫理学会に乗り込んだことがあった。そのことについては森岡[2006]。


■■オランダ 2001/01 [連載05]

 調べたら、まだ出版されて数年しかたっていない本のほとんどが品切・再版未定だった。出た時にすぐ買っておかないとなくなってしまう。ただこのテーマはそれなりに関心があるのか、地域の図書館などに所蔵されて場合もあるようだ。一人で買おうと思っても予算の制約があるから、図書館や図書室できちんと購入していくしかないということか。
 前回が米国で今回はオランダにおける安楽死をと思ったのだが、購入可能なことを確認できたのは一冊だけ(訂正があれば次回に)。それで表紙写真も今回は一点。生井久美子『人間らしい死をもとめて』([1999])。著者は朝日新聞の記者だが、この本は一九九八年、この新聞社の総合研究センターの研究員としてしばらく新聞の仕事を離れ、各国を五週間取材して書いた本である。英国、ドイツ、デンマークのホスピス、そして在宅死の援助を取材して書かれたのがI〜V。
 そしてVIが、積極的安楽死を助けた医師に刑を課さない法をもつ唯一の国ということになるオランダについての報告。(ややこしいが、この本に書かれているように、これは安楽死を合法としているということではない。ただ昨年〔二〇〇〇年〕の十一月、安楽死を合法化する法案が国会の下院を通過。これら最近の事情はHPに少し掲載。)後で紹介する本の著者でもあるオランダ在住のジャネットさんの協力も得て、安楽死の援助、自殺幇助を実際に行なっている人、今はやめているが過去に行なった人、安楽死した人に付き添った家族、反対の立場をとる人、オランダ自発的安楽死協会で活動する人などへのインタビューがまとめられている。
 本全体の序は日本の現状から始まり、「日本ホスピス・在宅ケア研究会」の総会での議論が紹介される。そして各国での取材の成果が記され、「終章に代えて」で、ふたたび「ヤミ付き添い」「チューブ」「抑制」という日本の現状に戻る。それに比べて、取材した各国での様子ははるかにましであり、「先進国」である。だから安楽死についても、疼痛緩和とインフォームド・コンセントがきちんとなされていない日本の状況で、「安心して安楽死のことは考えらない」(p.264)という、まずはその通り、と私も思う文で結ばれる。
 もちろん、なんでも斜に構えて見ることはできる。一度つき離して論じようとした黒田浩一郎の「ホスピス」(黒田[1998])といった文章もある。この文章については、誤解と曲解にもとづく大変こまった文章だという評価を、当時このテーマで修士論文を書いていて、その後またターナミナル・ケアの現場に戻った看護婦の人から聞いたことがある。その評価もわかるように私は思ったのだが、そんな困った「医療社会学」のことについてはそのうち紹介し考えてみるとして〔→別書で、の予定〕、またよろしければ、生井の本、様々な「死生学」の本と合せて読んでおいていただくとして、まず、この生井の本は一読に値する。
 もちろん軽いテーマではないが、文章そのものはとても読みやすい。高校生ぐらいでも十分読み進めていける。まとまった文献紹介の部分はないが、それは直接取材に基づくこの本には必須ではない。紙数もいる。そうした情報は、例えばこの連載のような別のところから得るとして、演習などでまず読んでみる本としても勧めることができる。

 さてそのオランダ安楽死関連本情報。以下ざっと並べていく。それにどれだけ意味があるか正直わからない。だが、意外にも多くの本がここ数年の間に出され、そしてそのほとんどが今は買えないということを知っていただいてよいようにも思う。
 まず、ジャネット・あかね・シャボット『自ら死を選ぶ権利――オランダ安楽死のすべて』(シャボット[1995])。著者は日本生まれのオランダ在住の人で、実際にそこに住んで時間をかけて取材をして書かれた本である。病気でなく肉体的な苦痛はなく精神的苦痛だけを理由に自殺幇助を求め、精神科の医師で、著者の親戚でもあるシャボットの幇助を得て死んだ人――これは、少なくとも社会に知られたケースとしては最初だった――の死に至る経緯についての詳しい記述もある。
 『安楽死――生と死をみつめる』(NHK人体プロジェクト編[1996])にも現地取材にもとづいたかなり詳しい紹介がある。「自分では何もできなくなり、すべてを他人に頼らなければならないという状態で……屈辱感に耐えられないという患者」([133])が安楽死を選ぶという部分が私は気になって、『私的所有論』の注でこの前後を含め引用したことがある([1997:168→2012]第四章注12★)。
 生井の本にもそんな部分がある。長くなるが引用する。

 オランダ自発的安楽死協会は安楽死に関心のある人の相談に乗っているのだが、そこに用意されている安楽死を要請する「書類の表には、耐えられない苦痛があった時には安楽死を要請します、と明記され…裏には私にとって耐えられない苦痛とはどういうものか、日常のことを他者に依存すること、痴呆症に相当するもの、完全に耳が聞こえない状態――などと書いてある。これに記入して、家庭医や代理人になってほしい人に渡し、自分でも保管しておく仕組みだ。『…耐えがたい苦痛とは精神的なものも、もちろん入っているけれど、尻込みする医師が多いのが現状です。』それぞれの人にとって、何が、耐えられないか、は違う。『耳が聞こえなくなること、目が不自由になること、全く動けなくて人の手にすべてを頼ること、と実にさまざまなのです。協会では、高齢者の安楽死の可能性を追求しています』と話した。」(p.253、改段落を省略、『』内は協会の心理セラピストの発言)

 他に平沢一郎『麻薬・安楽死の最前線――挑戦するオランダ』(平沢[1996])。そして、安楽死、自殺幇助を行ってきたベルト・カイゼル医師の『死を求める人々』(Kaizer[1997=1998])。著者は生井の本でもインタビューに応えている人(そこではカイザーという表記になっている)である。
 さらに、ジョナサン・D・モレノ編『死ぬ権利と生かす義務――安楽死をめぐる19の見解』(Moreno ed.[1995=1997])。これは米国で出された本で、生命倫理の分野では有名な人たちを含む様々な論者が雑誌等に書いた文章(比較的短いものが多い)を編者が集めたもので、米国の状況をふまえての議論が大部分なのだが、五部構成の第三部が「オランダにおける安楽死」。四人の米国人がオランダの安楽死について書いた文章が収められている。
 そして『尊厳死を選んだ人びと』(Kuhse ed.[1994=1996])。編者のヘルガ・クーゼはオーストラリアの女性の生命倫理学者で、別の回でもとりあげることがあると思うが、ピーター・シンガーという人との共著の本もある。この人の立場ははっきりしていて、賛成。消極的安楽死と積極的安楽死の区別も無意味という主張もしている。「〔この人たちの論は第V章で紹介されている。立岩は連載の第73〜75回(二〇〇七年)で取り上げ、それは『唯の生』第1章に加筆のうえ収録された。〕この中にオランダの医師ピーター・アドミラールの文章「死を望む患者に耳を傾け、手を貸す」が収録されている。
 最後に、法学者による著作として『オランダの安楽死政策――カナダとの比較』(宮野[1997])★01。

                      ***

 すこしテレビのことを。「にんげんゆうゆう」という番組がNHK教育で午後七時半からある。〔二〇〇一年〕二月二一日がこのテーマだった。私は編集され放映されるテープを見てコメントするという役を仰せつかった。番組では米国での賛否両派のテレビ広告がさっと流され、そしてオランダに移り住み結婚して暮らしていてがんにかかって長い闘病の後、安楽死を選んだ日本人女性★02のことが紹介され、そこでコメント。そして「東海大学事件」、日本尊厳死協会のことが紹介され、そしてまたコメント。おわり。
 収録が終わってとても疲れた。重い主題だからだったのではない。まず時間的にきつかった。最低言わなくてはならないことが時間の中に収められない。けれど切り詰めて言ったらわからない。結局後者の方になってしまったのだろう。放映のしばらく後、今すぐにということではなさそうだったが、安楽死をしたいと思うという、十数年前事故で頚椎を損傷した、私と同年輩の人から電話があってしばらく話したりした。
 さて、その番組前半のオランダ在住だった女性のこと。その人は自ら納得してはっきりした意志のもとりっぱに死んだ。家族の人も友人もよい人のようだった。これはたぶん本当だ。ただまず一つ、オランダではみんなそうなのか。前号で紹介した本でヘンディンが問題にしていた一つはそのことだ。今回紹介した本にしても、それなりに考え悩み、その上で自らの主張と実践を語ることのできる人が、つまりりっぱな人が、本を書き、取材に応える。ホスピスだって、医療・看護の実践全般だってそうだ。しかしそれはみんながそうで、社会全般の状況がそうなっていることを意味しない。まずこのことを言わないとならないから少し言った。それから…。(続く)

■註
★01 論文は多数ある(→HP「安楽死・尊厳死:オランダ」参照)が、法学者による単行書として本文にあげた宮野彬[1997]。基本的には一九九二年のカナダのマニトバ大学での安楽死会議の各報告を順番に紹介するというひどくあっさりとした作りの本。この会議での報告で提出した原稿を集めた本(Sneiderman & Kaufert eds.[1994])がでていて、この宮野の本もそれを頻繁に参照している。終わりの方に、主に国内で出た文献を使ってオランダでの動向を紹介する部分がある(宮野[1997:212-268])。
 『オランダの安楽死』(山下邦也[2006])は、長く『香川法学』等に論文を発表してきた著者(二〇〇四年没)の遺稿集。その制度・法の歴史については最も詳しい(が品切れになっているようだ)。山下らにより日本に幾度も招かれ講演などを行なったオランダの法学者ペーター・タック(他)の論文及び「要請に基づく生命終結および自殺幇助(審査手続)法」全文の訳文を集め甲斐克則により編集され出版されたのが『オランダ医事刑法の展開――安楽死・妊娠中絶・臓器移殖』(Tak/甲斐編訳[2009])。書籍としては、法律制定後の事情も含め、複雑な法律の制定過程とその内容を知るにはこの本が唯一ということになるだろう。オランダでは(積極的)安楽死が合法化されていると報道され、さきの私の文章もそうなっている。それに対してそれは「誤解」であるという指摘もまた――二〇〇一年法(四月一日施行)の前後でその指摘の意味も変わってくるのだが――繰り返し法律の専門家からなされてきた。まず二〇〇一年以前には法律そのものはなかった(最高裁判所の判決において刑の免除がなされ、それが判例法として機能した)。それはその通りである。次に、二〇〇一年の法律では、刑法二九三条第一項は「他人の明示的かつ真摯な要請に基づいて故意に生命を終結させた者」については有罪とされるが、その第二項がその二〇〇一年の法の「第二条に規定する相当の注意(dure care)の条件を遵守した医師により実現され、かつ遺体処理法第七条二項に従って自治体の検死医に申告されたときには、犯罪とならない」(Tak/甲斐編訳[2009:45])と改正された。このことを合法化と呼ぶのか、あるいは別の言葉で言うのかはおいて、そのようにことは決まった。タックは自国の法律(およびそれ以前の判決、判例法)を、言われているほどひどいものでないと言い、「要請に基づく生命終結を認める」ものであるとする見解(他)を「論証ばかりか、説明においても、実際に間違っているか、偏向している」(Tak/甲斐編訳[2009:1])と記しているのだが、上記の法文を読めば、「犯罪とされなくなったこと」とどうしても区別する必要がないのであれば、日常的な言葉の用法からは、合法化と言ってもよいように思われる。
 そして、本文にも一部あげたが、報道番組やジャーナリストによる著書・記事にずいぶんと採り上げられてきた。一九九四年のTBS「スペースJ」でオランダのドキュメンタリー番組「依頼された死」が放映された。その内容とその反響(相当数の抗議も寄せられた)については『ALS』(立岩[2004b:326-341])で紹介した。著書としては、『自ら死を選ぶ権利――オランダ安楽死のすべて』(シャボット=Shabot, Janette A. Taudin=ジャネット・あかね・シャボット)[1995])、『麻薬・安楽死の最前線――挑戦するオランダ』(平沢一郎[1996])、『安楽死――生と死をみつめる』(NHK人体プロジェクト編[1996])、『安楽死のできる国』(三井美奈[2003])。これらは現地報告といったもので、とくに前の二つはそれなりの分量もあり、様々な面を取材して記述している。他にも、鈴木崇夫[2002:209-217]等、部分的な言及がある文献は多い。むろん、それらでは肯定的なことが様々に書かれるのだが、そうとばかりも読めない部分もある。
 「オランダで行われている安楽死や自殺幇助のほとんどは、がんの末期患者で、自分では何もできなくなり、すべてを他人に頼らなければならないという状態で余命予測の二、三日以内の人で、最長でも二、三週間の屈辱感に耐えられないという患者です」(インタヴューに対するオランダ人の回答――後藤猛[1996:133]に掲載。)
 所謂「ペイン・クリニック」が整備され痛みの制御が十分な水準に達した時(オランダではそうだと言う)、自己決定される死は身体的な苦痛から逃れるためのものでなくなる。この時、その決定の理由は、「屈辱感に耐えられない」といった、より「人間的」なものになる。このことを『私的所有論』(立岩[1997:168])で述べた。
 また、オランダの一般医は保険機関からの支払いにより収入を得ており、その額は登録患者の人数に応じた定額になっているため、費用のかかることを行なわないのが得になる仕組みになっていること、このNHKの番組でこうした制度を捉える視点が欠如していることを指摘する伊藤[1996:44]が重要であることを『ALS』(立岩[2004b:427])で述べた。
 以下のような、無茶といえば無茶な――オランダ安楽死協会の人自身が言うのだが――評言も――別に紹介する(そこでその意見に全面的に賛成できかねることも述べる)ヘンディンの本にある。
 「カルビニズムの残滓はオランダ人の生活の中になお浸透している。カーロス・ゴウメイスの引用によると、NVVE(オランダ安楽死協会)のウィリアム・ルースはこう語っている。「オランダの人間はだれでもカルビニストです。プロテスタントもカルビニストなら、カトリックもカルビニスト。私のような無神論者でさえ、そうです。この国の共産主義者は最悪のカルビニストでしょう。それは一体、何を意味するのか。それはわれれわが規則好きだということです。しかし、その規則の意味をとやかく言われることは、好きじゃないんです。」(Hendin[1997=2000:177])
 規則好きがどこまでカルヴィニズム(カルビニズムでも、どうでもよい)と、オランダと関係があるかわからない。(むしろ一般に言われるのは、オランダ(人)は麻薬にしてもなんにしても自由を大切にするということだ。)ただ、『私的所有論』第6章2節「主体化」2項が――ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Weber[1904/1905=1989])で検討した――「二重予定説」で、、つまりはカルヴィニズムを取り上げたのだが、そこにある教義とここで選ばれる死との親和性はあるように思う。行いが人を規定する。行いの不在あるいは価値のない行いは無価値であり、その生は無価値である。人が自身を統御することは立派なことである。だから死を統御すること、計画し実行することも立派なことである。
★02 『美しいままで――オランダで安楽死を選んだ日本女性の「心の日記」』(ネーダーコールン靖子/秋岡史解説・編[2001])。歌集『オランダはみどり』(ネーダーコールン靖子[2000]もある。この人とその死についてについてごく短い文章だが佐佐木幸綱[2005→2006]もある。それは藤原書店のPR誌『機』にリレー連載という形で書かれた原稿を集めた『いのちの叫び』(藤原書店編集部編[2006])に収録されている(この本には私の短文[2000a→2006]も収録されている)。また佐々木はネーダーコールン[2000]に「解説――靖子さんの歌」を書いている。


■■清水昭美 2001/06 [連載06]

 前回の後半で、教育テレビで安楽死を扱った番組があってそこで少し話したこと、というか話せなかったことの途中まで書いた。この世にあるのはテレビに出てくるような、立派な話だけなのかと述べた。
 次は、本当にその通り、オランダで亡くなった日本人女性のように、その本人の明確な意志によるものだったとして、その時には問題はなくなるのかということ。そうかもしれないと思いながら、けれどどうして死ぬことにしたのだろう、これが一つ大きなことだと思うのだが、それを語るのは、難しくはないが時間が少しかかる。少し話したが、わかってもらえた自信はない。あと一回は続けるこの主題についての本の紹介の終わりの方で、このことにはまた戻ってこようと思う。
 ただ、三月号〔→本書●〕に記した米国の障害者団体のホームページを紹介して、その部分を問題にしている人たちがいることはなんとかつけ加えた。反対派というとすでにカトリックなどの宗教勢力が持ち出されるが、影響力の大小はともかく、他にも批判はあり、それは病や障害に関わる価値のあり方、社会のあり方を問題にした。それは同じ号に著書を紹介したヘンディンのように自殺を求めることを精神病理として見るのとはまた異なる立場からの主張である。
 番組は日本のことに移った。東海大学病院での事件、京都の京北病院での事件が紹介された。そしてリビングウィルを普及させようと活動している「日本尊厳死協会」の人へのインタビュー。これで終わり。三〇分の番組に残されたのは最後の数分。
 まず、東海大学病院での事件は、普通の意味では安楽死と呼ぶことのできない事件だから、どう性格が違うかを、ごく簡単に、言わなくてはならない。(さらに、あれがいったいなんだったのかについても本来は言うべきなのだろう。しかし時間はなかった。ちなみにこの事件を扱った本も何冊かある〔『唯の生』(立岩[2009:278]で紹介〕。)そして日本尊厳死協会についてはほとんどふれず、とにかくまとめるにはまとめて?、終わるには終わった。

 ほとんどふれられなかったこの協会の前身は「日本安楽死協会」であり、こちらは一九七〇年代に安楽死の合法化を主張した。この組織の中心にいたのは、後でもすこしふれるが、優生思想家であり優生保護法にも関わった太田典礼という人物だった。
 それが尊厳死協会の今の活動に直線的につながると言いたいのではない。ただ協会が法律の制定を断念し組織名を変えた時、「誤解を招く」とか「日本社会では時期尚早」といった類いの説明はあったにせよ、過去をどのように捉えているのかは明確でない。ホームページ等を見ても、むしろ以前からの連続性は否定されていない。そんな歴史がある。
 ところが、二つの協会編の本や関係する人の著作はかなりの点数出版されているのだが★01、それを取り上げ、記録し、論じたものはほとんどない。第一回で米国における生命倫理の歴史を追った本を取り上げた。かの国の歴史については本が複数出ているのに、日本で何があり、どんな議論があったかは、知られていないのである。自国のことだから知らなくてはならないということはない。しかしこの主題については、そう簡単に忘れてしまうわけにはいかないことがある。
 こうした部分を含めて、ずっと、きちんとものを書いてきたただ一人の人が清水昭美である。
 彼女は、看護や医療についての多くの文章、著作によって、その世界ではよく知られているはずだが、その最初の単著は一九六四年の『生体実験』(清水[1964])である――ここでも米国で人体実験の告発がその後に影響を与えたこととの共通性と差異とを思ってしまう。増補版が一九七九年に出た(清水[1979])が、今はこれも手に入らない。その清水は、安楽死についても一九七〇年代より一貫して批判的立場から発言を続けている。雑誌論文などを含めていくつもあるが、今買える〔執筆時に買えた〕ものでは以下の本に文章が収録されている。
 一つは「「安楽死」「尊厳死」に隠されたもの」(清水[1998])。いわゆる先端医療(というのも臓器移植や選択的中絶や安楽死の処置は少しも先端的でないからだ)に批判的な文章が集められた『操られる生と死』(山口研一郎編[1998])にある。(今回の主題に関連する文章として他に『死は共鳴する』(小松[1996])の著者小松美彦の「「死の自己決定権」を考える」(小松[1998])。この論文を含む小松の論についてはこの連載第三回〔本書では略〕に紹介した拙稿「死の決定について」で検討した。)
 そして『医学と戦争――日本とドイツ』(神奈川大学評論編集専門委員会編[1994])。神奈川大学STS(科学技術と社会)センターが主催したシンポジウムの記録を中心に、両国における医学の戦争への関与についての論考が加えられている。ナチス・ドイツ下の強制収容所での人体実験、障害者・病者の安楽死(というより、純然たる殺人だが)、七三一部隊による人体実験等。まったく気が滅入るが、この連載でもどこかで取り上げなくてはならないだろう。この本に清水は「「人間の価値」と現代医療」(清水[1994])という文章を寄せており、その一部に安楽死についての記述がある。
 この二つの文章では、そう長くはないが、日本安楽死協会の活動、それに反対する運動が紹介され、協会の活動を主導した太田典礼らの新聞やテレビでの主張、発言が引用・紹介されている。後者の本には、植物状態の人を世話し続ける家族を紹介した番組での「弱者で社会が成り立つか。家族の反社会的な心ですよ。葬式はでにするのと一緒ですよ」という太田のコメント他が載っている。「そうか、そこまで言うか」と思う人もいるかもしれない。私もそう思って、『私的所有論』(立岩[1997:168→2012])、こちらは前者の本からだが、孫引きさせてもらった。
 清水の単著『看護婦が倫理を問われるとき』(清水[1995])でもこの主題はとりあげられている(ただ右記した発言等はとりあげられていない)。この本は、看護の仕事に就いている人、就こうとする人にまっすぐ向けて書かれた本であり、例えば静脈注射を指示されたらどうしたらよいかといったテーマが扱われているのだが、第三章「命の重みを忘れてはいないか――”安楽死”をめぐって」では東海大学病院での事件について論じられている。また、第五章「信頼できる医療に向けて」に「安楽死の時代をむかえて」がある。これは一九七五年の『看護』掲載の文章がもとになっているが加筆され、一九九〇年代のオランダの安楽死にも触れられている。
 対象者が拡大されていくおそれ。本人の気持ちにせよ家族の気持ちにせよ変わるものだということ。死にたいと言う背後には苦痛があったり、経済的な問題があったりすること。そして苦痛はやわらげることができること。また、オランダの状況については「精神的な苦痛」が理由となっていること。これらが指摘される。
 この連載からして米国のことから始めてしまったのだが、「外国事情」の紹介や、「あえて」――と称するものが実はたくさんある――安楽死の推進を主張する本が翻訳されて出たりはするのだが、清水の文章はどれだけ読まれているだろうか。彼女が繰り返し問題にし、書いていることを受け止め、その上でなおなにが言えるか考えてみたらよいと思うのだが、そうなっていない。
 様々な主題が論じられる本の中に比較的短い文章として収められているせいもあるかもしれない。この主題だけで彼女が本を書けばよかった。いや今からでも書いてほしいと思う。
 清水の文章は、文学作品をとりあげた『文学のなかの看護』(清水[1990][1992])にしても、切迫した表現で、直接に医療の歴史と現状への批判に向かい、医療と看護のあるべきあり方を説くものになっている。それで「教養」として本を読む人、本を読む人に向けて本を売ろうとする人に受け入れられない、知られないということだろうか。だが、少しも楽観できるような状況ではないのだから、この切実さは必然的なものではある。いかにも共感されそうな例をとりあげる推進派に対し、批判者は危険な事例をとりあげる。実際に危険なことが行われ、言われるのだからそのこと自体は当然ではある。
 ただ私は、賛成論を読めば正しいように思い、批判論を読めばもっともだと思う軟弱な人間だ。こんな人間に批判を理解させるには、かなり説得力のある賛成論、ひどい事例と思えない事例をこそとりあげ、それをどうみるか考えていくという方法もよいかもしれない。そんなところからもとりあげたい著作家がいる。誰もがその名を知り、すぐれた育児書のお世話になった人も多いだろう松田道雄である。


■■松田道雄  2001/07[連載07]

 それにしても〇か×かやっかいなこの主題だが、それでも考えるなら、〇と×の両方があって、そこから考えて言った人の言ったことを知るとよい。
 その一人が松田道雄である。一九〇八年に生まれ、一九九八年に八九歳でなくなった。知らない人はいないと思う。いわゆる学者ではなかったが、『育児の百科』(松田[1967]初版、以後毎年改訂)他多くの本を書いた。ネットで探したら、現在〔執筆時〕購入できる本は十冊。七六冊は買えない。ただ図書館などにはかなり入っているはずだ。
 彼はかつて日本安楽死協会による安楽死法制化の動きに反対したが、八八歳の時に出版された最後の著作、『安楽に死にたい』(松田[1997])では安楽死を肯定する。(買える。この主張につながるそれ以前の著作として岩波ブックレット『安楽死』(松田[1983])があり、『わが生活 わが思想』([1988])に一部が収められているが、いずれも品切。)
 ただ彼が単純に「転向」したと考えることはできない。それをどう考えたらよいのかが重要だと思う。とても書き切れるものではないが、少し(HPに著作リスト、引用集等掲載)。一つは、誰が決めるべきことか。もう一つは、なぜ死のうと思い、決めるのか。この二つの関係をきちんと考えるのは大切でそして難しいことなのだが、まずは二つあるとだけ言っておく。
 前者について、彼は患者の権利、消費者主義をはっきりと主張した。一九六九年の『世界』に掲載された文章には「生き方について、とやかく人から指図してもらいたくない、自分のことは自分できめるというのを、法律のことばで自己決定権というのだそうです」([1969])と、「自己決定権」という言葉がある。かなり早い用例ではないか。彼ははっきりと「自己決定派」だ。生きることも死ぬこともその人自身の決めることだという立場である。とすると原理的には安楽死、自殺幇助は否定されないことになる。
 しかし彼は、
太田典礼らが中心となり日本安楽死協会が「安楽死法」の制定を主張した時には反対した。本人が決めるべきだという主張は一貫していて変わらない。それでも反対するのは、どんな理由で、現実にどんな力が働いている中で死ぬことになるかを思うからだ。『安楽に死にたい』では、「私はその会が法律学者や医者が主になっていて、一般市民の立場にたっていないと思って、急に法律をつくることに反対しました。」([1997:29-30])とある――これは回顧した文章だが、一九四〇年代から、そして一九七〇年代の反対運動の中で書いた文章は『生きること・死ぬこと』([1980])に収められていて重要、しかし絶版。
 その専門家優位の状態はそれから二〇年ほどの間に変わったのかという指摘があるだろう。松田には医療の「延命主義」の方がもっと本人・市民の側に立っていないという判断があったのだろうが、かつては「市民の立場」に立っていないとされた安楽死肯定の立場が変わったと言える現実的な条件が今はあると言えるのか、このことはそう論じられていない。この問いはまだ残る。前月号に紹介した清水昭美の批判も覆されず残る。そのことをまず確認しよう。
 もう一つは、その本人にとっての死ぬこと(生きること)の意味。彼は一九五三年には次のように書いている。「どんな病苦も生きることを断念させるほど大きなものではありません。少なくとも人生は、肉体の苦痛をこえるほど偉大でたのしくあるべきです。」(「安楽死と医学」、松田[1980:35])だから死ぬことはないのだと言う。
 ただここは微妙で、同じ本に青年の自殺と老人のそれとは違うのだと記す文章もあり(「老人と自殺」〔松田[1980]に収録、野坂編[1983:59-63]に再録〕)、それがさらに『安楽に死にたい』では、「老衰が進んでくると、生命が惜しくなくなるのです。苦しみ通すよりも、おだやかな方法なら、死んでもいいという風にかわってくるのです。これは若い人にはわからないでしょう。/医者は自殺を鬱病の症状と決めていますから、「安楽死」に患者の道があるということに思い至りません。」(p.15)「問題にしているのは年をとって、絶望的な状態になった時の延命です。その時の気持は年をとって弱ってきた人間でないとわかりません。ところが新聞に記事を書いている人は、大抵三十歳代の健康な人で、年をとった親の死病を介抱したことのない人です。/医者に同調して延命至上主義の立場に立ちます。」([17])そして、「日本で安楽死を法律で許すときは、世界に先がけて患者主導の幇助自殺をみとめたいです。西洋とちがって、日本では自殺は悪でないという伝統があるからです。」(p.21)と言う。
 「若い人にはわからないでしょう」と言われると、そうだよな、と思う。ただ、この辺りの価値観は個々人のものであり、本人のことだという主張をもっともと思いながら、しかしそれでも気にかかるところがある。そしてそれは、前回も前々回もこの主題を取り上げたテレビ番組のことを書いたのだが、そこで言い切れなかったことと共通するところがある。

 その番組で取り上げられたオランダで死んだ女性は、ガンを患っていて耐えがたい身体の痛みがあった。ただその痛みは薬で緩和することができた。けれども彼女は薬を使わなかった。それは意識の清明さを保とうとしたからだ。それは立派なことかもしれない。けれどもその立派さは死を選ぶほどの立派さだ。
 もう一つ別の番組。私は、学校での講義で、カナダの放送局CBCが制作したスー・ロドリゲス裁判を記録した番組のビデオを見てもらう〔立岩[2005]でそのことを紹介している〕。NHKが一九九四年九月に海外ドキュメンタリー「人は死を選択できるか」として放映したものである。ALSにかかった女性が医師による自殺幇助の合法化を求めて裁判を起こし、最高裁まで闘い、結局敗訴する(彼女自身は、医師による自殺幇助で死ぬ)。過剰にドラマチックにしたりはせず、抑制のきいた番組だ。しかし、気になることはある。その番組は、抑制をきかせつつこの病気が悲惨であることを伝える。そして彼女は美しくも悲哀に満ち悲壮なのだ。たしかにたいへんな病気である。しかし、もっと症状としては進行しているがもっと普通な感じの人がいることを別に知っていると、やはりなぜなのだろうと思う。そしてその知っている人は
人工呼吸器をつけているのだが、その番組には呼吸器のことは出てこない。彼女はそのことを言わない。選ばなかったのだろうか。彼女は身体が自力で思うようにならないことを屈辱と思う。自らの「尊厳」が侵されていると言う。それは死よりも重いものとされる。身体機能、知的能力の衰退を死より重くみる感覚・価値がある。第4回〔178−179頁〕で紹介したキヴォーキアンの自殺機械を最初に使ったのもアルツハイマーにかかった人だった。
 松田は本の最初で「この本でいう安楽死は重い障害のある方の生死とは関係ありません」(p.2)と断わっている。「障害者差別につながる」とか言われないための言い訳でなくてほんとうにそう思ったのだろうと思う。ただ年をとった自分の気持ちとして、生きたい人はもちろん生きてよいが自分は、とただ自分のこととして書いたのだろう。松田道雄はまったく立派な人で、権威主義から遠く離れた人で、人にやさしかった人だが、ただ、自分自身に限れば、自分がただたんに衰弱していくことが、もうそろそろ、と彼自身を思わせる。たしかに年をとってみないとわからないことかもしれない。しかし、こういうごく個人的な倫理、価値とされるものを、はいそうですね、と言って終わらせられないというところから、安楽死に対する疑念は来ているのではないか。自分に対してとことんいいかげんにはなれなかった松田の議論をそのまま肯定しきるか、これがこの主題を考える上で一つ大きなことではないか。「精神的苦痛」という理由がひっかかるのも、障害者の反対運動が気にするのもこのことに関わるのではないか。
 ともかく私が必要だと思うのは、松田のような誠実な思想家の足取りを追って考えていくことだ。だが私が知る限り、書いているのは八木晃介川本隆史だけで、川本のは「老いと死の倫理――ある小児科医の思索を手がかりに」(川本[1997])と、彼が編者の『共に生きる』(川本編[1998])所収の「講義の七日間――共生ということ」(川本[1998])。後者にはごく短い言及しかないのだが、他にも興味深い文章が入っているのでこの本を挙げる★01。

★01 八木は清水昭美とともに一度めの法制化の動きのとき「阻止する会」の活動の実務を担った。また二度めの「阻止する会」の呼びかけ人の一人でもあり、この主題について論じている著作として八木[2008]。なおこの第二期の代表を務めさせられたのは水俣病の研究者で水俣病者の支援者だった原田正純で、二〇一二年六月逝去。原田の著作について『良い死』(立岩[2008:219,228-229])ですこしふれている。
■■斎藤義彦+DPI(障害者インターナショナル)世界大会で 2003/08 [連載30(抄)]

 第4〜7回(2001年四〜七月号)〔●頁〜〕で「死の決定について」の本を紹介した。昨年末、斎藤義彦『死は誰のものか――高齢者の安楽死とターミナルケア』(斎藤[2002])が出た。筆者は毎日新聞社の記者★01。「長命社会取材班」に参加して取材した記事がもとになっている。章立ては、老人ホームの「安楽死」/医療現場に広がる延命手控え/延命手控えの全国的実態/受容されない尊厳死/医療の進歩と延命措置手控え/安楽死の闇と自己決定権/「末期」「尊厳死」概念の混乱/生命倫理の混乱/延命手控え海外の事情/安らかな死とは何か。
 ある老人ホームやある老人病院で起こったことの記述からこの本は始まる。そして取材班は各地の病院を取材し、またアンケート調査を行う。医療者に対する調査結果も報告されている。その人たちの意見も、その両極においてははっきり分かれている。それを詰めれば一つの結論にすぐ導かれるとは思えない。ただこの本はこの種の文章に時にみられる両論併記(をもって「客観報道」とする)に止まろうとはしていない。
 一つに主張の中にある矛盾や問題を指摘する。例えば「日本尊厳死協会」で一九九三年から「痴呆症の尊厳死」を協会のリビング・ウィルの条項に加えようという議論が始まった。それが報道され、九六年には「呆け老人をかかえる家族の会」から申し入れもあり、結局「時期尚早」としたものの、協会とその役員はあくまで自分たちの主張が正しいとした。筆者はこの経緯を簡単にではあるが辿り、その上で、協会の主張が延命措置停止についての判例の規準からも、協会の尊厳死の定義からも逸脱していることを記している(第7章)。

 「成田理事長は、同年九月、「家族の会」に申し入れの回答を送った。回答は議論の打ち切りを知らせてはいたが、「痴呆症の尊厳死」への強いこだわりを示していた。「議論の中心は、助かる見込みのない重度老年期痴呆に限られており、しかもその人の人生最後の、唯一の願(事前の自己決定)を容れて、延命措置だけをやめるなら、法的にも人道的にも、それがむしろ当然の措置でなんら問題はないはず。どうしてこれが世間の一部の人が言うように、弱者の切り捨てになるのか、どうして福祉の充実に逆行するというのか全く理解しがたく、誤解も甚だしいと評する外ない」。「家族の会」との認識のズレは一向に埋まっていないことを示す内容だった。」(p.150)

 そして起こっている事態をどう見るか。介護のこと、身体的・経済的負担を恐れ、早く死んでくれることを望み、医療側がそれを受け入れ、場合によったら先回りし、また身寄りのない人の場合にはそれに応じて処するといったことはずっとあったはずだ。それがこの頃になって、少し言葉を知っている人なら「尊厳死」といった言葉を使う。それによってその行いは少し表立って言うことができ、後ろめたくなく思うことのできることになった。そんなことが身の周りにもある。他方の「たんなる延命」といった言葉にも似た効果がある。「現代医療=延命至上主義」というキャッチフレーズもそのまま信じられないし、「チューブにつながれる」という言い方がもつ予め決まった否定的な意味付与にも注意すべきだ。つまり注意深さが必要で、この本はその注意を喚起している。
 例えば人工栄養の現状を取材した第5章で、筆者はチューブが不要な場合があることを認めつつ、「嚥下障害の実状や、リハビリの困難さを無視し「チューブはやめて」と感情に訴えるような非科学的な主張は、少数者を抹殺しかねない非人間的な論理なのだ」(p.128)と言う。

                      ***

 第二一回(昨年十一月号)でメアリー・オーヘイガンの本〔『精神医療ユーザーのめざすもの――欧米のセルフヘルプ活動』(O'Hagan[1991=1999])〕を紹介し、彼女がDPI(障害者インターナショナル)世界大会で札幌に来たと書いた。一一二の国・地域から参加があった昨年10月の大会の記録『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』(DPI日本会議+2002年第6回DPI世界会議札幌大会組織委員会編[2003])が出版された。とても厚い本なのにひどく安い。
 多くの分科会があった。障害者の権利条約/人権/自立生活/開発/アクセス/女性障害者/障害児/労働と社会保障/能力構築/障害種別や社会状況を乗り越えた連帯、等。ここでは約50頁の記録がある「生命倫理」の分科会だけを紹介する。
 四つの集まりがあった。遺伝学と差別/生命倫理と障害/QOL(生活の質)の評価/誰が決定するのか。そこに表出されているのは危機感であり、そしてそれは科学技術が人間に何をもたらすか、といった漠然としたものではなく、具体的なものだ。そして危惧は「生命倫理学」にも向けられている。例えばカナダ障害者協議会(の国際開発委員会の委員長)S・エスティの報告に次のような部分がある。

 「地元に一人しかいない健康保健学の教授が、病院の倫理委員会のメンバーに任命され、いくつかの教育訓練コースを受講し、生命倫理学者を名乗る場合もあります。」消費者・障害者でなく、医療とケアの専門家、「学術的関心」をもつ者が「生命倫理学者」になり、「その結果、「能力主義」が生命倫理の定義となり、医療モデルとして語られていくのです。」(p.275)
 「私は、倫理学者が病院の倫理委員会に含まれているのを知って、ショックを受けた。この委員会は、医者が治療をやめ、患者の死を幇助するのを認めている。[…]倫理学者が倫理委員会に加わり、これらの患者への医療サービスあるいは患者の生そのものを否定する方法論によって、死刑執行産業の設立を基本的に支援することになっている。」(p.276)

 そして(今ある)生命倫理に抵抗する別の生命倫理を示していくことが呼びかけられる。また次のような指摘もある。

 「国際生命倫理学会が、発展途上国に進出しようとしています。[…]途上国では活動に対する反発を感じることなく、研究を推進できると考えています。」(p.253)

 上記のように安楽死も議論されたが、より多くの時間話し合われたのは遺伝子検査、出生前診断のことだった。日本からは米津知子★02や〔連載に〕再三登場の安積遊歩★03等。マルティナ・プシュケはドイツでの「私たちは着床前遺伝子診断に参加しない」と呼ばれる運動を紹介した(pp.262-263)。
 他にも、それぞれは短いのではあるが、様々な主題、論点が示される。クリストファー・リーブ(頚椎損傷で首下が麻痺した「スーパーマン」の俳優で、どうしても回復するという堅い信念をもつ――ことにより全米で人気があり、同時に少なからぬ障害者には不評な人物〔二〇〇四年に死去〕)、彼が支持するES細胞の利用について(p.244-245)。ろうの親がろうの子が生まれることを望んで技術を利用することについて(問われた2人は反対だと答えた,p.248)。障害をもって生まれてきたのは医師の過失だと本人や親が訴えるロングフル・ライフ、ロングフル・バース訴訟について(p.236,268-269,287)。2人の筋ジストロフィーの子どもがいて「このような苦労を二度は経験したくありません」(p.254)という日本の男性の発言を巡る議論(p.254-256)、等々。WHOとユネスコの対応の違いについて述べたりもしている(p.267,281-282)G・ウォルブリング★04は次のような発言も残している。

 「子どもをもつ権利と、特定の子どもをもつ権利とを分けて考えることが必要だと考えてきましたが、それを説明するのに非常に苦労しています。私のような考え方をする人は、北米では少数派だと感じています。今回、前の米津知子さんの発表を聞いて、彼女も私と同じ考えであることがわかりました。」(p.283)

 各々の集まりからは決議(案)も出された――DPI札幌宣言(p.574-576)の文面とは同じ部分と違う部分がある。「私たちには違ったままでいる権利があり、障害を根拠とする出生前選択は行うべきではない。[…]パーソンという概念は能力とは関係ない」(p.250)、「選択的中絶は、リプロダクティブ・ライツの中に入らない」(p.289)、等。

■註
★01 一九六五年滋賀県生まれ。八九年毎日新聞社入社。他に介護保険関連で(斎藤[1997][2000]))、以下、連載42・43回(2004/10・11)では二〇〇四年の本を紹介した。
 「〔死は〕「隠されている」と言われるが、そのようにして、死について語られるようになってきた。それは、「死が語られていない」、「死を隠している」というように語る。そのようなことが始まって、少なくとももう三〇年ぐらい、ゴーラーの論文からなら四〇年ほどが経っている。そのことをどう捉えるか。
 第二に、こうした言説は、その著者たちが思いがどうであったかと別に、現代人の死に対する「いさぎの悪さ」を言うような方向に作用しうる。今のこの社会の人たちでない人たちは死を遠ざけようとしなかった。死を受容し、死んでいった。それに引き換え、私たちは死を恐れている、それはいけない、「徒らな延命」は問題だ。こういう筋の話に組み込まれることがある。さきにあげた本に書かれていることを概ね受け入れるとして、それはそれとして、この筋に乗ってよいのかである。
 こんなことが私には気になる。[…]
 毎日新聞の記者である斎藤の本は第三〇回でも『死は誰のものか――高齢者の安楽死とターミナルケア』(斎藤[2002])を紹介した。今回の本〔『アメリカ おきざりにされる高齢者福祉――貧困・虐待・安楽死』(斉藤[2004])〕は二か月半米国を取材して書かれた。米国のこの状態はまずいというはっきりした主張と、ジャーナリスト的に抑制した部分と両方がある。そして、ここに描かれるのもまた、現代的な米国的な死の忘れ方だとも言えはしよう。ただ事態はもう少し複雑なようにも思う。[…]
 私は、いま書く意味があるのは、まずこの本のようなものだと思う。
 米国での安楽死論議が紹介されることはあるし、高齢者の虐待防止のための活動が紹介されることもあるが、それがなされている、あるいはなされざるをえない文脈がある。一番簡単に言えば、金のない高齢者、あるいは医療や介護のために金を使い果たしてしまった高齢者が生きることは辛く困難なことだということである。それを見ないで安楽死について議論しても、また、たしかに意味はあるだろう権利擁護のための活動を取り入れようと言っても、仕方のないところがある。もっと時間をかけた取材、調査をすれば、また別の本ができただろうとは思う。しかし、米国の高齢者福祉や医療について書かれたものは他にもあるが、こうした本はこれまであまりなかった。実際を知るために、読んでおいたらよい本だと思う。」
★02 一九四八年東京都生まれ。二歳半でポリオに罹患し下肢障害がある。七〇年代のウーマンリブ運動に参加、優生保護法改定反対の運動に関わる。「SOSHIREN女(わたし)のからだから」で活動。このときの米津の報告はウェブ上で読める(米津[2002b])。他に米津[2002a]。横田弘『否定されるいのちからの問い』(横田[2004])に横田弘との対談(横田・米津[2004])が収録されている。ごく一部の人たちには「モナリザスプレー事件」の犯人として知られている。
 http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/archive/20081015には次のように書かれている。
 「フェニミズム運動は、しかし《きばらし》ではなくて、たいへんに《シリアス》な運動でした。私的こだわりで恐縮ですが、グリアやミレットの本がアメリカで出版される前年の一九六九年の多摩美大の美共闘(美術家共闘会議)のバリケードの中に、ウーマンリブの組織「思想集団エス・イー・エックス」が、自前の必然性で生まれます。その中の忘れがたい一人が米津知子だったのです。
 米津は一九四八年東京生まれで、二歳半でポリオに罹患し下肢障害がある女性です。きれいな方でしたが、片足に金属の補助器具を付けて歩いていました。筆者は彼女と救援対策の仕事を一緒にして、何度も並んで歩いたことがありますが、通り過ぎる身も知らない人が、彼女に向かって「ビッコ、ビッコ」と罵声を浴びせるのを何度も聞いて驚きます。
 多摩美バリケードの後、彼女は大学に戻り、卒業して、彼女は、新宿リブセンターの活動家となります。さらに一九七四年モナリザの来日に対して、スプレーをかける「モナリザスプレー事件」を引き起こします。発端は、モナリザ来日で、大混雑を予想して当局が車椅子と乳母車は入場を禁じたことでした。車椅子の方は、障碍者の団体が反応して抗議を行なったため、一日だけ「車椅子の日」を設けてその日だけ「みせてやろう」という対処があって、なおさらもめることになります。それでも乳母車については対策がなされなかったのです。障害をもつひとは、それぞれの予定と関係のないただ一日、車椅子を使わない友人とも同行できずに、「見せていただく」ことしかできないのか? 数時間待ちの行列に乳母車なしで託児もなく、おかあさんたちがならぶことができるのか? 結局こどもをもつ女性は見なくて結構、ということじゃないのか? というようなことを、米津知子は法廷で主張。
 結果は「科料三〇〇〇円」の物損(ガラスを汚した)ということで敗訴。いや「科料三〇〇〇円」、れは敗訴ではなく、完全勝訴です。私はしかしこの彼女の、自爆テロ的な戦いに、同伴は出来ませんでした。支援も出来なかった。美術家であると言うことのメンツの様なものが、邪魔をしたのです。その後の米津は、優生保護法の問題を知り、「SOSHIREN女(わたし)のからだから」のメンバーになり、戦い続けているのです。」
★03 一九五六年福島県生まれ。骨形成不全の障害がある。このたび第三版が刊行される『生の技法』(安積他[2012]、初版[1990]、増補・改訂版(第二版)[1995])の共著者。新しい方の単著として安積[2010]。
★04 カナダ・カルガリー大学に勤務。International Center for Bioethics, Culture and Disabilityを運営(メーリングリストがある)。日本語で読める文章としてWolbring[2008]。そのウォブリングが運営するメーリングリストではしばしば安楽死についての情報・意見が行き交う。


■■向井承子 2003/10[連載31]

 先日、最新作『患者追放――行き場を失う老人たち』(向井[2003])が届いた向井承子の本を紹介する。著者紹介には次のようなことが書いてある。一九三九年生。六一年北海道大学法学部卒業、北海道庁勤務、六四年退職後、婦人団体機関紙編集者などを経て、現在ノンフィクション・ライター。医療を中心としたテーマを執筆。
 私が知っている単著は十三冊あって、いま〔執筆時〕書店で買えるのは七冊。医療に関係するものでは、一つ前の著書が『脳死移植はどこへ行く?』([2001])。他にもこの主題についての著書、文章がある。ただ最初には、自分の子ども、自分の親のことがあった。子どもの医療についての本が『小児病棟の子どもたち』([1981])、『医療最前線の子どもたち』([1997])と十六年の間をあけて二冊出ている。(前者もまだ買える。晶文社はよい出版社だ。)『患者追放』の中にこの二冊について以下の記述がある。

 「二十数年前、私は地域に支える方法がないばかりに病院や施設に閉じ込められたままとなった長期療養の子どもたちのことを書物にまとめた。わが子の長期入院がきっかけだったが、私たちの社会が重い病気や障害をもつ人たちを見えない世界に閉じ込めて、何食わぬ顔で営まれている事実を初めてつきつけられた体験だった。まだ子育て中の母親だった私は、この世の同じ生を享けた子どもたちが、病気や障害の多少の軽重で残酷なほど運命が変えられてしまうことに、罪悪感にも似たやりきれなさを感じてたまらなかった。その理不尽をだれかれかまわず知らせたくて文字にした当時だった。
 数年前、同じ病棟をもう一度取材して書物を書いた。二〇年を経て、子どもたちの状態はかつては異質なほど変わっていた。ひとことでいえば重症化である。以前にもまして生きくい、育ちにくい子どもたちで病棟が埋まっていた。医学の発達が生み出した新しい困難な課題を改めてつきつけられる体験となった。
 二十数年前には、「病気があるというだけで病院に収容されている大量の子どもたち」に胸を衝かれた。現在は逆に、特別のケアがなければ生きにくく育ちにくい子どもたちが医療から「追放」されようとしていた。かつては、その子たちを地域に返してやりたいとあんなに願ったのに、いま追放される先とは地域とは名ばかりの荒野とは。」(pp.123-124)

 この変化は『患者追放』に書かれていることでもある。向井は長いあいだ父母を看る生活を送った。そして父はがんで一九八七年に亡くなり、母はさらに長く多くの病を病んで一九九四年に九〇歳で亡くなる――その頃刊行された著書に『老親とともに生きる』([1993])。『患者追放』は、母の死の頃を振り返った章の後、一九八〇年代後半に始まったと思える(p.168)変化を描く。帯の宣伝文は以下。

 「えっ、こんな重症者がどうして在宅なの? 病院に入院を拒まれたり、治療を拒否される老人が急増している。老人や重症患者をとりまく環境はなぜ激変したのか。「健康でないかぎり淘汰されるいのち」の時代のはじまりなのか。」

 本文から引用をもう一つ。「戦後史の数十年を一気に記してしまった」と記している部分の終わりの方だ。

 「過剰医療ということばが生まれる。患者がまで検査やクスリを消費するだけの存在、病院を支える道具のように扱われることになる。
 それは患者が選んだことではなく、医療関係者たちが患者を医療経営のコマとして扱う羽目に自ら追い込まれる、いわば自縄自縛の落し穴にはまってしまった結果なのだが、そのころから今度は[…]病院で医療に頼って生き続けるおとしよりの存在が財政面から問題視されることとなって、いまでは、医療が必要な人もそうでない人も一気呵成に医療から追放されようとしている。」(p.8)
   ***
 つまり、すこしだけ強い言葉を使えば、この社会・私たちは人を棄てる場所(その人はそこで、例えば収入源として、使われることもある)をもっているのだが、それにも移り変わりがあるということだ。
 まず、病院が次々と作られていった時期には、病院がその場所になった。病院にいなくてもよい人が病院にいたり、医療を受けなくてよい人が医療を受けたりもした。
 その後、今度はとくに高齢者たちが病院から追い出されるようになり、医療が必要な人も医療を受けられないようになった。本の後半では、関係する学会等の動き、二〇〇二年四月からの在院日数「一八〇日ルール」等、制度の改変についても記されている。
 こんなことが頻繁に起こっている場で仕事をしている人たちや、自らの関係者がその状況に巻き込まれた人はよく知っている。そして事態を呑み込めないままそのような境遇に追い込まれた人々がその境遇を生きて死んでいっている。ただこれは一つには、あまり表には出さないことになっている。ではただ隠されているのか。そうも言えないところが複雑なことろだ。つまり、「積極的」な医療を停止することが人間的なこととして、また財政の問題と関わらせられて、饒舌に語られてもいる。
 これはどうなっているのか。そしてここに至るどんな変化があったのだろう。これらをはっきりさせることが、先端医療がどうこうより、いま一番大切なことだと考える。
 無駄な投薬等がなされていたこと、いることを否定しない。いなくてよいのに病院にいることがあることがあることを否定しない。これは向井がこれまでの著書で述べてきたことでもある。しかしこのように事態を批判する言葉が、今度は、老人を医療から遠ざけられるように使われる。ではそれは批判の誤解、誤用だろうか。そう言える場面も多くある。しかしずいぶん以前から「無駄な延命」とか「人間的な死」とか言ってきた人は、今起こっていることと無縁なのだろうか。そうは思えない。患者の権利の主張が自然に死へ滑っていく、そういう仕掛けがあって、それに対してもまた向井はずっと危機感を抱いてきたのだ。とすると例えば、近代医療は「延命至上主義」である(ところがよくない)という言い方はどうなのか。少なくとも一面的ではないか。その像は自らの主張を言うときに、敵役としてこしらえてしまったものではないか。
 そしてここで常に、ひそひそ、あるいは露骨に語られるのが「経済」の問題である。足りないとは、けっきょくは人そして/あるいはものが足りないということだ。私はどちらも足ているし、足りなくなることはないと考えるから、このことを言おうと思って書いている。だが、そう思わない人がたくさんいる。なぜ、どんな経緯で、支出を減らさなければならないと人は思ったのだろう。

 例えばそんなことが気になって考えようとするときにも、まず、何が起こって何が言われたのかを知りたいと思う。それらのことごとは自分たちの社会・時代に起こった。しかしまず、直接に知っている人は亡くなってしまいつつある時期のことがある。そしてそう以前のことでもないのにずいぶんあやふやになってしまっていることがある。そんなこともあって、『病いの戦後史――体験としての医療から』(向井[1990])のような本は大切だと思い、著者の御厚意で今は本屋で買えないこの本(と『脳死移植はどこへ行く?』[2001])を送っていただき、http://www.arsvi.comで注文を受け、希望者に郵送している〔→終了した〕。
 例えば一九七八年に計画分娩の危険性を知って『読売新聞』に五回連載の記事を書くのだが、彼女はこのときにはじめて日本でインフォームド・コンセントという言葉の説明を受けたという(向井[1997:117])また同時期、一九七〇年代後半、米国でその言葉を聞いたという。

 「いつか日本にもこういうキーワードが着地する時が来るのかと想像しても実感が湧かないほど、それは衝撃的な体験だった。[…]天地がひっくりかえるようなカルチャーショックだった。」(向井[2003:65])

 そしてそれは彼女にとってまったく解放的なことだった。このように言っていけばよいと思ったのだ。しかも、その同じ人が同じ時期、既に、とくに死に接するような場面では、これですべて収まるのかという疑問も抱く――それが今度の本につながっている。そんなことを、とくに忘れると都合のよいことを、私たちは次々と忘れていくのである。
 向井の本には、その忘れてしまいそうな様々なことが書かれている。しかし私は、ほんとうはもっと詳しく知りたい。もの足りないところが残る。もっと詳しく書いてほしかった、書いてほしい。それが望みだ。
 『たたかいはいのち果てる日まで』(向井[1984]、九〇年発行の文庫版も含め品切だったが、二〇〇年にエンパワメント研究所より再刊された)はよく書き込まれている。「医師中新井邦夫の愛の実践」という副題のせいもあり――出版社がつけたのだろう、文庫版の副題は「人間的医療に賭ける」――ほとんど開いたこともなかったのだが、読んだらおもしろかった。一九八〇年開設の東大阪市療育センターの初代所長で八一年にガンで四九歳で死んだ医師の話だ。その人物もおもしろいが、私は、医療が困難な人への医療の可能性と危険性について、そこに働く親や医療者や組織の様々な力について、また様々の力が交錯し始めた七〇年代について考えるところが多くあると思った。大切なことが起こっている時にはたくさん調べて書く。すると必ず何かが現れると思う。

■■香川知晶『死ぬ権利』 2008/10〜12 [連載・87〜89]

■1
 じつは、もう8年目の半ばを超えてしまっている本連載の第1回(本誌〔『看護教育』2001年1月号)で、同じ著者の、単著としては第1作ということになる『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』(香川[2000])を、ディヴィド・ロスマン『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』(Rothman[1991=2000])とともに紹介したのだった。それらの本は、今回の本より前の時期、医学者による人体実験の告発を一つのきっかけとしてかたちを作っていくバイオエシックスの成立のあたりを追ったもので、それも、その現地にいて、現場に立ち会ったわけではない私たちには、貴重な本だった。
 そして今度の本〔『死ぬ権利――カレン・クインラン事件と生命倫理の転回』(香川[2006])〕は、主に、1975年に始まるカレン・クインラン事件を追う。それはとても有名な事件だということになっているのだが、しかし、本当はどれだけの人が知っているだろう。当時何冊かの本が出たのだが、みな絶版になっている。そしてそれらは、おおむね、事件の顛末(あるいは途中までの経過)を伝えるものであり、それはそれで大切ではある。だだ、その事件ゆえに、とは言えないとしても、それと連動して、米国において、「生命倫理(学)」と訳されることになる「バイオエシックス」が大きなものになり、制度化されていく過程がある。それを描き、そのことの意味を考えることはとても大切なことである。この本ではそのことがなされている。
 その必要性について著者自身が「あとがき」で述べている。

 「緊急性に応えるきっぱりとした結論を提示してみせる「生命倫理学者」は日本でも育ちつつある。だが、それにしても、明確でわかりやい結論が元気よく出されれば、それで十分というわけにはいかないだろう。そうした元気よさには、時として、事実による裏づけと粘り強い思考、つまりは知恵が欠けているように見えることがないとはいえない。しかも、少し調べてみればとてもいえそうにもないことを平気でいいきるのは、痛切な緊急性をもつ生命倫理的な問題の場合には、たんなる迷惑をこえた害をもたらしかねない。そうした恐れを避けるには、問題から距離をとり、生命倫理なるものや自己の立場を相対化する努力も同時にするほかないだろう。歴史的な検討が必要だというのは、そうした意味においてである。
 最近、ある優れた科学史家がさる研究会で生命倫理の問題を取り上げ、丹念な歴史的分析を介して現状批判に説き及ぶ報告を行ったとき、もうそうした細かなことをいうのはやめて、大局的な立場に立って(つまり、批判はやめて)行動しましょうといった類の反応が若手の「生命倫理学者」から出されたという話を友人たら聞いて驚いたことがある。歴史のもつ意味についても、今や、あからさまにいわなければならない時代なのかもしれない。」(pp.389-390)

 この九月に私は、単著では六冊目になる、『良い死』なる題の本を筑摩書房から出してもらった。安楽死・尊厳死・治療停止…について、つまりは、香川のこの本の主題について書いた本だ。その序章で、上掲した香川の本の「あとがき」の同じ箇所を、拙著ではもう少し長く、引用している。
 今あるものがそれでよいものなら、そうに決まっているのであれば、それができあがるまでの過程を知ることは必ずしも必要ではない。しかしそうは思わないのであれば、話は違ってくる。私も思わない人の一人であり、香川に同意する。今度の私の本(実は、書いていったら3冊になって、それはその1冊目なのだが)は、自分で決める、自然な、利他的でもある死について考えてみましたというものなのだが、もちろん同時に、人々がどのようにものを言ってきたのかを知ることが必要だ。
 この本に記されているのはクインラン事件(あるいはカレン事件)だけではない。この事件を追う第T部「カレン・クインラン事件」の10章の後、全体の約三分の一を占める第U部「生命の倫理の転回」では、サイケヴィッチ事件、ブーヴィア事件、ベビー・ドゥ事件、ナンシー・クルーザン事件といった、よく言及される、しかしある程度以上は法学関係の論文にしか書かれず、そしてそれらの論文では多くの場合に裁判・判決のことしかわからない事件について、かなりの知識を得ることができるし、これらの事件を通して、この三〇年ほどの米国の流れがわかり、その意味でもこの本は有用である。さらにごく短くではあるが、十九世紀から二〇世紀の英米における安楽死論が紹介されている箇所(pp.113-119)がある。また「死ぬ権利」という言葉を早くから用いていたジョブセ・フレッチャーの主張についての紹介もある(pp.161-164)
 クインラン裁判だけをとっても、幾つかの要素がある。第T部を紹介するだけでも長くなる。実際に読んでみるしかない。ということにしてようと考えたのだが、なかなかに入り組んだこの本に取り組んでもらうためにも、幾つかポイントと思うところを紹介したらよいと思った。よって、この本の紹介も一回で終わらないことになる。

 まずその(カレン・アン・)クインラン事件について。その人は一九七五年四月十五日に急性薬物中毒で意識を失う。同年九月十二日、ニュージャージー州高等裁判所に父親が、「生命活動を維持している通常以上の手段すべての停止を許可する明示的機能を付与する判決を下す」ことを求めて提訴(p.4)。同年十一月十日判決。請求が退けられる。一七日、州最高裁判所に上告。一九七六年三月三一日判決、父親を後見人として認める。同年五月二二日、人工呼吸器が外される だが自力で呼吸を続ける。一九八五年六月十一日肺炎による呼吸困難で死去。(年表はpp.29-31。)
 つまり「延命処置の停止」を求める側(原告側)と、それを受け入れられないと主張する側(被告側)がいた。その主張は裁判の過程でもいくらか変化していく。
 一つ、この本に書かれているのは、米国において(も)、「安楽死」は、第二次大戦後、ナチスの所業を想起させるわるいものとなっていたこと、被告側は、停止という行いは、安楽死の行いだと主張したことである。
 米国でニュルンベルク裁判のことを知らせる論文は一九四九年に出ているが、その事実はそのまま継承されたわけではない。この連載第1回でも、戦争の反省から直線的にバイオエシックスが出てきたのではないと述べているのを紹介したのだ。ただその上で、その頃、ナチスの記憶を呼びさますようなことが起こったのだという。

 「ナチスの安楽死の記憶が新たにされたばかりのところに、クインラン事件は起った。米国では、医学における人体実験をめぐるスキャンダルが世間を騒がせたばかりだった。[…]タスキーギ事件が報道されたのが一九七二年、政府の調査委員会の報告書が出たのが七三年、そして国家研究法が成立したのが七四年である。[…]健全なアメリカとは無縁な出来事として、ほとんど忘れられていたナチスの犯罪とニュルンベルク綱領も、その意義が再評価されていた。」(pp.118-119)

 被告側は、これは安楽死であり、ナチスの所業につながるものだと主張する。それに対してどう応えるのか。それはこの事件の原告側のことだけではなかった。著者は「死の権利」を早くから主張してきいたジョゼフ・フレッチャーもまた、ナチスとの違いを言おうとしていることを紹介している。その人は、ナチスのやったことは安楽死ではないと言い、そして、安楽死を肯定する(p.163)
 ただこの裁判では、原告側は別の言い方をしたのだと言う。

 「クインラン事件の原告側の主張は、それ以前に展開されていた「死ぬ権利」の主張と同じ図式、すなわち、医療テクノロジーからの人間性の回復という要求に立ちながら、その主張の枠組みう微妙にずらしたものになっている。そのずれは、通常と通常以上の区別を背景としながら、自然への回帰というレトリックによって生み出された。死ぬ権利は安楽死ではなく、治療の停止をめぐる権利として再登場した。それは、「死ぬ権利」という問題設定を、ナチスをめぐる応酬の常套的枠組みから切り離し、日常の問題として人々に意識させる結果をもたらす効果をもつものだった。」(p.164)

 まず一つ――だけでないことは次回に紹介する――、人工的な空間な技術による支配、襲侵に対する自然という図が示されたのだ。
 「現代の死に対する関心は、医療施設でのに向けられていた。それが死の言説の脱タブー化という現象をもたらした。そこに見られる漠たる不安、かては何かが違うという意識が、クインラン事件の登場によって、現代医学の生み出すモンスターという明確な表象を伴った恐怖に結びついた。こうして主張されたのが、「死ぬ権利」だった。」(p.344)★01

■2
 前回に続いての紹介になる。クインランの人工呼吸器の取り外しを認めるようにという原告側の訴えは、州の高等裁判所では認められなかったが、最高裁判所では認められたのだった(一九七六年)。
 この本は、その経過をていねいに辿っていくのだが、そこでまず一つわかるのは、高裁判決に対するバイオエシックス学者たちの発言・批判があったこと、また、州最高裁での審理にあたって、原告側はそうした学者たちに意見を求め、それを受けての主張もなされていること、そしてそうしていくらか洗練された原告の訴えを認めた判決もまたその線に沿ったものであり、そしてその判決は、メディアにも医療者側にもバイオエシックス学者にも、おおむね――というのは、全米医師会は倫理委員会のことでいくらか批判したし(p.210-211)、倫理学者でもアナスからはいくらか批判がなされたのだった(pp.221-224)――好評であったということだ。
 つまり、ここで生命倫理学は役割を果たしている。あるいは役割を果たせるものとして登場し、認知されている。そして裁判に当初あったいくつかの混乱は除かれることになる。例えば、これは「死の定義」という問題ではないといったように――論理的にはあくまでその線で主張するという道はありうるが、それと別の誤解があった――論点が整理された。きちんとした学問ができる人が、学問的に貢献することになる。
 にもかかわらず、というべきなのか、もう一つ、この判決は不思議な、普通に考えて無理のある判決であると言わざるをえないし、このことを著者もまた指摘する。
 最高裁判決はクインランの「プライバシー権」によって取り外しが正当化されるとした。だが、プライバシーとは、本人が本人のものとして護りたいもののことを言うのだう。しかしその本人は「植物状態」なのだ。そして、当初持ち出された、その状態になる以前にクインランが語ったという言葉を、近頃の言葉では「事前指示」として扱うことは最高裁において否定されてもいる。となると、いったいどういうことなのか。

 「プライバシーの権利を論じるにあたって、州最高裁は一つの仮定から話を始める。つまり、「こうした不幸な状況の下で、もしカレンが(実際に予想されている病状にすぐに戻ってしまうという条件で)奇跡的に意識をほんのわずかの間回復し、自分の不可逆的な状態に気づいたとすれば、自然な死が訪れると分かっても、生命維持装置の停止を有効に決断できるという点に疑問の余地はない」というのである。」(p.204)
 「推論は、奇跡的にカレンが意識を取り戻した際にいうであろうことを根拠にしている。しかし、カレンの意思について原告側が根拠としようとした会話はすでに「十分な証拠としての重みを欠いている」として退けられていた。では、推測はどのように正当化できるのか。判決は、その理由を語らない。ただ次のようにいうだけである。
 「[そうした会話についての証言には十分な証拠能力がない]にもかかわらず、当法廷はカレンのプライバシーの権利はこの現在の特異な状況下においてはカレンの代わりとなる後見人によって擁護されるだろうと結論した。
 もしカレンの推定される決断が認知を欠いた、植物的な存在を自然の力によって終わらせるのを認めるもので、当法廷が信じるように、カレンのプライバシー権に付随する大切な権利だとすれば、カレンの状態が意識的な選択を妨げているということのみをもって、その決断を斥けてはならない。」」(pp.205-206)

 「ここにあるのは、社会の「圧倒的多数」がするはずの選択は認めるべきだという判断以上のものではないだろう。プライバシーの権利は個人の「意識的な選択」の権利である。そこには、治療を拒否する権利が含まれる。カレンもまたその権利をもつ。州最高裁判所は、その権利の行使を、第一審のように、現在「意識的な選択」を行う状態にないことをもって認めないのは、プライバシーの権利の破壊であるとする。しかし、その破壊を避ける手立てをプライバシー権から矛盾なく導き出すことは難しい。個人の権利を他人が代行するという話にならざるをえないからである。おそらく、そんなことは州最高裁も十分にわかっていたはずである。にもかかわらず、何とか「この悲劇的な事件」を終わらせようと、裁判所はすでに決意を固めていた。その結果、つけられた理屈はきわめて苦しいものだった。」(pp.206-207、以上の引用内の引用は州最高裁判決文)

 本人の言い分が聞けないのにプライバシー権を持ち出すのだから、たしかに苦しい。
 ただ、同時に、弁護士や裁判官が言いたいことはたいへん明瞭で、わかりやすくもある。そして、本人の意思の推定がなされてよい場合があるとは思える。そう思える場合は、その推定がもっともと考えられる場合だろう。すると、その「言いたいこと」(推定される本人の意思)が人々において当然のことと思われているなら、この無理のある話も通ることになる。何が信じられているのか。
 以下の引用中の引用もやはり最高裁判決。

 「「カレンの姿勢は胎児様でグロテスク」である。現在、病状は安定しているものの、カレンが「一年以上生きられるとあえて考える医師は一人もいないし、おそらくもっと早く亡くなるだろう」。それに、レスピレーターをとれば、すぐに亡くなるはずである。」(pp.200-201)

 知られている(はずである)ように、州最高裁判決から約2月後に人工呼吸器が完全に外されるのだが、クインランは亡くなることはなかった。ありえないとされた自発呼吸で生命を維持し、その後9年を生きることになるのだが、このことは後にまわそう。
 その前、州高裁に原告側の弁護士が出した準備書面には「この世の生命の尊厳と美しさと前途と意味が消え去った後も通常以上の医学的手段の無益な使用を差し止めるようにという家族の願い」(p.104)といった語もある。他に、「社会資源に対するほとんど許容しがたい重荷」になる可能性があるとか、「州には人格的自律と身体的統制を保護する義務がある。しかし、カレンの場合、人格的自律と身体的統制が欠けている」といった主張もなされる(p.103)。
 つまり、言われること、考えつくことはだいたい網羅されているのだが、ここでは一つ。クインランの状態が、誰でも、そして当然に本人も、そんな状態はいやだ、生きて(生かされて)いるに値しないと思うはずだ、言うはずだという話になっている。だから死んでよいし、死なせてよい。わかりやすい、ように思える。
 それで終わる人もいるが、不思議なところはやはり残る。
 「無価値な生存」が要点なのか、「本人の(推定される)意思」がポイントなのか。まず後者と考えるとしよう。
 すると(この事件ではまに合わなかったが)自らの意思をはっきり残せば(なおさら)文句はないということになる。実際そのように事態は進んでいく(第11章2節「事前の意思表示」)
 しかしそう考えてよいのか。いわゆる植物状態の場合、あるいは(ずいぶん違う場合だが)認知症になった場合に、事前の自身の決定が有効なのかという問題は、ある。倫理学というものはそんなことを考えるためにあるように私は思うのだが、どうもそのようにことは運ばなかったようだ。そこで、このことについて私が考えたことを、今度筑摩書房から出た本の第1章「私の死」にすこし記した。

 「意識のなくなった私のことを私が決めるとはどんなことだろう。あるいは現在ときっと大きく違う状態になった私のことを私が決めるとはどんなことだろう。それは自分のことを決めることであるのか。自分のことなのだからと自明のことのように語る人、というかそこに問いがあるとは思わず語る人も多々いるのではあるが、すこし考えてみるとこれは自明ではない。」(『良い死』p.110)

 そして、どのように自明でないかを書いてみた。
 もう一つ、とくに「当人が思うから」というところに力点を置かず、その状態の価値を判断し、それに基づいて決める場合がある。そして、さきに引用した文章等に現れる価値観はまったく明瞭である。この生は無価値、というより負の価値を有していという価値観である。たいへんわかりやすい。しかし、このまったくの疑いのなさが、やはり不思議なことにも思える。これもまた議論すべきことではなかったのか。例えば私は、ゼロである場合があることを認めるが、負の価値を有するとは言えないと思う。ここにも飛躍がある。しかしそれも問題にはされないようだ。これも不思議だ。(続く)★02

■3
 香川はカレン・クインラン事件の過程を詳しく跡付けるとともに、この事件に関わりながら、行く道に様々がありえた生命倫理(学)が、大きくは一つの方向に収斂するようになったと述べる。

 「問題は医療技術のコントロールからいかにして個人の死を奪還するかという点にあった。このテーマに対して、米国の生命倫理は個人の自律を徹底的に主張することで、事例の個別的な事情を救い上げようとした。」(p.360)

 第一文について。そのように事態が捉えられていたこと、語られたのはその通りなのだろう。この間の推移についての第一の理解は、医療による支配が存在していたが、この裁判等によって、医療が医療者のものから「市民」のものになったというものである。ただ、存在していた事態がそれだけであるかと言えばそうでない。
 香川自身、この事件において医療における主導権が医療者の手から離れたとするデイヴィッド・ロスマンの解釈を批判している(pp.21-28)。私は、連載第1回でロスマンの本『医療倫理の夜明け』(Rothman[1991=2000])と、香川『生命倫理の成立』(香川[2000])を取り上げ、その論述にかなり類似したところがあると述べたのだが、ここで香川は理解に差異があることを示しているのだ。
 既に「差し控え」は行なわれていた(p.222)。しかし医療者は訴追を恐れていた。だからこの判決は歓迎されるものだった。たいへん立派な、献身的な活動してしてきた医療者であっても、あるいはあるからこそ、毎日、あまりにたくさんの「終末期」の人を見てくると、もうよいのではと思うことはおおいにありそうなことだし、実際多くある。医療は常に延命の側にいるとは限らない。それはすくなくとも一面的な見方だ。
 その上で、やはり主導権が移動したという言い方はできよう。しかしその移動も、医療者側にとっては負担の軽減であるとも言える。面倒なことを自分で決めなくてすむのはよいこと、すくなくとも楽なことではある。
 こうして、医療を専門家から市民へというこの事件・裁判の見方、この時代にあった変化の捉え方は、すくなくとも不正確だと言える。(このことについてより詳しくは、拙著『良い死』序章、『唯の生』第3章「有限でもあるから控えることについて」。)
 次に、以上にも関わり、技術・対・人間という第二の捉え方はどうか。この部分について香川の書き方はすこし微妙だ。前々回でも引いた「医療施設での死[…]そこに見られる漠たる不安[…]現代医学の生み出すモンスター」(p.344)といった表現は、その時代に言われたことであるとともに著者の見方でもあるようにも読める。ただ、ここにある不安・恐怖を、人間性を侵害する技術に由来するとだけ捉えるのは違うように思う。以後、バイオエシックスは、様々に新しい技術を許容し肯定するのでもある。(「自然な死」について『良い死』第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」。)
 だから、医療者への批判、技術への抵抗というところから見るだけでは十分でない。むしろ、前回に引用した判決文他にはっきりと書かれていることは、ベッドに横たわっている人間に対する否定的な感情・認識である。
 以前紹介した(→『唯の生』第1章〕シンガーたちの議論は、この第三の要因を基点に構成される。つまり、そこに横たわる人は「有資格者」ではないというのである。この本を読んできて、やはり私には、人の「質」に関わる価値・判断が、この事件でも大きな位置を占めていると思える。
 そしてもう一つ、第四のものが、最初の引用にあった「自律」である。これは今あげた第三の意味でも使われるが、そこではそれは特定の人間のあり様についての評価であるのに対して、ここでは、どのような自らのあり様をよしとするのか、それを判断し決定する主体のあり方――を尊重するべきであることを――を指している。
 この「自律」は、カレン・クインランの場合には――自身をどうするのかについての自身の決定としてそれを捉えるのであれば――無理がある。けれども、それが採用された。どうしてそれが可能であったかと言えば、皆が、ゆえに本人も、確実に、そのように横たわっている状態を、その生を止めるべき状態と判断する(第三点)はずであるとされたからである。
 このように二つは組み合わさる。また、第四のものとした「自律」がなぜ最重要とされるかを考えてていくと、第三のものとした価値が関わっていることがわかる。
 これらは、この社会においてまったく新しいものではない。ずっとあってきたものだ。忌避や恐怖は、ある程度はどこにでもあるものなのかもしれない。ただここでは、それは「正しい」ものとされる。そしてバイオエシックスは、学問ではあるのだから、たしかに様々を疑ったりするのではあるが、しかし、結局は、この信仰に内属するものであって、その堅固な土台の上に構築されたものである。このことをずっと私は思ってきたのだが、この本は、実証的にそのことを示している。
 だから、ここに示された装置は新しいものではないと、むしろ近代(の米国のような)社会において正統なものであったと私は考える。その上で、この時期が、「延命技術」の進展によって、延命する人たちが現われ、増えてきた時期であったという事情が加わって、この学が確立し、発展を遂げていくことになる。そんな筋が見える。たしかにそこには専門家の権威や科学技術を懐疑し批判してよいという時代の気分が関わったのでもあろう。しかしそれが中心にあったとは思われないということだ。

 「生命科学・医学を社会的観点から吟味するという生命倫理の役割は、規制の倫理、原則アプローチ、最小限倫理といった組み合わせを唯一の選択肢とするわけではない。その意味では、現実に米国で成立し、展開された生命倫理は、成立期以前の「アンソロジーの時代に伏在していた多くの可能性のひとつを実現したものにすぎず、そこから抜け落ちた視点があると見ることもできる。」(p.363)

 このように香川は述べ、そしてレオン・カスが中心となって「科学史、心理学、人類学、哲学、社会学、経済学、政治学、法学など多様な研究者を集めた二週間にわたるシンポジウム」をもとに一九七五年に出された報告書に言及する。

 「ここで注目されるのは、報告書が、[…]新しい技術自体の評価や目的、人間の本性の理解、選択されるべき価値といった哲学的問いの重要性を強調している点である。そうした問いを研究し、答えを与えることは難しい。しかし、人間とは何であり、何であるべきかという問いを問うことなしには、個々の技術評価は十分なものとはなりえない。それがカスを中心に報告書をまとめた生命科学と社会政策委員会の確信だった。
 ここには、生命倫理がまだ形をとっていなかった時代における問題意識を見ることができる。新しい段階を迎えつつある生物学や医学の研究が予測させる未来社会への懸念、それは生物医学研究の意味とともに、人間の条件や社会のあり方を根本的に問いなおそうとする志向を呼び起こすものであった。」(p.365)

 もう基本は出来上がっているのだから、あとは応用問題を解けばよい、ということにしないで、もとのところから考えていった方がよくはないかと香川は言うのだ。そのやり方として、よく人々が持ち出す、諸学の連携、学際的活動、文化的・文明的視点の導入といったものがどれほど役に立つかとなると、すこし私は懐疑的ではあるけれども、基本的には同じように思う。そしてそれは徒らに問いを引き延ばすことではないと思う。そう手間とらず、さっそく考えることもできる。
 例えばその「植物状態」について。私は、まったく何も感じていないという状態があるとして、その状態にいる人について、その生命を維持するべきであると主張する立場には立たないことになる。しかしまず、実際にその人がどんな状態にあるのか、わかりようがないところがある。そして回復・改善はときにある。そして、現にその状態にいる当人にとってわるいことは起こっていない。とすれば、基本的には、「延命」を続ければよいと考える。
 すると、そんな考えもあるとして、どうするかはやはり自分が(予め)決めることだろうと、当然、言われる。そこでそれにどのように応えるか、考えて言うことになる。あるいはまた、費用対効果を無視するべきではないと言われるだろう。それもまたもっとも、その通りだと認めた上で、やはりなにごとかを言うことになる。そんなふうにして、さきにあげた2冊の本を書いた。

■注
★01 この事件について翻訳された本として、コーレン『カレン 生と死』(Colen[1976=1976])、フィリス・バッテル『カレン・アンの永い眠り――世界が見つめた安楽死』(Battelle[1977=1979]、訳者あとがきによると本になる前に『週刊現代』『リーダーズダイジェスト』にも一部の翻訳が載ったという)がある。
 法学者による著作では唄孝一(〜二〇一一)の『生命維持治療の法理と倫理』(唄[1990])がこの事件やこの事件に関する報道(の誤り)について書いた文章を収録しており、非常に重要。
 『月刊障害者問題』という個人雑誌?を刊行していた本間康二のその雑誌の最初の号に「一番大切なものは“生命=いのち”――「カレン裁判」をめぐって」(本間[1976])があり、その三周年記念特集号の三七号には「カレン裁判の全貌」(本間[1979a])、「カレンがともす灯」(本間[1979b])が掲載された。HPで全文を読める。
 玉川桂(東京都、一九六八年にALS発症、七二年病名判明)は一九七三年三月に胃にチューブを入れる手術をした後で呼吸困難・意識不明になり、気管切開、人工呼吸器をつけた。『終わりに言葉なきことがあり』(玉川よ志子[1983])より。
 「現在、この種の病気に対する医療の常道としては、呼吸困難に陥っても、気管切開→人工呼吸器(生命維持装置)までして、患者の生命の維持をはからないそうである(『カレン・アンの永い眠り』講談社刊。その他より)。私どもの場合、医療の常道が守られなかったことはさいわいだった。」(玉川[1983:64-65])
★02 この事件関係に関する当地での「反響」として、ペギー・アンダーソンの『ナース――ガン病棟の記録』(Anderson[1978=1981])に記述があり、その記述がチャンブリスの『ケアの向こう側――看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』(Chambliss[1996=2002])に引用されている。
 「特定の一人が、それをしなければいけないということではない、そのナースは感じていた。組織には、個人、特に法的責任のない人たちを保護しつつ、生命維持を中止するためのテクニックがあり、それは組織あるいは集団による行為であるべきだ。
 実際、一九七〇年代末の、かの有名なカレン・アン・クインランのケースを機に、表立ってではないが社会全体が決定に参加するようになってきた。[…]
 この判決は、後のナンシー・クルーザン裁判への連邦最高裁判所の判決(一九九〇年)とともに、アメリカのDNR政策を刷新するものとなった。
 ノーザン・ゼネラル・ホスピタルのあるナースは次のように話してくれた。
 「カレン・アン・クインラン裁判の前にも、人工呼吸器を切ることは時々あったけど、今はもっと多くなったわね。個人的なかかりつけ医を部屋に呼んで、やってもらうことが多いみたい……[医者を]二五年もやっていれば、「この患者はもう回復することはないだろう」と言うこともできるわ。そして引き抜くの……チューブ類を取り去って、人工呼吸器を切るの。」【インタビュー】
 人工呼吸器を外すことは最近始まったことではなく、変わったのはそのことが世間的にも法的にも認められるようになったことである。ペギー・アンダーソンは著書『Nures』の中で以下のように述べている。(p.230)
 「この[クインランの]ケースは異例の事件である……延命手続きがもはや適切でないと判断された時には、患者を死なせる決断は毎日のように下されている。」
 このような延命の中止は極めて一般的に行われていたが、クインランのケースで特筆すべきことは、それが法廷に持ち込まれ、世間に広く知られることとなった点である。さらに、この判決は多くの医療関係者にとって次のような意味で判断のよりどころとなった。第一に、この種の問題に法律家が介入する場合もあり、厄介なことになる場合も考えられること、そして第二に、生命維持装置の停止を裁判所が認めることもあるということである。クインランのケースは医療現場における倫理的判断に裁判所が正式に介入できることを印象づけ、またこのケースが有名になったことにより、医療関係者たちは自分たちの決定はもはや個人的なものではないと思うようになった。この意味で、クインランは生死に関わる決定の、全く新しい土壌を作り出したと言える。(p.231)」(Chambliss[1996=2002:229-231]



■■■文献表(著者名アルファベット順)→リンク付の文献表

 ※〈 〉内の数字は、〈T:〉は『良い死』で〈U:〉は『唯の生』で、〈V:〉は本書でその文献が言及されている頁数を表わす。
 ※HPにT、U、V、そして次の本でとりあげる予定の文献を合わせた文献表――本書の題名から辿れる――がある。九四〇点ほどがあげられている。そこから、著者や書籍等の内容、価格、一般書店で扱っていない文献の入手方法等についての情報がえられる。ホームページで全文を読めるものもある。オンライン書店から本を買うこともできる。

 *実際に掲載されるものと同じでない。

Alsop, Stewart 1974 "The Right to Die with Dignity," Good Housekeeping, August〈V・● 〉
Anderson, Peggy 1978 Nurse, Berlekey Books=1981 中島 みち訳,『ナース――ガン病棟の記録』,時事通信社〈V:●〉
有馬 斉 2009 「安楽死を択ぶ自由と差別について」, 『生存学』1:23-41〈V・● 〉
――― 2010 「中立な国家と個人の死ぬ権利」, 『生存学』2:328-345〈V・● 〉
有吉 玲子 2012 「人工腎臓をめぐる分配と選択――日本における選択と費用分担と配分」,立命館大学大学院立命館大学大学院先端総合学術研究科2011年度博士論文〈V・● 〉
安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店〈V:●〉
――――― 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』,藤原書店〈V:●〉
――――― 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫
版〈V:●〉
安積 遊歩 2010 『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』,太郎次郎社エディタス〈V:●〉
唄 孝一 1990 『生命維持治療の法理と倫理』,有斐閣〈U:93,V:●〉〉
Battelle, Phyllis 1977 Karen Ann: The Quinlans Tell their Story, Doubleday & Company, Inc., New York=19790420 常盤 新平 訳,『カレン・アンの永い眠り――世界が見つめた安楽死』,講談社〈V:●〉
Battin, Margaret P. 1995 Ethical Issues in Suicide, Prentice Hall〈V・● 〉
Bayertz, Kurt 1996 Sanctity of Life and Human Dignity, Kluwer Academic Publishers 〈V・● 〉
Beauchamp, Tom L. ed. 1996 Intending Death: The Ethics of Assisted Suicide and Euthanasia, Prentice Hall〈V・● 〉
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UP:2012 REV:20120919, 21, 22, 28
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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