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「対立について/「基準」について」

立岩 真也


※2012/11/23 障害学国際セミナー2012 於:韓国・ソウル市 イルム・センター

「ディスカッション」,川端 美季・吉田 幸恵・李 旭 編 20130322 『障害学国際セミナー2012――日本と韓国における障害と病をめぐる議論』,生存学研究センター報告20,pp.229-45

 「立岩真也:もし時間をいただけるのであれば、かなり違う二つの質問をさせていただきたいと思います。一つは、いまの話の続きのようなものです。実はこの3〜4年、いろいろな方のお誘いを受けて、ユンさんの報告にあった二つの団体の双方で講演や講義をして参りました。そして私たちの大学院で博士論文を書いた鄭喜慶(ジョン・ヒギョン)さんが、今日お話しなさったことをより詳しく歴史記述されていますので、それが皆様の歴史認識に役に立てば幸いです。ちなみに彼女の場合は、前者の民衆主義については「部分運動」という用語を使っています。すなわち社会運動の全体のなかの一部に位置づけられるものとして存在している運動という意味で、部分運動としています。
 お話ししたい本題はこれからの話で、Aという価値観に対して論理的に非Aという価値観であれば、これは妥協の可能性は論理的にないわけです。しかし、私はそのような意味での対立というものは、このようにまとめられたなかには存在していないのではないかと思います。すなわち、一方で社会というものが大きく変わらなければ障害者の生存・生活が可能とはならない、容易にはならないという主張があります。そして、それと同時に障害(者)にかかわることについては自分たちがよく知っているから、まず自分たちが主張する、ものを言うんだということも、また正当だと思います。障害学もいろいろありますけれども、たとえばイギリスの障害学であれば、前者の命題を全面的に肯定すると思います。体制、大きな意味での社会経済システムが変わらなければ障害者のリベレーションはないという立場を、少なくともイギリス障害学のメインストリームは共有していると思います。もちろん私も、日本でも最後にはどういう理由で対立しているのか分からないような争いを見聞きしたり、ときには巻き込まれたりしてきました。ですから、戦線の統一というものが、けっして理論や理屈だけでうまく行くとは思っていません。もっといろんなアクシデントのようなものも含めた、過去のさまざまなことがあって今があるのだということは十分に承知しているつもりです。しかしその上でなお、それこそ障害学的にさまざまな傾向の団体が主張していることを見ていくと、それらは十分に全体として整合性が存在しうる、そういうものだと考えられますし、障害学はそのことを提起していくべきだと私は考えています。
 実際に私は喜慶さんの研究のおかげで予備知識がある程度あった上で両方の団体でお話をさせていただいたのですけれども、双方について、私の話に対する反応を含めて、非常に共通性が多いというか、私が外国人だということもあるのでしょうけれども、両方について違和感を感じたことはありません。このようなことを言っても、一朝一夕にすぐ物事がよくなるとは決して思っていないということは承知の上で、あえて一つ目の話をさせていただきました。
 二つ目の話はかなり違う話で、大野さんの報告にかんしてです。日本でもそうですが、どこの国でも障害の認定・判定にかんしては、多くの障害者たちが反感と疑問を感じ、かつ不利益を被っているのは確かです。そして大野さんが報告の後半で例示された基準(criteria)ですが、相対的にはいまの日本のものと比べれば使えそうだ、ましだという感じは確かにしました。ただし、障害学というのは現実に寄り添いつつも一旦距離を置いて、理論的な可能性を探るという、学問にはそうした機能と役割があるとも思います。これからお話しすることは、実は昨日の午後3時から同じ建物でお話ししたことと同じなので、たくさんの方には同じ話を二度聞かせてしまうこととなってしまい大変申し訳ありませんけれども、そうでない方もいらっしゃるので。一つの極論とあえて言ってもいいと思いますけれども、使った分だけについて支払う、欲しいだけ出す、という可能性について論理的に検討してみる価値はある、ということです。それは私が今年『差異と平等』という本で書いたことです。それは日本語しかないので韓国の方には読んでいただけないかもしれません。つまり、こういうことです。いろいろな場合、たとえばニセ患者の例や、それから多く得ようとする人たちがいるという話がありまして、それらがどういう場合に起こるかは分けて考えたほうがいい、という話です。お昼に韓国のCRPSの患者会の方と少しお話しさせていただいて、これは難しいなと思ったのは、徴兵逃れの問題でした。これは確かになかなか、どう考えればいいのか、と思いました。私も考えたことがなかったので。ただ、その、いわゆる社会サービスを、医療サービスと福祉サービスを含めてですが、われわれはそういったサービスをたくさん得られるならば得られるほどより幸福になると考えているかといえば、そうではないわけです。たとえば好きこのんで病院に行く人は、まあ普通はいないわけですよね。仕方がないから必要な分だけそのサービスを受けるという性格が、医療にはあります。実際に日本の医療保険では、自己負担分はありますが、基本的には「この病気についてはいくらしか出さない」とはなっていません。出来高払いのシステムで50年以上運営されています。それから類比的に考えてみると、社会福祉サービスもあればあるほどうれしいというようなものではないと思います。だとすれば、自己申告あるいは利用後に請求するという、普通に考えれば荒唐無稽に思われるかも知れない案も、論理的にはありうるということになります。もちろんそういったことをいま政府に要求しても聞いてくれないでしょう。そのおかげで私は政府の審議会などに入るチャンスがなくて、とても幸福なんですけれども(会場で苦笑)。ただ、少なくとも論理的にも現実的にもあり得る選択であるということを一方の極に置いて考え、そして今の不合理な現実を別の極に置いて考え、とりあえずその間のどのあたりに落としどころを作っていくのかという意味で、学問、disability studiesというものがおこなうことは、「この可能性もありじゃないか」と一つの限界を設定し、示すことです。もちろん現実にはそのとおりにはいかないにせよ、それを示すこと自体に意味があります。そこに、運動や政策とは別に、障害学というものが存在する意義があるのだと思います。長々と申し訳ありません。」

「立岩:いまのお答えの一部には論理的な矛盾があると思いますが、私はもうたくさん話したのでもう話しません。(と言いつつ)これは、シンプルに言えば、障害の社会モデルをきちんと徹底すればいいというのが一つの答えです。すなわち、原因が何であろうと実際に生活をいとなむ上で痛い、不便だ、苦しいということがあったときに、それを補う義務が社会にはある、とシンプルに言えばそれだけのことで、原因が何であるかということは本来、問題にならないはずです。だけれども、イギリス障害学のimpairmentとdisabilityという言葉の概念規定そのものの弱点でもありますが、あたかもimpairmentが特定されないとdisabilityという話にならないという仕組みになっているわけです。それは学の理解のなかにある問題でもあるわけですが、そういったややこしい話を脇に置けば、とにかく原因は何か分からないけれども身体が動かない、痛い、だからあそこまで行くにも自分では行けない、ということをわざと言いたい人がいるかと考えれば、そんなにはいないと思います。そうやって考えてみれば、実はCRPSかどうかの線引き問題は本質的なものではありません。いろいろと政策を進めていくなかではさまざまな問題が出て来ます。しかし障害学の基本的発想に戻って考えれば、そうした線引き問題は存在しないと言うことは出来るはずです。」


UP:20131013 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇BOOK
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