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「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)について

立岩 真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科・教授)
2012/04/27 「尊厳死」法制化問題・学習会――障害者・患者が問いかけるもの 於:参議院議員会館


*以下■は『朝日新聞』二〇〇六年四月二十一日朝刊の「三者三論」の欄に掲載された。聞き手は権敬淑記者。新聞の方でつけてもらった題は「生き延びるのは悪くない」。◆は、その前に、今回の法案に即して、つけ足しておくべきと思うこと。

◆「死期が間近」について。「あと数時間」といったことが確実に予想されることがあることは否定しない。しかし、そうした「宣告」がしばしば外れてきたことを、そう言われ今現に生きている人を含め、多くいる。さらに「間近」とはどの幅のことを言っているのか。普通の感覚では数時間といったところだろう。しかし、もっと(ずっと)長くこの語を捉える人たちも現にいる。そして法案にはそれを具体的に規定する文言は何もない。

◆「患者の傷病の治癒又は疼痛の緩和ではなく、単に当該患者の生存期間の延長を目的とする治療上の措置(栄養又は水分の補給のための措置を含む)」について。(治癒することはなくても)栄養をとり水分をとり空気を吸って生きることをなぜ止めることが正当なのか。呼吸がしにくいと苦しいし、栄養が与えられなければお腹もすくし、水分がとれなければ喉も渇く。

◆今回の法案が許容するのはかなり限定されたものであると評することはできるだろう。ただ、例えば、法制化を一貫してすすめてきた「日本尊厳死協会」は従来からより広い範囲を認めるべきことを主張してきた。その前身である「日本安楽死協会」は、まずは多くの人が認めるだろうところから法制化すると明言し、組織の改名もまたその一環であることを、いまも尊厳死協会がその「始祖」として讃える、明確な「優生思想」の持ち主であった太田典礼が明言している。これが「第一歩」であり、今回、対象となっていない部分にまで次第に拡張されていくと考えるのは、けっして杞憂とは言えない。

◆さらに今回の法案では「啓発」(第十条)を記している。何を啓発するのか不明であるというだけでなく、例えば、例えば今回の法案に至る上記した経緯を検証し、詰めるべき論点を詰めることがなければ、その啓蒙は、「この高齢化社会で早目に諦めてもらうのもやむなし」という風潮を増長し、さらに社会に広げるのではないかという、多くの人々がこの法案に抱いている懸念・危機感を現実のものにする可能性が大きい。

 ※↑↓についてより詳しくは拙著『良い死』(2008)『唯の生』(2009,ともに筑摩書房)を参照のこと。また「生存学」http://www.arsvi.com「良い死」から多くの情報を得ることができる。

■初歩的なことを幾つか 2006/04/21

 終末期という言葉は余命いくばくもない状態を指す。ならば急ぐことはない。その短い期間をできるだけ苦しみなく過ごせるよう、世話し見守っていればよい。日本の医療は苦痛緩和が下手だが、うまくなってもらえばよい。
 そういう状態が長く続くならそれは本当の終末期ではない。別の状態だ。植物状態などと呼ばれる遷延性意識障害の状態が問題にされるが、どんな状態か、外からは分かりがたい。状態は多様で変化もする。回復を見せることもある。脳死の議論はそれなりに慎重だったのに、もっと微妙な状態を、尊厳や本人の意思の問題であっさり片付けてしまうのはおかしい。
 意識がないなら本人は苦しみも感じないだろう。ゼロか、何かかすかにでも感じているか、状態が良くなるかのいずれかだ。いずれでも本人にとって悪いことはない。
 他方、意識があればどうか。人工呼吸器を着けた状態が苦しい、悲惨だと言われるが、それは思い込みだ。息が苦しければ身体もつらく、気もめいる。実際に目の前が暗くなる。自発呼吸が次第に難しくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちの手記には、人工呼吸器でどんなに楽になったかが書かれている。
 それでも、本人が死んでもよいと言うのだからよいと言うのだろうか。その決定は、本人も事前には分からない状態を想像しての決定だ。自分のことは自分が一番よく知っているから、本人に決めさせようと私たちは考える。しかし私たちは終末の状態を実際には知りえない。そして実際に知った時には、気持ちが変わったことを伝えられない状態や、眠っているような状態の場合もある。

 なぜ知りえないことで、しかもその時の本人の状態が悪くはないのに前もって決めるのか。見苦しいと思い、生きる価値がないと思い、負担をかけると思うからだ。「機械につながれた単なる延命」と否定的に語られてばかりだが、機械で生き延びるのは悪くはない。動けなければ動けない、働けなければ働けないで仕方がないではないか。
 負担をかけると思うから早めに死ぬと言う。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲の者たちが受けいれてよいか。自殺しようとする人を、少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで、中立を保つと言うのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き受け止めた上で、「心配しなくていい」と言えばよい。
 家族には簡単にそう言えない事情がある。実際に本当に大変だからだ。しかし言えないなら言えるような状態にすればよい。世話のこと、お金のことを家族に押し付けないなら、それは可能だ。
 尊厳死は経済の問題とは関係なく、あくまで本人の希望の問題だと言う人もいる。しかし、意思の尊重と社会の中立を言いたいのなら、どんな時も生きられるようにするのが先だ。でなければ金の問題に生き死にが左右されてよいと認めていることになる。
 物があり、支える人がいれば、人は生きていける。物はある。少子高齢化で支える人がいなくなると言う人もいるが、そんなこともない。この社会は亡くなるまでの数日、数月、数年を過ごしてもらえない社会ではない。


UP:20120423 REV:
立岩 真也  ◇安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2012 
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