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「生活保護の「不正」を非難する人へ」

立岩 真也 2013/01/01
『文藝春秋オピニオン 2013年の論点100』:114-115



『文藝春秋オピニオン 2013年の論点100』,文藝春秋,303p. ISBN-10: 4160086128 ISBN-13: 978-4160086128 1238+ [amazon][kinokuniya] ※

『文藝春秋オピニオン 2013年の論点100』表紙

 *草稿

  ここでは、「不正受給」として報道されたものの多くが不正受給でないこと、支給・受給増加は非難の対象になっている若年層受給者の増加によって説明することはできないこと、日本は本来公的扶助・生活保護を受けられる人の中で実際に受け取っている人の割合(捕捉率)が二〇%ほどとたいへん低いこと、等々を繰り返すのはよそう。(ふまえておくべき事実は雑誌・書籍・ウェブ情報で容易に知ることができる。『現代思想』九月号「特集:生活保護のリアル」等。)そして、金のあるなしを巡る優越感や、鬱屈や、足の引っ張り合いにはつきあっていられないし、それに乗りそれを利用する人たちにはなお耐えがたいものがあると言ってすませることもしないでおこう。ここでは、「不正」を非難し憤慨している人たちが「正しい」と思っているだろうことから書いていく。
  第一に、経済は大切だという。私もそう思う。生活保護は税金でまかなわれるのだから、経済によくないと言われる。しかしそうでもない。仮にものが買われないことがよくないことであり、消費を増やすことがよいことであるとしよう。税として集められた金は棄てられるわけではない。給付を得た人たちはものを買う。人が金をどのように何に使うのか、仮定を変えれば違ってくるが、おおまかには、あまり高いものの売り上げは少々落ちるかもしれないが、そうでない商品は売れるだろう。そして、金がないのだからすぐに買うだろう。他方、余裕のある人はすぐに使わないかもしれない。もし今使われることの方がよいのであれば、そうした方がよいということになる。
  すると、税を払う人がやる気がなくなると言われる。わからないではない。ただ、他方に手取りが減るともっと働こうという人が出てくる可能性もある。どちらに傾くか論理的にはわからない。勤労意欲を削ぐことは実証されておらず、むしろ逆の方に傾くという調査結果もある(この辺については拙著『税を直す』、青土社)。
  第二に、働くこと、働く意義について。ただで得られることになるなら人が働かなくなると言われる。一つにそれは倫理の問題だとされ、一つにやはり経済の問題であるとされる。私は「労働の義務」はあるという立場に立ち、苦労している人は報われてよいと考える。その点では「不正」に憤っている人とそう違わないのではないかと思う。
  ただ、実際には、たんに景気変動のためにということではなく、恒常的に人は余っており、職につけない人は必然的にいる。個々の人にはさまざまな事情があって、一人うまく「就労支援」で雇われることにな<0114<ったとしても、雇われる数(席数)の全体が同じなら、別の一人が職から外される。そんな社会で(とくに常雇用で)働いているということは、たしかに苦労なことでもあるが、特権を有しているということでもある。
  その席の数を増やせばよいと言われる。消費を喚起し、雇用を創出すればよいと言われる。だがそれには限界がある。こんなに各企業が懸命にものを売ろうとしている。商売は素人の政府が同じことをしようとしても、なおうまくいかない。またわざわざ「作られる仕事」は、人々が大切にしている労働の価値・意義を疑わしいものにする。そして様々な人間の智慧は、むしろさらに労働を減らす方向に行く。そしてそれは、基本的によいことである。とすれば、労働する人と労働時間をうまく割り振るか、そして/あるいは金を割り振るかである。前者も場合によっては有効ではあるが、すぐにはなかなか難しい。とすると、後者は現実的な方向である。仕事をたまたま(と言うと怒り出す人もいるだろうが)得ている人たちは、仕事(の一部)を渡すか、金の拠出に同意するか、両方かである。
  生活保護をただ得られている人と、働いているが受け取りがそう違わない人との間の不公平が言われることもある。それももっともだと思う。しかし、ならば、今の制度のようにある所得を超えると給付はゼロになるという仕組みでなく、働く人はいくらかずつ多く得られるようにすればよい。同時に、生活保護水準以下の所得で生活保護を得ている人についても、ただその差額を支給する(つまり総所得は生活保護水準に固定)というのでなく、働いているのに応じて総所得が多くなっていくようにすればよい。結果として、働きたくても働けない人が得られるのは、他の人たちより少なくなってしまう。本人に何の責任もないのだが、これはかんべんしてもらうしかない。
  一つ加える。働きたくないのと働けないをうまく区別できれば、後者の人にもっと加算して、今の生活保護の水準よりもっとましな生活を送ってもらうこともできる。そして、実際にずっと多いのは高齢で障害やらなにやらの事情であっての後者の人たちである。しかし、その区別をしようとすることの弊害の方が大きい。述べたように、仕事をみつけることが難しい中で、仕事が見つからない人とかが、望みがぜいたくだとか不相応だとか、そんなことをいくらでも実際に――締めつけの方向は上意下達的に定まっているので――言われ続けて、それで窓口から遠ざかる。身体の動く動かないはそれでもわかりやすい。しかし「精神」の方は外からはわかりにくい。疑われる。疑わしいと言われやすい。そうやって本当に自分を痛めていく人たちをいくらも知っている。
  第三に、(例えば暴力団をやっていて実は)金があるのにもっと受け取るのはよくない、あるなら、さらに余るほどあるなら出すべしという主張について。これにも私は賛成である。しかし、金がある人は家族を養えといった具合に、その範囲を家族に限ってしまうと、かえってよくない。家族がたくさんいる人もいればいない人もいる。手間のかかる家族がいる人もいればいない人もいる。家族を養うぐらいどうということもない人も、そうでない人もいる。遺産をたくさん残せる人もいれば全然という人もいる。だから、家族という単位でなく、もっと広い範囲で金を集めて個人に分けた方がよい。
  こうして、「健全な庶民感覚」から言っていっても、生活保護はもっとよい制度にしたらよい。(この話はどうしても長くなる。以上について、より基本的な著者の立ち位置を知りたい方は『私的所有論』(第二版かつ文庫版、生活書院)を。)


※「『現代思想』九月号「特集:生活保護のリアル」等。」有益な情報と思うが削除可。
※「(この話はどうしても長くなる。以上について、より基本的な著者の立ち位置を知りたい方は『私的所有論』(第二版かつ文庫版、生活書院)を。)」有益な情報と思うが削除可。
  ↓  「『私的所有論』(生活書院)」との記載で掲載


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