HOME > Tateiwa >

もらったものについて・8

立岩 真也 2012/01/25
『そよ風のように街に出よう』*82:36-40
*おもしろい雑誌なので定期講読するとよいと思います。


一九六〇年から七〇年代についてのものすごく乱暴な要約
 前回は震災の関係について少しこちらの活動を紹介した。そう活発にというわけにもいかないのだが、ぼつぼつとやれることを続けてはいる。HPで「生存学」→「東日本大震災」に載せているので、ご覧ください。
 そんなこんなで、行ったり来たりで、書いている本人が自分が書いていることを(どこまでのことを書いたかを)なかば忘れしまっていて、さっきざっとこれまでの見出しなど辿ってみた。そしたら、一つ書いてあることは、「左翼」の運動が、もっと言えばその「左翼」のなかでの対立が、この国の障害運動にけっこう大きな影響を与えているということだった――私が知る限り、そんなことは他の国々には起こらなかったことではないかと思う。そして、その対立は、時には泥仕合のようなところもなくはなかったのだが、それだけのことではなく、すくなくともいくらかの意味があったと私は考えているし、それを引き継いで考えることが私(たち)の仕事であるとも思っている。そういうことを言いたくて、昔話のようなこともしたりしてみたのだ。ということで今回は、既に書いたことも多いのだが、半年とか一年も立てば、人はたいがいのことを忘れるからということで、重複を気にしないことにして、すこし「復習」することにしよう。
 まず、日本では、ちゃんとした左翼は共産党に、という時代があった。ただ、(もうとっくになくなってしまった)ソ連、とくにスターリン(の体制)がとんでもであるといった話はかなり前から伝わっていたし、そこらから発せられる、ころころ変わり、またそれではうまくいくはずないと思われる「指令」には従えないという人たちが出てきて、その人は「党」から除名されたりして、いろんな方向に行くのだが、一部は「新左翼」とか(「党」からは「トロツキスト」などと)呼ばれる集団の形成に向かう。
 一九六〇年の安保(日米安全保障条約)反対の時、反対した人たちはとても多様だったが、その中には、こうして共産党から離れた左翼の人たちがおり、そこには「共産主義者同盟(ブント)」たちの一群もいた(「安保ブント」などとも呼ばれる)。結局安保条約は自然承認ということになり、一時期盛り上がった運動は急速に退潮に向かう。ただ、あきらめの悪い人たちはいたわけで、そんな人たちは「次」を狙っていたということがある。そして、その間、様々な「党派」が現われ、並存することになった。そしてそういう人たち(一九六〇年に学生として参加した人たちはだいたい一九三〇年代、そして四〇年代の頭あたりに生まれた人たちだった)とはすこし離れて、いわゆる「団塊の世代」の人たち(戦後、一九四〇年代後半あたりの生まれの人たち)が出てくる。その人たちが、一九六〇年代末から一九七〇年代初頭にかけて、大学他で一騒動起こすことになった(それに肯定的な人たちは「大学闘争」と言い、そうでない人たちは「大学紛争」と言った)。その人たちは、そういう既存の党派に参加したり、あるいはとくにそういうものに所属しない人たちは「全共闘(全学共闘会議)」などと名乗った。それで、その世代は――そういうものに参加した人の数はたかが知れているのだが――「全共闘世代」とも言われる。
 ベトナム戦争が続いていて、日本や(当時はまだ「返還」前だった)沖縄を経由して軍隊や兵器が送り込まれるという状況だった。同じ時期にアメリカでもフランスでも他の国でも「叛乱」が起こった一つは「反戦」だった。さらに、日本の大学闘争は学生の不当処分をきっかけにして始まったところがあり、それは「学問」だとか「研究」だとかを問題にすることになった。また、水俣病などの公害や薬害の問題が――以前からあったのだが――広く認識された時期でもあった。
 派手にやっていたのは「突入」だかとか「占拠」だとかそんなことで、まあそれは、相手の方が力が強いわけだから、結局は潰されることになる。また、「新左翼」の中の様々な党派が「内ゲバ」を始め、激化し、人殺しの類いまで起こることになる。また一部は、武装闘争の方に行く。といっても国内ではそうたいしたこともできないわけで、例えば「日本赤軍」の人たちの中には、パレスチナだとか、外国の方に行く人たちもいて、いくつか事件を起こす。それもいくらか人々を驚かせる。
 私自身は一九六〇年の生まれで、一九六〇年のことはまったく知らなかった。一九七〇年前後のこともなんだかよくわからなかった。東京大学の安田講堂というところを占拠した人たちがいて、そこに警察・機動隊が放水やらいろいろやって、その連中を引きずり出したのだが、そのニュース映像にしても、実際にその時に見たのか、後の「再放送」を見たのか定かでない。ただ、「連合赤軍」が警察に追いつめられる中で、人質をとって「浅間山荘」に立て籠もったのを警察が攻囲した「あさま山荘事件」(一九七二年のことであったこと、警察突入時の同時中継の視聴率の各局の合計が八九・七%だったことは、いまウィキペディアで知った)は学校から帰ってテレビをつけたらやっていて、見たのは記憶している。そして、その内部でリンチ、人殺しがなされたことがわかる。
 そういう生臭いことごとが、その運動の退潮にとって決定的だと語る人たちもいる。そうなのかもしれない。そして、共産党系の人たち(その中の若い人たちの組織は「民主青年同盟(民青)」と言った、というか、言う)の人たちは、「改革」を言いながらも――ときに「防衛」のためということで、けっこう自分たちも暴力的であったこともあったのだが――、暴力反対、民主主義を守れ、等々を言って事態の「収拾」の側に立った。

まず気分が与えられた
 以前にも書いたが、その辺りの様々については異様に詳しい人たちがいて、たくさんの本が出ているから、もし知りたければそういうものを読むのがよいのだろう(私はほとんど読んだことがない)。ただ、勇ましいというか虚しいというか、そういう本には、それらと障害・医療…との関わりについてはほとんど書かれていないはずだ。
 けれど、まずことのよしあしは別として、実際にはかなりの関係がある。それは全世界的なことでもある。例えはイギリスの「障害学」、またそれにつながる(当初は少数者の中でも少数者の動きであったはずの)運動も一九七〇年代の前半に始まるのだが、それにはやはり当時の「造反有理」の気分――この言葉自体は毛沢東が言った言葉で、今ではとんでもなかったできごとであったということになっている「文化大革命」の時によく使われ、他国も波及した、ただ、皆が皆その言葉を由来を知っていたとかそんなことはなく、つまり、そういう気分があったということだ――が関係しているだろう。アメリカの「自立生活運動」も、ヒッピームーブメントやフラワームーブメントなどと呼ばれるものの発祥地ということになるカリフォルニアから始まったわけで、そこにもなにかしらの関係はあったのだろうと思う。
 それはまず、「今までだまらせられた人たちも何か言ってよいのだ」、「偉いとか立派だと思われているものを信用しなくてもよいのだ」という気分を与えた。当時、日本の障害者の多くは学校に行けてないわけで、「学生さん」たちと直接の関係はない。けれども、そういう気持ちを得たと青い芝の会で活動してきた横田弘さん(一九三五年生)が語ったことがあることを以前に紹介した。そして私は、そういうことがとても大切だと思う。当時「理論」として示され主張されことがどれほどのことであったかと言われると、しょうしょう心許ないものがある。ただ、そういうこと以前のこととして、「造反有理」的気分は大きなものをもたらした。そしてそれは、二〇一〇年に出て、その出版社がつぶれて――というのは正確ではないのだが――今年、イースト・プレスから再度刊行された『人間の条件――そんなものない』でも書いたことだが、別に言葉でなくてもよく、例えば音楽であってもよい。政治だとか思想だとかに疎かった私もそうだった。
 そしてそんな気分というものは――その時が最初なわけでもないと思うのだが――一度生じてしまうと、起こってしまうと、基本的には、なくなるものではないと私は思う。文句を言う人が少なくなって困ると古い人はよく言うが、もし世の中が実際にうまくいっているなら、それはそれでよいことだろう。そして、結局実際にそううまくは行っていないのだから、一度、言うべきは言ってよい、言いたいことは言ってよいということが体感的にわかり、それが完全に忘れられてしまうのでなければ、言われるべきことは必ず言われる。行動は起こる。それはそういうものだと思う。

対立がもたらしたものもあるはずだと思っていること
 ここまでは、ある程度、世界に共通したものだと思う。「その上で」、この連載?で、私が言いたいと思ってきたのは、いくらかこの国に独自に思える部分があるということだ。といって、諸外国の例をそう知っているわけでもないから、確かなことは言えないのだが、すくなくともこの国の一時期、障害に関わる主題は、「(新)左翼」(的な部分)で比較的大きな位置を占めてきたと思う。そして、そのことにも関わり、その動き・主張は、先に述べた、対立の中に生じてきたものがあるということである。
 それは冷たく、突き放しして捉えることもできる。つまり、革命という大目標あるいはそれを実現させる見込み・手段を失った時、あるいは予めないことがわかった時、それでも全面撤退ということにしないのであれば、(一つひとつは)小さいかもしれないが明らな不正がある時、そこで何かしようとする。実際、例えば大学の自治会の総会か何かで、「日本帝国主義」がなんとかであるとか言ったとして、それで何がどうなるかといえば、どうなるものでもない。それに比べれば、より具体的な例えは冤罪を告発する闘争に参画するといったことの方が、まだ何かしている気はする。
 そんな事情もあっただろう。というか、そんな「実感」は私にもある。ただ、それだけのことでもない。先にも記したように、まず、その「大学闘争」は、偶然ではあれ、医学部で始まったということもある。そして、公害や薬害、精神病院のあり方等が、その頃、ようやくと言うべきか、表立って問題にされたのだが、それらを批判せずむしろそれに加担する学者や研究・教育機関のあり方を問題にした。
 そしてその時、やり玉に上がったのは、必ずしも保守派というわけではなく、かなりの割合で「革新」の側に立つ人達だった。だいたい、口ではなんとでも言えるということはあるから、「世間」より大学といった場所の方が、そういう人たちがいる割合がもともと高いということはある。そして教育・福祉そして医療といった場は、「革新」の側にとっては「狙い目」でもあった。教育によって人々を変え世の中を変えようという思惑もあっただろうし、福祉や医療には「(社会的)弱者」がたくさんいる。その人たちの味方になって、味方につけて、そして…、ということがある。自然科学の領域でそういうことはあまり起こらないが――だから「社会」に無頓着であること、また無頓着でありながらよろしくない方向に加担していることが批判されたのだが――、例えば精神医学といった医学の中でも「周縁的」とされていた部分、狭い意味での医療だけでは対応できず「地域」や「社会復帰」とかを視野に入れざるをえない部分では、「社会派」が一定の地歩を得ることになっていた。
 そしてそういう人たちは一方ではかなり素朴なことを言う。病気から人を救うこと、できないことはができるようになることはよいことだと言う。ただ、一つ、その人たちは、今の社会をそのままでよしとするわけではないので――そのまま今の「能力観」を肯定したら、たんなる現状肯定派と変わらなくなる――今の社会で評価される「できること」がそのままよいことであるとはせず、なにかもっと大切なもの、例えば「全人的」な発達がよいとする。もう一つ、その人たちも、今自分たちの技術でできることに限界があることは認める、あるいは認めるようになる。まずなおしてみましょう、でもそこには限界があるから、そしたら「受容」しましょうみたいなことを言う。専門家も大切だけど、その人たちにできることにはやはり限界があるから、そこは「当事者」の活動が大切です、とも言う。病院だけが医療の場ではない、「地域」が大切なんだとも言う。これらはすべて、すこし後になると誰もが言う台詞になって、珍しくもなんともなくなるのだが、少なくとも、自分たちでなんでもできるとは言わない。例えば、台(うてな)弘という人は東京大学医学部の精神医学の教授だった人で、以前行われたロボトミー手術に便乗して脳の組織を(承諾なしに)使って実験したとして、一九七一年、その「造反」組(のまず一人)から告発されるのだが――そして、七〇年代末から八〇年代にかけて学生だった私(たち)も基本その告発・批判をそのまま伝承していたのだが――、他方で、その人は、その前、群馬大学にいた時、「生活臨床」といって、地域の保健師(当時は保健婦)とともに精神病院を退院した人たちの支援活動を行い、再度入院したりすることを少なくする活動に関わった人でもあった。そこで、その台という人は、「私は両方が大切だと言っている、それで間違ってないだろう」と居なおるというか、自分を正当化する。それはその人の前任者であった秋元波留夫という人もそうだったし、同じ医学部で(やはり医学部の主流とはすこし離れたところにいた)リハビリテーションの部門にいた上田敏という人もそうだった。そして、それらの人たちは――とくに養護学校義務化を巡って本誌の関係者を含む人たち、組織としては「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」や「青い芝の会」と対立した――「全国障害者問題研究会(全障研)」を率いた学者たちのようにはっきりとではなかったとしても、あまり公言することはなかったとしても、共産党系と見なされていて、そして大学・医学部の秩序を守る立場、混乱を収拾したい側にいた。
 では、「叛乱」の側はどういうことを言うことになるのか。そんなところが気になって、このところ、『現代思想』という雑誌(青土社・本屋さんで注文できます)で――昨日(十月十四日)原稿を送ったのだが、その時点でもう十三回になる――「社会派のゆくえ」という題で、とくに精神医療に関することを、まったくのど素人なのに、書かせてもらっている(昨日送った原稿は「ロボトミー」に関するものだった)。何が言えると思っているのか。実際には「叛乱」側であっても医療者・専門職の側はわりあい「普通」のことを言っていたこと、しかし、相手との対抗上というということもあり、また私が感じるところでは、とくにそれを職業とする人たちにとっては仕事の対象である「本人」たちの側は、「実感」として、ずるい感じ、騙されている感じがしたということがあったと思う。
 一つには、口ではもっともなことを言っているけれども、結局のところ「上から目線」で、「現場」に降りてくる時には、それは「必ず」違うものになってしまう、抑圧的なものになってしまうという感覚があったと思う。そして、なんだかそういう「ぬるい」言い方が気持ち悪い人たちは、「なおす」ことなんかないのだと、「発達」なんかしなくてよいのだと、言うことになる。さてそうなると、今度はそれはいかにも極端な主張に思われ、やはり「過激派」だ、とんでもないということにされる。旗色がわるいように思われる。ただ、私は、そうして喧嘩をしながら、だんだん主張を極端と思われる所まで「せりあげて行った」というか、開き直っていったというか、そういうことは他の国ではあまりなかったと思っていて、そこがおもしろい、もっと言えば誇れるところだと思っている。そして、そうやって言い放ってしまったところを、そのままだと容易に揚げ足をとられてしまうから、いくらか理屈をこねて――昔だと「理論武装」と言われたのだろうが――言い換えたり補足してみようというのが私の仕事だと思っている。
 さてここまで、結局、復習に終始した。次があるとして、何を書くか。その喧嘩の様子を「後世に伝える」ためにすこし書いてみることも必要なのだろうと思う。私に――精神医療の方は別の雑誌で少し書いてみているわけでが――どれだけ書けるだろうかとも思うところはあるのだが、すこし足してみるかもしれない。そして、そんな対立にはまっていない周囲から見ると何をやってるんだかよくわからない「論争」からすこし離れたところから、「私が決める」というあっさりした、しかしはっきりした主張が現われ、その線でかなりのところまでやって来れてきたことを言い、しかしそれでも残されるものはあること、その時、むしろより古い層にある、不毛とも見える争いにおいて言われたことから受けとるものがある、そんなことを言うことになるのだろうと思う。


◇立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」『そよ風のように街に出よう』75:32-36,
◇立岩 真也 2008/08/05 「もらったものについて・2」『そよ風のように街に出よう』76:34-39
◇立岩 真也 2009/04/25 「もらったものについて・3」『そよ風のように街に出よう』77:,
◇立岩 真也 2010/02/20 「もらったものについて・4」『そよ風のように街に出よう』78:38-44,
◇立岩 真也 2010/**/** 「もらったものについて・5」『そよ風のように街に出よう』79:
◇立岩 真也 2011/01/25 「もらったものについて・6」『そよ風のように街に出よう』80:-
◇立岩 真也 2011/07/25 「もらったものについて・7」『そよ風のように街に出よう』81:38-44
◇立岩 真也 2012/07/** 「もらったものについて・9」『そよ風のように街に出よう』83


UP:20120213 REV:20120610
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)