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後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告

立岩 真也 2012/05/30
『福祉社会学研究』9:81-97(福祉社会学会



※ この原稿の3年後、『大震災の生存学』が出て、そこにも一つ書いています。私が関係した単行書としては以下。

『思想としての3・11』表紙    『大震災の生存学』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 *以下、草稿→掲載されたもの(校正済み)

要約
 まず、被災地の後方において私たち(研究者)が何ができるのか、できるはずのことの中でどれほどのことをしているのか(していないのか)を報告する。次に、障害や病を伴って生きるのに必要なものを確保し使い勝手よく使っていくための準備と知恵があり、知識は共有されるべき範囲に共有され、取れる策は取られるべきであるという言うまでもないことを述べ、それに関わる活動をいくらか紹介する。さらに、とくに「個人情報保護」のもとに所在がつかめない人たちが、知られないままに「移送」され、そのままにされている可能性と現実があることを述べ、その不当性を強く訴える必要があり、実際その訴えがなされていることを報告する。そして、原発の近くから逃亡し新しい生活の場所を作ろうとする動きがあることも紹介する。そしてこれらの活動が、この約40年の、さらに阪神淡路震災後の障害者運動の継承・展開によって支えられていることを示し、その意義を再確認する。

□キーワード 震災・障害者・病者・移送/逃走・障害者運動

1 はじめに
 与えられた主題、障害者・病者とこの度の震災・原発災害について、いずれも短いものだが、いくつか短い文章を書かせてもらった(文献表参照)。多くは当方のHPでご覧になれる。加えて書くことはあまりないのだが、いくらかでも多くの方に知っておいてほしいと思うから、以下、多くは幾度目かになるこ<0081<とを書かせていただく。ただ終わりの方で書くのは初めてのことになると思う。
 分けていけば、たくさんあるのだろうが、まず、一つ、もののこと。例えば、人工呼吸器等電気で動くものを身体につないで生きているような人にとっては、停電は即座に行き死にに関わる。電気に限らない。薬剤や栄養剤の類もいる。そしてむろん自力で動けない人の移動を助けるということもある。それらの困難はゼロにはできないが減る。そのために細々とすべきことが様々ある。
 そして一つ、逃げ場所、逃げ方・住み方の問題がある。とくに原発のことに関わり、逃げたい人は逃げられるのが当然である。そのための動きも、困難も伴いつつ、始まっている。ただその前で、どこにいるのかわからない、たいがいの避難所に障害者が見当たらないといったことが起こった。緊急時ということでなんだかわからないまま遠いところの施設に移送され、そのままになってしまうということも起こりうる。もとのところに戻るにせよ、新たな場に住むにせよ、それは避けたい。また、「福祉避難所」などと言われるものが、人の住み方としても、具体的な居住空間としてもよいのかということがある。
 まず短くすればそんなところだ。その一つひとつを見ていけれは当然長くなる。そして私は実際のところを知らないから書けない。ただ、それに立ち向かう人・当人たちの動きがあり、その歴史があること、そして、その動きにいくらか関わりながら、こちらでもいくらかずつ始めていることがあることを紹介し、そこに見える困難に関わっていくらかを加える★01

2 伝達と集積、そして電源他
 どこで何が、たとえば「エンシュア(・リキッド)」といった商品名の所謂人工栄養剤が足りなくなっている、送ってほしい、わかったといった情報は、地震が起こった翌日あたりから様々なところで飛び交った。もちろん情報がやりとりされただけでは仕方がないわけで、様々を実際に集めたり送ったりといった仕事に、こちらの院生(本業は「さくら会」「日本ALS協会」他で活動)では川口有美子(以下すべて敬称略)が関わっていた。その媒体としてALSの人および関係者たちのMLも使われた。そういうこまごましたことは個別のそのとき<0082<どきののやりとりの方がかえって確実だから(例えば足りてしまってから届いたらかえって迷惑になる)、それはそれでやってもらうことにして――この種のことについてはツィッター、携帯といったあたりがかなり役立ったようだ――私たちとしては、もう少し広いところで共有されてよかろうという情報をHPにあげることを始めた。
 停電時の対応の仕方についての情報などは役に立つものがあったが、停電そのものについての(電力会社や行政機関の)情報は、御存知のようにほぼ役に立たなかった。障害別・疾病別の頁がたいがい既にこちらのサイトに――中身の充実したものは多くないながら――あったから、関連情報をいくらかは分類して、関連情報なり、そこへのリンクをその各々の頁の上の方に置き、そしてそういう個々の頁にリンクされる「災害と障害者・病者:東日本大震災」というページを作って、表紙から行けるようにした。そうしていちおうの形ができたのは3月14日だったと思う。そしてそのことをまずはごく短く、日本語・英語・韓国語のメールマガジンで――伝えるべきことが違うからその中身も同じではない――お知らせした。
 そしてその作業は、知らせることであるとともに、とっておくことでもある。役に立てるのであれば立ってほしいとは思ったが、個別に知りたいことについてはHPの検索をかければかなりのことがわかるからそれで間に合った部分も多かったはずだ。ただそのことがわかった上でも、収蔵はしておいた方がよいと思ったのだ。研究者がする数少ない仕事の一つは記録してとっておくことだと思う。そもそも今やっているウェブサイト(のもとになったもの、1996年開始、その前年に阪神淡路大震災)も、(私の場合はメールの直送便の他、ニフティサーブのパソコン通信の「フォーラム」と呼ばれていたもので受け取っていたのだったと思うが)配信されてくる情報をそのままにしておくのはもったないということで始まったところがある。ほぼ忘れかけていたのだが、1995年3月の「被災地障害者センター」「障害者救援本部」配信の機関紙など、そのごくごく一部が収録されてはいる。そして前者には後記する福永年久の名も見える。ただ、この頃にはインターネットはまだ普及しているというものではなかった。私自身、自宅ではつなげなかった。そんなこともあって、送っていただいた紙媒体の機関紙の類はいくらかファイルしたが、ネット的にはほとんど何もできなかったよう<0083<なものだった★02
 この種の情報は、本になったりした例外的ないくらかを別にすれば、そのままにしておけば離散・消失してしまう。阪神淡路大震災の時には、知られているように、神戸大学の附属図書館が資料保存の活動を本格的に行なった。「神戸大学附属図書館震災文庫」があって、そこに「デジタルギャラリー」がある。これがなかったら残らなかったことも多い。私たちにはとてもそこまでする力はないが、それでもなにもやらないよりはましだろうと思っている。2011年度で制度自体が打ち切りということに決まっていたCOEの方は予算も減らされていて、最初からほぼ金が何もないというに近い状態だったが、それでもそれをいくらか使い、まずいくらかは支払うこともできたので、そしてその後、いくつか学内からの資金を得たので、こちらの大学院生に、まずは関連報道の類から集めてもらって掲載してもらうようにした★03。できる範囲のことをほそぼそと今後も、金が続くのであれば、続けていくだろう。(この文章も本来は個々に説明を要する人や組織その他がたくさん出てくる。許可が得られればHPに掲載し、関連するページにリンクさせる。)
 そして物資の方については、やがて一時の不足はそこそこに落ち着いてきたようだった。ただ、電源の問題は長く続くことであり、そして昨年だけをとっても、東北に限ったことでもない。そして次のことにも関わるのではあるが、そんないざという時に協力を求めたり情報交換するためのつながりが――とくに京都の地においては――ないという話があった。それで誰かが言い出して、9月18日、こちらも(私たちは金を出さない=出せない)共催というかたちで、京都市内で、「シンポジウム・震災と停電をどう生き延びたか――福島の在宅難病患者・人工呼吸器ユーザー(他)を招いて」という催を行った。いずれも京都市在住のALSの増田英明(日本ALS協会近畿ブロック幹事)、筋ジストロフィーでこちらの大学の卒業生でもある謙(NPO法人「ゆに」代表)が呼びかけ人になり、そして催の前にアンケート調査を行うなど、「日本自立生活センター」の人たち他、様々な人が尽力した。私は司会だけした。医療や福祉の業界の人たち含め、200人余、予想外に多くの人が集まった。勤め先の大学院生でもあり千葉で筋ジストロフィーやALSの人たちへの介助派遣を行っている事業所「リベルタス」の経営者でもある伊藤佳代子も、千葉での地震・停<0084<電の時のあたふた他を報告した。福島から佐川優子(日本ALS協会福島支部長)他も来て話をしてくれた。その時の録音記録は文字化してある。本誌が発行されるころには、ここで紹介するものの幾つかも収録した冊子が発行されるはずなので、他に福島からかけつけてくださった方々、そしてその報告、会場での質疑応答については、それを読んでもらえればと思う。
 「もの」自体については、完全に、は無理として、相当のことはそう難しくなくできる。バッテリーの替えを常備しておくことはできる。ただ蓄積されている電気は次第に少なくなりバッテリーは劣化するから、その点検・交換も仕事の一つだとわかっておくこともできる。そして灯油発電機は屋内で使うと危険だ。屋外に置ける家はよいがそうでないなら別途置き場所を工夫しなければならない。どこかに置いて共用するというやり方もある。こうしたことは、とくに制度に乗せようとすると、実際にはなかなか進まないのではあるが、本来はそう面倒でなく、できるはずのことである。今度作る冊子でもそうした情報が冒頭に置かれることになるだろうと思う。
 他方、それから4月ほど経って、電気(他)を使って呼吸(他)をしている人たちによる何かの集まり・つながり、といったものはまだできてはいない。ただ、たいがいのことがたった数人の集まりから始まる。そのきっかけにはなったと思う。そして、この度、東北での事態に早く対応できたのは、それが続いているのは、当地にそして全国に、人々の集まりがあり、その歴史があったからだ。次に、そのことを、そしてやはりそうしたことに関わる記録をとっておくべきことを、そしてそこから考えることがあることを述べる。

3 人・組織およびその来歴
 このたび、即時の、そして後の上記の課題にも関わる「本人」たちの動きは早かった。
 まず全国的な組織としては「東北関東大震災障害者救援本部」が設立された。また被災した各地に県別の組織、福島県であれば「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」(開所式は4月6日)他が設立された。そして阪神淡路大震災<0085<の後に設立された「ゆめ風基金」がこれまで集めた金を各所に渡すとともに、さらなる募金と活動を展開している。
 それらがどこまでのことをできていて、どんな困難を抱えているのか。それを追っておく必要がある。そしていちおう注目しておきたいのは、ここではその要因までは述べないけれど、かつて少数派であった部分が先頭に立って、そしてかつてはあまり(時にはとても)仲のよくなかった部分も含めて、やっていっているということだ。
 これは非常時だからということもあるだろう。またいつまで続くかわからない今の政権に代わったという要因もないではないだろう。かつての政権党を支持してきた側にしても、得られるものがあるから支持してきたということであって、その要求先が変われば態度も変わる。そして、共産党に近く、とくに障害児教育のあり方を巡って鋭い対立を見せていた部分も、今はかつてほどの攻撃性はなくなっているといったことがあり、そちらに近い(と、今は関係者たち自身の大多数が思っていないのだろうと思う)「共同作業所全国連絡会(共作連)」に属する組織やそこにいる人たちも例えは福島のセンターで仲良くやっていると聞く。このセンターの名称の先頭についている「JDF」は「日本障害フォーラム」。この組織は旧来の大手の組織「日本身体障害者団体連合会」(日身連)といった組織を含む大同団結的な組織である。
 ただ、例えば福島であれば、そのセンターの代表をしているのは「福島県青い芝の会」を橋本広芳らと共に始めた白石清春(1950生)である。その白石らの主張に反感を感じて事務所に乗り込んでいって徹夜で議論して「寝返り」、その活動に参画するようになったのが鈴木絹江で、さらにそれに感化されたのが安積遊歩(1956生)ということになる。鈴木も今、田村市で支援の活動をしている(現在「ケアステーションゆうとぴあ」理事長)★04。いまは原発を逃れ、東京からシドニーに移っている安積は白石らについて次のように語っている。

 「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣<0086<幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
 白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。」(安積[1990:30→1995:30])

 記録を見ると、白石の秋田への「オルグ」のための移住は1976年。1977年の(全国)青い芝の会の大会で選出された会長が横塚晃一(1935〜1978、 75年の著書の新版が横塚[2007])、副会長が白石、事務局長が鎌谷正代(後述の古井正代)。白石は、同年、ごくいちぶでは有名な「川崎バスジャック闘争」にも「中心的な立場で」参加してもいる。その翌1978年、横塚が亡くなり、路線を巡る対立等々が起こる。白石は、1979年、「全国青い芝の会再建委員会」(正式名称がこれでよいかは不詳)の代表に就任。そして1980年には秋田から相模原市に移る。そして、1970年からは長く、もっはら糾弾・反対の運動をしてきたこの団体において、所得保障要求を中心においた対話路線の「東京青い芝の会」の人たちが前面に出た(その方向を進めた官僚がいたということもあった)一時期――だから、というわけでは(まったく)ない(と私は思う)が、障害基礎年金が1985年に始まる――その人たちと活動もした人である(そして、そういう時期はいっときのことであり、その後、この組織は様々に対して反対する組織に戻り、実際の活動を担う人は長い間にすこしずつ減っていくという組織になっていく。この辺については立岩[1990→1995]に少し記している。)
 私は、1980年代の後半、安積の紹介・仲介で相模原で白石らが運営していた「くえびこ」という場所(1981年開所、制度的には作業所ということだったのだと思う)でインタビューさせてもらったことがある。そして彼らはその頃すでに「シャローム」というグループホームの運営の始めていたはずだ。その白石は、<0087<1989年に再び福島に戻り、1990年設立の「グループらせん」、1994年開設の「オフィスIL」、2001年設立の「あいえるの会」に関わってきた。そんな人だ。私はそれきりになってしまったが、土屋葉らが聞き取り調査を重ねてきて、いくつかそれに基づく論文もある(土屋[2007a][2007b]――がさらに記録(が公表)され書かれるべきことが多くあると思う。)
 そして、その福島に、早々に、応援しようと乗り込んだのが、古井(旧姓・鎌谷)正代と福永年久だった。古井(1952生)はかつて「関西青い芝の会」の中心人物で、後に「健全者(健常者)」(の集団)との関係等を巡って「大阪青い芝の会」他と対立しつつ、その「健全者組織」を(作ってそして)解散させるあたりの時期にいた人で、またそうした「内紛」の後、活動から(いったん)離れることになった人である。だから基本現在は無所属ということになるのだろうが、とても元気な人で、ここ十年ほどの間に幾度か集会やら研究会でお会いしたことがあった。
 また福永(1952生)は、「兵庫青い芝の会」に関わり、「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の幹事を務め、そして震災前から、そして震災後、「阪神障害者解放センター」、「拓人こうべ」の代表など務めてきた。『こんちくしょう』という映画の「制作総指揮」をした人でもあり、その映画作りに関わった人とともにCOEの企画「障害者運動・自立生活・メディア――映画『こんちくしょう』のスタッフと共に考える」で大学に来てもらって話してもらったことがあった。(関西における障害者運動について、山下[2008]、渡邉[2011]、定藤[2011]等。)
 その人たちが、4月に福島に、白石たちのところに行った。両人とも重度の脳性まひの人で、介助者がいるわけで、それでとんな連絡がいつ来て何がどうなったのか記憶にないのだが、青木千帆子(2011年度のCOEのポストドクトラル・フェロー、現在は立命館グローバルイノベーション研究機構研究員で電子書籍のアクセシビリティについての研究グループの一員、本業は「障害者と労働」ということであるはずで、後出の「差別とたたかう共同体全国連合(共同連)」、現在は(NPO)「共同連」が正式名称)等に調査に行っている)、そしてやはり大学院生で(2011年度に3年次入学、本業としてはベトナムの精神障害者のことを研究している)権藤眞由美が、介助者として同行するといったことがあった。古井は、そしてその二人他も、その後も福島を訪問している★05。古井たちは、関西、というか大阪・兵庫の人た<0088<ちの中でも、前向きの、言うことははっきりと強く言うという人たちであったから、当地では、いささかのあるいはそれ以上の当惑を、ものを言っていく相手だけでなく、当の組織のスタッフ他にももたらしたようだ。白石は、闘士であったとともに温厚な人格者でもあり、福島という――とも一括りにできないのだろうが、おおまかには控え目な人たちが多い――土地で、方向が(ときにかなり)異なる人たちも含めてやってきた。ただ、こういう状況であっても(あるいはあるからこそ)押す時には押す、言う時には言うということに積極的な意味もあったのだろうと思う――古井に同行した青木の報告として青木[2011]。(このことを最後に記す。)
 そして、「東北関東大震災障害者救援本部」の代表は、そのHPからそのままとってくれば、中西正司(DPI日本会議常任委員、全国自立生活センター協議会常任委員)、副代表:牧口一二(ゆめ風基金)。呼びかけ人には、DPI日本会議から三澤了、山田昭義、尾上浩二、奥山幸博、八柳卓史、全国自立生活センター協議会(JIL)から、長位鈴子、平下耕三、佐藤聡、東京都自立生活協議会(TIL)から横山晃久、野口俊彦、今村登、ゆめ風基金から楠敏雄、福永年久、共同連から松場作治、地域団体から江戸徹(AJU自立の家)、廉田俊二(メインストリーム協会)、障害者権利条約批准・インクルーシブ教育推進ネットワーク:北村小夜、青海恵子、徳田茂。この人たちについてもいくらでも書くべきことがあるが、きりがない。(「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の代表幹事であったこともある楠については現在、やはり私の勤め先の大学院生の岸田典子が聞き取りを継続的に行なっている。その成果がそのうち出されるだろう。)
 そして、「ゆめ風基金」は、阪神淡路の地震の5月後に設立された基金で、今名前が出た関西・大阪の障害者運動にはじめから(人によっては途中から)縁が深い人たち、『そよ風のように街に出よう』という雑誌を出してきた河野秀忠といった人たちが関わってきた。(その地の震災以降の関連の活動については、大学院生他とともに長期間に渡る調査を行なってきた似田貝らの著作(似田貝編[2006]、佐藤[2010])にいくらかは出てくるが、それ以外にはないのではないか。)
 それらは新興の――とは言えないだろう、ずいぶんな時間が経っているのだから――その時々の福祉の政策(やときに学問)を批判してきた(が言うことを聞いてもらえなかった)勢力である。ただ、この時間の間に、「青い芝の会」に<0089<せよ「全障連」にせよ、もっぱら批判・抗議の運動を展開してきた部分の活動力は、言い放ってしまえば、低下しており、後景に退いてきている。ただ、その流れを汲んではいる人たちが幾人もいるし、そうした「傾向」の組織が多く加入している「DPI日本会議」が現在の運動・政策の一つの核になっている。そして同時に、そして福島県もそうだったが、「事業所としての自立生活センター」というかたちができていったことによって、そうした組織の存在・存続が、かつかつながらではあるにせよ、可能になった。ただ同時に現在でも、東北でも(日本の他の地域でも)こうした組織がない県・地域はある。福島の場合、1970年代以降の運動・活動があり、それを始めた人の里帰りもあったりして、つまり、より以前からの運動と1990年代以降の事業体としての活動と、両方の要素をもつ動き・組織があって、とにかくすぐに動けた部分があった。阪神淡路の時もそうで、そしてそれが今度の東北への支援にもつながっている。

4 住むこと・移ること
 そんな客人たちも時に訪れつつ、どんなふうにことが動いているのか、動いていないのか。以下、そうして関わりのある人たちの書いたものやら、その人たちから聞いたことから、住み暮らすこと・移ることについて、すこし付記しておく。
 一つ、これからどうなっていくかまだわからないのだが、福島県からの移住計画が進められつつある。白石たちは、以前いた相模原市に一軒場所を借り、さきほどあげたのと同じ名称の「シャローム」を立ち上げた。そしてとりあえずそこには4人住めるのだという。ただすぐに移住というわけにもいかない。福島で介助者などしてきた人のことのこともあり、その家族のこともある。ためしに幾度か往復して、本格的に誰がどこにということが決まっていくのだろう。ただそういう試みについては――ほぼすべての制度は「住民」を対象としたものであるから――制度は使いにくい。それで民間の助成にあたってみたりしようとはしていて、しかしそれにかかる手間もある。そしてそんな手間をかける余裕はない。それで、先述の縁・しがらみもあり、その書類書きをさっき出てきた大学院・研究拠点(センター)関係のちが手伝っているといった具合だ。<0090<
 他方に、受け入れようという動きもある。兵庫の人たちががんばって、市営住宅で使えるものを確保したといったことであり、私たちも、そんなあたりの情報提供ができればよいと思って、HPにそんなコーナー(ページ)を作ってはみた。ただ、普通の引っ越しより様々にめんどうなことがあり、複雑な事情・思いもある。ページはあるにはあるが、実際に使われるものにはなっていないと思う。実現しかけた話がなくなったこともある。それでも寄せられる情報は載せ続けていくことにはなっている。
 ただ、こうしたものは多くの場合、そういうものを使える人たちが使うのではある。阪神淡路の時にも対応が早かったのは、たいした用もないのに、集まる場があり、見知っている関係があったということが大きかったという。それはそうなのだろうと思う。ただそれは、たまたまだとか利口であるとかで、そんな関わりがあった人であり、最低限の自由度がある人たちである。当然そんな人ばかりではない。偏屈な人もいるし、いかように告知しようが知らない人、知ろうとしようとしない人はいる。そしてそんな人がいていけないということはない。ただそんな人にも等しく災害は降りかかってくる。
 そして実際、阪神淡路の時にも、この度においても、いま記してきた人たちは、まずは今までつきあいのある人のことでせいいっぱいというところのはずだが、そしてもちろん、誰もなんでもできるわけがなく、そんなことはわかっているのだが、見知っている人たちでなく、ほうぼうに、どこにどんな人がいるか、どうなっているか、聞いてまわった。しかし――とりわけ今回、そして福島に――起こったのは、どこにどんな人がいて、どうなったのかわからないという出来事だった。当初はどこの避難所にも障害者が見当たらないということもあったらしい。そして役所などに聞きに行っても――南相馬市は例外だったようだが――「個人情報保護」を理由に、行政機関が把握している情報が知らさせられなかったということがある。仕方がない、ということになるか。
 「個人情報保護」という制約下で可能な方法として、予め緊急時の対応についてそれを希望する人とそれに応ずる人を登録し、いざという時に連絡をとるという方法はある。実際――阪神淡路震災の後のことだと聞くが――そういう仕組みがあるところもある。ただ、その仕組みのあった東京都中野区で、所謂医療的ケアを必要とする子の親たちに当日以降しばらくのことを聞いて調べた<0091<佐藤浩子(元中野区議会員でやはり勤め先の大学院の大学院生――さきの企画で話をしてくれた伊藤と共に仮設住宅を訪れたその報告(佐藤[2011]、伊藤・佐藤[2011])もある――の論文(佐藤[2012])によれば、ヘルパーがたまたまそこにいたという人はあまりあたふたせずに済んだといういったことはあったようだが、その緊急対応の仕組み自体は実質的にはほとんど作動しなかったという。対応することになっていた人も同じ地で同じく災害に見舞われたのだから、ということは当然あるだろう。それでもこうした仕組みはないよりはあった方がよいのだろうとは思う。そしてこれには本人(あるいは「保護者」)の同 意があるわけだから、個人情報反故云々の問題を切り抜けることもできるということになる。
 ただ、それだけのことか、他のやりようはないかである。できることで他にはなされていることが阻まれてきたというのがもう一つの現実のようだ。実際に は、行政機関と大きな福祉施設とのやりとりはあって、地元の施設から遠くの施設へ、避難所から遠くの施設へといった流れがあり、そこでは当然情報が(本人 が知らないまま)やりとりされていたことになる。他方で、一人ひとりを、その人がよいという場所でという、たしかに手間のかかる対応・支援をする組織の方 は敬遠しがちというになったのだろうか。とすると、たんにこれは個人情報保護(法)の壁云々という話ではないということになる。
 緊急避難先として、たしかに、あまり混み合わない、人手がいるなら人がいる場所があること、医療といった処置が必要なら、まずそうした用意のるあるところへということはあってよいだろう。そして近間が危ないのであればさらに遠くへという話もわからないではない。しかしそうした流れの中で「移送」がなされ、本人の意に添わず、気持ちがよくないままそのままの状態にされてしまうなら、それはよくない。災害があったから仕方がない、とも言えない。そして、そんな移送がなされたなら、なされていている限り、それはそれらの関係機関において把握はなされ、そして実行されている。つまり、情報が、行政機関なりそこにつながっている施設なりにはあって動いてることなのであるから、他には知らせてならないないということにはならない。少なくともあらかじめ決まってはいない。まずこのことは言える。
 たしかに誰にでも知らせてよいということにはならないだろう。だがやはり、それなりの理由があって行く末を案じている人々に対しては、そしてその案じ<0092<ている人たちは自分たちが日ごろどういうことをしているどういう者たちであるのかを明らかにしているのだから、知らせてよいはずなのだ。そして、このことを主張する時、やはり、たださまざまな人たちとと仲良くやっていくというだけではことは済まず、突っ込むところは突っ込まくてはならないということになる。それはただしい行ないであると思う。その意味で、このたび「外」からやって来た人たちの強いものいいはまっとうなのだと私は思うし、少なくとも時には、そんな方向で強く動ける、先方を説き伏せ応じさせる、そのことが必要なのだと思う。
 そんなことに関わるためには、後方にいて既にあるもの、公開されている情報を並べるだけでは足りないのだろう。既に文字になっているものを拾っていくというだけでなく、そこに起こっていることを追い、ときに一定の距離感をもって、見ていく、そしてできることがあればしていく。そんなことがなされるとよい。ただ、私自身はできない。ただ、関わっていこうという人がいる限り、それを応援する程度のことはしていきたいと思う。


★01 全般について、言わずもがなの、一般的なことを。生き残った人たちが生活をどのように再建・構築していくか。基本的に平時用に作られている各種の制度・仕組みに何を足すと、あるいは省くとよいのか。それは考えるに値する問題だろう、などど言っているうちに日は過ぎてゆくのだが、きっと考えてている人たちがいるだろうから、おまかせする。
 (原発は別として)ただ基本は単純なことだろうと思う。ボランティアはけっこうなことだが、もっと距離感をもって考えると、それは緊急時に適したかたちである。そういう人をいちいち把握し、「公平に」支払うといったことに事務コストがかかるということがある。それ以前に、ふだんいらない人手が一時的にいりようだということがある。そうした事態に即対応できる人間たちや、調整の体制を日頃から一定用意しておく必要はあるが、現場の人数が足りない時に、いったんいつもの仕事をやめてという人がいりようなことがある。ただそれがいったん一段落すれば、とくに遠いところの人たちは、たいていの場合、なにかしたいと、するべきだと思うのなら、金を送るのがよい。
 代わりに、現地の人たちの人手が、今のところ、あるのであれば、余ってしまっているのであれば、その人たちに――その仕事は今までのその人の仕事ではないことが多いから、それはときに嫌なことで、面倒なことで、また周囲の工夫も必要にはなることは考えにいれたうえで――働いてもらい、それはそれとしてきちんと払うのがよい。そしてその仕事は必ずしもフルタイムの仕事である必要もない。あいてしまった期間、時間。そしてその仕事の多くはやがてなくなるだろうし、それは好ましいことでもある。そして、それはそれとして、所得保障はする。かの地の人たちに生活保護に対するより強い抵抗感があるという話がもし本当な<0093<ら、その抵抗をどうやって減らすかだ。ただ実際には、まったく逆向きの言説が全国的に流通している。次に、労働(による収入)と所得保障・所謂社会サービスとの兼ね合いについて、ごく基本的なことは別に記した(立岩[2009:24-28][2010a:16-22])。加えれば東北に限らず様々に人を世話する仕事は全国にあるのだから、その部分に金を使うのがよい。(ただその仕事を肯定しつつ、それに払うことについて、原理的な批判がある。そして払うにせよ、払わないにせよ、その仕事はいかほどのものになるのか。立岩・堀田[2012]で論じられる。関連して「不払い労働」という理解(他)を吟味した書として立岩・村上[2011])
 なお震災・原発関係の本や雑誌の特集号は山ほど出ているようだが、私に与えられた題に関わるものは多くないようだ。ただ『季刊福祉労働』(現代書館)131号(2011年6月)が「東日本大震災 障害者救援・復興支援ドキュメント」を特集していて、何がその時に起こっていて、感じられていたのか、わかる。『そよ風のように街に出よう』(りぼん社)も継続して報告を続けていくようだ。
 また、同年10月1日、愛知大学を会場に開催された障害学会第8回大会の特別企画トークセッションとして「災厄に向かう――阪神淡路の時、そして福島から白石清春氏を招いて」を行った。福島から白石清春(後出・以下本文も註も敬称略)を、そして阪神淡路震災とその後の活動に関わった人として野崎泰伸をお呼びして、話をしてもらった。
★02 なにかの事件の時になんらかの意味をもちえたと思ったのは、そのサイトの場合、2003年の年始から始まった「ヘルパー派遣上限問題」を巡る騒動の時のことであったかと思う。1日に4度とか更新した時期があった。そしてその時の記録は後に冊子にし(立岩・小林編[2005])、また――結局刊行されたのはずいぶん後のことになったのだが――それ以降のしばらくについて検討した文章(立岩[2010b])を書い た。
★03 2011年度、グローバルCOE――こちらでやっている(いた)のは「生存学創成拠点」というもの――は最終年度ということだったが、ほとんど回せる金はなかった。そこで私のほうではとりあえず学内の資金(おおむね1件あたり50万程度)に応募した。一つは「立命館大学東日本大震災に関る研究推進プログラム」。6月に応募書類を出して、これは7月に落選通知が来た。次に、人間科学研究所研究所という組織(私もメンバー)の「2011年度立命館大学重点プログラムプロジェクト」の公募に応募。「災厄に向かう――災害と障害者・病者支援」という題で9月に出して10月に採択。これはほぼ全額をHPの方の作成・更新のための人件費・謝礼に使用している。そしてもう一つ、「東日本大震災 復興のための『私たちの提案』――教職員の取り組み」に「震災弱者にされてしまわないために――調査・連携・提言」という題で10月に応募、同月採択。これは、本文で次に記す冊子・報告書の制作にあてることにした。これらの書類のすべてはHP上で読むことができるので、いくらか誇大に語り、そして実現していない部分も含め、何をしようとしているか(していたか)わかるようになっている。
★04 本に名前は出ていないが、安積は1976年の鈴木との出会いのことを次のように語っている。
 「養護学校の先輩が誘ってくれたんだけど、その人はものすごい頑張り屋で手先の器用な人だから人が三年かかるのを、年半で編物の師範の免状とってものすごく頑張ってたの。ところがその人の養護学校の同級生が青い芝のCPの入で、生活保護とか年金とかで自分達も地域で生きていくんだってやっているのが聞こえてきて。その人は、「許せない!」、そう思ったんだって。生活保護とか年金でただ食いしてって、文句言おうと思って事務所に行って二晩激論したんだって。最後に、青い芝の方が「正しい!」って、結論を出すと早い人だから、自分<0094<の知ってる養護学校の後輩達にそのことを教えるから、もっともっと運動を大きくしようってことになって、その人が私の家に在宅訪問に来たの。行ったらすごいことになる、おもしろいことがある、人生が変わるって。」(安積[1990:28-29→1995:28-29])
 1999年に鈴木が代表を務めていた「障がい者自立生活支援センター<福祉のまちづくりの会>」主催の企画で、その時はまだ合併の前で船引町に、講演に呼んでいただいたことがある。私には、ひととおり講演が終わった後うかがった話の方がずっとおもしろく、録音機をもっていかなかったのが悔やまれた。
★05 福島に(最初は)付いて行った二人と報道関連の収集を主に担当している大学院生の有松玲は、2011年、韓国と日本での学会で報告を行っている(青木[2011]、青木・権藤[2011a][2011b]、有松[2011]、権藤・青木[2011]、権藤・有松・青木[2011])。

文献

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参考文献(雑誌に載った体裁のもの)

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◆――――,2011c,「後方から」『おそい・はやい・ひくい・たかい』62 [原稿送付:05/19 発行:07/25]
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◆渡邉 琢,2011,
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◆山下 幸子,2008,『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』生活書院
◆横塚 晃一,2007,『母よ!殺すな 新版』生活書院<0096<

Summary
First, I present what we, researchers, can do, and how much we have done (have not done) what we are supposed to do for logistic support of the disastered area of the Great East Japan Earthquake. Second, I insist people with disabilities or illness should secure what is neccesary to live, have preparation and wisdom for usability, share the knowledge that should be shared, and measures that can be taken should be taken, and then introduce some activities concerning them. Moreover, I present the possibility and fact that under the Personal Information Protection Law people who are missing are transferred without being known and left there, and we should strongly complain to its unconscionability, and in fact, invocation against it has been made. Furthermore, there appears a movement that people run away from the nuclear power and try to secure a new living place. Finally, I present that these activities have been supported by succession and development of this 40-year movements of disabled people, and moreover, the ones after the Great Hanshin-Awaji Earthquake and reconfirm its significances.

Keywords: disaster / disabled people / patients / transfer / disability movement

UP:20120122 REV:20120801, 1231
 
災害と障害者・病者:東日本大震災  ◇立岩 真也 
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