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大野萌子さんインタビュー

2011/10/01 於:障害学会大会会員控室  聞き手:桐原・立岩・七瀬


 ※桐原 尚之・白田 幸治・長谷川 唯 編2013/01/20 「『精神病』者運動家の個人史(1巻)」(立命館大学生存学研究センター2012年度前期若手研究力強化型)に収録
 ※さらに整理し、補えるところは補い、公刊したいと考えています(立岩)。

桐原:話するんだけども、僕は、何でこの死刑の問題と精神障害の問題が切り離せないかと思っているかと説明すると。

大野:はい。

桐原:精神科医が死刑をできる、執行をできる状態に、死刑囚があるかをどうかを精神医学的な状態を、健康チェックをするんですよね。執行する前に。なんでそんなに健康状態良いんですかね。皆さんは? 死刑執行するときは、皆、健康状態良くなったり、入院する時はいきなり悪くなったりという、精神科医の匙加減で、被害を受けているっていう意味では、僕は、そんなに大きい差はないんじゃないかという風には考えているんです。それだけです。

大野:それだけでねぇ、じゃあ皆、そんな共通化できるなら。そのあなたの言われたことを文章に書けばいいと思います。

桐原:分かりました。僕のじゃあ考え・・・・。

立岩:すいません。突然。

大野:いえいえ。政夫さん★[赤堀政夫]政夫さん政夫さんここでおいでなさい。いい。先生もご飯ちゃんと食べてるの?

立岩:えぇ、食べながら。ありがとうございます。

大野:あのねぇ、政夫さんにとってねぇ何も面白くないの。面白くない人ってねぇ。七瀬さんは何処にいるのかな?

立岩:今はちょっと下の方に僕のことで連絡しに行ってくれているんで。

大野:じゃぁちょっと待ってみましょうね。

立岩:大丈夫です。

大野:これは手拭きです。どうぞ。

桐原:これは僕のです。あれ、これは立岩先生の?

立岩:そうですね。そうですね。

大野:コップありますから。

立岩:「病」者集団、74年でしたか、75年ですか。

大野:74年です。

立岩:74年ですよね。はい。そもそもっていうよりもどのぐらいのこと?

大野:そもそもって言うよりもなんというのかな?まず形的なことを言うわね。文書にはならないけど、それを聞いて下さると話が分かりやすいと思いますけども。

立岩:はい、分かりました。

大野:で、ごめんね。つまーんない人だよねぇ。

立岩:昭和の11年の生まれで。

大野:昭和11年と言うよりも私はね36歳に始めました運動を。今75ですから、36歳。約40年前です。

立岩:約40年前?

大野:36歳に再発したんです。

立岩:はい。

大野:その前になんというのかな24歳の時に、

立岩:24、はい。

大野:初めて精神病院に御厄介になったんです。で、それをやったけれども、すべての物を失いました。精神障害と言うことで。

立岩:その時は一応自分で入院したっという感じですか?

大野:私は入れられたこと一度もないです。

立岩:自分で、名古屋で。

大野:とにかく強制医療なったことは一度もないです。それは医療を一つ一つあったんだけれども、で、24歳の時は、本を読み過ぎて母親にそんな本を読んだらね頭おかしくなるよって。何を言ってるのと思ったのよね。確かにね、三ヵ月後、それは言われたの三ヵ月後に七貫だから、今で言うと、どのぐらいですか? 七貫、体が細くなっちゃって、7キロじゃないですよ。

立岩:細く

大野:細くなちゃって。それで、不眠になって。自分で受診したら、すぐ入院って言われたの。

立岩:入院した方がいいって言われて。

大野:それが24歳。

立岩:24歳?

大野:24歳でもちろんフィアンセもありました。

立岩:あら。

大野:でも、まあ、鬱状態なものですからね。精神病の私が、相手に迷惑をかけることをね愛とは何かと考え過ぎたんだよね。愛んだったら、愛する人を望むことを愛する人っこを不幸にできないから。私が引くべきだと思って引いちゃったわけ。婚約をね。そういうのがあって。で、まあそんなのはどっちでもいいんすけどね。要するに精神病者っていうのはオールナッシングだと思ったわけ。健康ももちろんない、仕事も休まなくてはならない。それからフィアンセとも別れなくてはならない。人間の信用もない。名誉もない。何もかもないということが私の認識だったわけです。だから36歳に発病した時に何にもない人がね、やる事っていうのはね、病者の介護とかね。それからやっぱり自分自身や精神科医にやられた不当のことね。それを告発することしかない。

立岩:24歳から36歳の間に何回か入院をして?

大野:いーえ全然していません。1回入院して出て来て。それから自分で自力に治しました。

立岩:それっから自宅で?

大野:自宅じゃなくて西医学です。ん。真理ちゃんがやっとるで、西医学。西医学というのは。西医学。西医学。東西南北の西。そちらの方と併用して精神病院のような医者の訳の分からん所へ、一切近付かなかったです。だけども苦しいしねぇ、何もかも失って自殺未遂を何回もやってますわねぇ。

立岩:24歳の時についた診断名って何なんだったんですか。

大野:心因反応なんですよ。ん。心因反応。今考えると完全分裂病。で抜き取られがありましたから。

立岩:抜き取られ?

大野:自我の漏えい感っていう奴。それは分かります先生は?

立岩:実感としては分からないです。私は神経症的ではあるんだけれども。

大野:違う違う。病理学的には。病理学的には分かりますか? あなた病理学的分かりますか。分かんないですかって聞くのですからね。

立岩:分かりません。

大野:分かった。じゃあ全部説明します。心因反応ってノイローゼなんですね。そういう思いシーンが私に挙げられるんですけどねぇ。だけど、今考えると抜き取られやってのはね抜き取られって言うのがあって自我の漏洩感っていうの。私が考えてることが桐原さんが全部知ってる、とかね。そういう感じなの。それが漏洩感っていうの。それがあるのに心因反応だったの。心因反応って何でもぶちこめられるの。

立岩:なんか、ね、中身のない診断で。今だったらやっぱり統合失調症って診断される症状だったんでしょうかね?

大野:まったく口聞けなかったんですね。私こんなおしゃべりでしょ。おしゃべりなのにね。私最も無口な人だったの。私それを聞いたことない。そのぐらいの人が急に口しゃべるようになったのは、精神患者の運動をやった時からだね。

立岩:それでさぁ、36歳で再発したの。

大野:したと。

立岩:その時は。

大野:24歳に、24歳にもう少し進めますよ。なにもないと自殺未遂も繰り返してね。薬飲んで。そういう人が総括して毎日日記を書いて、で、もう死ぬことしかない、オールナッシングだと思ったの、人間として。そして、ある日助けてくれたのは犬でしたわ。

立岩:犬?

大野:オールナッシングしていたね、私。その時に子供が生まれたの。ワンワンちゃんの。

立岩:犬の子供。

大野:あっ。そしたら、おっぱいをねぇ。ここを抑えながらギュッギュッと抑えてねえ。四匹飲んでいるんじゃない。だから、私、その時に日記を覚えているけれども、命が息づいてる、自然が息づいてる、まだ、私は母になれるのではないか。全否定していても女は、メスは否定出来てなかったということで生き残れたの。精神科医が、助けてくれたんじゃないの。ワンワンちゃんが私を助けてくれたの。

立岩:それは再発した後?

大野:再発じゃないです。24歳の時に。24歳の時にそうやって、そういうことがあって初めて。私は生きてはいけないと。メスとはいうことは否定できないからね。メスが残っているんだわ。オスではなくてね。だから、犬が教えてくれたことによって決意したの。日記はそうだったよ。自然が波打ってる命に息づいている。まだ、私は母になれるのだ、ということを書いたわけ。だから、犬を見て助けてくれたの。それから決意したのね。あそこ行って図書館行って見なさいよ。丸善にね。山ほどあるからね。人生の中であるの何分の1か読んでやれという気持ちになったわけね。相当決意でしょ。そういう形だったけども。本を読んでては、具合悪くなるけれどね。私、人で傷ついて、病気になったことないの。全部本。

立岩:ん?

大野:全部本。本を読んで。んと最初はねドフトエフスキーなんかを読んでねえ、発病したの。反応起こしたの。で、今度はね、三島由紀夫の『金閣寺』という、精神障害者悪人だと書いてあるあれを読んで自殺未遂やったの。そういうことがあって私ね、人間から傷ついてね、悩むということはね、別れた亭主のことぐらいしかないんです。実はいうと。全部本なんです。

立岩:その時は、文字がなんか文字っていうか言葉っていうか過剰に入ってくるっていうか、そういう感じなんですかね?

大野:違う。自分がコンプレックスがあって、しばらくにであっていないから、中学試験に出ないから。あの本を読まなきゃいけないとか、コンプレックスがあるんじゃないの。物知りになりたいというわけではないの。要するに私は、私らしさであることの哲学をかためたかったの。

立岩:それは分かるんですけど。

大野:哲学的ななりたかったの。そうして読むじゃないですか。

立岩:でも読むことによってかえって、かえってて言うか調子悪くなるっていうか。

大野:あるよ。あるけども。

立岩:あるけども24歳の時にそういう感じになったんですよね。

■1972

大野:だから、その後、何もないオールナッシングで読むわけでしょ?読む時は選択するわよ。いくら何でも。そうじゃないですよね。何を読んだらいいか、決めました。で、哲学的な所では、私は素朴な自分では素朴な哲学では思っていますよ。で、それが36歳で再発してね。ワーとその話をやったんですよ。精神科医に言ったら、精神科医が泣いちゃった。

立岩:ちょっと、再発、再発、再発した時には入院したですか?

大野:36歳ね、今度ね。急にだったんだけど、入院したの。

立岩:入院したの?

大野:自殺未遂、また。自分で申し出て。全部自分でやって。で、途中で先生が入院した方がいいんじゃないかって言われて。

立岩:っていう話になって。

大野:名市大に入院してたよ。

立岩:めいしだい?

大野:名古屋市立大学病院。

立岩:名古屋市立。はいはいはい。

大野:それで私は本を読むことはねぇ。どういうことかっていうと自分の哲学が欲しかったです。生き方がねぇ、だってオールナッシングだからねぇ。もういっぺん再構築せんとあかんと、だから本を読みましたよ。自分自身で哲学ではっきりしているんだけども。哲学というのは、再発した36歳にインタビューで受けた時に精神科医が泣いちゃった。「やめてくれぇっ」て。「あなたはね、思想哲学の否定論のそのまたさらに向こう側のことを言ってる」っていわれるぐらいすごい哲学者なの私。

立岩:その時は、病院での話ではないですか。

大野:そうそうそう。

立岩:で、名古屋市立の時、36歳って言うと何年?

大野:40年前。

立岩:1911年っていうのは。・・・

大野:72年です。

立岩:72年か。72年に再入院する。74年が病者集団の結成じゃないですか。その間に2年ありますよね。その72年から74年。

大野:先生、あわてちゃいかん。

立岩:はい分かりました。

大野:精神科医が泣いちゃった、というところからなんですわ。それで、私は何にもないのね。やれることは病者の介護。お付き合いですね。精神科医は泣いたことはどっちでもいいわけ。そんなこともどっちでもいいわ。問題はね。
 何もなくて自分の「聞き取れず」ぐいっとひっくり返して人の為に持ち出しばかりしている私は生まれてないわ。人の為っていうことになると病院の中から介護するところからです。
 その時の話を一つ話しておきますけど、今10冊ノート残ってます。全部。日記も作っていました。専門書も読んでいました。だけども、問題は、その退院する時ね、彼らが大野さん出てってもらっては困るって皆が私をね、引きとめちゃったの。36人。なんでかと言うとね、大野さんが退院したら、看護人にいじめられるって皆泣いたんだわ。私が出てこうと思って、皆が出してくれなかったわ。そういうことがあって。

立岩:入院している間に、すでに仲間達を弁護するっていうか。そういう今で言えば、嫌いな英語で言えばアドボカシーっていうか。

大野:そんな難しい言葉は分からん。

立岩:まあいいや。弁護するっていうか、助けるっていうか。

大野:違う。支援です。

立岩:支援でいいんですね。

大野:難しい言葉を使っちゃあかんの。てか、支援をしたの。だけども、支援をしているとか、人の為にやってあげるとか、そういう気持ちはないんですよ。そこで一番象徴的なのは医者のあまりのひどさに私、保護室を占拠したんです。

立岩:え。

大野:保護室を占拠したの。

……:こちらのHPに載せさせてもらってる文書★にあるやつですね。それで、病院の中で、そうやって。

◆大野 2006/10/28 「保護室占拠 NO.1」


大野:医者を撃退して、患者を全部抱え込んだの。

立岩:それでやって。考えてみれば、その時に始まったよということ。

大野:もう始まっていたの。

立岩:もう始まっていたっていうことですよね。

大野:自分の生き方として、或は自分の哲学として何もやることないんだよ。私、再発したら、オールナッシング。

立岩:だったら、病者の支援をすることが自分のすることやというふうに思った。

大野:私、なんもしゃべらんと、座ってただけだよ。なのに、皆大野ちゃん助けてって来るんだよ。

立岩:どのぐらい入院してたか覚えていらっしゃいます?

大野:4ヶ月。

立岩:4ヶ月?

大野:はい。1972年の10月20日からそのあくる年の2月20日まで。

立岩:2月まで。

大野:完全無視してやったし保護室を占拠してやったし、私、やりたいことやったったわ。でも、先生全然何も怒らなかったわ私に。

立岩:そうすると、4か月

大野:4ヶ月の中で。10冊。

立岩:ノートで。それって後で公開したり。

大野:出来ない。

立岩:気持ちはない。

大野:ない。

立岩:それはない。さすがにない。

大野:私文章なってないと思う。病気悪い時だからね。

立岩:殴り書きみたいな感じ。

大野:殴り書きみたいな感じ。皆にこんな入院しててもなんか退屈だから音楽的なことでも何でも詩でもやりませんかと言ったの。私は文学のことでやるっていうことで、詩を作りましょうと言って。

立岩:病院の中で?

大野:詩の講座のやりたいっていって私作っちゃったの。詩まで作ったんですよ、私。だから詩を作ったの。先生が見てね、これあんたの詩かい。そうですよと言ったら。どのぐらいの時間で作ったんだ。これは30分ですね。そのぐらい頭きれました。今はねえ。そういうのがあって。

立岩:皆で詩を作ったりとかまあなんか。

大野:看護人にいじめられたら、物が無くなったら全部大野ちゃーんなんですわ。

立岩:その時って72年じゃないですか。まあ、精神医療の学会の学会改革とかが始まってしばらくという時期じゃないですか。

大野:そうなんです。

立岩:69年ですから。

大野:そうなんですよね。

立岩:金沢学会★[第66回日本精神神経学会大会(金沢大会)]が69年ですよね。その時の名古屋市大ってのはどんな感じなんですか?精神科病棟って?

大野:あのね、これってどう言ったらいいのかな? 教授が木村敏★[木村 敏(精神科医,1931〜)]。r>
立岩:あ、木村敏がその時が教授か。

大野:助教授が誰だったのかな?大橋とか言ってたかな。違うな、大橋先生だ、教授が。んで助教授が木村敏。木村敏が助教授。木村敏は医療の構造書いてるけれども、非常に家族や私たちを傷づけているの。それで抗議してね。あんたの為に263頁に何書いてるの?っていったったけど。

★ 「1974年名古屋市立大学医学部教授、1986年京都大学医学部教授」とある→木村 敏(精神科医,1931〜)。1972〜1973年がどうであったかは?

立岩:後の話でしょ。

大野:出て来てから。



立岩:その時のね、名古屋市大の連中っていうのは、例えば、東大だったら、例えばね、東大だったら東大でレンガの占拠★[東大病院精神神経科病棟(通称赤レンガ)占拠・自主管理]していたりもうしていた時期じゃないですか。京大なら京大でいろいろあったわけじゃないですか★。その時の名古屋時代ってどんな感じだったんですか。

大野:名古屋で愛保連っていうのがあったんです。これは保安処分に関係してくるよね。「愛知県保安処分連絡会議」っていうのがあって。

立岩:愛知県保安処分連絡会議?

大野:があって。その中のキャップが精神科医だったの。山口君、山口利君★って言うのね。

★山口利之 1974 「精神外科について」,『精神医療』3(4):28-34 特集:精神外科の実態
 上前津クリニック:http://nttbj.itp.ne.jp/0522626161/index.html

立岩:山口とし、

大野:としゆき君。山口利之。

立岩:字、覚えていますか?

大野:知っていますわよ。

桐原:あの、記録録ってあるので。愛保連のニュースも、保存されてます。

大野:利益の利にね。

立岩:利益の利?

大野:としゆき君。すぐそこでやっているわよ。

立岩:今も?

桐原:塩谷さん★とか、まだ愛保連の人達死んいない人達がいるので。

大野:愛保連って知らなかったの。その時はね。だけど、その名市大には、山口利先生という人と会って、愛保連を作り出したの。それと私が合体してんだね。一緒に結びついてるし、保安処分の始まりがそこなんですよ。

立岩:入院していた時?入院していた後?

大野:知らない、知らない。入院していた時に知らんかった。

立岩:入院していた時に医者連中が騒いでいるという話全然分からなかったの? 要するに。

大野:知ったわよ。病院の中で。私はものすごく医者に不満を持っていた。これは自分が悪化させられているからよく分かっているんだけれど。それについて我慢ならなかったの。オールナッシングで。ある日、新聞見とったら、新聞に石川清★[石川 清(精神科医,1942〜)]という人が台★[臺 弘/台 弘(精神科医,1913〜)]の実験のことを名古屋でやったの、告発を。それをちょっこと載ったんだんわ。石川清という名前は覚えたのね。こんなひどいことをやっている精神病院のことはね。いっぺん精神科医に言ったろかなと思って東京まで行ったのよ。石川先生の。

立岩:それは、入院して退院した後ね。入院退院した後、なんか新聞でとにかく石川清が台を糾弾したということを。

大野:新聞で見たの。

立岩:知ったわけですね。それで、石川に会いに行ったのね。

大野:会いに行ったの。()病院だったのね、石川先生。そうしたら石川先生自身がね、シゾだったの。私診断相談できるから。

立岩:石川先生ってそんな感じの人?

大野:うん、シゾだわ。相手が主治医に言ったの。東京に行って石川先生に会って来て台のことを聞きに行ったけど。台のこと聞きに行ったけど、あの人統合失調症、分裂病だわねと言ったのね。俺はうつ病だと思うと主治医が言ったら。違うって言ってきたの。あんた診断間違ってると、統合失調症だと言ったのね。論争にならなかったけど、統合失調症なの、私から見ると。ああいううつのタイプがいないから。

立岩:石川先生って面白いんですよ。ちょっと前まではかなり旧体制というかあれって台の前の代の教授の退官記念論文集★みたいなのを編集とかしていて、まあ翼賛的なものなんですよ。それがガラッと。

◇秋元波留夫教授還暦記念刊行会 編 19680625 『秋元波留夫教授還暦記念論文集・上巻』,秋元波留夫教授還暦記念刊行会,365p. ASIN: B000J9VUYW [amazon] ※ m.
◇秋元波留夫教授還暦記念刊行会 編 19680625 『秋元波留夫教授還暦記念論文集・下巻』,秋元波留夫教授還暦記念刊行会,341p. ASIN: B000J9VUYW [amazon]

大野:それは金沢学会からだわ。

立岩:そうなんだけど。その変わり方っていうのは、こうなんていうかな。平凡じゃないていうのかな、どっかこう。

大野:そうやらな、のれない雰囲気だからだよ。

立岩:て感じはうけますよね。雰囲気としては。

大野:それは会いに行った話を聞いて下さい。台さんのことは台さんのことを聞きに行って下さい。

立岩:台さん死んじゃったけど。



大野:で、行ったんだわ。そしたらね、あんた名古屋の人かね。はいって言ったらね。僕はね、吉良幸之助の吉良のでね、家老の実の吉良幸之助のね。石川さんが。あそこの家老の末裔なんです。末裔だったの。あんた名古屋その話ばかりでね、何も聞いてくれないんだもん。ほんであんたねここまで来たんだけれども、三重県の高茶屋病院に山口先生とおっしゃって言っていたのかな。その院長。

立岩:三重県。

大野:三重県の高茶屋病院に。

立岩:高茶屋病院。

大野:高茶屋病院ね。三重県の県立病院です。そこに山なんとかという先生がいるからその人に相談してみなさいと言ったの。私そこへ電話かけたら、その方が今度は名古屋の東海学会か名古屋学会という、東海学会、精神学会の東海学会があるから、その会場に来てみませんかと言われたの。

立岩:精神神経学会ですよね。

大野:そうです。私そこへ行ったのね私。いろんな勘定をやりながら。

立岩:それが74年ですよね。

大野:そうです。あ、70、74年じゃないか。72年、3年。

立岩:3年。73年か。

大野:それが病地学会★の名古屋学会だったの。

立岩:病地学会の。

大野:病地学会の東海学会、名古屋学会。

立岩:名古屋学会が73年ですか。

大野:その先生もいらして、で、私、呼ばれたの。そしたら敵とする医者が山ほどいっぱいいるわけでしょ。そんで私自身はこういう状態だけど、どなってゲキをとばしたんだけど誰も答えないのね。だけどものすごく説得力あったんだって。自分でも記憶出来ないけど。びっくりしたの、皆が。あれはシゾじゃないと言っていたけどね。

立岩:で、がーんと言って、その時のお医者さん達の反応って。

大野:答えれん。全然答えれん。

立岩:沈黙って感じですか?

大野:沈黙じゃない。答えれんことを聞いてる。

立岩:なんか誰かになんか言われました?

大野:言われたの。学会員になって下さいだったの。

立岩:学会員になってくれって?

大野:そこで私が出来たことを明確にすると、患者運動と医学会の接点が出来たということです。私は学会員になりたくなかったけど、なんでならなきゃいけないの思ったけども、虎穴に入らずんば虎子を得ずってことあるから、あいつらのやっていること裏切りゃいいという感じですよね。で、入った。

立岩:入った。でも、まあそん時は、いってみれば、大野さん1人ですよね。

大野:うん。1人だね。

立岩:仲間で、集団で運動しているわけじゃないですよね。集団で運動している的感じじゃないですよね。むしろ、お医者さんの運動の中に入ってて。

大野:入ったんだけども、入ってって。まぁ真面目じゃないわね。

立岩:それで、それが病者集団っていういわば精神障害者だけの集団っていうものが。

大野:集団的っていうものにはまだなってはいないねぇ。

立岩:まだなっていないですよね。その時はまだ聞いてなかったのは、それがだんだんそういうものが出来て行くって言う。

大野:その前に聞いてもらわないといけないのは、病地学会のあれに入ったでしょ。であの二期、私理事やっているんだけど、その米倉先生なんてとてもいい先生にも出会えたけども、そこで多分、そこで出会ったのが山口利先生だったの。山口利先生だった。愛保連の。

立岩:愛保連の。

大野:利先生だと思うのね。その先生が。

立岩:さっきの利ゆきさんが。はい。

大野:たぶん居らしていたかも私のことは知っていらしゃったんじゃない。保護室占拠したりね学会なんかしていたりしていたから。そんなの見たことないもんね皆。それで誘われたのが愛保連だったんです。で、愛保連に入って愛保連の時に或は、1974年の前後しているけどね。1974年っていうのは、私にとって非常に印象的で、実は5月29日に法制審議会が刑法改悪保安処分新設の答申をした日なんですよ。

立岩:はいはい。

大野:よろしいですか。その時にどっちが前後しているかよく分からないけれど、山口利先生が、私に東京に行かない、て言って、東京のお茶の水で降りて、その法曹会館がありますでしょ。うん。あそこ行ったんですよ。それで患者が初めてしゃべりかけたんですよ。それ、私という人間が。保安処分のことを。

立岩:保安処分の。

大野:保安処分なんか何も分からんですよ。私には、その時。行こうと言われたから行ったけども。

立岩:東京行った時に行った集会っていうのは保安処分の反対の集会。

大野:百人委員会。百人委員会主催の。だから、お会いしたことないけど、羽仁五郎★とか森山公夫★[森山 公夫(精神科医,1934〜)]とか、何とか何とか何とかがいっぱいいて、百人委員会を作るという話だったんでしょ。で、私はそんなかで患者代表で幹事だったの。

立岩:愛保連という所に入って、

大野:そこに連れられて

立岩:75年の5月にそれが出て、それに対して。

大野:74年の5月に出たんですよね。その前だったんだと思います。だから。東京に行ったよりその前だったと思います。

立岩:たぶん政府はそういうの出すだろうということで。期間の中で。

大野:百人委員会が主催した。百人委員会の、まあ、その患者の1人も出てこないからね。だから私を代表幹事に入れたんだね。それから代表幹事やっているから、議論的にも研究出来るし、集会にも参加したし、百人委員会にも全国出歩いたし。で、どこいったか知ってる?

立岩:知らないですよ。

大野:なんでぇー。保安処分なんでわかるはずだよ。
 つまり各全国の八つの検察庁にあるよね。高検。だから、高松に向いたら北海道だったら札幌、広島、大阪、名古屋、東京、仙台、九州かな、博多かな。そこのだけで、七つで。そこのところ全部高検があるところ。そこで意見交換会があるもんで全部出席して旗振っといていたの。
 で、名古屋では、保安処分反対でね、社会党の車を借りてね、そこで叫んどったの。罪も犯していないのに罪を犯していない人達をあのなんとかね、牢獄に。そのとき保安処分はね、厚生省管轄じゃなかったからね。法務省管轄だから。そんなことあるのかってね。そういう馬鹿なことあるのかって、言いたい放題でね。バチバチ街宣やっていたの。

立岩:全然10年ぐらい飛びますけど、81年かなの名古屋でやった保安処分のパネル、粉砕闘争には行きました。見物に。東京から。

大野:行ったんですか?

立岩:行きました。5分ぐらいで終わっちゃったじゃないですか。まあいいやその話はおいといて。話は10年ぐらい前なんで。

大野:そうですよね。そういうことがあって、その前日があったでしょ。その答えは私の。そういうことをやって保安処分に手をかけたと。保安処分に論議をかけたと。ここできちっと言いたいことはそこなんですわ。
 保安処分てどういう条文だと思います? 簡単なんですよ、96条から何条か知らないけどね古い法律で落ち着いちゃったんだけど精神障害者で禁錮以上の刑を犯した人でなおかつ将来犯罪行為を犯す人は保安施設にぶち込みますよということなんです。そうですよね。四つぐらいなの。それは罪刑法定主義では刑がないの。やるおそれがある人。やっていないんだね。やっていない人を。それが保安処分なんですよね。ぶち込むことを保安処分なんですよ。そこなんですよ。その場合にやっていないんじゃなくて禁錮以上の事をやった後をやる可能性がやる人を。違う違う。禁錮以上のその人をやって、将来のなおかつ禁錮以上の刑を犯すおそれのある人、恐れられて入れられる人。まずはいっぺんやった事を。いっぺんやった事なんですよね。だから実行犯だけれども将来の事をやるかも知れないということ。やるっていうことは罪刑法定主義から式おかしいでしょ。そういうのおかしいでしょ。だからああいう文書で書いてるんですよ。
 そういうのがあって名古屋ではガンガン街宣やったわよ。録音しておいてね。

立岩:そうすると言うたら医者やら知識人というか反体制派というかそういう運動があってその中に大野さん入ってて。入れられた。ある意味ね。でそれとさ、病者集団という病者の集まりっていう出来るのってちょっと距離あるじゃないですか。それは大野さん個人のことから、それが病者集団っていう集団になっていく辺りのこと興味あるんですけど。

大野:そこなんです重要なのは。そこから監査▲が出て来るんですよね。その前にあなたに言っておきたいけど保安処分というのはそんな単純なことなんですよ。だけど法の問題としては私はそこの評論文書いたんだけどまたどっかいっちゃったんだけどね。評論文書いた時、法とは何かってねいかに医学で本望で法律知らんしね何も知らない民法を知らない私がね。必死になって考えたことはねだから私は必死に考えたことはね、法とは何かということだったんですよ。保安処分というよりも。
 法とはねもともと立法意思があるんですわ。応用実態があるんですよ。違う法律解釈があるんですよ。だから初々じたが▲ですよ、その三点を考えた時に保安処分に反対する論理がきちっと見えたということなんです。
 立法意思っていうことは精神障害者危険だということでしょう。立法意思さ。保安処分。危険かね。私危険だからね。それから応用解釈って言ったら今めちゃくちゃ人入れられているでしょ医療観察法。応用実態とかが解釈っていう精神障害者舐められている月▲以降誰も込められているってことですよ。そうでしょう。だからそのために言いたいのは運用実態ですね。運用実態というのは皆知っている訳ですわ私。

立岩:その時にねそういうことを問題にしたのは青木さん★とかそういう60年代末からボツボツそういうのが精神科医達の中に出てきて法律なんかも入って学生運動入ってやってて僕らはそれの末裔みたいな世代なんですけども、そうやって反保安処分でいくとそれに関してはもうなんていうのかなそこで出された議論に大野さんとしてはそれはそのとおりだと? 反対の理由っていうか。

大野:だけど私はあの人達に東大の人に教えてもらっていない。自分で書いた。自分で書いて言っていた。自分でまぁ。いくら分裂病でも考えることは言います。分かります。

立岩:結果として百人委員会が百人委員会として主張していることと大野さんが自分で考えていた結論というのはほぼ同じだったという感じ?

大野:私の方が深いわりと。

立岩:分かりました。

大野:言っときますけどもそんな感じだったと思いますよ。そうだと思いますよ、本当に。だから87年になって結局百人委員会が開催された時に他の精神会が体制側についたんですよ。だから信用できないけれどその中でそこまでお分かりですか。
 保安処分はまず法律は何かと素朴なことを分からん人が考えていたわけ。だけども立法書士と法律の解釈とを使う評論文を書いた。だとしたらなんでやってもいない人をねぇ予防医学的ではないわ予防医学だって予防拘禁としてやらなくてはいけないの。そんな馬鹿な話は何処にもないの。医療観察法どころじゃないの。で皆は医療観察法を保安処分だと言っちゃうすぐ言っちゃう段落的に。だけど保安処分のことをじっくりと考えてみて。こういう言ったことないでしょ皆さん。
 保安処分だということはね本当にね粗末なもんだけどもね。出来たのは明治41年ですよ。前のね憲法全文憲法じゃないけどね旧憲法ね帝国憲法の中でどうのこうの小野清三郎★が作った保安処分というのはそういう問題なんですよ。それをすぐ保安処分、医療観察法を保安処分だと言っちゃうから皆がふぁーとしか分からなくなっちゃう。
 人間をね無断拘禁するのは憲法違反ですよ。ああいうのじゃ。そういうことをきちっと分かった上で医療観察法を反対して欲しいんですよ。今で言うと若い人にね。それから今度私そこまで行ったでしょ。やっと行った。
 組織化する時はねまた山口先生が出て来るんだわ。違う違う。で山口先生が出て来るんじゃない。この石川先生があのかたちあい病院で私がギャーと怒鳴った時名古屋むえ▲大で。その時にいらして学会に誘われたし今度かたちあい▲病院でね大阪の患者さん達とか家族等が集まるからおいでになりませんかと誘われたわ。かたちあい病院で。
 ほんで行ったのね。そこで初めて大阪の仲間と会ったわけ。会ったのね。あんたも病院に行く。私も病院に居るんだけど。その頃は渓さん★とかいっぱいいらして。けっこう家族会の力があったのね。

★渓 さゆり 19940807 『歌集 「火」以後』,六法出版社,225p. ISBN: 4897703468 2500 [amazon][kinokuniya][品切] ※,


立岩:渓さんって大阪の方なんですか。

大野:いや東京の人。東京なんですね。あの人ポイする人だからね。でそこで初めてお会いしたんですよ、そこで私の方で。

立岩:何人ぐらいいらしゃったんですか、記憶あります?

大野:分かんない。たぶん何十人っていう数。何十人っていう数。数があったけどね。主に大野さんが。だけどその頃に絶対に1つ忘れていけないのはその谷さん達が出ていらした慣例▲で言うと『髪の花』★を書いた小林美代子[〜1973]が出てきたの。あの人群像新人賞とったの[1971]。小林みよ子の『髪の花』読まれた?

立岩:読んでいません★。

★書庫にあり。受賞の選評みたいなのがはいっていて、柄谷行人の文章とかもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%AE%B6)

大野:ものすごくナイーブなのがお読みになった方がいいんですよ。髪の花。髪の花。髪の毛の花。自殺しちゃったけども。あれは皆自殺させちゃったんだね。あんまり出掛けちゃったんだけどね。そういうことがあったんだけども渓さゆりさん達は小林みよ子さんご存じだったの。私はお会いしたことなくて本だけ読んだんだけれども新人賞でしたの。その中で集まったのは何十人ということで医者の誰なんだか患者の誰なのかあんまりよく覚えていませんわ。私も悩む発言してみたかったけど大阪の仲間が優しくって、
 あんたのふわふわということで大阪ではねしゃっべって泊まる会をやっているから来ないって言われたの。しゃっべって泊まる会。ここはね六畳二間ぐらいと。泊まるっというぐらい泊まるとまさに泊まる。ということは考えようがあるでしょ。我々には孤独感という亀裂があるでしょ。私はこれを愛の気がかりと言ってますけどね。そういうものがあって、夜になって子供とか自殺する人出て来るわけじゃないですか時にはね。その人達の阻止とそれから生きる望みをかけたのは患者会の自ら患者の患者の闘いがないかなと医者の思惑があったの。
 それが全共闘のねプシ共闘の連中達のはかりごとだったの。それはねぇものすごく優しい人達でね。それでね私名古屋から通っとたの。泊まってしゃべる会とプシ共闘★[精神科医全国共闘会議]とかあのあたりというのはたぶんつながっているんですよねやっぱり。つながっていますよ。

立岩:そういう泊まる場所あったんですか。

大野:あったんです。

立岩:どっちかと言うと医者の方が準備した、御膳立てして作ったという色彩あるんですかね?

大野:医者が金を出して作ったの。

立岩:場所だったんですか?

大野:あったんです。そこの泊まる場所。医者が準備したの。

立岩:そういう泊まる場所があったんですか?

大野:そこに泊まる場所があったんです。そこに出掛けて行って名古屋から大阪まで。食べる物なんにもなくてねそれで。

立岩:アパートみたいな所ですか?

大野:アパートです。マンション。マンションは今はちょっと忘れましたけどね。出てよくしていただいてね。あんた寒いからあのね一番場所あたえていただいてね優しいんだわ。

立岩:いっぺんに何人も泊まれる場所なんですか?

大野:泊まれんほど人が来たの。

立岩:何畳ぐらいなんですか?

大野:六畳二間と四畳半ぐらい。六畳二間と四畳半。ずいぶん本当はほんま寝れんよ。みんなこうやって立っててべーとしゃべって寝るぐらい。

立岩:へぇー何人ぐらい来たんですか。

大野:何人も来た。

立岩:10人ぐらい超えちゃう?

大野:ああもちろんもちろん。一ぺんに10人なりって。皆をしきっていたのは石山君★
なんだわ。石山君。デカちゃんに刺された人。
 大阪の光愛病院の中に患者会があって「ともしび会」というのがあるんです。それがあの1970年に出来た大阪の一番古い患者会と言われているんです。その人がその代表者ですわ。1970年。その人が皆見てくれたの。
 ただ皆こんなんじゃなかったよ。皆こうだったよ。それも優しさがあれだし、皆がねボロボロになっちゃっているわけでしょ。孤独で家族の相手してもらう所しゃべる所じゃないですか。私がねそんなに来ると思わないからそうめんを二玉持って行ったらね一口も入らないわけ。一本。その頃コンビニなんかあったか分からないからね。すぐ金をだして行って来てもらおうじゃないけど来て面倒見てくれたは石山君だったんです。
 それをやっているうちに、中でねこの医者の世話になりたくないって言ってね、造反してくる人達が出てきて、それで4人のグループが1つの所に泊まっていたの。自力で作った患者の宿があったの。

立岩:それは何? しゃべって泊まる会と別に患者4人がそこから独立して自分達で運営する場所を作ろうと?

大野:自分達でやろうと決意したわけ。そこでデカちゃんが状態悪くて。デカちゃんと私も仲が良かったの。デカちゃんというのは鈴木国男★。その時も鈴木さんとはお知り合い。うん、しゃっべって泊まる会に来たもん。鈴木さんもそこに来ていた。私自身がその中に鈴木国男君も入っていたの。西山君★と。

立岩:西山さんと鈴木さんと大野さんと?

大野:私はその中に入っていない。私は名古屋にいたから。4人のメンバーがそこにいて、患者が自立しだしたのね。患者の自立。ところがそこで刃物事件があって西山さんがデカちゃんに刺されたの。

立岩:その時の話ですか?

大野:そうです。それが。

立岩:それは何、アパートみたいな一室でみたいなところで?

大野:警察がすぐ入っくるからね。殺人未遂ぐらいで入ってくるからねひどい。西山さん死にかけたもんね。刃物で。それでそういうことがあって医師が全部片付けちゃったの。お金も何もかもね。アパート一挙ね。患者の借りたアパートを一挙に解体していったわけ。
 一緒に闘ってた鈴木さん逮捕されて、西山さん病院だわね。私は広島公園に行っとって。私京都で電話かけたら医者がえれー事起きたぞと言うもんで私が何ですか?って聞いたらね西山君、デカちゃんが刺したんだって言うんだね。私その時大阪より向こうだったからね。広島公園にいとったから。私途中で降りてねやっぱりなんか手伝わなきゃいけないと思ったけどね、まあまてよ今だったらケースでいっぱい持ってねとても行ったらね病者集団難しくなるでしょ。私もうしゃべってもんかいと思ったし。デカちゃんのとこに行ってはね。
 デカちゃん私にはものすごく強かったの。姉さん姉さん姉さんと言って腹減ったら秋口に食べへいと言ってね。全部ばとったわ私。その場所というのは撤去っていうか無くなちゃった。無しになった。でやらなくてはならないというか。ことは逆に4人の会を支援をというか。出来ません。

立岩:支援をしている医者っていうのは知っていたんですか?

大野:違う。医者はそういうこと知っていたけども事件を知ったでしょ。西山君の問題で。だから権力ボーイを駄目に▲解体していちゃったんだわ。デカちゃん捕まったし。
 デカちゃんそのまま2.1事件と言うんだけどね。2.1事件の為に大阪拘置所に入れられたの。彼らは17回目の便りかな今の気になることだよね。デカちゃんはその者はとんでもないことを捕まっていた訳。けっして暴力的な人ではないわけ。むしろ思想的な人だったのね。デカちゃんのお父さんはフィリピンで戦死なさったんだけどね。そのお父さんが亡くなったということは日本人が非常にフィリピンの人達をいじめたのかな差別していじめたから負い目があってね。彼は頭の良い人だよ。それで彼がフィリピンの船が来ると謝りに行くんだよね。それともまた捕まって、そういうことがあって17回だけど。
 鈴木国男君のことを1つ言っておかなきゃいけないことは赤堀闘争が出来て私が全国講演しまくってね作ってきて戦う団体。その時に関東赤堀さんと共に闘う会が出来た時にその集会決議案を私と鈴木君で書きました。

立岩:それはいつ頃ですか?

大野:だから1976年だね。76年の前です。中闘委の結成、関東赤堀の結成。関東赤堀の結成ね。でデカちゃんは優しい人だから私と一緒に東京に行ってね、その介護だけじゃなくてねすごい気遣ってくれてね、姉さん少し疲れるだろうからちょっと少し休んで行こうかと言ってね。東京に行ってね座らせてね、いろいろ介護してくれる人だったの。
 本人が2人でね。高杉晋吾★がいたんだけどね、その時にねちゅうたい▲小説の。あの人鈴木国男ね。で彼を殴ったりして彼は撤退していくんだけど。皆、デカちゃんに殴られたわ。

立岩:高杉さん殴られているんですか。はぁそうですか。

大野:殴られているわよ。でたぶんね病理的にはまだきちっとしていなくてね、今の病理的にはきちっとしていないけど。

立岩:4人で、そういうことがあってその場所を解体っていうか、たたんだということですよね。

大野:私は大阪から通って帰ってくるんだけども。

立岩:その時は近付かなかったんですか?

大野:近付かなかったの。

立岩:そこまでは分かりました。

大野:情報分析やらなくてはいけないと思ってね。でやることは西山君の安否ね、怪我しているから、そりは医者の方がやるけどね。鈴木君については救援連絡センター[たぶん
]★初めてだったんです私。その時救援ね。相談されてね健常者に。で病者の方を見たの。愛知県の人だったけど。その人高校の先生だったかな。下関に行ってね。
 その人と私とそれと大阪の健常者で獄中の人と接近したことないんだよね。普通の人間だからね私。どうしたらいいのかと相談されたから。とにかくあんた逮捕されとるから知っとるという明確にすればいいもんだと思ったの。あんた鈴木君がね逮捕知っているよということ。手紙はねあると全然ペンネームでなんとかもいもいしたの。そうすると誰が覚えているか、向こうが直感がいいから全部分かるはず。医療観察法やってやるかという感じ。
 そうやってねあれなの分かるようにしてやったらね、覚醒したの。覚醒。覚醒しちゃったのデカちゃんが。糾弾状態にやっとるわけでしょ。逮捕後ね。覚醒して行ったの。一旦覚醒したということは知っているのね。ところが実際にデカちゃんはあの届いた時に覚醒したらしいんですけども、病状が落ち着かないもんだから保護室に。保護房だわね、大阪拘置所だから。保護房にたたき込まれて医者が診察したんだけども保護房の所からこうやってちょっと覗いただけで視別▲しただけで、精神分裂病という判断をしちゃったの。
 ところがデカちゃんは否定系だったんですよ。否定系精神病だったの。それをですね、臼井という医者がね視別▲しながら本当に50日伸ばしたの。

立岩:私、ちっと身体障害者系の運動の歴史はだいたい何年の何々とだいたい頭に入っているんですけども精神の方は分からないんですけども鈴木さんの殺された事件というのがあれは何年?。

大野:76年だよね。1976年の2月16日。216。

★ 年表より:「一九七六年の冬鈴木国男氏は「傷害」で逮捕され大阪拘置所に勾留された。彼は病状のさなかにあり、着衣を脱ぎ捨てているにもかかわらず、暖房もなく換気扇で外の寒気にさらされる中で放置されたのみならず、体温を低下させるクロールプロマジンを注射され、彼は凍死した。この事件はご母堂により民事訴訟が国に対して行われ、裁判で彼の死について国の責任が認められ賠償金が命じられた。」
 (http://www.geocities.jp/bshudan/9902news.htm

立岩:てことは病者集団そのものはその前に出来ているわけじゃないですか。

大野:違います。その前かな。75年じゃない。病者集団。74年。一応、だ。74年は法制審議会があったからその後に出来たと思う。第1回精神障害者交流集会。
 「0の会」★は19人出ました。京都へ。

立岩:京都でしたっけ。東京じゃなかったんでしったっけ?

★ 年表より:1974 第1回全国精神障害者交流集会 於:東京

 その場で全国「精神病」者集団結成

 決議:「保安処分新設反対、精神外科を禁止せよ、電気ショック療法に対する患者の拒否権を与えよ、自由入院を拡大せよ、今日の精神衛生法体制に反対する、優生保護法に見られる精神障害者差別に反対する、通信・面会の自由権を承認せよ」等

 (http://popup.tok2.com/home2/nagano2/history.htm


第2回 ? 第3回 ? 1979/06/10 第4回全国「精神障害者」交流集会

大野:京都。東京は頼りならない京都です。

立岩:京都の方が第1回でしたっけ?★

大野:大阪から京都の方が近いでしょ。

立岩:その74年か。ごめんなさい。74年の時のその集団の結成というのはどういうこういきさつっていうか経緯だったんですか?

大野:その大阪で泊まる場所作る住む場所を作るそういうことがありますよね。その流れの中でどうしてその集会をということになったかは私は明確ではないけれども、たぶんねその4人の侍ね、一緒に住んでいたデカちゃんの事件があった所ね。あそこで提案されたと思うのね。提起されたと思う。
 で名古屋からは19人。組織化ということじゃないけれども19人連れて行ったのは新幹線だから、泊まり代まで全部カンパで集めました。街頭カンパ。街頭カンパをやっていることをラジオで放送させてね。そこでしゃべらせてね、私は後ろでさくらだわね。一応お金で縛らせてね。そうやって19人座らせてね。一銭も使わずに。

……:前愛保連にいた塩谷さん☆って分かりますか。精神異常の労働者なんですけども、塩谷さん曰く病地学会が病院精神学会の時の交流会の一角で全国精神病者集団の第一回交流集会をしたと彼発言しているんですけども。

大野:その辺だとちょっとあれなんだわ。違う。ただね、泊まる所は京都のお寺だと思う。

立岩:なんか学会の大会に合わせてというかそれと次にできたというようなことを書いてある所はありますけど。

大野:そうそうそう。そうかも知れん。第一回はねそのことは私も記憶ないんだけれども、問題は何を決議したのかと言うことなんです。通信面会の自由でした。通信面会の自由と言うのは今だからこそその言葉の自由。通信面会の自由強制自由。ないです。その頃は。ということは刑務所と同じように、ほら手紙が切られると。それと面会できないと。中から電話もかけれんと。つまり拘置所の壁と同じ物が精神病院にあったから、それに対して穴開けようかみたいな言うことで、通信面会の自由を高らかにあげて、で我々の意思として表明しながら、医者が今度は高飛車▲がいっぱいおるからそちらの連帯しながら精神病院の構造をガラッと書いたの。それが精神保健今で言うと精神保健及び福祉法ね。それの20条になると思います。私カレンダーだと思う。自分自身で。

立岩:結成集会という奴にね大体例えば何人くらいだったのか、何十人体だったのかとどういうこう?

大野:何十人ですよもちろんです。その時にね決議にも笑顔▲多くて。

立岩:その時、名古屋の部分は言ったら大野さんが束ねてというかカンパなんかして?

大野:あ、1回目は違う。違う。赤堀さん提案して。第2回だ。19人居たの。19人居たの第2回。その時はね私とほなと若干だったと思う。一番最初に第1回。たぶんそうだと思う。
 で第2回の時に赤堀さん提案したんだね。で提案したのはなんでかと言うとなるけども、そうすると誰かに話したんだよね。今ゆいさんに話したんだけど、とにかく何だかとにかくその後36歳だからもう少し見てくれないかと話したんだよね。美女だね。それであるでしょ。なんて言うんですか医者の間ではいつでも糾弾しているでしょ私。すごいだったでしょ。だったと過去形。
 要するに百人委員会の幹事だったわけでしょ。保安処分のことやってて、保安処分の何だか元気のおばさんが言うみたいなつうのことをね知ってたわけだ。
 そしてある日夏だったねプシ共闘って御存じですよね。えぇ、プシ共闘から手紙が来たの。ここに来てちょうだいって言われたから行ったんだわさ。いろいろあるけれどもね、構想がね、ちょっときつかったわ。来てちょうだいって言っていたからその時行ってみたのよ。そしたら赤堀さんの本体である「島田事件対策協議会」★があるんだけども、今でもあるけど、島対協から1人お医者さんが居てね整形外科医が。その方の中で話が出たのは、石川青年のことは部落の人が期待していると。赤堀さんは精神障害者だから精神障害者本体でやるのが筋じゃないかという意見があって。そうしましょうということになったんだわ。
 でその医者がそのじゃあ何処に患者がおるのかいとそうはさせんわねここに。そのことで相談したんだよねプシ共闘の方に。そしたらプシ共闘の方では、あさかやまのねあさかやま病院☆のね。あさかやま病院。大阪、堺市の。堺市のあさかやま病院の。あさかやま病院の先生とそれから島対協の外科医が同級生だったの。だから精神会に聞けば、精神障害者に会えると思ったわけ。
 で私がたまたまある意味目立っちゃったわけね。で私に手紙よこしたわけプシ共闘から。行ってみたら。

★ 「1964年には地元島田市民の、赤堀氏の有罪確定を疑問視し無罪を求める『島田事件対策協議会』という支援団体が結成されるものの、あまり世間からは注目されることもなく、地味な救援活動しかできていなかったという(鈴木 1975)。」 (阿部[2009])
*鈴木信治,1975,「赤堀裁判と精神鑑定書」『臨床心理学研究』13(10): 30-45.


立岩:島対協、プシ共闘というふうに連絡が回って来たっていう?

大野:そうそうそう。で私はそんなこと知らんと言ったら、実は死刑囚で冤罪の赤堀政夫さんっていう人がいいてね、その犯行当時とね3月10日が事件の日だったんだけど。その日の裁判記録持って来て支援してまいりますかって言われたの。
 あんた断る? あんた。私ねすごい言っているけどね、もうね無学のね。法律を知らんのだわ。自分で考えて。それでね赤堀さんのことやってくれと言われても冤罪死刑囚ね。冤罪はね名古屋でも経験があるんですよ。新聞上ではね。吉田石松王っていう岩窟王ってあるのね。冤罪はこの国いっぱいやっていることすぐわかるんだけども。じゃぁ獄中面会行くとかね獄中何だか悪い人とかね面会の人いるとかね。それから再審とかね。何もしないじゃないですか。だから私何も出来ませんって言ったの。
 だけど、10秒間位頭がカンカンカンと鳴った時にね、排外主義の保安処分反対しながら最も排外されている赤堀さんを出来ませんと言うのは自己矛盾ですわ。内矛盾だから、何が出来るか分かりませんと言って、やること引き受けてから今日までここにいるんだわ。ずっとお母ちゃんお母ちゃんって。

立岩:ちょっと待って、それはええと病者集団の成立というのと今の話はと言うと。

大野:それは後です。

立岩:それより後ですよね。で病者集団そのものの集結って言うんですか誰かが仕掛けないとやっぱり集団って。

大野:大阪の方だ。大阪の方。だから私2本立てですよっと言ったの。

立岩:4人と関係があるんですかね?

大野:まぁ皆相談したんだわね。採掘▲運動やっていた人があるもんだから。集会をしなきゃいけないと言う。

立岩:どっちかと言うと関西?

大野:関西です本場は。私より早かったの医者が。医者は金沢学会★の。プシ共闘辺りでしょう。小澤勲★[小澤 勲(精神科医,1938〜2008)]とかあの辺が患者連中のある部分とちょっとつるんでまぁ。患者連中つるんでいない。

立岩:それってさぁある意味こうけしかけてさ、やって作ったらみたいなそういう流れで出来たのかなぁ?

大野:大変胸糞悪い時にそれは否定できない事実だと思うんだけども、あえてその事実を削りたいんだけどもやっぱり削っちゃ駄目ですよ。そんなもん医者が手をかけたんですよ。
 私は全然手をかけられていない言っておきますけども。あえて事実をなくしたいんだけど。でもありますよ僕のケースの中で敵の中で出来て殺残▲のカウンセリングで近付いた。医者のやることはね皆あんたがやることだわ。無視しないと出来ない。俺別にやっていないですよ。患者のやることなんて論理的素朴なの。ガーガー難しい文書書いておりませんわ。
大阪の吉田おさみさん★[吉田 おさみ(1931〜1984)]なんか反対▲のテレビに出たよ。

立岩:阪大なのか。あの人何の勉強していたんですかね。

大野:何していたかって、聞いてないもん。私ねよかったしょっちゅうそういってね一度も何もなかった。大学院まで行って。彼はまずインテリですよ。彼は中間まで行ったのかな。彼が好きなのは大学を出ているってことよりも、彼は紳士なんです。下ネタの中でよかねウンウン言っているけども本当に紳士でした。文書書くのも非常に簡潔ですね。簡潔素朴ですね。
 でまきたさん★っていう人がいてねまた。まきた、まきた。まきたさん。この人は岩倉病院ね京都の。あそこにいた人です。

……:あーあー。岩倉患者自治会。はい。今でもありますそうまきたさんやっていますから。実は今回ね山本さんだったら昔のことはまだ分からないから全然。たぶんその人紹介してもらったんですよ。だけどかなりガードなんか堅くて。ちょっとかなり無理そう。まきたさんかな、松井さんじゃないかな。

大野:あ、松井さん★。松井さんは違う。岩倉じゃないと思う。あの人は岩倉じゃないです。あの人は岩倉じゃないです。ユーザー京都の。ユーザーです。あ、そうだ。松井さんの方だ。でもあの人病者集団のプルグ▲だから。それであの。でもそれ岩倉の何だっけ。まきたさん。まきたさんも病者集団の。の集中していましたよ。
 それで、そこからが問題。一緒になったわけね。で集会もやったわけね。集会もねだけどその母体のなるたまり場ですね。それが解体されていくわけでしょ。あのちょっと今の大事なんですけど。あの4人が作ったその自分達の自立で作った自立して作ったたまり場ですよね大阪の。それが解体されていくんだわ。あのデカちゃんの刃物事件でね。医者が解体していったんだけど。
 そうするともう集まる場所がなくなるじゃない私達。だから名古屋になったの。そこは撤収せざるを得なくなって。それで名古屋でゆうたら撤収、病者集団の事務所と言うの。私の住居、占拠されていたの。

立岩:大野さんの家が?

大野:そうそう。病者集団の事務所やることになったわけ。96年って結局プシ共闘のカンパ集めたりもしていたんですよ。全国再建センター再建ってやっていたんだけども。結局大野さんがやって終わって。78年ぐらいからみんなの家。をやってね私はもう名古屋でやるのがいきさつですわ。事務局会議をねやることないもんだから。

立岩:そういうことがあって名古屋にきたと?

大野:そうそうそう。その時のメンバーというのは。でまあまきたさんであり、吉田さんであり。まあとにかくどっちかで言ったら大阪で。関西ですよ。関西、関西。それから京都。だから東京、関東の人ほとんどないです。それは「友の会」★ぐらいじゃないですか。あ、あの人友の会菅原さん★なんか多くいらっしゃらないね。あの人は。文書書くだけだな。

……:実際動いていないんですか?

大野:うん、動いていない。

立岩:それは何、例えば皆でこう集まるみたいな?

大野:うーん、会議ですよ、あれは毎月の。

立岩:毎月やってたみたいな感じですか?

大野:内容的決めてね。毎月。毎月一回ぐらい。で私はおかっぴき▲おばさん。

立岩:それは自分家で作って。大野さんの家に皆で食べたの。どのぐらいの人が来たんですか?

大野:その時によって違うけれども最低でも4〜5人ぐらいいたんじゃないんですかね。多い時は。

立岩:多い時は何人ぐらい?

大野:多い時は0の会の人も来ていたからね。どうなんだろう。とにかく布団の数が知れているからね、皆一泊泊まりに来るから。

……:79年の第4回の名古屋の病者集団大会あったじゃないですか。第4回大会。

大野:第4回もやったんだっけね。いつもやれるようにとしたんですよ。あのテープ残っているのでね。誰か盗聴していたものがあるのでね。許せないんだけれども。それが今となれば正しい。それが健常者の人が盗聴していたんよそれも。まあそれはいいや。それはその人に聞きなさい。その人に。天皇の弾圧していた時に最後の会議の時は割と人数多かったですよね。そうですね。
 天皇がね天皇というのは、毎年ね国体と海の日とそれから植樹祭は天皇が行くんですよ。でたまたま1970、あれ6年だったけね。79年です。9年か。79年に天皇が来たの。植樹祭に。

……:何処に?

大野:愛知に。愛知に。で私はほとんど弾圧されたの。

立岩:けっこうその話、有名な話題ですよね。

大野:そんなの負けているわよ警察が。その頃はけっこう多くて、その頃は赤堀中闘委やっていたから委員長の私をつぶせばね何とかなると思ったんでしょ。権力が。
 ところが駄目だわなぁ。私にやられたの。愛知県警が。名古屋に呼ばれたんだよ。愛知県警一人で。ちょっとその辺はね弾圧のイメージがねいろんな人から聞くと弾圧されてもうなんかひどいあったみたいなこう伝え方を。ひどい目に遭ったけれども。全然むしろ負けていなくて相手をむしろ弾圧した。逆だ。すごいよ。日弁連の中で最後法律の委員会が出来た。そうなの。全く機能しなかった。
 あのね、その話はね全てではないけれども日弁連の中に人権擁護例集っていうのがあるの。二冊あって。Zの会として出てくるわ。それを読めば分かるし。私は腹立ったからね。なかしゃんあそこの所で筑波大学のある所あるでしょ。あそこでね外国人の人達出席して世界大会あった時にその話を全部書いて全世界に暴露したの。ざまぁーみろって。全能性と精神障害者ですね。そうだね。だから文書書けないけどね。大体分かったでしょ。具合悪いけど書くんだわ私。その何、今言ったキャラさん言った、

立岩:一年に一ぺんの大会みたいなことやってた?

大野:一年に一回じゃないけども74年、74。76年、77年、79年っていうふうにやって、その後一気に2009年に流れついた。

立岩:というふうにはそれはいわゆる全国大会みたいなのはそんな感じで。

大野:あのね全国大会でやるというのよりも全国精神病者は赤堀さんの問題に集中していたの。そうですね。

……:いわゆる精神医療法とか精福法とか関係の通す法とかまた別なんですか。

大野:別なんです。議論的には議論で言うと排外主義と闘っている私達が赤堀さんを慕って我々の明日はないという結論たててやっていたのね。
 で赤堀さんというのは息が抜けないんですわ。これはやった者しか分からないんだけど赤堀さんの手紙がね。というより手紙で勝った人です、この人は。獄中の方で発信通封が5通。5通あった。それは絶対に権利を自分で持ってね、毎日同じことを書き続けたの。皆にね。で送る方は誰でもよかったの。私達がまだ当時入った頃は。ところがだんだんこれを権利を取っていくんだけどね。外部者の私達の権利を。取られていくんだけど。赤堀さんは堅持したと言うの。
 そういう人で。手紙が多かったけども赤堀闘争は1日もやめれんぐらい忙しかったのよ。休みがないの私の何十年40年の間、休みがないぐらい大変だったけどね。赤堀さんが手紙を出してくるもんだから返事を書かなくちゃいけない。もらっても返事を書かなくちゃ人間もいっぱいいたんだよね。
 赤堀さんこう言ったわ。僕を檻に入れられた猿、動物園の猿だと思って、面会に来てもそのまま返事を残さずに来ない人間がいっぱいおったって。そうなんだ。だから傷ついたのは赤堀さん。闘争する意思がないんじゃん。ないのに死刑囚面会出来るのに行ってやろうか。と言う東北大の人が言ったわけ。当時死刑囚を見てみたかった。見てみたかった。だから、赤堀さんがねどういう人なのかって行ってみたら、皆優しいって言ってたし皆と面会している人だし赤堀さん自身評価ものすごく鮮明だし、でもとにかく私が入れてくれた1977年ぐらいかな、75年ぐらいかな。
 第4次再審請求1977年3.11切られたよね。切られたね。ほんでもうその時機動隊とやりあっていたかな私。ものすごく指導▲が小さいね。その意味ではその全国大会やってデマかけて何ちゃらかんちゃらというよりは月に一辺小ちゃい規模で集まって保護連の赤堀闘争をどうやっていくか。まあ公園に行かな全国へ。公園にいてね団体作っていこうかな私。そんな時間ない。私その時寝そべっていたの。半日でも寝そべっていたの。電電社ですよね。電電公社。

……:そういえば前年公社の解雇ですか。労働組合との共同の話っていうのは。

大野:敵視された私。うん、その話は。最初はこの私にこの依頼しておいて結局あんたその言い方をするからって人格の問題として切られた。

……:それ個人的にはすごいなんていうの重要な気がしていて。0の運動として。

大野:いや一番ね一番きびしかってね一番頭を使わなくて使って生き残った時の一番のポイントは公社の中にありましたね。会社からの排外主義がありましたわ。ものすごい戦いだったよ私。

立岩:いつまで勤められたんですか?

大野:えーと49歳8ヶ月。49歳の12月まで。15から働いているから38年。34年8ヶ月。それからずっと入院とか別にすれば、ずっと電電公社の。
 赤堀さんも34年8ヶ月ね。奥さんに祝杯▲されたから。同期なんです。

立岩:なるほど。

大野:それでこの人に年金がないとおかしいと思ったのね。私は公社の当然年金もらったもんね障害年金▲を。赤堀さん大したもんで、おかしいと思ったから、私が一生懸命やってね、とうとう検察庁のね検察庁の持っている赤堀さんの精神鑑定書ね。制約の奴ね。あれを抑えて。抑えてって言うか名古屋市の精神科医に取らせてね。ほんでそれを持ってどうなんだと年金会に訴えて赤堀さんだけ死刑囚として年金取って。免田さんでも裁判を起こしてやろうとしているのはね私1人で出来なかった。赤堀さん障害者だから出来た。だから向こうが切り上げてね制約だと言ったこの文書を持って重大発言しちゃったの。基礎年金取られるの。こうだからその事件って言うか赤堀さんの支援に集中していた時期がけっこうあった。

……:当百人委員会ですね。百人委員会その為にあるもんじゃないですか。病者集団そのものがわりとそこんところに近頃そそのがあかん時期っていうのは長かったんですか?

大野:長かったですよ。逮捕されるまで。逮捕されません。私はね1975年に。例えばその何て言ったら、基本的に今と個人、かめ。個人かめ。個人団体のかめですよ。両方あり。だからすこく樂だわね。赤堀さん余裕でしたね。



立岩:個人もあり団体もありですか。で後、ちょっと聞きたいんですけど何処までこう語られるかあると思うんですけど、僕はどっちかと言うと身体の方はある程度知っているんですよ。身体障害者の運動の中でも色々こういう内側みたいなのはあるんですわ。あることあるんですけどまぁたかが知れているかまぁこんなもんかな。
 だけど、精神障害になるとやっぱけっこうそう言う所もないですかね。衝突と言うかこう別れると言うか。

大野:ない。そういうすぐ激しい感じ、ないですよ。

……:ないですかそういうの。例えばね、僕、聞いた話では赤堀闘争でなぜ国賠まで行かなかったのかということでなんか疑問を持っている人がいて、それがなんかの原因だと聞いたんですよ。例えば、例えばですよ。そういうのを聞いたことあるんですけど。その辺はどうなんですか。

大野:国賠ってどんな国賠?

……:国家に賠償を求めるあれですね。

大野:家族でしょ。家族にですよ。

……:いや、本人が。

大野:本人なんて賠償してくれたじゃん。1億2千万円貰ったじゃん。

……:俺が聞いた場所間違ってた。

大野:家族が家族に。家族にだよ。国家賠償求めることが出来たという人に対して、それは家族に決めることだしね。そこまでじゃなくて皆ボロボロだったの。赤堀闘争関係。お兄さんとか妹さんとか。それを言ってね訳分からんこと言っているからそれは家族が決めるべきだし、私達がそれをやったって勝てないって言ったの。
 なぜかと言うと前例があるんですよ。弘前ってあるでしょ。弘前競技事件殺し。これは冤罪だったんですね。そうです。だけどあそこの炊事直系▲でね自分のことの高菜をね自分で売ってでもね君を生きとったの。自分の家族で。歴史の残る宝物があった奴を全部売ってなっさんみたいなことをやってきたでしょう。だから国家賠償を請求したの。
 いい、本当だったら国家賠償に勝たなくてはならないわけ。ところがそれで負けているわけだから。そういうことが分からずに家族が決めるべきことを、そうやってしゃしゃり出て中闘委やりません。だからそれをやっては駄目って言ったの私が。なっさんの事件もよく知りもしないでね、何でも高いというわけじゃないのよ。呼んだら指示があるの。家族の賠償は家族会で決着をつければいいし、相談役は島田対策協議会があります。それを中闘委がそのせいでバーンとしちゃう。それは筋が違う。なっさんの字が知らないことです。
 そういう噂、噂に流れるから困っているのね。アウガ▲ではそれを僕に言った人と信じちゃうわけよ。だから信じちゃったら噂になった人私に聞いてくれなの。

立岩:例えば病者集団の中にいたっていうのかななんていったらいいのかな言った部分が抜けていくっていうか分かれていく。

……:ちょっといい、補足すると多分立岩さんが言っているのは反全精連★主張して決別主張していた人達。

大野:あ、京都の人達ね。

……:94年頃から6年にかけて。はっきり言ってそう意味で真理さんも抜けた1人だと僕、思っているんだけども。

大野:何処から?

……:病者集団から。事務局を辞める。事務局員を辞めるという。

大野:違う。あの人精神的に案内していたんですよ上に。辞めるんじゃなくて窓口側になるって言ったのは真理ちゃんに集中的に集まった非難が集まったの。その精神大野会▲。精神大野会って言うのは実を言うと御存じ

 [以下しばらく略]

 で私何を書かれたのか知らないけれども噂みたいにかって飛んでいるから私気にしないけども、それよりも、マインカンプ、ドイツ語でマインカンプを私が書くべきだと。エッセイとしてはまず赤堀さんのやつを記憶残さなきゃいけないからと言って、もう本を二冊分ぐらい書いたんですよ。

立岩:あるんですか。

大野:ありますよ。新聞社がそれを利用している。

立岩:それをどうかする気がないですか?

大野:ありますよ。手伝って下さいますか。

立岩:手伝います。今ねすこし考えてるんですよ。なんか突然商売の相談になりますけど、一般の出版社ね要するに本屋さんから売れる本にするというやり方もあるじゃないですか。それからある種自費出版の形もあるじゃないですか。

大野:自費出版も金もありません。

立岩:それありますよね。金どれだけかけないかっていうことがある。

大野:どっかから持って来るか別ですよね。それも読んでいだたなきゃ。私自主章だから。

立岩:大野さん自身はあまりパソコンとか使わなくても。これ全部パソコンで書いたんだよ。これからの人はパソコンとかで読めるっ感じじゃないですか。そしたら本って要するに、紙に印刷して運んで本屋に売るということはないよね。それに金がかかるわけですよね。ただとにかく読んでもらいたいということであれば、電子媒体っていうかそういうのを使って。

大野:考えるわね今の人は。

立岩:そういう考え方もあるんですけど。

大野:だけどね貴方ね私の愚問聞いてよ。私ね文才がないのね。文才がないっていうことは中学校三年生にわかったの。

立岩:仮にそうだとして…

大野:違うの聞いて。だいたいねその知能テストっていうのはあんた知らないわけ?。やられたの。知能テストね。そしたらね170あるんだねその。だけどね30がね文学的才能全部出来たんだわ。
 で書くことに対して苦手だし、文法も分からない私なのね。赤堀さんが生きているうちにっていうか赤堀さんの記憶がどんなことがあっても私の体験したことを書こうという気持ちあったわけね。もう二冊分ぐらいあるんですよ。どのぐらいの字数っていうか。字数っていうのはね。原稿用紙っていうか何でもいいんですけど。だからA4のねあれで見ると2枚とか2枚半ぐらいで一つのテーマになっていると。でそれに対して文才がないと思うでしよ。自分でそれをコンプレックスなの。
 だからまずねじらいだ▲を付けたんです私。

立岩:誰、誰?

大野:うん。それは佐々島の大西君って言ってね。院長やっているんだわね。その方が京都大学をドイツ語で受けたぐらいの人で、その後ね出版社に勤めとったのね。今では院長やっとるけども。あんたちょっとやっていったらいいよと皆。1時間1000円でどうって言ったらいいよと言われたの。媒体しとったの。それはまぁある意味出来たの。

立岩:出来上がったもんなんですか?

大野:出来た。半分ぐらいしか出来ていないの以外とね。それで大西君に聞いたの。私がこれをね世間に恥さらすようなことで文書を書くわけでしょ。どうだった地雷▲でやってみてどうだったって言ったら。けっこう面白いわねって言われたの。
 へーそんなもんかなと思ったの。だけど駄目なの。コンプレックスするわけにはいかないの。なんかでも出しません。なんか出しましょうよ先生。金儲けしよう。同窓会▲考えると作ったるわ。

……:金儲けになるとは僕は思えないんですけど。電子媒体でやるとやっぱり我々の仲間が読めない人がやっぱ出て来るのでただしばいたいと言うことでやっぱり出来るだけ条件にして。

大野:やっちゃって下さい。そんなのがあってね知能テストやられたためによくないのね。知能テスト、あれ不愉快ですよね。ふん。あれ不愉快でしたよね、あれ僕大っ嫌いだったんだけども。知能テスト知らなかったの。あれもともと軍隊で徴兵の時においた指揮官にとかにああいうふうに作った。あれ全部満点なのに、文学的にペケペケペケだったの。始めは分からなかったの。でIQ高いんだよ私。だけどもペケペケペケ。あれじゃないですか、権力ですよペケペケペケを付けるの。それを中学校の時にやられて後日電電公社に入った時に色んな何とかテストってずいぶんあるんだわ。電電公社のね。そこでやった時にIQテストはやらなかったけども、あぁあれがIQテストかと分かったの。なんかね色々と。
 だから私にその何と言うかコンブレックスをとってくれる人が出てこないかなぁと思ったの。でもまあ一応ね。あの小島の。兄弟、佐瀬須磨の大西君に頼んたら面白いよと言われたの。面白いよと言われたけども文書を上手だと言ってくれないの。

……:いや、本当に大野さんの文書面白いと思います。面白い。

大野:でね私はね自分の為にね金を稼ごうとか歴史という赤堀さんの歴史をきっと残すのが委員長の役目だと思ってやってきたの。
 でね論文も書けんぐらいそんなことないけども論文誰も読まないからだからエッセイを書いてきたの。で、真理ちゃんにニュース貴方お引き受けになった時にね真理ちゃんに載せてもらえないですかと聞いたら、真理ちゃんがあんたと赤堀さんのは私のパソコンの中にホームページの中に出ているからニュースは貸し出しませんと言われたのが、そういう言い方がニュースは遠慮する、遠慮さしてくれとか何とかそういうこと断られちゃったの。
 ほんで私の文書載せてないんだよ。病者集団のニュースに。そこは大きいんですよ。

安原:パソコンの普及度って日本全体が韓国より低いし全然それぐらいレベルだしましてや精神障害者のパソコンの何だろう。まぁ力だし読み書き、使える能力というのは。赤堀さん寝ちゃった静かになった。そんなの知らん。まぁ要するにパソコン使えるので識字率一緒ですよ。字が読めるから。赤堀さん識字率って分かる。うん。字が読めるか。もんもんかじゃないかみたいな感じ。

大野:話戻すと90年代のその話だと思うんですけど結局決別宣言って言うのが多田さんと高見さんと誰かな。白組さんだ皆。白組から出たんですよ早い話が。何組。要は中核派と言うことです。白ヘル。で、そっから要するに訣別宣言って出されるという。噂は噂なの。なんでも噂。そう、だから実際知っている人だと違うんだよ。うーん。

……:白ヘルが出たついでに聞きますけど、やっぱ身体障害の方のね運動でも党派との関係って常に問われてきたんですよ。実際、解放派とか中核派とか全障連とかあの辺に入ったり出たり、てゆうかまぁはっきりと入ってた。それをまぁある程度出したというか出しながらやってきたということなんですけど。精神障害の場合は、そのセクトとの絡み方っていうかどう?

大野:事務局員はねそのセクトの人もいますよ。中核派でも党派でもなくてね。だけどその病者集団、私のやっている頃にはセクトの人いましたよ。白組さんが。

……:病者の中でってこと。

大野:うん。私の声事務所やっていた時も中核派いましたよ。だけども1番困ったのは赤堀闘争旗揚げした時にどーと行って入ってきたのは、どーと党派が入ってきたのは、例の保安処分ね保安処分の時に各そのなんていうのかな検察庁ね高松以外の所ね。そこ行って糾弾闘争やったわけですよ。広島特に中核派強いじゃないですか。うん。だけどあそこへ青メット被った人も赤メット被った人も来たもんでね、上から見とっていたら、あぁフランスの国旗と一緒だ。そうだと思ったのね。そう思ったぐらい来たの。
 だけど病者であることの宣言していた人が発言していた人がいるでしょ。それでその時にその病者にラジオ飛ばした人がおるんだわ。病者さんがえらい飛ばしたって言いたかったけどもその人に断らずに言えんけどもそうやって病院がひどい目に遭っているのそこで広島でも。だけとその後で記者会見やった時に白組さんと青組さん★が後で大喧嘩しとったけども、記者会見やったのは白組さんだったの。いつもと争いがそうなの。単純なことなの。そういうのがね嫌になっていたけども、そこで病者と付き合ってもらったんだね。弱い党派が。
 一応百人委員会とか付き合ってくれたんだわ、私と付き合ってあげたんだね。向こうが付き合ってもらったんだね、病者にね。それでそういうおかしな所があって腹が立つことがいっぱい党派にあったけれども赤堀中闘委やった時にその流れの中で赤堀さん保安処分だと言うことで赤も青も白もでーって入って来たの中闘委ね。まぁそのとりあえず色々ごちゃごちゃ揉めつつもまあ党派の別に排除季節▲っていうか入りながら、まぁやれるとこまではやるとこまではやってきたというやっていたというか。

……:結局87年ですよね何もかも全部。一番ネックになっているのは。87年だって僕は読めるんですけども今は僕はそういう事情全く知らない、資料読む限りはやっぱりその例えば百人、名古屋のパネル粉砕の時だってフランスの国旗プラス黒★が入っていた訳ですよね。そうそうそう。俺見たんだけどなぁ。

大野:黒が、黒じゃない違う、赤が街宣やったの。赤がやったの。で、私達病者集団は選挙しないと方針だったの。だけど病者あがちゃった訳でしょ赤が。赤の系列。香川さん亡くなった。それで中山先生が止めたんだけどね。病者集団がそのターゲットになってねあんたらはなんたらなるから良いんだけども俺たち、500万円集めてね集会やったんだけどもどうしてくれるんだと言われてね私怒られるんだけども私は何て言ったのかあの当選でね。

立岩:ちょっと素人なんで、87年のことちょっと教えて。今のは83年かな82年かな。どのぐらい実際見たのは81年か82年かぐらいですよ。名古屋にいらしたそうです。僕は学部の3年生だったと覚えているんですけど。ちらっとパネルに行った。その後のその87年ってその何なの。

大野:その愛保連とかそういうので何と言うのかな中闘委もその全障連、病者集団その最悪みたいな感じ。うまいことそのまとまっていたのがその百人委員会がその精神解体、精神衛生法改正でごにょごにょして結局分裂するような形になってそれをまぁ日弁連要綱案であの人、あの医者。中山★[中山 宏太郎(精神科医,1937〜)]。野田★[野田 正彰(精神科医,1944〜)]だ。野田か。野田があの。かー、彼を考えると頭が。野田最近死刑廃止まで言ってるんだよね。でそれでさあまあいいや。香川さんでもいい。あの人は相手にしなくてもいい。

立岩:御存じだったらいいんですけど、その野田、木田っていうその精医研グループというのとプシ共闘って略称されている部分というのがぶつかったという話★がぼつぼつ出て来るんだけど。それについて何か?

大野:私は知らないの。

立岩:知らないこととは知らない方がいいですけど。

大野:私、襲撃されたことは知らないけどね。連れ込み校舎▲に泊まったことあるんだよある時。岩倉病院が集センターを襲撃された★[岩倉病院問題(K氏問題)]。亡くなった香川さん★が知っていてなんかね、日共精医研、革マル日共精医研とか言ってね全部自分的なりに言っといて私そんなこと言っても分からんと言ったのね。党派でもないし。そしたらあんた院長だろう、だから覚えなきゃいかんと言って来てね強制されたのね。
 私はね党派も何も右翼でもね赤堀闘争やったら全部抱え込むわ。バージニア▲だと思うけどね。その時革マル、日共革マル政権出て来て精医研っていったん通そうと言ったのね▲


立岩:何なんだろ、政権って何なんだろう?

大野:そしたら唯てんかん▲ということを野田がやったんだって。今文化人類学者でしょ。だけども。唯てんかん。ん。文化人類学者。曰くそうですよね。医療者ってよりむしろ文化人類学者みたいな振舞い。だけど彼が彼についてはそれじゃ私が無感動▲なこと知らないっていうことになるととんでもないことよ。
 冗談じゃない。今度ねあの死んでいたでしょ。それからずっと分析しても国会に対してもものすごく咳▲しているでしょ。障害者問題でね私ね。たいぶ成功したけどそれは。だけど真理ちゃん1人で挨拶状書けんって当り前のことなんだけどね。何これっと思ったけども。私は裏でやったんですよ。色んなことを。うん。やったことは本人になるぐらいね。結局大野さんに尻叩かれてやりましたよ彼女。やったでしょ永遠にやれるんだわ。喜ぶ必要があるんだわ。代々何もしないでね何で友達なんだ、なあ。

……:ちょっと俺話分かんないんです。

大野:震災の関係で真理さんだけが東京に居たっていう話です。私逃げたという話です。

……:ちょっとごめんなさいセクトの話に戻ると。その野田が、精神医研って何かのセクトとは関係ないの?。

大野:ちょっとはないはずがない。そのときに唯てんかんって言葉知ってる。香川さんが言うにはね死んだ香川さんが言うにはね野田が唯てんかんをしたというの。唯てんかんってどういうことって私理解が出来ないのね。
 そのことがあって、で話に聞いたのはね自分の子分ね。精医研の連中ね野田の配下の人間を。配下の子分って何。ちょっと録音しているから話は後で説明します。はい、分かった。その時の子分達ね。が足を折られたりとかね歯をぶち込まれたりとかねやられたらしいわ。そういう噂は聞いたの。だから子分達はバラバラになって自分は文化人類学者になったわけだけども本土の阪神大震災のことはね東日本ねあの時ね新聞に広告出て来るとI先生の方をオウムとして出てくるの。野田正孝先生はどうなのか。それから何だっけ、新しい先生方。書いてあるからこいつら典型▲しているのはうち皆に見せたろか、馬鹿なことやってあいつら。
 ちょっと蛇足するんだけども橋本知事に対して、テレビでねこの人は人格障害だから昔掃除をさぼっていたというふうに教員から聞いたとかって野田が言ってる。野田が。大阪府知事を。さぼったっていいじゃない。別に。だからさぼったから人格障害だと診断することを根元している。馬鹿だ。野田の言うこと信用しない方がいいんだけども。信用というよりも殺したいわ後で。殺したいね。だけどうちはねなんかあった時には深くやっているだろう。

……:やばい録音されているよ。殺したいって言っちゃったよ。

大野:いいよ。別に実行犯じゃないし未遂でもないもん。全然殺したくないですね。あまり対象にはならないわ。
 私はね黙っているけどね集めているの。中井先生★の集めているの。家に来たら。絶対あげるわ。阪神大震災誰がどう言っているか全部。阪神じゃなくて東日本の震災。自分でも黙っとらんよ。色々なことやって来たよ。もう例えば一番最初にはボーダブルトイレ強いしゅうふれん後悔してしまったし。NHK飛ばして。
 それから計画停電があった時、計画停電何事か人を殺すつもりかって言ったんだよね。筋ジストロフィー、あれです。自発呼吸出来ないでしょ。あれ。殺すつもりかーいって言ったら3時間もかさっばさセンター作ったりNHKに流れた。私ね半分自発呼吸出来ない人ね。

立岩:だからつい先週もその関係の集会京都でやったんですよ★。

大野:私は全部やってきたよ。一応震災については。全部やらさせていただきました。身体障害も。だって昔委員長だって身体障害の人も両方のねやっぱりね不利益って言うのか命にかかわることはやるのが筋だと思うからやってきたと思います。けっこう死にましたね。やったやったと言わない私。貸してもらえないから。黙ってた。
 その記録家にありますから。どうぞ。資料が山ほどありますから。

立岩:僕は載せる人なので。さっきはトイレに行く前の話。要するに撤廃。赤堀さんの例えば島田事件って今、本屋さんで新本で買える本ってないんじゃないの。なんかありますかね。

大野:あの家にいらっしゃったらあれがありますけどね。赤堀さんさっき大きく出たから新聞に。あ、中日新聞ですか。新聞に。いやいや本として。本としてはねもうたいまつ社会版★[◆赤堀闘争全国活動者会議編,1977,『島田事件と赤堀政夫』,たいまつ社]しかお勧めできない。

……:後はないですよね。

大野:ない。いろんな人にね使用▲する人とかいろいろ書いているけど。内容が全く違う。買えないですよね。駄目。だから無いじゃないですかそれで。図書館にありますよ。どういう形であるにせよね。がいいかは後にして考えるとして。それはまぁ色々十分ではない思いにあるとしてもある意味きりがないじゃないですか。どっかでけりつけて出せると前半だけでも出しておくとかね後半は後半できたから。だから先生ね意外とやってもいいから意外と大西に。その後見て下さい。見方せしめる。ミブシーで見れる。

立岩:桐原さん来ることあるんで、ちょっとその辺ねどういう媒体がいいかは別としてちょっとちゃんと残しておく。

大野:残しておりますよ。

立岩:なんかの形で公刊と言うか公開というか。やりたいですね。しましょうよ。それは。是非。

大野:おなんでお母さんって呼ばれているか知ってる?

……:お母さんにされちゃったんじゃないですか。

大野:されちゃったんだけど。真理ちゃんのパソコンの中に出ているよね。出ていますよね。あれ、お母さん出ているんですわ。そういう話とかね例えばお正月のね仙台から再審開始になってきたでしょ。静岡をね。静岡にいらした時から私は家を借りて毎日面会していたんですよ。防衛の為にね。身体的にも。精神的にも。赤堀さん防衛しなくてはならないから。面会していたでしょ。
 その時にある時お正月明けね3日間面会出来ないから4日目に行ったんです。面会室ね。いきなり言われたことは何だったのか。それを当てたらすごい。お母さんそのこと言っちゃ悪いけどね、お正月だけはこういう所いいねって言ったのよ。何だか分かる。つまりおせち料理なんか環境なんか関係ない人なの。昭和29年というと。おせち料理は獄中に出るからね。お正月だけはここだけがいいねって言ってきたの。お正月になるとね。あーーーー。それがパッと分かるのが私の世代迄。おせち料理がね出るんですって。獄中でね。だから。

立岩:それは聞いたことがあります私も。正月はちょっと料理が。お酒は出ない?

大野:出ない出ない。ぱくしゃり、ばくしゃり。ばくしゃりって、今20%なんだよね。死刑囚食べる物とか違うんだよね。ほんでねそれを言われてね。全部からかわれてるの。正月来るとね。赤堀さんお正月食べてもっと。何言っているの。お口に入る。いいと言うからね。お母さんのおせち料理おいしいでしょと言ったわ。赤堀さん、お母さんいいねと言うから。私びっくりするよ。

……:依然と大切だとその通りだと思うんですよ。だけどそある種の報告書みたいな何ていうかなスタイルってかるかけみたいな紙媒体みたいな物を作ることを不可能じゃない。何十万とかいう金だったらね。とにかくね。作っているんじゃないですか。こう言うふうに考えて下さい。

大野:作っているんじゃないですよ。例えばあのー。パソコンの使えない人も読めることが重要なのね。そうそうそうそれが大事なんですよ。赤堀闘争やってきた人達はいったい裏で何があったのか知りたいと思うの。何故私が書いているかと言うことはねその文学的才能が無い私が書いているのは私が委員長だったわけね。その人が総括もせずにこの世から消えるのは卑怯だと思うから。だから物事もね。もしねよろしかったら。発端はそこだったんです。先生見に来て。急ぎませんけど。私の家に来て下さい。京都すぐそこだから。

……:じゃあ行きましょう。行きましょう2人で。指導教員なので。

立岩:指導教員じゃない。でもそういうことになるのか。

大野:それですいませんけどね私は八本出会えていないけども。100万円ぐらい収めているんで。あ、はい。それね先生、あれを見て下さい。大西君面白いわね言っといたけれども。新聞社には非常に赤堀さんとこ疎通性が悪いもんで新聞社になると。だから私がフォローの為にそういうエッセイをね渡しているんですよ。
そのかわり絶対私のこと書かないようにということをね。そのことから引用しないようにと言うのかな。それを見せて取材させるんですよ。この間授業で使ったけどね。中日新聞は。アルバイトの為に。ということはその発行して残さなきゃいけない、残して発行しなくちゃいけないという意識があるから新聞社には書かせないということですよ。私が書いたものですもの。私の記憶だもの。
 だから私は委員長を辞めたと思っているんだけどもその委員長であるそのことを書いた時に委員長を辞めさせていただきますと言えると思うのよね。最後の謎かけみたいなもの。それが筋だと思うから書けたの。かなり数があります。そういう面白い話は、お母さんお正月だけこういう時はいいねって言ってた。その辺の自宅の話はぼつぼつとさせていただくと言うことで。それは先生がもう少し考えて私のご覧になってこれなら文書、本にしたら面白いたろうと皆に読んでいただきたいの。
 ということは精神障害者の差別の歴史ですからね。そうですね。それはやっぱり残さなきゃいけないし、私の筋が通らないです。それをやらないと。

立岩:それはそれでいいです。ね。はい。私、ちょっと今日夕方その一つ司会しなきゃいけなくて。そろそろ震災関係の。

大野:忙しいですね。

立岩:今ちょっと打ち合わせ一旦私下に下がりますんで、後、桐原さんなんかその病者集団とかこのあたりの細かな話とかでもしあれだったらやっていただければ思いますんで。今日はどうも突然のことだったんで。いえ。真にありがとうございました。

大野:いえ、私の方こそものすごく気にしていまして、今日まで御無礼致しました。ありがとうございます。ありがとうございます。立岩先生の名前は。本当にありがとうございます。どうも。どうもお気をつけて。本当にうれしくございます。どうも、よろしくお願いいたします。

立岩:はい。それじゃぁちょっと私は。

大野:またお電話下さい。

立岩:分かりました。よろしくお願いします。失礼します。

大野:あ、ワンちゃんのこれ貰ってきたの。会場ちょっと見て見ます。色々また古い…。

■文献

阿部あかね 20090300 「精神障害者<反社会復帰><働かない権利>思想の形成過程――1960年〜1980年代の病者運動から」,立命館大学大学院先端総合学術研究科2008年度博士予備論文
◆秋元波留夫教授還暦記念刊行会 編 19680625 『秋元波留夫教授還暦記念論文集・上巻』,秋元波留夫教授還暦記念刊行会,365p. ASIN: B000J9VUYW [amazon] ※ m.
◆秋元波留夫教授還暦記念刊行会 編 19680625 『秋元波留夫教授還暦記念論文集・下巻』,秋元波留夫教授還暦記念刊行会,341p. ASIN: B000J9VUYW [amazon]
大野 萌子 2004/01/31 「赤堀さんの解放記念日」
http://popup.tok2.com/home2/nagano2/oono.htm
◆友の会 編 19740801 『鉄格子の中から――精神医療はこれでいいのか』,海潮社,254p. ASIN: B000J9OWUQ [amazon] m


UP: 200715 REV:20130911
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