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まともな逃亡生活を支援することを支持する

立岩 真也 2011/07/10
『Niche』別冊3号,批評社,pp.61-70

http://www.hihyosya.co.jp/

災害と障害者・病者:東日本大震災


『別冊Niche』3,Niche編集室 編,批評社,160p. ISBN-10: 4826505442 ISBN-13: 978-4826505444 1200+ [amazon][kinokuniya] ※ d10.

 *批評社の本を買いましょう。例えば『第三帝国と安楽死』[amazon][kinokuniya]
  cf.「優生学について――ドイツ・1」
  それから『精神医療』(第4次)。

■言及

◆2011/06/20 http://twitter.com/#!/ishikawakz/status/82805223403421696

他所でのものとほんんどまったく同じ宣伝

  このところ同じことを方々に書いているのだが(「生存学」で検索→「東日本大震災」→その右上の「本拠点関連」でご覧ください)、たぶん読者が重なることはあまりなさそうだから、ここでも、その同じことを書かせていただく。なお、それはまったくただの報告であり宣伝である。地震が起ころうが起こらなかろうが――また起こるだろうが――、基本的に社会がどのようであったらよいのかは変わらないはずだし、変わるべきではないのだし、そのことについて、私自身の考えはいろいろと書いてきた。ここでそれを繰り返して披露する必要はない。そして私は、例えば原発について、今様々に言われている以上・以外のことを書くことができない。『現代思想』の五月号が「東日本大震災――危機を生きる思想」で(私はそれとなんの関係もない連載をさせていただいているのでその特集を知った)、その多くは原発に関するもので、いろいろと教わることがあった。また五月に河出書房新社から『思想としての三・一一』という本も出ている(はずだ)。私はそこに「考えてなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」という長い題の短い文章を書いている。前半はこれからここに(繰り返して)書くことで、後半は「近さと深さについて」「金のこと」という見出しの文章になっていて、すこし「思想」のような「政策」のようなことに関係することを書いている。それらについてもここでは繰り返さない。
  震災が起こった直後から、たくさんのメールが届くようになった。それをいくらかは分類してHPに貼っていくことを十四日から始めた。そのある部分をこちらの大学院生たちが引き受けてくれたり(今のところ時間あたりのお金を払うことができるようになっている)、原発関連については勝手に始めたりしてくれた――これはあっというまにかなりのものになっている。
  といってもなんでもできるわけではない。私たちの「拠点」(事業仕分けで今年度で終わる、文部科学省から金が出ているCOE――直訳すると「卓越した拠点」という恥ずかしいものになる――と呼ばれているものの一つ→その後は学内の研究センターとして継続させていく)は「〈生存学〉創成拠点――障老病異と共に暮らす世界の創造」というもので、その副題の方に関わるような関心のある人たちがたくさん私が勤めているところ(立命館大学大学院先端総合学術研究科)に大学院生としてやって来てくれたことがあって、そういう拠点を計画して応募して、当たって、始めて、これまでやってきた。そこで、その副題と震災に関係するところを主に、担当することにした。十七日に出したそのメールマガジン――日本語のものと英語のものと韓国語のものとあるが、第一報告は日本語版の臨時号――に次のように書いた。

  「このたびの大震災に際し、寄せられた情報をhttp://www.arsvi.com/d/d10.htm(三月十四日新設)とそこからリンクされるページに掲載しています。生きるために、例えば人工透析や人工呼吸器の利用者たちなど、水や電気をより切実に必要とする人たちがいます。この苦難に際し、多くの人たちが経験・知識・技術を役立てよう、役立ててもらおうとしています。頻回に更新するつもりです。ご覧ください。また情報をお寄せください。[…]」

  そうした人々への対応が十分でなく、ゆえにせねばならないことも言われるし、それはそのとおりだし、それに加えることはない。まずはそれはとても具体的な問題だ。電気がないとみな困るのだが、とりわけ電気で動いている人工呼吸器を使っている人は困る。固形物が摂取できないので栄養剤など言われるものを食べている(胃に入れている)人たちもそういうものの供給が困難になるととても困る。この辺の情報自体、ときに錯綜し混乱しているのだが、それでもいくらかは伝えようと思って、各所からやってくる情報を並べていった。ただ、「もの」の方の供給はいくらか改善されてきているようで、さしあたりいっときの大きな混乱は過ぎたのかもしれず――夏に向けて依然として電気の方は心配だが――、あまり最近更新は多くない。
  そしてこうした関連の情報を含む新聞報道等をとりあえず集めておこうということで、おもにネットから拾ってきて、日付順に貼っていく、そのとても地道な仕事をやってくれている人がいる。それをまた整理したり、何かを引き出すということも必要になってくるだろうが、まずその「もと」を作っておいた方がよいと思った。ご存じの方もいると思うが、神戸大学附属図書館が阪神淡路大震災の当時その後の資料をたくさん集めて、ウェブでも公開している(「神戸大学附属図書館・震災文庫」)。そこまでのことは――まずは予算的に――できない。ただいくらかでもやっていこうと思う。さしあたり必要とされる情報を蓄積していくと、その時に何が起こったのか、何がなされたのか(なされなかったのか)のいくらかがわかる。何が起こったのか(がどのように知らされたのか)を集めていくと、それがなんであったか、知らされ方がどんなであったのかがわかる、それはではこれからどうしたものかを考える材料になる、かもしれない。まず私たちが考えているのは、やっているのは、そういう単純なことだ。
  現場で日々体力と知力を消耗し、自分たちがやっていることも含めて、集めたり知らせたりする仕事などできない、そんなことをするより別のことをする、せざるをえない、するべきである人たちがいる時、そのうしろ・裏で、その人たちのやっていること等々を拾って集めて知らせる仕事をする。そんな仕事をする人のことを「研究者」とか呼ぶ必要もないのではあるが、その人たちは比較的に情報を集めたり整理したりする仕事には慣れている(はず)だから、やったらよい。実際、報道の収集・提供の仕事は、こっちではそこまで手が回らないからと、以前から付き合いのある人・組織――「DPI(障害者インターナショナル)日本会議」の「女性ネットワーク」の人たちから依頼されて始めた。

逃げること・住むこと

  そんなこんなで始めるには始めた。すると、「もの」の問題も多々ありながら「住」の問題がさらにやっかいであることは明らかだった。動けと言われても動くに動けない人がいる。誰かの手助けで動くとして、「普通」の避難所では対応できないということになり、ぜんぜん知らない場所の施設にということになったりする。普通に避難所やら仮設住宅にいる人はやがて戻れるかもしれない。しかしその人たちは、比べて、さしあたり「とりあえず」ということであったとしても、もとのところに戻れるなり、あるいは住みたいところに住めることになるだろうか。知られないまま、そのままになってしまうことがありうる。
  そんな現実的な危機感がある。というより既に起こっている。それで、やがて戻るにせよ戻らず新たな場所に住むにせよ、もっとまともな住む場所がほしいと、またそれを提供しようと思う人たちがいる。それは阪神淡路の時と比べても難しい。あの時には同じ場所(の近く)でどうやってやっていくかということだった。しかし今回は原発の問題が絡んでいる。
  行く(行かされる)場所がどんなところであるかによって、その人のそこでの生活、そしてその後の生活が決まってくる。どこに行くことを勧めるのか。そういうことに、残念ながら、今いるそういう方面を担当している(はずの)人たちがあまり役に立つとは思えない。そんなことをする人たちが、その「本義」としては、「ソーシャルワーカー」ということになるのかもしれないけれども、実際にはそう期待はできない。
  時にはその本人の話を聞いたり、相談に乗ったりするだけでなく、行政だとか各種機関と(場合によってはかなり強い調子で)やりとりをする、主張すべきを主張することが必要にもなってくる。そういう確かな立ち位置・姿勢と、ある種の手練手管をもってないとならないことがある。どういう暮らしが本来ならあってよいのか、どこでどんなふうに暮らしていくのか、自らもそれを求め、またそのための支援や交渉の活動を行なってきた人たちがいる。
  つまり、もう四〇年ほど前から、とにかくだまって言われることを聞いているとろくなことにならないと言って、与えられた場所・施設に住ませられるのは嫌だと言って、住みたい場所に、介助が必要なら介助者を得て、その制度を要求し獲得して、暮らそうという運動が、おもには身体障害者の方から始まった。「自立生活運動」などと呼ばれる。(同時期に、精神障害の人たち自身による運動も始まり、また、いくらか間を置いて、知的障害者の――親の会の運動は早くからあるが――本人の発言がなされるようになる。身体障害の方の人たちの一九九五年までの動きにいては安積純子他『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店、増補改訂版一九九五)、その後のことも含め渡邉琢『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』(生活書院、二〇一一)、これから紹介する人たちのことも(一部にだが)出てくる定藤邦子『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(生活書院、二〇一一、もとになったのは私たちの大学院に提出された博士論文)等を読んでもらえるとよい。
  大阪・兵庫は、東京辺りとはまたすこし違った「乗り」で、そうした活動が盛んな地域だった。その人たち・組織が、一九九五年一月に阪神淡路大震災が起こるとすぐに救援・支援の活動を始め、続けてきた。すぐに「障害者救援本部」・「被災地障害者センター」といった組織ができた。私にも当時の遅い電話回線のパソコン通信で通信が届いた。そのうち郵便で各種通信が送られてくるようになった。
  そしてその人たちは、「ゆめ・風基金」を作った。そのホームページを見ると、「五か月後に、ふだんから非常事態に備えておこうと「ゆめ風基金」運動が発足しました」とある。「そんなに早かったんだ」、と思う。そして、実際に基金を立ち上げ、国内だけでなく、トルコ、台湾、エルサルバドル、 アフガニスタン、イラン、パキスタン、ミャンマー、中国、フィリピン、ハイチでの災害の時、援助を行なってきた。そして今度の震災で、これらの団体が素早く動き始め動いている。
  その「自立生活運動」は一九八〇年代に入ると「自立生活センター(CIL)」を作って活動するようになる――現在そうした多くのセンターは介助者派遣事業の収入でなんとか組織をまわしている――のだが、東京都八王子市に(実際にサービスを提供する組織としては)日本で初めてのCILを設立し、その全国組織の代表を務めてきたりした中西正司さんが「東北関東大震災障害者救援本部」の代表を務めている。そうした組織の一つで兵庫にある「メインストリーム協会」の人たちは地震のあった翌日に東北に向かったと聞く。
  福島にもそう動きが一九七〇年代の半ばに現れる。その中心人物の一人がいま「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表をしている白石清春さんだ。彼は脳性まひの人で、福島で橋本広芳さんたちと活躍し、秋田にも活動を広げるために一時いたこともあり、また全国組織にも関わり、かなり長く神奈川の相模原にいた後、福島に戻った。私たちと一緒にさきに記した『生の技法』を書いた安積純子(今は安積遊歩で通している)さんはその(養護学校および「福島青い芝の会」の後輩・仲間ということで、(調べてみたらもう二六年も前に)インタビューさせてもらったことがある。また(やはり調べたら一九九九年に)船引町に講演に呼んでいただいた鈴木絹恵さん――安積さんが「その道」に入った直接のきっかけを作った人でもある――が、その町で支援の活動を続けている。そうしたところに、さきに記した「本部」や「基金」がお金を送ったりして支援している。
  ここでも人は大切だ。ただ福島なら福島で、そういう(ちょっと押しの強い、経験のある)人手が足りないということがある。それで――なのかどうか、事情はまた今度聞いてみようと思うが――兵庫から、かつてのその「青い芝の会」の全国組織でいっしょだった――そこには様々な対立・分岐もあったのだが――古井(旧姓は鎌谷)正代さん、そしてやはり脳性まひで長く兵庫で活動してきた福永年久さんが、まず福島を訪れた。そして古井さんはいったん戻った後、もう一度福島に行って、三週間の支援にあたることになった。古井さん自身も介助が必要だから、その募集の要請もあり、その介助に私がいる大学院の院生など、関係者が同行した。
  その最後の一週間、介助しながら様子を見てきた最後の人で帰ってきたのはつい二日前で(今日は五月三一日)、具体的にどんなだったかはまだ聞いていない。ただ、たしかに人手も足りず、混乱もしている状況であっても、というかであるからこそ、残念ながら、今まであってきたし今もある行政や医療や福祉の専門職者の対応にまかせておけない、むしろそこにものを言っていく、変えていく必要があるということだ。そんなことをしなくてもことがうまく運べばよいと思う。しかし、残念ながら、こういう部分で押し問答をしたり、ねじ込んだりといったことは必要であらざるをえないということだ。
  その人たち自身の心労もまたずいぶんのものなのだろうと思う。その人たちは「上役」だから、そう弱音もはけない。私は、かつて調査などでお世話になったことはあるが、あくまで部外者だから、すこし苦労話も話してもらってそれでいくらか気が紛れることでもあるなら、ひさかたぶりにその方々のところに御挨拶にうかがったりさせていただくことはあるかもしれない。ただ、その活動自体に私たち自身が本格的に関わることは難しいか、できない。仮にからだが空いたとして、手練手管というか、迫力というか、そういうものを持ち合わせていない。ただ、そんな人たちからの要請を受けて、「受け入れ」に関する関連情報を提供することを始めた(さきに記したHPの「東日本大震災:住む暮らす」)。それでどこまでうまくいくかわからない。実際に受け入れる場が存在しなければ、その情報を提供すると言っても、実際の「逃避」「避難」につながらない。実際のところは厳しいと思う。ただそれでも、さしあたりやれることはやっていこうと思っている。逃げたい人には逃げたいところに逃げてもらいたいと思う。

心と社会と両方言われるが、何も埋まらない、に抗する

  ここで伝えたいことは以上に尽きる。ただはじめは、『精神医療』(第四次)など刊行している批評社から出されるものに掲載されるということもあって、「心のケア」のことを最初にもっていってみようかと思った。
  それについて、多くの人が、漠然としたあるいは明確な「やな感じ」をもっていると思う。その理由はまずは簡単だ。心のケアと呼ばれているものが必要ではないということではない。また、この時あたりから人々に知られるようになったPTSDと呼ばれるものが存在しないと言っているのでもない。ただ、様々になされるべきことがなされなかった(あるいはなされてはならないことがかなされた)「後」で、そこに生じた「心の問題」に対応します、ということで、なにかそういう関係の仕事をしている人たちがやってくる。例えば学校で事件があったとなると、「スクールカウンセラー」に対応させますとか、さらによそから誰かに来てもらうとか。それでとにかく「対応」はしていますということになる――何もしていないわけではないということを言える。ただその「効果」もよくはわからない。なくはないとしても、その「もと」にあったものがどうかなるわけではなく、むしろその「根」にあったものを曖昧にしてしまうこともある。それが人々には気にいらない。そんなことが一つにはあるだろう。
  しかしもちろん、このことは、いくらかでもまともにその「ケア」に関わる人であれば、自身が、承知している。阪神淡路大震災の時に、いろいろと活動がなされ、そのある部分は何冊かの本になってもいる。(このごろ、精神医療に関係する日本の一九六〇年代あたりのことがらの中のいくつかについて、まったくの素人として、すこし調べて『現代思想』の連載の体をまるでなしていない連載に書かせてもらっているのだが、それでずいぶんと本を買い込んだりして、いくつかはあらためて、ほとんどは初めて、すこし目を通したりしている。)中井久夫(たち)の本――中井編『一九九五年一月・神戸――「阪神大震災」下の精神科医たち』(一九九五、みすず書房)、中井他『昨日のごとく――災厄の年の記録』(一九九六、みすず書房)、中井『アリアドネからの糸』(一九九七、みすず書房)――がある。最初のは「中井久夫の文章を再編集、併せて新稿も収めて、ここにおくる」ということで、『災害がほんとうに襲った時』(みすず書房)として、二番目のは「より、中井久夫の文章九篇を中心に編集」ということで『復興の道なかばで――阪神淡路大震災一年の記録』(みすず書房)として最近また刊行された。また、後方にいて応対していた(と自らが語る)中井に対し、前線で対応に当たった中井の弟子筋の安克昌の『心の傷を癒すということ――神戸…三六五日』(一九九六、作品社)はサントリー学芸賞を受賞し、その後文庫化(二〇〇一年に角川ソフィア文庫)もされ、しばらく品切れになっていたが、最近、「災害精神医学等に関するエッセイや論考を加えた」(と案内にはある)増補改訂版が作品社から刊行された。これらを読むことができる。その著者は――私と同じ一九六〇年の生まれなのだが――二〇〇〇年に、その年に発見された肝臓癌で、三九歳で亡くなった。『治療の聲』(第九巻一号・二〇〇九、星和書店)が「安克昌の臨床世界」を特集している。杉林稔『精神科臨床の星影――安克昌、樽味伸、中井久夫、神田橋條治、宮澤賢治をめぐる時間』(二〇〇七、星和書店)といった本も出ている。
  なにかひどいことが起こると心がおかしくなることがあることは、誰もが知っている。自分に経験がなくても、そんなことがあるだろうとは皆が思う。そしておかしくなって、誰かのところに、例えは医師のところに行く。その人はなにか決定的なことができるわけではないのだが、いくらかのことはする。それも――まじめに対しようとすれば――その人自身にとって辛いことなのだが、対応する。なにかしらの「智恵」はそこにある。あるいは、そうして経験・年期を積むことによって、生まれる。それはこの度にもいくらか生かされるされることにはなるのだろう。それは――まったくそのままの意味で言っているのだが――よいことだ。そして、対応にあたった当人たち自身がたいぶまいったりもした。そのことは表立って書かれてはいないが、容易に推し量ることができる。それはそうだろう。それでも仕事をする。それには心を動かされるものがたしかにある。そして、いわゆる普通の意味に理解されている「心のケア」(だけ)ではだめだと、その言葉が広まっていく活動の中にいた当人たちが思ったことも伝わってくる。例えば中井が「社会」のことについて、かつてはかなり自覚的に禁欲的であったのが、わりあいものを書くようになったのもそのことに関係があるのかもしれない。
  こうして、わかっている人はわかっている。言われていることは正しい。その上でだけれども、と思う。以下は、一度目に福島に訪れ、四月二二日に「「一時避難」ではなく「移住」も視野に入れた避難者受け入れが求められます。[…]避難先で生活保護を受けるなども含めた定住へのサポートが必要だと考えています。」と書いた古井さんが、再び福島を訪れた時の五月十六日に書いた文章の一部――いずれもさきに紹介した「住む暮らす」のページに掲載させてもらっている、

  「五月十一日から再び福島に入り、避難指定区域や避難所を回ってきました。
  そこで明らかになったことは、避難所には介助を必要とする障害者・高齢者が一時一〇〇〇名以上滞在していたこと、彼・彼女らの多くが現在近隣市町村の大規模コロニーや施設に滞在しているということです。
  このことは避難所で救護所を開いている医師から聞きました。この医師はもともと原子力発電所に隣接する町で開業医をしていたそうです。震災後、彼は酸素ボンベを命綱として暮らす人々を何人も看取ったとのことでした。被災直後、通信網が途切れ孤立し医療機器が不足する状況において、そして避難指示命令が出て避難指定区域内へ届く物資が止まった状況において、ただ死を待つことしかできない人々と彼は時間を過ごしたそうです。さらにその後、医師として担当した他の避難指定区域でも、同様の経験をくりかえしました。彼はもう医療機器の不足から人々が命を落とすことが無いようにしたいと、現在担当している福祉避難所では、要介護者を全て医療設備の整っている近隣市町村の施設に送るように取り組み始めました。そのような取り組みが浸透し、現在避難所には介助の必要な障害者・高齢者が一人もいない状態です。医師は市町村に掛け合い、定員を大幅に上回る人数の要介護者をいずれの施設も受け入れるよう要請したのだそうです。
  この医師の思いが分からないでもありません。しかし、あえて指摘させてもらうならば、避難所にきてから施設に移送される過程において、現状では障害者の決定権が入り込む余地は無いと予想されます。私たち障害者は、三〇年以上ずっと脱施設化に向けて運動を展開してきました。今被災地で障害者がおかれている状況はどうでしょうか。このような災害が起こるたびに障害者は人権も何も無い状況に何度もおかれることになってしまいます。
  […]私たちは明日から、介助の必要な障害者が移送された施設を訪問する活動を開始します。障害者が施設へと隔離され暮らす歴史が再び繰り返されるのではないかと、強く懸念している次第です。」

  「社会が」とは誰もが言う正しい言葉である。だが苦い現実を、最低の最低よりましな現実というのではなくしていくためには、なにかできることをということではなく、すくなくともそれより目指すものとしては先に行って、理念であっても具体的に立つ場所を定め、具体的にその方に動かすことなのだが、そのことを担う部分は今の「仕組み」にはない。そのままにすれば、例外的な対応とされつつ定型的な「福祉」がなされ、あとは、「傾聴」したり、時には(過度にならない程度に)励まし、いくらか人々の「心」の問題に対応することが続き――これらは、人の多い少ないはあるにせよ、「職」になっている――それで終わってしまう。それではだめなのだ。だから動いている人がいる。動きがある。そのことを知らせねばと思う。


UP:20110531(原稿送付) REV:20110714
災害と障害者・病者:東日本大震災  ◇立岩 真也 
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