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税の本義から考えればすこしも難しくない

立岩 真也 2011/10/25
『オルタ』 2011年11・12月号(アジア太平洋資料センター)
http://www.parc-jp.org/alter/2011/alter_2011_11-12.html
http://www.parc-jp.org/alter/
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既にはっきりしている

『税を直す』表紙  基本的なことは『税を直す』(村上慎司・橋口昌治との共著、青土社、2008)に書いたからそれを読んでいただければと思う――加えて宣伝させていただくと、この本で橋口が担当した「格差・貧困に関する本の紹介」はこの主題に関して出されている書籍を網羅的に紹介した文章で大変役に立つものになっている。その後に書いたものとして、「所得税の累進性強化――どんな社会を目指すか議論を」(『朝日新聞』2010-5-27「私の視点」)、「右のものを左に――唯の生の辺りに・4」(『月刊福祉』2010-8)、「多くあるところから少ないところへ、多く必要なところへ」(『月刊公明』2010-10)、「ためらいを一定理解しつつ税をなおす」(『生活協同組合研究』2010-12(419):13-21)がある。また、最初にあげた本について解説し補足したものとして、その本の(私の執筆部分)のもとになった連載の一回として書いた「『税をなおす』の続き――連載 54」(『現代思想』38-7(2010-5):26-37)がある。これは全文をホームページで読むことができる。「生存学」で検索すると最初に出てくるサイト(http://www.arsvi.com)で、その「中」を「税」で検索すると、あるいはこの文章の題で検索すると、それらの文章の全文を読むことができる。また、残念ながら手間かけられず、最新(今年)の情報は今のところ載せられていないが、2009年から2010年にかけてそれなりにまともに税制を再検討しようという動きがあった時期についての情報等、言論・議論の推移についてもある程度のことがわかるようになっている。それらをご覧いただきたい。
  そうしてくだされば、ここに新たに書くべきことは何もない。私は、国家がすべきことは今より(かなり)少なくてよいと考える者だが、唯一とまでは言わないとしてもその数少なくするべきことの一つとして、この社会に必然的に生じまた拡大する格差を弱めることがある。それには幾つかの方法があるがその一つに税制がある*。私は消費税増税について絶対に反対という立場には立たないが、基本は、所得税・相続税等、収入・資産に対する累進的な課税であるべきであり、そして日本は(日本に限らないが)その基本的な機能を数十年かけて弱くさせ、その税収を減らしてきた。いわゆる「再分配」の機能を弱化させてきた。(一九八九年時に所得税の税率を戻したとした場合にどれだけの税収が見込めるかという試算を、さきに紹介した『税を直す』で村上慎司が行っている。)
「無駄使い」――とは言葉の定義上よろしくないものだということになっているのだから――を減らすことに反対しないが、それでどれだけのとこができるかを冷静に考えるべきだし、さらに、そのかけ声によって失われる無駄でない(かもしれないもの)のことを考えた方がよい。増税、というより、累進的な課税の強化、より穏当な行いを好むのであれば、まずいくらか過去の税率の方に戻すことをしたらよい。
  累進性を弱くしていく過程でに出された理屈と、その理屈についての検討はさきに記した文章の中で行っているからここでは略す。その理屈の中にはまったくの間違いと言えないものもあるが、いくらかでも考えれば、私(たち)の主張の方がもっともなことははっきりと言えると考える。そして、この数十年の路線を支持してきた自民党政権時代のいわゆる政府税調でも、その終わりの頃には、直接税の機能の復活・強化は言われるようになっていた。そして政権交代の後しばらく、その組織のあり方を改変し、基本的なところから改革をしようという動きはあった(そこまではさきに紹介したホームページにある情報で追うことができる)。それが次第に――その事情は私には今のところよくわからない――迷走と言ったらよいのか、渾沌と言ったらよいのか、そんな具合になってしまっているというのが現況なのだろうと思う。それはそれとしてしかるべき人たちが分析し、報告したらよいと思うが、そんな時だからこそ、基本をはっきりさせるべきであるとは、政界の事情など知らない人たちでも言えるし、言っていく他ない。(ついでに一つ、法人税を徴収すること自体が正当化できないといった話が「学界」でずいぶん語られてきているのだが、それもいくらかまともに考えるなら、十分に反論できる。今のままの制度がよいかは別として、法人税の正当化は十分に可能である。このことも『税を直す』に書いた。)

* それ以外に私は生産財についても、また労働についても分配がなされるべきであるという立場をとる。このことについては『自由の平等』(岩波書店、2004)の冒頭に手短に、また『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(齊藤拓との共著、青土社、2010)の第3章「所得(再)分配に限る必要はないこと」でより詳しく述べている。また『人間の条件』(2010、現在はイーストプレスより刊行)のXII「材料も仕事も分ける」も――この本は総ルビ付きの本で、ひらがなが読める人であれば誰でもわかるように――説明している。

経済への「懸念」について
  増税全般と今述べたこととはむろん同じではない。ただそのことの確認の上で、税収は増やしたらよい。すると、「経済の悪化」とか「減速」がすぐに言われる。消費・生産に悪影響を与えるとされる。しかじか試算がなされ、数字が出されることがある。そのすべてがまやかしであるとは言わない。ただ、それはもちろん、どんな前提を置くかによって変わってくる。私(たち)がよしとする線に沿って、「まずは」単純に考えよう。
  増税が消費・生産を鈍化させると言う。その可能性はなくはない。ただまず、このこと自体理論的にも実証的にも証明されてはいない。多くの人にとって――ことのよしあしと別に――労働(時間)は自分の裁量でどうこうなるというものではない。さらに、労働意欲を減退させると言うが――そのことが、この数十年言われ続けた(二つしかない)「理屈」の一つである――金をもっと手元にほしい人はかえってより稼ごうとするかもしれない。これらは生産面には影響を与えない可能性を示している。
  そして手取りは減りその分の消費は減るかもしれないとして、すくなくともそれはことのまったくの半面でしかない。そうやって徴収された分は、棄てられるわけではない。私たちが支持するあり方では、それは、基本的に、直接に人に渡される。まず、このたびの震災・原発事故によってといった人も含め、働こうにも働けず、収入が少なく、消費しようにも消費できない人に渡される。余裕のある人の場合には、その手元の金はすぐには消費にはまわされない部分が大きいのに比して、それはすぐに消費される。それに応じた生産がなされる。
  もちろん他方に、今働いており、いくらかを、しかし少なく、稼いでいる人もいる。ではその人たちに分配がなされることは、その人の労働・労働意欲をを減退させることになるだろうか。私は、わりに合わない仕事をせざるをえないでいる人たちについては、そうした労働の場からの撤退も十分にもっともなことであると考える立場の者だが、その立場の是非はここで議論しないとしても、多くの人は――稼ぎが多くなると給付がそれと同じ額減らされていくといった仕組み(この場合にはたしかに意欲が削がれることがある)でも採用しない限り――なお働き続けるだろうし、それでも生活に足りない部分について給付がなされるなら、それを消費するだろうし、それに応じた生産がなされるだろう。
  そして、政府がなすべきことは少ないと述べたが、その少ない中に一つ加えられるのは、各々の心身の状態に関わって、その人に降りかかった災難に関わって、この社会においてより多く――介助・医療、等――を必要とする人たちの必要についての費用の給付である。それは有効に使われ、そしてその有意義な仕事とともにその仕事をする人に(今より多くの)収入をもたらすことになり、そしてやはり消費されることになる。このたびの震災において地元の人々の自助努力が称賛され、ボランティアたちの活動が称賛される。たしかに称賛されてよいだろう。けれど私は、それらの活動に、そしてそうした地において従来よりさらに困難な生活を強いられている人たちが、その地で、また放射能を逃れ移っていく場においてよりまともな生活ができるように、その生活を支える人のための仕事のすべてに、税から支払ったらよいと考える。それは直接的に即座に「復興」に資するはずである。
  まずこのように単純に考えれば――私は(説明は他のところでしているので略すが)成長「至上」主義者ではないが――税を手段とした再分配が経済によからぬ影響をもたらすとはないと言える。単純なことである。徴税とは社会から何かを失われせることではない。それは――このように言えば誰もがそれはわかっていると言わざるをえないのだが――まず単純に財の移動であり、それ自体が減少をもたらすことはない。問題は移動のさせ方なのであり、その移動のさせ方、税の使い方を間違えなければよいということだ。

徴収・分配の範囲は基本的には地球一つ分であるべきだ
  以上は、さしあたり「国内」の話のように受けとられるだろうし、それは当然のことだ。ただ、これも自分でもいやになるほど繰り返しきたことだが、私は、徴収とそして分配の単位として国家は小さすぎると考える。単位は、本来は、世界・地球であるべきである。(そのことはただちに「世界政府」がすぐになければならないといったことを意味しない。それがなくとも工夫のしようはいろいろとある。まずは――それ自体たしかにやっかいなことだが――なんらかのとりきめがなされればよい。そして、その徴収の仕方についてはすでに様々な案が出されているし、下記のポッゲの案にも彼の案が記されている。)
  それはもちろん、一つに、世界全体をとった時により巨大な格差があり貧困があるからである。そしてそれを正当化するまともな理由などどんなに考えても見つけ出すことはできないからである。「グローバル・ジャスティス」といった言葉もあって、私も偶然のようなことから、その代表的な著作の一つとされるトマス・ポッゲ『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか――世界的貧困と人権』(原著第2版2008、訳書2000、生活書院)の刊行に関わった。(著者は、人が想像するほど大きな負担をせずとも、最貧の人たちの貧困は大幅に改善すると言う。まあその通りなのではあるだろう。ただ、「もっと上」を狙ってよいのではないか、論理的にもそうなるのではないかと思う。そのことを通訳者を介して著者に聞いたら、彼――ドイツ生まれで米国に移住した人だ――は、そのことはわかっている、米国(他)の読者向けの本なので、といったようなことを言ったと思う。その辺りのことはこの本の末尾に置いた「思ったこと+あとがき」に記した。)
  さらに一つ、徴税と分配の単位を限り、その単位間の移動を認めるなら――基本的には認められるべきだろう――そこに、税の安いところに逃れようという人・組織が出てくることによって、またより大きな給付を求めて人が流入することによって、税については税率についての相互牽制、さらに値下げ競争のようなことが起こってしまうこと、そして、給付の制限、むしろ多くの場合には人の流入の制限がなされてしまうことがある。そして、この人・組織の流出が、減税派が持ち出した理由の――さきに大きく二つあるは述べた――一つだった。
  実際にはどれほどのものか。人については、とくに言語や文化の差異が大きい場合、そうそう簡単に国籍を移したりすることはない、名目上の移動についてはしかるべく策を採ることはことはできるし、実際、なにがしかのことはなされている。そして、問題は、差し引きである。富裕者に対する税を上げるとする。それで出ていってしまう人はいくらかいてそこに減収が生ずるとして、残る人が払う分による増収の方が多ければそれでよいとも言える。また、組織にせよ、さらに人にせよ、税率の低いいわゆる「タックス・ヘイヴン」への名目上の移動・移転については、各国とも長く手を焼いてきたのであり、それについての対策も――それで得をするのはそうした人・組織とごく限られた国・地域だけなのだから――それなりの対策も採られたきた。
  だからまず、税を高くすると金持ちが逃げるという話にしても、それが事実どの程度の影響を及ぼすのかについては冷静に見た方がよいし、また打てる対策がないわけでもない。このことがまず言える。ただ、その上でも、たしかにこの問題自体は解消されない。
  そして、これも考えてすぐにわかることだが、以上は「地方分権」についても言えることだ。「国家(権力)」がきらいな「左翼」も含め、民主党政権後の税調の「専門家委員会」――がいったい今機能しているのかか、というか話を聞いてもらえているかが問題なのだが――の神野直彦座長も含め、分権はよいことだと言う。その主張にいくらかもっともなところがあることを私も認めないわけではない。ただ、今述べた範囲に限れば、分権には明らかな限界がある。端的に、豊かな地域とそうでない地域がある――そのことを言うとその「調整」は必要だなどとは言われるが、それはどのように「分権的」になされるのか、たいがいはっきりしないし、納得の行く根拠も示されない。例えば同じ障害があっても、地域によって受けとれる社会サービスには、現に、驚くほどの差がある。それでよいと到底思えない。だがそれでよいことになってしまっている。そして、比較して他より供給水準の高いところにそれを必要とする人が集まり、結果、行政側が「締めつけ」に関わっているといったことも、数は少ないが、現に起こっている。
  金を移せばそれでことがすむなどと思ってはいない。しかし、そんなことは承知の上で、「すくなくとも」可能な限り広い範囲でその移動はなされるべきなのである。そのことをきちんと考えずに、「ふるさと納税」や「地域通貨」を言っても仕方がない。もっぱらその方角に未来を見る人たちの言論は、はっきりと嘆かわしいものであると私は考えている。とりわけ「左翼」は、そもそも「国際主義」を標榜し、そして「宣言」の第二番目には(さしあたりのこと、ということであったとしても)「強度の累進課税」が掲げられていたのではなかったのか。
  それぞれの地域で、それぞれの場所で、それぞれが、はよい。それは当たり前のことだ。その当たり前のことを可能にするためにも、広い範囲で徴収し、そして分ける方がよい。このことははっきりと確認しておかねばならない(『税を直す』では第4章「流出」第10節「分権について」)。

■cf.

◆立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 20090910 『税を直す』,青土社,350p. ISBN-10: 4791764935 ISBN-13: 978-4791764938 2310 [amazon][kinokuniya] ※ t07.


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  ◇立岩 真也 
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