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人間の特別?・2

唯の生の辺りに・9

立岩 真也 2011/01/01 『月刊福祉』93-(2011-1):
全国社会福祉協議会 http://www.shakyo.or.jp/

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  前回、安楽死・尊厳死をテーマにしたシンポジウムがあった話をして、その後に人間を特別扱いする理由があるかという話が出たことを書いた。今回はその続きということになる。
  とくにイルカやクジラや(ある種の)猿をとても大切にする人たちがいる。話題になった映画を見ているわけではないので、なんとも言えないのだが、中身を知らなくても、それに直感的にむっとくる人もいるだろうと思う。「あんなに牛を食べている人たちが何を言うか」、とか。「家畜はよいが野生の動物は別だ」と言われても納得できない。だが、その人は動物全般を食べないのかもしれない。だとするとむっと来た人は別のことを言わねばならないことになる。あまり健康な問いだとは思えないのだが、続ける。

最首さんとの話のこと

  二〇〇八年に慶應大学の高草木光一さん企画の連続講義があり、それが 『連続講義「いのち」から現代世界を考える』 (岩波書店、二〇〇九)という本になっている。そこに私と最首悟さんの話とその後の対談が収められている。そこから。

  「最首さんがおっしゃった「みんな殺して生きている」ことをどう考えたらよいのかという間題は確かにあるんだろうと思います。褒められたものではない存在として、肯定されるほどのものでない存在として人間があってしまうことはどんなことなのか。私にはそれをどう考えていけばよいのかわからない。ただ、それが考えるに値する、考えざるを得ない間題だという気はします。」

  この後に東大出版会の『死生学』シリーズ全五巻の第3巻に関連した文章を書いたことを話した。それを書き足したのが前回紹介した『唯の生』(筑摩書房)の第1章「人命の特別を言わず/言う」。

  「ここで気になっていることの一つは、いま最首さんが言われたことと同じです。[…]けれど、最首さんの「初発の」というか「根っこ」の問いに私は直接には答えられていません。その手前のところで、妙にすっきり爽やかに割り切っている議論を、ちょっと気持ち悪いなと思って取り上げているぐらいのことです。たとえば、ピーター・シンガーは、自然環境保護論者で、動物の権利の主張者で、ベジタリアンです。ブッシュ批判の本も書いています。なおかつ、障害をもった新生児を殺すことには賛成の人です。彼の言っていることは、ある意味ではすっきりしています。「誰が生きるに値するか」という問いを立てて、知性をもっている者、もっと下がって感覚くらいは持っている者は○、そうではない者は×という、単純な論理です。いま名を出した人に限りません。よくある筋の話です。「パーソン論」などと括られたりします。そうすると、ある種の動物の権利は保護されることになりますが、同じ種である人間のなかでも、そこから外れる人は殺して0Kとなってしまう。
  こういうスタイルの議論は別に珍しいものではなく、むしろ私たちの社会・時代のスタンダードだとも言えます。そうした議論が自然保護や動物保護の主張にもなるというのは不思議な気もしますが、しかしそういう具合になっている。そしてさらに、彼はそれを「脱人間中心主義的倫理」と言うわけです。私は直観的にそんなはずはないだろうと思ったので、そういう議論を批判してみました。そこまではわりあい簡単にできるのですが、しかし、その先にどう進めるかです。」

脱人間中心主義の人間中心主義

『唯の生』表紙   その講義の最初の部分と対談での私の発言の全部は当方のHPでご覧になれる。そこには出てこないが、『唯の生』には書いてある「批判」の部分の要点は簡単なことである。
  まず一つ、(ある種の)動物を食べるべきでないと言うのは、人間だけである。
  次に、(実際には無理そうだが)そのきまりを動物たちも守るべきであるとしてもそれは人間の押しつけだし、逆に人間だけが守ればよいとすれば、人間を特別に扱っていることになる。
  そしてもう一つ、結局殺してよい/よくないという基準は、人間(の多く)がもっている性能の有無であり、それによって選別しているということである。
  以上に記したことは、事実そのとおりで、間違ってはいない。だから、認めてもらわねばならない。
  ただ、たぶん、私がこのようなことを言っても、言われた人たち――「脱人間中心主義的倫理」を標榜する人たち――は「それがなにか?」と言うような気がする。つまり、今述べたような意味で、その「倫理」が人間(中心)的なものであることについてすこしも問題だと思ったりしないだろうと思うのだ。
  だからこんなことを言っても、そういう人たちに対しては無駄だということなのかもしれない。しかしそれでも、私はここはわりあい大切なことではあるとも思う。たしかに倫理は、基本的に人間社会の中のことである。人間「が」自然に対する場合の倫理――「環境倫理(学)」というものもある――であっても、やはりそれは人間の行動規範である。それを否定する必要はない。否定できない。だが、食べるとか殺すといったことは、人間が自然界にある動物で(も)あるということでもある。そしてさらに、その上で自分たちを特別扱いしてしまうことをどう言えるかである。今回話は前に進まなかった。次回に続く。


◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et. [English]
◆高草木 光一 編 20090612 『連続講義「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,307p. ISBN-10: 400022171X ISBN-13: 978-4000221719 2400+ [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2010/12/01 「人間の特別?・1――唯の生の辺りに・8」,『月刊福祉』2010-12


UP:20101106 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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