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もらったものについて・7

立岩 真也 2011/07/25
『そよ風のように街に出よう』81:38-44


  *『そよ風のように街に出よう』はとてもおもしろい雑誌なので、ぜひ買ってくださいませ。

震災のこと

 どうせ、なりゆきで長くなってしまい、話の筋などというものがこわれてしまっている、というか、そもそもないのだから、という言い訳をさせてもらって、まず今度の震災のことを。
 ご存じと思うが、この雑誌に関係する人たちも含め多くの人たちが、一九九五年一月の阪神淡路大震災の時の前からいろいろと活動・運動してきて、震災が起こるとすぐに救援・支援の活動を始め、続けてきた。すぐに「障害者救援本部」・「被災地障害者センター」ができた――名称とかいろいろ変わっていくのだがそれは略。私はその時に東京にいて、四月に長野県・松本に移ったのだが、その頃はまだホームページだとかブログだかというものはなく、あるいはないようなもので、遅い電話回線のパソコン通信で、通信を送ってもらった。そのうち郵便で各種通信が送られてくるようになった。その会費を払う以外、文字通り何もしなかった(その送金も忘れたりしたことがあったと思う)。
 そしてその人たちは、「ゆめ・風基金」を作った。そのホームページを見ると、「五か月後に、ふだんから非常事態に備えておこうと「ゆめ風基金」運動が発足しました」とある。「そんなに早かったんだ」、と思う。そして、実際に基金を立ち上げ、トルコ、台湾、エルサルバドル、 アフガニスタン、イラン、パキスタン、ミャンマー、中国、フィリピン、ハイチでの災害の時、援助を行なってきた。そして今度の震災で、これらの団体が素早く動き始め動いている。そして同時に、この基金による資金援助も受けつつ、東北各県の自立生活センターなどが活動している。とくに原発で事故が起こった福島県はとても難しい状況だが、その福島県の「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表をしているのは、「福島青い芝の会」の設立にも関わり、「全国青い芝」(正式名称ではない)の活動、障害基礎年金につながる所得保障に関わる運動にも関わった白石清春さんだ。『生の技法』につながる調査のなかで、共著者の安積遊歩さんの(郡山養護学校および福島青い芝の)先輩ということで、かつて(記録を見たら一九八六年)神奈川県相模原市で「くえびこ」という作業所に関わっていた時(その後、福島に戻られた)、お話をうかがったことがある。
 阪神淡路以来のこうした活動について研究者が書いたものは多くないが、ないではない。東京大学の元教員で今も「東京大学被災地支援ネット」の運営に関わっている似田貝さんとそこの大学院生が幾度か調査してそれを本にしたものがある。似田貝香門編、柳田邦男・黒田裕子・大賀重太郎・村井雅清『ボランティアが社会を変える――支え合いの実践知』(関西看護出版、二〇〇六)と似田貝香門編『自立支援の実践知――阪神・淡路大震災と共同・市民社会』(東信堂、二〇〇八)。これらの一部にだが、出てくる。おもしろいか、というと、その当時届けられた機関紙なんかと比べるとそうでもないというのが私の率直な感想なのだが、おもしろがらせるためにこういう本は書かれるのではないのだから仕方はないだろう。ただ、これらの本に、何人か存じあげている人たちが、とくに著者として、あるいは登場人物として、大賀重太郎さんがいた。
 一九八〇年代、二日市安さん(二〇〇八年に七八歳で逝去)の御自宅を会場に、「「障害者の十年」研究会」という小さな研究会がしばらくあった。石毛えい子さん、北村小夜さん、堀利和さんなどがいらしていたと思う。そこに毎回だったと思うが、大賀さんがいた。二日市さんの車椅子を押していたのも大賀さんだったかもしれない。それから一度も直接にはお会いしていないと思う。機関紙などで、ずっと東京を拠点にしていた大賀さんが神戸に戻られ、活動されていることは知っていたが、それらの本に出てきた時、単純にうれしくなって、『ボランティアが…』を『看護教育』(医学書院)でさせてもっていた連載で紹介させてもらったことがある(これも 全文をホームページで読める)。その一部を以下。

 「大賀はだいたい二〇年ぐらい前に知った人だ。一九五一年生。[…]たしか神戸大学を中退し、稼ぎの方は妻に任せ、ずっと障害者の生活や社会運動の支援をしてきた人だ。
 そんな人たちがこの運動のまわりには、もちろんそう多くはないが、すこしはいて、たいてい脇の方にいて目立たないのだが、大切な働きをしてきた。それには時代背景というものもあるにはあるだろう。「反体制」的な気分があり、そんな気分の人たちがいて、その一部が、様々な経路でここに入って、抜けられなくなって、何十年を過ごしてきたのだ。自分らの主義主張のために障害者を利用しようという人たちは障害者本人たちからも嫌われ、長くは続かなかった。残った人たちは、介助(介護)の仕事などしながら、側面から支える役をしてきた人が多い。
 そういう時代の雰囲気があったということではあるだろう。だだ、今でも企業に就職せず、という人はたくさんいる。その時代にもそういう人たちがいたのだということでもある。「普通の社会」であればどうか、といった人たちがそんなところへやってきた。(むろん、要所要所でするべきことをこなそうとしたら、それなりの才覚は求められ、ただの変な人では務まらないわけではあるのだが。)
 大賀さんは兵庫の人だが[…]全障連等で仕事。[…]地震が起こった時には東京にいたのだが、いてもたってもいられなくて、兵庫に戻ったのだという。大賀さんたちは「被災地障害者センター」(現在は「拓人(たくと)こうべ」)を設立し、その活動を長く続けてきた。彼は事務局長をし、今はその組織はNPO法人で、肩書きとしては常務理事ということになっている。
 震災後の一時期の騒ぎは収まっていき、引く人は引くが、困難は続く。それでその人たちの活動は長いものになる。一つ確実に言えるのは、そこに既につながりや方法があったということだ。てきぱきとやることをやるという場所ではない場所があって、そこが地縁とはすこし異なる、人々のつながりの拠点になる。生活を立ち上げて続けていくことを支える活動が既にあり、それがあって、よい仕事ができてきたのだと思う。」

 こんなことを書いた。こうして、これまでの「連載」につながってはいることはわかってもらえると――そんなことをここで言ってどうする、と思うが――思う。そして本誌の題になにやら似ている「ゆめ・風基金」は今てんやわんやなことになっている。本誌編集長でその基金のことで働いている河野さんのぼやきやら怒りやらがこもった、というより露出した「レポート」がEメールで送られてくる。そういうものも含めて、今、私たちは、こちらのウェブサイト「arsvi.com」(「生存学」で検索すると出てきます)に、震災関連のページ(群)を作っている。次にそのことについて。

関連ホームページの宣伝

 いま「こちら」と書いたのは、正式には「立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点」と言う。(そのプログラムをやっている学内組織として「生存学研究センター」というのもあってややこしいのだが、これ以上はどうでもよいので略。)。そこから出している雑誌『生存学』と、その拠点のメンバー(教員)でもある天田城介さん+大学のPD(説明略)の北村健太郎さん・堀田義太郎さん編の『老いを治める――老いをめぐる政策と歴史』を本誌本号で好井裕明が紹介してくださっている。まず好井さんの文章を、そしてそれらの雑誌・本を(買って)読んでいただけたら、ありがたい。
 その拠点のホームページ「arsvi.com」に震災関連のページを置いた(「生存学」で検索すると表紙が出てくる。そこに目立つようにこの項目がある)。その宣伝をまずさせてもらう。
 今度河出書房新社から『思想としての三・一一』という本が出るのだそうで、原稿を依頼されて書いた。後半はすこし「思想」に関係することを書いているのだが、最初の部分は宣伝だ。こういうことは使い回してかまわないと思うから、その部分をそのまま引用する。「考えてなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」という長い題に――採用されるかわからないが――してみた。

 〔震災関連のページを〕四月一四日に立ち上げた。ご覧いただければと思う。小さな「拠点」だから、震災関連のあらゆることを、というわけにはいかない。所謂「災害弱者」と呼ばれたりする人たちに関係する情報提供を主たる目的にしている。
 そうした人々に対応が十分でなく、ゆえにせねばならないことも言われるし、それはそのとおりだし、それに加えることはない。まずはそれはとても具体的な問題だ。電気がないとみな困るのだが、とりわけ電気で動いている人工呼吸器を使っている人は困る。固形物が摂取できないので栄養剤など言われるものを食べている(胃に入れている)人たちもそういうものの供給が困難になるととても困る。この辺の情報自体、ときに錯綜し混乱しているのだが、それでもいくらかは伝えようと思った。ただ、それはさしあたり、いっときの大きな混乱は過ぎたのかもしれず、あまり最近更新は多くない――ただもちろん、夏が来てどうなるかといった問題はある。毎日たくさんの情報がおもにEメールで届く。それをHPに貼っていく作業をしている。
 そして例えば、動けと言われても動くに動けない人がいる。誰かの手助けで動くとして、「普通」の避難所では対応できないということになり、それで死んでしまうのでなければ、死ぬよりはたしかにましなことであるとして、ぜんぜん知らない場所の施設にということになる。普通に避難所やら仮設住宅にいる人はやがて戻れるかもしれない。しかしその人たちは、比べて、さしあたり「とりあえず」ということであったとしても、もとのところに戻れるなり、あるいは住みたいところに住める可能性は(ずっと)少ない。そんな現実的な危機感がある。というより既に起こっている。それで、やがて戻るにせよ戻らず新たな場所に住むにせよ、もっとまともな住む場所がほしいと、またそれを提供しようと思う人たちがいる。そんな人たちからの要請を受けて、関連情報を提供することも始めた。それでどこまでうまくいくかわからない。厳しいと思う。阪神淡路の時と比べても難しい。あの時には同じ場所(の近く)でどうやってやっていくかということだった。しかし今回は原発の問題が絡んでいる。ただそれでも、さしあたりやれることはやっていこうと思う。
 そして、関連する報道がたくさんなされている。それをおもにネットから拾ってきて、貼って並べる。そんなこと様々なことを、その研究資金を使って、引き受けると言ってくれた大学院生にやってもらっている。[…]
 たしかに私はものを考えるのが研究者の仕事だと思っている。だが同時に、あるいは、べつに考えたりしなくてもよいから、現場で日々体力と知力を消耗し、自分たちがやっていることも含めて、集めたり知らせたりする仕事などできない、そんなことをするより別のことをする、せざるをえない、するべきである人たちがいる時、そのうしろ・裏で、その人たちのやっていること等々を拾って集めて知らせる仕事をするのも仕事だと思う。べつにそんな仕事をする人のことを「研究者」とか呼ぶ必要もないのではあるが。実際、報道の収集、それから(仮の)住処に関する情報提供の仕事は、こっちではそこまで手が回らないからと、以前から付き合いのある人・組織から依頼されて始めた。
 そしてその人たち、今、震災の翌日からその現場に入っている人たち、金をかき集めている人たちの相当部分は、一九九五年一月、阪神淡路大震災を体験し、以来、自分たちが助かるため周りの人たちを助けるために活動してきた人たちだ。その十六年があって、今のことがなされているところがある。このことも知らせたいと思う。ご存じの方もいると思うが、神戸大学附属図書館が当時の資料をたくさん集めて、ウェブでも公開している(「神戸大学附属図書館・震災文庫」)。そこまでのことは――まずは予算的に――できない。ただいくらかでもやっていこうと思う。さしあたり必要とされる情報を蓄積していくと、その時に何が起こったのか、何がなされたのか(なされなかったのか)のいくらかがわかる。何が起こったのか(がどのように知らされたのか)を集めていくと、それがなんであったか、知らされ方がどんなであったのかがわかる、それはではこれからどうしたものかを考える材料になる、かもしれない。まず私たちが考えているのは、やっているのはそういう単純なことだ。原発関連の情報も掲載している。ときどき見てもらえたらと思う。そして役に立てられる人は役に立ててほしいし、役に立つものを知っている人もっている人は、知らせてほしいし、ほしい。

 その後、「近さと深さについて」といった話に移っていくのだが、そこは、もしよろしかったら河出書房新社から本が出た時にどうぞ。ここでは、「一般読者」には書いても無駄だから書かなかったが、具体的にどんないきさつだったのか、すこし補足説明しておく。
 かつて「兵庫青い芝の会」(ということは後に「大阪青い芝の会」と対立することになる)の中心人物だった古井(旧姓・鎌谷)正代さんと、やはり兵庫青い芝に関わり、「阪神障害者解放センター」、さきに大賀さんのところで出てきた「拓人こうべ」の代表など務めてきた福永年久さんが、四月に福島に行って白石さんたちに会ってきた。どういういきさつなのかは(今のところ)聞いていない。ただ調べると、一九七七年の(全国)青い芝の会の大会で選出された会長が横塚晃一、副会長が白石、事務局長が鎌谷、となっている。その翌年横塚が亡くなり、路線を巡る対立等々が起こる。鎌谷は運動からいったん引くので個人対個人というのでないにしても、一時期白石らが中心にいた所得保障を掲げる対話路線とでもいえる全国組織の路線と、兵庫他の地方組織、会員と、ぶつかる部分、ぶつかった時期があった(すこしだけ『生の技法』に出てくる)。とはいえ、この三人は古い知り合いであり仲間でもある。一番簡単にはそういうことだったのかもしれない。
 ちなみに私が古井・福長ご両人に初めて会ったのはそう以前のことではない――後に記すように、金もないし関西にそう行けなかった。古井さんには二〇〇三年八月に会った。彼女の連れ合いの古井透さんに「リハビリ再考――「がんばり」への呪縛とそのOUTCOME」という題で研究会で話をしていただいた折、いっしょに来られて、彼女自身も話をした。(ちなみに透さんは理学療法士で、その仕事をされつつ、報告していただいた時には大学院生でもあって、脳性まひの二次障害についての研究をされていた。その報告はその副産物のようなものでもあったのだが、私はぜひ聞きたかった主題なので話していただいた。その報告がもとになって、後に『現代思想』二〇〇三年十一月号(特集「争点としての生命」)に掲載された「リハビリテーションの誤算」が書かれた。ご両人は犬など連れて米国に渡り、帰ってきてから、ある集会の後、いっしょに飲み食いしたりした。今は大学の教員をしている透さんから、米国の障害者運動がけっこう過激で行けてる話をうかがったりしておもしろかったのを覚えている。福永さんにはさきの「拠点」の主催で二〇〇八年七月に「障害者運動・自立生活・メディア――映画『こんちくしょう』のスタッフと共に考える」を企画した時、この映画の「企画総指揮」者として来てもらって、語ってもらったのが最初だ。
 そして古井さんの(最初の福島行きの)介助には、こちらで働いてもらいつつ、「(NPO)共同連」(以前は「差別とたたかう共同体全国連合(略称:共同連)」)のことを調査などしている青木千帆子さんが当たった。そこで、今書いたような話が出たのだ。
 そういう「流れ」で、まず一つ、いわゆる「福祉避難所」であるとか、例えば関西のここなら幾人受け入れられるよといった情報を提供するページを置こうということになった。それは、まずは、青木さんと、ベトナムの障害者のことを研究していて今年度こちらの大学院の三年次(普通の大学院だと後期課程)に入ってきた権藤眞由美さんが当たることになった。そして一つ、福島県内の手勢では足りないということなのだろうと思うが、そういう(さしあたり)暮らす所関係の相談やら調整やら交渉やらで、古井さんがもう一度、福島に今度は長めに行くことになった。その介助――「ゆめ・風」が交通費と日当を出してくれることになった――にも青木・権藤が当たることにはなったが、両人都合つかない日があって、古井さんはすぐにでも出発したいのだが本日(四月九日)現在行ける人をまだ見つけられていない。
 加えると、報道の集積の方については、DPI女性ネットワークのほう、臼井久実子さん、瀬山紀子さんのほうから話があった。ちょっと始めてみたが、やることありすぎてそんなことに時間使っていられないし、ということでこちらで引き取らせてもらうことになった。昨年度三年次に入学した有松玲さんが担当してくれている。

『関西障害者運動の現代史』の宣伝

 とくにこの春、その「拠点」、その母体?である「先端総合学術研究科」なる研究科の関係の本がかなりの数出た。雑誌三号分そして本を一冊好井さんが本誌に紹介してくれたことをさきに記したが、障害者に関係するものでは、定藤邦子さんの『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』 (生活書院)が出た。本誌の編集関係者にもお世話になってできた。また読者の方にもお世話になった方が幾人もいると思う。本人は、その時はなんにもわからなかったと言うが、大阪府立大学につとめ「ぴあ大阪」等にも関わっていた丈弘さんの車椅子を押したりして、彼が関わった人たちや活動のことを見聞きした。その丈弘さんが一九九七年に亡くなられた。二〇〇四年にこちらの大学院にいらした。そして二〇一〇年に博士論文を出して修了し、その論文をもとにこの本ができた。
 指導教員の一人ということもあって、私はその本のあたまのところに、「関西・大阪を讃える――そして刊行を祝す」という文章を書かせていただいた。その冒頭を引用しておく。その冒頭に続く部分で紹介しているように、ここのところ何冊か関西の障害者運動に関わる本が出ていて、それはよいことなのだが、それでもまだ書かれてよいことがたくさん残されていた。今度の定藤さんの本で残り全部がカバーできたということではないけれども、書いて残されておかれるべきことが多く書かれている。後に記す理由もあるから、ぜひ買って読んでくださいませ。

 すこし「青い芝の会」のことを知っている人は、第1章は飛ばして、後で読んでください。第2章から本格的に関西の話、おもに大阪の話が始まる。関西はおもしろい。こういうことに関わってきた人なら皆知っている。しょぼい、けどすごい、すごいけどしょぼい、つらいけどおもしろい、おもしろい、けどつらい、そんなことがいろいろと起こった。「ここはぜひとも詳しく、できるだけ詳しく」と著者の定藤さんにお願いしたきたのでもあるが、例えば、『さようならCP』の上映運動や『カニは横に歩く』の製作活動(第2章第5節、一〇〇頁)、そして和歌山身体障害者福祉センター糾弾闘争(第3章4節1の(2)、一五四頁)、川崎バス闘争(第3章4節4の1の(4)、一七一頁)、そし大阪青い芝の会(他)に関わることになった人たちのそれまでの暮らしのことその後のことが詳しく記されている。
 そうしたことがあったことをいくらかの人は知ってはいる。しかし、私も含めて、詳しくは知らない。関わった人にはもういない人もいるし、忘れていることもある。その時に何が具体的に勝ち取られたのかと言えば、それほどの「獲得物」はなかったと言えるのかもしれない。しかし、とにかくなされたことがあった。それを行なった人たちがいた。私たちはそれらに対する、その人たちに対する敬意を感じ、その敬意を持ち続け、それを伝え続けるためにも、それらを記録し、読み、知らねばならないと思う。また、私は追悼するという行ないがどんな行ないであるのかわかっていないのだが、亡くなった後も人や人の行ないは記憶され讃えられるべきであると思う。この本は、そのための本でもある。
 関西はおもしろい。そのことはわかっていた。けれど、私たちが大学院生などしていてやがて『生の技法』(一九九〇年、増補改訂版一九九五、藤原書店)にまとめられた調査をしていたころは、お金もなかったし、関西に行くこともできなかった。一度、安積遊歩(純子)さんとともに京都・大阪に一度だけ訪れた記憶はある。京都で日本自立生活センターの長橋栄一さんにお会いし、今福義明さんにお会いした。そして大阪で「自立平和」というすごい名前の飲み屋でりぼん社に関係されてきた方々にお会いした、のだったかもしれない。そしてそれと別に、中西正司さんらの「ヒューマンケア協会」(東京都八王子市)の立ち上げの前、土肥隆一さんらがやっておられた「神戸ライフケアー協会」の見学にもごいっしょさせてもらったことがあるように思う。そして、その本がそろそろできるという頃、故・高橋修さんとともに福島に行って、そこにある療護施設を訪ね、その夜、本のことを話し合ったことがあった。すべて記憶が定かでない→記録って大切だと思う。あとはずっと東京近辺で調べることしかできなかった。
 そんなわけで、関西のことはほぼ書かれたもので知ることしかできなかった。『そよ風のように街に出よう』(りぼん社)は全国の人たちが登場し、全国の人たちに読まれてきた雑誌だが、この雑誌を刊行してきたのは、この本にも何度も登場する――そして今のように出版元として知られるようになるのは後のことなのだが――大阪のりぼん社である。バックナンバーをまとめて購入させてもらった。そして「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」はもちろん全国組織だが、関西の人たちの果たしてきた役割が大きかった(この組織の活動にはついては同志社大学院生の廣野俊輔さんが私たちのHPに情報を載せてくれている。)その機関紙やら、幾つかの機関紙を読んできたぐらいのものだ。そして普通学校・普通学級への修学運動に関わる本が何冊かあった。楠敏雄さん(いまこちらの大学院生の岸田典子さんが聞き取りを続けている→そのうち発表されるだろうと思う)や河野秀忠さん牧口一二さん、入部香代子さん等の本はあって読ませてもらっていたが、それでも結局、私たちの本は東、というか東京近辺の方に偏っている。関西のことを誰かが書いてほしいとずっと思ってきた。
 そしたら定藤さんがやってきた。[以下略]

本購入→寄付についてのお知らせ・お願い

 そして広告・お願い。頼みこんで出してもらった『生の技法』以来、私は、本を出版社から買って――著者割引きという慣習があって、たいがい二割引きで買える――、その値段で、講演などの際に売る、ホームページに案内を出して郵送するということをしてきた。で、思ったほどには売れず、まあずっとさきにはなくなるにもしても、まだまだだなあという本が幾種類もあった。それはなかなか売れないものものだなあという現実を目の当たりにすることでもあるから、なにか目障りでもあった。で、売れた分について、売れた全額を寄付すると言ったらいくらかはけるかなとも思って、そうすることにした。結果は、今のところ、それほどでもない――自分のお金で買い取って学生に配るのだと言って同じ本を三〇数冊買ってくださった太っ腹な人もいらしたのではあるが。自分のだけではたいした金にならないとも思って、メーリングリストなどで声をかけてみたら、いろんな人が賛同してくれた。本人が決めた数だけ送ってもらう、あるいは直接持ち込んでもらう。面倒なので原則返品はしない(ことにしようかなと今のところ思っている)。ホームページにそのリストがあるので、ご覧ください。そして注文してください。
 いま紹介した定藤さんの本もその一冊。これはいま一番売れている。だから定藤さんは高額寄付者ということになる。あと、こちらの関係の院生・修了者が出したものについても、寄付する分(冊数)と売上げを受け取る分の按分は自分で決めてもらって、何冊か分の売上げを寄付に回させてもらうということをしている。今年になって出たものでは、櫻井悟史『死刑執行人の歴史』といった本や安部彰『連帯の挨拶――ローティと希望の思想』といった本もある。このかんずっといくらかずつ売れ続けてきた田島明『障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ』(二〇〇九)、川口有美子『逝かない身体――ALS的日常を生きる』(二〇一〇)もある。
 こちらの大学院・「拠点」関係者とは別にも申し込みがあった。まず、長瀬修さんが自らが訳された『国際的障害者運動の誕生――障害者インターナショナル・DPI』(エンパワメント研究所、発売:筒井書房、原著一九八八、訳書二〇〇〇)を送ってくださった。この本は、なにか格別に学識とかそういうものがあるとは思えない人が、DPI(障害者インターナショナル)の事務局でバイトしてた――たしかそうだったと思う――から書けた修士論文がもとになった本だ。なんか研究というと難しいことをせねばならないと思ってしまっている院生に対して、書いてあることさえおもしろければ――それは多くの場合に書こうとするその対象がおもしろければ、ということだ――本になるし、別の言語にだって訳されるのだという例として、授業などでも幾度かあげてきた本だが、まあたしかに地味といえば地味でそう数売れるというものではないかもしれない。しかし、これは、私もごく短い書評を書いたことがあるが、読んでおいてよい本だ。
 また、田中恵美子『障害者の「自立生活」と生活の資源――多様で個別なその世界』(生活書院、二〇〇九)。この本も定藤さんの本と同様、博士論文(日本女子大学)がもとになっている。もう通ったのだから言ってかまわないと思うが、私はこの論文の外部審査員だった――このごろは、当の大学の外から一人ぐらいは審査員を呼ぶということをよくする(私たちもしている)。その口頭試問という場では、じつは具体的にはほぼなにも覚えてないのが、そう甘いことは言わなかったと思う。それにしてもだ、今回記してきたような、最初から目立つ人たち、こちらに技もなにもなくても、話を聞いてそれを文章にしたらそれで十分おもしろい、というのではない、しかし一人ひとりそれぞれの生活をしているというその生活を、時間をかけて丁寧に書いた本は、これまでなかった。その上で、私が大学院の担当だったら、構成などさらに工夫する余地はないかと、いくらかは頭をひねってみたと思う。実際、審査の時、その後もすこしひねっては見た。ただこれという代案は出てこなかったということは、これでよかったということなのかもしれない。堅実な、ということはやはり地味な本ではあるから、なかなかこれも数売れるということにはなってこなかったのだろうと思う。しかし、研究者だけでなく暮らしを支援する立場にいる人たちなど買っといてよい本だと思う。
 そうして、今のところまだまだなのだが、ある程度たまってから(たぶん「DPI日本会議」経由で)「ゆめ・風」にと思っている。御協力のほどよろしくお願いします。


◇立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」『そよ風のように街に出よう』75:32-36,
◇立岩 真也 2008/08/05 「もらったものについて・2」『そよ風のように街に出よう』76:34-39
◇立岩 真也 2009/04/25 「もらったものについて・3」『そよ風のように街に出よう』77:,
◇立岩 真也 2010/02/20 「もらったものについて・4」『そよ風のように街に出よう』78:38-44,
◇立岩 真也 2010/**/** 「もらったものについて・5」『そよ風のように街に出よう』79:
◇立岩 真也 2011/01/25 「もらったものについて・6」『そよ風のように街に出よう』80:-
◇立岩 真也 2011/07/25 「もらったものについて・7」『そよ風のように街に出よう』81:38-44
◇立岩 真也 2012/07/** 「もらったものについて・9」『そよ風のように街に出よう』83

◇似田貝 香門 編/柳田 邦男・黒田 裕子・大賀 重太郎・村井 雅清 20060331 『ボランティアが社会を変える――支え合いの実践知』,関西看護出版,202p. ISBN-10: 9784906438785 ISBN-13: 978-4906438785 1680 [amazon][kinokuniya] ※ d10.

◆言及・紹介

◆2011/05/09 http://d.hatena.ne.jp/ari292929/20110509


UP:20110509 REV:20110604, 20120610
『そよ風のように街に出よう』  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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