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もらったものについて・6

立岩 真也 2011//
『そよ風のように街に出よう』79:38-44


  *『そよ風のように街に出よう』はとてもおもしろい雑誌なので、ぜひ買ってくださいませ。

「左翼」の間の対立のこと

 昔話をしているのだが、わりと個人的なことを書き始めて、そうしたら、それだけではやはりいけない、というかわからないだろうなと思って、「時代」とか「状況」とかに中途半端に触れることになり、完全に筋立てがごちゃごちゃにというか、なくなってしまっていて、すみません。そのうちまとめなおして、本の一部にするなりしますので、かんべんしてください。
 日本共産党やその系列の組織・人――それに冷たい人たちは「日共」という言葉を使ったり、その政党の本部がある場所をとって「代々木(系)」等と呼ばれてもきたが、以下「α」とする――と、その主張と別のことを言った人たち、反対した人たち――「反代々木(系)」ということにもなるが、以下「β」とする――がいたことに、何回かふれてきた。その話をすこししておこうと思う。
 α・対・β全般については長々とした歴史があるのだが、私はそう知っているわけでもない。そしてその方面についてはマニアな人たちがけっこういて、たくさん出版されたものもあるから、障害者の運動に関係するところで、まず名前だけ挙げておく。
 一方のαの方では、まず「全国障害者問題研究会(全障研)」(一九六八〜、そのHPによれば会員数は五千名)がある。こちらが研究会を称しているのに対し、運動団体であることを明示し実際そうした活動をしている団体として「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)」(一九六七〜)がある。そして各地にありその数を増やしてきた作業所のかなりを会員組織とする「共同作業所全国連絡会(共作連)」(一九七七〜、現在の名称は「きょうされん」)がある。「共作連」などについては、とくに加盟している個々の作業所やそこにいる人たちはその「党派性」を意識していない、というか知らないということもあるだろう。それを切り盛りしている人たちも否定するのかもしれない。それはそれでもかまわないが、人的にその他、つながりがあってきたのは事実ではある。例えば『障害者の人権二〇の課題』(障全協・共作連・全障研編、一九九二)といった本が全国障害者問題研究会出版部(全障研出版部)から出版されるなどしている。
 他方、β、そうした組織の方針と別の流れの主張をすることになった組織として、脳性まひ者の組織である「青い芝の会」(一九五七年結成だが、前段に記した団体と対立する主張を展開するのは一九七〇年以降)が知られている。この組織は、その構成員の多くの出自もあって――大学など出ている人はきわめてわずかだった――学生運動との直接のつながりはなかったし、また一九七〇年代以降においても、基本的に新左翼系も含め政治組織の介入に対しては警戒的だったが、運動を展開する過程で、共産党やそれに近い組織との差異・対立が明らかになっていった。他方、当初から共産党系の――とみなした――人たちとの対立をはっきりさせていたのは、いくつかの(一時期の)学会(の運営を左右していた部分――後述する)であり、また「全障研」との対決姿勢を明示して登場したのはe「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」(一九七六〜)だった。この団体はとくに「障害児教育」の方向を巡り、「養護学校義務化」(一九七九年実施)を巡って、それを基本的に支持した「全障研」を批判することに精を出した。また「障害児を普通学校へ全国連絡会」(一九八一〜)も義務化反対の運動を継承した。そして、「共作連」と比べればはるかに小さな組織ではあるが、それと違う労働の場のあり方を求めて「差別とたたかう共同体全国連合(共同連)」(現在は「(NPO)共同連」)が一九八四年に結成される。そして本誌『そよ風のように街に出よう』(一九七九年発刊)も、そして『季刊福祉労働』(現代書館、一九七八年発刊)も、そういう流れの中にある。

なぜそんなことを今さら言うか

 本誌にしても、当初からの作り方として、そんな争いを前面に出すことは――そのことの意義はそれとして認めてきたと思うけれど――なかったと思う。そこで、対立のことは知った上でこの雑誌の「乗り」を支持する人もいるのだが(私もその一人だ)、そんな人は少なくなっているのかもしれず、知らない、あるいはちょっと聞いたことがあるという人の方が多いのかもしれない。そしてここで紹介した組織が多数派の組織であるというわけではまったくない。会員等の規模からいえば、前政権の時にはその政権を支持する組織でもあった「日本身体障害者団体連合会(日身連)」がある。また知的障害者の家族(親)の組織として「全日本手をつなぐ育成会」(一九五二年に「精神薄弱児育成会(手をつなぐ親の会)」として発足、以後名称を幾度か)があり、精神障害者の家族の組織として一九六五年に結成され、二〇〇七年に破産・解散した「全国精神障害者家族会連合会(全家連)」があった。そんなものも含め、過去から現在、いろいろなことがあったわけで、その全部を追っかけて書いていたら、時間がどれだけあっても足りないし、紙もたくさんいる。そして現在、運動体の陣容もいくらか変わってきている。なぜわざわざ、と思うかもしれないし、私自身もそう感じるところはある。そして、ともかくαの人たちが真面目な人たちであることは、不真面目な私がよく感じることであって、様々に尊敬できる部分があるとも思っている。「民医連」というその系列の病院の「倫理委員」というものを務めてさせていただいたこともあり、その時にもそのことは感じた。両方の意見が一致するところも多々あると思うし、いっしょにやれる部分はやって行ったらよいと思う。そういう意味でも、ことさらに差異や対立を強調したいとは思わない。
 けれども、それでも、いちおう押さえておいた方がよいと思う。それなりに注目すべきところがあると考えるからだ。
 αとβとが対立したのだが、その両方が「左派」であった。ここがまずここでのポイントである。政治的な対立は、普通には、というか伝統的には、「右」と「左」の対立ということになるはずなのだが、ここではそういう構図になっていない。もちろん、アメリカ合衆国のように左翼(政党)自体がつぶされてしまったような国は別として、「左翼」における対立は日本に限って起こってきたことではない。「既存」の左翼(政党)に対して、「新左翼」とか「極左」と呼ばれるような動きはいろいろな国に存在してきた。それらにはそれぞれの国の事情があり特色があったと思うのだが、ただ、障害者に関わる運動にこの対立の構図が関わったのは――各国の事情をよく知らないままで言うのだが――日本に特徴的なことではないかと思う。
 仮にそうだとして、それでもたんに珍しいということであれば、それはそれだけのことだ。私はそうでもないのではないかと考えている。というのは、厳しい対立が起こると、片方は片方と違うことを言うことになる。そして片方が、改革的であるなら、もう片方は「もっと」ということになる。よってそれは「あぶない」「あやうい」話をしてしまうかもしれない。しかしだからおもしろいかもしれない。実際そのように捉えることができるように思えるところがある。
 一九七〇年代(以降)にあった実際の大きな「争点」は、幾度か触れてきたように、養護学校の義務化を巡る賛否だった――αの人たちは賛成し、βの人たちは反対した――から、βの人たちが相手にしたのは、「障害者問題」の全般に関わりながらも、「療育」「教育」に関わる研究者や教員や施設の職員や親たちが多くいて――加えて「本人」たちもたくさん参加していることも強調された――「発達保障」を掲げる「全国障害者問題研究会(全障研)」であり、その運動・主張を担う人たち、代表的な人物としては田中昌人(一九三二〜二〇〇五、京都大学名誉教授)や清水寛(一九三六〜、埼玉大学名誉教授)といった人たちだった。そしてこの人たちの著書等を、βの側の人たち、後述の「学会改革」の一翼を担った日本臨床心理学会にも所属してその改革に関わった(そして後にそこから別れて社会臨床学会を立ち上げた人たちの一人でもある)篠原睦治(一九三八〜)や、小児科医(東大病院→靜岡大学)の石川憲彦(一九四六〜)が取り上げ検討し批判するといったことがなされた。
 それでまず私(たち)が勉強させてもらったのはその人たちが書いたものだった。本では、例えば篠原の『「障害児の教育権」思想批判――関係の創造か、発達の保障か』(一九八六、現代書館)や石川憲彦の『治療という幻想――障害の治療からみえること』(一九八八、現代書館)がある。後者の本は一九八二年から八七年まで『季刊福祉労働』に連載された「「障害」と治療」がもとになっている。それより前には山下恒男の『反発達論』(一九七七、現代書館)といった本が出されている。他に日本臨床心理学会編の本が何冊か、等。それらに書かれてあったことは、当時それらを読んだ私たちのかなり「根」の部分に影響していると思う。それらを、そしてその時には私は読まなかったαの側の議論――不勉強で、というか、あまり勉強する気になれず、βの側の人たちによるαの側の主張の紹介を読んだだけだった――を振り返るとよいのかもしれない。ただ、今私がすこし過去のものを読んでみたりしているのは、その隣にはあったが、すこし違う部分もある流れだ。それは障害者運動における対立の少し前に始まっている。以下そちらの方について。

リハビリテーション・精神医療

 青土社という出版社から出ている『現代思想』という月刊誌に、ずっと連載をさせてもらっていて、しばらくここに書くことに関係することを書いている。その十一月号と、今朝(十一月十五日)原稿を送った十二月号の掲載分(第六〇回・第六一回)が、「社会派の行き先」の1・2ということになっていて、まだ終わっていない。さらに、その前の3月分は「社会モデル」という題で、序・1・2となっている。何が気になってながながと書いているのか。
 「身体をなおす」のではなく「社会を変える」という主張がある。障害者運動のある部分はそういうことを言ってきたように思う。またその流れを汲む「障害学」で言われる(「個人モデル」や「医療モデル」に対比される)「社会モデル」もそんなことを言っているように思う。ただ、それらにしても実際にはそうはっきりそう言っている(言えている)わけではなく、それを言い通せるだろうかという気がする。それに対して、個人も社会も、医療も社会も、どちらも大切だと言う人がいる。そして常識的に考えるとそちらの方に分がある感じがする。
 そして、「どちらも」と言った人たちの中に、その連載でわりあい長々と取り上げている人としては上田敏(一九三二〜、東京大学附属病院リハビリテーション部の立ち上げに関わる、一九五九年に東京大学医学部教授)という人がいる。日本のリハビリテーション(医学)の世界では最も知られている人だと思う。またすこしだけその文章を引用した人として精神科医の臺弘(台弘・うてなひろし、一九一三〜)という人がいる。またその前に臺の前任者ということになる秋元波留夫(一九〇六〜二〇〇七)という人がいる。これらの人々は共著書を幾つも出すなど、互いに付き合いがあった。そしてその人たちは党派色をあまり前面に押し出してきた人たちではないのだが、これから記すα系――と言うと乱暴だと言う人もいるのだろうが――の組織、「共作連」等の活動に協力したりもしている。
 そして――障害者運動におけるということではないのだが――αとβの争いが一つの軸としてあった、一九六〇年代の末以降の「大学闘争」(あるいは「大学紛争」)の発端(の一つ)は東京大学の医学部での出来事で、これらの人々は直接・間接に、そのこと、それらの後のことに関係している(させられている)。この時秋元は既に大学を辞めている(一九五八〜一九六六・東京大学医学部教授)のだが、その後任の臺(一九六六〜東京大学医学部教授)は、闘争・紛争を始めて続けたβ側からの批判にされされることになった。一九六八年には主任教授不信任を告げられる。一九七一年三月には、二〇年前のロボトミー手術が人体実験だったと告発される。そしてそうしたことはその大学の中のことでもあったが、それだけでもなかった。日本精神神経学会の「学会改革」で、それまで中心にいた人達が、例えば――多くの人にその名が知られたのは岩波新書の『痴呆を生きるということ』(二〇〇三)といった著作によってだが、この頃には『反精神医学への道標』(一九七四、めるくまーる社)といった本を書いていて、その後には『自閉症とは何か』(一九八四、悠久書房、二〇〇七年に洋泉社から再刊)といった大著がある――小澤勲(一九三八〜二〇〇八)といった人たち、組織としては「青年医師連合(青医連)」によって――糾弾され、学会の要職を追われることにもなる。
 ちなみに、この時に東大医学部にいて、その騒動に(βの側で)加わった人としては、小児科医で、後に「障害児を普通学校へ全国連絡会」(一九八一〜)の活動などに関わる山田真(一九四一〜)がいる。その時期(以降)のことは『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』(二〇〇五、ジャパンマシニスト社)に書かれている。加えて、私が山田(とアフリカ日本協議会の稲場雅紀)に聞いたインタビューにたいへん長い註をつけた『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(二〇〇八、生活書院)があって、おもしろい(わりに売れてないので、買っていただければと)。またその同級生(だといったことはずいぶん後で知ったが)、脳死・臓器移植の問題などで発言を続けている本田勝紀(一九四〇〜)等がいる。山田は町医者になり、本田(彼の専門は腎臓病〜人工透析)は大学病院に残る。精神科の方の「東大青医連」(一九六八〜)の人たちは、「赤レンガ病棟」と呼ばれていたところを「占拠」し「自主管理」を、おおいなる非難を受けつつ――サンケイ新聞が批判キャンペーンを張ったり、国会で取り上げられたりした――続けていくことになる。そしてもちろん、βから糾弾された人たちも健在であり続け、しばらくそこは二派に分かれるといった状況が続いていくことになる。
 私が大学生をやっていた頃(一九八〇年代の初め)にも、まだその臺は悪いことをした人として、β側の人たち――全学的には少数派だったが、私がいたそのころの文学部の自治会(学友会と言った)はそっち系だった――の話に出てきたり、立て看板に名前が登場していて、それで名前を知ってはいた。ただ書いたものを読んだ記憶はない。その批判に対する臺自身の反論が書かれている自伝『誰が風を見たか――ある精神科医の生涯』(一九九三、星和書店)を手にとったのは昨年になってからのことだ。
 その「赤レンガ」には印刷機もあったので、ビラの印刷などで使わせてもらった記憶もある。古くて暗いかんじの建物だった。精神医療批判とか言っているわりに普通の病院じゃないかという指摘もあって、少なくともいくらかはそのとおりと認めざるをえないところもあったと思う。占拠した側の人が書いたものとしては富田三樹生『東大病院精神科病棟の三〇年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』(二〇〇〇、青弓社)がある。先に記したもの以外に秋山や臺が、他方を批判している本もあるのだが、紹介していったらきりがない。当方のHP(「生存学」→例えば「精神医学医療批判/反精神医学」あるいは人名)を見ていたただくと幾つか出てくる。そしてなんだかかわいいというか、不思議にも思われるのは、『東京大学精神医学教室一二〇年』(「東京大学精神医学教室一二〇年」編集委員会編、二〇〇七、新興医学出版社)といった本には、双方の人たちが、仲良く、ということでもないのだろうが、文章を寄せていたりすることである。

折衷の方がもっともではないか、と思われるのだが

 さて、こうして話は、始めると流れ流れてしまうのではある。ただ、ここに先に述べた問題、つまり「なおすことってどう?」という問いがあることは見ておこう。実際には、医師の労働条件のことであるとか、そうしたことが大きく取り上げられていた。むしろαの側の人たちが、βの側の人たちは医療そのものを否定していてとんでもないといったことを言うのだが、実際には、そんな勇ましいことあるいは野蛮なことをβの側の人たちは言っていないし言えていない。ただ、精神神経学会が「保安処分」に明確に反対する姿勢を示したのは一九七一年になってからであることは記しておいてよいことのように思う。つまり、それを「治療」と言うか「処分」と言うかは別として、人に対する「介入」が誰のために、何のためになされるのかということがここで問題にされているということではあった。
 そしてこの時期の大学闘争(紛争)、学会改革といった動きにも呼応して、精神障害者自身の組織として――以前からあった(そして破産・解散ということで、なくなってしまった)家族会の連合体としての「全国精神障害者家族会連合会(全家連)」といった組織よりはるかに小さな組織ではあるが――「全国「精神病」者集団」(一九七四〜)等が活動を始めていく。それは本人たちの組織なのだから、医師の身分保障といったことは第一義的な問題にはなりえない。保安処分反対闘争、赤堀闘争――幼女殺害の犯人として赤堀政夫が一九五四年に逮捕され一九六〇年に死刑が確定した島田事件について、無実を訴え続けた赤堀を支援した運動(一九八九年に無罪確定)――等を展開するともに、自分たちの「病気」のことをどう考えたらよいのかを考え、ときに精神神経学会や、あるいは同様に「改革」をこの時期に始めた日本臨床心理学会の大会等に参加し――ものを言っていくことになる。その「「病」者集団」の会員であった吉田おさみ(一九三一〜一九八四)が言ったこと書いたことはとても大切なことだと私は思って、以前幾度かそのことに触れたことがある。
 こうした流れの中で、先に列挙した秋元・臺・上田といった人たちの流れが批判されたりした。そしてここで繰り返すが、見ておかねばならないのは、その人たち自身が「改革派」であり「社会派」であったということだ。
 具体的にどのようなことを言っているのかについては、その『現代思想』での連載と、やはり当方のホームページにある人や本についてのページを見ていただくのがよいのだが、その人たちは、かなり早くから、「地域」とか「QOL(生活の質)」とか「自己決定」とかそういうものが大切であると言っている。そして秋元や上田は、日本ではかなり早くから「自立生活運動」のことを――ただしアメリカで起こったとし、日本で起こったことはその流れを受けたものであるとし、それ以前に日本にあったことについてはまったく触れないか、あるいは「過激な」「暴力的な」運動として除外してしまうのではあり、それは違うだろうと思って私たちは『生の技法』(安積純子他、一九九〇、増補改訂版一九九五、藤原書店)を書いたのではあるが――肯定的に、紹介している。また上田はDPI(障害者インターナショナル)がRI(リハビリテーション・インターナショナル)のリハビリテーションの定義に対抗して示したリハビリテーションの定義を、やはり肯定的に、紹介してもいる。
 そしてその上で、(狭義の)リハビリテーション・医療と社会的な対応のいずれもが必要であると、双方が協力し協調しあっていくことが必要であると言う。現状の様々に対して批判的であり、「社会」が大切であることを認め、強調し、その上で、自らの営みもまた大切であると、「折衷」を言う。以下は――『現代思想』連載でも同じ場所を引用したのだが――「人体実験」を糾弾された臺の著書『精神医学の思想――医療の方法を求めて』(一九七二、筑摩書房)の「あとがき」の冒頭。

 「この本は東大紛争の経過を通じて、特にまた長期間にわたって続けられている精神科医内部の意見の対立の背景のもとに書かれた。精神医療における個人と社会、精神の健康と病気、治療や研究における精神主義と生物主義などの諸問題が、どれも造反は結びついて激しく揺れ動いた。私はこの本を読者のために書きながら、同時にたえず自分自身のために書いている思いがした。
 本書の内容からおわかりのように、私は揺れ動く対立的意見の中ではっきりと折衷主義的な立場をとる。私のいう折衷とは、どちらも結構ですというようなあいまいな態度ではない。対立的意見を越えて、精神医学はまず科学でなければならないことを主張しながら、それが患者のために生かされることを求めるのである。精神医学と医療は一筋縄では取り組めぬ相手である。いや、一筋縄であってはならないのだ。私は、精神主義をふりかざす相手には生物主義を、個人至上主義を主張する相手には社会を説き、生物主義をふりかざす相手には精神主義を、社会優先を説く相手には個人の尊重を主張せずにいられない。また、精神医学と精神医療のかかえている問題は、精神科医がひとりで引受けることなど出来るものではない。医療・保健・福祉の当事者はもちろん、社会全体で取組まなければ到底解決出来ないことである。」(二六三頁)

 すこし考えながら読むと、「精神主義」対「生物主義」といった幾つかの対の各項目の対置・対置のされ方が妙なのではある。けれども、言いたいその感じは伝わってはくる。二つがあるとして、どちらも大切だと言うのである。そして、そこで念頭に置かれているのは、その一つを否定し切り捨てようとする――そうして自分たちを攻撃してくる――「極端な」思想・主張である。
 それらを読むと、この人たちが言っていることはもっともであるようにも思われる。すると、αとβの対立は、常識的で穏当だが、であるがゆえにもっともなことを言った側がいて(α)、それでもそれを否定しようとしたがゆえに二つあるうちの片方の方に突っ走って行ってしまった側(β)との対立のようにも見えてくる。
 さてそういう理解でよいのかである。言えると思っている結論から言うと、私は、そうは思っていない。βの側はもっとまともなことを言ったと思っている。それをどのように言ったらよいか。それを考えて言うことが、私がその人たちからもらったものを引き継いでいくことなのだと考えている。α(の少なくともある部分)が言ったことはもっともだといったん言った上で、しかし、と今度は言い返す。それを『現代思想』では二〇一〇年十二月号の「社会派の行き先・2」の途中から始めたつもりだ。またそのことを言うための基本的な道具立てを同誌同年九月号・十月号の「「社会モデル」・1〜2」で示したつもりだ。興味があったら見ていただけばと思う。またこのすっかりぐちゃぐちゃになっているこの「連載」で、短くまとめたり、言葉を補ったりできるのであれば、したいと思う。

◇立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」『そよ風のように街に出よう』75:32-36,
◇立岩 真也 2008/08/05 「もらったものについて・2」『そよ風のように街に出よう』76:34-39
◇立岩 真也 2009/04/25 「もらったものについて・3」『そよ風のように街に出よう』77:,
◇立岩 真也 2010/02/20 「もらったものについて・4」『そよ風のように街に出よう』78:38-44,
◇立岩 真也 2010/**/** 「もらったものについて・5」『そよ風のように街に出よう』79:

◇石川 憲彦 19880225 『治療という幻想――障害の治療からみえること』,現代書館,269p. ISBN-10: 4768433618 ISBN-13: 978-4768433614 2060 [amazon] ※ ms. e19.
◇「東京大学精神医学教室120年」編集委員会 編 20070331 『東京大学精神医学教室120年』,新興医学出版社,286p. ISBN-10: 4880026611 ISBN-13: 978-4880026619 6825 [amazon][kinokuniya] ※ m.
◇横塚 晃一 19750225 『母よ!殺すな』,すずさわ書店 d→


UP:201011 REV:20101201
『そよ風のように街に出よう』  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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