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社会サービス/所得保障/労働
日本の概要を紹介しつつあるべき方向を述べる
立岩 真也
2010/11/27
於:韓国障碍人差別撤廃連帯,ソウル市 15:20〜17:20 韓国障害者差別撤廃連帯,於:韓国
[Korean]
この講演は
生存学創成拠点2011秋期際企画
の一環として実施されたものでもあります。
はじめまして、みなさん。日本からまいりました立岩と申します。専門は社会学、歳は1960年生まれという、そういう者です。通訳は逐語訳ということで、よろしくお願いいたします。
今日はどんなテーマでという細かい指図をいただいておりませんので、すこし考えまして、障害者運動そのものというよりは、運動が勝ち取ってきたという部分もある政策についてお話しようと思って来ました。そして制度設計というか、こういうふうに制度を持ってった方がいいんじゃないかというような話をさせていただこうかと思っております。ただ、時間も限られていますので、できれば早めに話は終えて、運動のことでも、政策のことでも、わかる範囲でお答えしますので、ご質問いただければと思います。
では始めさせていただきます。今日は、三つに分けてお話をと思います。一つは社会サービス、介助・介護といったものを含む社会サービスの話です。もう一つは、所得保障の話です。これはごく短くいたします。三つ目が、仕事、働くこと、労働の話です。
■
社会サービス
◆24時間が部分的に可能になっている
まず、社会サービスについて、とくに介助・介護という部分を念頭において、一つ目の話をいたします。
まず日本の現状ですけれども、1990年代に、最も障害が重く、最もたくさん介助の時間を必要とする人についてですけれども、1日24時間の公的なサービスが実現するというところまで、運動は持ってきています。ただ、これは全国どこでもそうなっているわけではないということは後でまた補足します★。
制度としては日本では大雑把に言って、主に高齢者を対象とする介護制度、公的介護保険というのと、それ以外の障害者を対象とする、現在のところ障害者自立支援法という法律に規定されている介護サービスの2種類があります。
介護保険は、基本的には全国一律の制度なんですが、ただこれは、最重度と判定されても――判定によって6段階に分けられます――在宅介護なら一日2、3時間使うのが関の山というか、せいぜいなんですね。
ですので、介護保険の制度が始まったのが2000年ですけれども、そのときに障害者団体は、障害者がその制度に組み込まれることに反対しました。そして組み込まれることは今のところは今のところなっていません。
ということですので、介護保険以外の制度を使う障害者――一部には介護保険と両方を使う人もいます――は、法律的には障害者自立支援法に規定されているサービスを使っています。これが最大限24時間を可能にはしているということです。
◆資源の有限性という論難に応える
さて、こういうふうに社会サービスを充実させようとすると、すぐ政府はお金がないとを言います。ただまず、どういうふうに試算してみても、お金の総額っていうものは、GNPやあるいは国家予算の総額に比べれば、取るに足らないというか、そうたいしたものにならないことは明らかです。
そして、私たちは足りないっていうとすぐお金っていうイメージで考えるんですけれども、お金というのは交換のための目安みたいなものですから、では本当は何が足りない可能性があるかっていえば、2つしかないわけです。人・人の活動と、人以外のものと、この2種類しか世の中には存在しないですね。
天然の資源とかそういうものは、確かにそのうちだんだん少なくなるかもしれません。ただ、ソーシャルサービスっていうのは、基本的には人の仕事、労働ですよね。これが足りないってことがありうるかということです。
世界中どこを見てもですね、人は余ってるわけです。日本の、公式の統計では、失業率は、5パーセントとか6パーセントぐらい。韓国については存じ上げませんけれども、そんなものです。ただこれは、職を求めているという登録をして、しかし職が得られないっていう、極めて限定された厳しい条件で計算するとそれだけの数字になるというだけのことです。職業安定所まではいかないけれども、働けるし、働いてもいいと思っている人の数は、それの何倍にもなるはずです。
何が言いたいかというと、つまり、人は十分にたくさんいる。働くための人はいる。だから足りないという話が基本的には間違っている。重度の障害者が24時間の介護を毎日必要するとしても、それに対応するだけのものが社会の中にはあるという、当たり前と言えば当たり前のことですけど、これが第一点です。それを、公的な、つまり税金、政府のお金を使ったかたちでそれを行なわせることを日本の障害者運動は一貫して主張してきましたし、韓国でもそれは同様だと思います。
◆広い範囲で、多くをもつ人から多くを徴収する仕組みがよい
次に二つ目のポイントです。地方分権っていう言葉は、けっこう日本でも流行りで、わりあい肯定的に使われることが多いんですけれども、少なくとも、こういうサービスにかんして言えば、地方が別々に裁量権があって、予算の出し方を決めるっていうやり方はまずいということなんです。
これも簡単なことで、地方ごとに任せられると、要するに、地方ごとに地域間の格差がものすごく大きくなる可能性があります。そしてそれが日本の現状なのです。
それで、その水準の少ないところでは、その地域地域の団体とか個人が一生懸命行政と交渉しなきゃいけないんですけど、これは非常に大変なことで、なおかつそれで目標とする十分な水準が実現されるとは限らないわけです。地域によって人口の構成も違いまし、産業も違い、その結果、需要も違うし、予算の余裕の度合いも違うという事情もあります。ただ予算的には国が半分、都道府県が4分の1を支出しますので、市町村の負担は4分1です。ですから、予算の制約というよりは、各自治体の裁量によって、もっと言えば恣意によって格差が生じているのです。私は今、日本の京都市に住んでますけれども、私自身も2年ぐらい前に、京都市の交渉にちょっと脇に付いて行ったことがあって、そのときはたまたまうまくいったんで時間が増えたんですけども、そうなるとは限らないわけです。
ですから、二つ目のポイントは、基本的にこの種のサービスは全国的なものとして存在する方が望ましい。それを目標にして闘うのがよいという、これもみなさんお分かりのことだとは思いますけれども、二つ目に確認したいと思います。
次に三つ目のポイント、どのような費用の徴収の仕組みを取るべきかについてです。
日本の公的介護保険がまさにそうなんですけれども、社会サービスの財源が保険という形態に移ってきています。あとで述べる年金もそうですれど。保険というのは、基本的には、所得とかに基本的に関係なく、同じ額を払う。それで必要なサービスが必要になったら得るという、そういうしかけのものです。日本の介護保険の場合だと、だいたい月3000円ぐらいのお金を、一定以上の年齢の人は払ってるんです。
これは、日本の所得水準というか、生活水準から言えば、そんなにたいした額ではありません。そういうふうにして制度を組み立てるとですね、基本的に集まるお金は――実態には全部が保険料によってまかなわれているのではなく、税による部分が半分になってはいるのですが――たかがしれてるわけです。
こういうことに関する政府本来の役割、政府の機能とはいったい何でしょうか。結論だけを言えば、お金がいっぱいあるところからお金をいっぱい取ってきて、お金がないあるいは少ないところにお金を渡す。それから、多くのものが必要な人、障害者の一部もそうだけれども、そういうところに渡す。そういった、多いところから少ないところへ、多いところから多く必要なところへ、お金を渡すのが政府の大きな仕事です。
このことから言える、一つ目のテーマについての三つ目のポイントは、そういう介助などの社会サービスについても、たくさんお金がある人からはたくさん取ればよいし、少なくしかお金がない人からは取らなくていいんだということです。税金の場合は、累進課税という、たくさん収入や資産があればあるほど、税金の額ではなく税金の率が高くなるという仕組みを採用することができます。そういう累進的な仕組み、収入に応じて負担額が上がっていく、そういうしかけで全然問題ないわけです。
ですから、大雑把な言い方ですけれども、財源として保険という仕組みよりも直接税ですね、累進的な所得税を用いた方が、お金もよりたくさん得られるし、必要なところに多くまわせるということも含めて、それから不公平が是正されるということも含めて、望ましい。所得保障は、累進課税でやるけれども、社会サービスの方はみんな同じ額で出すしかけでやればいいじゃないかと主張する学者が日本にもいるんですけれども、これは理的にはまったく破綻しています。
◆供給組織と政府との関係
次に四つ目のポイントです。提供するもの(財)にもよるのですが、大まかに言って、それを供給する組織にお金が渡るより、個人の利用に応じてお金が渡る方がよいということです。
これは、直接費用を本人に渡し、それで本人がサービスを購入するというダイレクトペイメントといった方法だけがよいということを言いたいわけではありません★。本人の選択が保障されすれば、利用に応じて組織にお金が行くという形もそうわるくはありません。日本では医療保険がそうですし、介助についても基本はそうです。言いたいのは、組織にまとめてお金を渡すことになると、仕事をきちんとしてる組織に客観的な基準で渡っていけばそれはそれでいいかもしれませんが、現実的にはなかなかそうはならないわけです。そうすると、ある組織は選ばれ、ある組織は選ばれないとか、そういった中でいろいろな揉め事が起こるし、あるいは、行政との関係であまり強いことを言うのはためらわれたりするといったことも起こるわけですね。このことを言うのは、今回の韓国訪問で、介助サービスを供給する自立生活センターが選ばれ、選ばれなかった組織には不公平感が生まれ、また予算がうまく使われなかったことがあったと聞いたからでもあります。正確な情報ではないかもしれず、また今は試行期間だからそういう形態がとりあえず採用されたということかもしれませんが。
私は現状では、日本にしても韓国にしても、自立生活センター等の組織に対する助成は必要だと思いますし、今よりあった方がよいとは思います★。ただ、基本的には、本来はそういったセンターを利用するお金を障害者一人ひとりが持つ、あるいはその利用に応じて組織に費用が提供される、そういった方が理念的には望ましいんじゃないか、そういう視点を持っておくということも必要なのではないかということです。これが四つ目のポイントで、テーマ1については最後のポイントです。
付け加えますと、日本では、センターに、その良し悪しは別として、センターに対する自治体あるいは、国家からの給付はあまりなされていません★。だから大変といえば大変なんですけれども、今は基本的には、介助サービスを自分たちで提供して、国、政府からその提供時間に応じたお金を受けとって、それで人を雇用して、その差額で運営しているところが多いのです。そういう介助派遣は大変な仕事ですから、それに非常に時間と労力をとられてしまうという意味では、みんななかなか苦労をしているという現実はあります。日本の場合の問題は、もっぱら介助サービスにだけ費用が提供され、相談や権利擁護の仕事に資金が提供されないことにあります。そうすると、介助サービスの部門で得た資金で他の活動をしていかざるをえない、その活動が十分にできないということも起こります。ただ、繰り返せば、とにかく組織にお金が渡るっていう形は、ある種の、腐敗とまでは言いませんけれども、その権益とか、保身とか、あるいは癒着といったことを生み出しうる可能性もあるという、そのことは押さえといた方がよいということです。
■
所得保障
◆生活保護と障害基礎年金
では、テーマ2ということにします。所得保障の話です。実は今日、午前中はこの主題での報告もあったセミナー★に出てきたんですが、きちんとした説明をしようとするとどうしても長くなり、そしてその長い話を聞くだけでは、なかなか双方とも理解しずらい と思います。そんなこともあり、これについてはごくごく短く、だいたいどんな具合になったいるのかイメージしやすいように、お話しいたします。
日本では、基本的には、障害基礎年金という名称の年金が成人の障害者には給付されます。年金保険制度の中の一部に位置づけられています。韓国でも今年から、少なくとも名称としては年金、障害者年金の制度ができたと聞きますけれども、日本はそれができたのは1985年、ですから今から25年前です。
このときにももちろん年金制度獲得を目指す障害者の運動はあったわけですけれども、とにかく年金というのは非常に大きな制度ですから、障害者運動だけの力で勝ち取ったということではありません。現実には、年金制度全体を85年にかなり大きく変えたときに、「ついでに」と言うとすこし障害者運動の意義を小さく評価し過ぎでではありますが、ついでに障害基礎年金もくっ付けた、そうして新しくできたっていう、そんな感じに近いんじゃないかと思います。
障害者といっても軽い障害者の場合は出ないんですね。日本だと1級から6級までの等級制度があるんですけれども、年金が支給されるのは1級と2級です。2級っていうのが、普通の高齢者の基礎年金と同じ額でだいたい月6万円です。1級だとそれの25パーセント増しで8万円ぐらいになります。
8万円がどのぐらいの額かっていうのは、うまく言い難いんですけれども、そうですね、住宅費・家賃が非常に安い地方の地域だったら、なんとか一人で暮らしていける、しかしかなり厳しいというぐらいの額かなと思います。それより家賃の高いところ、東京は高いですし京都も高い方ですけれども、そういう所だと家賃も払うと8万円じゃ一人じゃ暮らせないぞっていう、だいたいそのぐらい額だと思ってください。というわけで、ギリギリなんとかならないでもないけれども厳しいぐらいの額ですね。障害基礎年金は。
それでは生活的にも厳しいという障害者たちは、1970年代、80年代からずっとですね、もう一つの制度、生活保護という制度を積極的に利用して獲得してきました。
これは基本的には障害があるからということではなく、預金とかそういう資産がないこと、それから月々の収入が一定の基準以下であるという人に対して支給される制度です。これがだいたいどのぐらいかっていうのは、家族構成とか、年齢とか、どこに住んでいるかによって、かなり違ってくるので、一概には言えないんです。ただ、僕が京都に来る前しばらく住んでいた地方都市だと20代男性で13万円とか、そのぐらいの額だったかなという記憶があります。アパートに住んでいるその辺りの大学生とかがだいたい月8万円から10万円ぐらいで暮らせるような所で、そのぐらいの額になります。これは、贅沢はできませんが、まぁ節約すれば暮らしていけるぐらいの額です。
では日本でこれからどうしようかってことなんですけれども、もちろんその基礎年金っていうものを上げていくのがよいわけですが、年金というのはとにかく何百万人という人に支払う、何千万人という人が加入する制度ですから、現実的にはなかなか難しい。
とすると、生活保護の意義というのはやはり重要になる。しかし、これも日本に限らないことかもしれませんが、公的扶助、生活保護に対する締め付けはけっこう厳しい。おまえはお金があるんじゃないかとかですね、働けるじゃないかとかですね、そういうことでなかなか行政は出し渋るわけです。
そこでですね、とりあえずというか、当座、我々というか、障害者も含めた、障害者だけじゃなくて貧困の状態にある人たちにとっての現実的な課題は、生活保護をきちんと取ると、それを後退させない、そういうことが一つの目標になっているわけです。
この話は概ね現状こんな感じだということで、いろんな制度の細かいところは、国によっても大きく違いますし、説明するとすごく長くなりますからもうこの辺にしておきます。ただ、この次の三つ目のテーマ、働くこと、労働ということにも関係して所得保障は、みなさんもそう思ってると思いますけれども、非常に重要なものであるということは再確認しておきたいと思います。
つまり、所得保障があることによって、ちゃんとしたものがあることによって、人は身体の調子が悪かったり精神的な障害があったりしても無理矢理働かなきゃいけない状態からとりあえず逃れることはできます。
それから、他の人に比べれば、効率というか能率というかがよくなかったり、一日五日も働けない、一日か二日ぐらいしか働けないよっていう人にとってみれば、たくさん働く人よりは収入は減るけれども、それでも暮らしていくだけの収入は得られるということはあるわけです。
ですから、無理矢理働かなくてすむためにと同時に、自分の働きたいかたちで働くためにも、所得保障は重要になってくるわけです。二つ目のテーマはここまでにします。
■
労働・雇用
◆ADLの方法にもうまくいかない場合がある
三つ目に移ります。三つ目の話は労働・雇用についてです。これはちょっと理屈っぽい話が入ります★。
今、障害者の雇用に関しては、ごく大きく言ってですけれども、2つぐらいの法的・制度的な対応があります。
一つは、アメリカ障害者法(ADA)やあるいは英国の同様の法律のタイプのものです。これはどういうものかと言うと、例えば僕がここで話すのが仕事だとしますよね。話すことはできなきゃいけない。でもその話すという仕事のために足が動くということは、必須じゃないじゃないですか。例えば車椅子で移動するとか、そういったことが必要になってくる。そういった、その仕事の本来の本業というか、本質的な部分にかかわらない所で、雇用における差別をしたらそれはダメよっていう、そういうタイプの考え方です。これはどうでしょうかね。よい制度でしょうか、どうでしょう。
ADAができたとき、日本の障害者運動の中でも、いいとか悪いとかいろいろ議論はありました。一つの批判は、そうやってできる人、できる障害者というか、例えば話すでも書くでも何でもいいですけど、そういう人はそれでいいかもしれないけど、何にもできなかったら、できることが少なかったら、それは結局その法律じゃどうにもなんないじゃないかという指摘がありました。
その指摘はもっともなんです。当たっているわけです。そういう意味では、こういう法律は、もちろん限界はあります。ただ、これは僕の考えでは、仕方がないだろう。仕事の場に、その仕事ができない人を雇う義務と言いますか、それを雇用する側に求めるっていうのは、やはり無理があると思うんですね。
この根本的な問題を仕方のないこととすれば、この仕組みは本来は効果的なはずです。問題はもう少し現実的な問題です。アメリカでADAができてからずいぶん時間が経つんですが、いくつか調査が行なわれていて、その結果を見ると、障害者の雇用率は実は上がっていないという、残念なというか嬉しくない状況になっているのが実際の現実のようです。差別を禁止したはずなのに、なんでそんなことになったんでしょう?
これはいくつか要因が考えられるんですけれども、一つには、こういうことがあると思います。僕が雇い主だとして、AさんとBさんが採用試験でそこに座ってるということを考えてください。そしてだいたいこちらが求めてる仕事ができる能力は同じだとします。だけど、例えばAさんを雇用すると、例えば建物をちょっと変えて車椅子が通れるようにしなきゃいけないとか、何かプラスアルファ、その障害を補うための設備とか補助とかそういうものが必要になってきて、しかもその費用を雇用主が負担をしなきゃいけないとしましょう。
そうすると、やっぱりお金のこと、経営のことを考える経営者としては、同じぐらいできるんだったら、お金のかからない方を雇おうとするというのはありうることです。
これはADAにおける差別です。本当は法律違反です。だけど、例えばずるい雇用主である僕は、そういうふうにこれはADA違反だって誰かに言われたら、「いやそんなことないです、AさんとBさんと比べて、ちょっとだけだったけどBさんの方が仕事ができると、こちらはそう判断したのでBさんを雇ったんです」、そう言うわけです。
そうするとですね、Aさんは、そんな自分が雇われなかったことを不満だとしても、自分つまりAはBよりも仕事ができる、少なくとも同じだけできるんだということを、は雇われなかった自分の側、Aさんの側が証明しなきゃいけなくなるんです。
これはやっぱり難しそうですよね。実際、こういう理由だけではないんですが、ADAを根拠にして裁判に持って行った障害者、原告側は、90数パーセントは裁判に負けてるんです。現実はそういうふうに機能してしまうわけです。
さてどうしましょうかということです。こういう法律を捨ててしまうかっていうと、それも少しもったいないと思います。そうするといくつか工夫していくしかないわけです。
一つに有効そうだと思われる手段は、雇用することによって、日本語だと「合理的な配慮」と訳されますが、英語だと「Reasonable Acommodation」ですが、例えば、車いすが通れるような職場にするとか、そういうことのためのコストを雇用主の負担ではなく、別のところ、例えば政府が負担するようになれば、僕のようなケチな経営者でも、そういうことをあまり気にせずに雇うことができるようになることが考えられます。そういう何かプラスアルファ、一工夫、二工夫加えないと、この法律は意外と有効じゃないということなんです。
差別禁止法、これはいち早く韓国では制定されたわけですけれども、日本でもそういう法律を作ろうという運動自体は前からあるにはあるんですが、なかなか進まなかったんです。だけど政権が変わったりして、すこし可能性が出てきて、今いちおう議論が進みつつはあります。
私の知り合いにもそういう政府の委員会等に参与している人もいますし、私のところの大学院でそういうテーマを研究している大学院生もいます。ただ、そういう人たちに、「ADA的な枠組みはそれだけでは意外とうまく機能しないということ、もっと考えることがあるんだよって、そういうことを議論してるの?」って聞いてみるんですけども、まだそういうところまで議論はいっていないようですね。こういうことをちゃんと考えたりするのも、学者なら学者の仕事だろうと僕は思っています。
今の話は、三つ目のテーマについての、雇用差別禁止という一つのアイディアについての解説というか説明でした。
◆割り当てという方法も以前として残る
私は韓国のしくみがどうなっているかわかりませんが、日本は今まで、今説明したタイプの雇用を促進するためのしくみではないやり方をとってきました。これは事業所の規模であるとか、役所なのか民間なのかとか細かいいろいろで違ってくるし、そういう細かい数字は僕自身もよく知りませんので説明しませんけれども、ざっくり言って、一定の人を雇うのであればその内の数パーセントは障害者を雇用しなさいという、割り当てっていうタイプのしくみですね。
これはすごく素晴らしい制度ということではありません。例えば、雇われる側にとってみれば「自分は障害者枠で、特別に雇用されたんだ」っていう意識が生じたり、周囲からは「あいつはそういう枠で入ってきたんだぜ」っていう扱われ方っていうか見られ方をするとか、そういう問題もありますよね。
ただ、そういうパーセンテージがきちんと守られるのであれば、日本の企業はあまり守ってないんですが、守られるのであれば雇用がそれだけ進むということはある。そういうメリットも確かに同時にあるわけです。
大切なことは、この労働という三つ目のテーマについての二つのモデルのどちらが必ずもう一つよりよりいいとか、こっちじゃだめでこちらがよいとか、そういうものではないということなんです。 日本では一時期、今の割り当て的なやり方は古くって、これからはそういうADA的な禁止立法がいいんだってことを言ってた人もいるんです。ただ、それはそう簡単には言えないんです。一つ目の方が二つ目のよりもよいということは、確かなことではありません。一つ目のものと二つ目のものを何らかの形で組み合わせるという、そういう合わせ技でいくという手もあるわけです。
といったことを考えていくってことは、僕は大切なことだと思っていて、障害学っていうのも最近あるんですけれども、そういうとこでもでそういうことはちゃんと考えていかなきゃなと思っています。ただ実際には、なかなか研究者も、日本でもですね、政策や政策に関わる理論的な論点をきちんと考える学者は少なくて、もっと学者もがんばんなきゃなと、がんばってほしいもんだなと、そう思っています。
◆労働力は余っている
この労働という主題について、もう一つの話をして終わりにします。
最初の介助の話で、世の中の人は余ってるんだって言いましたけど、たんに僕がそう感じるというのではなく、客観的にそれはその通りだと思っています。つまりですね、この社会というのは、それは機械化とか技術の向上とかで生産性が向上したことによって、同じだけのものをっていうか、人間が生きるだけ、生きていくのに必要なものを人間が作るために、人間の全員は働かなくてよくなっちゃってるってことなんです。
100人が生きるために100人生きなきゃいけなかった時代があったとしましょう。そんな時代はいつもなかったと思いますが、仮にの話としてあったとしてもよいです。だけど今は、100人の人間が生きていくために、100人も働く必要は全然ないんです。これはどんな数字を当てはめてもいいんですが、例えば、7割ぐらい、70人が働くことで100人が生きていける、そういう社会の中に僕らもうずいぶん長いこと生きているのです。先進諸国と言われる国はすべてそうなっています。そして資源・生産手段がうまく得られるなら、世界中のどこでもこのことは言えます。
だからそういう意味で言えば、失業者が30人、30パーセントいるっていうのは、100人のうち70人しか働かなくていいわけだから、そのこと自体は自体はべつに悪いことじゃないんです。ただ、何でそれは困るかというと、その失業者の側にとってみれば、職が得られないことによって収入が得られないから困るってことですよね。
これに対する対応策は2つ、あるいはその2つのものの組み合わせです。その一つはですね、今日二つ目のテーマとしてお話しした所得保障というか、所得の再分配です。俺が失業してるのは、俺が職が得られないのは、おまえが勝手に働いてるからだっていう理屈も成り立つわけです。そうすると働いた人は、働いてるんだから働いた中から俺にお金をくれと、そういう言い方は屁理屈のようですけども、それなりにちゃんと理屈は通っているんですよ。
それで割り切ってしまうというのも意外とスッキリして僕は嫌いじゃないアイディアなんですが、もう一つあります。そのもう一つのやり方は、これも全然目新しいアイディアではありません。みんな聞いたことがあると思いますけれども、英語だったら、work sharingっていうアイディアです。
さっきのは、100人の内の70人しか働かなくてもいい、すると30人は働くのは0になるという話でしたね。その代わりに、例えば100人の人が今まで1働いてたとしたら、0.7に働く時間とか働く量を少なくすれば、100人とも働いてちょうど必要なだけは賄われるってことになりますよね。
今日本でも雇用の問題は非常に大きく言われていて、実際、大学生とかも就職少なくて、政府は雇用対策、景気対策っていう形でいろいろな政策をやっていることになっている。それがまったく効果がないとは言いません。ただそれは、結局はその場しのぎというか、応急処置みたいなもので、ある程度は効くけど、そのうち効き目が薄れたりするっていうぐらいのものなんですね。このことは押さえておくべきです。これは日本に限りませんけれども。
とにかく、そういう考え方っていうかやり方を基本的なところから変えないと、その先進社会というか高度化、高度に工業化した社会における失業の問題は解決しないということです。解決しないとか言うと暗い話をしてるようですけれども、別の捉え方からすれば全然逆で、人は余ってて人は働かなくても済むようになっているんだと、にもかかわらず、人が足りないとか介護の資源が足りないとかっていうのはまったく理屈として間違ってる。それで話は最初に戻ってきます。
■
『生の技法』韓国語版
というような話をとりあえずして、一区切りつけたいと思います。これ以上細かくしますと、国によっていろんなことが違いますし、僕自身もそういう実際の数字とかいうのほとんどよくわかっておりませんから、言えないということもあります。
ただ、基本的なところでですね、こちらよりあちらがよいとか、あちらよりこちらがよいとか、そういうことをいくつか確認できること、考えればわかることはちゃんと考えてこっちの方がいいっていう方向で基本的には進めなきゃいけないし、それから、比べてみて、両方使った方がよいとなれば両方使うっていう、そういう選択もあるわけです。今日はそういう話にしとこうと思います。最初、司会の方が言ってくださった、その障害者運動の歴史とかですね、そういうことについては、つい最近までは韓国のみなさんに韓国の言葉で読んでもらえるものがあまりなかったんですけども、今年一つ出ていますので、それを紹介いたします。
それは古い本といえば古い本で、1990年、私が30歳のときに、今50ということですが、に出した本なんです。私たち4人で書いた本なんですけど。それが日本語だと『生の技法』、「生きる技」、「生きるための技法」っていうタイトルで、それに「家と施設を出て暮らす障害者の社会学」っていう長い副題が付いています。その本は90年に出て、その5年の95年に増補改訂版が出ています。その翻訳が今年、我々の大学院の留学生の大学院生でもあるジョン・ヒギョンさんが翻訳してくれて、出版されました。
それ読んでいただけますと、だいたい1970年ぐらいから95年辺りまでの、障害者の解放運動、それから自立生活センターなどを作っていく自立生活運動、そういったものの足どり、あるいはそこでどういう主張がなされてきたのかを理解していただけるのではないかと思います。ですので今回は、そういった運動史といいますか、そういった部分はせっかく韓国版も出していただけましたのでそちらの方に任せて、少し理屈っぽい話、また政策に関わる話をさせていただきました。
1時間15分ぐらいお話させていただいたと思います。あと、細かい制度のこととか、あるいは具体的な数字のこととか、私は基本的には障害者のことについての専門家ではなくて、いろんなことについてものを書いてる人間ですので、わかりかねることもあります。ただ、そういう私ではありますが、ご質問いただければ、今日話せなかった運動の部分であるとか、あるいは今日僕が話さなかったテーマについても、私が知ってる限りのことはお答えしたいと思いますので、残りの時間でご質問などいただければありがたいと思います。とりあえず話を終わらせていただきます。ありがとうございました。
■質疑応答
◆質問:日本でも介護労働者、フィリピンと外国からの労働者が来てると思います。その中で、その先ほど30パーセント剰余の部分が介護労働すればいいというような話もありましたが、その3K労働については、自国ではなく海外の方でどんどん出てきてます。そういうような中で、その余ってるっていうような部分についてはどういうふうに考えればよろしいでしょうか。
◆立岩:はい、現実には、日本よりむしろ韓国の方が進んでいるのかもしれませんけれども、介助とかそういう部分で外国の人にっていうのが世界的には進んでますよね。日本は、そこはぼつぼつ今入れ始めようかなぐらいの感じです。それはいろんな理由があります。言葉が難しいとかそういう理由も含めてあります。でも、少しずつ入ってくるのかなっていう状況です。しかし、ではそれは国内に人がいないから外国から呼んでるのかっていうと、そうではないんです。それは端的に、そういったホームヘルパーの給料が、基本的には公定価格というか、制度によって決められていて、なおかつその水準が低いから人が集まらないっていうのが基本的な要因だと考えます。ですので、それは確かに仕事としてはきついし、大変な部分はあるけれども、それに見合った、きちんとした条件というものを実現できればですね、特に外から来ていただかなくてもやっていくことはできると思います。これは別に外国から来てはいけないということを言いたいわけではなく、来ていただかなくてもやっていくことができるはずであるということを言いたいわけです。
◆質問:85年生まれで、障害者の現場で活動している者です。大変よく聞かせていただきました。当事者が働くってことですけれども、ADAのお話をしていただきましたけれども、当事者にですね、その準備ができてないってところがあるんじゃないでしょうか。教育の部分ででもですね、不足してて、例えばその履歴書にですね、全ての欄を埋められないとか、そういう部分があると思います。日本ではどうなってるんですかということ。あと、所得保障制度の中でですね、そういう制度を受けることを放棄して労働市場に出て行くというふうになった場合、例えば障害者の場合、医療的な恩恵もいろいろ制度的にあるんですけれども、それも全部放棄しちゃった場合、賃金雇用関係の中でですね、それだけでやっていけるんでしょうか。日本の場合はやっていけるんでしょうか。韓国の場合はそれを考えたときに、やはり自ずと選択の幅が狭められていくんじゃないか、雇用っていうところに行ききれない部分があるんですけれども、日本の場合はどうなんでしょうか。
◆立岩:質問の意図というか中身を僕がよく理解できたかどうかちょっとわからないんですけども、もちろん、いろんな意味で、例えば、教育が本来は受けられていいんだけれども受けていないことによって就職の幅が狭まるってことは日本にもとてもよくあります。けれども、この何十年間かっていうのをみれば、高等教育を受ける障害者の割合は少しは増えてきているということは一面の事実ではあります。ですから、教育の機会を得て、それでそれなりの準備というか、自分の資源みたいなものを作っていける人は、以前と比べればいくらかは、職が得られるようにもなってきています。
ただ同時にですね、今日申し上げたかったのは、そうやって一人ひとりが能力を向上させたとしても、定員が決まっているとしたらですよ、椅子取りゲームみたいなもので、一人椅子に座ったら一人そこから椅子に座れない人がでてくるみたいなことは、これは障害者の問題だけに限らず、社会の現実ではあると。だからその椅子の数をどうしようかとか、そういうことも同時に考えないと、自分が仕事のための力をつけるとかそういうことだけで対応できる問題ではないということを申し上げたかったというのが一個です。
二つ目の質問は、ちょっと僕が、すみません、よく理解できなかったんですけれども、ですからちょっと違うお答えをしてしまうかもしれないのですが。例えば医療とか、いろんな、例えば日本だと少なくとも、今までは職業に、給料だけでなくその他様々の福利厚生と言われるものがくっついてきたところがあるわけです。現状としては、それがだんだん、むしろ企業の論理としてというか、とられてる部分もあるんですけれども、ただそのこととは別に、僕は基本的には医療であるとか福祉であるとか、そういったものっていうのは、企業において、あるいは個別の企業においてなされるっていうものではなく、やはり社会全体というか、国という単位をとれば国全体の中でされた方が、供給された方が合理的だし、より好ましいというふうには思ってます。
◆質問:あの、もう一回、差別にかんして相談を受けている立場からですね、その雇用主による差別っていう問題もあると同時に、それに対してですね、障害者自らがどういうふうに対応していいかわからないっていう、そういう当事者性の問題もあったので、ちょっと第一番目の質問としてありました。二つ目の質問としては、その基礎生活保護法、日本の生活保護ですね、それに対応する法律、韓国でも仕事を持ったらですね、その基礎生活保護法の対象から外れます。そうなってくると、医療保険っていうような恩恵がなくなってくるわけですね。だから、日本もそうなってるのかということと、やはりそれを基礎生活保護法対象から放棄するっていうのはなかなか障害者の立場からは難しいってことです。
◆立岩:生活保護法のもとでの医療はたしかに無料なんですが、質的には問題があることは言われてます。公的な医療保険制度になると自己負担が出てきます。そしてその自己負担の割合が高くされてきています。ただそれでも、全般的には経済的には必要な医療が受けられないという事態にはなっていないというところかと思います。
◆質問:雇用を得たら生活保護の対象はなくなりますね。そうなったら・・・
◆立岩:日本の生活保護のラインっていうのは、収入がゼロだったら基準の全額が支払われるけれども、だんだん収入が増えていくと、基準額からその額が差し引かれて支払われんです。その基準を収入が超えると生活保護は出ないというものです。そして年金はまたちょっと違っていて、一定のところまではずっと同じ額がきますから、自分の収入は自分の収入でそれに足されていく、あるラインを超えると半分になり、もっとたくさん収入があると障害基礎年金はこなくなる、そういう仕組みになっています。
◆質問:仕事得たら、医療についてそれまでゼロだったものが・・・
◆立岩:自己負担じゃなかったのが自己負担が出てくる。そういうことですね。はい。それは、政策サイドからいうと、貧困の罠、英語だとpoverty trapっていうんですけれども、この状態でずっといた方が人は得なので、そこからなかなか抜け出さない、抜け出られないっていう状態です。ただ、僕が把握してる限りでは、日本で生活保護から抜けることによって医療などの費用がかかってそこから抜けられないということまでは起こっていないんじゃないかと思います。ただかつては介助費用にそういう部分はありました。生活保護をとっている人が介護加算を得ることができるんですが、1970年代から1980年代にかけてその制度の方他の制度よりよいということがあって、私の知っている人たちも生活保護を得て、その加算を得ていました。ただ今は、他の制度が以前よりはよくなっているので、介助を得るために生活保護をということにはなっていないと思います。
◆質問:日本では、障害者においては、医療費の自己負担がないというふうに聞きました。そういう原則であれば、所得が得られたとしてもですね、そうですね、仕事による所得があったとしても医療費の負担ということで、貧困層にまた戻っていくことはないんじゃないかという、そういうお話です。
◆立岩:自治体によっても違うんですが、重度障害者については自己負担分を助成するといったことはなされています。ただ、障害者だと医療費がみなただになるということではないんです。他に、例えば工透析ってみなさんご存知だと思いますが、あれは普通の自己負担の割合で払ったらとてもとても金がかかるのです。それについては自己負担をなくする、あるいは低くするという制度的な対応はあります。
◆質問:民主党政権の中で障害等級についても見直しみたいな話しが出ているようなんですが。
◆立岩:確かに日本の障害の等級制度についていろいろ批判があるのは事実です。よく言われることですけれども、身体のいわゆる欠損(impairment)の度合いによって判定して、生活における不便さというか、そういうところではないところでカウントされているので不合理であるという類の批判は、日本に限りませんけれども従来からなされています。
ですから、いっそのことなくしてしまって、サービスひとつひとつについてその必要に応じてっていうのは、一つの正しい、正解ではあるんです。ただ、おそらく、今の交代した政権間においても、最初からなくなるということは、僕は現実的な予想としてはあまり考えられなくて、その従来よりは機能的、身体の機能より生活面を重視したものに少し改善されるとか、そんなとこなではないかと思ってます。
◆質問:二つ質問があります。地方分権についてですけれども、私はソウルから離れた遅れた地域で、ソウルの中でも遅れた地域で活動しています。だから地域間の格差ですね、どのように解決していけばいいかという問題が一つですね。もう一つ、センター、自立生活センターがですね、同じ地域に二つあるような所があります。先にできた所にはつく支援金が入ってるんですけど、後発の所には少ししかないと。そういう部分をどういうふうに解決していけばいいでしょうか。またそういう事例があったら教えてください。
◆立岩:地域間格差の問題は非常に日本でも大きくて、これは基本的には法律なら法律が変わらないとどうにもならないんです。だけど、それはなかなか現実には大変なのは確かです。
そういう意味で、とりあえず法律は変わらないので、僕らがというか私たちの国の障害者が何してるかって言えば、結局個別に自治体と交渉して格差を縮めろと言って運動してるってことなんですね。ただこの場合にも、情報は一定の意味を持つ。つまり、隣の町じゃこれだけ出てるのに、例えば規模もそんなに変わらないのに、何でうちの町は出ないんだとかですね。そういうことって、自治体っていうのは現実には格差がありながら横並び意識っていうか、他のとこより極端にダメなのはやっぱりちょっとまずいかなっていうのはあるんで、ちゃんとやっぱり証拠を示してもっときちんと出してる所はあるんだと、そういう地域があるんだと、なのに何でうちはだめなんだということをやっぱりちゃんと伝えてく、交渉していくっていうのが、現実的な解決法、解決法っていうか改善法として、我々の国の日本の障害者たちがやってることです。
それから、二つ目の問題ですけれども、そのことは今回別のところでもうかがいました。三日前に、大邱の自立生活センターの人たち等に呼ばれて、大邱大学のジョ・ハンジン(JO Han-Jin)さんと対談をさせていただいたんです。その折にもセンターの方から、ここは出すけどここは出さない、しかもその理由というのは必ずしも合理的ではないという、そういうことがあるということをうかがいました。
これは言うまでもなく望ましいことではありません。一つのすぐには現実的ではないかもしれない解決法は、個々人にサービスを利用するための費用が渡り、例えば二つのうちのどちらを選ぶのかは本人が決めるという、そういうアイディアはあります。これは今の現実のシステムではすぐにどうこうなるというものではないと思いますし、そうでなければならないわけでもありません。このダイレクト・ペイメントと言われたりする仕組みを使わなくても、サービスの利用・供給に応じて政府が組織にお金を出すようにすることはできますし、基本的にはそうした方がよいと思います。組織に出すんじゃなくて事業に出すっていう考え方を基本的にはとるべきだと思います。プログラムならプログラムをやってるってことに対して出す。やってなければ出さない。そうすれば、理屈の上では同じだけやってるんだったら同じだけ出ることになります。
評価・計算の基準を作ってそれに応じて予算をつけるということです。ただ、介助などはわりあい実績を計算しそれに応じて出すことが比較的容易ですが、他にもいろんな事業があって、その量・質の評価がなかなか難しい場合もあるでしょうが。そしてそれ以前に、少なくとも同じ仕事をしているのに、あるいはするのに、一方に出し一方に出さないっていうのはおかしいということはやっぱりきちんと訴えていく必要があると思います。
◆質問:あのギリシャやアイルランドみているとですね、破産した国は縮小、縮小せよという方向にあります。韓国政府もですね、日本は国債が多くてですね、福祉は切り詰めないと経済的に破綻するという宣伝もしているんですけれども、実際日本では福祉の問題についてどういう方向に今後なっていくのかということと、実際年金とかですね、福祉の問題で破産するというようなことがあり得るんですか。そういう話はあるんでしょうか。
◆立岩:財政のことは、確かに日本について言われていますし、借金がたくさんあるのも事実です。それをどう見るかについては、実際には専門家の間でも意見がわかれている。国民を心配させてるいるほど心配させるようなことではないという有力な見解もあります。詳しくはここで説明できないですけれども、私は基本的にはそう思っています。ただ、借金は借金で問題ではあるので、すべきことはしなきゃいけないんですけれども、一つ、確認しておきたいことがあります。 つまり、国の税収っていうのを、いわば意図的に、これは日本だけじゃないんですけど、減らしてきた歴史がこの二十年、三十年の間にあるんです。つまり、たくさんお金を持っている人については高い税率にするっていうやり方を、いろんな理屈があるんですけれども、徐々に減らしていって、お金をいっぱい持ってる人はあんまり税金を払わなくていいようにしたわけです。日本だけじゃないんですけれども。そういうことをやった結果ですね、税収全体が減っていく。お金の使い方が同じでも収入が減っていったら借金になるのは当たり前ですから、そういうこう当たり前になるようなことをやってきたということがあって、それはよくないと。だから、税制の変革というか、変化の仕方が間違ったんだ、間違っていたんだということを私は思っていて、そのことで去年一冊税制にかんする本を、もちろん日本語のもので申し訳ないんですが、書いてはおります。ですから、ちゃんとわかってればきちんと対応できたはずの財政難を、収入の部分をきちんととるものをとらず、使うものも使わずというか、でも別のことに使って、その結果赤字が増えてきたっていうのが一つの事実ではあると思います。
私どものところの大学院の方でホームページをやっています。「arsvi」ってこれは、生の技法っていう「Ars Vivendi」っていうラテン語の省略したようなやつですけれど、A、R、S、V、Iです。ここは、圧倒的に比率的には日本語のホームページが多いんですが、それ以外に英語のページと韓国語のページがあります。研究機関のHPということで、明日すぐに役に立ちます的な情報はあんまり載っていないのですが、がんばってはいます。ほぼ日本人が見ているんだと思いますけれども、年間でいうと1000万ぐらいのヒット数になっています。かなりヒット数は多いホームページです。韓国語のところも今のところ貧弱ですけれどもありますのが、ご覧いただければと思います。僕らのところに今韓国からの留学生が今3人いらしていて、その人たちに対価を払って翻訳等をしてもらって作っているものです。これから充実させて行くつもりです。それからHPに加わった新しい情報等もお知らせする韓国語のメールマガジンを出しています。私の名刺にメールアドレス、HPのURLなど書いてありますので、それを見て連絡をいただいてもと思います。今日はありがとうございました。失礼いたします。
◆2010/05/27
「所得税の累進性強化――どんな社会を目指すか議論を」
『朝日新聞』2010-5-27 私の視点
[English]
UP:20101201 REV:20110225(記録掲載),0305
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障害学
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立岩 真也
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Shin'ya Tateiwa
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