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学芸に対する公金支出の正当化の困難について

立岩 真也 2010/10/25
主催:早稲田大学 演劇博物館グローバルCOEプログラム,於:早稲田大学
http://www.waseda.jp/prj-gcoe-enpaku/
http://wagero24.tumblr.com/post/649495138
19:30〜21:00 早稲田(本部)キャンパス 26号館(大隈記念タワー)302会議室
http://www.waseda.jp/jp/campus/waseda.html


■ まえおき

 作品が作者のものである、という観念は近代のものであって、といった話は――ごくおおまかにはそう間違っていないのだろうとは思うが――ここではよいだろうと思った*。そこで、何を話したらよいか、困ってしまった。
 で、ここでは、アートによって得ること――の方ではなく、アートに対して払う方を考えてみようかと思う↓。

* ただここで、私が作ったという事実(の認識)、あるいはそこに何かしらの誇りを感じてしまったりすること――そんなこともない場合(神様が自分に乗り移って作らせたと思うとか)もあるだろうし、それはそれでわるくないと思うが、しかし、それは否定されるべきものでもないだろう――と、その作品に対する(排他的な)権利を主張できることとは別のことである。

■ アート(他)に政府はお金を出せるか?

 一人ひとりに平等に――と簡単にここでは言っておく――財を割り振った上で、それぞれが何を得たいかは各自で選ぶようにするというのはなかなかもっともな案であると思う。この立場を徹底した場合、私たちがやっているような研究活動のようなものも含め、芸術・学術に対する公金の支出の正当性を主張するのはかなり難しい。各自が、いったん各自に渡った収入から自分が大切だと思うものに支出するということでよいはずで、その場合には、人はアートにお金を出すかもしれないし、出さないかもしれない。結果十分な水準に達しないということになりうるが、それは仕方がないということになる。経済学では「公共財」を持ち出してきて、政府支出を正当化しようとするが、この場合にその論法でうまくいくと思えない。
 社会が、具体的には政府が、という案が支持されるのは、一つに、個々の収入の多寡によって得られる/得られないことが起こり、それはよくないというものだ――お金のない人がアートに接することができないということである。それはもっともだと私は思う。しかし先の仮定では、お金は既に平等に分配されているので、その問題は起こらない。(それは、現実に不平等である限りにおいては、公的支出が支持されるということでもある。ただそれでも、お金を個人に割り振る方がより望ましいとは、依然として言いうる。)*
 他に何か言えるだろうか。個々人の選好(preference)を超えて実現されるべき価値があり、ゆえに、その価値あるものについては――個々人に委ねるなら個々人がそれを選好しなくとも――支出されるべきであるという主張がある。しかし、そこまで言うか、言えるか。
 あとは、現実にあるのは、「文化国家」であらねばならないといった話である。つまり他国(の人々)にかっこつけるためには、そういうことにも金を出すべきだというのである。しかし、それは「国家の威信」であるとか、そんなものを支持するということにもなる。
 他には、そうすると(いっけん無駄のように思えても)なにかの利益を生み出すといった筋の話がある。「情操教育」が大切だといったような話である。そんなこともあるかもしれない。しかしそれは、アートをなにか(よいもののため)の手段とするということでもあり、常識的に考えるならなにか役立ちそうに思えないものには金を出さなくてよいということにもなる。
 ……

* 「課題は、国家を認めた上で、余計なことからどこまで離れられるかである。実際、国家は権利を強制力によって保障する活動――分配はその重要な一部である――だけを行っているのではない。さまざまなものに租税からの支出がなされる。今、分配は支持されたが、それは政府支出全般を支持するものではない。むしろその大きな部分について正当性を疑うことになる。「厚生経済学」では、公共財については政府支出がなされるべきだとされる。その公共財と個々人から個別に料金をとれない、そして/あるいは、とるべきでない財だと言われる。港湾、警察、国防…等々があげられる。しかし、「とれない」のか「とるべきでない」のか、いずれかの理由によるのかはっきりしないものもある。また、「とれない」場合には、(かつてはだめだったが、今なら)とれる方法があるかもしれない。例えば、すべての道路を有料化することは技術的には不可能でないかもしれない。次に個々人から「とるべきでない」と言えるもの、つまり全員から「とるべき」だと言えるものがどれだけあるだろうか。例えば、「文化」や「学問」に税金が使われることの正当化は、少し考えてみると、そう容易なことではない。さらに、産業の保護や育成はどうだろうか。景気対策はどうだろうか。これらのことを考えてみてよい。」(立岩[1998])

■おまけ:高価なものに対する選好について

 高価なものに対する選好をどう扱うかという問題がある。もちろん従来は、お金がある人(あるいは組織)が高い値段のものを買ってきた。だが、それを当然のこととしないならどうなるか?
 このことについては拙著『自由の平等』第4章「価値を迂回しない」1節2「人により異なる→効用の平等→安価な/高価な嗜好」以降をご覧ください。「芸術作品」に関わる部分だけについては、以下がひとまずの結論部分になる。

 「得られるものに比してそのために必要なものが大きいもの、というより、必要なものが大きいこと(手間がかかること、素材が希少であること)自体に価値が置かれるもの、またそのような財である結果、市場で高い値がつくこと自体に価値が置かれるもの、持つ持たないことの差異自体に持つことの意味が置かれるものは給付の対象にしなくてよいとする。」(立岩[2004])

* 関連して、値段あるいは収入について。誰でも知っていることだが、希少であり(ときに稀少であること自体が)価値を付与されるものについては値が高くなる。そして稀少であることと、複製(大量生産)できることとは、排他的な事態ではない。まず、複製不可能(であるとされる)ために値が張ることがある。とともに、その作品自体は、他の人が作れず、また、その作品を複製する権利が制限されているという意味で、稀少であるが、複製され、そのために一つひとつは安価だが、得られる利益の全体は大きいといった場合がある。
 前者(一つしかない場合)について、本人がたいへんに儲けたという場合は――ゴッホを持ち出すまでもなく――あまりない。それは、希少性というものが、多く後になって発見あるいは創造されるものであって、その時には本人は既に生きていない、すくなくとも作品は自らの手から離れているといった場合が多いことによる。
 後者(複製・大量生産される場合)について。これで作者が儲かることは、小説や音楽などについて時に起こることがある。そしてこのことには技術の進展が寄与した――といっても最近のことというわけではなく、まずは印刷術の発明を考えてくれればよい。これは、大量の観客の存在が(放映などによって)可能になった場合のスポーツと同様である。

◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon][kinokuniya] ※
◆――――― 1998/12/30 「分配する最小国家の可能性について」,『社会学評論』49-3(195):426-445(特集:福祉国家と福祉社会)
◆――――― 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p.,3100 [amazon][kinokuniya] ※
◆――――― 2010/08/16 『人間の条件――そんなものない』,理論社,よりみちパン!セ,392p. ISBN-10: 4652078552 ISBN-13: 978-4652078556 1500+ [amazon][kinokuniya] ※

私的所有論    自由の平等    『人間の条件――そんなものない』表紙

■cf.

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UP:20101016 REV:20101024
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