HOME > Tateiwa >

「非優越的多様性」

立岩 真也 2010/01/25
English Version

The Second Workshop with Professor Philippe Van Parijs
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2009/20100125.htm


 昨年から、BI(ベーシックインカム)に関わることについて書いてきた。この主題について長く研究してきた、そして『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』,(Van Parijs[1995=2009])の訳者でもある齊藤拓の文章を加え、私の部分も、新たに書き足した部分を加え、なおすべきところをなおし、3月に、青土社から本が刊行されることになる(→文献表)。ここでは今あげた本の第3章で論じられていることを検討する。

 ■非優越的多様性という案
 人にはそれぞれ違いがあるのだから、まったく一律の給付というのでは問題があるだろうと誰もが思うはずだ。すべての人にBIをという案をよしとするとして、しかし同時に、差異化された給付が必要ではないか。そのことを気にかける人もいる。しかし同時に、BIへの賛同者の中には、その対応によって、一律給付という簡素なかたちが壊れてしまい、個別的な対応に予算が使われるためにBIが低くなることを気にするかもしれない。BIは人々の違いに対応するのかしないのか。
 その中で、ヴァン・パリースはその差異には対応するべきだとする。そして提案するのが「非優越的多様性(Undominated Diversity)」である(Van Parijs[1995=2009:120]第3章)★01。

 「万人に付与される平等な金額を一律に減額し、「ハンディキャップをもつ」人への補償のための備蓄部分に充当することができる(おそらく、眼球手術のための資金などとして、彼らの内的賦与を増強するために使われるだろう)。▼包括的付与▲――すなわち、内的賦与プラス外的賦与――の各ペアを比較して、一方の賦与を他方の賦与よりも選好する人間が少なくとも一人あらわれた時点で、この手続は停止する。」(Van Parijs[1995=2009:120]▼▲傍点)

 この章も、文章の進み具合はこの種のものに慣れていない人にはわかりやすくはないが、提示される案そのものはわりあい単純なものである。人々の才能や技能などの内的資源に、自分が選択し作り出したわけでなく、ゆえに本来責任を負うことのない、与えられたもの、「内的賦与(internal endowment)」がある。そのことで、例えばその人は(特定の、あるいは一般の)人々に好かれず、そのことによって不利益を被っている。そこで、その人に現金(そして/あるいは現物)を渡すことにする。この「外的賦与(external endowment)」と内的賦与を足し合わせた「包括的賦与 (comprehensive endowment)」を評価するものとする。すると、誰か一人、これだけ金が得られるならそうなってもよい、ある人よりこの人の方がよいではないか、そう判断する人が出てきたら、その時点で、その給付額が決定され、給付される。そういう話である。
 みながあんなにはなりたくたいと思っている場面が想定されているのだから、そこから脱するために積まれる「外的賦与」はずいぶんと多いだろうから、その多くが得られる、ならばよいではないか。そう思う人もいるかもしれない。しかし、より多くの人が、なにやら不思議なことがここでなされていると思うはずだ。
 誰もがよくないものとして認める(から外的付与の補填がなされる)、そして誰か(一人が)これならよいと思ったらよいという条件も、不思議な条件である。むろん、なぜ一人でよいのかという素朴な疑問をいだく人もいるだろう。「ある個人Aよりも劣っていると満場一致で見なされる別の個人B」が存在することが不平等であると言えるとして、なぜ「一人」そう思わない人がいたら、それでよし(平等である)ということになるのか、わからない。そう思う人もいるだろう。ただ、ここではすこし別のことを述べる。
 なぜここに眼球手術の話が出てくるのかと思う人がいるだろう。一つの例にすぎないのにはちがいない。しかしその手術の結果、マイナスとされる「内的賦与」はここではなくなる。それはよいことであるかもしれない。しかし後述するようにそんなことはそう起こらない。それはたんなる一例としても適切だろうか。そんなことが気にされていないようなのだ。この案について検討することにどれだけの積極的な意義があるのか、疑問なところがある。ただ、なにが不思議なのか、すこし考えてみておくのはよいかもしれない。このような思考の流れというものもまたある種の知的伝統に連なるものであるかもしれないのである。

 ■知らない人が判断する+実現されるわけではない
 その判断を行なう人は、「AではなくBを持つことの影響を知り尽くし、理解している少なくとも一人以上の人間」(Van Parijs[1995=2009:126])であるとされる。
 まず、おそらくその人は、Bを有するその本人というわけではなく、その状態を想像し、だったら別にいくらあったらその状態でもよいと思うかといった架空の状態について問い、そして架空の計算をする人である。例えば目が見えないという内的賦与B自体は、まずはその本人にとっては動かすことのできない現実であるが、他方、目の見える人にとっては現実のことではない。その人に対して、目が見えないという状態にどれだけを足せば、その人は目が見えないことを選ぶのかといった問いを発しているということである。ここには、ある状態Bを経験している人がおり、そうでなくAを経験しているもう一人の人がいる。双方とも、「AではなくBを持つことの影響を知り尽くし、理解している」人であることが難しい。つまり目が見えない人は状態Bが存在しない状態を知らず、見える人はその状態Bが存在している状態を知らない。双方が、比較考量の対象となる(一番単純の場合)二つの状態の片方を知らない。むろん、かつては見えていたが今は見えないという人もいて、その人は両方を比べることができるかもしれない。しかしそうでないことの方が多い。そして見えていたが今は見えない人にとっての見えないことの意味と、初めから見えない人にとっての見えないことの意味は異なる。少数者に存する状態としての内的賦与であるから、そのすべての場合ではないとしても、多数者たちは知らないことの方が普通なのだ。目をつぶれば目が見えないことが想像できる、というほど簡単なことではない。
 もちろん、分からない上で選択せざるをえないことは現実には多々ある。これまでそして現在自分が経験していない複数の選択肢から一つを選ばなければならないことはあり、その場合、人は様々な手段で未来の未在の状態を想像し、比較し、そして選ぶことになる。不完全な情報しかなくても仕方のないことがある。ただ、ときにかなり大きな、しかし見当のつかない境遇・差異に対する対応の仕方として、この方法はよいだろうか。他に打つ手がないのであればやむをえない。また実用的なものとして使えるのであれば、使用を検討してもよい。ただいずれについても疑問がある。後述する。
 そして、その後述することにも関わってより重要なことは、実際にそれを受け入れてもよいと思ったとして、また自分自身がではないにしても、これだけの外的賦与が加われば、加わったこの人の方があの人よりもよいと思い、言った人がいるとして、それは「架空」の話であるということ、その人も、また誰も、それを受け入れるわけではないということである。
 まず、これはある人がこれだけの金を積まれたらそれを受け入れてもよいということになったら、それでよしとしようという案なのだが、いつもそんなことがあるだろうかと思える。とくに重篤な病気にかかっているといった状態を考えると、金を積まれてそれを受け入れるという人がいるだろうかとも思う。ただ例えば、長い命はほしくないが、その短い間に金をたくさん使うだけ使ってしまいたいなどといった人は現れるかもしれない。いることもあるし、いないこともあるだろう。ここではこのことを言いたいのではない。引き受けてもよいという人がいたとして、その人は、現実のこととしてその病を引き受けるわけではないということである。引き受けたいと思っても、実際に引き受けることができない。他方、査定をされている本人にしても、そんな金はいらないからと、金を受け取る代わりに引き受けるという人に、自分の状態を実際に引き受けてもらえるわけではない。実現されるわけでない想像の取引がここでなされるということである。内的賦与について、誰も実際には何もしない。ただ、真面目に評価することを求められるだけである。
 なぜそうなるのか。理由は単純だ。内的賦与への対応が問題になっているのだが、その内的賦与自体は取り去ること、他の人に移動されることがないからである。受け入れるとか受け入れないといった対象でないものについて、いくらかが加われば受け入れるとか受け入れないといった話がなされ、それでその内的賦与を有する人の受け取りが決まってしまうのである。それを妥当なこととして受け入れることができるだろうか。
 「選好」という考え方は様々に批判されてきたのだが、その一つは、それがどんなものであるかどうして(外側から)わかるのかといった批判だった。それに対して、実際になされた行ないだけを見よう、そしてリンゴよりミカンが選ばれたのであれは、その人はミカンを選好したのだとしようということになった。いささか乱暴な話ではあるが、受け入れるとしよう。しかしここでは、実際になされた行ないは存在しない。すると次節に見る、誰かがそう言ったらそれを受け入れるのか、それを信用してよいのかといった問題が現れる。そしてより基本的な問題は、このような対処の仕方を採用してよいのかである。次の次の節でそれを見る。

 ■どんな人の選好が採用されるか
 実際にこんなことができるのだろうかと思われる。どのようにしてこの手続きを進めるのだろうか。全員が値をつけることができて、例えばテレビの画面にある人の内的賦与が映し出され、金額が増えていく。そのテレビは双方向テレビで、誰かが、これだったらよいと思ったらボタンを押す。すると、そこで金額が決定される。そんなところだろうか。それにしても、と人がまず思うだろうことは、この種の方法全般について言えることだが、世の中にはいろいろな人がいるだろうということである。

 「われわれの基準ではあまりにも小さな再分配しか正当化できないという反論を検討することにしよう。一人の風変わりな人が、視覚障害とは神の恩寵であると考えるだけで、視覚障害の人に対する補償の要求を停止させるに十分なのである。この論難に対処するには、問題となっている選好表が真正のものでなければならないこと、さらに、当該社会の人々にとってなんとか利用可能でなければならないこと、これらを強調することから始めるべきだろう。」(Van Parijs[1995=2009:126])

 「風変わりな人」は除外されるという。次のように続いている。

 「AではなくBを持つことの影響を知り尽くし、理解している少なくとも一人以上の人間が、彼女の善き生概念に照らして、BはAよりも劣っているわけではないと判断することが真である場合にのみ、停止できるのだ。本人たちが自分の語っていることを理解していないという理由で[社会的な]選好表から外される、風変わりな人たちを想定することは間違いなくできるだろう。その理由では外されないとしても、彼らは孤立した部分社会に属しがちであり、彼らの文化世界は他の人々にとって近付き難い(これこそが、他の人々が彼らを風変わりと見なす理由である)ので、彼らの選好表は一般的には利用不能と見なされるだろう。これら二つの条件が満たされるのであれば、すなわち、理解の点でも利用可能性の点でも何の問題もないのであれば――そうすれば「風変わりな人」は残らない――、再分配を縮小するのは何らひどいことではないと思われる。」(Van Parijs[1995=2009:126])

 「孤立した部分社会に属しがち」である人たちがいて、その人たちのことはその部分社会に属さない人には理解されないから、その意味で「風変わり」であるから、その人の選好は無視されるという。多様な社会は様々な人たちがおり集団があるから、そのいずれを「孤立した部分社会」とするかにも疑問は残る。以上が十分な基準を提供することになるのかと思う人が当然いるだろう。
 これはこの種の議論にほぼ必ずつきまとう問題だ。人々の選好を大切にするから、それに触れないようにする、しかしそうすると困ったことが起こってしまうことがある、すると、困った事態をもたらす選好をそもそも(正常な範囲の)選好ではないものとして、またそうした選好をもつ人を社会的決定に関与できる成員としては認めないことにしてしまうのである。これは論理的な必然でもある。人々の意見を大切にするとしつつ、しかし認められない意見がある場合には、それを意見と認めないことにするのである。その人を人間の範囲から除外するのである★02。
 しかし、まずそれは――乱暴なことを回避しようとするその結果として――ずいぶん乱暴なことであるように思える。そして、そうして除外しようとしても除外できない、それほど「風変わり」でない選好が残ってしまうと思える。例えば、動く、外出するといったことにさほどの欲求を感じていない人はいる。そのことはよいことでもないが、そうわるいことでもない。標準的ではないかもしれないが、理解しがたい逸脱というほどではなく、そんな人もいるという程度には認められている。とすると、その人は、移動に他の人よりよけいな費用がかかるという内的賦与をさほど苦にせず、少ない「外的賦与」の追加、あるいは追加なしでその状態の受け入れを認めることになるかもしれない。このことに限らず、多くのことについて、そんな人が――しかし「異常」というほどではない人が――いるだろう。となると、給付は低くされるだろう。それでよいのか、よいとして、なぜそれでよいのか。
 次に、当該の内的賦与を有する本人たちはその評価の主体になるのだろうか。誰からもあんなふうにはなりたくないと思われている状態がよくない状態であり、そうでない状態とは(加えて割り増し分を受けとった状態の)その人のようになってもよいという人が一人出てきた状態だというのだから、まずは本人以外のような印象を受ける。しかし、予め本人は排除されないだろう。それなら自分の状態を受け入れてもよいと自分が思ったとしてもかまわないはずだ。そして、今問題になっている状態を体験している人として、その本人たちは、相対的には、適しているように思われる。
 その人たちの中には、自分の状態が否定的に捉えられること、そしてそれを(基本的には)金で補われることに反感を抱く人もいるだろう。ただそうすると、その人たちは何も請求せず、結果、何も受け取れないことになってしまう。他方、その人たちは、それではまだ足りないと言えば、それだけ給付されるものは多くなるのだから、そう言って多くの給付を求めるかもしれない(それはその分「自己評価」を下げることでもあるのだが)。すると、そのような利害を有しているから、その人は除外されるということになるかもしれない。
 では、その内的賦与を有していない人たちならよいか。追加される外的賦与の少ない方が自分たちが拠出する額は少なくなるだろう。さらにBIにまわる分も多くなるだろう。するとその上乗せの額を低くしようとするかもしれない。意図的にそんなことを行なう人は排除されることになるかもしれない。しかし、そのような自覚のない場合もあるだろう。そしてさきに述べたように、結局、これは架空のできごとなのであり、現実にその内的賦与を引き受けたりそれを取り去ったりといったことはなされないのであり、その内的賦与を有している当人についてもまた当人以外の人についても、その選択が「真性」のものであることを外側からも、また当の人たちにおいても確認するすべはないのである。

 ■普通は何をするか(するべきか)
 例えば目が見えないことに関わる損失であったり、容貌がわるいことによる損失であったりがもって来られるのだが、その負の内的賦与Bによって不利益を被っているとされる人たちは何をしてもらえるのか。社会、具体的には政府は何をするのか。給付がなされる。しかしこの給付はどのような性格のものか。何がしかが支払われるというのはいったいどういうことなのだろう。様々あるのに、それが問われず、一切合財にされて、保障・補償の対象になることの不思議さ、あるいは不快があるように思う。
 例えば命にかかわる病気――これもまた内的賦与ではある――を患っている人がいる。ここに示されている案は、その人の境遇について、これだけの金を積まれたらその人の境遇を引き受けてもよいという人が一人出てきた時点で、その金をその人に渡そうというようなものだ。まず、そんな人がいるだろうか、いそうに思えないということがある。しかし、さきに記したように、たくさん金が得られるならそれを使い果たして早めに死んでもよいという人はいないではないかもしれない。しかし、それは結局、想像上のできごとである。その病を引き受けることはなされないし、引き受けてもらうこともなされない。ただ、その想像上の計算の上で、例えば、何も処置しなければあるいは手をつくしてもあと一月の命ということであれば、その一月分、自分のためあるいは他人のための何かを購入できるなら他のことはよいという人が現れたら、そのなにがしかが支給されて終わりになる。それは、多くの人たちがすべきだと思うこと、した方がよいと思うことと異なるだろう。その人の病がなおらないこと、苦しむこと、このままであれば亡くなることを悲しんだりしながら、なすべきだと思い、このぐらいのことしかできないと思うことは、完治することはないにしても医療や看護やその人が暮らす場を提供することのはずだ。そのための費用を提供する、そのぐらいしかできないがそのぐらいはできる。それでそうする。むしろなぜそのように考えることがないのかが不思議だ。
 たしかにその内的賦与が負の状態ではあるとして、その負の状態がどこからやって来るか、どのようなものかである。その人の生きがたさには様々な成分がある。内的賦与に関わり、それと他者たちの関係において、人が被る不利益がある。その時、その人のまわりの人たち、そして社会はどのようになっているのか。そのありようによってその人の不利益(利益)のあり方が変わることがある。そしてその状態の変更が可能である場合、容易である場合もあれば、困難である場合、不可能である場合があるだろう。何が変更でき、何が変更できないか。
 このことに関わって存在する場面は、そして対応してなされる/できないことが五つは――細分化すればさらに多くなるが――ある。1)治療するなどして内的賦与をなくしてしまうことがある。そしてそれがかなわないことがある。2)内的賦与と社会との接触面に生じる様々な不便を補うことができ、それがなされることがある。他方、それが困難な場合もある。3)その負の内的賦与を人が与えること(あるいは与えないための策を取れたのに取らないこと)がある。また、ときに同時に、しかし別のこととして、4)内的賦与に対する負の価値付与がなされることがある。この3)4)について、抗議し、非難し、禁止を求めること、既になされてしまった場合には、撤回を求め、謝罪すること、罰せられることを求めることがある。その一部として「賠償」「補償」が求められ正当化される場合がある。そして5)、内的賦与を巡り他者との関係において自らに起こっている事態のある部分については、悲しいことではあると思いながらも、仕方のないことしてそのままにすることがある。
 そして、同じ内的賦与について、以上の幾つかが同時に存在する場合がある。例えば3)人為的に害が加えられそのことが非難の対象になるとともに、4)それについて社会に存在する蔑視に抗する、そして1)治療を求め、しかし完全になおることはないなら、2)生活の困難を訴えて生活の保障を求めるといったことがある。
 1)まず一つ、この本で例示されるのは、先に引用したように、金を受け取って視力をよくする手術をするといったことである。この場合には、そしてそれがうまくいくなら、障害・内的賦与はなくなってしまったのだから、金をかけただけの利得があったということになる。病気にかかっていて、それをなおすために必要なだけの金額が支給され、それでなおる。この場合には支払いの意味、使い道、効果はわかる。しかし多くの場合、それ自体は除去されないことが内的賦与の特徴なのである。さきに記した、眼球手術が例にもってこられることの不思議さはこのことに由来している。
 つまり、その身体においては除去できない場合があり、そうした場合が多い。そもそもここでの内的賦与は(容易に)取り去ることのできないもののことなのである。それが苦痛をもたらしたり死をもたらしたりする。おそらく非優越的多様性が論じられている時、こうした事態は想定されていない。しかしこれも内的賦与ではある。こうした時、何がなされるとよいのか。その事態そのものについてはなにごともできない。とって代わることも代わられることもできない事態について、いくらかを加えたらとって代わってもよい(受け入れてもよい)と言う人がいたとして、そのいくらかを給付することが何をもたらすわけでもない。もちろん、金(や他のもの)が渡されることはたいがいの人にとってよいことではあるから、多くの人は受け取りはするだろう。ただ、人によっては怒り出すかもしれない。拒絶する人もいるかもしれない。
 2)ただ、痛みや死の到来を結局のところ防ぐことはできないとしても、多くの場合にできることはある。非・能力としての障害について、そのことに関わる不便さを、そっくりあるいは部分的に、補うことができる。市場で稼げない分を補うこともできる。むろん病にもそんな部分が多くある。というか、病にある人の多くは生活上の障害を有しているということである。
 これには二通りの供給のされ方がある。一つ、個人にまた個別に、その費用を支払ったり現物を給付する場合がある。医療や介助などの社会サービスの多くはそのようにして提供される。一つ、道路や建物の仕様を改善するなど、環境を整備するという策がある★03。
 内的賦与の差異に関わって、当人たちの社会運動において要求され、そしていくらかは社会政策として実現されてきたのは、基本的にこの場面である。ただ非優越的多様性として示される基準・方法は、実現が目指されてきたことと異なる。まずこの方法では、これでよいという人が現れた時点で支給が終わる。外出その他に関心を抱かない人も当然いるはずであり、いてよい。普通でない人として除外することはない。すると、その人がこのぐらいでよいということになった時点で、給付は終わる。つまりその不便を最低限に見積もる人が出てきた時点で終わりになる。このことを心配する人は、そのことを批判せざるをえない。
 では代わりに何を求めるのか。ここで要求されてきたことは大きくは二つだった。一つは、「普通にできること」であり、そのための費用を、その方法は幾つかあるとして、社会が負担することだった。食事をするのに介助が必要な人と必要でない人がいる。前者の人についてその費用が給付されればよいというごく単純な要求である。そしてもう一つが所得保障だった。市場で十分に稼ぐことができない。その分を補うことが求められてきた。だから、そもそもBIの給付と内的賦与への対応とが別立てにされているのが不思議なことに思われる。次回にこのことについて論ずる。
 そして1)と2)の間にも選択があり争いがあってきた。障害者(そして障害学)は2)を強調することが多かった。負とされる内的賦与そのものを肯定したから、あるいはしたかったからというわけではない。ただなおらないものはなおらず、それでもなおすための負荷を計算するならば、また、1)が肯定的に語られるのに2)はそうでないのは不当であるという認識によるものだった★04。
 むしろ不思議なのは、なぜこのような方策でなく、「非優越性多元性」が採用されねばならないのかである。その理由は私にはわからない。このような給付については何について給付するかという選択がつきものであり、すると、それは生活の内容に立ち入ってしまうことが懸念されているのだろうか。例えばエベレストに登りたいという足の動かない人の欲求に応えるのかといった問題が現われ、するとある要求には応え、ある要求には応えないという線引きをせざるえない。それはよくない。こんな理由からだろうか。しかしこの問題に唯一の確定的な解はないとしても、そのことはこの場からの撤退を導かない。現実的にも、「普通の人」については実現されていることは実現されてよいはずだとし、それ以上・以外についてはその後で考えてもよいはずだ★05。他人の手を借りる必要などがあって、その費用が他の人たちより余計にかかる場合がある。それをそのままにすることは「本当の自由 real freedom」にとって望ましくないことである。だからその部分を補うべきであり、補えばよいという、ただそれだけのことだ。しかし、この方法は採られず、不利益をあまり気にしない一人の選好が採用されてしまう。
 さらに、問題にされまた要求されてきたのは基本的には手段として提供されるものであり、それだけである。内的賦与と社会との関わりに様々な側面があるとして、それはそれとして分けて考え対応すればよいとし、まず生活上不便な部分だけが取り出され、それだけが補われればよいとされてきた。他方、非優越的多様性という案では、内的賦与に関わる全体が評価されることになる。人のあり様を評価し介入することには慎重であってよいと考えるなら、どちらが望ましいだろうか。
 4)5)その不利益を生じさせていることについて問題があり、その除去が求められることがある。4)人や人々の行ない(あるいはなすべき行ないの不在)によって、例えば公害によってもたらされた病気がある。それは(企業による犯罪によって付与された)内的賦与であるが、内的賦与であるには違いない。そしてまた、5)内的賦与自体は人為的に付与された場合もありまたそうでない場合があるとして、その内的付与に負の価値を付与し、時にその人たちにそのことを語り、直接的・間接的に攻撃することがある。
 この二つは同じでなく、その違いには留意するべきだが、人々から与えられる害であるという点では同じであり、それが正当化あるいは許容されるものでないなら、これを禁ずる、非難することが正当であるとされよう。そして既になされてしまった加害については、謝罪すること、態度を改めることを求めることがあるだろう。そして罰せられることもあるだろう。その一部として補償もまた認められることがあるだろう。
 しかし非優越的多様性という言葉のもとで推奨される策では、そのままに読めば、その部分は所与とされ、その上で別のもので「補償」しようとする。それ自体が問題であるのに、そのことはそのままにしておかれ、損をしている分、別のものを与えて釣り合うようにしようという。
 その何に抵抗感が持たれるのだろうか。一つに、さきと同じように、これだけの金を積まれればその状態を耐えてもよいという人が出てきた(と思われる)水準で支給は止められてしまうことがあげられようが、それだけではない。一つに、なされるべきことが、基本的に異なっていると感じられる。求められているのは今の状態を耐えるための付加的な給付でなく、その状態そのものが変わることであり、加害者がいるならその人たちの責を問うことだ。一つに、加害者は一人であるにせよたくさんいるにせよ、特定の人たちである場合であっても、ここでの外的賦与の付与は社会全体によってなされる。それは間違っていると思われる。また成員の全員が加害者である場合、その全員が責を負うことが求められるだろうが、それは、その状態でもかまわないというだけを上乗せすることではない。たしかに差別・偏見は、様々に啓蒙され教育されたとしても、糾弾され批判されたとしても、なかなかなくならないことは事実として認めよう。そこで補償を求めるといったことはあってよいだろう。また、人々はそんな金を払うことを避けようとするだろうから、そのために加害的な行ないを控えようとすることもあるかもしれない。けれども、何か別のものによっては補われようのないもの、そんなことをされてもうれしくないものがある。
 もちろん、非優越的多様性を言う論者も、加害者を罰することや加害が予防されるべきこと自体を否定しているはずはない。ただそれと、ここでの内的賦与+外的賦与→包括的賦与の話とは別のことだと、犯罪は犯罪として別途問われればよいと、問われれば、答えるかもしれない。
 しかし刑法に触れるような明白な犯罪ではない場合もある。例えば内的賦与に関わる偏見・蔑視がある場合、その人は生きがたくなる。それを解消、解消はできなくとも軽減すべきであるとしよう。そのための策として、財の分配によって対応することはできない場合、そして/あるいは、するべきではない場合があるだろう。するとさらに、それらもまたなされるべきことを認めつつ、たんにここでは論じられていないと返されるかもしれない。だが問題はそのことにある。区別が示されていないのである。その結果、外的賦与の付与ですませられてしまうことを止める契機がここでは示されていないのである。
 むしろ現実に存在している問題は、1)治療や2)生活の保障を加害への補償として求めざるをえないために、責任の追及や謝罪の要求を途中であきらめ、加害者に妥協せざるをえないことである。また、責任の追及や謝罪の要求を金銭的な補償として要求せざるがえないために、被害を過大に申告していると疑われてしまうことにある★06。だから、加害を糾弾しその謝罪を求めることと、治療や生活が保障されることとを分け、その各々が別になされることが望まれる。そのためにも分けるべきを分けるべきなのである。
 5)さらに、内的賦与と周囲の人たちとの関係において、幸不幸は生じ、その幸不幸における差異は残る。例えば私は、あの人に好かれないためにたいへん不幸であるとしよう。それは私にある、どれと特定できないにしても、自分にはどうしようもないものによっているらしく、とすれば内的賦与が関わっている。そしてそのことに関わって、人々の、あるいは特定の人の選好があり、そのことが当の人にもたらす不利益がある。つまり、ある人に好かれたいという思いがかなえられない。それは、本人の選択の対象でなく、変更したり消去したりできないものにより、自分にとってどうにもならないことで、自らに責任はない。責任はなく、不利益を被っているから、非優越的多様性という原理のもとでは補償の対象になる。
 そのあるものについては、批判し非難し、変更を求めることもできよう。それは「私的な関係」においてのできごとだから、そんなことはできない、するべきでないとされる部分を問題にすることが、「個人的なことは社会的なこと」といった標語のもとになされてきたことでもある。ただ、その提起の意義を踏まえた上でもなお、相手に対して、自分への対応の変更を求められない、また求めない場合は残るだろう。その変更を求めることが自分の意向に相手を従わせることである場合があるのだが、それは自分の意のままにはならない存在としての他者を否定することになり、私にとっての他者の意義を自らが奪ってしまうことにもなるから、求めることを断念せざるをえないことがある。そのことは、その関係のそもそもの性格に由来する(立岩[1997]第4章、第8章5節4「他者が他者であるがゆえの差別」)。
 そしてここで、公権力の介在・介入が求められることは多くはないだろう。強制によって、そこにないものを提供することさせることは、できることでもないと思われるし、またよいことではないとも思われるだろう。さらに、その悲しい状態に私が今あることについて、その状態にいくらかを積んだら自分と代わってくれるという人が出てくるというその上乗せの額を求めようとは思わないだろう。そもそも経済的な保障を求めることはないだろう。
 やはりここでも、以上は当然のこととして認め、それはここで論じる対象ではないと返されるのかもしれない。しかし、「内的賦与」が関わっているには違いないし、そして給付の対象となる条件としての自らの責任もここにはない。だから本来は含まれるはずである。そしてこの章の冒頭でもそうした例が引かれてもいる。

 ■なぜそうなる(ならない)のか?
 ここで内的賦与と呼ばれる人々の間にある差異への対応について世界中で様々に考えられてきた。それでなされてよいとされる対処は、単一のものではないが、一つひとつは単純で穏当なものである。このことを見てきた。なぜ、そのようには考えないのか。直感的によくわからない。
 私(たち)は、ここで示される方法が「弱者への配慮に欠ける」などといったことを言いたいわけではない。むしろ多くの場合、その人たちは「弱者」に対して十分に同情的である。そして良心的であろうとしている。ただこれらをわかった上で、基本的なところで不思議な感じがする。なぜこのような論の運びになるのか。おそらくそれは、BIに関わる議論であるからというより、BIを論ずる筆者の資質によるというより、もっと大きなものが関わっている。次にこのことについて述べる。

■註
★01 この案について、まだ日本語の論文で本格的に検討されてはいないのではないかと思う。紹介はヴァン・パリースの諸説の検討の中でいくつかは出てくる。そして批判的な言及は多くない。この概念の経済学的な含意については、吉原・後藤[2004]、吉原[2007]に記述がある。また村上[2006][2008a][2008b]で検討されている。この案を簡単に紹介し、簡単に問題点を示した後、この案から離れ、「ケイパビリティ」の方に行こうという筋になっている――ごく大きな流れについては異論はない。この村上の紹介を引いている報告として岡部[2008]がある。以下は訳書の解説より。
 「この基準は大まかに言って、ある社会において、ある個人Aよりも劣っていると満場一致で見なされる別の個人Bが存在しないのであれば、個人間での「平等」が達成されていると考えるものである。」(齊藤[2009:403])
★02 北田[2003]がこの問題に取り組んだ。この著作についての私のメモがある(立岩[2004b])。
★03 このような策をとることは認められている。
 「ベーシックインカムの最大化は非優越的多様性原理という制約の下で行なわれる必要があるので、この制約条件を満たすのを非常に容易にしてくれる数々の政策にとくに注目せねばならない。(予防医療のような)現物の普遍的給付、(例えば、公的交通へのアクセスといった)ハンディキャップをもつ人々に対する特別な給付、または、(例えば学習遅滞者に対する特別な教育支援といった)ハンディキャップを阻止する特別な給付、さらには、特別なニーズを持つ人々に対する機転の利いた効果的援助の精神を促進すること、これらはごく一部の実例に過ぎない。これが暗に示しているのは、ヘルス・ケアや教育システムの形成をリアル−リバタリアン的な見地から導出するにあたって、経済的効率性のみがその唯一重要な考慮事項ではないということである。」(Van Parijs[1995=2009:137])
 齊藤[2009:404]でもこの箇所が引かれており、ヴァン・パリースが、BI支給の手前の段階で、ベーシック・ニーズが万人に充足されていることを求めていること、現金給付でなく現物給付の意義を認めていることを示しているという。
★04 1)のなおすことをめぐる得失を本人と周囲の人たちとその双方において見るべきであると立岩[2001]で述べた。1)と2)とを比べた時、本人においては2)の方がよいことがあること、周囲の人にとってはそうでないことがあることを立岩[2002]で述べた。
★05 いわゆる適応的選好形成については立岩[2004a]で考えている。
★06 「死や苦痛や不便をもたらした者たちは、それだけで十分に糾弾されるに値する。その者たちを追及するのはよい。ただ、第一に、そのことを言うために、その不幸をつりあげる必要が出てくることがあるとしたら、それはなにかその人たちに対して失礼なことであるように思えるということだ。だから、それはしない方がよいと思うようになったということだ。」(立岩[2008a])

■文献
石川 准・倉本 智明 編 2002 『障害学の主張』、明石書店
北田 暁大 2003 『責任と正義――リベラリズムの居場所』、勁草書房
村上 慎司 2006 「優越なき多様性について(On undominated diversity)」、Workshop with Professor Philippe Van Parij、於:立命館大学衣笠キャンパス→2007 報告書
――――― 2008a 「ベーシック・インカムと衡平性――Philippe Van Prijsの議論を中心に」、第2回ベーシックインカム日本ネットワーク準備委員会、於:同志社大学
――――― 2008b 「福祉政策と厚生経済学の架橋についての試論」、『経済政策ジャーナル』5-2:55-58(日本経済政策学会)
野口 裕二・大村 英昭 編 2001 『臨床社会学の実践』、有斐閣
岡部 耕典 2008 「関係性構築の消費/自由を担保する所得――ダイレクトペイメントとベーシックインカム」,経済と障害の研究(READ)プロジェクト研究会 http://www.eft.gr.jp/money/080927DP&BI_READ-ken.doc
齊藤 拓 2009 「訳者解説」、Van Parijs[1995=2009:307-434]
立岩 真也 1997 『私的所有論』、勁草書房
――――― 2001 「なおすことについて」、野口・大村編[2001:171-196]
――――― 2002 「ないにこしたことはない、か・1」、石川・倉本編[2002:]
――――― 2004a 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店
――――― 2004b 「北田暁大『責任と正義――リベラリズムの居場所』について」、現代倫理学研究会 於:専修大学
――――― 2008a 「争いと争いの研究について」、山本・北村編[2008:163-177]
――――― 2008b 『良い死』、筑摩書房
Van Parijs, Philippe 1995 Real Freedom for All-What (if Anything) Can Justify Capitalism? Oxford University Press=20090610 後藤 玲子・齊藤 拓 訳『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』、勁草書房
山本 崇記・北村 健太郎 編 2008 『不和に就て――医療裁判×性同一性障害/身体×社会』、生存学研究センター報告3
吉原 直毅 20070418 「ワークフェア(Workfare)とベーシックインカム(Basic Income)」http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/rousou/ronsou-13.htm
吉原 直毅・後藤 玲子 200407 「「基本所得」政策の規範的経済理論――「福祉国家」政策の厚生経済学序説」,『経済研究』55-3:230-244 http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/ronsou-9fukusikokkaseisaku.pdf


UP:Jan. 22, 2010 REV:
English Version  ◇非優越的多様性/優越なき多様性/非支配的多様性  ◇ベーシックインカム
立岩 真也  ◇TATEIWA Shin'ya
TOP HOME (http://www.arsvi.com)