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障害者運動/学於日本・9――女性たち

立岩 真也 2010/09/06
[English][Korean]

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自分たちが言う

  日本の障害をもつ女性たちの活動の始まりについては瀬山紀子の修士論文「<語り>と<コミュニティ>の生成――障害を持つ人々の語りを通して」の第3章「障害を持つ人々の語りとコミュニティ」が詳しい。また、『障害学の主張』(石川・倉本編[2002])に収録された文章としては瀬山「声を生み出すこと――女性障害者運動の軌跡」があるから、それに委ねる。また、その一部でも翻訳されることがあったらよいと思う。以下は、その代わりに、急いでとりあえず作成したものでしかない。
  一つの始まりは、[1][8]でもふれたように、優生保護法改定に関わる運動にあった。女性の運動と出生前診断・選択的中絶に反対する障害者の側(のすくなくとも一部)には対立があるように見えるし、実際そうした議論もなされるのだが、双方がまったく違ったことを願っているかといえばそうでもないように思える。とくに障害をもつ女性や、そうした女性も含む人たちが、このことについて考え、発言を続けた。1982年には、[8]で名前をあげた米津知子(1948〜)も加わった「優生保護法改悪阻止連絡会」(「阻止連」、後に「SOSHIREN――女(わたし)からだから」)が結成される。
  そして一つには、女性の会員もいながら男性が中心となり、その人たちが結局は言葉を発することになっていた運動の中で、自らの家族や子育てのこと、男たちとの関係のことを、互いに語ったり、発言したりする動きが出てきた。そうした集まりとして、「青い芝の会」の婦人部としてあった集まりから1974年に「CP女の会」ができ、活動を始める。社会に対しては、障害者の親のもつ子の自殺に関する報道(1987年)への抗議活動などがなされた。自主出版された本として『おんなとして、CPとして』(CP女の会編[1994])がある。
  その本には子宮摘出についての文章も収録されている。障害者の子宮摘出が議論されるのは、1979年の「車いす市民全国集会」の「女性障害者問題分科会」がきっかけだった。脳性まひの女性から、自らが摘出して「生理介護を受けなくなってすごく自分の人生が広がった」、だが、「子宮摘出は安全な形ではできないから法的に保障して欲しい」という発言があった。それに対して、それでは介助を受けながら生活することそのものを否定することになる、法制化は多くの人たちに子宮摘出を迫ることになってしまうといった反論がなされた。それをきっかけに「むかい風」というグループも結成され、自らの性に関わる話し合いがなされる。
 そんなこともあって、[2]に紹介した雑誌『そよ風のように街に出よう』で幾度か続けて性に関する特集が組まれる。そして1980年代に入って、この雑誌とも関わって、本が2冊出版される。1冊は、牧口一二・河野秀忠編★01『ラブ』(牧口・河野編[1983])、岸田美智子・金満里編『私は女』(岸田・金編[1984]、その新版が『新版私は女』(岸田・金編[1995])。
 そして1986年には「DPI女性障害者ネットワーク」が発足する★02。これらの場でも、優生保護法の問題、優生手術の問題が引き続き問われた。「SOSHIREN――女(わたし)からだから」・「DPI女性障害者ネットワーク」等によって、まず優生保護法の撤廃のための活動が行われ、[8]に記したように、それは実現する。そして、1996年、優生保護法が母体保護法に変更された後には、「優生手術に対する謝罪を求める会」――以上はいずれも大きな規模の団体ではなく、メンバーもかなり重なっている――が、過去の優生手術を強いられた経験を記録し、そのことに対する謝罪を要求する活動を行なった。2003年には『優生保護法が犯した罪――子どもをもつことを奪われた人々の証言』(優生手術に対する謝罪を求める会編[2003])が出版されている★03。
 明白な被害・弾されるべき加害が一方にあり、そして――そのこととまったく別のできごとはではない――もっと微妙な日常があって、続いている。ここにすこし紹介したその後のこと、このかんの具体的なことについてはまた誰かが書いてくれるだろう。[5]で紹介したように、『セクシュアリティの障害学』(倉本編[2005])といった、いくらか「学術的な」な本も公刊されており、そこでも――やはり日本語によってではあるが――幾つかの主題が論じられている。

人・本

 女性で障害者でという人が書いた本もずいぶんとある。その紹介もまた別途――別の人によって――なされるべきだが、ここではその幾つかを、またその書き手としての幾人かを紹介する。以下に出てくる人たちの多くは、活動的な人であり、その活動の関係者たちには知られている人でもある。もちろんそんな人にも、本を書かない人、文章を書かない人は多い。それは当然のことだ。ただ、[2]に記したように、この国では、学術的な書籍というより、本人たちが自分のこと自分の周りの社会のことを書いた本が多く出されてきたし、そのことの意義もあると考える。以下、ほぼ著者の生年順に並べていく。過去に私が書いた文章からの再録がある人の部分は長く、そうでない人についてはひどく短くなってしまっていることをお断りしておく。
  ◇1960年代には、脳性まひ者で後に沖縄で「土の宿」という民宿を開いたりもする――今も経営を続け、HPもある――木村浩子(1937〜)の『足指に生きる』(木村[1966])『わが半生記』(木村[1967])が自費出版される。「自立生活」といった言葉のなかった時代のことである。彼女のところを訪れ、そしてその後の人生を変えていった人たちがいた。木村は画家でもあり、その後も独自の活動を続け、1995年には『おきなわ土の宿物語』(木村[1995])が刊行される★04。
  ◇本多節子(1936〜)は、小学校卒業後ずっと長野県にいて、長野県の青い芝の会で活動し、一人で暮らしてきた。その自伝として『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年――女性障害者の生きる闘い』(本多[2005])がある。
  ◇猪野千代子(1936〜1999)。17歳の時に高熱が出て全身まひ。31歳まで14年間家族の世話を受ける。1967年に子宮摘出手術。1968年に後述の三井らと同じく「府中療育センター」に入所。1973年にそこを出て、東京都の車イス用住宅に入居。「障害者の足を奪い返す会」代表を務め、障害者の交通権に関わる運動を展開した。自主出版のパンフレットとして『私の生きざま』(障害者の足を奪い返す会・1じ会[1976])、『在宅重度障害者の生活――交通と行政との10年間の闘い』(障害者の足を奪い返す会[1982])。また 『リブニュースこの道ひとすじミニ版』に掲載された「あたしにとって女とは何か――ある「身体障害者」の手記」(猪野[1973])といった文章もある。
  ◇そして1970年代には文学者でもあり脳性まひ者でもある箙田鶴子(1934…〜)の『神への告発』(箙田[1977]、1987年に文庫化されている)、『他者への旅』)が出版されている。これらは後に続く人たちにはかなり読まれていて――例えば、後述の安積は箙の本のことを語ったことがあるし、境屋の本にも木村の本のことが出てくる――影響を与えた★05。
  ◇三井絹子(1945〜)【she has cerebral palsy and is one of those who left instituions and began independ living in the early 1960's in Japan】の著書は『抵抗の証 私は人形じゃない』(三井[2006])。三井は、生まれて半年の時の高熱の後、障害者となる。小さいときは歩けたが、後はずっと車椅子を使っている。私たちは、約20年前、1987年の2月に三井さんに聞き取りをさせてもらったことがある。彼女は、言葉を発することはなく、文字盤を使って話をする。私たちが聞き取りをした時、それを読み取るのを手伝ってくれたのは三井俊明さんだった★06。
  俊明さんは絹子さん(旧姓は新田)の長年のつれあいで、1948年生まれ。そして二人には美樹さんという1979年生まれの娘さんがいる。この本は一面では、というか、後述する「社会運動」の部分とほとんど一体となりつつ、二人の話であり、そして一家の話でもある。二人とその支援者たちは「三井一家」といったつながりのもとで、国立市での活動を続けてきた。
  貧乏し、父は死に、といった後、1965年に町田荘に入所。しかし追い出されるようなかっこうで退所。1968年に府中療育センターに入所。その暮らしに耐えかね、数人がセンターに対する抗議を始める。この年、理解のあった職員の勤務異動に反対してハンスト。そうした中で俊明に会う。1972年には施設移転に反対して東京都庁前で座り込みを始める。これが1年と9か月も続く。当時、その事件はまったく知られなかったわけではない。新聞や雑誌の記事にもなった★07。けれども、デンマークにおける脱施設の運動のように取り上げられることはまずない。舶来のものでないものをわざわざそう語ることはない。あったことは好き嫌いは別に知られてよい。そう思って私たちも『生の技法』を書いたのではあった★08。
  どうして無視し忘れることにしたか。いくつか言えるが、その一つは、医療や福祉を担っている当の人たちが非難されてしまうできごとであったことによる。そして[2]に記したように、「革新」の側にいたことにもよる★09。
  しかし、聞きたくなくてももっともなことが言われた。1971年の「婦長への抗議」というセンターのN婦長への手紙から引用する(p.101)。

  「私はみんなによく言われることですが、「センターの悪口を言っている」と決してそうではないのです。施設と言うそのものの、存在を明らかにしているだけです。別にここだけの問題ではないのです。全国にある施設が問題をもっている共通な問題なのです。例えば、腰痛です。なぜ腰痛になるのか。と言う事を掘り下げていかなければ、解決などしません。又、なぜ私たちは施設という、特殊な社会に置かれなければならないのか。私たちもこういう所で、働く人も、考えて行かねばならないのです。それをみんな誤解して悪口だと言っているんです。
  それからはNさんは「親しくしている人なら、男の人でもトイレをやってもらっても、いいじゃないか。」と言いましたね。[…]Nさんは男女の区別を乗り越えるのが本当だと言いましたね。だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別々にしてあるんですか。」

 その後、センターに戻るが、1975年にそこを出て、東京都国立市で俊明と暮らし始める。生活保護をとる。同年「くにたちかたつむりの会」発足させる。1983年に「かたつむりの家」を始め、場所と人を提供し、多くの人たちの「自立生活」への移行を支援。1993年には「ライフステーションワンステップかたつむり」を発足させる。
  ◇樋口恵子(1951〜)。著書に『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』(樋口[1998])、『父83歳、ボケからの生還』(樋口[2004])。高知県安芸市生まれ。1963年に幼い時の脊椎カリエスが再発。中学時代は寝たきりで施設生活を経験。1971年に大学に入学。1974年に東京・町田市に移り、障害者運動に本格的に取り組む。1986年に日本で最初の自立生活センター「ヒューマンケア協会」(東京都八王子市)設立に参加。1989年、町田市で自立生活センター「町田ヒューマンネットワーク」を創設。1991年、全国自立生活センター協議会(JIL)の発足に関わり、1995年には代表に就任。1994年、町田市議会で初めての女性障害者議員に当選。1995年、北京女性会議で優生保護法改正を訴え、翌96年の母体保護法への改正をもたらす。2001年には国会議員選挙に出馬。当選はならなかった。以下は、選挙日前日の演説より。

  「私は障害を持って生きてきました。そして、障害はダメなもの、直さなければならないもの、そんなメッセージを受けながら、でも一度しかない人生、誰でも同じ、だから堂々と、生き生きと生きていいんじゃないか、そんな思いの中で、障害を持った仲間たちとともに、地域で暮らしを作る、親許とか家族という保護された場所から出て、また施設という管理された場所から出て、自分たちが住みたい地域を選び、そして一人の人間として、当たり前に生きる社会環境をつくる、働く、そして働いて税金を納める。これまで障害者は保護や哀れみの対象として、扱われてきました。でも、その意識をやっと抜け出そうとしている私たちです。だからこそ、今、21世紀の始めの年に、この政策決定の場に、何としても障害を持っている当事者が参加したい、そんな思いで立候補いたしました。
  […]私は、「障害を持っている子どもたちは養護学校に行った方がいい」というふうにより分けられる分離教育には反対します。どうしてか。小さいときから別々に育っていては、障害を持っている子は特別な存在にしかなりません。お世話をしてあげなければいけない特別な存在でしかありません。ともに遊び、けんかし、学びあうことで、お互いの違い、違いを持っている人たちが生きていくという他文化共生の基本が、小さいときに鍛えられる。そのためには統合教育が絶対に必要だと思っています。もちろん、そのために必要な支援はあります。それは充実していかなければなりません。でも、ともに育つ、この関係をつくっていきたいとおもいます。」

  ◇境屋純子(1952〜)。『空飛ぶトラブルメーカー――「障害」者で私生子の私がいて』(境屋[1992])。この本も生い立ちからが書いてある。高崎市生まれ。脳性麻痺に。1960年に施設に入所、養護学校に入学。高等部は(現在筑波大学付属)桐ヶ丘養護学校。1973年に自立生活を始める。76年に和光大学に入学。車椅子の聴講生を受け入れ話題になった明治学院大学は願書の受理を拒否、和光大学も受け入れは初めてで、様々にもめる。1977年から1984年の間に3人の子を産み、88年に子の父と別居、91年に離婚、3番目の子と暮らす。安積や町田市の堤愛子や樋口恵子たちとも活動、ピア・カウンセリング等の仕事をいっしょにしてきた。また安積と境屋は東京都国立市にある自立生活センター「くにたち援助為センター」の運営にも関わっている。(このところ境屋うららの名前で出ている。)
  ◇小山内美智子(1953〜)。脳性まひ者。1970年代後半から北海道を中心に活動。「札幌いちご会」を発足させ、以後代表を務める。著書に 『足指でつづったスウェーデン日記』(小山内[1981])、『車椅子で夜明けのコーヒー――障害者の性』(小山内[1995])。『あなたは私の手になれますか――心地よいケアを受けるために』(小山内[1997])、他。
  ◇金万里(1953〜)。先にあげた共編書の他、単著では『生きることのはじまり』(金[1996])。大阪生まれ、3歳のときにポリオにかかる。4年間の入院の後退院、1961年に施設に入所、10年を過ごす。1975年に介助を受けながらの一人暮らし、「自立生活」を始める。1983年に劇団「態変」を旗揚げし現在も主宰する――[1]に掲載したのはその劇団の公演のポスター。1985年に出産。その著書には、療護施設のあり方に抗議しようと施設に行き、成り行きで占拠することになり、針金で自分を部屋の机にくくりつけて籠城し、そして踏み込んだ機動隊に連行されるのだが、しかし連れて行かれたのは警察署・拘置所ではなく自分たちの事務所だったという、高揚した、同時になさけない、一部で有名な事件の顛末が書かれていたりする(127-132頁)。そして男や子どものことが書かれているし、優生保護法、子宮摘出手術のこと等、大きな問題になって、そして今に引き継がれていることがどのように問題にされたのか、自らがどう受け止めたのかが書かれている★10。
  ◇橋本みさお(1953〜)
  ◇堤愛子(1954〜)。【she has cerebral palsy and is peer counslor and a member of Women's Network of DPI Japan, cf. Tsutsumi et al. [2009] as Englis paper on website) in Tateiwa [2002]. I touch on this in cited papers of Aiko Tsuteumi (Tsutsumi [1988] and [1989].】【(Some of these texts of Tsutumi and others are tranlated into English and Korean and cited in our website. See "Discourses on Disability": http://www.arsvi.com/d/d00d-e.htm, http://www.arsvi.com/d/d00d-k.htm)】
  ◇安積遊歩(1956〜)。『生の技法』の共著者で、第1章「〈私〉へ」で彼女の約30年を語っている(戸籍名は純子でこの本では純子になっている)。福島県生まれで、骨形成不全の障害がある。私が初めて会った1985年には東京都の国立市に住んでいて、今でも住んでいる。最初の単著は『癒しのセクシー・トリップ――わたしは車イスの私が好き!』(安積[1993])、『車椅子からの宣戦布告――私がしあわせであるために私は政治的になる』(安積[1999])、『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』(安積[2010])
 「〈私〉へ」では、親に連れられ病院に通って、よくわからないまま手術を何度も受けたが、痛いだけでよいことはなかったこと、病院が横にある寄宿制の養護学校に入るが看護師が厳しくて辛かったこと、等々。医療・看護にとってうれしいことはすこしも書いてない。かといって「特殊教育」を含む福祉業界がよかったという話になっているわけでもまったくない。それが全体の一部であることをまずは認めよう。しかしそういう人が一人いることはまず事実であり、そしてそういう人は、私は聞き取りして思ったのだが、たくさんいる。(この辺をきちんと押えておいた方がよいと述べたのが、『臨床社会学の実践』所収の「なおすことについて」。)さてこれはどういうことなのかと考えると、「医療モデル」vs…という話につながる。
  ただそれはたくさんのことが語られている中の一つだ。なにより、人生が変わることについて語られる部分が幾つかある。米国に半年行った時の話もその一つなのだが、その前、1976年、20歳の時、彼女はその日付を覚えているのだが、福島青い芝の会という小さな組織の花見大会(と当地では言うのだそうだ)に、もう一人その前に人生が変わってしまった人(本には名前が出ていないが『自立生活運動と障害文化』(全国自立生活センター協議会編[20010501])に「「障害者は生きているのが仕事だ」ってね」が載っている鈴木絹江である)にかどわかされて、行くのである(28-30頁)。この辺りが私にはおもしろく、重要であるに違いないと思われ、大学での講義で、なにがしかの熱情とともに、紹介してきた。
  そしてさらにその20年後、1996年に宇宙(うみ)と名付けられた女の子が生まれる。その宇宙さんも骨形成不全で二人は骨形成不全親子をやっている。出産の前後のことは、96年、97年と2度NHK教育テレビの番組でも放映されたからご覧になった人もいるだろう。そしてその後のことは、1999年に出版された2冊目の単著『車椅子からの宣戦布告――私がしあわせであるために私は政治的になる』に描かれている。
  彼女は、そして樋口や境屋は、言葉としては知られつつある「ピア・カウンセリング」の創始者とは言わないまでも、その普及にもっとも力を尽くしてきた人たちでもある。ピアpeerは仲間・同輩といった意味の言葉。何か同じものを共有し共通の境遇や経験があることによって、互いの相談に乗り支援することがよくできるという考えのもとになされるのがピア・カウンセリング。その共通のところは、女性だとか、学生だとか、年寄りだとか、様々。その中に障害者同士のカウンセリングもある。安積は私たちが会う前の1983年、半年ほど米国に行った。当時、ダスキンがお金を出し、日本の障害者が米国で学ぶというプログラムがあった――今も行き先の幅を広げ、続いている★11。彼女は米国でこのアイディアを仕入れてきた。もちろん仲間同士の話の聞き合い、助け合いはずっと行なわれてきたことではあるのだが、その場と時間を設定し、理念や方法を明確にしようとしたものということになろうか。彼女は、1986年に設立された自立生活センターの草分け(を自称する)東京都八王子市の「ヒューマンケア協会」という(最初はとても小さな)組織でこの部門の責任者になり、仕事を始めた。(センターについては『生の技法』の第9章。狭義のカウンセリングではないが、この考え方を使った「自立生活プログラム」については第6章。)このカウンセリングは、はまる人とそうでもない人、その辺りの温度差はありつつ、かなりの速度で全国に広がっていった。共編の本として、本屋で買える本では、安積遊歩・野上温子編『ピア・カウンセリングという名の戦略』(安積・野上編[1999])★12。
 ◇津野田真理子(1957〜)。『マリコいろにそまれ――障害者の女が街で生きる時』(津野田[1983])
。津野田は東京の人で、脳性まひ。本は雑誌『話の特集』に連載された文章を集めたもの。彼女はなにか特定の団体に属して活動してきたという人ではない。そんな人たちの書いたものもたくさんある。そうでない人たちのものもある。今後いくらかその紹介は続けていくつもりだ★13。


■註[以下、韓国語版・英語版では略]

★01 河野は『そよ風のように街に出よう』というとても大切な雑誌の創刊に関わった人でもある。牧口はポリオの後遺症で松葉杖を使い今は車椅子を使っている。ともに大阪人。
★02 HPはhttp://dpiwomennet.choumusubi.com/
 そこには次のようにある。
 「DPI女性障害者ネットワークは、 1986年、当時DPI(障害者インターナショナル)日本会議の副議長だった樋口恵子さん(東京都町田市在住 ・脊椎カリエス)の呼びかけにより、国内の女性障害者のネットワークづくりと情報交換を目的として、結成されました。1986年9月、東京で行われた第1回の交流合宿では、会のメインテーマを「女性障害者の自立促進と優生保護法撤廃」と決定しました。」
★03 文献として、市野川容孝「強制不妊手術の過去と現在――ドイツ・スウェーデン・日本」(市野川[2002])等。
★04 「土の宿」のHP:http://www.tsuchinoyado.com.au/japanese/
★05 
★06 「私たちが聞き取りしたのはかたつむりの家を始めてしばらくの頃で、そこを使って親元から出て暮らし始めた赤窄さんという女性にも話を聞いた。
  その聞き取りの後、直接にお会いしたことはたぶんない。だからずっと時間が経った後で、昨年この本が出て、長野大学での障害学会の大会で本を紹介し売りたいのだがという問い合わせが学会にあった。どうぞということになり、若い人々も含めけっこうな人数の「三井一家」は、長野県上田市まで、俊明さんが運転するワンボックスカーに乗ってやってきて、本を販売していった。そこで二〇年ぶりにお会いたのだが、覚えていてくださって、恐縮もしたし、うれしくもあった。そして、いくつか本の委託販売をしている私は、この本についても委託を受けることになり、後に一箱送ってもらうことになったのだ。だから、この本は私のところからも買える。」
★07 この事件についての年表を一橋大学の大学院にいた安藤道人さんが作ってくれた。三井本人が書いた文章「わたしたちは人形じゃない」は、1972年、『朝日ジャーナル』に掲載された。それから25年の時を隔て、同じ題の本が出たということだ。この文章は本には収録されていないが、私たちのHPに全文が掲載されている。
 新田 勲(にった・いさお)
★08 「とくに1970年代前半の現実は錯綜していて、一読して了解するのは難しい。本の作りとして難しいというだけでなく、実際がとても複雑なのだ。こんな施設はいやだと言いつつ、移転反対、その施設に居残るための運動をする。施設に文句をいい、本来こんなものがあるのがおかしいと言うのなら、出ればよいという話もあるし、実際支援する側の人にもそういうことを言う人たちが人がいる。
  もともとが少ない人数だが、内部でもまとまらない部分はある。抜けていく人もいるし、家族が中に入って抜けさせられてしまう人もいる。多くの人に広がらない。その施設と職員に依存して暮らしが成り立っているとなれば、たてつくのは当然難しい。基本的なところから戦術的なところまで、あらゆるやっかいさがある。しかし、そうしてごちごちゃにことが進むのではあるけれども、基本的に三井たちに理と義はある。行くところがなければ残らざるをえない。それはよい場であるべきだ。文句があるなら出ればよいというのは、むろん端的にまちがっている。
  移転は実施されたが、弱小勢力のわりには影響を与えたとも言える。一部入所者の移転先とされた多摩更生園の方に移った人もいる。その施設は住宅地が東京の西の方に延びていく中で、当初批判されたほど人里離れた施設ではなくなり、移った人たちにもよってそれなりの生活条件の改善がはかられた。こうして都内の療護施設は、他に比べればましなものになった。他方、療育センターの方は懸念された「重症重度一本化」の方に進むことになる。後にそこを訪れた都知事が「あの人たちには人格があるのか」といった発言をする。
  獲得してきたものが現にあるのと同時に、残されることもある。出られる人から出ればよい。その通りだが、するとその施設で文句を言う人もいなくなる。今でもこの問題は片付いていない。しかし、こうしたことも「込み」にして考えながら、施設を批判した運動があったことは記憶されてよい。
  ともかく、これが日本における施設批判の始まりである。私たちは「脱施設」や「ノーマライゼーション」が外国から入ってきたものだと思っているのだが、そんなことはない。1960年代後半、1970年前後にことは起こっている。」
★09 「まず施設を作ることが障害者福祉の前進だとされていた。また、待遇改善要求は、現実には労働者により多くの労働を求めることであり、労働組合、それと関係する(革新)政党が訴えを聞くのは難しかった。そして当時こうした動きに関わっていたのは、革新政党と対立する別の左派だった(p.160等)。都知事は美濃部亮吉で、「革新都政」の時期に都庁前でハンストをした。だから、ごく一部の動き――それは事実だ――だったとして無視しようというのは、わかる話ではある。」
★10 「彼女らは、こうして激動の中にいたのだが、これは一度だけ起こったことなのか、ずっと起こっていることなのだろうかと思う。両方なのだろう。その形は状況の中で変わっていくのだが、しかしこのままではどうもよいことはないことに変わりはなく、ではどのようにやっていくかということになり、そのときに人は自分のまわりにあるものに影響されたり、またそれを自身で使ってみたりする。そこでは、「私」と「私たち」の関係を問うことも起こる。そして「論理」の位置を考えることにもなる。例えば金は鋭利な論客であり、論理で仲間を説得し、相手を破った。つながりとかふれあいとかすぐ言い、福祉は論理ではありませんみたいなことを、平明に、しかし高慢に語る人たちとそれは異なる。そんな場所から関西では「国際障害者年をブッ飛ばせ!'81」という歌って踊る催しが行われる。それはレオタードで身体障害とその動きを表出する劇団「態変」の旗揚げにつながる。やがてその劇は台詞もない筋立てもない劇になっていく。」
★11 
★12 以前、ヒューマンケア協会発行の報告書『自立生活への鍵――ピア・カウンセリングの研究』(1992)の編集実務の仕事を頼まれてしたことがある。『看護教育』昨年12月号の第22回「サバイバーたちの本の続き・2」で紹介した日本社会臨床学会編『カウンセリング・幻想と現実』(現代書館、2000年)の中で、篠原睦治はピア・カウンセリングに対して(も)批判的な文章を書いている。
★13 猪野千代子(1936〜1999)/大野萌子長野英子橋本みさお/福嶋あき江(1958?〜1987) …→障害者(の運動)史のための資料

文献別頁

 もとにした文章↓。
◆立岩 真也 2003/03/25「障害学?の本・2」(医療と社会ブックガイド・25),『看護教育』44-03(2003-03):214-215(医学書院)
◆立岩 真也 2003/04/25「人生半ばの女性の本――「障害関係」・3」(医療と社会ブックガイド・26),『看護教育』44-04(2003-04):(医学書院)
◆立岩 真也 2007/09/25 「『私は人形じゃない』」(医療と社会ブックガイド・75),『看護教育』48-09(2007-09):-(医学書院)

 * 論文としては以下がある。
瀬山 紀子 1999 「<語り>と<コミュニティ>の生成――障害を持つ人々の語りを通して」,1998年度お茶の水女子大学人間文化研究科発達社会科学専攻応用社会学コース修士論文
瀬山 紀子 2002/10/31 「声を生み出すこと――女性障害者運動の軌跡」,石川・倉本編[2002:145-173]*


UP:20100906, 20110521
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