その教員や大学院生のある部分は障害学に関わりをもち、学会員であったり、学会の大会で報告をしている人もいる(2009年の第6回大会は立命館大学を会場としたという事情があったために例外的ではあるが、報告者延79名のうち私たちの研究科・COEの現在の関係者が42名を数えた)。ただ、まったく重なるわけではなく、障害学の対象とする範囲よりもいくらか広い範囲が研究の対象になっているとは言えるだろう。
例えば「障害」と「病」を「障害」とがしばしば対置され、障害は病気ではないと言われる。その主張には十分な根拠があると私は考えるが、しかしそれと同時に、障害でもあり病でもあるような状態もあるだろう。例えば――私にもその人たちのことを書いた『ALS――不動の身体と息する機械』(立岩[2004])という著作のある――ALS[Korean] の人たちは重度の障害者であるのだが、一般には、そして本人たちの多くも病人であると思われているし、その思いに現実性はあるはずだ。他方で、自分は病人ではない障害者なのだと語るALSの人もいないではない。こんなこと自体が考察の対象にもなるだろう(このことについての私見は別の文章で述べることする★01)。そしてまた、病・老い・…について研究してきた人たち、研究したい人たちがここにいる。それぞれがしたいこと、行なうべきごと思うことを行なうがよい。こうして広がっていった時に、それを括る名称を容易に思いつかなかったというのが正直なところである。ともかく人は様々に生きている。そして、そこに様々な困難もあるし、考えるべきこともある。そして現に生きてきた人たち自身が様々な技を考え実践してきたし、またそれを引き継いで私たちにも考えるべきことがあると思う。そしてともかく短い名称が求められた。そこで漢字で3字の「生存学」とした。
「生(sei)」は英語なら「life」だろうが、「life studies」と訳すとすこし違うようにも思った。また「生存(seizon)」は「survial」と訳すこともできるが、「survial studies」でもうまく伝わらないと思った。うまく英訳できず、結局、ラテン語を使うことにした。「Ars Vivendi」とし、それに「Forms of Human Life and Survival」を付した。「Ars」は「art」につながっていく言葉だと思うが、それは狭い意味での「芸術」ではなく、また「technic」とも異なる。「vivendi」は「art」を形容する言葉だが、フランス語の動詞では「vivre」となる。生体として生きていることだけを意味するのではないが、しかし同時にその身体性の次元からも切り離されてはいない。ちなみに、私と共著者たちが1990年に『生の技法(sei no gihou)』([Japanese]/[English]/[Korean])という本を出版した時(増補改訂版が1995年)、表紙に記した語がこの「ars vivendi」だった。慶應義塾大学の教員である共著者の岡原正幸([Japanese])がその大学のラテン語の教員に確かめてくれた。