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障害者運動/学於日本・6――京都で・生存学

立岩 真也 2010/08/22
[English][Korean]

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先端総合学術研究科/「生存学」創成拠点

 *[以下と一部同様の記述含む文章の韓国語訳あり→これは翻訳者のための注記→訳さない]

 今回バーンズ氏とシェルドン氏が講義を行なうのは立命館大学の大学院先端総合学術研究科である。この大学院は、なんとも形容しがたく説明しがたい大学院なのだが、2003年度に開設された、学部をもたない独立した大学院であり、5年間の博士課程一貫制の大学院(他で修士課程を修了した後期課程への3年次入学の学生も受け入れており、近年はむしろそうした学生の方が多い)、1年の受け入れ定員は30名という規模である。その研究科のウェブサイトで一応の説明は掲載されているので、それを見ていただくのがよい([Japanese][English][Chinese][Korean])。
 その研究科は2003年に開設されたのだが、障害や病、総じて身体の差異や変容に関わる研究をしようという人が多くやってきた。なぜなのかはっきりしたことはわからない。一つに、教員の中にそんな領域に関する研究をしてきた人たちが複数いたということはあるだろう。そしてその教員たち、そしてだんだんと増えてきた大学院生の仕事が知られるようになったこともあるだろう。
 そしてこれまでに、視覚障害をもつ院生が7人、車椅子の利用者4人を含む他肢体不自由者が6人、等、障害をもつ学生が入学してきた。(精神障害、発達障害となると、はたしてこれらの障害をもつ/もたないをどう区別するかということになる。そしてこれは、「インペアメント」/「ディスアビリティ」という図式がどれだけ有効なのかという主題にも関わる。このことについては別の文章で私の考えを述べる。)その割合は、日本の大学院としてはかなり――というよりむしろ現在においては特異に――高い。後に記すように、それらの院生に対して、試行錯誤しつつ、支援を行なってきており、またその試み自体が研究活動の一部にもなっている。
 また、社会福祉や看護や医療の領域で職業として働いたり、活動を行なう中で、調べたり考えたり、自らを振り返ったりまとめたりするといった関心を持っている人たちは、具体的に大学や大学院に入ろうとまでは考えないにしてもかなりの数に上る。その中には医療や看護やリハビリテーション、社会福祉の場で働いたり、それを教育する立場にいる人たちもいる。そうした人たちのための大学院は日本でも近年かなり整えられるようになっており、もちろんそうした場で学ぶ人も多い。ただ、そこで教えられることと自身の関心がどうもうまく合わないといった人、あるいはなされていること・教えられていることをそのままに受け取れないといった人たちがいる。むしろよいこととしてなされていること、また教えられていることに疑いをもって、そのことをどう言ったよいのかを考えたいと思う。そんな人たちがかなりの数、その研究科にやって来るようになった。
 こうして、いまもこの研究科は、すくなくとも人文社会科学系であれば、どんな研究をしようという人でも受け入れる研究科だが、数として、そんな人たちが多くなってしまっている。そんな実情があった上で、私たちは、本の文部科学省が選定し資金援助を行うグローバルCOEプログラムに応募し、選択された。拠点の名称を〈「生存学」創成拠点――障老病異と共に暮らす世界の創造〉とした。その趣意書があるからそれをご覧いただきたい([Japanese][English][Korean])。またパンフレットもHPに掲載されている([Japanese][Korean])。それは2007年度から2011年度の5年間の期限付きのプログラムなので、大学の方にはこのプログラムと別に「生存学研究センター」を設置しているが、それらの組織・名称と、その違いにさしたる意味はない。あるいは何かの「学」を名乗ることに(少なくとも私は)意味があるとは思わない。むしろ困るのは、「「生存学」とは何か?」と聞かれることである。必要なものは、とくに何学という名称のもとでなくても、進められていくべきものだと思う。また、ある主題についての立場・主張が一人ひとりで異なっていてもそれはそれでかまわない、ある場合にはそのことを歓迎したいと思う。ただ、ただ、おおまかには上掲の趣意書に記したように考えている。その最初の段落だけをここに再掲しておこう。

 「人々は身体の様々な異なりのもとで、また自分自身における変化のもとに生きている。それは人々の連帯や贈与の契機であるとともに、人々の敵対の理由ともされる。また、個人の困難であるとともに、現在・将来の社会の危機としても語られる。こうしてそれは、人と社会を形成し変化させている、大きな本質的な部分である。本研究拠点は、様々な身体の状態を有する人、状態の変化を経験して生きていく人たちの生の様式・技法を知り、それと社会との関わりを解析し、人々のこれからの生き方を構想し、あるべき社会・世界を実現する手立てを示す。」

 その教員や大学院生のある部分は障害学に関わりをもち、学会員であったり、学会の大会で報告をしている人もいる(2009年の第6回大会は立命館大学を会場としたという事情があったために例外的ではあるが、報告者延79名のうち私たちの研究科・COEの現在の関係者が42名を数えた)。ただ、まったく重なるわけではなく、障害学の対象とする範囲よりもいくらか広い範囲が研究の対象になっているとは言えるだろう。
『ALS』』表紙  例えば「障害」と「病」を「障害」とがしばしば対置され、障害は病気ではないと言われる。その主張には十分な根拠があると私は考えるが、しかしそれと同時に、障害でもあり病でもあるような状態もあるだろう。例えば――私にもその人たちのことを書いた『ALS――不動の身体と息する機械』(立岩[2004])という著作のある――ALS [Korean] の人たちは重度の障害者であるのだが、一般には、そして本人たちの多くも病人であると思われているし、その思いに現実性はあるはずだ。他方で、自分は病人ではない障害者なのだと語るALSの人もいないではない。こんなこと自体が考察の対象にもなるだろう(このことについての私見は別の文章で述べることする★01)。そしてまた、病・老い・…について研究してきた人たち、研究したい人たちがここにいる。それぞれがしたいこと、行なうべきごと思うことを行なうがよい。こうして広がっていった時に、それを括る名称を容易に思いつかなかったというのが正直なところである。ともかく人は様々に生きている。そして、そこに様々な困難もあるし、考えるべきこともある。そして現に生きてきた人たち自身が様々な技を考え実践してきたし、またそれを引き継いで私たちにも考えるべきことがあると思う。そしてともかく短い名称が求められた。そこで漢字で3字の「生存学」とした。
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』表紙  「生(sei)」は英語なら「life」だろうが、「life studies」と訳すとすこし違うようにも思った。また「生存(seizon)」は「survial」と訳すこともできるが、「survial studies」でもうまく伝わらないと思った。うまく英訳できず、結局、ラテン語を使うことにした。「Ars Vivendi」とし、それに「Forms of Human Life and Survival」を付した。「Ars」は「art」につながっていく言葉だと思うが、それは狭い意味での「芸術」ではなく、また「technic」とも異なる。「vivendi」は「art」を形容する言葉だが、フランス語の動詞では「vivre」となる。生体として生きていることだけを意味するのではないが、しかし同時にその身体性の次元からも切り離されてはいない。ちなみに、私と共著者たちが1990年に『生の技法(sei no gihou)』([Japanese][English][Korean])という本を出版した時(増補改訂版が1995年)、表紙に記した語がこの「ars vivendi」だった。慶應義塾大学の教員である共著者の岡原正幸([Japanese])がその大学のラテン語の教員に確かめてくれた。

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 それで私たちは何をしているのか。多様であり、その成果の多くはまだ日本語でしか存在しないのだが、まず、各々の主題や論文や学会報告の題は、順次いくつかの言語にしてもらっている。ご覧いただければと思う。
 それらを幾通りかの方法で括ることが可能なはずだが、上に紹介した「趣意書」では、3つに括っている。
 一つは、まず、知られてよいのに知られていないこと、記録されてよいのに記録されていないことを記録すること、そしてそれらから考えるべきことを考えることである。例えば[2]に少し記したように、各々の国・地域における政治勢力の配置が言論のあり方に影響を与えるといったことがある。それにどれほどの意味があるのか、そのことを考えるためにも、ひとまずは調べて知っておいてよいことがある。障害者の運動一つをとってみても、そこには、非常に広く強い共通性とともに、いくらかの違いがある。そのそれぞれを辿っておく必要がある。
 そして、そうした知見もふまえながら、なしをよしとするのかしないのか、理論的に――哲学的・倫理学的にと言ってよいかもしれない――考究するべき課題がいくつもあるだろう。詳しくは別のところで述べようと思うが、いわゆる「Bioethics」と呼ばれる領域の主題にしても、そしてそこで「主流」とされている考え方にしても、そこにはずいぶんとその学が生まれ育ってきたその社会の価値のあり様が強く関わっているように思われる。私自身は、価値・道徳の普遍性を示すことができると考える立場に立つが、まず事実として、主流とされる考え方に対する別の考え方があると思うし、さらに言えば、その別のものの方にこそ理に適ったところもあると思う。ところがそれは、現に存在するにもかかわらず、また筋道が通っていると解することができるにもかかわらず、そのようには扱われないことがある。例えば、Bioethicsと障害者たちの運動・主張の関係にもそんなところがあるように思える。障害学は、そうした部分を問題にしている。ただ、そこから学びながらさらに考えるべきこともまた多々あるように思える。

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 次に私たちが唱っているに、障害や病をもつ本人が研究を担っていくこと、またそのための仕組みを提示することがある。例えばその成果の一つとして『視覚障害学生支援技法』の刊行がある。これには韓国語版(冊子+ウェブ掲載)と一部の英語版(ウェブ掲載)がある。さきに紹介したように、現に必要な人たちが私たちの中にいるのだから、私たちは、実践的に障害を有する人たちの教育・研究という主題に関わっており、関わらざるをえないでいる。そして私は、これらが疑いなく必要であるあるからには、どのような学問の名称のもとであれ、進められる必要があると考えている。そしてもちろんそれは、障害学の課題でもある。日本の障害学会2007年の大会2009年の大会は立命館大学で開催されたが、2009年のシンポジウムの一つは、私たちの研究科の大学院生が実質的に企画を担当した「障害学生支援を語る」だった。既に身体障害者や視覚・聴覚障害の学生支援についてはかなりのことが言われ、そしていくらかのことがなされているということもあり、内部障害、精神障害、発達障害を有する大学生を招いて報告をしてもらった。
 そしてむろんこれは教育・研究の場面だけに関わることではない。視覚障害、聴覚障害、そして身体障害による発話困難者のコミュニケーションに焦点を当てた、「異なる身体のもとでの交信――本当の実用のための仕組と思想」という研究を始めている。むろんここでは科学技術の役割がときに決定的に重要なのだが、この研究自体には自然科学の研究者は入っていない。そうした研究開発の重要性を前提としつつ、その技術をどう使うか、その制度的な仕組みや、社会のあり方について検討し、可能な方向を提案しようとしている。例えば、視覚障害を有する人が書籍などの文字情報をコンピュータを使って聞いたり拡大文字にする際の、情報提供の仕組み作りや著作権法上の問題の解決のあり方を検討するといった課題がある。

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 そして既に上にあげた2つに既に含まれているのでもあるが、社会の大きな構成部分から細かで具体的な仕掛けにいたるまで、人と人との間の小さな関係から国境を越え地球規模で考えた方がよいことまで、仕組み・制度を構想し、その実現のための手だてを考え示すことである。  例えば、[3]にすこし記した実践があり、作り出されてきた仕組みがある。その流れを辿り記録することが一つの課題としてあることはさきに記したが、それを整理し、残る課題を考えるといったことも必要だろう。例えば私自身の現在の仕事のかなりの部分をしめるのはそうした作業である。今回の一連の文章の中では[4]もその一部だが、2009年に刊行された『税を直す』([Japanese][English])、2010年に刊行された『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』([Japanese][English])もそうした方向の著作である。そしてこれらは、いずれも私たちの研究科の大学院生・修了者が共著者として加わっている。またより基本的な考察は、1997年の『私的所有論』([Japanese][English])、『自由の平等』([Japanese][English])等で行なってきた。



★01

文献別頁


UP:20100817 REV:20100821, 26, 30
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇障害学
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