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障害者運動/学於日本・3――――税を使い自分ら運営する

立岩 真也 2010
[English][Korean]

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要約

 [1]で障害者運動の転換について、[2]でそこに存在した対立について記した。それは、一つに、現代社会、現代文明の批判に向かい、差別の糾弾・政策の批判に向かう。「なおすこと」「できること」の価値を疑う。同時に障害者たちはこの社会で現実に生きて行かねばならない。もちろん、批判することと現実を作っていくことの間に根本的な矛盾はないはずだが、運動と主張の方向を巡って現実には様々な議論があった。ただここでは、ごくごく簡単に、この国の運動が得てきたもの、作ったきたものを紹介するにとどめる。要点は2つである。その運動は最大1日24時間の介助制度を獲得した。そしてそのサービスの相当部分について、自らが運営する組織によって供給している。



 日本の障害者運動を中心になって担ってきたのは脳性まひ等重度の障害者であり、その生活のためには介助を必要とする。それを家族からでなく、また施設における介助でもなく、地域で生きるためにどのようにして介助を得ていくか。当初その介助を担ったのは、大学生等、運動に共感する人たちだった。そしてそれは無償の行ないとしてなされた。またなされざるをえなかった。けれども、それでは安定的な介助を得ることができない。また、限られた支援者・ボランティアだけに介助を委ねるなら、他の人たちは、また障害者たちの生活を困難にしている社会全体は免責されることにもなる。
 ゆえに介助を含む生活の保障が公的なものとしてあるべきだと主張する。だが一方で、生活の主体は自らであり、他者に管理されるべきものではない。このこともまた、彼らが施設の管理体制に対する批判として運動を始めた以上、当然のことだった。そこで、生活を公的に保障されつつ、自律的に統御できる方向が模索される。
 1970年代から1990年代にかけてあったのは3つの種類の制度だった。
 1)まず国の法律によって自治体が実施する制度として、障害者に対するヘルパー派遣の制度があった。だがそれは当初週2時間から4時間といった時間の派遣しかなされず家族と施設から離れて暮らす重度障害者にとってはまったく不十分なものだった。また派遣されるヘルパーの選択も認められていなかった。
 そこで、その制度の拡大を要求しながら、2)まず東京都の障害者たちは自治体独自の制度を求めた。府中療育センター(→[1])から出て生活を始めた人々、彼らとも関係しつつ個別の運動を行ってきた人々は、東京都との交渉によって、1973年に利用者が選んだ介助者に対して自治体から介助料が支払われる制度★01の設立を獲得し、1974年度から実施された。
 3)また障害者側の要求によって、厚生省は生活保護他人制度における介護加算について、特別基準の適用を受けうることを示した。これが1975年度から実施される。これは生活保護を受給する利用者本人に費用が支払われるもので、「ダイレクト・ペイメント」(→[4])の形式をとったものである★02。
 以上のような試みは、まずは主に東京の一部の人に限られたものだった。それが全国的な広がりをもつ契機として、1976年の「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の結成がある。この組織は、生活保障運動や、[1]に記した青い芝の会の運動など、当時全国各地にあった、交通・教育・労働等をめぐる闘争が個別の闘争として持つ限界を超え出て、運動を連接し、連携させて、強力なものにしようとする意図のもとに結成された。その中で生活の問題は、当初から最重要課題の一つと位置づけられていた。そして、府中療育センター闘争を担ってきた人達、また裁判闘争を行ってきた人々は、結成大会で既に、生活の現状と運動の経緯を報告し、今後の方針を語り、提起している。さらに彼らは、現在の生活が個々の障害者の努力によってかろうじて成り立っていることを問題とし、やはりの結成大会で、自らが運営する介助者の派遣センターを作ることを提起している。
 こうした動きにも呼応して、各地で幾人かの障害者が、生活保護の他人介護料、特別基準を要求し、一部が実現する。また、他の地域でも自治体に働きかけて、独自の制度を獲得するところが出てきた。こうして、国および自治体との継続的な交渉の結果、1993年から、東京都の一部で以上3つの制度を併用した場合、最大1日24時間の介助保障が実現した★03。そしてこうした長い時間の介助制度が存在する地域が徐々に全国に広がっていった。



 家族から離れ、施設に入って生活することを選ばない重度障害者たちは、1970年代から、そして地域によっては現在も、学生や労働者たちのボランティアによる介助を得ることによって、暮らしを成り立せてきた。上述した制度的・経済的な保障の拡大が徐々に進むことによって、そのボランティアの一部は、介助による報酬を受けとることができるようにもなった。またその一部にはそれで生計を立てていくことができるようにもなった。
 ただ当初は、介助について支給される金額は少なかっから、例えば、長い時間の介助にあたり生活やときに運動の全般を支える人は生活できるだけの金を得られるようにし、それ以外の人たちは金を受け取らないようにするなど、様々な工夫がなされた。そうした場合には、数人の(時に一人の)障害者とそれに関わる人たちが小さな会を作って、様々なことを決めたり相互の交流をはかったりした。そうして今もうまくいっているところもある。ただ、人間関係がうまくいかなくなり、生活もうまくいかなくなるといったことも起こった。
 そこで、自立生活センターで、介助を利用する人と介助する人とを媒介し調整する活動を行なうことが本格的に始まった。「自立生活センター」という言葉は、1980年代の初めに米国の自立生活運動のリーダーたちを招いたセミナーなどが開催され、知られるようになり、そうした名称を使う組織もいくつか現れてきたが、権利擁護、自立生活プログラムといった活動とともに、介助者と利用者との調整を活動の大きな部分とする組織が現れたのは1986年、東京都八王子市に設立された「ヒューマンケア協会」である。米国の自立生活センターは介助者と利用者の登録の情報提供は行うが、それ以外のことはしないところが多いと言われる。それに対して、日本の自立生活センターにはこの活動を積極的に担うところが多い。自立生活センターの数は次第に増え、1991年には全国組織として「全国自立生活センター協議会」(JIL)が発足する。
 自立生活センターの増大、その活動の拡大は、自治体によってはそうした活動に資金を提供したところがあったことにもよる★04。ただそれはあまり拡大・進展を見せることはなかった。むしろ、その時点で存在していた制度を個々人が使うに際して自立生活センターを利用し、その際、手数料をセンターが得るという形態が取られた。また、これから述べる2000年以降の制度のもとで、介助者派遣の事業を行ないそこから一定の収益をあげることができるようになったことが大きい。そこで、コミュニケーション等について障害が重い人たちの介助等、他の組織や民間企業が参入をためらうような部分について事業体を作って、介護サービスの供給を行なう組織も現れた。その収益を得ながら、多くの場合、資金を(地域によってはまったく)得ることができない権利擁護等の活動を並行して行なっている。また、事業所の中には、自分一人が利用者であり事業主であるといった場合もある。これは、利用者が費用を受け取って介助者を雇用し管理するという形態に実質的にはかなり近いものである。
 こうして日本では、1970年代以降続けられてきた介助費用を政府から得ることを求める運動と、自ら組織を作り利用者がよいサービスを得られるようにしようという1980年代半ばから大きなものになる動きとが合わさって、現実を前に進めてきた★05。
 そしてそれは当然、これらのサービスに関わる予算を増やすことになる。もちろん、利用者の側はその額はまったく多すぎるようなものではなく、むしろ低すぎると考え、そのことを主張してきた。それは当然である。だが「高齢化」のもとで社会保障・社会福祉予算の膨脹を、あるいは政府の支出そのものを押さえようとする側は、そこに規制をかけようとする。そして、これらの運動を牽引してきたかつて障害者運動の中でも少数派であったきた人たち・諸組織は、とりわけ2000年代に入り、政府に対する運動、政府との交渉において前面に出ることになる★06。そうした動きが2000年前後から顕在化する。



 2000年からは公的介護保険が始まった。これは基本的に65歳以上の高齢者を対象とするものだが、高齢者でない障害者についてもこの制度のもとに置こうとする動きもあった。障害者はこれに反対した。この制度が、在宅で暮らす人の介助に使われる場合には家族介護のいくらか補完をする程度のもの――幾つかの種類のサービスがあるが、訪問介護だけを利用しようとすれば、最も重度と認定されたとしても1日2〜3時間しか利用できない――だったからである。ゆえに障害者はこの制度への組み入れに反対した★07。そしてこの時には、反対があったからという理由からではないが、「統合」は実現されなかった。
 (高齢者以外の)障害者の制度は2003年4月から「支援費制度」に移行した。この制度は、直接支払いのあり方を一部とりいれる余地を含ませながら、基本的には費用は事業者に支払われる方式をとった。サービスを拡大させ、そして障害者自らが組織を作り、その供給に関与してきた地域では、利用者と供給者の契約関係、同時に利用にかかわる費用の社会的供給というかたちが既にできていたから、この制度への移行は、新しいものへの移行ではなかった。それは、サービスの量的な改善を目指すものではなく、実施は自治体に委ねられた。しかしそれまで限られた地域にしかなかったサービスが、実施可能なものとして人々に示された。多くの人に、制度があってそれを使えることを知らせることになった。そのために貧弱な制度しかなかった地域での供給水準がいくらか上がった。サービスを提供する組織を作り運営することがより容易になった。制度が実施される地域、利用する人の数は増え、予算も増えることが予想された――そして実際に増えた。制度開始の前、そのことを懸念して厚生労働省は、2003年1月にサービス供給に上限を設けようとした。それに対して障害者の側からの強い抗議行動が起こり、それは実現しなかった。
 そうしてサービスの利用・供給は増え、その実績は予算を上回ることになった。これまで足りなかったサービスが増えたということだから、これはよいことであって、予算通りにいかなかったのは、見込みを間違えたということでしかない。しかし増えるのが困る人たちがいる。担当の役所は厚生労働省だが、この人たち自身がサービスを減らしたいわけではない。ただ、借金をかかえている政府・財務省が受けつける範囲で政策をやっていかなければならない。
 そのままではやっていけないと厚労省は言い、次に出てきたのが「公的介護保険」との(再度の)統合案だった。介護保険の制度に入れば独立した財源だから心配しなくてよいというのだ――吸収でなく、統合でなく、他の制度も残されるのだから介護保険を利用するのだという言われ方もされた。これが浮上したのが2003年の秋。以来、障害者たちがこんどはこの「統合案」への対応に追われた。そして、この案もとりあえず見送りになった。障害者側の反対のためにという部分もあるはあるが、それだけでない。むしろまったく別の理由から、つまり保険料の負担を気にする経済界等の思惑などもあってのことである。
 そしてその後も、政府側と障害者の側の間の折衝は続いたが、結局は政府側が押し切るかたちで2006年4月に「障害者自立支援費法」が成立する。それはサービスについて原則1割の自己負担を求めることで、サービス・予算(の伸び)を圧縮しようとするものであり、生活を困難にするとして反対運動が起こった。憲法違反であるとして訴訟も各地で起こった。2009年に政権が交代し、新たに与党になった民主党はその法律を廃止する方針を出した。そこで訴訟も中止された。また多くの障害者団体の役員が参加した国との会議も始まった。しかし今後どのように事態が推移していくのか、予断を許さない状況にある。



 こうして日本で(あるいは日本でも)現実はなかなか厳しい状況にある。ただそれも、この40年ほどの運動がありそれが事態を前進させてきたからこそその「反動」が現れているのだとも言える。各国の介助に関わる制度が現実にどの程度のものなのか、それを示す資料・文献があると私は聞いたことがないが、社会サービスが進んでいるとされ、実際その通りである北欧諸国――日本の社会保障・社会福祉を進めようとしてきた人たちの多くは北欧諸国の制度・実践に学びそれを日本にも広めようとしてきた――でも、とくに恒例の障害者に対しては処置の打ち切りがなされている。また、本人の「自発性」を論拠にした延命処置の停止が次第に拡大しつつある。そうした中で、最も重度の人であっても生き続けられてよいという主張に発して日本で獲得されてきたもののもつ意義は大きいと考える。
 ではこの主題について必ず持ち出される資源の制約についてどう考えるか。それはまた別に論ずることにする。ただ、基本的には資源は現にあるしこれからもあると答えるしかない。にもかかわらずそこに制約があるかに見えるのは、とくに1980年代以降、社会保障・社会福祉を進める側にいる人たちもまた、社会保障・社会福祉を、つまり人々が等しく負担する制度、あるいはせいぜい所得・消費に応じて負担する制度として、つまり「保険」として発想し、その方向に現実を進めてきたしまったためであると私は考えている★08。

■註[英語版にはなし]

★01 「重度脳性マヒ者等介護人派遣事業」(立岩[1990])。
★02 「生活保護他人介護加算の特別基準」(立岩[1990])。
★03 「いくつかの制度があり、それらは多くの場合併用されている。併用によって、立川市・田無市・東久留米市(九三年度から)、日野市・練馬区(九四年度から)の五つの区市で毎日二四時間まで有償の介助を得られる。二十年来の目標が一部で一応果たされたことになる。地域間格差は確かに大きい。だがそれでも、家族から離れ(世帯を分離し)収入が一定以下の人なら、当然の権利として生活保護を受けることができ、全国どこでも月十七万円まで介助費用に使うことができる。自治体の介護人派遣事業は限られた地域でしか受けられないが、それでも日本の総人口の二割程が住む地域にある。生活保護の他人介護加算との併用も可能だ。ヘルパー制度も拡大し、使いよいものにしていける余地はある。暮らしていける可能性は確かに大きくなっている。このことをまず確認しておく。」(立岩[1995])
★04 「基金」等。
★05 「a:公的制度の充実を志向してきた運動が一方にあった。民間の在宅福祉団体を参考にしながら媒介組織を作りサービスを提供しようとするb:ヒューマンケア協会のような動きは、それらとは相対的には独立に現れてきた。発足した時点で、ヒューマンケア協会のシステムは(介助サービスに限り、当事者主体という主張を除けば)民間の有償ボランティア組織、民間在宅福祉団体とさほど変わらない。当初、bはaを、介助を「有償ボランティア」という曖昧なかたちで安く位置づけるものであり、行政の責任を曖昧にするものだとして、必ずしも肯定的ではなかった。そして、自らが介助者派遣に関わる場合でも、その活動を基本的には行政が派遣するべきだがそれをさぼっている現状にあって、仕方がなく自らで担っているものとして位置づけることがあった。しかし第一に、bの有償介助が軌道に乗ることができたのも、aが要求し実現させてきた国・自治体の制度がある程度整っていたことによる。高齢者以上に、有償介助に回せる自身の資産・収入はない。障害者を対象とする有償の事業は「公的保障」を前提として初めて可能なものであり、それを要求してきたaの運動を前提とするものだった。第二に、公的保障を求め、実現した後、介助料を使って個人的に介助者を調達するにしても、グループ内で融通するにしても、なかなかうまく機能せず、利用者が広がらない。資源は全社会的に負担し、その資源を個々が利用する際に、当事者主体の組織が関わるという方法が積極的に採用されてよいという認識がaの運動を進めてきた人達の間で次第に形成され、その組織自体がCILという組織形態を採用し出した。☆08
 出自を別にするいくつかの組織の登場、それらの関係の中で、また自らの立場を明確にしようとする努力の中で、この国のCILの像が次第に明確なものになってきた。それは米国出自の当事者主体の組織の利点と北欧型の全社会的な負担という方式を最適に組み合わせることを志向するのである。」(立岩[1995])
★06 「2003年の1月、誰の目にもはっきりと見えたのは、ここ十年ほどの間に進行してきた運動側の配置の変化である。つまり旧来の団体との比較では、批判派であり少数派でしかなかった運動体(このとき「行動委員会」に連なった諸団体)が主導権をとり、旧来の大規模な組織と折衝しつつ、後者もその方針に乗るというかたちになった。そして、これらの勢力が交渉の前面に出ることは、ときにそれらが妥協の主体にもなりうるということであり、これらの組織がさらに原則的な批判派から批判されうる存在ともなったことを意味した。この意味でも運動体は厳しい立場に自らを置かざるをえないことになった。上記の「勉強会」についても、障害者の団体でなく、障害者の家族の団体の方が参加することの正当性がどこにあるかが問われて当然であり、また実際に問われてもいる。」(立岩[  ])
★07 他方、難病の人たちの団体などで積極的にこの制度に乗ろうとしたところもある。実際、介護保険を使えるようになり、他の制度と併用している。それがどんな具合かについては『ALS――不動の身体と息する機械』(立岩[2004]○)第10章。
★08 立岩[2009][2010]等。

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UP:20100817 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇障害学
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