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障害者運動/学於日本・2――人々

立岩 真也 2010
[English][Korean][Chinese]

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本人たち

 [1]に紹介を始めた障害者たちの運動は、むしろ、学校には行っていない(障害を理由に学校に行けなかった)人たちによってなされてきた。「青い芝の会」の中心的なメンバーであり「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」の設立にも関わった横塚晃一(1935〜1978)は中学校2年までしか行かなかったし、若くしてガンで亡くなった横塚の後も神奈川で活動を続ける横田弘(1933〜2013)は学校に行っていない。1980年代から1990年代に東京を中心に重要な活動をした高橋修(1948〜1999)も学校に行っていない。独学で学び、学があるけれども学校には行っていない(行けない)人がいるという時期が日本にもしばらくあったのだが、その人たちは――その後現れる、学校に「行かない」人たちを別にすれば――その最後の人たちかもしれない★01。今でも多くないが、当時、とくに重度の障害者に普通学校に学び大学に進む人はとても少なかった。それは、米国の自立生活運動と呼ばれるものが始まったのがカリフォニルア州立大学バークレー校においてだとされるのと異なる。また韓国で、大学に進学したポリオの(重度の脳性マヒに比べれば軽度の)障害者たちが大学に学び、当時の学生運動から運動の手法を学び自らの運動を始め、展開した★02のとも違う。
 そして他と比較して、この時期の日本では、むろん人により様々なのではあるが、相対的に重い障害のある人が多く前面に現われた。他の国・地域でも、下肢以外は健常者とそう違わない、コミュニケーションには障害のない人たちが、中心にいることが多い。日本でもそうだった。ただこの時期からいくらか違ってくる。行動し発言するには普通は障害が軽い方が便利だろうから、これはいくらか不思議なことのように思われる。だが、一つ、重ければ他者たちの支援を必要とし、そのことのために、そこに運動が生じたということがあるだろう。学生や労働者のなかに障害者の介助に関わる人がいて、その人たちはまたその障害者たちの運動を支援する人たちでもあった。この国にはそんなことがあった。これもすこし変わったことであったかもしれない。
 そして、最も重く困難な中に置かれている人こそが本当のことを言うのだと、だからその人たちの言うことを聞くべきだという捉え方があった。また、たしかに多くの障害者は様々に機会を与えられ障害を補われることによって「できる」ようになるだろうし、それはよいことであることを認めるが、しかしそれでも残る最も重い障害をもつ人たちを基点にものを考えるべきであるという考えがあった。米国やヨーロッパへの研修旅行や、運動関係の催し等において脳性麻痺の障害者を見なかった、日本の場合にはときに重い言語障害等を伴う脳性麻痺者が運動を主導してきたのに、という感想を日本の障害者たちがしばしば語られることがあった。そこにはいくらか、自らは障害の重い人としてやっている、あるいは重い人とともにやっている、ものことは最も重い人のことから考えねばならず、自分たちは重い人と軽い人との分断を避けようとやってきたのだという自負が含まれていたように思う。
 そうした人たちの中にかなりの数、文章を書き、著書を出してきた人たちがいる。それは「学問的」な本というわけではなく、自身の生活のこと、。どこの国にも、障害者や病者に関わるノンフィクション、自伝の類はたくさん出版されているのだろうと思うが、一般的な意味では著名人というわけでもない障害者、障害者運動に関わってきた障害者自身による出版物はそう多くないのではないか★03。そしてそれには、その出版の意義を認め、支援をしてきた人たちがいることが関わっている。一九七〇年代に、『そよ風のように街に出よう』(りぼん社)、『季刊福祉労働』(現代書館)と、重要な雑誌が2つ創刊される★04。
  
 そしてその運動は、自らの独立性を保とうとするとともに、[1]に述べたように、当時の社会運動のその影響を受けた。また具体的に、それに関わった人たちの支援を受けた。
 日本の当時の社会運動は、すくなくともその「建て前」としては、「革命」を掲げ、「体制の変革」を目指していた。しかしそれは挫折することになる。そこで運動は次第に衰退し、多くの人たちは、例えば大学生であれば就職し、「日常」に戻っていった。ただ運動を続けながら、またそこから離脱した後、普通の仕事に就かず、あるいは就きながら、障害者の生活や障害者の社会運動を支持してきた人たちがいた。研究者にもそうした位置に近いところで支持・支援してきた人たちがいた。ただその中には学問や政治を語ることに見切りをつけた人たちもいたから、その人たちは、多くの場合、多くを語ることはなかった★05。

左翼における争い

 こうして、社会運動から離脱した人たちによって支援されてきたという一面をもちながら、その運動自体が、障害者たちの運動たちとの関わりを作り、また障害に関わる思考を促した。
 左翼の運動のあり様は国によって違う。日本では現在は存在しない社会党が左翼の大きな勢力だったが、共産党も一定の勢力を占めてきた。その事情は略すが、前面に現れるのは1960年から、これらの政党、とくに革命の正統な主体を称してきた共産党を批判する勢力が「新左翼」を称し、大学等で一定の勢力を得ることになる。それは、1960年代中盤の停滞の後、1960年代末から1970年代初頭の社会運動において、自らの運動を展開しようとした。
 同時に、この時代の運動には特定の党派に属さない人たち、政治的信条も様々な、あるいはその信条の定まらない人たちも関わっていた。「全共闘」(「全学共闘会議」の略)の運動はそうした「ノンセクト(ラディカル)」の人たちのものだともされるが、そう単純ではない。無党派の人たちに様々な党派がが入り交じって複雑な様相を呈するのだが、それと同時に、共産党・対・その他という図式ははっきりとあった。それは日本全体から見れば――共産党自体が小さな勢力であったし、あるのだから――小さな対立ではあったのだが、当時の文脈では、大きな意味をもっていた。
 全共闘・新左翼諸党派は、その闘争・紛争を起こした側であり、拡大していった側である。他方、共産党やそれと関わりをもつ学生組織は、大学改革・教育改革を主張しつつ、大学の入学試験が中止になるなどの混乱した事態を「正常化」させる方に動いた。その間に主導権争いなど様々があった。
 何を争っていたのか。ここでは世界情勢の認識や運動の戦略を巡る違いにふれることはしない。一つに言えることは、大学や学問は、当時、今より「革新」の側につく部分が大きかったことを押さえておく必要がある。例えば、現在ほぼ消え失せたように見える「マルクス経済学」は、当時「近代経済学」と並び立って存在していた。また、共産党やそれと関係をもつ組織の、福祉や医療や(特殊)教育の業界とのつながりは、すくなくともかつて、かなり強いものがあった。学校の教員や福祉施設の職員等、それらの職業に従事する人たちには、社会の不正に対する憤り、「弱者」に対する共感からその職を選んだ人も多くいた。次に、その費用を供給するのは基本的に政府である。ゆえに、政権に近い政党との関係を形成し維持しようとする場合もあるのだが、他方に、政府の支出が少なく施策が不十分であることを批判する側にまわる人たちもいて、それらは労働組合運動とつながり革新政党と関係をもった。その一部は、共産党がこの領域に力を入れたこともあり、共産党系の組織だった。また、障害者の親たちの運動が障害者の要求を代表するものとして存在した時期、親たちの組織もまたこの組織と関係した。社会保障・社会福祉関係の学問・教育にも相当の影響力をもった★06。
 以上を確認した上で、当時の運動について説明を足しておく。もちろん当時の運動の大きな部分はベトナム戦争を巡るものだったが、同じ時期、水俣病Minamata Disease)等の公害問題が顕在化する。公害の告発、公害や薬害(の隠蔽)への科学者の加担に対する批判がなされ、それは科学技術全体への懐疑・批判にもつながっていく。
 医療・障害を巡っては、精神医療がとくに問題にされた。1950年代北欧・北米などで、知的障害者、そして精神障害者の巨大施設への収容に対する批判が起こった――これが「ノーマライゼーション」の運動ということになる(簡単な解説として立岩[2002a])。それは19世紀から20世紀初頭にかけて巨大施設への収容が進み、いったん完成した国々において、それへの反省・批判としてなされた。日本では、精神病院は比較的早くから作られていったが、他の障害者施設の整備は遅く、批判の対象が広く存在し始めたのが1970年代であり、施設の整備はたしかに一面では状態の改善でもあったから批判の動きは当初大きくない。だが1970年はじめには、精神病院の状態を告発するルポルタージュも現われ、施設収容、そこでの障害者・病者の扱いが問題とされる★07。1974年には精神障害者自身の組織が結成される★08。
 そして1970年代前半、精神医学や心理カウンセリングといった領域で、日本臨床心理学会(……)や日本精神神経学会(The Japanese Society of Psychiatry and Neurology→英語頁)といった学会の改革運動が起こる。これらの学会、というより一時期にその中で一定の発言力を有した部分が、1970年代以降、それまでの自らの所業を反省しようとした★09。
 そしてここで批判されるのは、必ずしも、保守的な勢力ではない。むしろ、社会のための技術・医療、社会福祉の拡大を求める勢力であり、その勢力への批判は、共産党やその系列の組織、それと関係をもつ研究者たちに対する批判でもあった。大学闘争の始まりの一つが東京大学医学部だったのは象徴的である。学生の処分が発端であったその運動においても、この対立の構図が存在した。批判され、その批判に反論したのは、その後、1980年代初めには米国での「自立生活運動」等を肯定的に紹介するような教員・研究者でもあった。
 科学技術が様々な弊害をもたらしたことは多くの人が認め、反省すべきだとする。しかし、それは科学技術の悪用であり、それをなおすべきである、なおせばよいと多くの人たちは、また批判された側は考える。批判者たちは、(人民のための)科学を肯定し、そしてその科学を担う人を基本的に肯定する旧来の左翼と違って、自分たちは科学技術の問題性をもっと根本から問題にするというのだった。「なおす」こと、「発達」(する/させる)こと、「できること(できるようになること)」が問い直されるべきであると言うのである。
 するとそれに対して、批判される側は、それは医療・リハビリテーションの全面否定であり、暴論であると反駁することになる。これらの議論がきちんとかみ合っていたのか。私はそうは思わない。また、専門職でありながら、自らの専門性を懐疑し、否定しようというのはなにか自虐的に思える。実際に多くの人は自らの仕事を続ける。しかも、その主張・運動は結局医療者中心のものであったとも言われるし、そういった部分もあった。
 政治的対立が多くそうであるように、この対立には消耗な部分が多くあった。ただ、こうした対立があったことによって、考えようによっては「極端」なところまで主張がなされたこと、それが考えるべきこととして提出されたことの意義は大きいと私は考える★10。
 [1]で簡単に紹介した障害者たちの運動と、以上紹介した人たちの間に連帯・共闘の関係も生じる。精神医療・心理療法の学会において、精神障害の本人の参加・発言を認めるべきだと考え、そこで幾人か精神障害の本人の参加がなされることにもなった。学会の大会や学会誌で、精神障害の本人の幾人かが発言し文章を書くことがあった。
 そして、そうした流れがあって、「養護義務化」の際にも、共産党は――長く政権党であった自由民主党とともに――賛成した。それは「全面発達」を言い、伸ばせるものは伸ばそう、そのためにはそれに適した教育環境があってよいとして特殊教育を肯定するのだが、他方は、それを隔離であるとし、できようとできまいとみながいっしょにいる場がよいのだ、その場が必要なのだと言ったのである。大学における学生運動に政党と政党嫌いとが関係していた時期、養護学校・学級でなく普通学校・学級に一人の子が行こうとするその運動を支援する運動が、大学の自治会の運動の大きな課題とされたりしたことはこうした事情にも関係している。共産党の若い人たち向けの組織である民主青年同盟(民青)とそれと対立する別の人たちの間の主導権争いがあり、争点の一つになった★11。
 この争いは消耗な争いでもあったのだが、同時に、主張・思想を「純化」していくことを促すものでもあった。後者の側は、「できなくてよい」と言い切ろうとするのである。しかしそんなことは可能か。また言えるとしてどのように言うのか。そうした課題は残された。
 そしてこの時期のこの運動ははなにか学問の確立と制度化をもたらすことはなかった。考えることも大切だと思いながらも、その人たちのある部分は支援者というより運動の前面にいなければならない人たちでもあったから、次から次に起こるできごとに対応するだけで時が経っていくという人もいる。書かれた多くの文章はなにか学問的な体裁をとったものではない。しかし、このことは、そこで主張されたり疑問に付されたことが「学問」的な検討・考察の対象にならないということを意味しない。他方、いくつもの書籍が出されもしている★12。
 私(1960年生)の世代は、そうした動きから10年から20年遅れてきたから、その前半については直接には知らない。書かれたもので知ったり、話を聞いて知ったり、またその後、1980年代以降の動きをいくらか知ったり、ある人たちは、その社会運動なるものにいくらか関わったりしてきた。学生のときに、普通学校・学級への就学運動といったものを知った人、いささかの関わりのあった人もいるし、とくになにもなかった人もいる。とくに「学問的」な、ということでは必ずしもなかったりするつながりから知ったり、考えたりしてきた。「介護」に関わった人もいる。あるいは、むしろ研究を始めてから、読んだり聞いたり、また集まりに呼ばれたりして、組織や人を知った人もいる★13。そうした人たちと日本の障害学との関係については後述しよう。そして私は、ここに提出された問題について考えてみたいと思って考えてきたし、まだ考えることがあると思っている★14。そのことについても後で述べることにする。

 [英語版では略] ○のあるものは文献表に掲載済

★01 八木下浩一 1941〜 1967年(当時26歳)地域の小学校への就学運動を始め、1970年に埼玉県川口市立芝小学校に学籍を獲得し就学。『街に生きる――ある脳性マヒ者の半生』(八木下[1980]○)。→註11
 全障連結成大会の写真(大阪人権博物館のHP)http://www.liberty.or.jp/exhibition/A%20document%20introduction/A%20handicapped%20person.html
 http://www008.upp.so-net.ne.jp/aiz/000honta-back-top_002.html
★02 韓国における障害者運動についての日本語の論文として鄭 喜慶English)の論文 鄭[2010]○
★03 新田勲(1940〜 『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』(新田[2009]○)
 ※ 移動しました。
★04 『そよ風のように街に出よう』(りぼん社)、『季刊福祉労働』(現代書館)。
 河野 秀忠(りぼん社、『そよ風のように街に出よう』を刊行)。cf.http://www.puku-2.com/maneko/doc/149.htm
★05 その後の時期にはまた違ってくるのだが。一九七〇年代の大阪における、支援者たちと障害者との関係・確執を描いたものとして山下幸子[2008]○。定藤[2010]○でも記述されている。
★06 「全国障害者問題研究会(全障研)」。「障全協」。
 「[…]日本共産党といった政党のつながりで、学者たちと、障害をもつ本人たち、というよりは学校の教員や福祉施設の職員などとの関係はあり、そうした人たちの全国規模の組織として「全国障害者問題研究会(全障研)」があった。ただその集団とここに記している人たちは仲がわるかった。むしろその集団とその思想を批判することにずいぶんな労力が割かれたことがあった。それは「左翼」内部の対立を引き継ぐものでもあった。大学における学生運動に政党と政党嫌いとが関係していた時期、養護学校・学級でなく普通学校・学級に一人の子が行こうとするその運動を支援する運動が、大学の自治会の運動の大きな課題とされたりしたことはこうした事情にも関係している。」(立岩[2007/03/31]○)
 金井康治の就学闘争。『2000日・そしてこれから――養護学校から普通学校へ』(金井闘争記録編集委員会編[1987]○)。1999年9月11日、30歳で死去。「脳性まひの障害児として生まれたが、8歳のとき、養護学校から普通学校の足立区立花畑東小学校への転校を希望し、自主登校などの運動を展開した。障害児が普通学校で学ぶことを求める全国的な運動の先駆けとなった。」(『朝日新聞』の訃報欄)
★07 大熊一夫。1973。『ルポ・精神病棟』(大熊[1973]○)
『新 ルポ・精神病棟』(大熊[1985]○)。『精神病院の話――この国に生まれたるの不幸・一』(大熊[1987]○)。  →立岩 真也 2002/05/25 「大熊一夫の本」(医療と社会ブックガイド・16),『看護教育』2002-05○
 「一九七〇年の前後にいろいろなことが起こり始める。そして私はそうした動きの始まりから約十年分については直接にはまったく知らない。私は一九六〇年生まれで、田舎の小学生をし中学生をし、高校生をしていた。佐渡島に生まれて住んでいたのだ。ただ、社会全般の動きというか気分というかはそれなりに伝わり感じられてもいたと思う。そして私の場合、それはなにか「社会科学」的な知識としてやってきたのではなかった。社会学などという学問があることも知らなかったし、社会科学の本を読んだこともなかった。自由がなにより、管理はきらいといった気持ちは、むしろ音楽が支えていたと思う。大学闘争というものがあったことは聞いたことがある、その程度だった。東大・安田講堂に立て篭もった学生に機動隊が、云々はリアルタイムで見た記憶がない。ただ、その流れが高校に及び、制服がなくなった高校が県内にもある(新潟高校)とどこか新聞で読んで、それはよいことだと思った、といった記憶はある。学校のようにうっとおしいものではないものがよいと言った動きがあったというだけで、それはよいことだった。学校は、とんでもないと思われる教師もいて困ったものでもあり、また退屈でもあった。解放的なことはよいと思った。それは音楽がよいと思うのとつながっていた。
 読む本はたいがい小説だった。ただ、大熊一夫の『ルポ・精神病棟』は中学生の時に読んだ。調べると、この本は一九七三年に出ている。出てからそう何年も経っていなかったようだ。ただ、田舎の公民館の図書室の棚にあったのを読んだだけだから、そのことにも気がつかなかった。この本のもとは『朝日新聞』の連載記事だが、私の実家は、販売店の主人が知り合いだというただそれだけの理由で『毎日新聞』を私の生まれる前からずっととっていて、だから私はその連載のことは知らなかった。本を読んで、これはひどい、とんでもない、と思った。気持ちわるい感じが残った。それだけといえばそれだけだ。そして今調べたら、映画『カッコーの巣の上で』が一九七五年。見てはいないが、どんな話かは読んで知っていたと思う。そして水俣からむしろ旗を立ててやってきた人たちの映像は見て、残っているような気がする。そして、ソルジェニーツィンの『収容所群島』といった小説も読んだりした。日本の戦時下での抑圧等々も含め、私は、わりあい単純に肉体に加えられる苦痛に弱いところがある。人間がしてしまったり、なってしまったりすることの重さは感じたと思う。「反体制」の運動に共感する側に大きな衝撃を与えたとされる「浅間山荘事件」は、山荘への警察突入の実況中継他をテレビで見たが、衝撃が加わるような思想的な内実というものが私にはないのだから、格別にどうというものではなかった。人はやるときにはやってしまうものだということを、そのことによって特別に感じたのではないと思う。」(立岩[] 『そよ風』 「新潟高校」は「長岡高校」の間違い)
★08 1974年に第1回「全国精神障害者交流集会」が東京で開催される。その場で全国「精神病」者集団が結成される。決議:「保安処分新設反対、精神外科を禁止せよ、電気ショック療法に対する患者の拒否権を与えよ、自由入院を拡大せよ、今日の精神衛生法体制に反対する、優生保護法に見られる精神障害者差別に反対する、通信・面会の自由権を承認せよ」等。
★09 学会改革について。阿部[2010]○
★10 「一九七〇年代からすくなくとも一九八〇年代までについてのこの国のことについては、「左翼」の内部?での対立の契機を抜きにして考えることはできない。上田の著書には例えば以下のような箇所がある。
 「ここで、やや旧聞に属するが、一〇数年前の学園紛争の時代にしばしば学園を風靡した「労働力修理工場論」について一言触れておきたい。これは学園紛争が医学部からはじまったこともあって、医学・医療への根源的な批判として、当時の「新左翼」の論客たちが展開した議論であって、リハビリテーション界の一部にもかなりの影響を与えたものである。それは医療はすべて、そしてなかでもリハビリテーションはとくに、もっぱら資本家の利益のために、傷ついた労働力を修理し使えるようにし、ふたたび資本家によって搾取されるために社会に送りかえすものだ。したがって、それは権力への加担であり、犯罪的であるとの主張である。今聞くとまるで嘘のように幼稚な議論であるが、当時は若い医学生、リハビリテーション関係職種の学生の心を少なからずゆるがせたものである。当時私はこれについて、小文を発表したことがあるが、その一部をここに再録しておきたい。」(上田[1983:38]○)
 その「小文」は上田[1971]○(その紹介はHP→「上田敏」)。ついでに以下を引用しておく。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか。
 では医者になることを拒否するのかといえば、そういう形で問題は立てられない。いわば否定の否定として二転三転して医者になろうとする。しかし同時に受身的な医者になることを拒否して闘争を続けたときに、結果として医者になれないかもしれない。
 自分は医者になってもならなくてもよい。けれど、闘争はまさに続くんだ。その闘争は医療の分野でだ。そこから自分が抜けたら、だれがやるのか。自分たちこそ医者になるんだ。このようなねばりつく運動形態が、どんなにラジカルであろうと、それは革命的敗北主義からも玉砕主義からも抜け出た運動であることは自明なのだ。」(最首[1969:101-102]○)
 「理系闘争委員会は、現代社会において科学は、それが平和のためであれ、戦争のためであれ、すべて資本家の財産、私有物として存在していると考える。そして科学は一面、労働者人民を抑圧するとともに、他方において労働者人民が自己を含めた社会の矛盾を解明する武器となる両刃の剣であるといういわゆる「科学の二面性論」は、科学者が発明した論理にすぎないと、はげしく攻撃する。」(最首[1969:102])
 『みすず』での連載(立岩[2008-2010]○)では臺弘(台弘、一九一三〜)の「私は揺れ動く対立的意見の中ではっきりと折衷主義的な立場をとる。私のいう折衷とは、どちらも結構ですというようなあいまいな態度ではない。」(臺[1972:263])といった文言を拾ってみた。また臺のしばらく前から、臺と(また部署は異なるにせよ)上田とも同じ東京大学医学部・附属病院にいた――そしてやはり良心的であり革新的であり当事者運動に理解を示しそれに協力した研究者であり実践家であった――秋元波留夫(一九〇六〜二〇〇七)については何もそこではふれていないが、誰か調べたらよいのにと思う。なお上田が構成を担当し、上田が聞き手になったインタビューが冒頭に掲載されている、秋元九九歳の時の、その人生を振り返った、『99歳精神科医の挑戦――好奇心と正義感』(秋元/上田[2005]○)がある。」(立岩[2010])
 自伝として『誰が風を見たか――ある精神科医の生涯』(台[1993]○)。」(立岩[])
★11 「関係している」の続き。「一方の主張は、「全面発達」を言い、伸ばせるものは伸ばそう、そのためにはそれに適した教育環境があってよいとして特殊教育を肯定するのだが、他方は、それを隔離であるとし、できようとできまいとみながいっしょにいる場がよいのだ、その場が必要なのだと言うのである。その争いは消耗な争いでもあったのだが、同時に、主張・思想を――そのよしあしはさしあたり別として――「純化」していくことを促すものでもあった。後者の側は、「できなくてよい」と言い切ろうとするのである。」(立岩[2007]○)
 筆者(立岩)がその後にどのように右往左往してものを考えていったかについて、立岩[2010/08/16]○にいくらか記すことになった。
★12 支援者、研究者…
 石川憲彦 1946〜。精神科医。『治療という幻想――障害の治療からみえること』(石川[1988]○)他。 最首悟 1936〜。 『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』(最首[1998]○)
 山下恒男 『反発達論――抑圧の人間学からの解放』(山下[1977]○)、『知能神話』(山下編[1980]○)他。
 篠原 睦治 『「障害児の教育権」思想批判――関係の創造か、発達の保障か』篠原[1986]○)
 小学校の教員:北村小夜
 「そしてその人たちや組織・運動に関わって研究者、というより、その他の人たちがいた。とくに学会といった組織にかかわらないところで、様々なきっかけから、実際に関わりながら、ものを書いてきた人たちがいる。知った上で言うのではないが、こうした人々も他の国々よりむしろ多いのかもしれない。
 関わった人は、研究者という肩書きであっても、なにか文章を書くことが、さらに研究をすることを主な仕事と考えていたわけでもなかった。小学校の教諭、会社員、労働組合の職員、地方公共団体職員、著作業、その他の人たちがいて、大学の教員はその一部だった。そしてその人たちにしても、大学にそうした「研究」の足場をもっているわけでもなかった。大学の教員をしていてものも書いた人たちとしては、山下恒男石毛えい子篠原睦治といった人たちがいた。最首悟も長く大学に居座ってはいた。医師では山田真石川憲彦がいたし、毛利子来も関わることがあった。特殊学級の教諭を長く勤めてきた北村小夜がいた。古川清治は出版社に勤務していた、など。
 […]これらの人たちの中に学問として哲学・倫理学を専攻する人はあまり見当たらない。さらに、なにかの領域の学問の専門家として語るというのでもない。考えることも大切だと思った人もいるし、思いながらも、その人たちのある部分は支援者というより運動の前面にいなければならない人たちでもあったから、次から次に起こるできごとに対応するだけで時が経っていくという人もいる。ただ、このことは、そこで主張されたり疑問に付されたことが「学問」的な検討・考察の対象にならないということを意味しない。」(立岩[20070331]○)
★13 「私(1960年生)の世代は、そうした動きから10年から20年遅れてきたから、その前半については直接には知らない。書かれたもので知ったり、話を聞いて知ったり、またその後、1980年代以降の動きをいくらか知ったり、ある人たちは、その社会運動なるものにいくらか関わったりしてきた。学生のときに、普通学校・学級への就学運動といったものを知った人、いささかの関わりのあった人もいるし、とくになにもなかった人もいる。とくに「学問的」な、ということでは必ずしもなかったりするつながりから知ったり、考えたりしてきた。さきにもふれたように「介護」に関わった人もいる。あるいは、むしろ研究を始めてから、読んだり聞いたり、また集まりに呼ばれたりして、組織や人を知った人もいる。
 大橋由香子斉藤有紀子玉井真理子柘植あづみ松原洋子といった人たちは、さきにあげた「阻止連」→「SOSHIREN」といった集まりに直接に関わった人もいるし、主体的に関わったというのでないにしても、その集まりやそのメンバーの関係があったりした。また、小松美彦土屋貴志市野川容孝といった人たちも、ものを書く前に、あるいは書き始めてから、人や人の動き・主張を知ることになった。森岡[2001]といった著作もその一つである。そして私もそのような人たちの一人ではある。先に記した上の世代の人たちの影響を受けた。多くを受け入れたが、よくわからないところもあり、時にはそれを書いてきた(例えば山下恒男の論への言及として立岩[1997:442]○)。
 研究者として、生命倫理の問題を障害者の主張・運動との関わりで、すくなくともそれをいくらかは知りながらで論じることは、この国で、比較して他よりは多く、なされてきたのではないか。いくつかを断片的に記してきた「運動」があって、それを受けたりそれに関わったりしながら書かれてきたことがあり、それにはそれなりの蓄積がある。それらをみな一括りにすべきではなく、その評価は個々になされるべきだろうが、生命倫理に関わる研究、文章の全体の数自体が多くはない中で、そのような場所からの書きものは、それなりの割合ではあった、あると言えると思う。そしてそのいくらかは、執筆を分担して書かれ公刊される本となったり、単著として刊行されてきたりした。それらは、そう広く読まれたということもないだろうが、まったく無視されているというほどではない。むしろ幾つかはそれなりに知られるものになった。」(立岩[20070331]○)
★14 なかでも吉田おさみが書いて遺した著書(吉田[1981]○[1983]○)は重要である。阿部[2009]○でいくらかふれられている。

文献別頁


UP:20100812 REV:20100819, 31, 20120313 
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇障害者(の運動/史)のための資料・人  ◇障害学
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